――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

Aldyss -アルディス-
第一章 ファーリーン
第六節 黄金の街

 ファーリーンの北西部に位置するレイスは、“黄金の街”と呼ばれている。北はヴァリュレイ女王国との国境が近く、西は〈北の海洋〉に面し、その海の隔てる先にはグローラ聖皇国がある。レイスは商業で栄えてきた。多くは武人の家系であるファーリーンの統治者階級の者達だが、レイスの侯爵位は一世紀前に商家のガルドスミス卿が引き継ぎ、そしてより一層レイスの賑わいは増したのである。

 一世紀前、隣国フォルマ王国との戦に散財を余儀なくされていたファーリーンに対し、ガルドスミス卿は高額を融資した。最終的にファーリーンはヘザーを奪われたが、当時の王はガルドスミス卿の親切に大いに感謝した。そして、彼に“レイス侯爵”の地位を与えたのである。しかしレイスの歴史は長い。ガルドスミス卿が侯爵の地位に就く以前から、レイスは“レイス侯爵”の街だった。つまり、王はそれまでレイスを統治していた古い貴族からその地位を取り上げ、ガルドスミス卿に与えたのである。旧レイス侯爵家の当主は、外部に国内の機密情報を漏らしたとして罪に問われ、そしてガルドスミス卿がレイス侯爵の地位に正式に納まったとき、かつてのレイス侯爵は当主諸共一族が処刑となった。

 レイスは広大な街だ。ファーリーンの都市の多くは城壁で街を囲っているが、このレイスには街全体を囲む壁はない。人々は自由に居住地を広げてゆき、各家が自宅を囲む塀を持ち合わせている。街人の多くは裕福だが、貧しい者もいる。レイスの場合、その格差は些か顕著に表れる。

 下町の宝石商の店から、薄汚れた格好をした少年(或いは青年)が、杖を持った店主の男に追われ駆け出てきた。少年は自らの首に掛けた、煤けたような金属地に貴石が光る首飾りを掴み、上体を伸ばして宝石店の主に突きつける。少年の鼻は酷く歪んでいる。彼は薄紫の瞳で宝石店の主を睨んだ。

「もう一度言うからね。これは〈フォルクヴァンのフレア〉の家に数百年間も受け継がれてきた宝物なんだ。金貨三十枚」

「十二枚」宝石商は言った。

 少年は目を見開く。「さっきは十五枚って言っていただろう。どうして少なくなるんだ」

 杖に寄り掛かりながら、宝石商は鼻を鳴らす。「趣味が悪いからだ。どう見たってファーリーン人には受けが悪い。この国の人達はね、飾り物にも慎み深さを求める。グローラ辺りでなら捌けるかも知れないが、生憎私のところは交流がないのでね」

「グローラと言ったね」少年が顔を顰める。「グローラなんて大嫌いだ。あそこに寄越すくらいなら海に捨ててやるさ」

 宝石商は溜息を吐いた。「あんた、奴隷なんだろう。フォルクヴァンのフレアといえば女王の姪じゃないか。大層なところから逃げ出してきたものだ。尚更買い取る気にはならないな。それがヴァリュレイとの喧嘩の種になっても、私は責任が取れないよ。そんな曰く付きのもの、手元に置いておく気にはならない。他を当たってくれ」彼は手を振り、少年に背を向けた。

「他なら沢山当たったさ」少年が宝石商の脚に縋り付いた。彼の瞳は潤んでいる。「貴方、さっき僕のことを“奴隷だろう”と言ったね。けれど、僕の顔をよく見て欲しい。目や口元、顎の形を。整っているとは思わないかい。問題はこの鼻なんだ。この鼻が僕の人生全てを台無しにしてしまった」彼は自らの曲がった鼻を掴む。「生まれたときからこんな鼻をしていたわけじゃないんだ。もっと真っ直ぐで、高くて、完璧な形をしていたんだ」

 地に伏せ込む少年が宝石商の下半身の衣服を下に引く。宝石商は上へと引いた。

「去勢奴隷なんてものは、醜男がなるものだ。僕はそんなものとはこの上もなく縁遠かった。けれど、忘れもしない。あれは一昨年の――」

 少年は唐突に叫んだ。彼らを避けて通っていた通行人の肩が跳ね、駆け足で去って行く。

「バルディンの野郎――死んでも許さない。あいつが僕の鼻を潰したんだ。この不細工な顔ときたら、本当に反吐が出るよ」少年の首に掛かる、重たげな首飾りの金具が鳴る。「僕は奴隷に格下げだ。不細工な男の使い道なんてそれしかない。でも、僕のこの顔は後天的なものなのだから、僕の子供は僕本来の美形の遺伝子を継いでくれるはずじゃないか。あんな奴より、本当の僕は綺麗だし、フレアと僕の子供は絶世の美人になるに決まってる。僕はフレアにそう言った。それなのに、あの野郎がなんだかんだとフレアに取り入って僕の後釜に納まりやがったから、僕は不要になってしまった。僕はあいつに復讐してやる。あいつの股ぐらを引き裂いて、引き千切って淵海の大蛇に食わせてやるんだ。化物の大口に自分の性器が飲み込まれてゆく様を見せつけてやったら、ヴァリュレイ中に触れを出して、公衆の面前であいつを全裸に剥いて、無様な股間を指差して笑ってやる。あんな野郎は全人類から嘲笑されるべきだ。何が“光の貴公子”だよ、ふざけやがって」

「気の毒にな。できればそろそろ離してくれないかな」宝石商が呟く。

 宝石商の脚に組み付いていた少年は、腰に縋り直した。「僕はバルディンに復讐してやりたい。その為に先立つものが必要なんだ。だからお願いだよ、金貨三十枚で交換しておくれ。もうどこに行っても駄目なんだ。貴方しか頼れない」

 宝石商は唸りながら瞼を伏せた。少年の浮き出た喉の軟骨が上下する。暫しの沈黙の後、宝石商は深く息を吸って言った。「十枚」と。

 少年は宝石商の腰から離れた。「どうか、貴方の店が潰れますように」彼は呟き、立ち上がる。そして西方へと歩き出し、その場から去って行った。

 少年は悪態をつきながら、港方面へと歩を進めていた。歩き続けること半刻、街並みの合間から、灰色掛かった港が姿を現した。

 停泊する船達の多くは、レイス、グローラの船舶であり、それらを見分けるのは容易である。風を動力とする四角帆船がレイス――ファーリーンのもの、曲線的な造形の魔道動力船がグローラのものだ。それら二国の船に混ざるように、アウリー王国の旗を掲げる船が幾つかあった。かの王国といえば海軍の強力さで名を馳せており、乗組員が千を超す事のできる巨大な軍用船を数十隻所持している。魔道国家である以上それらは魔道を動力とする船であり、千を越す乗組員は操縦に携わるごく一部の人間を除き、殆どが戦闘員と成り得る。

 アウリー国旗を掲げた貨物船から、今まさに巨大な積荷が魔道の力によって降ろされていた。その様子を、ヴァリュレイの少年はやや遠巻きに眺める。

「随分と改良されたようですね」貨物を受け取る男が言った。

「前回は酷く却下されましたので」アウリーの男が頭を掻いている。

 貨物を受け取った男は、包装を軽く外し、中身を確認している。やがて彼は頷いて言った。「及第点といったところですね」

「これでもですか」アウリーの男は目口を開き、眉尻と肩を落とす。

 レイス側の男は笑みを浮かべた。「これはこれで。ですが、次はもう少し――」

 ヴァリュレイの少年は彼らの方へ近付いた。レイスの男から受ける指導の言葉をアウリーの男は記録し、その後アウリーの男は「これは幾ら程で買い取っていただけますか」と訊ねた。

「八百ですね」レイスの男はさして間隔も置かずに答えた。

 アウリーの男が破顔する。「良かった。それならば採算が取れます」

 そして二人は右手を握り合わせた。

 レイスの男はアウリーの男と別れ、巨漢達に荷物の運搬を指示した後、その場から立ち去る。そして彼は近くの巨大な建物へと入って行った。入り口上部には看板が取り付けられ、“ファーリーン商会 レイス局 海門支所”と書かれている。

 少年はその建物へと駆けた。暫しその前で立ち止まり、重たげな両開きの扉を見つめ、看板を見つめた。彼は深く呼吸をし、その扉を開けた。

 幅広の螺旋階段が玄関口の奥にあり、上階へと伸びていた。内装は、彫刻や黄金、絵画等によって飾られている。そこはファーリーン商会の一支所であったが、商会の本部が置かれるレイスの、特にグローラやアウリーとの交易によって栄える港近くに設置された施設である為に大規模だ。中の人々は早足で行き交い、方々でやり取りされる言葉は早口である。少年に目を向ける者はいない。

 少年が周囲を見回していると、丁度彼の目前を、先程港でアウリー人と話していた男が通り掛かった。少年は男を引き止めた。男は足を止めて少年の方に向いた。彼は向かっていた方向を一瞥したが、浅く息を吐いて少年の元へと歩み戻った。

「いかがなさいましたか」男が訊ねる。「できれば、手短に仰っていただけると有り難いのですが」

「僕はヴァリュレイからやって来た者ですが」少年は言い、首に掛けた飾りを示す。「これを買い取ってはいただけませんか」

「その首飾りを」男が眉を顰める。「少し失礼しますよ」彼は背を屈め、背伸びをする少年の首元に顔を近づけた。

 少年の首飾りは、精密な細工の施された、暗い色合いの金属土台に多種の貴石が取り付けられたものである。男が片眉を上げた。

「少し触らせていただいても宜しいですか」男が断りを入れる。

「勿論」少年は快諾した。

 男は懐から白い布を取り出し、首飾りの金属部分を拭った。拭った布面を返して見つめる男が、丸くした目を少年へ向けた。彼は息を呑み、「これは」と呟いた。

「こんな入口でどうしました」少年と男の間に、若い声が割って入った。

「セドリック様」と、男は言う。

 セドリックと呼ばれた青年は紺の礼服を纏い、薄茶の髪と緑の瞳、整った顔貌に笑みを浮かべている。彼は少年の前方に回り込み、「その首飾り、とても素敵ですね」と言った。

「ヴァリュレイの方のようで」男がセドリックに向かい言った。

「ヴァリュレイ」セドリックは宙を見つめ、呟いた。そして男に対し、「この方、私に任せてもらえますか」と言う。

「私の上司は貴方ですよ。私に断る必要などありません」男は微笑を浮かべつつ答えた。

 セドリックは肩を聳やかしながら言う。「それでも、貴方の方がこの道に精通していることは間違いないでしょう」そして少年へと顔を向ける。「お名前を教えていただいても宜しいですか」

「ラキです」少年――ラキは答えた。

「ではラキ様、私の事務室にお越しください。上階です」セドリックはラキに奥へ進むよう示し、先導して螺旋階段を上って行った。

 セドリックの事務室は広く、整然としていた。背の低い長卓を挟むように置かれた長椅子を示し、セドリックは「お掛けください」と言った。そして彼自身は棚へと向かい、茶道具を取り出す。「カミリエ茶はお嫌いではありませんか」彼はラキに訊ねた。

「好きです」ラキは椅子に掛けながら答える。

「良かった」セドリックは微笑み、飲み物の用意を進めた。「失礼ですが、ラキ様はお幾つですか」手を動かしながら、彼は背中越しに訊ねる。

「先日十九になったところです」ラキは部屋を見回しながら答えた。

「成人の方なのですね」セドリックは言った。「私の上の弟と近いですよ。彼は今年の真勇の月に十八になって、成人したので」

「セドリックさんでしたよね。貴方はどういった立場の方ですか。先の人は、貴方の部下らしいですが」ラキは訊ねた。

 セドリックは両手に茶器を持ちラキの元へやって来て、カミリエ茶をラキの前と、ラキの正面の長椅子の前に置き、腰を下ろした。そして、「改めて名乗っておりませんでしたね。大変失礼致しました。セドリックと申します。ファーリーン商会議長の補佐を務める者です」と、答えた。

 ファーリーン商会は、ファーリーン全国の商業を取り締まる機関である。抱える人員は膨大で、王国に所属するが王の管理下には置かれておらず、商会の規則は議長によって決定される。莫大な金を動かすファーリーン商会のような機関は、他国では類を見ない。広大な王国を支える巨大な柱であるが、その分商会議長の発言権もまた大きい。王は大抵の場合、商会議長の意見を無視することはできない。

 ラキの表情が強張る。「議長補佐だなんて、とても偉い人ではないですか。お若そうなのに」

 セドリックは苦笑した。「父が議長なものですから。私の地位は親の威光によるものですよ。現実には、私はただの若輩者です」彼は言った。「ですから、あまり畏まらなくて結構ですよ」

「そうかい。実を言うと、丁寧な口調には慣れていないんだ」ラキは肩を竦め言った。

「構いません」セドリックは頷いた。「それで、その首飾りですけれど」彼は本題を切り出す。「とても興味深いです。少し手に取らせていただいても宜しいでしょうか」

 ラキは頷き、首の後ろに手を回し金具を外した。彼の華奢な首元から、装飾過多の首飾りが離れる。「肩が軽くなった」彼は呟きながら、セドリックの手に首飾りを渡した。

「確かに、これは想像以上に重いですね」首飾りを受け取ったセドリックは言った。彼は様々な角度から首飾りを観察した後、「これはどういった経緯でラキ様の手元へ至ったのですか」と訊ねた。

 ラキは下町の宝石商に話した内容を、余分を排除し繰り返した。彼が所有する首飾りは、ヴァリュレイ女王の姪であるフレアの居城、フォルクヴァン城を脱出する際に餞別として主に断りなく持ち出されたものだ。つまりは盗品である。

 ラキの経緯を聞き終えたセドリックは、卓に置いた首飾りを示し、「これは光金ですよ」と言った。

 ラキは顎を引く。「光金だって。聞いたことはあるけれど、これがそうなのかい」

「暗い場所で光りますでしょう」セドリックが手で筒を作り、首飾りの金属部分に当て、覗き込んだ。「やはりそうだ」

 ラキは頷く。「確かに、宝物庫でも目を引いたんだ。だから選んだのだけれど」

「ラキ様はこの品を、お幾らで売りたいとお考えなのでしょうか」セドリックは訊ねた。

「他では金貨三十枚くらいで交渉していたんだけれどね、全く相手にされなかったよ」ラキは溜息混じりに答えた。

「失礼、何と仰っしゃいましたか」セドリックが訊き返した。

 ラキは顔を顰める。「そんなに法外な値を言っているのかな」

 セドリックは脱力した笑みを浮かべながら、「帝国通常金貨で三十の価値だと仰るのですね」と呟く。彼は首を横に振った。「相場というものをご存じないようだ」そして、上着胸部の物入れから筆記具を取り出し、卓上に広げた。対面するラキに紙面を示し、彼は逆さに文字を書き付ける。「宜しいですか、現在通常金貨一枚当たり、光金は〇.〇三八五オンス購入できます」

「待って、それだけかい」ラキは身を乗り出した。

 セドリックは続ける。「金貨三十枚ですと、光金は一.一六オンスで大体価値が釣り合いますね。そこで問題の首飾りですが、こちらは表面鍍金ではなく、内側まで純粋な光金でできているものと見受けられます。重量は凡そ――」彼は長卓の端に置かれた量りに首飾りを乗せた。「貴石部分を外して見積もって、約七〇オンスと言ったところでしょうか。ということは、光金部分だけを純粋に評価しても、まず金貨千八百枚を下ることはないですね」

 ラキの口が開いた。

 セドリックは笑う。「それに、大粒の貴石で飾られていますし、光金部の細工も手の混んだものです。光金の加工は難しいですからね。更にこの品が二百年以上の歴史を持つというのなら、価値はその程度では済みません。金貨三十枚ですか。真顔でそのような値を吹き掛けられたら、誰しも冗談だと思うでしょうね」

「まさか、それほどの価値があるものだったとは」ラキは呟いた。

 セドリックは笑みを浮かべ、続ける。「貴方がこの首飾りの材質に頓着されておられなかったにせよ、三十枚などという売値では到底釣り合いません。光金部は勿論、貴石さえも偽物だと勘違いされてしまいますから、その十倍の値は主張するべきでしたよ。そうしたら、もっと早くに買い手がついていたでしょうし、その後店頭には貴方から買い取った値の七倍以上の値札が付けられ、並べられていたでしょうから。我々商人にとって、これほど素晴らしい取引相手はいませんので、どうぞお気を付けください」セドリックは金と光金の相場、この首飾りの最低限の価格を記した紙をラキへと渡し、筆記具を胸の物入れに戻した。

 ラキはその紙を受け取り、無言で眺める。

「女王騎士長様のお城からの盗品とのことですから、慎重に扱わなければなりませんが。現金と交換できるよう、取り計らわせていただきますよ。ご希望であれば、ですけれど」セドリックは言った。

「そうだね」ラキは眉を顰め暫し沈黙した後、「やはり、考え直してみるよ」と言って、首飾りを手元に引き寄せた。

 ラキが海門支所から出ると、既に日は傾き始めていた。光金の首飾りを再び首に掛け直したラキは、街の中央に向かって歩く。眺望の月となり、木々も葉を落としている。レイスはファーリーンで最も北の地にあり、また晴天となる日が少ない。大抵は曇天で霞掛かり、小雨が降ることも多い。

 やがて街の中心部まで至ったラキは、街路灯の下に座った。彼は外套で体を包み、塀に背を預ける。日が落ちても尚、この街の人通りは多い。彼らは少年を横目にしつつ通り過ぎて行く。ラキは口元までを外套で覆い、瞳を閉じた。

 そうして蹲る彼の前で、一人の人物が足を止めた。「ラキ様、いかがなさいましたか、このような場所で」

 ラキは瞼と顔を上げた。彼の前で立ち止まり彼を見下ろしているのは、先程海門支所で別れたセドリックである。

「お仕事帰りかい。お疲れ様」ラキは外套の隙間から手を出し、振った。

 セドリックは眉を顰めつつラキを見つめる。「宿はお取りでないのですか」

「お金がないんだ」ラキは答えた。

 セドリックの、元より下がり気味の眉尻が更に下がる。彼は腰を落とした。暗色の長上着の裾が石畳に触れた。「では、私の家にお越しください」

「良いのかい」ラキは目を見開き、身を乗り出して訊ねた。

 セドリックは微笑む。「どうぞ。ここからさほど離れてはいませんから」彼は右手をラキへと差し伸べる。

 ラキはその差し出された手を眺め、そしてセドリックの顔を見た。ラキの視線が再びセドリックの右手へと戻る。ラキはその手を取り、立ち上がった。「貴方って、なんて優しい人なんだろう」彼は震える声で言った。

 俯いて石畳に涙を滴らせるラキの頭上で、セドリックが笑った。「使いますか」と言い、彼は手巾をラキへと差し出す。

「そんな綺麗な布を汚してしまうなんて、悪い」ラキは奴隷服の袖で、顔から流れ出る体液を拭った。

 セドリックは手巾を仕舞い、ラキの背に手を添えた。「行きましょう。ここは冷えますから」

 ラキは頷き、セドリックの導きに従った。

 そして、“紫陽花の城”とも呼ばれるレイス侯爵の城へ、ラキは案内された。

「そうか、ファーリーン商会の議長はレイス侯爵だったね。なら、貴方は侯子ということか。貴方みたいな人が侯爵になれば、きっとこの街も安泰だと思うな」ラキは侯爵城の影を仰ぎ見ながら呟く。

「私は次男ですから、商会の方の仕事を継ぐことになります」セドリックは笑みを交えて言った。だが、次に続く彼の声は潜められていた。「ですが、兄はもう長いこと病気を患っていて、これから先もどうなるか。私が爵位を継ぐということも、あり得ない話ではないのです。できることなら兄には元気になってもらって、私は商会の方に携わっていたいのですが」彼は声量を落としたまま、続ける。「もし、万が一、兄が良くならなかったら。その時は姉に助けて欲しい。彼女は賢いので、政に関心を持ってくれるならば、是非」

 ラキは目を見開いた。「ファーリーンでは、女性を政に参加させたりなんてしないんだ、って聞いていたけれど」

 セドリックは首肯した。「大抵はそうです。けれど“表向きは”という場合もあるのですよ、昔から。私は、能力があるのならそれを活かして欲しいと思う。向いていない事を強要することもしたくない。下の弟は、そういった面でとても苦しんでいましたしね。彼はファーリーンの既成された男性像に沿った性格の持ち主ではなかったので」

「家族想いなんだな」ラキは呟いた。

 やがて彼らは侯爵城の城門に至り、セドリックは見張りのレイス騎士に迎えられた。騎士からの質問を受け流し、彼はラキを通した。

 剪定の行き届いた常緑樹に挟まれた石畳の道を、彼らは進んだ。立ち並ぶ木々の根元には、時期でない為に褐色となった植物が、しかし排除されることなく短く刈り込まれて残されている。この城の名にも使われる紫陽花である。

 やがて至った館の前で、侍女がセドリックを出迎えた。彼らは光を漏らす館の中へと入った。

 セドリックは長上着を脱ぎ、侍女の一人に預けながら、ラキを示して「お客様なんだ。浴室と食事の用意をしてくれるかい。フレデリックの服があると良いかな。丁度、彼に合うのではないかと思うから」と言った。

「浴室のご用意は整っております。お召し物は直ぐに。お食事の用意も承りました」侍女は答えた。

 セドリックは背後のラキへと向く。「お風呂は温まっているそうですよ。一緒に入りましょうか」

 ラキは顔を顰める。

 セドリックは苦笑しつつ両手を振った。「お先にどうぞ。私は父に挨拶をしてこないと」そして早足で階段を上って行った。

「ではお客様、浴室にご案内致します」侍女が言う。

 ラキは侍女の先導で館内を移動した。入浴後、彼はセドリックの下の弟であるフレデリックの衣服を貸し与えられ、身に付けた。

 次にラキは客室へ案内されたが、その途中でセドリックと再び出会でくわし、互いに立ち止まった。

 セドリックは顎を引いてラキを眺めた後、微笑んだ。「良かった、お似合いですよ」

「上等な服を着たのは久し振りだよ。とても気分が良い。昔に戻ったみたいだ」黒髪から滴る水滴を拭いながら、ラキは言った。

「それはなによりです」セドリックは笑みを深めた。「私も温まってきましょうかね。食事はお部屋に用意してある筈です。では、ごゆっくり」彼はそう言うと軽く手を振って、ラキが出てきた浴室の方へと歩いて行った。

 ラキが通された客室は広く、装飾の施された家具や骨董品が置かれていた。部屋の中央に設置された卓には、十分な量の、手の混んだ料理が並べられている。ラキが席に着くと、侍女がスープを器に注いだ。

 食事を終え、部屋に一人となったラキは寝台へ腰掛けた。掛け布を撫でる彼の瞳は潤み、やがて雫となって滴る。次第に声を呑み込むようにして体を震わせ泣き始めた彼は、首飾りを外し、寝台の脇机に置いた。そして毛布を頭から被り、横たわった。彼は暫く震えていたが、暫くすると規則的な呼吸を繰り返すようになった。

 脇机に置かれた燈火が脂を燃やし尽くし暫くした頃、ラキは毛布を跳ね除け体を起こした。彼は寝台から下り、厚手の上着を羽織り部屋を出た。廊下は薄暗く、ラキの右手側に並ぶ硝子張りの窓からは、藍色の大気に包まれた中庭が望める。今は闇が薄らいできた時頃――早朝である。ラキの吐く息は白く可視化される。扉を幾つか見送り、角を二箇所曲がると、閑所に到着した。ラキはそこで用を足し、溜息を吐きながら元来た道を引き返し始めた。

 だが、彼の足はさほど進むことなく止まる。背後を振り返った彼は、「誰かいるのかい」と闇に向かって訊ねた。返答はない。ラキは首を傾げ、再び歩き出した。だが、再度彼の足は止まる。「扉の数を数えながら来るべきだったな」と彼は呟いた。彼は背後を見、前を見た。上着の前を合わせ震えた彼の前方で、橙色の光が現れ揺れる。ラキの表情が緩んだ。光はラキの方へと近付き、ラキもまた光に向かって歩いた。やがて互いの姿が燈火に照らし出される。光の持ち主は、少年の面影を残した青年である。

「丁度良かった。迷ってしまってね。セドリックさんの案内で泊まらせてもらったんだけれど、聞いているかな」ラキは身振りを交えながら言った。

「セドリック」ラキと向かい合う青年が呟いた。突如彼はラキの腕を掴み、引いた。

 ラキの脚が縺れ、彼は転倒し掛ける。「いきなりなにをするんだよ」ラキが喚く。

 しかし青年は無言でラキの細腕を引き、歩いた。青年は速歩で、ラキは半ば駆けていた。彼らは階段を下りる。

「階段なんて使っていない。どこに連れて行くつもりなんだ」ラキが訊ねる。

「黙っていろ」青年は言った。

 ラキは口を引き結んだ。彼らは一階の、とある廊下の突き当たりまでやって来た。そこには一つの扉があり、青年は近くの小卓に燈火を置き、自身の懐に手を入れた。彼が取り出したのは鍵である。片腕でラキの腕を掴んだまま、扉の施錠を外した青年は、またも乱暴な動作でラキを引き寄せ、開けた扉を通った。

 扉の先は館の外だった。館内よりも冷え込んでいる裏庭の中を、二人は進んだ。彼らは城壁までやって来て、またも扉の前に立っていた。こちらの施錠も、青年は手際良く解除した。そしてその扉が開けられるなり、青年はラキを突き飛ばし、ラキは城壁外の石畳に尻を打ち付けた。ラキは青年を見上げる。薄茶の髪と緑の瞳の持ち主である青年は、ラキを見下ろしている。

「君、セドリックさんの弟かい」ラキは訊ねた。

 だが、青年はラキの質問には答えなかった。彼は眉根を寄せ、「出て行け」と言った。

「待ってくれよ」ラキが腰を押さえながら立ち上がった瞬間、扉は閉められた。彼は厚い扉を叩くが、応えはない。「なんだって言うんだ。酷い仕打ちじゃないか」ラキは扉を強く殴りつけた。

 だが暫くするとラキはその場から移動し始めた。彼が向かったのは正面門で、二人のレイス騎士が見張っている。ラキは門番に掛け合ったが、門番は彼を敷地内へ入れることはなかった。ラキは肩を落とし、侯爵城に背を向けた。

 ラキは東に向かって歩いた。早朝の道に人影はない。彼の左手側に、建物群の影から突出したファーリーン商会本部の屋根があった。彼はそちらに足先を向け、細い通りへと入って行く。だが、その通りを暫し進んだ所で彼は歩みを止めた。眉を顰め、振り返る。

 緩やかにうねる黄金の髪を肩に流した、均整の取れた長身と整った顔貌の持ち主である青年が、ラキの背後約十五歩分の距離に立っていた。片眼鏡越しに、褐色の瞳がラキへ向けられている。

「バルディン」ラキは掠れた声で言った。

「ラキ、探したよ」バルディンと呼ばれた青年は微笑を浮かべる。

 バルディンが大きく一歩を踏み出すよりも早く、ラキは駆け出した。しかし、さして遠くまで移動する間もなく、ラキは首根を捕らえられる。石の塀に体を叩きつけられたラキは短く呻いた。バルディンの拳がラキの左頬を殴りつけ、ラキの口角に血が滲む。ラキの細い首は、バルディンの左手一つによって掴み上げられた。

「あの首飾りをどこへやった。お前が持ち去ったことは知れているぞ」バルディンが訊ねた。

 ラキは血液混じりの唾を吐いた。バルディンの頬にそれは付着する。「お前になど教えるものか。聖皇教の犬め。お前が崇拝する聖皇様の高も知れるな。この詐欺師」

 バルディンは舌打ちをし、頬に付着した液体を拭った。彼はラキの唾液を拭ったその拳で、再びラキの頬を殴りつけた。ラキは石畳に倒れ伏し、バルディンはラキの華奢な背を踏んだ。「聖皇猊下を侮辱することは許さんぞ」

 ラキは横目でバルディンを睨み、口元に笑みを浮かべる。「お前がクズであることを聖皇様に転嫁するなよ。僕が侮辱しているのはお前だっていうことが分からないのかな」

 バルディンは表情を歪めた。「どうやら、まだ懲りていないらしい。そのご自慢の顔も、鼻を低くしてやった程度では物足りないか。それとも、不具の場所を増やしてやろうか。より分かり易い場所――例えば腕や脚だが」バルディンは腿に括り付けてあった短剣を抜く。そして背を踏みつける脚と入れ替わりにラキの顔面を蹴り上げた。足先でラキの身体を仰向け、その胸部に踵を振り下ろす。ラキの肋が音を立てた。「あれのありかを言うんだな。正直に話すまでこうやって骨を折り、皮膚を切り裂いてやる。全身が粉微塵になる前に話してしまった方が良いと思うぞ」バルディンは言う。

「死んでも言わない。少なくともお前にはな」ラキは噛み締めた歯の間から言った。

「リーンの端くれが。私を煩わせるなよ」バルディンはラキの脇腹を蹴る。彼はラキへの暴行を続けた。

 やがて息を切らしたバルディンは、ラキの折れた腕を掴み上げた。「フォルクヴァンに帰ろうか。そこで良く話を聞いてやる」気を失ったラキに言い、その細い身体を引き摺り歩き出す。

 だが、突如閃光がバルディンの身体を貫き、彼はラキから十歩分の距離まで飛んだ。そして倒れた。彼は震えながら身を起こす。その顔は青褪め、視線はラキへと向く。彼は気を失ったままのラキを暫し見つめ、表情を歪めた。「リラの血が混ざっているのか。油断した」

 硬質な靴音が通りに響いた。バルディンは唸りながら立ち上がる。しかし彼は脚を縺れさせ、塀に身体を打ち付けた。短く呻いた彼は塀に肩を預けたまま歩き、その場から離れて行く。

 バルディンの姿が通りから消えたのと殆ど同時に、若者がその場にやって来た。先程ラキを侯爵城から放逐した青年である。倒れたラキの元に駆け寄った彼は、眉を顰めた。彼はラキの傍らに片膝を突き、血の気の失せた頬を軽く叩くが、反応はない。青年は周囲を窺う。早朝の裏通りに人けはない。ラキの骨が数箇所折れていることを確認した青年は、ラキを抱き上げ、通りを引き返して行った。何件目かの建物の前で立ち止まると、両手の塞がった青年は戸を足先で叩いた。ややして扉が開き、中年の男が現れる。

「パトリック様」中年の男は見開いた目で青年を見、またその腕に抱えられた負傷者へ視線を向け眉を顰めた。

「こいつの手当てをして欲しい。時間外で悪いが」パトリックと呼ばれた青年は言った。

「お入りください」中年の男はパトリックとラキを招き入れた。

 一刻間程すると、ラキの瞳は緩慢に開いた。

「お目覚めになられたようです」中年の男が言った。

「そうか」と答えたパトリックは、寝台に横たわるラキの傍へと近づく。

 虚ろなラキの視線がパトリックに向き、暫しの沈黙の後、彼は「君、僕を追い出した人だ」と掠れた声で言った。

 パトリックは眉根を寄せた。「なにがあった」彼は訊ねた。

「敵に追われていたんだよ」ラキは答える。「君、どうして僕を追い出したりしたんだ。君に追い出されなければ、こんな痛い思いしなくて済んだかも知れないのに」ラキは腫れ上がった顔を顰めながら言った。

 パトリックは溜息を吐く。「お前、セドリックに連れられてきたと言っただろう。あいつとは関わり合いにならない方が良いんだ」

「どうして。彼はとても良い人だよ」ラキは反発した。

「善人に見えるか。そうだろうな、他人は皆そう言うんだ」パトリックは鼻を鳴らしながら言った。「お前はどこから来たんだ」彼は訊ねた。

「ヴァリュレイ。それより、君の名前を僕はまだ聞いていないのだけれど」

「パトリックだ」答えた彼はラキを見下ろし、「なるほどな、去勢奴隷か」と呟いた。

「まだそこまで言っていないだろう」ラキは顰めた顔を更に歪め、呟く。

 パトリックは腕を組む。「お前の事情は知らんが、お前を放置して死体を見る羽目になれば俺の気分が悪い。別荘があるからそこに隠れているといいさ」彼はラキの頭上で黙したまま座る中年の男を示す。「ここの主の世話になれ。動けるようになるまでには時間が掛かるだろう」

「ここは私の医院です」ラキの頭上から、中年の男が言った。

「僕を匿うと危険なことになるかも知れない」ラキは言う。

「事情は知らんと言っただろう。話してくれても良いが、それでお前が罪人かなにかだと分かれば、当然俺はお前を匿ったりしないがな」パトリックは言った。

「分かった、なにも言わない」ラキは頷く。

「お帰りになられますか」院長が背を向けたパトリックに声を掛けた。

「時々様子を見に来る」パトリックは言い、部屋から出て行った。

 彼と入れ替わりに、若い女性が扉から顔を出す。「先生、そろそろ診療時間です」彼女は言った。

 院長は席を立った。「何か困ったことがあれば、遠慮なくどうぞ。傍に人をいさせますので。ただ、今は鎮静薬を飲んでいただいておりますから、どうぞ眠ってしまってください」彼はラキに笑みを向けて言い、若い女性を伴って部屋を後にした。

 静まった室内で、ラキは天井を見つめていた。だが、彼の瞼は間もなく閉じられた。

 翌々日、微熱のあるラキを訪ねてきたのはセドリックだった。彼はラキが横たわる寝台脇の椅子に掛けている。「弟が申し訳ないことをしました」彼はまずパトリックの行動を詫びた。「あの子は人見知りをしてしまう、と言いますか。もう少し正確に言うと潔癖なところがありまして。どうも、見ず知らずの人が城にいることが我慢ならないときがあるようで」セドリックは眉尻を下げて言った。

「気にしないで」ラキはセドリックを宥めた。そして口を噤んだ後、言った。「実は、首飾りをお城に置いたままなんだ」

「首飾りをですか」セドリックが目を見開き、そして眉根を寄せる。「侍女達からは何も聞いていないな。お部屋の、分かり易い場所に置かれたままなのですか」彼は訊ねる。

「寝台脇の机に置いてあった筈だよ」ラキは答える。

 セドリックは顎に指を添える。「清掃は一昨日入りましたから、気付くでしょうね。分かりました、帰ったら確認します。見つかったらお返ししますので」

「いいや、預かっておいて欲しいんだ」ラキはセドリックの提案を制する。「バルディンがそいつを狙っている。良からぬ事を考えているに違いないから」

「バルディンとは、先日お話されていた」セドリックが訊ねる。

 ラキは頷く。「この怪我もあいつにやられてね。あの首飾りが価値あるものだということは僕も理解した。けれど、あいつはそれをフレアの元に取り戻したいのではなく、自らが欲しがっているようだった。あいつは聖皇教から遣わされてきた人間だ。それを隠していたけれど、僕に気づかれて、それで僕の鼻を潰した」彼は声を潜める。「あいつはフレアを愛していなくて、利用しようとしてる。僕はそれをフレアに気付いて欲しかったんだ。けれど、駄目だった。フレアはあいつに魅了されてしまっていたからね。あいつには聖皇教の信者としての目的がある。その為にフレアと接触したんだ。あいつの目的は、初めからあの首飾りだったのかも知れないな。そうでもなければ、フレアの夫ともあろう人間が自ら、たかが泥棒奴隷一人捕まえるためにここまでやって来るとは思えない」

「ヴァリュレイの事情に関しては、ラキ様の方がお詳しい」セドリックは頷いた。「貴方の身が心配です。侯爵城にお戻り下さい。弟には私が言って聞かせます」

「パトリック君というのだよね。僕を追い出したのは彼だけれど、倒れていた僕を見つけてここに連れて来てくれたのも彼なんだ。別荘があるから、そちらに暫くいたら良いとも勧めてくれたよ」ラキは言った。

「あの子がですか」セドリックは目を丸くしたが、再度笑みを浮かべた。「勘違いされがちなのですが、あの子は決して意地悪ではないのです。良かった」

「優しいお兄さんだよね」ラキは呟く。

「パトリックは私について何か言っていましたか。よく悪口を言われるのですが」セドリックは微笑んだままで訊ねる。

 ラキは首を横に振った。「何も悪い事なんて言っていなかったよ」

「ならば良かったです」深く頷いたセドリックは、軽く膝を叩いて続けた。「弟が言った別荘とは、ガルドスミス城のことです。状況が良くなるまで――むしろ、新しい家だと思ってくださっても。貴方は私の友人ですからね」

「友人」ラキは繰り返す。

「迷惑でなければ、そのように思わせてもらえたら」セドリックは首を傾がせた。

「迷惑なんてことはないさ。ただ、友人っていうのは、実は初めてでね。驚いてしまったよ」ラキは腫れた顔に笑みを浮かべ言った。「とても嬉しい」

「無事――と呼ぶには酷い怪我ですけれど、ここにおられるということが分かって安心しました。仕事の合間に抜け出してきたものですから、そろそろ戻らないと。お具合の優れないところに来てしまって申し訳ない」セドリックは席を立ち、言った。

「気にしないでおくれ。貴方にまた会えて、本当に良かった」ラキは横たわったまま、固定具を装着した右手を上げ、セドリックの手と触れ合った。そして病室を後にするセドリックの背を、彼は見送った。

 医院から出たセドリックは、真昼の人通りを眺めていた。彼は唐突に笑いを吹き出した。

 笑みを浮かべ、珍しく晴れ渡ったレイスの空を見上げ、彼は「馬鹿だな」と呟いた。だが、その呟きは喧騒に紛れた。

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