――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

第六章
風の都

   風の都(1)

 アクセルがリディへと帰ったあの日から、四日が経ったころ、彼はまだ塞ぎ込んでいた。誰が声を掛けても反応が薄く、王城客間の椅子に座ったまま、昼も夜もなく宙を睨んでいた。

 彼の息子であるエヴァルトは、十四の誕生日を目前にしていた。常日ごろ母姉と離れて暮らす彼に、彼女らを会わせてやりたかった。二人をアクスリーへ連れ帰るのではなく、エヴァルトをリディへと連れて来ればよかったのかもしれないと思うと、後悔の念が胸中を満たすばかりだった。アーデルハイトが死ぬこともなかったし、ベルティナに殺人を犯させることもなかった。エヴァルトの友を死なせることも、勇将と呼ばれた男をあのような場所で失うこともなかっただろう。

 仮に、もっと早く敵の存在に気がつけていたのなら――アーデルハイトが連れ去られるなどということにならなければ――せめて彼女の居場所に早く気が付き、たどり着けていたのなら――

 あの子は汚されることなどなく、誇りのために舌を噛み切ることもなく、今でも気丈に微笑んでいたに違いない。

 とっくに息絶えた娘を尚も犯し続けていた蛮人を、死んでも傷めつけ続けた。自らが憎き相手と同じような存在に成り果てていることに気づきながらも、決して斬りつける刃を止めはしなかった。今なお、回想の内で屠り続けている。地獄の果てまでも追いかけて、もう一度でも、二度でも、三度でも殺してやりたいと思うのだ。

 エヴァルトが姉の死を知ったなら、いかように悲しむだろう。友の死を知ったら……。

 アクセルはまだ、悲哀の過去から抜け出せずにいる。

 今日も王子は執務に勤しんでいた。ルートヴィヒ王がリディを出発した当初、彼の机は綺麗に片付いていた。しかし今、早くも様々なものが積み重なりだしている。決して王子が怠けているわけではない。

 午後も過ぎたころ、ダーヴィットは目元をこすりながら一枚の文書を手にとった。レイスから送られてきた請願書だった。王子は数名の政務官の注意を引いてから内容を読み上げた。

“時下益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。また国王陛下におかれましては、平素よりお引き立てを賜り、厚くお礼申し上げます。
 この度は、かねてより商会ギルドが都市内で常用している特殊貨幣の件で、お手紙を差し上げた次第です。
 同貨幣を、ファーリーン王国内全域で使用させて頂きたく思います。
 理由としましては、アルディス金貨は一枚あたりの価値が低く、特にA級及びS級の大規模な商取引において、便を欠いているのが現状です。グローラ聖皇国、アウリー王国の一部との取引では、レイス硬貨の使用が認められております。また、当ギルドに所属する商人が当都市外にて取引を行う際には換金の手間が掛かりますが、先の理由により、アルディス銀貨・金貨以上にレイス硬貨の使用頻度が高くなっております。
 お忙しいところ恐縮ですが、利便性の向上のため、何卒ご一考くださいますようお願い申し上げます。

レイス侯爵兼ファーリーン商会ギルド議長 リチャード・レイス”

 ダーヴィットが手紙を机に置くと、ニコラは渋面を示した。

「いただけませんな。新貨幣を定義するにしても、『レイス硬貨』を出回らせることは避けるべきです」

 ダーヴィットは肩を竦めた。

「そう思う。だが、いざというときの借金のあてはレイスだ。幾つか義理は作っておいた方がいい。先日のフォーマのこともある。まあ、この件に関しては、僕だってそのまま受け入れる気はしないが」

 そう簡単に許可が降りるような案件ではないことは、リチャードにもよく分かっているはずだ。それでも敢えて『レイス硬貨を』国内通貨にするよう主張してくる辺り、よほど自分の立場に自信があると見える。実際、その自信に見合うだけの結果は出しているのではあるが。

 商いで成功した都市は、とくにここ数十年で目覚ましい発展を遂げた。王国の配下であるにもかかわらず、半ば王国の後ろ盾となりつつある。力関係を覆されるような事があってはならないが、都合の悪い擁護者でいては独立されかねない。それはそれで王国にとっては大きな損害だ。

 ダーヴィットはレイス侯爵からの手紙を机の端に寄せた。自分に巧い返事ができる気がしなかったので、国王の帰りを待たせることにしたのだ。声を大にして言うことはできないが、現状では相手の方が自分より上手うわてなことは分かっている。王のことは嫌いだが、わざわざ彼の名で墓穴を掘ってやろうとも思わない。王子はそこまで幼稚ではなかった。

「なあ、そもそもなんだが、レイス硬貨ってのはなにでできているんだ? アルディスの金貨よりずっと小ぶりだと聞いているんだが」

 それにもかかわらず、一枚あたりの価値はアルディス金貨の五倍近い。どういったものなのか話には聞いているが、実際には見たことのないダーヴィットは疑問に思い、興味があった。ヨハネスが彼の質問に答えた。

「グローラで採掘される『光金』を使っているようです。私の自室に一つございますので、もしご覧になられるのでしたらすぐお持ちできます」

 察しの良い政務官はそう提案した。ダーヴィットはしめたとばかりに頷く。

「ああ、見ておきたい」

「分かりました。少々お待ち下さい」

 そしてヨハネスは城内にある彼の部屋へ向かった。若い政務官が部屋から出て行ったあと、彼よりもさらに若手の官吏が話を飲み込めない様子でいる。ニコラが言った。

「ヨハネス殿は、ご兄弟が貴金属商を営んでおりますから、その伝手でしょうな」

「たぶん兄だったと思う」

 曖昧な部分を、ダーヴィットはなんとなく補足した。

 宣言通り、さほど時間を掛けずにヨハネスは戻ってきた。

「お、お待たせいたしました」

 息を切らせているのは、小走りで行き来してきた為だろう。体力がないわりに、彼は何かというと走りたがる。きっとせっかちなせいだ。ヨハネスは丸渕眼鏡の位置を直しながら、薄い革製のケースに保護された中身を取り出した。それを王子の前にある机に、そっと置いた。

 『光金』と言うからには、光り輝くごとく明るい色をしているものだろう、と思っていたダーヴィットは拍子抜けした。

「……黒くないか」

 金属の光沢は持っているが、色合いは彼の知っている『金色』には程遠い。表面が汚れているわけでもない。正確に言えば、『黒い』というわけでもない。『暗い』のだ。周囲の光を跳ね返す力が弱いのか。それかむしろ、与えられる光を内部に取り込み、閉じ込めてしまっているのかもしれない。そのような奇妙なことを言われても信じられるくらいには、ふしぎな物だった。

 ヨハネスは笑みを浮かべている。

「その周りを暗くすると、面白いことを発見できますよ」

 彼も初めてそれを見たときには、王子と同じ反応をしたのだろうか。触っていいのか、と王子が訊けば、ヨハネスは気前よく頷いた。

 ダーヴィットは小さな硬貨を手のひらに乗せて、両手で包むようにして周囲の自然光を遮断した。

「ん?」

 おかしな現象が起こった気がして、ダーヴィットは手に顔を近づけた。頭部がさらなる影をつくり、手の中の金属は闇に包まれた。はずなのだが。

「光っているのか……」

 光金それ自体が光を放ち、掌の中を照らしているのだ。『気のせい』などという言葉では誤魔化せないほど、その輝きははっきりとしたものだった。しかし、手を開いて光を当てれば、その輝きは消え失せて、再び光を吸収する暗い色の鉱物になる。

 ダーヴィットはほとんど釘付けになって、光金を観察している。その様子を満足げに眺めながら、ヨハネスは言った。

「光金は古代より宝物ほうもつとして扱われていたそうです。大戦の前期頃は、ここアルディスでも採掘されていたと言われています。けれど、今は聖都エラド付近でしか見つからないそうで」

「こんなものが世には存在するんだな」

 ダーヴィットはヨハネスの話には返事をせずに呟いた。いつになく物に魅了された王子の様子を見て、室内の官吏たちも興味を惹かれてしまったようだ。王子を見、伺うようにヨハネスを見る。丸淵眼鏡の政務官はけちくさく顔にしわを寄せた。

「ううん、殿下は別ですけど、みなさんはできるだけ手垢をつけないようにして触ってくださいよ」

 そう言って、貴重な光金製のコインをこの部屋の全員に見せて回ることを、渋々ながら了承した。

 それから更に三日の後、昼ごろになってヴィンツからの使いが四名やってきた。侯爵の書状には、ヴィンツ南東に早馬で一日の距離に戦闘跡があり、そこにアクスリー騎士五十名と、ミロウ子爵とその孫、フォーマ兵と思われる者七十名の遺体があった、と記載されていた。だが、それは前置きに過ぎず、より重大なことがその書状には書かれていた。

「アクスリーが占領されているかもしれないらしい」

 再び執務室に集められた臣下たちの前で、ダーヴィットは告げた。アクスリーを攻め落とすことがいかに難しいことであるか、各々は隣の者と議論しはじめた。『確証はないので、現在調べ中』と念を押された上で書かれた情報だったが、不安の種となるには十分なものだった。

 ヴァルターは舌打ちした。

「ってことは、きっと俺の予想はハズレだな。やっこさんら、やっぱヘザー辺りから来やがったんだ。南方駐屯騎士団はなにやってんだよ」

「ピリピリしないでください」

 軽騎兵隊長のロランが言った。ヴァルターは口をへの字に歪めてくいと肩を上げた。

「こいつはご愛嬌ってやつだよ」

「ならいいです」

「念のため、海岸沿いも探らせているようだが、まあ第一に被害を受けたのがアクスリーならば、ヘザー経由なんだろうな」

 ダーヴィットの呟きに、第一騎兵団長のサイラスは相槌を打った。

「南方駐屯騎士団は制圧されたんでしょう。他の都市に使いを寄越す間もなく、という事になりますが。……しかし、それほどの戦力が向こうにあるとは想像しがたいのですがね」

 単純に、戦場へ人間を送り込むだけならいずれの国でもできることだ。しかし、戦える人間を、となれば別である。フォーマ王国といえば、一部の上流階級に属する者が裕福な以外、平民以下の多くの人間は貧しさに苦しんでいる。作物の育ちにくい砂漠地帯が国土の半分ほどを占めるかの国では、飢餓が大きな問題であるが、上流階級の者たちにそれを解決しようという気はないらしい。

 フォーマの軍隊は基本的には徴兵によって形成されるが、日々鍛錬に励む戦士と、日々満足な食事にもありつけない乞食の集団とでは、戦力差は明らかだ。たとえその数に大きな差があったとしても、戦士の集団が負けるなどということはそう考えられない。

 ましてや、南方駐屯騎士団は三万の兵で構成され、アクスリーを守る兵も四万を超える。フォーマ王国とて、よく訓練された兵士の七、八万程度はいるかもしれないが、それをかき集めたとしても、南方の守備を破壊し、城塞都市を落とすとなれば苦労するはずだ。攻城は守城よりも難しい。

「まあ、こっちにそう思わせるための演出だとか、誘導だとかの可能性も無いとは言えない。引き続き海岸沿いの警戒は必要かね」

 ロランが感心したようにヴァルターを見た。

「団長は見かけによらず慎重な方ですよね」

 軽騎兵隊長が言うとおり、ヴァルターというのは外見や雰囲気からみた感じ、熱くなりやすそうな男ではある。実際、猪突猛進な面があるのは否めない。だが、ヴァルターは心外だ、というように眉根を寄せた。

「意外ってか? 知らんようだから教えてやるが、俺は昔っから念入りーで周到ーなんだからな。人を見かけで判断しないこと。いいね」

 ロランは自ら話を振っておきながら、至極どうでもよさそうな調子で、かたちだけの了解を示した。そのことで別段気を害しもせず、ヴァルターは腕を組んだ。

「アクスリー陥落か。本当ならまったく、豪いことになったな。あっちにはエヴァルト様がいらっしゃるはずだが、彼はどうしているだろう」

 アクスリー伯爵家当主が留守であった以上、全ての判断はかの少年に任されていたはずだ。しかし、都市が落ちたとなれば――。

「あ、えっと、今ちょっと……」

 部屋の外で見張りをしているリーンハルトの、うろたえた声が聞こえてきた。誰かを引き留めようとしているようだ。

「中で会議をしておられる様子ですが。私は参加すべきではありませんか」

 それは、紛れもなくアクセルの声だった。

「あのですね、えぇと、……あっ」

 王子に助けを求める情けない声と同時に、扉が開いた。

 リーンハルトの困惑した顔を背負って現れたアクセルは、数日前までの様子とは打って変わって、理性的な光をその瞳に宿していた。衣服も頭髪もしっかりと整えた彼の姿は、娘を亡くすより以前までと寸分違わない。

「やはり、皆様おそろいですな。お邪魔でないのなら、私もこの場に立たせて頂きたいのですがね」

 口調も至って平静だ。取り繕っているようでもない。しかし、ほんの一週間前の取り乱した姿が未だ印象強く、手放しで安心したり、喜んだりする気にはなれない。そんな周囲の様子を察したらしいアクセルは、左胸に手を当てた。

「お騒がせしたことを、心よりお詫び致します。私はひどく混乱していました。ですが、今はもう平常心を取り戻しました。お気遣いは無用です。過去は過去、過ぎたことを悔やんだとて仕方なし。私は未来の為に、自分が成すべきことを成すだけですから」

 毅然と佇むアクセルのその様子に、ダーヴィットは強い既視感――か、親近感を覚えた。そして、彼はアクセルの言葉を信じた。

「なら、早速だが残念な知らせが入っています」

 早々に話題を切り出そうとする王子を、ヨハネスやマチルダが咎めかける。しかし王子は口ごもらなかった。

「先程ヴィンツから知らせが届いた。確証はないものの、アクスリーが連合側の手に渡った可能性があるようです」

 沈黙があった。皆がひっそりとアクセルの顔色を窺っている。

 伯爵は表情を変えなかった。

「そうですか」

 そのように一言相槌を打って、彼は思案するように宙を眺めて、顎をさすった。

「もしそれが事実であったなら、アクスリーの民の生死にかかわらず、私の息子は既に亡いでしょうな」

 そのひどく淡々とした口調に、その場にいた多くの者は寒気を感じた。ところが直後に伯爵はにこりとして、彼に気を使いっぱなしの者たちに言った。

「確証がないと書かれているのでしょう。今から嘆いてどうします」

「そのとおり」

 ダーヴィットはアクセルを肯定した。アクセルは王子の方を見て頷き、そして神妙な顔になった。

「しかしながら、もし実際にアクスリーが占領されているとなれば、取り戻すことは容易でないでしょう。第一、我がアクスリーが攻め落とされるなどということには、相当な理由――我々が把握していない敵勢力の強大さなど――があるはずです」

 落ち着いた様子で語るアクセルに、一同も彼の平常心を信じ始めた。ヴィンツよりの第二使を待って、会議は終わった。

   風の都(2)

 陽光の煌めきを覚えている。

 青草の香りと、まとわる熱を。

 憧れてやまない背を。

 差し伸ばされた掌の大きさに、心踊った日を。

 水中越しのように、低く篭った声を聞いた。

 名を呼ばれる。彼は振り返る。

 ぼやけた姿がそこにある。ぼやけた声で彼を呼ぶ。

 まだあたたかい。

 ぼやけた輪郭が歪んでいく。遠のいていく。

 悲しみが湧き上がる。

 そこに『愛』があると、信じて疑わなかった幼き日は、今となっては遠い過去。

 途方も無く遠い、過去である。

「珍しいですね。いつもはあまり外に出たがらないじゃないですか」

 ジェレミーが言った。王子が街に出たがったのだ。室内で過ごすことを好むダーヴィットだ。わざわざ政務官たちに頼み込んでまで外に出たがるなど、明日は雨が降るかもしれない。政務官たちに送り出されて騎兵の元へ帰ってきた王子は、ジェレミーの言葉に対して「そんなことはない」と主張した。

「どこに行かれるんです?」

「旧市街まで。その先は考えてない」

 アンドレの問いに、ダーヴィットはそのように答えた。アンドレはにこやかに頷いた。

「いいですね。こう毎日椅子に座ってばっかりじゃ体に悪いですもんね。動かないと」

 王子が歩き出すと、騎兵がついてくる。途中リーンハルトの背後を通りかかると、若い騎兵は慌てて振り返った。ダーヴィットは立ち止まって、まじまじと近衛騎兵を見た。

「なんだよ」

「なんだよ、って!」

 リーンハルトは信じられないものを見たような顔になって喚いた。

「また蹴られるのかと思ったんですっ! ちゃんと反省してるんですか? 俺はまだ『ごめんなさい』を聞いてません!」

「まだ気にしてたのか。もう何日前の話だよ」

「何日だって気にしますよ! びっくりしたんですから。もう俺の後ろに立たないでください!」

「そういうわけにはいかない時もある」

 ダーヴィットは淡々と返した。リーンハルトは地団駄を踏む勢いで訴える。

「じゃあもう蹴らないって約束してくださいよ!」

「…………」

 ダーヴィットはリーンハルトの顔を眺めたまま、沈黙した。アンドレが控えめに笑い、マチルダは呆れ顔だ。ジェレミーは笑いを噛み殺しながら言った。

「ハルトよ、訓練だと思えば? 常に背後に気を配れるじゃないか」

 リーンハルトはうつむいて、力なく首を横に振った。

「俺は気付いてました。後ろに殿下がお立ちになったことは」

 そして遠慮無くキッと王子を睨みつける。

「でも蹴られるなんて思ってなかった! すごく裏切られた気分!」

 そもそもは、夢見が悪くて不機嫌だった王子が、腹いせにリーンハルトの膝裏を蹴ったのが始まりだった。そのせいでリーンハルトは盛大な尻餅をついたのだ。その後逃げおおせた王子はリーンハルトに謝罪をせずにいるので、被害者である近衛騎兵が怒っているのである。

「味方だと思っていた相手だって、いつ敵になるか分からないから」

 ダーヴィットは相変わらずの、腹立たしいほどの平静さで言った。リーンハルトの方はいよいよ折れかかって、肩を落とした。

 雲の多い昼だった。霧雨でも降り出しそうな空模様だ。ダーヴィットは薄手の上着を羽織り、臣下たちを連れて城門を出た。街並みに向かってゆるやかに伸びる階段へ、足を踏み込んだ。

 常日頃身体を鍛えている騎兵ならともかく、儀礼的な剣術習得のための鍛錬程度しか積んでいない王子にとっては、この長く続く段差というのは負担だった。彼があまり街に出たがらない理由として、この件は多くを占めている。

 右手側の騎兵館を通り過ぎ、旧家の庭園を臨む。旧市街や新市街と違って広々とした中心街の風景の中を、一行は進んだ。

 やがて階段が終わり、彼らは厩舎へ入った。馬番がそれぞれの友人を引き連れてくる。手綱を受け取って、厩舎をあとにした。

 まだ暫く続く旧市街までの道のりは、ゆるやかな坂道に変化した。王子たちは引き続き歩を進めた。

 やがて、前方に待ち構える中心街門を通り抜けてきた者の姿が見えた。二人組だ。かれらもまた馬を引き連れている。王子一行と二人組と、両者の距離が近づいてきて、互いの顔立ちが判別できるようになったとき、先に反応したのは二人組の方だった。

 二人組の若い方が、一瞬驚いたように目を瞬いた。そしてそのあとで破顔する。

「殿下ー!」

 満面の笑みを浮かべた青年が、両手をぶんぶんと振り回して叫んだ。ダーヴィットは眉をひそめた。こうまで馴れ馴れしくしてくるということは知り合いなのだろうが、すぐには相手が誰かを思い出せなかった。しかし最近の記憶をたどれば似たような顔立ちの少女にも会っているし、もっと昔の記憶を掘り返してやれば、思い起こすのにさほどの苦労はしなかった。

 青年は息を切らせながら坂を駆け上ってきた。ダーヴィットの前で止まると、更に笑みを深くした。

「王子殿下! お久しぶりです。ぼくのこと、お分かりになります?」

「グレンだろ」

 くすんだ金髪の青年は、リスト男爵家の次男坊だった。彼――グレンは、自分の両頬をぺちんと叩きながら感激を露わにした。

「すごい、ねえ聞いた、ダスティン? 『グレン』だって! 昔はさ、『グレンくん』だったのに! すごい、感動しちゃったよ!」

「はい」

 グレンから数歩遅れて、リストの騎士が王子たちの元へ近づいてきた。ダスティンと呼ばれた騎士はグレンの一歩後方で立ち止まると、王子に向かって深々と礼をした。ダーヴィットは右手を上げて応えた。そして再びグレンの方を向く。

「もうそういう歳じゃないし」

 はしゃぐグレンをダーヴィットはそう諌めた。グレンは「それもそうですよね」と言って、おとなしくなった。

「七、八年ぶりくらいですよね? えっと、あれ、お幾つになったんですっけ?」

「十七」

「十七歳かぁ、いいなぁ!」

 グレンは両手の親指を立てて言った。ダーヴィットはグレンの笑みに引きずられるように口角を緩めながら、「なにが?」と呟いた。ダーヴィットは子供時代に別れた知人の突然の帰郷に驚きながらも、以前と何ら変わらない親しさをもって話しかけてくるその姿に、懐かしさを感じた。

「戻ってきてたんだな。妹にはもう会ったのか?」

 グレンは首を横に振った。

「いいえ。まだこちらに着いたばかりなんです。王城へご挨拶に伺おうと思っていたので」

「王は不在なんだ」

 グレンは国王へ帰還の報告をとやって来たのだろうが、間が悪くもルートヴィヒは不在である。グレンは少し残念そうに肩を落とした。

「そうなんですね。どちらに?」

「リラ。早くてもあと一ヶ月くらいは掛かると思う」

「じゃあ、陛下へのご挨拶はしばらくお預けですね」

 グレンはそう言って頷き、しみじみとダーヴィットの姿を眺めた。

「それにしても、背が高くなられましたねー」

「べつに普通だろ」

 ダーヴィットがそう答えると、グレンはにっこりと目を細めた。

「周りの方々と比べてじゃないですよ? 以前の殿下と比較して。ああ、それと雰囲気もちょっと変わりましたね。こう、クールな感じに!」

 ダーヴィットは肩を竦める。

「家に帰らなくてもいいのか?」

「え? えぇっと、うぅ〜ん……」

 グレンは唸って言った。

「そのつもりでいたんですけど、いざ行こうと思うと、なんていうか……。帰りたくないっていうか……いえ、帰りたいんですけどね……」

「なんだそれ」

 グレンはいじけたようにうつむく。

「妹に会うのがちょっと恐くて。ぼくがグローラに留学へ出たころ、ヘレンはまだものごころつくかつかないか、くらいの年齢でしたし……そのあと一度も会っていないわけで……だから、ぼくのこと誰なのか分からないかもー、とか思うと……恐くないですか?」

「そういうものなのか」

「そうなんですよぉ……」

 グレンは顔を両手で覆った。しばらくしくしく言ってから、彼はパッと顔を上げた。

「殿下はこれからどちらに?」

「ちょっとした散歩」

 ダーヴィットはさっくりと答えた。グレンは少し考えるようなそぶりをしてから、一人でなにか納得した様子で手を叩いた。

「もし宜しければなんですけど、ぼく……と、ダスティンもご一緒させてもらえません?」

「構わないが」

 屋敷に帰る勇気を持てずにいるらしいグレンと、彼に従う騎士ダスティンを王子は受けいれた。

 リストはレイスとの結びつきが強い。国外との交易で栄えるレイスに位置的に近いリストは、国内流通の重要な拠点の一つだ。レイスとの良好な関係がなければ、リストは今ほど賑わっていなかったろう。レイスあっての都であるリストにとって、レイス侯爵の指示は無視できないものだ。

 ところが、近年のレイスの動向は国王派にとって目に余るものがある。栄えたがゆえに力を増したレイス侯爵は、国王の指令を無視することがしばしばあった。元が商人の家系で交渉上手なレイス侯爵は、国王に対して『提案』という名目の『脅し』を掛けることもあった。それを巧くかわせているのは、ひとえにルートヴィヒ王の冷静さと並外れた観察能力のためだろう。

 国王の古い身内であるレイス男爵家にしてみれば、気持ちは国王に寄っているが立場は中立を示さなければならない、というジレンマに陥るところだ。

 グレンのグローラ留学の件も、レイス侯爵に『提案』されての事だった。

「グローラでの生活はどうだった?」

 中心街を抜けて少し進んだあたりで、ダーヴィットは尋ねた。グレンは「んー」と少し考えてから答えた。

「僕が長くいた場所は、気候面ではレイスと大差無かったです。もちろん、もっと北に行けばうんと寒くなりますけど、南に行けば暖かいです。なんてったって広いですからねぇ」

 グレンは続ける。

「聖都エラドは夏の三ヶ月間は日が沈まないんですが――あ、知ってました?――逆に、冬の三ヶ月間は日が昇らないし。その間は本当に暗いし寒いし……。実際に体験するまで信じられませんでしたけど、本当に全然太陽が出ないんです。もう、気が滅入りますよ。『おひさまどこー!?』って。あんなに太陽が恋しくなるなんて……」

「リラも年中暗雲に覆われてるが、そういうのとは違うのか」

 ダーヴィットが質問すると、グレンは空を眺めた。

「うーん……なんか違いますね。ああ、多分雪です。エラドはその期間雪に街が覆われるくらい寒いですから。リラは雪って降らないじゃないですか。雨も降らないし」

「へえ」

「でも、建物が光ってるんで、街並みは明るいんです。こっちでは『光金』って言われてるもので外壁が造られていて、すごく……なんていうか、幻想的なんです。一回殿下にもご覧になってほしいなぁ」

 ダーヴィットはふと笑って言った。

「結構楽しんできたんだ」

 グレンはへらりとした表情で頭を掻く。

「まあ、正直なところ……」

 その後会話が途切れて旧市街を歩き進んでいると、建物の合間から教会堂の尖塔が姿を現した。それを見たグレンはまた何か思い出したようで、話しだす。

「そうそう、聖皇教に熱心な人が多くて。初代聖皇のアロイスは、ファーリーンで言うところのヴィート王のような存在ですけど……、もっと神格視されてます。なんだか不思議な感じがしました」

 ダーヴィットは首を傾げた。

「聖皇教ってのは、現在の聖皇ではなくて初代の聖皇だけを崇めているのか」

 グレンは曖昧に頷いた。

「初代は別格っていうか……。初代の教えを守り伝えるのが歴代聖皇の役目らしいです」

 ダーヴィットはなにか閃いた様子で、右手の人差し指を体の前でかざした。

「じゃあ、こういうことか。初代聖皇が聖典なんだ。で、歴代聖皇は聖職者のトップで国の統治者」

「そ、そういうことなんですか?」

 グレンは驚いたような感心したような顔をして言った。ダーヴィットは眉をくいと上げて答える。

「いや分からないが。聖皇教会についての話は帝国に入ってこないし」

「そうですよね。ぼくもあっちでは外国人だし異教徒だし、あまり詳しく聞くのもまずいかと思ったんです」

 グレンは頷きながら弁解した。彼はずっと教会堂の尖塔を気にかけていたが、いよいよ耐えかねたようになって言った。

「教会堂行きません? なんか恋しくなっちゃって」

「いいよ」

 王子は目的地をそちらに定めて、臣下たちについてくるよう促した。

 リラの皇族とは、月の民――即ち〈月帝神族〉――の末裔である。

 リラの地は、〈月帝神族〉が故郷へ還るまでの、仮の都。

 天界を追放された〈月の神子〉は、天界を臨むべく、リラの地に塔を築いた。しかし故郷はあまりに遠い。月宮にて〈月の神子〉に仕えていた二柱の守護者は、かれと共に地上へ降り、かれと共に地上へ残った。

 〈月の神子〉の守護者は、『天空神』と『賢神』。〈月の神子〉を不浄より守護するべく、天空神はリーンの民を生み、賢神はクレスの民を生んだ。

 やがて天界は衰退し、〈月帝神族〉は〈月の神子〉の帰還を望んだ。しかし、そのころ〈月の神子〉は、既に『神族』の器を失っていた。

 守護者たる二柱の神は〈月の神子〉に仕えるものである。リーンの民とクレスの民は、〈月の神子〉の末裔たる、リラの皇族に仕えよ。

 リーンの主は天空神である。クレスの主は賢神である。天空神と賢神の主は〈月の神子〉である。

 この不浄なる地へ落とされた〈月の神子〉の一族が、再び『神族』の器を得、天界へと還るそのときは、かれらに従順な二柱の守護者の子らもまた、天界へと導かれるだろう。

   風の都(3)

 小さな高窓の備わった石壁のファーリーン教会堂内へ、一行は足を踏み入れた。たとえ晴天の真昼でも薄暗く静かな会堂は、曇天の空模様の下であっても変わらない様相を呈している。一定の間隔をもって設置された燭台には昼も夜もなく明かりが灯されている。橙色のほの温かい光が、広い石室の中を照らしている。

 祭壇の奥には、建国者の像がある。そして、その彼を見下ろす守護者の姿。

 すっかり見慣れた偶像である。名も語り継がれなかった彫刻家が、はるか昔に蘇らせた英雄の佇まい。

 ヴィート王の没後、五世紀あまり経過してのちにこの世に生を受けたであろう芸術家は、この彫像だけを世に送り出し、それ以外には何も残さなかった。

 冷たい石による造り物。そこに血は通わない。鼓動もなく、体温もない。端正に整えられた容姿には、芸術家の理想が強く反映されていることだろう。しかしそれでも、どこか言いようのない生々しさがある。

 閉じられたままの両の目蓋は、時折うすく開かれるような錯覚を見るものに催させる。両手に握られた対の剣は、今にも空を切って振り下ろされようとしているようだ。放たれる威圧感にも似た気配は、何者によるものか。この石に篭っているのは、芸術家の思念だろうか。それとも、英雄の魂だろうか。

 司祭長は、王子たちがその場にやってきても驚かなかった。彼は穏やかに礼をして、一行を静かに見守った。

 礼拝時間外の教会堂には、しかしながら先客がいた。一人は、ダーヴィットらがよく見知った人物だった。赤みの強いブロンド髪を背中で一つに束ね、南東地域の緩やかな装束に身を包んだ男だ。敬礼をするように背筋を伸ばし、祭壇へ向かって一身に祈りを捧げる彼は、アクセル伯爵に他ならなかった。

 彼はしばらく微動だにしなかったが、王子たちが教会堂内を歩き進んでいくと、振り向いた。

「皆様おそろいで。いかがなさいました」

 アクセルは王子の姿にわずかに驚いた様子を見せたが、一瞬だった。ダーヴィットは隣のリスト貴族をちらと見て、答えた。

「少し散歩にでも出ようと思ってたところに、グレンに会って。話の流れで」

「グレン? ああ、君はグレンか」

「お久しぶりです、伯爵」

 右手を差し出すアクセルに、グレンもまた右手を差し出して応えた。再会の挨拶を済ませると、アクセルはにこやかに言った。

「戻ってきていたのか。この場所で再会するとは思っていなかったが」

「ぼくも、まさかここでお会いできるとは。アクセル様は、どうしてこちらに? ぼくはすっかりリーンの主と英雄が恋しくなってしまって」

 アクセルはわずかに自嘲的な表情を浮かべた。

「我らが帝国の守護者を参拝することは、なにも変わったことではあるまい」

 と、そこまで言って、彼はおどけたように肩を竦めた。

「……そう言えるようにするべきなんだろうな。ここ何日かだ。通い詰めていてね。自分の都合のよいときにだけ会堂に訪れて、毒を吐きたいだけ吐いて日常に戻ってしまう」

 すると、司祭長がこちらに歩み寄ってきた。

「なんであれ、この場にいらっしゃることが大切なのです。それに、私は皆さんの毒を受け止めるために、ここにいるのですし」

 アクセルは左胸に手を当てて、司祭長に敬意を示した。

「どうしたらあなた方のような人間になれるのだろうか」

「皆様となにも変わりませんよ」

 司祭長はこの上もなく懐の深そうな声音で言った。

 ダーヴィットは、ふとアクセルの隣に掛けていた人物に気がついた。先ほどから居たのだろうが、こちらに気を使ってか気配を潜めていたらしい。王子はアクセルに尋ねた。

「その人は? 知り合いですか」

 その人物は、やたらに長い脚を組んでひっそりと座っていたが、王子に指名されると顔を上げた。そして完璧な微笑を浮かべて、足首まで覆い隠す黒衣の裾を揺らし、立ち上がった。

 街の人混みに紛れても、かなり目を惹くことだろう、背はとても高く、手足は長く、すらりと姿勢がいい。華奢というわけではなく、決していかついというわけでもない。顔の造形は整っていて、白粉を塗りこんだらしい肌は、白く平滑である。しみやほくろの一つとてない。腰まで伸びた長髪は宵闇より黒く、燭台の光を艶やかに反射させている。しかしそれは『漆黒』以外の何色にも成り得ない。瞳は橙の光に透き通り、鮮やかな赤色を呈していた。

「どうも、はじめまして」

 そう言って、その人物は見本的な礼をした。

 一目見れば男だとわかるし、声も低い男のそれだった。口調や物腰に女々しさといったものは一切なく、仕草も至って紳士的である。しかし、それは顔に施された化粧のためなのか、はたまた別の何かが影響しているのか、彼から放たれるのは父性とも母性ともいえない、だが形容するならそれらに最も近い気配だった。

 どことなくルートヴィヒ王を彷彿とさせた。しかし、そう考えるほどにむしろ正反対にも思えてくるのだ。

 グレンは目を点にして、その黒ずくめの人物を見つめていた。黒ずくめの人物はグレンの視線に答えて、「あら、どうも」と言った。彼は右手を顔の横でひらひらさせる。

「グレンさん。お久し振りですね」

「な、な、アイロンさん! えっ、どうして?」

 ここが教会堂だということを失念したのか、グレンは声を張った。しかしアイロンと呼ばれたその人は別段彼を咎めもせず、完璧な動作でダーヴィットの方を向いた。

「ノックスと申します。以後、お見知りおきくだされば幸いです」

「あれっ? 人違い? もしかして双子? え? でもぼくのこと知って……」

 予想していたのとは違う名が紡がれたために困惑するグレンに、ノックスと名乗った青年は笑みを向けた。

「実は、『アイロン』は偽名のようなものだったんですよ」

「ぎ、偽名……?」

 反駁して、グレンは暫し視線を宙に彷徨わせた。やがて状況を理解すると、彼はほとんど上の空で頷いた。グレンは上の空ながらにも周囲を見回して、ファーリーン教会の重厚な装飾を確認した。

「あのー。アイ……ノックスさんは改宗したんです? ぼくの思い違いでなければ、あなたはこの前まで聖皇教会の司祭様だったと思うんですけど」

「よく覚えておいでで」

「覚えてますよそりゃ。ついこの間の話じゃないですか」

 ノックスはゆるやかに頷いた。

「そうなんです。もう一度あなたを驚かせますね。私は確かに聖皇教会の司祭をしていましたが、実は、聖皇教の信者ではないんですね」

「なんですかそれ! どういうことですか!」

 仰天するグレンの様子に、ノックスは品よく笑った。

「ほぉら驚いた。ぜったい驚くと思ったんです」

 グレンは胸を抑えながら、取り縋るようにして問い詰める。

「冗談なんですよね?」

「ご期待に添えずごめんなさいね」

 前言を撤回する様子のないノックスに、グレンは肩を落とした。そして二人の様子を傍観していたアクセルだが、彼は逆に肩を聳やかした。

「つまり、聖皇教では信仰心がなくても聖職者として認められるということか」

 ダーヴィットの問いに元聖皇教司祭は、困ったような顔をした。

「信心を持たないとは申しましたけど、敬意がないわけではありませんよ。そもそも、聖皇教では『信心』というのが最も重要な部分というわけでもありません。第一は『行動』であって、信仰心というのは自分を行動させるための理由です。善行をすれば幸福が与えられ、悪行をすれば罰が下される。それらを執行なされる大いなるものの存在を、信じるか否かは自由です。信じたほうが行動を制御しやすいのは確かだと思いますけれど、私は信心の代わりに敬意で行動しています。それでも良いと聖皇猊下が仰られましたから。聖皇教会ってね、結構ゆるいんですよ」

 ノックスの話を、司祭長は興味深そうに聞いていた。ノックスは「それと」と付け加える。

「万年人手不足ですし」

 一同の表情は様々だ。どこか納得したような顔をしている者もいれば、いまいちノックスの主張が飲み込めないでいる者、または話は理解できたが受け入れ難そうにしている者。

 いまひとつ腑に落ちない表情をしているグレンが、新たな質問をした。

「でも、なんでリディにいらっしゃったんです? それに、いつから?」

「ここに来た理由ですか。教会巡りが趣味なんです。あと、観光。七日前にリディの街に到着して、四日前からこの御堂の裏でお世話になっております」

 ノックスは軽い調子で答えた。そして体を祭壇の方へ向けた。

「宗教芸術には、惹かれるものがあるんです。一度見てみたかったんですよ、天空神とヴィート像」

 そう言って、惚れ惚れとしたようすで石像を見上げる。ダーヴィットはそんなノックスの横顔を眺め、呟いた。

「変わった人だな」

「よく言われます」

 ノックスは気を害した様子もなく、少年に笑いかけた。それ以上なにも言われないと見るや、ノックスは再度石像を眺めだす。まるで、そちらから目を逸らすことのほうが不自然であるかのように、彼の視線はそちらに吸い寄せられてやまないらしい。

「ヴィート王が今のように教会へ祀られ、人々の崇拝を集めるようになったのは、この像の影響でしたね。たしかに、この美しい天空神の御許に佇む姿というのは、素晴らしいものです。自分たちの先祖がこのような姿をしていたのだと言われたら、誰だって悪い気はしないでしょう。作者不詳とは、実に惜しいです」

 ダーヴィットは苦笑した。

「多分、相当美化されていると思う」

「そう思われますか」

 ノックスは笑みを浮かべたまま。片眉をくいと持ち上げた。

「初代ファーリーン王に限りませんよ。人々は人物にしても歴史にしても、あらゆるものを美化するものです。或いはね、そうであったように願ってしまう。行き過ぎた願いは事実を捻じ曲げてしまうこともしばしば。とくに、自分好みな姿へ、とね」

 ノックスは右の手を、石像の方へと伸ばした。遠いヴィート像に指先が触れることは決してない。しかし、彼は左の瞳をほそめて、真剣な面持ちで指先を動かしたのだった。まるで、ヴィート像と自らとの間に距離など存在しないかのように、彼は正確に凹凸おうとつをなぞる動作をした。

 それは、直視することが憚られるような行為だった。黒い手袋のはめられた手の指先は、石の肌にしつこくまとわる。緩慢とした動作で、表面をするすると撫で回す。やがては隙間へ挿し込まれ、縁をはじきながら抜き出される。

 高尚な“芸術品”に対する、崇高な行いには到底見えない。突然のできごとに、一同は呆然と佇むばかりだ。そのときグレンがふっと我に返って、ノックスを問い詰める。

「なな、なにをしてるんですか!?」

「何をしているように見える?」

 ノックスは恍惚とした笑みを浮かべてグレンを見た。グレンは一瞬身を強張らせた。

「……で、殿下! だめです、見ちゃだめですよ!」

「…………」

 グレンがダーヴィットの前に立ちはだかった。しかし既にその光景が視界へ焼き付いていた。彼はすっかり、ノックスという人物への評価を固めてしまった。『変人』以外の何ものでもない。

 ノックスは、直視できずに視線を逸らす者と、非難の眼差しで睨みつけてくる者たちを一瞥して、満足そうな笑みを浮かべた。そして手を下ろし、腕を組み合わせて、体の重心を片足に乗せて、何事もなかったような様子で言った。

「神像よりも、英雄像の方が手が込んでいるんです。さて、これはどういうわけか」

 そこで一旦言葉を止めて、ノックスは神像をじっと見つめた。そして再び、下方の英雄像へ。

「彼が神に愛されていたのであれば、神は存在するであろう。神に愛されていたのであれば、彼は完全であっただろう」

 ノックスは目を細めた。

「神像と英雄像を見比べたとき、どんな違いを感じますか? 私は、神像は『神』であり、英雄像は『人』であると感じます。英雄像は『人』として造られたんですね。おそらくは製作者と同じ、人間の器を持つものとして。同時に、神に愛されし偉人に対する畏れもあるでしょう。そして同じように、あらゆる抗いがたい欲求を生じさせる、人間の器の持ち主であることへの親近感と、連帯感と、そして背徳感」

 ノックスのまとわりつく赫い視線にも、ヴィートは一切表情を変えない。固まりきった体は身を引くことも決してしない。英雄の姿を通して、まるで己が吟味されているような感覚に陥る。それはひどく不快であり、まるで冷たい爬虫類が胸元を這いまわるような感覚を彷彿とさせ、肌が粟立つ。

 寡黙なリスト騎士のダスティンが、いよいよ業を煮やして苛立たしげにノックスへ詰め寄った。ノックスの背は、長身のダスティンよりも拳一つ分は高かった。

「恩人といえど、我々にとって崇高なる存在を辱める行為を、見過ごしはしないぞ。もしそれ以上続けるのなら、容赦せん」

 ノックスはゆっくりと瞬きをしながら、試すような視線をダスティンへ向けた。壮年の騎士は鋼のような精神で、その不快な視線に耐えた。

 やがてノックスは、ふっ、と頭を振った。

「喧嘩がしたいわけではないのです」

 黒ずくめの青年は、ようやく態度を改めた。再び紳士的な雰囲気を纏って、先までの艶めかしさはすっかり身を潜めた。

 初対面の者はともかく、それ以前にノックス――或いはアイロンと出会い知り合っていた者たちは、少なからぬ動揺を見せていた。彼はたしかに、他国においては聖職者であったし、ファーリーンの宗教にも敬意を持っているように振舞っていたのだ。

 少なくとも、今日のこの瞬間まで、グレンやダスティン、アクセルや司祭長はノックスを信用していた。しかしノックスの行動はあまりにも侮辱的で、極めて残念なことだった。

 ところが当のノックスはといえば、知人たちの心境には全く堪えぬ様子であるばかりか、さして興味もないようだ。

「敬愛する存在には、完全であってほしいものですね」

 赫い瞳がダーヴィットの瞳を覗き込んだ。ダーヴィットは目もとに力を込めて、相手を見返した。

「言っていることが分からない」

 彼は硬質に答えた。彼はノックスを警戒していた。まるで全身の毛を逆立てて相手を威嚇する猫のようだ。

 そんなダーヴィットに対して、ノックスはあの父性的とも母性的とも言える表情を浮かべて言ったのだ。

「ではいつか」

と。

 石室に響き渡る革靴の音が、耳の奥のほうで反響し続けていた。薄暗い室の中で燃える灯明は、「いずれまた会うでしょう」などと予言じみたことを口にして立ち去って行った人物の瞳と、似た色をしている。灯火と彼の瞳の違うところを挙げるのなら、炎は暖かく、そして揺らめいている、というところだろう。

 見上げたところには、以前となんら変わらぬ様子で佇む英雄がいる。色彩のない白い石の体は、弛緩することも、緊張することもない。放たれる鋭利な気配にも、変化などない。

 そのはずである。英雄王は高貴であり、厳格であり、生前の揺るぎない信念というものは、本来の身体を失った現在でも、“ファーリーン”を形造るものの内に存在しているはずだ。

 なにも変わりはしない。英雄王は現在も過去も未来も変わらず在る。

 変わるとすれば、それは今この世にある生者の方に違いない。

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