第五章
風の騎士団
風の騎士団(1)
二十分隊の統率を任されたのは、アウリー出身のミケーレだった。彼は軽騎兵の中隊長であり、今回編成された百名の軽騎兵たちは皆、彼の管轄だった。
最低限の装備で身を軽くし、シーク生まれの馬に跨って移動すること一日半。クラーツ公爵領ヴィンツへ出航する船をもつ港町、フェイへと到着した。ここからヴィンツ行のガレーに乗り込み、四回の船舶を繰り返せばいい。
午前最後の船出まで、まだ暫く時間があったので、ミケーレは部下たちに集合時間を伝え、部隊を一時的に解散させた。隊長であるミケーレは、適当に観光でもするつもりでいるが、きっとファーリーン人の部下たちは一生懸命情報収集などに当たるのだろう。まったく、実に精が出る。
ミケーレの生まれ育ったアウリーは、インクレス大陸に属する南国だ。気候は温暖で、日差しが強く、風景は色鮮やか。海の色は輝く青、空色は濃く雲は白い。あの強いコントラストは、ファーリーンでは見られない。
そして、インクレス大陸を囲むパトゥレス洋には、冬になるとリオス湾の渡り鳥たちがやってくる。中央大陸の湾の名をもつリオス鳥は、古よりファーリーンとアウリーを繋ぐ聖獣として、様々な物語に登場する。
フェイの海沿いの通りを散策していたミケーレは、白い羽毛を持つリオス鳥が、破棄された魚の餌を啄いているのを見た。その横で漁師の男がイカを焼いていて、ミケーレが故郷と繋がる海の風景を眺めてぼんやりとしていたら、一杯寄越してきた。ありがたく頂戴して、齧りながら歩き出したところに、
「あ〜、あ〜、隊長隊長、それ旨そう」
横からひょいと顔を出してきた青年は、ヤンだった。ミケーレは噛み付いたイカの胴体から口を離した。
「ゲソ食う?」
「やぁ」
ひょろりとした背格好のヤンは頷いて、左手を上向かせてミケーレに差し出した。ミケーレはその手のひらを横目で見ながら訊ねる。
「何本?」
「全部」
「八本な」
「イカの脚って十本じゃないんすか」
「残念だがその二本は手なんだ」
ミケーレが教えてやると、ヤンはむむと唸った。だがイカの脚を受け取って一本口に含むなり、ぱぁと表情が明るくなる。
「うんめー! 酒のツマミにもってこい!」
「船に乗ったら許可する」
「あぁ、それまでに全部腹のなか行ってるな」
ヤンは肩を落とした。
港周辺をイカをかじりかじり二人で歩いていると、今度はボリスが老婆と話しているところに遭遇した。ヤンはにやりと笑みを浮かべ、スキップしながら同僚の方へと寄って行く。
「へーい、ボリス君。なに、ナンパ? 仕事中だよ」
「は?」
くっきりと太い眉をひそめ、ボリスは振り向いた。そしてうさんくさそうにヤンを眺めて、肩をすくめる。
「何食ってんだよ」
「げそですが?」
見てわからないのか、というような表情で、いけしゃあしゃあと答えるヤンに、ボリスは首を振った。
「聞き方を間違えた。『なんで、そんなものを食べているのかい?』」
「たいひょーにもらっひゃ」
ヤンは最後の一本を咥えて言った。「隊長?」とボリスは聞き返し、同僚の背後へと視線をやる。彼の上司は、イカの身を振りながらこちらへ歩み寄ってくる。ボリスはヤンとミケーレを交互に見た。
「…………」
「うまいぞ」
ミケーレにそう言われ、ボリスは全身から力が抜けるような気がした。
「あらま、どうしましょうね、こまったわぁ。こんなハンサムなお兄さんたちに囲まれたら、あたし照れちゃうわ」
「はあ、どうも……」
老婆の眼差しは孫を見るようだ。ボリスは全く感動させられなかった様子で、曖昧に礼を言った。そしてヤンは腰の曲がった小さな老婆に目線を合わせるように屈んで、親指で自分を指し示す。
「婆ちゃんあと五十歳若かったらさ、俺の彼女になれたのにね!」
「そうねぇ、残念だわ。ほほ」
ミケーレは焼きイカを全て片付け、紳士的な笑みを浮かべながら老婆に話しかけた。
「ところでご婦人。我々はこれからヴィンツに向かうところなのですが、なにかあちらの方の話題はありますか?」
老婆はのんびりとした動作で、目を細めた。
「まあ、ヴィンツに? それじゃあ船に乗るのね。いいわよぉ、船は。あたしもねえ、若い頃は船乗りの男たちに混ざってよく乗り込んだものよ。懐かしいわねぇ……。でも、最近はだめよ、もう脚に力が入らないもの。どこかに掴まってないと、転がっちゃうわ。ほほほ」
「ここ数日の間に、なにかヴィンツの方の噂は流れてきていますか?」
ミケーレは笑みを崩すことなく、もう一度言葉を変えて繰り返した。老婆は首を傾げる。
「そうねえ、何日か前に、そこの港のところで騒ぎがあったみたい。アクスリーの伯爵様が戻ってらした、って」
「なるほど、ありがとう」
ミケーレは老婆を抱擁した。ボリスが咎めるように手を宙に浮かせた。
「ちょっと――」
「あら、あらら、まあまあ、ほほほほ」
老婆は初めこそ驚いたようだったが、間もなく再びのんびりとした笑い声を上げ、ミケーレの背をぽんぽんと叩いた。
呆れた様子のボリスが隣のヤンを見れば、彼は歯の間に挟まってしまったらしいイカの身と奮闘している。ボリスはため息を吐いた。
「フェイで情報収集なんか、やるだけ無駄だと思うんだがなぁ」
老婆と別れ、十分に離れてからミケーレが言った。
「まだ伯爵しか到着してないんだし。彼が知ってる以上のことをフェイの人々が知ってると思うか?」
ボリスは肩を竦める。
「何かしてないと落ち着かないんですよ。皆そうです」
「遊んでればいいじゃないか。お前らは、俺が『遊べ』って命令しないと遊べないのか?」
「まあ」
ボリスは肯定した。ミケーレは憐れむように眉根を寄せる。
「そうかぁ、難儀だなぁ」
「普通そうじゃないですか」
ボリスがそう言うと、ミケーレは首を横に振った。
「ファーリーンではそうかもしれないが、実はアウリーではそうじゃないんだな」
三名でつるみながら、港通りを一周して船着場へ向かっていると、一件の酒場からふらつきがちな人影が出てきた。ミケーレは距離のあるところから声を掛ける。
「エイダン! どうした、ふらついてるな!」
酒場から出てきた人影は立ち止まって、ミケーレたちの方を振り向いた。近寄ってみれば、その青年は喋るのも億劫そうな様子で言った。
「俺はワイアットですよ。エイダンはあとから来ます」
ワイアットは顎で酒場を示した。
「おっと、そうか、すまん。……なんだお前、酒でも飲んできたみたいだな」
ミケーレが指摘すると、ワイアットは慌てる。
「ち、違います。船乗りは酒場にいるって聞いたから行ったんです。俺は飲んでませんよ。におい嗅いだだけです」
「その顔、しらふとは思えん」
ワイアットは肩を落とす。
「においで十分酔えるんです、って言ったら、きっと呆れるでしょうね」
それを聞いたミケーレは別段呆れた様子はなかったが、ふと思い出したように聞いた。
「そういや、船酔いはするのか?」
「乗りっぱなしなら、一日あたり三回は戻す自信があります」
ワイアットは自嘲的な笑みを浮かべて答えた。ミケーレは気の毒そうな表情になる。
「エイダンも?」
「あいつ俺より酷いですよ」
ミケーレは溜息を吐き、ワイアットの肩を勇気づけるように叩いた。
「ヴィンツへ着くまでに十回以上吐かなかったら、なにか奢ってやるさ」
「お互い、あまり期待しないでいましょう」
と言ったところで、エイダンが酒場から出てきた。ワイアットの双子の弟は、なるほど兄以上に憔悴した様子だ。そんな危なっかしい後輩を、ボリスが支える。ミケーレは苦笑を浮かべ、集合時間も近いので歩いて話そうと言った。
「で、臭いに酔わされてまで行った酒場で、なにかそれに見合うようなものは得られたのか?」
「いや、とくになにも。な?」
ワイアットが答えた。彼は弟にも同意を求めた。エイダンはぐったりとしながら、かろうじて頷いた。
「おぉっ、とれた!」
ヤンが声を上げた。出した舌の先を指差して、ボリスやミケーレに見せつけている。挟まっていたイカの身がようやっと取れたらしい。それを適当にあしらって、ミケーレはワイアットとの話を続けた。
「まあ、そうだろう。酔い損だったな。出港ギリギリまで波止場で酔いを覚ましてろ」
「はい」
乗船予定の二隻の船は、既に出港の準備を終えていた。港の広場には騎兵が集合し、ミケーレの合図を待つばかりとなっていた。
巨大なガレーを動かすのには人員がいる。下層部で櫂を操る男たちは、かつては奴隷階級に所属する者たちだった。現在では彼らの人権は保証され、仕事に対して相応の報酬を与えられている。以前は虚弱で、使い捨てのような扱いだった船乗りは、屈強な体躯を得るようになった。魔道で船を動かすアウリーの船乗りたちの腕と比較すると、ファーリーンの船乗りのそれは二倍、もしくは三倍の太さがある。
全ての騎兵が乗船した。その確認がとれると、間もなく下層からオールを漕ぐ掛け声が聞こえてきた。船はあちこちを軋ませ、億劫そうに体を揺らす。そして、おもむろにその重い体を前へと進め始めた。見る間に加速し、フェイの港が離れてゆく。
二隻の船は陸を離れ、沖に出た。海面から顔を出していた岩々は姿を消し、それらに衝突する心配がなくなると、帆が揚げられた。
先行する船に、先の五名は乗っていた。ヤンは早くも非番の船乗りたちと打ち解け、談笑に興じている。ボリスは甲板で潮風に当たりながら本を読んでいる。一応暇をつぶせるものは持ってきていたようだ。一方、ワイアットとエイダンは手すりにもたれかかり、ぐったりとしている。
そして、ミケーレは船長室に招かれていた。この船の船長は黒い髭を生やした大男だ。本来休業日だったにもかかわらず、王属騎兵百人と馬百頭がヴィンツに渡るとなって、予定を変更して船を出してくれた。彼の部下たちもそうだが、強面の見かけによらず、相当に親切な心の持ち主のようだ。
船長室には大きな窓がついている。船の前方側に、航路が示された海図と、やたらと大きな方位磁針が置かれた机がある。壁や床には細々とした装飾品。なんとなく方向性が見え透いている。
「休日を潰してしまって申し訳ない」
席についてまず、ミケーレは船長に詫びた。船長は「いいや」と首を振る。
「気にしなさんな。積み荷は十分にあるし、手当も出るってんだからな。さほど悪くない話だ」
「そう言って貰えればありがたい」
船長はふふんと笑った。彼の部下の船乗りは二百人いる。軽騎兵中隊長のミケーレの部下も、半分はリディに置いてきたが、全て合わせれば二百人だ。互いに理解し合える部分を感じ、早くも打ち解けはじめた気配があった。船長は、まじまじとミケーレの顔を窺う。
「隊長さんはよ、船に慣れてんだな」
船長の声は酒焼けしたようにガサついている。ミケーレは頷いた。
「祖父が船乗りだった」
「なに、海賊か!?」
突如船長が大声を出した。興奮を隠そうともせず、ミケーレに詰め寄る。ミケーレは両手を顔の前に突き出した。
「いいや、違う違う。親方さんと一緒だ。合法的な貨物船の船長」
黒髭の船長はどうやら『海賊』という響きに憧れのようなものを抱いているようだ。この船長室の内装を一目見たときから、ミケーレは察していたが。
たしかに、アウリーといえば海に強い印象があるだろう。海軍は勿論優れているが、一般人はクレスの海賊にも馴染みがあるかもしれない。賊というよりはトレジャーハンターに近いので、彼らの求める宝を所有しない者たちにとっては何一つ脅威はない。
ミケーレの返答に、船長は肩を落とした。が、それもほんの僅かの間で、すぐに強面を取り戻す。
「……まあ、それはどうでもいいんだ。一個、あんたの耳に入れときたい事があってな」
畏まった様子の船長に、ミケーレも背筋を伸ばす。
「まず、この船が前回ヴィンツを出たのが六日前だ。俺らが出てくるとき、やたらにヴィンツが騒がしくて、手下にちと嗅ぎ回らせたんだ。そしたらなんでも、ヴィンツ騎士が仲間と話してたことらしいんだが、アクスリーはフォーマ軍に“占領されてる”とかって」
「なに?」
ミケーレは耳を疑い、思わず聞き返した。
「占領? 占領されてるだって?」
船長はミケーレを宥めるように、ことさら冷静な口調で言う。
「公式に発表されてたわけじゃない。噂だ。ただ、六日前の時点では、ヴィンツにそういう噂が流れてた、ってことだな」
アクスリーはファーリーンの『壁』の一つだ。ヘザーに近く、フォーマからの侵入にいち早く対応する。当然、都市の造りは堅牢で、そう簡単に陥落させられるようなところではない。南方駐屯騎士団とも連携している、クラーツ公爵領で最も守りの堅い地域だ。その街が、近隣の都市に確かな知らせをもたらす間もなく占領されたなど、俄には信じがたいことだ。
難しそうな表情でミケーレが考え込んでいると、船長はパンと腿を叩いた。
「別に、今から難しく考えるこたねえさ。ガセかもしれんし。ただ、一応な。気をつけてくれよって、それが言いたかったのさ」
「……そうか……、そうだな。ああ、ありがとう」
「おう」
船長はこのことを話して気が晴れたのか、満足そうに頷いた。
太陽が西方の水平線下へ潜りだしたころ、船は停泊の準備を始めた。備え付けのランプに火が入れられる。
尚も船長室で談笑に興じていた二名のもとに、訪問者があった。ドンドンと扉が叩かれると、船長は席を立った。
「お、来た来た」
船長がドアを開けると、床に重たい荷物が置かれた。
「これでいいすか船長」
「ふ〜む、こいつは上等だ」
「そりゃそうでしょうよ」
頭にバンダナを巻いた船乗りは、室内のミケーレと目が合うと、ほんの少し右手を挙げたので、ミケーレも右手を挙げて返した。
船長は嬉々とした様子で、部下が運んできた荷物――二十ガロンは容量の有りそうな酒樽――を、拳でコンコンと叩いた。
「コイツはグローラから来た酒だ。メタクソに強いってんで、取り扱いには十分注意せにゃならん」
樽の栓を外しながら船長は言う。鼻歌でも歌い出しそうなくらいに上機嫌だ。
「開けて大丈夫なのか? 売り物だろうに」
「いいんだよ、俺の奢りなんだから」
ミケーレは思わず身を引いた。この船長は何を言っているのか。
「あんたと、あんたの部下たちに、俺からのプレゼントだよ」
「えっ」
ミケーレは青ざめた。
「いやッ……それは…………」
グローラの“消毒液”は、アウリーにも流入してきている。ミケーレは昔、聞いたことがあるのだ。十代の頃につるんでいた少年らが、肝試しに飲んでみたのだという話を。二度と口に含みたくはない、と言っていたのを覚えている。
ミケーレの心境など素知らぬ様子で、船長はグラスを取り出した。そして刺激臭のする液体をそれに注ぎ出す。いよいよこれは危険だと判断したミケーレが席を立つ。
「すまないが船長、部下たちに夕飯を食うように指示してこないと」
「ガキじゃあるまいし、腹が減れば勝手に食うだろ」
ミケーレはほとんど必死だ。
「いや、王属騎兵には厳しい規律があって、上司の許可がないとやつらは便所にも行けないんだ」
この場から去る口実を探るミケーレの顔前に、髭面の船長はグラスを差し出す。
「まあまあ、一杯飲んでからでもいいじゃないか」
「うんぐっふ、ゲホッ」
とんでもない刺激臭だ。鼻が痛すぎて涙が出てくる。こんなものを体内に入れるなど、一体なんという名の拷問なのか。ミケーレは思い切って踵を返す。付き合ってられない。
「すまない急務だ!」
ところが、ミケーレの行く手は塞がれていた。酒樽を運んできた船乗りが、どんと扉の所に立っている。ミケーレより縦にも横にも大きな巨体を、押しのけて通ることは難しかろう。
「どいてくれないか!」
「……いやぁ〜」
船乗りはいたずらっぽい笑みを浮かべたまま、動こうとはしない。ミケーレが横をすり抜けようとすれば、スッと移動して邪魔をしてくる。ミケーレは歯ぎしりした。
「貴様、グルか……!」
「まぁ……どっちかっていうと?」
「さあ飲め!」
背後からは船長が迫ってくる。ミケーレは唸った。逃げられないなら、せめてもの妥協点を見出そうと考える。
「船長、ならば水をくれ。第一、それは本来そのまま飲んで良いものなのか? なにかで割って飲むのが普通では?」
船長は無情にも首を横に振った。
「本場ではな、それは子供がやることなんだってよ」
「本当だとしたら、ちと気が狂ってんじゃないか」
ミケーレは愕然と呟いた。
夜中、甲板は死屍累々といった様子に変わり果てていた。一口喉に通すなり悶絶し、声を出すこともままならなくなったミケーレは、部下たちへの退避命令も出すことができなかった。
船長はミケーレの部下たちに、わざわざご丁寧に“消毒液”を勧めて回った。後続するもう一隻の船にも渡って、そちらの者たちにも提供するという徹底ぶり。多くの騎兵は腹を括ったようだが、何名かは海に飛び込んでしまった。その中にはあの双子も含まれていた。
彼らは船上が静かになった頃に、海水から上がってきた。そしてその場の光景に恐怖し、酒の恐ろしさに身震いしたのだった。
風の騎士団(2)
船長室から這い出たミケーレは甲板上で昏々と眠り、気がついたときには夜が明けていた。不思議な事に、目覚めはよかった。
船長が言うには、あれは少量ならばむしろ体調を整えてくれるらしい。なるほど、確かにミケーレの前で何人かの騎兵が目覚めたが、いずれにも不快そうな様子はなかった。
四日目の朝、霞の先にヴィンツの影が見えた。北部ファーリーンと南部を繋ぐそこは、公爵領ではザルツに次ぐ大都市である。北部からやって来る船の大方はヴィンツに集結し、北部へ向かう船の殆どはヴィンツから出航する。港では、大小様々な船が停泊している。
都市の姿が鮮明になってきたころ、帆は下ろされた。船乗りたちは櫂を握り、混雑する港の中で巨船を進ませる。やがて波止場に船がつけられ、積み荷の降ろし作業に取り掛かった。騎兵らは比較的手軽な荷物を降ろすことを手伝った。
そして、船乗りたちと騎兵たちは互いに感謝しあって、別れた。
南部ファーリーンには中小都市がない。フォーマと隣接する南部では、騎士団を所有する大都市に人々が自然と集まってくる。かつて賑わいを見せた幾つかの町村は、三百年前の戦の際に放棄され、そのままだ。
北部より高い階層で建設された民家が立ち並ぶ街並みに、侯爵城は埋もれている。中央大通りに沿って進めば、いずれは見えてくるだろうが。
馬に跨がり行進する軽騎兵隊の周囲に、市民が集まってくる。かれらの表情には、少なからぬ安堵の様子が見えた。ミケーレは、常よりヴィンツ騎士の数が少ないことに気付いた。
中心広場に至ったところで、ミケーレは隊の進みを止めた。そして後ろをついてくる部下たちの方を向く。
「分隊に分かれ、情報収集に当たれ。夕の六時に集合だ。参考人は可能な限り連れてくるよう」
ミケーレが解散、と合図すると、部下たちはそれぞれ散っていった。
街の南にある候爵城を、ミケーレは目指した。ひとまずは騎兵隊がヴィンツに到着したことを、侯に知らせなければならない。早足で馬を進ませたミケーレは、やがて城の姿を捉えた。城門を見つけ、腕章の位置を正す。王属騎兵であることを示すそれが、よく見えるよう。
ヴィンツ騎士が二名、門番をしている。ミケーレは颯爽と彼らの前に現れてやった。馬の体を右に向かせて、左腕の証を二人の騎士に見せてやる。長い槍を扉の前でクロスさせた門番たちは、馬上の男が見せつけてきた腕章を兜の内側から確認した。わずかの沈黙の後、それが王属騎兵団員であることを示すものだと認識して、彼らは槍を引っ込めた。
「失礼致しました。お通りください」
右側の騎士が言った。ミケーレは威厳たっぷりに「うむ」と返事をし、背筋をピンと伸ばして、いかにも偉大な人間であるかのような面持ちで門を潜った。
中はアーチ状のトンネルだ。薄暗く、ひんやりとしている。四角い石を重ねてつくられた壁は、ところどころが削れている。継ぎ目の石膏には罅が入り、本来は真白かっただろうその継ぎ材の色は、セピア色に変色している。
門を潜り抜ければ、太陽の光が差してきた。控えめな光だと感じた。しつこいくらいにまとわりつく、少しばかりうざったい故郷の光を、不意に懐かしく思い起こした。ミケーレは尊大な雰囲気を演出するために止めていた息を吐きながら、思わず笑ってしまった。背後の門番がぎょっとしてこちらを振り向くのが感じられたが、彼は構わなかった。
侯爵との謁見に滞りはなかった。むしろ、侯は騎兵らの到着を期待していたらしく、ミケーレが城に入り役人に自らの姿を確認させるやいなや、早々に執務室へ通された。
部屋の中央に置かれた仕事机に向かっていた老齢の男性は立ち上がり、言った。
「こちらから遣いを送ったのであるが、もしや到着するより先に出立してくださったのか」
「ええ、では伝令とは入れ違いになってしまったようで」
「いや、ありがたい」
目や口の周りにしわを刻んだ、少々気難しそうな雰囲気をまとうヴィンツ侯爵と、ミケーレは握手を交わした。
「失礼、お名前を伺っても」
「ミケーレと申します。軽騎兵隊中隊長の任を受け持っている者です」
「ミケーレ。アウリーの方かな」
問に頷く騎兵に椅子へ座るよう促し、侯爵も円卓を囲む簡素な椅子に掛けた。ミケーレと同年代らしき執事が紅茶を淹れてくれたので、騎兵は軽く礼を言って口をつけた。
「先日偵察隊を出したが、まだ戻ってはこない」
侯爵はミケーレに伝えた。今後の方針を未だ決めかねている様子だ。
「ヘザー方面に一連隊、それと海岸沿いだな。ヴィンツ騎士の半分を割いている」
侯爵は言った。ヴィンツの町中で騎士の姿が少ないと感じたのは、そういうことだったらしい。やはり侯爵も海岸線を気にかけているようだ。
「我々も偵察隊として遣わされました。いずれの方へ隊を進めるか、侯爵の指示に従います」
侯爵は顎を撫でた。
「うむ、まだ何とも言えんかな。おそらく、明日か明後日のうちには方々から報告が返ってくるはずなのだ。気は急くが、それを待つしかあるまいな」
侯爵は一旦そこで言葉を切り、「だが」と続けた。
「実は、アクスリーがフォーマに占領されているという情報を得ていてな。もし事実であるならば、やはり侵入経路はヘザーか、少なくともその周辺からだろう」
ミケーレは船長の話を思い出した。改めて驚くことはなかったが、やはり信じがたかった。そんなミケーレを視界の端におさめて、侯爵は言う。
「アクセル殿がここへ引き返してきた翌日のことだ。一人の女が街へやってきて、占領されたアクスリーから逃げてきたのだと言ったらしい」
ミケーレはすかさず尋ねていた。
「その女性に話を聞くことは? それと、アクセル殿の奥方もこちらにいらっしゃると聞いています」
「ベルティナ姫はな……残念だが、とても話ができる状態ではないのだ。逃げてきた女性のことだが、私が直接会って話したわけではない。街の南門付近で我が街の騎士が見つけ、言葉を交わしたらしい。面目ないことだが、そやつは前日に伯爵が引き返してきたことを知らなんだ。女性の話を本気にせんかったようで……。今、その人物がどこに居るのか、探させてはいるのだがな、見つかっていない」
侯爵は首を振りながら言った。ミケーレは勇気づけるように話す。
「先程、部下たちに情報収集に当たるよう言い渡して参りました。夕の六時に再び集合しますので、そのときに伝えましょう。明日、明後日とヴィンツで待機することになるでしょうし」
「そうしてもらえると助かる」
侯爵の城をあとにしたミケーレは、見事目標を達成できた双子に奢るものを何にするか考えていた。下戸の二人に酒を飲ませるわけにもいかない。船舶中はあまり食事を取れていなかったようだし、ならばやはり飯を食わせてやるのが一番だろうか。傍から部下への態度が不公平に見られるのも良くないし、程々に――。
などと考えながら、大通りを馬を引きつつ歩いていたミケーレの視界の端に、見慣れた衣装の影が一瞬だけ映った。家と家の隙間は、裏通りに続く細い路地。その先の裏通りを走っていった人間がいる。ミケーレの動体を認識する力を信じるならば、それは騎兵のものだった。
路地は人がすれ違うのには困難を要する程度に幅狭く、建物の影になって薄暗い。そういった場所には、こっそりとごみなどを捨てていく不届き者がいるものだ。ミケーレの故郷とてそれは同じ。ただ、日陰の中でも必死に背を伸ばしている雑草の上に、食い残しのようなものが被さっているのを見ると、なんだか草が哀れに思えるのだ。
ミケーレは、馬に待つように言い聞かせ、路地に入り込んだ。腐った食い物を容赦なく雑草とともに踏み潰し、ひやりと冷たい石壁の隙間を通り抜ける。裏通りに出て、影が走り向かって行った方に視線をやる。行き止まりの壁の前で、騎兵が肩で息をしながら立っていた。
「別に、取って食おうってわけじゃないんだから……はぁ、逃げなくたっていいじゃないですか」
ワイアットかエイダンの声だった。ミケーレはゆっくりとそちらに近づき、双子のどちらかが話しかけている相手を確認した。
それは女性だった。歳は二十かそこらだろう。怯えきった様子の彼女は、目の前に立ちはだかる若い男の背後にもう一人の男が居ることに気付いて、顔をひきつらせた。ミケーレは悪意のかけらもなさそうな、愛想の良い表情を見せてやった。
「こらワイアット、下がれ。どんな女性だって、見知らぬ男に追い掛け回されたら恐怖心を抱いて当然だろう」
「ああ、もう。だから、俺はエイダンですって」
そう言いながら、双子の弟は振り返った。ミケーレは大して悪びれていない。
「お前らのどっちか髪伸ばしてくれ」
「嫌ですよそんなの、鬱陶しい」
エイダンは不服そうにしながら後ろに下がった。兄に確認を取るくらいしてくれても良いではないかとミケーレは一瞬思ったが、まあ弟と同じ答えを返してくるのだろうとも思う。ミケーレは蹲ってしまった女性の前に膝をついた。
「部下が無礼なことをしてしまったようだ。申し訳ない」
女性は目元を拭って顔を上げた。やつれた顔をしている。彼女はミケーレの左腕に取り付けられた腕章に気づいたようだ。女性の瞳に、微かな困惑とともに光が灯った。
「王属騎兵の方……?」
ミケーレは頷いた。彼女は少し離れたところで不貞腐れたように立っている若い騎兵を確認する。彼の胸鎧には、軽騎兵の証があった。女性は気まずそうに俯いた。
「ご、ごめんなさい……エンブレム……気付かなかった」
「お気になさらず」
エイダンは逃げられたことがショックだったのか、どこかそっけなく返した。普段ならこの程度のことで拗ねたりはしないのだが、四日間の船舶の直後で本調子ではないために、気が立っているのかもしれない。
丁度そのとき、ミケーレとエイダンの背後から足音が近づいてきた。振り返って見てみると、エイダンの兄ワイアットと、ボリス、ヤンが駆けてくる。追っていた対象がもう逃げる様子がないことを察すると、三人は走るのをやめて歩み寄ってきた。ミケーレは気の毒に思って、女性を見下ろした。
「これだけの人数に追われて、さぞいやな思いをしてしまったでしょう」
女性は首を横に振った。
「いえ、勘違いしてしまった私が悪いんです。なんだか……すみません、思い出してしまって…………」
ミケーレはスッと表情を引き締めた。
「詳しくお話を聞かせてもらえませんか」
女性は「はい」と言って、息を整えるように数回深呼吸をした。
「あの、私……アクスリーから来たのですけど……」
ミケーレは確信した。侯爵が言っていた女性は、いま目の前にいるこの人物だろう。聞いていた特徴とも一致している。金髪と褐色の瞳の持ち主で、二十歳くらい。
「テアさんですか?」
「え……、はい、そうです」
ヴィンツ騎士が何日もかけて探していた人を、ミケーレの部下はわずかの時間に見つけてしまったということだ。これは実に素晴らしい。ミケーレは背後に立つ部下たちに、よくやったというような目配せをした。
「ヴィンツにいらした当初、そのことを誰かにお話しましたね」
「ええ、騎士の方に。とても親切にしてくださって……」
アクスリーからヴィンツまでは決して短な道のりではない。徒歩となれば相当な体力と気力を要しただろう。今は綺麗にしているが、ヴィンツにたどり着いた時点ではみすぼらしいなりになっていた事は想像できる。なるほど、彼女が話しかけた騎士は親切ではあったようだが、詰めは甘かったのだろう。だがその親切心に免じて、彼の名誉はあまり傷つけない方針で行こうとミケーレは思った。
「実は、この街の候爵閣下が、貴女から直接お話しを覗いたいそうなのです。どうか、我々に情報を頂きたい」
ミケーレが言うと、テアは一瞬表情を陰らせた。彼女は唇を噛み締め、何かを耐えるようにしながらも頷いた。
「もちろん、私に分かる限りのことはお話します。……その為に来たのですから」
騎兵とテアは大通りへと戻った。部下たちは馬をここから少し遠いところに残してきたらしい。盗まれる心配は必要ないだろう。シークの馬は気性が荒くて、相当な訓練を受けなければ乗りこなせないし、信頼しない相手には絶対に従わない。ミケーレは路地の入口のところに繋いでいた馬を広場に移動させ、また暫く待っていてもらうことにした。
とりあえず、テアが見つかったことを城に報告しなければなるまい。これほど早く見つかるのは予想外だったが、この状況で早く情報が得られて損をするということはないだろう。
ミケーレはテアと、彼女を見つけた部下四人を伴って侯爵城へ引き返した。ついさっき出て行ったはずの騎兵が戻ってきたために、門番の騎士は困惑している様子だったが、なんの抵抗もなく再び門を通してくれた。
城に入って役人に事情を話すと大層驚かれた。担当の騎士を呼んでくるので暫し待てとの指示に従い、エントランスで数分待機した。
ミケーレはてっきり、テアを保護した騎士は男だと思い込んでいたのだが、呼ばれてやってきたのは女騎士だった。テアより幾分年上らしいが若い女騎士は、白いシャツに灰色のホーズという出で立ちで、すらりと背が高い。
「テアさん!」
女騎士はテアに駆け寄った。
「よかった、今までどこに……」
テアはホッとした様子で女騎士を見上げた。
「ごめんなさい、あまりお家に長居したらご迷惑かと思って」
「そんなこと……」
なんでも、女騎士は二週間ほど前の夕刻に、南門付近でテアを見つけたらしい。自宅に連れ帰り彼女の傷の手当などをして、翌日、落ち着きを取り戻したテアからアクスリーが占領されたという話を聞いた。しかし、その四日前にアクスリーへの使いから帰ってきていた騎士はテアの話を鵜呑みにできず、上層への報告をせずにいてしまった。そして、更にその翌日、職場に出勤した騎士はそこでアクスリー伯爵が襲撃を受けてヴィンツへ引き返して来ていたことを知った。急いで自宅に戻りテアを探したが、彼女は既に居なかった、ということのようだ。
騎士はすぐにテアの話を信じてやらなかったことを悔いただろう。いかにも責任感の強そうな顔つきをしている。女騎士は小さく息を吐き、騎兵たちに向き直った。
「我々が探していた人物に間違いありません。ご協力に感謝します」
女騎士は礼を述べた。
「どーたま!」
それに対してヤンが返事をする。音を省略しすぎているその言葉の意味を、女騎士は理解できなかったようだ。声の主を窺い見るが、ヤンはひらひらと手を振るだけだ。どういった反応を返すべきか困惑している女騎士に、ボリスがヤンの言葉を訳してやる。「どういたしまして」という意味であったことを理解した女騎士は、曖昧に笑った。
一行は応接室に案内された。
侯爵はミケーレと彼の部下たち、そしてテアを歓迎した。一行は侯爵の向かいのソファに、テアとミケーレを中心にして掛けるよう促された。当のテアは、自分が探されていたという事実を知らなかったらしい。別段隠れて過ごしていたというわけでもなかったようだが、にも関わらず二週間近くも足取りを掴ませなかった、というのはある意味才能かもしれない。
「早速でもうしわけないが、あなたがここに至るまでの過程を、大まかに話してもらえるかな。アクスリーで何があったのか、というところから」
「はい……」
テアは大分緊張しているようだが、少しずつ話しだした。
「先月、二度目の〈軍神の日〉の朝です。その瞬間まで、いつもと変わったところはありませんでした。家族に起こされてみたら、ドォン、ドォン、って大きな音がしていました。家の窓枠が震えるくらいに。私の家は、街の南西部にあって、南門と、そこへ続く大通りが見えるんです。騎士様たちが門へ集まっているのが見えました。いつもの訓練の様子と違うことは、すぐに分かりました。家族と逃げようと思ったとき、ひときわ大きな音と衝撃があって、門が壊されたのだと思いました。実際、外に出たら、見たこともないくらい背の高い人たちが街の人達を追いかけていて……」
「背が高い?」
ミケーレは反駁した。
「背が高いこと以外に共通点はありましたか?」
テアは眉をひそめた。
「目が……金色でした。耳がすこし尖っていたかも……」
「半竜人かな」
ミケーレは顎を触りながら呟いた。
半竜人とは、竜人と人間との間に生まれる存在を指す。近年翼ある竜人は滅んだとされ、今後は人間の血で竜の血は薄まりゆくのみだろう。だが、竜の血が濃いうちは、彼らの脅威性は純粋な竜人に匹敵する。彼らに翼はなく、飛行はしない。けれど体は巨大で、生命力に優れる。そして、彼らは獣とは違い、人と同じようにものごとを考える。
ボリスが頷く。
「特徴は一致してます。ですが彼らはイシャクの管轄だし、こちらの争いには感心がないものと思っていましたよ」
「いよいよ連合も結託する気になったのでしょうか」
双子の兄ワイアットが呟いた。ヴィンツ侯爵は気難しげな眉根を更にしかめて、重苦しく唸った。
「イシャクの王が変わったという話を最後に聞いてから、たしか十年以上経っている。めずらしく長いこと一人の統治が続いているらしいと思っていたが……こうなるのか……」
イシャクもまた王政国家だが、世襲制ではなく、いわゆる“決闘で勝利した者が王となる”古典的な制度で成っている。力さえあれば誰でも王となれるわけだが、君主の入れ替わりが激しく、安定した施政を行うことは難しい。イシャクの王になる者は戦士で、大抵の場合、政治に関しては素人だ。フォーマ王国は、都市部の基盤整備はある程度進んでいるが、イシャクに関してはまだまだ発展途上だ、というのが一般的な認識である。
これまで大人しく黙っていたヤンが、テアに話しかけた。
「で? 君さ、どうやってあの街出てきたの? ていうか、出てこれたのって君だけ?」
テアは身を強張らせた。彼女の開かれた瞳には、こびりついた恐怖の色がはっきりと見てとれた。それでも彼女は気丈に答えた。
「隻腕の……男の人が逃がしてくれて……」
ヤンの表情が、珍しく真摯なものになった。隣のエイダンを押しのけて、テアの顔を覗き込む。
「そいつは? 一緒に来なかったの?」
テアはわずかに身を引いた。
「あ、はい。たぶん、私と別れたあとも街に残ったんだと……」
「……そ」
ヤンはそのまま暫し黙りこんだ。ミケーレが窺う。ヤンがアクスリー出身だということを思い出していた。
「知り合いか」
「かもしれないっす」
ミケーレは「そうか」と言って、落とされたという都市について再び思考を巡らせた。
「早朝に攻め入られたってことは、夜のうちに接近してきたのだろうが……。いくら半竜人が混ざっていたとは言っても、そう少ない数で制圧されるような街じゃない。それに、周囲は広範囲に渡って平原。夜通しで行軍してきたのだとしたって、少なくとも前日の夕暮れ前に軍影くらいは見えたろうに」
「見張りを置いていなかったとか」
ボリスが言った。ミケーレは首を横に振る。
「いくらなんでも、それはないだろう」
ヴィンツ侯爵は慎重な様子でテアに問う。
「アクスリーが“占領”された、と貴女は仰ったらしいが、それはアクスリーの権力が敵に渡ってしまった、という事を意味する。アクセル殿が不在であった以上、判断は彼の息子に委ねられていたはずだ。エヴァルトは敵に降伏したのか?」
「違います! あの方はそんなこと――」
テアは勢い込んで答えたが、言葉尻は弱々しい。彼女は小さく震えだし、やがて瞳が潤みだす。テアは目元を抑えながら続けた。
「でも、エヴァルト様の御首が、城前に――提げられて……!」
一同は息を呑んだ。
「あの方は人民の身代わりになられたのです! まだ、まだお若くいらしたのに……まだ幼くて、私の弟と同い年で……、ああ、なのに――!」
テアは目を見開いたまま涙を流した。彼女の瞳の内には、悲しみよりも強烈な絶望があった。
「三方の城門は閉ざされて、誰一人として街からの脱出は許されませんでした。けれど、一箇所だけ抜け道があった。私を助けてくれたその人が教えてくれました。私はそこを通り、街の北側へ出て、そのあとは無我夢中で走ってここへ」
テアの話はそこで終わった。だが、暫くは誰も口を開かなかった。次期アクスリー伯爵家当主の命が、潰えている。娘を失い茫然自失へ陥っているアクスリー夫妻が、その上息子まで失ってしまったことを知ったとしたら、彼らはどうやって立ち直ることができるだろう。
女騎士は終始俯いていた。彼女は己を責めているに違いなかった。重苦しい空気の中、ヴィンツ侯爵が口を開く。
「アクセル殿たちが襲われた場所は、ヴィンツ南東に馬で約一日、といったあたりだ。アクスリー騎士が五十、フォーマ兵が約七十。遺体回収班によれば、いずれも並の域をでない体格の者たちだったとのことだ。アクセル殿もとくに言及はしておらんかったので、彼らを襲った中におそらく、半竜人はいなかっただろう」
ミケーレは思案顔でいたが、ひとつ頷くと話しだした。彼はファーリーンの兵を本格的に動かす用意が必要だと感じていた。
「偵察隊が帰還次第、我々の中から伝令をリラへ送ります。――ルートヴィヒ陛下があちらに向かわれているので――、それと、ザルツにも……いかがです?」
「それがよかろうな」
そして、侯爵は何度目かのため息を吐いた。
風の騎士団(3)
テアの身柄は侯爵のもとで保護された。騎兵たちは城を出て、中央広場へ引き返した。
朱色に染まった街並みを並び歩く五名の騎兵は、先の話し合いの続きを話題にしていた。
「なんか、あのテアさんって気の毒だな」
「だなぁ」
エイダンが言ったことに、兄ワイアットが同意を示した。苦労してこの街へやって来たのだろう。しかし頼った相手が悪かったのか、順調に報われたとは言いがたい。先頭を歩くミケーレは、前を向いたまま唇をひねった。
「なぁんか、引っかかる」
彼の部下たちがミケーレの背に視線を向けた。
「テアがここにたどり着いたときには、見た目からして相当疲弊していたはずだ。一見して分からないはずはないだろう。そんな状態の人間が訴えることを一考せずにいられるか? まして、あの女騎士……ああいうのは絶対にそういうのを放っておけないタイプだ」
「さすが隊長! 人を見る目があるっすね!」
ヤンが賞賛した。しかしワイアットはむっとした顔で不満を示す。
「えぇ? でも俺らの見分けつかないじゃないですか」
「それはそれだよ」
ミケーレは悪びれずに答えた。本当のところ、ミケーレにこの双子の見分けはついていた。しかしなんとなく、からかうネタとしてとっておきたかったので、彼はまだ黙っておきたかった。それに、ワイアットもエイダンも、互いに間違われることを本気で嫌がっているわけではないように見えるのだ。少なくとも、今のところは。ミケーレは首を背後へ回した。
「なぁ、誰か探り入れてこい。こう、色仕掛けみたいな感じでさ」
「またそういうこと……。あまり笑えないんですけど」
ボリスは生真面目に返した。ミケーレはその想像通りの反応に笑いを噛み殺す。
「本気だし、通用するって。お前らそんなに悪い見かけじゃないから」
「隊長も悪くないですよ」
ボリスは押し返した。ミケーレはわざとらしいため息を吐いた。
「俺はあの騎士とはちょっと歳が離れてる。おじさんは若い子の話についていけないんだ」
「でも明日にはまた“お兄さん”になってるんでしょう?」
エイダンが淡々と言った。状況に応じて歳をとったり若返ったりしていることを咎められてしまった。ミケーレは眉をしかめる。
「なんか今日、あたり強くないか?」
「いつもこんなもんっす」
ヤンがどうということはなさそうに言った。
中央広場にミケーレたちが到着する頃には、ほとんどの騎兵が既に集合していた。ミケーレは必要な報告を受け、今後の予定を伝達した。夕食は各自街内で摂り、寝床は侯爵が開放してくれる城の一角を使わせてもらうことになっている。
隊長としての本日の役目を大方終え、ミケーレは達成感を天と共有した。夕日はほぼ沈み、群青の空に星が煌めいている。
ミケーレは大通りに面する飲食店へ足を踏み入れた。清潔感のある店構えだ。店内の客も行儀がよく、酒の匂いも薄い。
「隊長、席ご一緒してもいいですか?」
ミケーレの後ろをついてきていたらしい双子の片割れが声を掛けてきた。ミケーレは周囲の客が飲み食いしているものを眺め、今晩の食事の内容を検討しながら頷いた。
「構わない」
「よかった」
そっくりの二人は同じ仕草で胸を撫で下ろした。適当な席に着いたミケーレのあとから、向かい側に二人並んで腰掛ける。
「俺ら二人だと、なんだかよく絡まれるんです」
ワイアットが声を潜めて言うのに、ミケーレは右の口角を上げた。
「そりゃお前、絡みやすそうな顔してるからだよ」
「そうですか?」
エイダンが先に反応した。
「小さい上にそこそこお行儀のいい感じだから、たかるのに丁度よさそう」
「小さくないですよ」
ワイアットがむっとしたように答えた。ミケーレは構わずに店員を呼ぶ。素早く注文を聞きに来た少女に、エールと仔牛肉の揚げ焼きを頼んで、双子の方を向いた。
「客観的に見てさ、大きい方じゃないだろ。べつに良いじゃないか、ち……小柄だって。軽騎兵向きの体格だぞそれ。チビは才能だって、誇り持って」
「全然慰められてる気がしないし、チビじゃないって言ってるのに」
「でかい気持ち持つのが大事」
双子は眉をひそめていた。注文を聞きに来た少女は、双子の騎兵の言葉を待っている。エイダンが兄の分もまとめて告げると、少女は厨房へ早足で戻って行った。
「お子様舌だなぁ」
ミケーレはにやにやとしながら双子をからかった。ワイアットはフンと腕を組んだ。
「好きなもの食って何が悪いんです?」
ミケーレは指をぱちんと鳴らす。
「そうそう、そういう気持ちな」
双子の部下を褒めたところで、ミケーレは思い出した。彼らが船舶中に規定の回数以上胃の中身を口から出さなければ、何か奢ってやると言ったのだ。
「おい二人とも、今日の夕飯は俺が奢ってやるぞ」
「わあ、本気だったんですか」
エイダンが感動したように言った。そして二人はひそひそと耳打ちし合った。
『じゃあ、もう一品頼んでも?』
双子は完璧すぎるくらい同時に言った。ミケーレは懐具合を表すように親指と人差指で輪を作って見せる。
「あまり高級なものは勘弁な」
一足先に飲み物が運ばれてきて、暫くすると料理が届けられた。ワイアットとエイダンは、店に入った当初から目をつけていたらしい甘味を追加で頼んだ。
一方、ヤンは女騎士の自宅周辺で張り込んでいた。日はすっかり暮れたものの、未だ人通りは多い。高階層で建てられた民家の壁には街灯が取り付けられていて、手元は十分見える。頭上から橙色の光を浴びながら、ヤンはのんびりとその道を歩いていた。
やがて、待ち構えていた人影が向かいからやって来た。顔は判然としないが、立ち居振る舞いは間違いなく目当ての人物だ。ヤンはいかにも偶然会った、というさまを装って声を掛けた。
「あ〜! 昼間はど〜も! 今から帰るの?」
威勢のよい声に、女騎士は驚いていた。見覚えのある騎兵の姿を正面に捉えると、彼女は片手を挙げて返した。陽気な騎兵はパンを片手に手を振っている。肉と野菜を挟んだそれは、ヴィンツの若者に支持を受けている代物だという。ヤンは愛想のよい笑みを浮かべて、騎士の方へ寄った。
「これさ、初めて食ったんだけど結構腹溜まるんだね。予想外だった。食べる?」
ヤンは紙袋の口を開いて見せた。手を付けていない物が、ひとつ入っている。女騎士は肩を竦めた。
「明日の朝食にしたらいかがですか」
「明日は別のもの食いたい。俺、これに直接触ったりしてないよ? お店の人は触ってたけど」
ヤンの言動はあっけらかんとしたもので、女騎士はやや表情を和らげた。
「いいんですか?」
ヤンは食べかけの方を齧って、ふごふごいいながら答える。
「いいよいいよ! 俺こう見えて高収入なんだ。聞いて驚くな? なんと! 持ち金であと二十個くらい買えちゃう!」
女騎士はくすりと笑った。陽気な騎兵は彼女より幾つかは年上の青年に見えるのに、中身はむしろ年下に思えた。
「じゃあ、ありがたく頂戴しておきます」
「どうぞどうぞ」
ヤンは袋ごとモノを女騎士に押し付けた。少しばかりヤンへ心を開いた様子の女騎士は、表情を緩めたまま尋ねた。
「それで、御用は?」
「う?」
一応、偶然会ったふうを装ったが、そこは見抜かれていたようだった。しかしヤンは特に意表を突かれた様子もなく、自分のペースを崩さない。
「んーとねぇ……あ、ごめん君名前なんてったっけ? 俺はね、ヤンってんだけど」
「エーディトです」
「エッちゃんか、おっけー覚えた!」
唐突に愛称で呼ばれたエーディトは、わずかに顔をこわばらせた。
「エッちゃん……」
ヤンは目をくりっと開いて肩を竦め、サッと踵を揃えた。そして声音を変えて言った。
「お気に召しませんでしたか。もし当方の口調、及び動作にただならぬ不快感を伴うようでございますれば、改善の努力は致します」
エーディトはヤンを凝視した。騎兵は背筋を伸ばし、かしこまっていた。しかし目は悪戯小僧のようにきらきらしている。エーディトは、ヤンがふざけているのだと理解した。彼女はふうと息を吐いた。
「べつにいいです、エッちゃんでもなんでも」
許可が下りるなり、ヤンは普段の調子に戻った。
「あのね、聞きたいことあんのね」
「なんでしょうか」
ヤンが道の端の方へ移動すると、エーディトは彼についてきた。
「テアちゃんから話し聞いた時さ、すぐに他の人に伝えなかったんだよね? なんで?」
エーディトは「ああ」と言って、軽く唇を噛んだ。
「私の判断が甘かった。私の怠慢です。然るべき責任は負います」
「怠慢?」
ヤンが反駁すると、エーディトは頷いた。ヤンは肩を竦める。
「俺さ、故郷がアクスリーなんだよ。だからあそこには結構思い入れがある。今どうなってるのかな……。はぁ、……怠慢かぁ。テアちゃんが『偶々』頼った相手、随分都合よく怠け者だったんだなぁ」
「私が敵方と通じているとお考えですか」
硬い口調で尋ねてくるエーディトに対し、ヤンは首を傾げた。
「さあね。俺君のことよく知らないし。でもアッチからしたら、いい感じに時間稼ぎしてくれた人だよな、って話」
エーディトはヤンから目を逸らし、無言で俯いた。口を引き結んで、何かを考えていた。ヤンは軽い調子で息を吐いて、頭の後ろで手を組んだ。
「俺みたいなちゃらんぽらんが『怠けましたぁ』って言ったら皆信じるかもしれないけど、いかにもマジメそうな人が同じ事言ったら、なんか変な感じしちゃうんだよ。些細な事ならさ、『まぁそんなこともあるかぁ』で済むかもしれないけど、今回の件はそんなことないでしょ」
ヤンは右手の人差し指をテアに突きつけた。
「ハッキリ言おう。君、怪しい」
エーディトは深く息を吐いた。微かに顔を上げる。再びヤンへと向けられたその表情には、どこか縋るようなものがあった。
「私は変ですか?」
「変だよ」
ヤンはきっぱりと頷く。その肯定の言葉に、エーディトは心なしか安堵したように表情を緩めて、再び俯いた。
「本当のことを言うと、言い訳をしているみたいで……」
「俺はね、言い訳に寛容なんだ」
ヤンはあっけらかんと言った。淀むような沈黙のあと、エーディトは自信なさげに、ぽつぽつと話しだす。
「自分でも、どうして、って思います。彼女は土埃にまみれていて、疲れきっていて、取り乱していた……。それが演技だとか、そういうふうにはとても思えなかった。あの時も、私はそう感じました。だから放っておけなくて……なのに…………。私、どこか本気にできなかったんだわ。本気で、彼女の話を聞いていなかったんです。どこか他人事のように感じていた。助けてあげなきゃって思ったのは本当なのに……っ」
エーディトは潤む瞳を見られたくなかったのか、ヤンから顔を逸らした。ヤンはエーディトの肩を叩く。
「うん、テアちゃん君に感謝してたよ」
エーディトの涙腺が決壊した。地面にしずくがはたはたと滴った。エーディトは口元を抑えて涙をこぼした。
「私、一体何してたの……!」
彼女自身が、自分の行動を理解できずにいるようだった。エーディトは幾度となく自らを責めたのだろう。涙を流すことを恥じるように俯いて肩を震わせるエーディトの背を、ヤンは宥めた。
「エッちゃん、この前アクスリー行ってたんだって?」
ヤンは穏やかに尋ねた。エーディトは頷く。
「はい……あの街が襲われたっていう日の、前日まで居ました……」
「何もなかった?」
エーディトは再度頷いた。
「何も……何もありませんでした。一緒に行った先輩方も、何も……」
そこまで言って、エーディトは目を瞠った。
「どうしたの?」
ヤンがエーディトの顔を覗き込む。エーディトは困惑の滲む表情で虚空を見つめていた。
「わたし……」
「ん?」
「…………」
エーディトがその場にくずおれる。ヤンは膝をついてエーディトの背をさすった。しかし、待てども反応は返らない。彼女は気を失っていた。あまりにも唐突でヤンは驚いたが、落ち着いた様子でエーディトの名を呼びつつ肩を叩いてみる。目覚める気配はない。
ヤンはため息を吐いて、首を掻いた。彼はエーディトの衣服のポケットを漁った。彼女の家の鍵を見つけて取り出して、できるだけつらそうなそぶりをしないように注意しながら、その持ち主を担ぎ上げた。
翌朝のこと、ヴィンツ東門の番兵騎士二人の瞳に、とある影が映った。平原の彼方からこちらへ近づいてくる影の速度はのろく、逆光に潰されたその正体を判断するのは容易ではなかった。
だがやがて、馬とそれに騎乗する人間によるものだということが判明した。馬は疲れきった様子で、馬上の人物は危なげに揺れている。
「誰だ?」
「さあ」
二人の門番は互いの顔を見合わせた。そして再び影へと視線を向ける。朝日を反射する銀の鎧に、彼らは見覚えがある。紫の瞳の騎士は目を凝らした。
「……副団長?」
「いや、まさか」
緑の瞳の騎士が反論しかけたところで、その相方は影へ向かって駆け出した。同時に、馬上の人物が顔を上げる。厳しい顔立ちと白い髭に、やはり二人は見覚えがあった。
「ラルド副団長!」
馬上の人物はその呼びかけにわずかに目元を和らげて、馬の背から転げ落ちた。
続いて駆け出そうとした緑目の騎士に、紫目の騎士が叫んだ。
「医者と伝令!」
「あわ、分かりました!」
緑目の騎士は門の中へ走って行った。
満身創痍で帰還したラルド副団長の右脚は切り落とされていた。
そして、ヴィンツ騎士副団長率いる第一連隊は、壊滅したという。派遣された本隊は、アクスリー南東のミロウ跡地にて待機していた。副団長は少数の兵をアクスリー内へ送り込み、市内の状況を偵察させた。生き残っているアクスリー騎士団と接触を試み、今後の動向を決定する予定でいた。
しかし、二日経っても偵察部隊は帰還せず、代わりにミロウ跡地へやって来たのは、武装した半竜人約七百。四分の一の数の相手に、騎士団は抵抗もままならず殲滅された。
おそらく、副団長が送り込んだ偵察部隊は敵に捕まり、拷問に掛けられるなどして本隊の場所を話してしまったのだろう。もちろん、ラルドはその可能性も考慮していたし、隊の中で最も意志の強い者を選んだ。
アクスリーは完全に陥落していた。もはや近隣都市のみで協力したとて、かの街を取り戻すことは困難に思えた。
不気味な鐘の音が鳴ろうとしている。今再び、血と肉の飛び交う憎悪の時代が、すぐそこまで近づいてきていた。