――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

第三章
魔道郷

   魔道郷(1)

 かの赤き荒野のただ中に聳える塔。その名を“リラ”という。その御下に広がる街並みも含め、帝都リラは純白の姿を持っていた。中央の〈白の都〉は、その塔の如き『城』を抱き、リラの遥かな高みの頭頂部から降り注ぐ淡紫の微光に照らされている。光を放つのは『古代魔道の陣』。それは現代においても未だその機能を保持し、絶対的な安定力で『三大国』の一つたる“アルディス”の都を守護し続けている。

 赤き荒野では、とうとう生命の息遣いを感じられることはなかった。そこは、完全なる荒廃を極めた、更にその先に至る境地だった。乾いた赤錆の大地の上には、冷たい風が吹き流れ、細かな砂を巻き上げる。ただ、それだけだった。黒雲の覆う空には、昼に〈太陽ソール〉が顔を現すことはない。夜に星がきらめくことも、〈アルブス〉が下界を覗き見におわすことも、決してない。そこは常夜でありながら、夜に在るはずのものは“闇”以外に何一つ存在しないのだ。

 そんなさなかに浮かび上がる“白”の、なんと神秘的で、奇妙で、おぞましく、神聖めいていることであろう。

 命を落とした騎兵は、ヤーガの岩々の狭間で眠っているはずだ。足場の悪い道程は、鍛え抜かれた者たちにとっても楽なものではなかった。そして、おそらくヘルムートという人物は、誰かの手を煩わせてまで進むことは望まなかっただろう。主に剣を返すという行為が、彼の意志だった。王より託された剣――それはルートヴィヒ王の父、先王エミルが与えたものだった――を手放すこととは、“騎士”の位を退くということ。“忠誠”を放棄し、主に付き従う義務をも放棄する。つまりは、そういうことだった。

 そしてルートヴィヒは、一刃のうちにヘルムートの首を刎ねた。この上もない温情だった。

 捕えた襲撃者の一人は、戦闘後のその一件から間もなくして目覚めた。彼は己のおかれた状況を察し、大人しくこちらの指示に従った。痩せたその青年の名は、ジーメオンというらしい。フォーマの一都市である“ヘザー”の生まれ育ちで、そこの義勇軍に志願したらしかった。しかしながら、装備はあまりに心もとなく、まともな軍事訓練を受けた経験もなかったようだ。ジーメオンに限らず皆がそのような状態で、いくら数が多かったとはいえ、ファーリーンの王属騎兵の近衛と〈剣王〉に挑むというのは、無謀に過ぎた。

 目的地を遮るもののない荒れ野を、一行は進み、やがて帝都リラを間近に望んだ。わずか半マイルほど先に立つ、リラの城を仰ぎ見る。

 恐怖心を引き出されるほどに、リラの背は高かった。自然が生み出したヤーガの頂き、おそらくそれらの半ばほどまでしか天辺は届いてはいないだろう。しかし、それが『人工物』だと考えたならば、リラの姿はあまりに非現実的な産物でしかない。

 ――魔境の大地に突き刺さる、聖剣――

 昔の詩人がそのように言い表したことがあったというが、言い得て妙だった。

 リラ城を頂く〈白の都〉へ、ファーリーンの国王一行は足を踏み入れようとしていた。門を守る二名のうちの一人が、こちらへ歩み寄ってきた。白を基調としたトーガと、暗赤色の地に金の線で装飾がされた上掛け。リラの『魔道士』であることを表すその服装に身を包んだ若い女性は、長い杖をついて、やがてルートヴィヒ王の前へと立った。そしてゆったりとした動作で、いかにもリラ人らしい礼をした。

「お待ちいたしておりました。しかしながら、先にいらした遣いの方々から伺いましたお話では、近衛の方はたしか十名と……」

 ルートヴィヒは静かに頷いた。

「その件も含め、皇帝陛下へお伝え申し上げたい」

「承りました」

 門番の女性は更に低頭して言った。そして姿勢を戻して、一行を〈白の都〉へと導いた。

 もう一人の門番の男性は、門扉に描かれた魔法陣になにやら手を加えていた。彼は幾何学模様に向かって一礼し、それに両手をかざした。

 門は誰に引かれるでもなく、ひとりでに重い音をたてながら開いた。門番の男性は横に退き、ファーリーンの客人たちに向かって頭を下げた。勝手に動く石の扉を眺め、何人かのファーリーン人は遠慮がちながらも顔をこわばらせた。

 リラの城下町は、外から見て受ける印象ほどには浮世離れしていないようだった。ただ、目が痛くなるほどに白く、魔法陣の色付きの光によってあらゆるものの元来の色が上書きされていた。慣れぬうちは、気持ちが落ち着かないことだろう。しかし、そこに住まい生活を営んでいる者は“人間”に他ならないのだ。異なる文化・風習の中に身を置いたとて、それは変わらない。

 〈白の都〉の中央を通る街道の先に、リラ城の入り口がぽっかりと口を開けていた。

 ファーリーンの王がその道を歩いていれば、やはり人々は集まってくる。隣人との会話の声が、あちらこちらから聞こえてくる。しかし、どこか静寂としていた。リラ人の話し声はさわさわと控えめで、動きもどこかゆったりとしている。ファーリーンの客人たちに対して好意的であるのは確かのようだが、それを分かりやすく態度には表さないのが信条らしい。ともあれ、伝説上の種族“エル”のように、全くの無感情というわけでは決してないようだった。

 継ぎ目のないリラの城壁は、一体いかようにして造られたものであるのか。理解の及ばぬ魔道の技術に、ファーリーンの民は寒気を感じた。そんな彼らを魔道に対する嫌悪からすんでのところで護っているのは、先日ルートヴィヒの魔道術によって明かりをもたらされた、あの一件の記憶だった。王への信頼の方が、魔道へのおそれよりまさっていた。

 リラ城の外壁には、螺旋状に回周する階段が設置されているが、それが通用路として用いられるわけではない。高さ千ヤードにも及ぶリラ城には、魔道の叡智が詰まっている。城の入り口は、半円形にくり貫かれた穴で、そこには扉もなければ警備の者もいない。

 国王一行は、ようやくリラ城内へと足を踏み入れた。

 魔道術による光源が、内壁のあちらこちらに備え付けられている。数多の白色光は、リラ城の玄関口を明るく照らしあげていた。外観と同じ、純白の石壁が環状に巡る。天井は高い。そして殺風景だった。上階が存在しているはずだが、そちらに上がるための階段やはしごは見当たらない。

 魔道士の女性は、部屋の中央に置かれた白い円盤に乗り上げた。ファーリーンの客人たちにもそうするよう促す。ルートヴィヒが初めに足を乗せ、その後おっかなびっくりといった様子の騎兵、項垂れたフレデリック、辺りを見回すアルベルトの順で乗った。

 円形の巨大な岩盤の一面には、黒いしみのようなものが滲んでいた。よく見てみれば、それは一定の規則性を持った“文字”と“図形”で構成された魔法陣だった。盤の隅の方には、これもやはり白色をしている台があって、その上面にもなにやらそれらしきものが描かれていた。案内人の魔道士は、台の魔法陣の上に彼女の杖を飾る宝石をかざした。

 すると、彼らの足下のしみのような模様が、淡い橙色の光を放った。それと同時に、全身を押し潰されるような息苦しさに襲われる。よろめきながらも周りに目をやれば、おかしな事に気がついた。壁が動いているのである。上から下へと、白壁の微かな模様が流れてゆく。壁ではなく、自分たちの方が動いているのだ、ということにファーリーン人達が気がつくためには、しばらく必要だった。

 彼らを支える岩盤が上昇し、捕虜のジーメオンは驚愕と怯えを隠そうともせず、カルテンに捕まえられた状態で腰を抜かしていた。

 しばらくその奇妙な魔道装置に身を任せていると、やがて体がふわりと軽くなった。壁の流れが緩やかになり、そして完全に停止した。案内役の女性に言われるまま、宙に浮く岩盤からリラ城の床へ移動する。

 安堵の息を吐きながら辺りを見回せば、やはり白いばかりだ。昇ってきた岩盤を囲む広場は円形で、壁際には幾つもの扉が備わっている。縦に三段連なり広場を周る通路、それに上るための階段もあった。

 自らも生粋のファーリーン人であるにも拘らず、魔道の叡智に全く驚かされた様子のないルートヴィヒは、ある方向を見て頷いた。従者達が王の視線を追えば、一人の巨人が歩み寄ってきていた。

 槍を携えた巨人の男は、ルートヴィヒの前に跪いた。それでも、その男の頭頂部はルートヴィヒの胸まであった。

「国王殿下よ、ようこそ御出くださいました。謁見は滞りなく、半刻ほどお待ち頂けますれば。……皇帝陛下が御身を案じておられました」

 ルートヴィヒは予定より到着が遅れたことを詫びた。そして巨人の男に顔を上げて立つように願った。男はそれに応じた。彼はルートヴィヒの後ろに並ぶ同行者たちを一通り眺める。

 巨人の男は、その落ち着き払った雰囲気に反して若々しい外見をしている。背丈は七フィートに、更に半フィート足したくらいあるように見える。長めの黒髪を簡易的に束ね、露わになった耳は尖っていた。そして、虹彩は金色に煌めき、黒い瞳孔の周囲は空色に縁取られている。竜人系の人物であることは一目瞭然だった。翼を持っていないことから、半竜人であることも同時に判明している。

 彼は若くはりのある声音を用い、老成したような口調で言った。

「お初にお目に掛かる方が多くおられるようだ。私はレイアスと申すもの。見ての通り、半竜半人の民。皇帝陛下の護衛の任と、相談役を担っておる。以後お見知り置き頂きますれば」

 近衛長のコンラートが代表して握手に応じた。

「貴殿のお噂は、かねてよりお伺い致しております」

「その噂というのが、私にとって好ましい内容のものであることを願う」

 レイアスは笑いながら言った。そしてここまでファーリーンの国王たちを案内してきた魔道士の方を向く。

「ご苦労だった。ここより先の案内は私が引き受ける。貴女は持ち場へ戻るとよい……ああ、暫し待ってくれ」

 半竜人の男は近衛騎兵アレンを一瞥した。

「医務室まで、彼に付き添ってからにしてもらえるか」

「え、ええ、はい」

 魔道士の女性もアレンを控えめに眺めた。しかし、彼女にはアレンが他の者たちと比較して何か変わった様子があるようには見受けられなかったようだ。当のアレンは右手を顔の前にかざし、小さく振った。

「お気を煩わせるほどのものではありませんから……」

「フレデリックも足を診てもらったらどうです」

 アレンの遠慮を無視するように、ルートヴィヒが提案した。フレデリックは急に話し掛けられたことで飛び上がった。おどおどと顔を上げたが、彼はうんとは言わない。ルートヴィヒはレイアスと魔道士に言う。

「彼も足を傷めております。手当を受けさせて頂いても?」

 ルートヴィヒが伺えば、レイアスは頷く。承諾を受け取って、ルートヴィヒはアレンの方を向いた。

「あなたが医務室に行くと言わねば、フレデリックも行けませんよ」

 アレンは静かに笑った。

「分かりました。お願いします。さあ、フレッドさん、行きましょう」

 アレンは歩き出した魔道士の後ろに付き、保護者のようにフレデリックに手を差し伸べた。しかし少年はその手をとることはなかった。フレデリックはルートヴィヒたちに一礼して、ひょこひょこと危なっかしく、アレンの二歩後ろを付いて行った。

 三人を見送ってから、レイアスは広場の二階にある一室へ一行を通した。中へ入れば、そこには先客がいた。

「陛下ぁ」

 王属騎兵の装束に身を包んだ男が二人と、女が一人、白い壁に囲まれた明るい室内の長椅子に座っていた。淡い茶髪を青色のリボンで束ねている女騎兵が、ルートヴィヒの姿に気づいて声を上げ、立った。その声につられた二人も素早く反応する。三名はルートヴィヒに敬礼しながらも、隠し切れない安堵の表情を浮かべている。女騎兵とよく似た顔立ちの青年騎兵が、目を大きくさせながらややのめりがちに言う。

「ご無事でありますか!? 我々、陛下はきっと昨日のうちにはご到着なされるものと思っておりました……」

「心配を掛けました。エシュナ大橋が崩れてしまって、通行ができなくなってしまったので」

「それはまた……」

 黒髪の騎兵が眉根を寄せる。

「では、山脈を越えておいでになられたのですか」

「そう。ひとまず座りましょう。先遣の任、ご苦労でしたね」

 ルートヴィヒは上座に掛け、目下の者たちに手ぶりで着席を許し、促した。レイアス以外の者たちが席についた後、女騎兵がロープに巻かれて床に胡座あぐらをかいている青年、ジーメオンをちらりと見、自信なさげに肩を竦めて王に尋ねる。

「陛下、ヘルムート様とアレン殿……フレデリック様は、ご一緒ではなかったのですか?」

「ヘルムートは亡くなりました」

 その返答は唐突で、口調は平坦だった。先遣隊の三名は、王のその言葉を理解することに手間取った。いやに長く感じられる無言の数秒間。女騎兵とよく似た顔立ちの騎兵が、呆然と首を横に振った。

「ヤーガ越えの途中、フォーマからの襲撃を受け負傷しました。特にヘルムートは重傷で、身動きが取れず、処置の施しようがありませんでした。……アレンは医務室におります。フレデリックも、足を傷めていたので、そちらに」

 ルートヴィヒは淡々と述べた。レイアスの足元のあたりに座っているみすぼらしい青年を、先遣隊の者たちは眺めた。黒髪の騎兵は短く歯軋りしてから、誰に尋ねるともいえない調子で呟いた。

「彼が、その襲撃者の一員だったのですか」

 ルートヴィヒは黙って頷いた。黒髪の騎兵は捕虜を暗く睨んだ。ジーメオンは自分には関係がないとでも言うように、しかしどこか居心地悪そうにそっぽを向いた。黒髪の騎兵は納得がいかない様子で、拳を握った。

「このような輩に父が傷を負わされるとは、自分にはどうにも信じられません」

 親友の息子の反論に、エリアスが答える。

「彼が相手にしたのは“戦士”だった。やつは首を落とさぬ限り、手足を失ったとしてもまるで堪えぬとでもいうような様子だった。近衛が二人で掛かっても、あやつには膝をつかせることさえできなかったのだ」

「そんな……」

 茶髪の青年騎兵が呻いた。沈鬱な空気が室内に満ちる。そんな中で、ルートヴィヒは普段と変わらない気配をまとい言った。

「ひとつ、言っておかねばならないことがあります。彼に止めを刺したのは、だということです」

 その場を更なる緊張で凍りつかせるほど硬質で、それでいてこれ以上ないほどの穏やかな口調で、彼は言った。先遣隊の三人をはじめ、近衛らも息を呑んだ。ヘルムートの息子は、その黒い瞳を瞬かせることもなく、じっと王を見つめた。

 やがて黒髪の騎兵の瞳から、隣国のあわれな“兵士”たちと、見も知らぬ“戦士”への憎悪が姿を潜めてゆく。彼は王から視線を外し、ふっと息を吐き、笑った。

「……ならば、よかった」

「『よかった』?」

 ルートヴィヒが、黒髪の騎兵の呟きを反芻した。騎兵は安心したように肩の力を抜き、頷いた。

「陛下の御手で送って頂けるなど、この上もない栄誉でございますから……」

 しかし、そこまで言うと黒髪の騎兵は俯き、小さく肩を震わせた。

 ルートヴィヒは、父の死に悲しむ騎兵の姿を、静かに眺めていた。

   魔道郷(2)

 アレンは、彼が周りの者達に思わせていた以上の重傷を負っていた。胸骨に罅が入り、肋骨との継ぎ目の部分が四箇所も外れ、その内の二箇所は折れていた。あの場で応急処置を施したのはハインリヒだったが、それがせめてもの功を奏していた。折れて外れた骨は、比較的正常な位置に留まっていた。アレンが痛みをあまり訴えなかったのは、亡くなったヘルムートをおもんばかった為だろうが、いずれにしてもこの状態で二日間も悪路を歩いたというのは、リラの医師を呆れされるのには十分だった。彼は暫く絶対安静を言い渡された。

 医務室から戻ってきたのはフレデリックだけだった。彼もまだ少し歩きにくそうだ。フレデリックはあの襲撃以降、思いつめたような顔で口を噤んでいる。

 それから間もなくして、ファーリーンの国王一行は謁見の間へと案内された。ルートヴィヒ王と、彼に付き従うアレン以外の近衛騎兵、フレデリック、リラの衛兵に預けられたジーメオンと、アルベルト。

 白い昇降盤に再び乗り、更なる上階を目指す。この魔道装置を動かすことができるのは、リラの皇族と、彼らに認められたごく一部の人間のみだ。あまり魔道に詳しくないと主張する半竜人のレイアスだが、この装置の扱いには手慣れた様子だ。ファーリーンの客人たちを乗せた盤は、彼が動かしてくれた。

 竜人の体高は一様に八フィートを超え、十フィートを超す者もいたという。かれらは誕生以降から五十年の歳月を費やし成長する。竜人の母と人間の父のあいだに生まれる半竜人の成長と老いの過程は、人間よりも竜人に類似している。かれらの青年期は、純粋な竜人と等しく二百年間に及び、また容姿も翼がないことを除けば、おおよそ竜人の特徴を備えている。幾分小柄にはなるが、それでも並の体格を持つ人間と比較すれば二頭身程度の差がでる。レイアスの存在感は相当のものだ。

 昇降盤は無音で昇り続ける。囲いのない盤の淵からは下部が見下ろせるが、いまや地上より数百ヤード上空にあるこの足場の下は、完全なる空間だった。十三人を乗せた盤は、上から吊られているわけでも、下から押し上げられているわけでもない。少なくとも、ファーリーン人にはそうとしか見えなかった。その、目に見えない力というものは、騎士国の彼らにとってはまったく信用のならない怪奇だった。いつ怪奇が気まぐれを起こしてこの盤を支える仕事を放棄するのか、気が気でない。

「三十階層目です」

 リラ城の床に接して停止した版から降り、レイアスが言った。全五十階層からなるリラ城は、一階層からして広大な造りをしている。この三十階層目の天井は、他の階層以上に高い場所にあり、広い円形のホールには幅広の石段があった。その頂上には、赤や金で装飾がなされた巨大な扉が構えている。〈赤き荒野〉の中心にあるリラが目立つのと同じように、白色のリラ城の中にあるその扉も目を惹いた。両脇には二名の衛兵がいる。その扉の先が謁見の間だった。

 レイアスが先頭に立ち、石段を上る。それにルートヴィヒが続き、従者と同行者らがその後ろに続いて行った。

 扉脇の衛兵が、手のひらに収まるほどの大きさをした翠の石らしきものに向かい、何かを囁いた。三拍ほどおいて、両開きの扉が謁見の間の内側に向かって開いて行く。中にいる衛兵らが、数人がかりで取っ手を引いていた。扉が完全に開ききってから、彼らは中へ踏み入った。

「騎士国ファーリーンより、ルートヴィヒ国王殿下ご一行の御成り」

 謁見の間に入るなり響いたのは、そのような口上だった。反響しながら天上へ昇ってゆく声は、もとはどこから発声されたものなのか判然としない。室内は神域めいていた。礼拝堂の雰囲気に限りなく近い。距離感のつかみにくい空間は、漠然と“広い”ということだけははっきりとしていた。彫り物がされた円柱は高すぎる天井を支えるということをせず、巨大な装飾品としてだけ存在している。壁の高い位置には硝子の窓が張られているようだ。陽光とは縁遠い環境におかれるリラ城、しかし城の内部は粛々と明るかった。謁見の間では、全てのものの影が淡かった。この空間では、光は全ての方位に反射し、上から照らされれば下に落ちるはずの影は、下から跳ね返る光に半ば打ち消されている。

 白い石の床を歩き進む。やがて、先頭を行くレイアスの足が止まり、彼は前方へ一礼した。長い低頭のあと彼は再び顔を上げ、玉座へ続く階段の半ばに立ち、ここまで導いてきたファーリーンの一行へと向いた。

 ルートヴィヒは腰に佩いた双剣を鞘ごと取り外し、左手に持って、さっとした動作で床に片膝をついた。そして頭を下げる。

 皆がファーリーン王と同じように跪き低頭するなか、アルベルトだけがぼんやりと突っ立っていた。彼は辺りをきょろきょろと見回している。そんな彼の袖口を、フレデリックが引っ張った。どうも鈍いが、察しが悪いというわけではないらしく、アルベルトも他の者達と同じように膝をついた。しかし低頭はしなかった。彼は無遠慮に恐れげなく前を向いて、玉座に座る人物を見ていた。

 玉座に掛けるひとのおもては、寒気がするほどに美しいものだった。非現実的で、不気味なくらいに整っている。よわいをかさね、薄く刻まれた皺を鑑みたとしても――、否、むしろその老いの証こそが、彼の整いすぎた容姿をより強調しているのかもしれない。その肌も髪も白く、ベルンの教会堂の白鴉はくあの神像を思い起こさせる。

 そう、まさに彫刻のようだった。それは、乳白色の石を丹念に削って造られた彫像が、両の瞳にそれぞれ〈赤石ルベウス〉と〈青石サフィルス〉を埋め込まれ、そしてその永遠に凍りついているはずの“時間”を打ち壊し、動き出したかのような――到底、現実味を感じられない光景だった。彼の容姿からは、生物の温度が感じられない。

「この度は、我が宗主たるアルディスの帝、ヴァイス様より御拝謁の場を賜りまして、まことに恐悦至極の限りでございます」

 ルートヴィヒは跪いたまま言った。アルディス皇帝ヴァイスは、ゆったりと頷いた。

「よくぞ参ったな。しかし、その挨拶はいささか堅苦しいだろう。ええ、そう思わんかね」

「……は」

 ルートヴィヒは身じろぎもせず、曖昧な相槌を打った。ヴァイスは声を上げて笑う。

「私の言いたいことは分かっているはずだぞ。しかし言葉で言われねば従えぬというなら言ってやろう。さあ、“顔を上げ、立ちなさい”。皆だ」

 ルートヴィヒは従った。彼は微笑を浮かべながら音もなく立ち、背後の連れたちにも目配せした。皆は王に従う。

 ヴァイス皇帝、彼のところだけ、時間の流れが異なっているような錯覚を覚える。まわりくどい言葉遣いに加え、話し方ものんびりとしている。しかし、それは相対する者を苛立たせるたちのものではなく、むしろ相手にも影響を及ぼし、自らの時間の流れへと引きずり込める、“偉大さ”のようだった。

 ヴァイス皇帝の左手側に、宝石を散りばめたトーガを纏う女性がいた。彼女は豪奢な座席に腰掛け、穏やかに笑んでいる。鮮やかな茶髪は高い位置で丸くまとめてある。年の頃は皇帝と同じほどだろう。そして、彼女の対となる皇帝の右手側には、ヴァイスとよく似た顔立ちの、しかし彼とは明らかに異なる浅黒い肌と濃紫紺色の髪をもった青年が座す。青年の隣には、トーガを纏う女性似の顔立ちと色合いの、かろうじて男性だろうと判断がされる程度の、中性的な容姿をした青年が立ち、更にその右手側には皇帝の隣に座している青年と瓜二つの、ひと目で彼の弟であることが分かる若者、最後にヴァイスの肌と髪の色を受け継いだらしい若い女性が、眼鏡の奥にある二つの赤い瞳を落ち着きなくうろつかせながら、一応形だけは大人しく立っていた。

「えぇと、なんだっけ? ……ああ、そうそう、あれの話だな。“夜中の光”。うん? 他にもなにかありそうだな? だが、まあ、とりあえずはその件について話してくれ、どうぞ」

 ヴァイスは一瞬とぼけて見せたあと、ルートヴィヒに促した。

 ファーリーン王子ダーヴィットは護衛を引き連れ、北方遊牧民シークの三大部族『ラザ』、『リャード』、『ティカ』の長たちが集う場に同席した。彼は不毛の土地に生きる者たちへの助力と、その見返りの約束をかわした。そして帰国の途につく前夜、リディ北部国境地帯の森の辺りに、強烈な光源をみとめたのだった。彼らは森を捜索した。

 これらを語るルートヴィヒの話を、ヴァイスは黙って聞いている。身動きせずに固まっていると、彼は本当に石像のようだ。

「森中、往路では存在しなかった横道が現れたのだ、と。しかしながら、同行していた者たちのなかには、『初めからあった』と主張する者もいたようです。詳細は、実際に息子と同行していた騎兵エリアスが説明いたします」

 ルートヴィヒは背後の騎兵を振り返った。エリアスは礼をして一歩進み出、引き継いだ。

「主よりご紹介預かりました、ファーリーン王属騎兵団所属、近衛騎兵のエリアスと申します。私は、かの横道が突如現れたようには感じず、初めからあったものと認識しておりました者の一人でございます。とは申しましても、どことなく異様な気配、雰囲気といったようなものを感じておりましたことも事実であり、“この先は危険であろう”と直感的に判断いたしました。しかし、やむをえずその道へ踏み込み、結果……なんと申しましょうか、やはりその道は異常なものであったのでしょう。これはその場に踏み入った者全員が――王子殿下も含めて――感じていたようなのですが、『時間と距離の感覚が狂った』と」

 ルートヴィヒは顔を伏せぎみにして佇んでいる。この静まり返った空間において、エリアスは少なくとも表面上は落ち着き払った様子だった。彼は続ける。

「不思議な感覚です。うまく表現するための言葉が見つかりませんが、しいて言うなら『夢の中にいる感覚』とでも申しますか……。なにはともあれ、我々は行き止まりの場所までたどり着き、そこに彼が――」

 エリアスはアルベルトの方を見て言った。だが、その少年はのんきに辺りを見回すばかりで、自分が注目を浴びていることに気づいていない様子だ。

「アルベルト」

 ルートヴィヒが静かに名を呼んでやった。そこでようやく少年は反応して、すぐさま状況を理解した。話を聞いていなかったわけではないらしい。

「はい、アルベルトです。仮名ですけど」

 彼は遠慮や畏れなど知ったふうではなく、皇帝のオッドアイを真正面から見つめて言った。ヴァイス皇帝は肘掛けにもたれて、微笑を浮かべながら見返す。ほそめられた左の紅眼は微細に揺れ、焦点が合っていなかった。しかし、右の蒼眼は見開かれ、細長い瞳孔は窄まり針のようになっている。暫しの沈黙の後、ヴァイスが声を出して笑った。彼は隣に座るトーガ姿の女性に顔を寄せて話し掛けた。

「はっはっは。なあ、カミラ。彼は私と気が合いそうだ。見ててそう思うだろう?」

「ええ、思いますわ」

 皇妃カミラは、小じわの入った柔和な目元を細めた。やわらかそうな頬が優しげにゆるんでいる。佇まいは穏やかな淑女そのものだが、彼女の話し方はヴァイスと違ってはきはきと勢いがあり、若々しく、活発な少女のようだった。ヴァイスは居住まいを正して、心から興味を惹かれたような顔をしアルベルトに向かう。

「“仮名”と言ったね。実名は分からないのか? ふぅむ、なるほど、記憶が無い状態なのだなぁ。そういうことだろう?」

「みたいです」

 アルベルトは頷いた。ヴァイスはファーリーン王へ視線を向けた。

「彼の記憶を戻してやればよいのだな? あの光との関連を見つけるために」

「はい」

「いいだろう。現場には魔道師を派遣しようかな。それで、この子の記憶解析は……うん、クラリス」

 端の方で落ち着きなくしていた皇帝似の女性は、キッと目尻を吊り上げながらヴァイスを睨みつける。

「イヤ!」

「そう言うな。この手の術は、お前の得意分野ではないか」

「イヤだったら! アタシは早く研究室に戻りたいの! 一刻も早く! いいえ、一刻も待ってられないわ今すぐによ!!」

「慎みなさいよクラリス」

 ヴァイスの傍らに掛ける皇太子エルンストが、少々呆れ顔で妹を諌める。白うさぎのような容姿のクラリス皇女は、ぷいと顔を背けてしまった。皇妃カミラ似の第二皇子クレメンスが、ほとんど男性らしさの感じられない顔を心配げに小さく歪めて言う。

「しかし、あの、父上……クラリスには……」

 ヴァイスはクレメンス皇子の方をちらりと見た。

「はっはっは。大丈夫だよ。案じすぎだ」

 彼らの間で交わされた言外のやりとりに、当のクラリス皇女はなんの関心も示さなかった。クレメンス皇子は、それ以上はなにも言わなかった。ヴァイス皇帝は背もたれに寄りかかった。

「これらの件は了解したぞ。次だ。道中なにかあったな? 話せ」

「エシュナ大橋が崩落しました」

「ほう」

 皇帝は相変わらず泰然自若としていて、全く驚いた様子はなかった。ルートヴィヒは先日ベルン侯爵らから聞いた状況と、自らの目で見て感じたことをそれぞれ話した。ヴァイスは時折頷きながら、静かに聞いていた。一区切りつくと、彼はささやかに体を伸ばした。

「古代建築はなぁ、建て直すとなるとなかなか大変だぞ。石や木を綿密な設計図に基づいて組んだのみでは、できない。接合に用いる金属の精錬技術からして、現代では再現ができぬ。あれの金具は、自然では劣化しない。計算上、潮風に一万年さらされたとて錆一つつかんのだ。まあ、実際に見てみん事には断言はできぬが、古代建築を破壊するとしたら、魔道術は不可欠だろうな。しかし、それができるほどの魔道司というと、私はそう多くはないと思うのだが……」

 背伸びして少しすっきりとした様子の皇帝は、一瞬遠い目で宙を眺めたが、すぐに戻ってきた。

「それで、大橋が通れんので、お前たちはヤーガを歩いてきたわけだ。そこであったことを話しなさい。どちらかというと、私が聞きたいのはそちらの方なんでな」

 ヴァイスは真面目な顔をして言った。ルートヴィヒは淡々と語る。ヤーガ越えの途中、中腹付近でフォーマからの襲撃を受けたこと、この場に連れてこられている青年ジーメオンはその襲撃者らの一員であったこと、一人の騎兵が命を落とし、もう一人が負傷しリラの医務室で世話になっていること、そして、その襲撃者を率いていたのが、“半竜人の子供”であったことを、ややレイアスに気を使う様子を見せつつ伝えた。死んだ騎兵の遺体はどうしたのだ、とヴァイスが問うた。ルートヴィヒは、野ざらしとなっている、と答えた。ヴァイスは静かに頷いた。

「誇り高い、ファーリーンの“騎士”どのだ。ファーリーンの地に葬ってさし上げるべきだろう。リラの僧侶をヤーガへ送ろう。そこで荼毘に付したのち、遺骨をベルンまでお送りしよう」

みかどよ、なんとお礼を申し上げればよいのか」

 ルートヴィヒは深く頭を下げた。ヴァイスは手を振って顔を上げろと促した。彼は血管の透き通る白い指先で、細い顎を撫でながらぼそぼそと呟く。

「半竜人なぁ……。竜人系の者は、子供に見えてもあなどれんぞ。なあ、レイアス」

「左様で」

 半竜人の青年は肯定はしなかったが、否定もしなかった。ヴァイス皇帝は、ロープと魔道術で拘束されている義勇軍の元一員を見つめる。

「のう、ジーメオンとやら。お前たちはヴィオール方面を経由し、ヤーガへ至ったのであろう? 王の命を狙っていたらしいが、そもそも、彼がリディを出ると、どうして分かったのだ。“ヘザー”へファーリーン王の動向が伝わってから行動を開始したのでは、遅かろうよ」

 ジーメオンは背筋を震わせた。彼はアルディス皇帝を恐れているようだった。皇帝の纏う雰囲気が畏ろしいのか、彼の人間離れした容姿が畏ろしいのか、その両方であるのか。青年は息を詰まらせながらも答えた。

「わ、わかりません……、自分は上に指示されるがまま……」

 ヴァイスはやや目元を和らげる。

「お前たちは、いつヘザーを出たのだ」

「二週間前……」

 ジーメオンがおずおずと答えた。ヴァイスは目を細める。

「二週間前?」

「ああ、いや……」

 ジーメオンは目を泳がせた。

「えっと、正確には……十七日。……たぶん」

 ヴァイスは視線を襲撃者からファーリーン王へと移す。

「ルートヴィヒ、リディを出たのは何日前だ?」

「十四日前です。十七日となりますと、私は自身でリラへ向かおうという考え自体、ありませんでした」

 落ち着いた様子でルートヴィヒは答えた。ヴァイスが笑う。造り物の神像めいた顔が、優しげのない笑みを浮かべる様子が、どれほど恐ろしいか。

「こう言っては悪いが、面白いことになっているようだ」

 皇帝はちらりとアルベルトを見やった。しかし、少年は高窓から見える外の魔法陣を興味深そうに眺めていて、この場の話にはまったく興味がなさそうだった。そしてジーメオンはといえば、彼がもっとも状況を理解できていないようで、口を半開きにして、眉根を寄せ、目玉を左右に行ったり来たりさせていた。ヴァイスはほぅと息を吐いた。

「とりあえず、色々なことはアルベルトの記憶解析を終えてからだな」

 仮の名を呼ばれた少年は外の魔法陣から目を離し、ヴァイスを見てこくりと頷いた。やはり、話を聞いていないわけではないらしい。

「では、このくらいで宜しいかな。各自とりかかってくれ」

 ヴァイスは高官たちに宣言した。白いローブや鎧をまとった者たちが、皇帝に向かって祈るように両手を組み合わせ、その後ほどいて、謁見の間から出てゆく。

「長旅で疲れたろう。今日はゆっくりしたまえ。記憶解析は明日にしよう」

 ヴァイスは言ったが、施術師を任じられたクラリス皇女はといえば、やはりツンとしていた。ヴァイスは笑い、アルベルトに謝った。

「すまないな。今日は声をかける頃合いがよくなかったのだ。寝起きの良し悪しで、一日の機嫌に影響がでる人間がおるだろう。それと似たようなものでな。明日はもう少し気を使わせるから。……では、解散しようか」

 ヴァイスが席を立った。ルートヴィヒは皇帝に何かを言おうとしたが、その前にヴァイスが言葉を発した。

「ルートヴィヒ、魔道の教師はいくらでもいるから、自由に声を掛けてくれ。ああ、ただし、『魔道士』の方がいい。『魔道師』は気難しいのでな。クレメンスでもルーカスでも、なんなら私でもいいが、エルンストは子守にかまけていたいようだから、遠慮してやってくれ」

 ルートヴィヒはごく僅かだったが確かに目を瞠った。

「やはり、陛下は私の思考をお読みになっておられるのですか」

「まさか」

 ヴァイスは笑った。

「ちと、勘がいいのだよ、勘が。大したものだろう私は」

魔道郷(3)

 夜。

 アルブスは、その姿を暗黒の雲の中に隠している。

 月光は、今宵もリラに届くことがない。かれは、機嫌のよい日には、遠くの黄昏と黎明の方角からこちらを覗きこむ。しかし、このリラに近く寄り添い見守ってくれることはなかった。青白く、ときに赤く巨大になるかれは、本日もいつも通りで、厚い雲の後ろに隠れている。

 〈赤き荒野〉の向こう、ヤーガの山脈を越えた先――ファーリーンやヴィオール、ヴァリュレイ、草原シーク、海を渡った先のアウリー、その先のグローラ、トキ、連合王国の頭上にさえも、かれはきっと、平等に清廉な光をもたらしているのだろう。ただ一箇所、このアルディスの帝都を除いて。

 〈月光の君〉が、リラの城壁から姿を現した。〈赤石ルベウス〉と〈青石サフィルス〉に、煌めきを湛えながら。

 月帝神話に登場する月の神子は、この地上に降り立ったのち人類を生み出したという。

 皇族は、月の神族の末裔。

 リラ城は、彼らのための神殿。

 太古よりそう言い伝えられてきた。神族の末裔は、できうる限り神族の血を濃く保とうとした。一族に人類の血を混ぜることを厭い、かれらはごく近い近親者同士での婚姻を繰り返してきた。しかし結局神族の末裔も、濃すぎる血の代償には抗えなかった。かれらの肉体は、ヒトでしかなかったのだ。

 だが、〈月光の君〉のその姿は、まさしく“神族”の名にふさわしかった。完全なる造形は神像のごとくで、白子の色彩はリラ城そのものだった。彼は月の神子の再来といわれ、崇められた。

「皆はなあ、すこし思い違いをしておるのだよ」

 〈月光の君〉は、祈り見上げてくる民衆を広く見下ろし、呟いた。

「私の姿がかれらにどう映っていようと、私は人間でしかない。そのように生まれつき、そして私自身がそのように自己を認識しているうえは、他者が私をどのように評価しようと、私という存在は私が思う以上のものではなく、また、それ以下でもない」

 〈月光の君〉は、傍らに立つ〈神に愛されし者〉へ向けて呟いた。

 〈神に愛されし者〉は無感情の眼差しを遠く下方へ向けたまま、何も応えなかった。

 朝。

 太陽ソールは、その姿を黒雲のうしろに隠している。

 リラ城二十七階層目、そこは〈魔道師の巣〉と呼ばれている。この階層に、魔道師以外の者が立ち寄ることはそうはない。魔道研究者たちの眼球は血走り、瞼は黒ずんでいるが、それでもカッと見開かれた瞳は図式を睨みつけている。

 この空間では、朝や昼や夜といった概念はほとんど存在しないも同然だった。魔道師はそれに関心がないのだ。かれらは何日も眠らず、二、三日食事を抜き、二、三週間風呂に入らずとも気にしない。気にかけるのは常に外部の者たちで、定期的に様子見にやってきては〈魔道師の巣〉の異常な雰囲気(と臭い)に圧倒されるのである。それでも両手を打ち鳴らし、大声で怒鳴りながら『食事をしろ』、『睡眠を取れ』、『体を洗え』などと言い、その必要性に気付かせてやろうとするのだが、大抵の場合は反抗される。魔道師という生き物は、好き勝手にやらせていたらすぐに死んでしまうことだろう。

 そんな困った魔道師の一人に、クラリス皇女がいた。彼女は魔道師の中でもとくに手のかかる存在だった。彼女の集中力というものは人並みを大幅に外れていた。実力行使といっても、皇女殿下である以上危険な手段は憚られるが、生半可な説得では救命者の方が危険を負う。以前、屈強な槍術士が彼女を動かそうとしたことがあったものの、体中に裂傷を負わされ医務室に運び込まれた。クラリス皇女の方は、完全なる無意識だったという。後に我に返った姫は泣きながら槍術士に謝ったが、かといってその件で改心はしなかった。以降、研究に熱中する彼女を説得するためには、それなりに魔道術を扱えて、強行に対抗できる者でなければならない、と結論付けられた。

 昨日、皇帝とファーリーン王の謁見に立ち会わせるために彼女を動かした人物は、皇太子エルンストだった。彼は、集中して周囲への関心が疎かになっている皇女の状態を利用し、道具などをこっそり取り上げ、隠した。あるべき場所に物が無いことに気づいたクラリス皇女が、慌ただしく振り返った瞬間、皇太子は周到に用意してあったカップ一杯の水を、妹の顔面に見舞った。ほんの一瞬たじろいだ皇女の周囲を真空状態にしたエルンストは、呼吸ができずに苦しむ妹を容赦なくひったて、〈魔道師の巣〉を後にした。

 そして本日――。

 リラの僧侶と魔道師部隊は、今朝方ファーリーン方面へ出発した。先遣隊として王らより一足先にリラへ到着していた王属騎兵の三名も、魔道師たちに同行していった。

 そして、ここは城の二十六階層目・西の二段第二の部屋。広い一室に、アルベルトを中心にしてファーリーンからの訪問者が集っていた。

 白い壁は、茶色っぽく落ち着いた色合いの布に覆われ、ファーリーン人にも馴染みやすい内装になっていた。光り輝くような白色に四方天地を囲まれている状態というのは、リラ人ならいざ知らずファーリーン人にとってはあまり落ち着けるものではない。

 随分と待っている。約束の時間はだいぶ過ぎたはずだ。

「いらっしゃいませんねぇ……」

 施術師の助手として、先に部屋に来ていた魔道師の女性が、遠慮がちに、ピリピリと空気を痺れさせているファーリーン人たちを気遣いながら呟いた。

 そして、待った。

 更に暫くして、騎兵の誰かが盛大なため息を吐いた頃、ようやく部屋の扉が開いた。姿を見せたのはクラリス皇女……ではなかった。

 背丈はアルベルトと同じくらいで、あまり高くない。細身で、鮮やかな茶髪と群青色の瞳をもった、第二皇子のクレメンスだった。彼はファーリーン人たちの視線を一身に受け、気まずそうに肩を竦めた。

「ごめんなさい、遅くなってしまって……」

 畏まって敬礼するファーリーン人たちに謝罪の言葉を掛けながら、クレメンスは椅子に座って大人しくしているアルベルトに近づいた。

「おはよう。気分はどうかな?」

 当り障りのない日常的な話題を持ちかける。

「そこそこです」

 アルベルトの返答に、クレメンスは満足そうに頷いた。五回か六回首を揺らし、ちらりと脇目を振って、何かを誤魔化すようにへらりと笑った。

「あの〜……」

 クレメンスは頭を掻いた。やがて、母親似の顔をくにゃりと歪めて、白状する。

「ごめんね、クラリスがどうしても動かなくて……。記憶解析やるの、僕でいいかな? って言っても、僕しかいないんだけど……」

「はい」

 アルベルトは気にした様子はなく、了承した。クレメンスは少しほっとしたようで、胸を撫で下ろした。彼はアルベルトに向かい合うかたちで椅子に座った。助手として待機していた魔道師の女性から紙とペンを受け取り、傍らの小卓に置きながら、皇子は言う。

「腕に関していうなら、それほど心配しなくても大丈夫だよ。この手の術が一番得意なのはクラリスなんだけど、僕にとってもわりと得意な分野だから」

 時間に厳しいことで有名なファーリーン人に囲まれて、緊張の冷や汗を流しっぱなしにしていた助手の魔道師は、クレメンスがやって来たことで心から安堵した様子だ。水を得た魚のように元気になった。彼女はアルベルトの背後から、少年に話しかける。

「クレメンス様は、リラ一の魔道士様であらせられます。術のさなかにあなたの頭部が砕け散るなどという惨事は、まずあり得ませんのでご安心を」

「頭が砕け散るなんてこと、誰がやっても絶対にないから大丈夫だよ。もう、あまり不安にさせるようなこと言わないでよー。……あ、あとで頭痛は起きるかも。でも、せいぜいそのくらいだから。平気平気、怖くないよ」

 全くアルベルトに怖がっている様子はないのだが、クレメンスは軽い口調で宥める言葉を掛けた。そうしながら、皇子は片手に収まるくらいの小壺の蓋を開けようと四苦八苦していた。固く締まったネジ蓋は、彼がいくら力を込めても開かない。

「う、んーっ、……って、あれー?」

 蓋を回す向きを逆にしてみても、結果は変わらない。

「貸してください」

 苦戦する皇子の前に、アルベルトは手を差し出した。クレメンスは大人しく蓋を渡す。

「ごめん、開くかな?」

 アルベルトは首を傾げた。彼が手首をひねると、なんのことはない、蓋は簡単に開いた。クレメンスは目を瞬く。

「わぁ、どうやったの?」

「蓋を回しました。こんな感じに」

 アルベルトは蓋の開いた小壺をクレメンスに返しながら、手首をひねるしぐさをしてみせた。魔道士は恥ずかしそうに笑う。

「はは、そっか。だめだなぁ、僕って力が弱くてさ。助かったよ、ありがとう。じゃあ、準備するね」

 彼は小壺を卓上に置いた。そしてやわらかな筆先を壺の中身インクに浸す。小声で「失礼」と断わりを入れ、アルベルトの額に手を添え、何かを描きだす。アルベルトは目を閉じた。描かれてゆくそれは、魔法陣のようだ。線は細く均一でぶれがなく、幾つもの綺麗な正円が複雑に絡み合っている。

「ごめんねー、どうせならさ、可愛い女の子にしてほしいよねー」

 クレメンスは世間話をするような調子で言った。

「んー、ん、ん、……よいしょ。……兄の僕が言うのも何かもしれないけど、クラリスは可愛いよー。あんなだけど。あんなんでも可愛いんだよ。あれがあの子の地だと思わないで欲しいんだよねー」

「はあ」

 手先に集中しつつも、彼はそことは別の場所にも意識を向けることができるらしい。アルベルトは目を閉じたままで、返事は少々そっけなかった。クレメンスはさも意外そうに片眉をくいと上げた。

「あんまり興味ない? そう、……いや、良いんだ。むしろ本当によかった。安心した。……残念がってなくて」

 クレメンスは「よし」と呟き、アルベルトの額から手を離した。筆を小卓に置き戻し、左の手首に無色透明の石で飾られた腕輪をはめる。

「はい、じゃあ、楽にしていてね」

 クレメンスはアルベルトの両側頭部に左右の手を添え、ひとつ、ゆっくりと息を吸った。彼は意味の取れない言葉、らしきものを紡いだ。

 それは声というより、吐息が口内を鳴らす音だった。流水の如くにとめどなく吐かれていた空気は、突如クッと止まり、かと思えば短い吸気音が連続する。それもまた、発音法の一つであるかのように。魔道士は、基本的には彼本来の穏やかな口調を反映させた調子でありながらも、時折は咳に近い勢いで鋭く喉を鳴らしたり、舌を震わせたり、奇妙な抑揚をもってその言葉らしきものを紡ぎ続けた。

 やがて、アルベルトの額に描かれた魔法陣が、光った。見物人たちの息を呑む様子が伝う。小陣が光輝を放ち始めると、詠唱は止まった。クレメンスは再び筆を取り、今度は卓上のまっさらな紙に手早く何かを書きだす。アルベルトの額の魔法陣と連動するように光る、左手首の腕輪をじっと眺め、また紙面に筆先を走らせる。そして一瞬なにかを思案するように宙を見つめ、筆をインクに浸けなおし、少年の額の魔法陣に文字らしきものを書き加えた。最後に、法陣の中心に人差し指の先を当てる。

「エー・アール・ム・ヴェ・ハーク」

 突風のように、光が溢れ出た。

 の、だろうか。辺りが暗くなったようにも感じられた。魔法陣が周囲の光を集めているのかもしれない。それは光を放っているようにも、吸っているようにも見える。新たに紙面に描き起こされた魔法陣からは、文字の羅列らしきものが螺旋を描きながら舞い出す。

 否、舞い込んでいるのか。放出しているのか収束しているのか、いずれにせよ、それらは強い光を伴っていた。光は術士の青年の顔を強く照らしている。

 声を上げそうになる喉を必死の思いで絞めて、ファーリーンの王属騎兵たちは奇怪な光景を見守った。その中で、フレデリックはぱかりと口を開いて、忙しなく眼球をきょろきょろと動かしている。彼にとっては、この場で起こっている出来事は非常に興味深いものだった。対照的に、ルートヴィヒ王は落ち着き払っていた。

 リラの魔道士は、次々と溢れ出る文字のようなものを真剣な眼差しで見つめていた。だが、やがて顔をしかめる。彼は少し思案し、紙面に文字を書き足した。そしてまた暫く、魔法陣から現れる光と文字を眺めた。だが、彼の表情は冴えなかった。クレメンスは、輝く腕輪の嵌った左手を自らの額に添えて首をひねる。「シー」と歯を鳴らし、困ったような顔で助手の魔道師を見た。相手の女性も浮かない面持ちで、小さく首を横に振った。

 クレメンスは軽く唇を噛み、姿勢を正した。彼は両手で少年の頭を包むように押さえ、俯き、ぼそぼそと詠唱する。

 詠唱に用いられているその言語は、『古代語』である。魔道術にかかわる者の間では〈精霊語〉と呼ばれることが多い。シュルシュルと歯を鳴らす音は、緩やかに身を動かす冷たい蛇の姿を連想させるかもしれない。

 それは、発音に声帯を必要としない。気管と、歯と、顎と、自由に動く舌があればよい。だが、発音は難しく、聞き取りづらくもある。多くの人間は、声帯を用いる言語に慣れ親しんでいるためだろう。古代語とは、現代の人間社会においてはまったく実用的ではない言語といえる。

 クレメンスの詠唱は、ときおり被術者の様子を伺うように途切れつつも、しばらく続いた。しかし、ついにこれらは功を成さないと判断したのか、彼はアルベルトの頭から手を離した。

「ノァ・ズィフ」

 光の放出か、収束かが、儚く絶えた。クレメンスは体から力を抜き、椅子の背に寄りかかった。そして深呼吸を一回。背もたれから離れ、目を閉じたままでいるアルベルトの肩を軽く叩いた。少年が目を開ける。

「ごくろうさま」

 魔道士の青年は、穏やかに微笑みながら労った。

「ありがとうございました。それで、なにか分かりました?」

 アルベルトは一先ず礼を述べてから訊ねた。クレメンスは曖昧ながらも頷く。

「うん……分かった、といえば分かった、かな……。なんというか、求められていたような答えではなかったみたいだ」

 首を傾げるアルベルトを置いて、魔道士の青年はファーリーンの王にちらりと目配せした。ルートヴィヒは魔道士の視線に答えるように頷き、組んでいた腕をほどいた。それを承諾

と受け取って、クレメンスは席を立つ。

「少し、ここで待っていてください」

 ルートヴィヒは近衛たちに言い置き、部屋の外へ出て行く。クレメンスもファーリーン王に次いで出て行った。

 騎兵たちは互いに目を見合わせる。全てが終わってみると、彼らはついさっきまで自分で見ていた光景でさえも、現実のことであったのか不審に思えてしまった。そしてフレデリックは、クレメンスが置いて行った机上の魔法陣、もはや文字も光も伴わないそれに、釘付けになっている。魔道士の女性は、殆ど呆然として呟いた。

「こんなことって、あるのね……」

「どうやら、術や外傷的、或いは心傷的ショックなどで、記憶を“思い出せなくなっている”わけではないようです」

 部屋の外、扉から少し離れた場所で、ファーリーンの王とリラの皇子は話していた。

「基本的に、記憶が『消える』ということはありません。記憶領域が破壊されたりなどしたら別ですが、そうであればすぐに分かります。一般に『記憶喪失』と呼ばれる状態は、実際には記憶を失くしてしまっているわけではない。脳本体から、『記憶』というパーツが分離してしまって起こることなのです。パーツと本体との接続が上手くできないので、本体からすると、パーツを無くしてしまったような状態になります。要は、それらの接続ができれば記憶は認識でき、『思い出す』ことができるようになります」

「彼には、繋げる先の『記憶』が、はじめから存在しない、ということですか」

 ルートヴィヒが訊ねた。クレメンスは頷く。

「そういうことになります」

 このようなことは初めてのようで、魔道士の青年は困惑の滲む表情で首を横に振った。

「彼には歳相応の『知識』があります。生きる上での。けれど、その知識をいつ、どこで得たかの記憶が存在しない。“空白”なんです」

「空白」

 ルートヴィヒは顎に添えていた右手を下ろしながら反駁はんばくした。そして小さく頷いた。

「空白では仕方ありませんね。現場の方で何かが分かればよいのですが」

「彼は人ではないかもしれませんよ」

 クレメンスは慎重な面持ちで、声を抑えながら言った。ルートヴィヒはちらりと皇子を見る。彼は「うむ」と低く喉を鳴らして、先がたに出てきた部屋を横目で眺めた。

「仮にそうだったとしても、彼は我々に危害を加えようとか、そういった気はないのですよね」

「保証します」

「なら、とりあえずのところは良いのではないですか」

 ルートヴィヒの答えに、クレメンスはクスリと笑った。そして次には気遣うような顔つきになって伺う。

「このこと、本人には話します?」

「そうですね。多分、話しても彼は驚かないでしょう」

 ルートヴィヒは答えた。

   魔道郷(4)

 なめらかな壁をくりぬいた窓から、魔法陣の光が流れ込んでいた。図書棚の立ち並ぶ部屋は、リラ城の広大な階層を二つ分も用い、小型の昇降盤が上下左右に無音で動きまわる、ファーリーン人にとってはおそらくこの上もなく異様な空間だった。目測の印象ではあるが、天上までは百六十フィートほどあるだろう。部屋の直径はその倍くらいありそうだ。書棚は円環状に張り巡らされているが、それでも蔵書は収まりきらないらしい。背の高い棚が整列していた。

 ファーリーン人を魔道に馴染ませる計画のために、かの国の王はまず自らが率先して魔道体系の理解を深めようとした。その王の目的をここへ来て初めて聞かされた者たちは驚きを露わにしたが、信頼するルートヴィヒ王の主張であったし、また仲間一人を失ってまで訪れたリラの地で、数週間を無為に過ごすことは憚られ、近衛騎兵たちも魔道士に教えを請うた。そして判明したことによれば、どうやらシークの民というのは魔道とわりかし相性が良いらしい。クレメンス皇子が言うには、シークの民の『風を読む』とか『大地の声を聞く』とかいう概念は、魔道の仕組みを利用したものらしいのだ。そうは言っても、当のシーク人らに己が魔道司だという自覚は全く無いようであるが。

 “魔道”とは、『自然界の現象や構成、法則などを分析し、証明すること』である。そして“魔道術”とは、『数値・文字化されたものを利用し、自然現象の再現・制御を行うこと』だ。この世界を構成する物質は『水』・『火』・『土』・『風』の四元素から成り、元素は各々が“魔力”を保有する。元素から成る人体も、当然“魔力”を持っている。人体に宿る“魔力”の用途は、大きく二つに分かれる。一つは、自身の体の燃料として使うこと。もう一つは、周囲の物質に対して働きかけること。ファーリーン人には前者に長ける者が多く、リラ人やヴィオール人には後者が多い。どちらかに偏っている場合、膂力りょりょくを始めとした身体能力に影響が出る。魔道司としては後者であることが望ましい。

 また、術の発動法にも二つの種類がある。一つは『描陣発動法』といい、〈精霊文字〉こと『古代文字』を織り交ぜた魔法陣を描き出すことによって、術を発動させる。もう一つは『詠唱発動法』で、これは〈精霊語〉(一般には『古代語』)の命令文を唱えることで術を発動する。いずれにせよ、古代の言葉というものが魔道に深く関わっていることは確かだが、『古代語』の発音は太古に失われたまま長らく不明で、『詠唱発動法』の使用者は近年まで存在しなかった。それが、ごく近年になって使い手が現れた。

 現アルディス皇帝のヴァイスである。

 リラに到着してから六日が経った。フレデリックは長年興味を持ちつつも触れることの叶わなかった“魔道”に関する情報を、海綿のように吸収していった。彼に師事するクレメンス皇子にとって、フレデリックはとても教え甲斐のある生徒だった。長らく落ち込み気味だった少年は、アレンが快方に向かってゆくことも相まって、少しずつ元気を取り戻していった。しかし、あの襲撃の夜に味わった己の無力さと後悔は、そう簡単には取り除かれなかった。たとえば、自分に一歩進み出る勇気があったとしたら、一人の近衛騎兵は死なずに済んだかもしれなかった。そのように考えこむフレデリックを見かね、エリアスは言った。

「将来有望な若者を守れたのなら、彼の本望だ」

 と。そうなのだろうか、と少年は思った。そうならよいのに、と考えた。そのような自信のない気持ちを吐き出してみたところ、胸から針金を突き出させているアレンに叱られた。彼は殆どフレデリックの兄で、少し父親っぽかった。

 暫く魔道の勉強に勤しむ一同を眺めて過ごしていたアルベルトは、二日前から講義に参加し始めた。どうやら興味を惹かれたらしい。電圧の調整に四苦八苦するフレデリックの隣で、ぼんやり顔の少年がいきなり掌に光球を出現させたときは、室内の教師、生徒たち、読書家はもちろん、リラ城内でちょっとした騒ぎになった。しばらくすると、彼はその光を点滅させはじめた。なにやら拍子を刻んでいるようで、またもや騒ぎになった。

 光を魔道術として扱うこと自体、本来は相当に難しい。雷や炎を生みだし、それに伴って光が発生することはままある。しかし、『光そのもの』を直接作りだして操るなど、それこそかなりの経験と実力を持つ魔道司でなければ不可能なはずだった。魔道司ではないルートヴィヒ王がヤーガ山中で光を操ったという前例はあり、リラ人はその件を聞いていたが、実際にはその様子を見ていなかったし、そもそも『あのファーリーンの王なら、それができたとしてもさほど不思議ではない』という認識が根底にあった。

 光を操るアルベルトを眺め、クレメンスは絶句していた。思わぬところで掘出しものを見つけてしまったのだ。魔道士の皇子はひそかに歯噛みした。二ヶ月程度の猶予を与えてはくれまいか。そうしたなら、彼はこの、のんきな少年を一人前の魔道士、か魔道師に育て上げられる。その自信があった。

 集中したいフレデリックに話しかけながらも、相変わらず大したことなさそうな顔をして光で遊んでいる少年を眺め、クレメンスは思案した。そうだ、そもそもアルベルトは何処の誰とも分からない人間だ。必ずしもファーリーンで保護し続ける必要などないではないか。皇子は無言で、少年を引き止めるのに十分な理由をいくつか列挙した。反発されたときに返す反論の言葉を確固とまとめ上げ、クレメンスは神妙な面持ちを作って切り出した。

「アルベルト君、しばらくリラに残ってみない?」

 アルベルトは宙を眺めながら、「はあ」と何とも歯切れの悪い返事をした。突然の誘いに驚いたのはアルベルトではなく、その隣のフレデリックだった。アルベルトは手のひらの中の光をこね回しながら、口をもぐもぐとやった。

「何も言わないで来ちゃったんだよなぁ……」

「戻ってやらなきゃいけないことがあるのかな?」

「そういうわけじゃないですけど、怒られそうだなって」

 一体何の話だろうか。皇子は首を傾げた。

「まあ、でも、たぶん大丈夫」

 アルベルトはいつものぼんやりとした様子で答えた。

 ルートヴィヒは、一般的には高難易度とされる魔道術式を解体していた。分解された部品を観察し、その意味を解釈し、別の部品と入れ替えて組み直してみる。再構築された魔道術式は、不発も暴発もしなかった。全て、ルートヴィヒが思い描いた結果を返してきた。

 それは通常、非常に難しいことであったが、ルートヴィヒにとっては難でなかったらしい。彼は〈賢王〉と呼ばれるほどには統治者として切れ者だが、勉学における頭脳の明晰さでも比類ない。それは神童と呼ばれた所以のひとつだった。彼が従兄から魔道術を教わったのは、少年と呼ぶにも少々幼すぎる時代のことだ。せいぜいものごころついて間もないはずの年頃である。いまやあれから三十年もの月日が経っている。その間、ルートヴィヒに魔道を教える者はいなかった。彼は幼いころに身につけた僅かな知識を用い、自分なりの発展をさせた。十を教わり十を完璧に理解することは、ルートヴィヒにはなんら問題はない。彼は一を教われば、十にも百にも理解を広げられた。それが当たり前だった。

「また、随分と難しいことをしている」

 王の背後に、皇帝が立っていた。足音はおろか、気配さえごく小さくひそめてやって来た白子の皇帝は、霊体かなにかであったとしても不思議には思えない。しかしルートヴィヒに驚いた様子はなく、穏やかに振り返って席を立とうとした。

「待て待て、立たずともよい。座っておれ。私が勝手に参ったのだからな。邪魔をする気はないのだ。この気持ち汲んでくれるだろう」

 ヴァイス皇帝は近くの椅子を引いて、ルートヴィヒの左隣のあたりに座った。

「だが、ひまで仕方がないのでな。すこし相手をしてくれ。そのくらいの意識は割けるだろう? 他愛無いおしゃべりなど、おまえには難しくなかろうな。なに、適当に頷いてくれるだけでよいのだ」

「はい」

 ヴァイスは満足そうな顔をした。

「まったく愛想がよいな。エミルとは大違い」

 ヴァイスの言葉に、ルートヴィヒは微笑を崩さなかった。ヴァイスは肩を竦め、ルートヴィヒの手元を覗き込む。そして首をぷるると震わせた。

「頭が痛くなるじゃないか。なんだそれは。そんなものを私に見せおって、何のつもりだ」

「失礼しました」

 皇帝の冗談に、ルートヴィヒは集中がほどけてゆく感覚を味わった。なんのことはない、ヴァイスは彼を邪魔しに来たのだ。どのくらいの時間を休まず過ごしていたのだろうか。リラには昼夜を教えてくれる太陽と月が姿を見せないため、今が何時なのか感覚的につかめない。ペンを置いたルートヴィヒを、ヴァイスが深い笑みで眺めていた。

「楽しいのか、それは」

 皇帝の問に、ルートヴィヒは微笑を浮かべ首を傾げた。

「あまり意識していません」

「最近楽しいことはあったかね?」

「……あまり意識していません」

 ルートヴィヒは繰り返した。ヴァイスは椅子の肘掛けにもたれて、細い眉を顰めた。

「音楽はどうなんだ。あれ……ほら、なんと言ったっけ、……あれだ、あの黒い……」

ピアノクラヴィーアですか」

「そうだっけ? お前が言うならそういう名前なんだろう。その『“ク”ナントカ』っていうのを弾いているときは楽しいのだろう、当然」

「ここ数年触っていません」

 ルートヴィヒがそのように答えれば、ヴァイスは溜息を吐く。

「何ということだ。それではいかんだろう。音楽家なのに」

「私は音楽家だったのでしょうか」

「またなんと、違うのか。てっきりそうなのだと思っていたのに」

 ルートヴィヒは、なんとも形容のし難い微苦笑を浮かべただけだった。

 その後、クレメンスの提案は皇帝とファリーン王によって呑まれ、アルベルトのリラ滞在が正式に決まった。当人はといえば、快諾と言ったふうではなかったが、かといって別段気が進まないといった様子でもなかった。

 リラに至って六日。じきに日も暮れるだろう時頃。暗雲に隠された太陽が今、天空のどの辺りを進んでいるのか、この地にいては検討がつかない。ふんだんに取り付けられた魔道灯の明かりは、昼夜問わずリラ城と城下の街並みを照らしている。

 もともと魔道に興味関心の強かったフレデリックが、実際に魔道術を操れるようになるまでに、さして時間は要さなかった。

 魔力には幾つかの“属性”というものがある。魔道司にも操作しやすい属性の元素があり、大抵の魔道司は己の得手不得手を把握しているものだ。例えば、リラ一の魔道士といわれるクレメンス皇子は、炎主体の『上界属性』(風・炎)の扱いに長けている。彼自身の温厚な性格に反して、得意とする魔道術は非常に攻撃性が高い。

 これらの二つの属性は、合わされば雷電を作り出すことができる。リラで用いられている魔道灯は、この『上界属性』の複合技によって輝いている。『上界属性』は光に属し、炎と風に“光”を含めたものは『上界三属性』と呼ばれる。光と闇の属性は表裏一体であり、またあらゆる理由から、他の属性とは一線を画す特別なものだ。これらは『上級属性』と呼ばれ、この属性を理解し操ることは難しい。よって、大抵の場合は、『低級属性』を工夫して操ることで擬似的に『上級属性術』の結果を生み出す。

 そしてフレデリックはといえば、彼もまた『上界属性』との相性が良好だった。彼はクレメンス皇子とは少し異なり、炎よりは風が主体で、術によって及ぼすことのできる対象も、局所的というよりは大局的だった。

 フレデリックは、このリラの地に居続けることが心地よかった。ここでは引け目を感じる必要がなかったのである。己に戦士であることを強要する存在はなく、かねてより興味のあった魔道を学ぶことができ、そしてそれで良い結果を出せることが喜ばしかった。世辞だろうとなんだろうと、褒めてもらえることが嬉しかった。

 だからこそ、アルベルトが今後もリラに滞在することを許されたと聞いたとき、彼を羨んだ。自分は王の命により、ファーリーンに魔道を持ち帰る為にここに来た。その事は既に聞かされ、理解した。だから、自分は間もなくファーリーンに帰らなければならない。それも分かっている。王の命に逆らおうなどというつもりは全くない。しかし、この魔道の都は居心地が良すぎた。騎兵たちは早く帰りたくて仕方ないようだが、フレデリックはここを離れたくなかった。ファーリーンはフレデリックに冷たかった。それなのに厳しかった。フレデリックは、彼の母国がこわいと思った。リラに来て、ここでは自分の性質が認めてもらえる事を知り、ファーリーンが彼にとってどれほど居心地の悪いところだったのかを、まざまざと知らしめられた。

 王は言った。“その現状をこそ、変えるのだ”と。その役に、フレデリックを選んだのだ、と。光栄な事だった。この上もなく誇らしいことだった。

 けれど、フレデリックは小心者なのだ。彼は多勢に立ち向かっていけるような勇気を持っていないことを、自覚していた。王の期待に応えることは怖く、また難しいことが容易に想像できた。応えられなかったとき、ルートヴィヒ王は自分を見限るかもしれない。いいや、きっとそうする。もっと相応しい人材など、彼はいくらでも見つけられるはずなのだ。そうなったらもう――

 そこまで考えて、フレデリックは頭を振った。

 一人きりの室内で、魔道灯の明かりを消し、白壁に嵌めこまれた水晶の窓から外を眺める。リラ頭頂の魔法陣から降り注ぐ淡紫の微光が、街を照らしていた。水晶の窓を通過して、室内でゆらめく。あの光は、リラという名の城がもつ長い歴史の中で、未だかつて一瞬たりとも放光が絶えたことはないという。

 リラ城を抱え込む〈白の都〉は、淡紫に、北西の〈赤の都〉は薄紅に、南東の〈青の都〉は白藍に。それはフレデリックにとっては幻想的で、美しいと感じることのできる光景だった。しかし、幼いころ父兄らとこの地にやってきた際の、彼らの言葉を思い出す。それはフレデリックの感性とは明らかに反していて、彼らとは到底理解し合えないと知った。そして成長とともに、彼らの批判的な言葉こそ、ファーリーンの一般論だということも知った。フレデリックの感性を否定せず、それに共感を示してくれたのは、昔なじみで当時レイス騎士になったばかりのアレンだけだった。

 のちに、グローラよりやって来た“商人”から、魔道の話を聞いた。商人らしくよく口の回る、気さくな青年だった。彼はいたって親切に、魔道について語ってくれた。だが、彼はあくまで“商人”だったので、『仕組みがどう』だとか『理論がどう』のだとかいう話はされなかった。どちらかといえば、お伽話に近いような、曖昧で夢想的な説明だった。だが、それによってフレデリックがより魔道への興味を強めたことは間違いない。

 リラとは、たしかに妖しく、不気味なのかもしれない。そういったものこそに魅力を抱く感性。それを否定されることが、少年は最もつらかった。

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