――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

第一章
夢の始まり

私たちは“同一”であり、

また“対極”でもある。

私たちは『一つのもの』より生まれ出で、

“私たち”という存在それこそは、『一つのもの』である。

“極”は『相対する二つ』があってこそ、存在し得る。

ゆえに、“対”を失った私は、どちらとも在れない。

『間』は“極”があってこそ、存在し得る。

ゆえに、“極”を失ったおまえたちは、存在し得ない。

 そこは、草木の一本とて存在しない錆びた土台。乾いた風が吹き抜ける荒野。

 赤い大地と黒雲の夜空の狭間に存在するは、女神の峰。彼女らの懐は、死者の領域。

 例えるなら、死した母の胎内に生きながらにして取り残された赤子の、孤独と絶望。

 されど、もしそこが聖域であるならば、あの大地と天空とを繋ぐ純白の塔は、児を生かし続けるだろう。

   プロローグ

 明暗の強く分かたれた空間内においては、ものの色彩は明瞭さを欠く。光に照らしあげられた色は限りなく白に近づき、闇に溶けこむ色は限りなく黒へと近づく。

 今、時の頃はおそらく真夜中。この場所に在っては、昼夜の概念など無きに等しい。天空には神話時代より晴れることのない黒雲がたちこめ、太陽の光さえも通さない。また、頭上に浮かぶ法陣はいついかなる場合においても、絶えず淡紫あわむらさきの光を地上にもたらす。

 ひとつ、常と異なる点を挙げるとするなら、それは西方にあった。そちらに並びそびえる山岳、合間から伺える彼方には、鮮明かつ鮮烈な光――例えば暁光に類似したなにか――が、諸手を振って天を仰いでいる。

 青年は、非日常的光景に声を失った。この地にまでも届く光輝というものはいかに強烈であるべきかを、彼は理解していたからだ。この世に生をうけたその瞬間から、いにしえより絶えず引き継がれる、神聖なる魔道のすべとともに生きてきた。それでも――否、だからこそ――細めた天界色の瞳にうつる光景が意味するところを、理解することは困難の極みである。

 背後から掛けられた声に、青年は意識を近辺へ引き戻した。その声は吐息がちで、どことなく現状を楽しむような調子である。そして深い笑みを含みながら、あの暁の光に似たものをからかうように、「ずいぶんと早い朝だ」と言う。

 青年は振り返り調べるでもなく、声の主が誰であるのかをさとった。そして安堵した。偉大なる父の気配を、彼は感じとった。

 白磁製の男は、我が子のとなりに並んだ。彼は造りものめいた相貌を射す光にうわべだけの文句を呟く。そして、自らの紅玉の左眼を真白い目蓋で覆い隠し、さらにその上には骨色の細く端正なてのひらで陰をつくった。一方で、人ならざる者がもつべき右の蒼玉は、ひたと、射るような視線をはなちながら光源の方へと向けられている。

 青年は、白き父の姿に吸い寄せられた眼差しを、再び光輝の方へと戻した。そうして、あれは一体何であるのか、と、別段答えを求めるでもない様子で口にする。

 白い男は、相変わらずの深い微笑を浮かべながら、穏やかに首をかしげるだけであった。

   夢の始まり(1)

 鳥の羽ばたきとさえずり、木々が風にさわめく音と、それらが鳴り合う緑の道。樹木の葉は重なり合い、空の色を半ば遮っている。その隙間から射し込み、地面に落ちる陽光のすじたちは、微かに揺らめきながら融合と分離を繰り返す。

 金糸雀カナリヤ色に似た金の髪を、天部から差し込む陽光にきらめかせる少年は、馬の背で揺れている。色白で高飛車そうな顔つきの彼は深海色の瞳を凝らす。彼は虫の居所が良くないようだ。「この辺りの筈だろう」

「ええ」棘を感じさせる少年の呟きを、右側で同じように馬に揺られている中年の男は肯定した。そして「しかし、それらしきものは見当たりませんね」と付け加える。

 少年の真後ろに次ぐ、長弓を背負った若い騎手が身を乗り出し「まるで星でも落ちてきたみたいでしたね」と、興奮気味に言った。しかし若者の冗談は少年の苛立ちをやわらげることはできなかったらしく、「馬鹿馬鹿しい」の一言で一蹴された。若い騎手は肩を落とした。

「一晩中光り輝いてくれたおかげで一睡もできなかった。ただでさえ羽虫だらけでうんざりしてるってのに、冗談じゃない」

 低い声で恨み言を言う少年を、隊列の最前を進む灰髪の男が振り返る。彼はからかうように笑う。「なるほど。それでいつにも増してご機嫌斜めなんですね」

 少年は灰髪の男を睨みつける。「僕が、一体、いつ不機嫌だった?」彼は言葉を丁寧に区切りながら訊ねた。少なくとも今この瞬間は不機嫌そうであるが、灰髪の男は「私の勘違いでした」と肩を竦め、前へ向き直った。

 金髪の少年は口元を歪め、隈の浮き上がった目元をおさえた。もう何日も安らかに眠れていない。疲れきった瞼を閉じ、それを再び開いたとき、彼は何かに気付く。少年が馬の歩を止めたことに気づいた中年の騎手が「いかがなさいましたか」と声をかければ、他の者たちも静止した。少年の視線の先には、森の奥へと続く横道がある。

 長弓を背負った若い騎手は首を捻った。「来るときありましたっけ、こんな道」

 彼の隣に並ぶ女騎手が、若者の横顔をじっと伺い見る。一方で、前列を行く灰髪の騎手はため息をつく。「阿呆なこと言うなよ。前からあるに決まってるだろ」

 小さくうめく若者の代わりに声を上げたのは、隣の女騎手だった。「“あった”と記憶しておられるのですか? 私は“なかった”と記憶していますが」

「冗談だろ」灰髪の男はこめかみを押さえた。「現実的に考えろよ」

 灰髪の彼は、最後列で周囲に気を配り続けている年下の同期を伺う。気どったしぐさがやや鼻につく、明るい茶髪のその男は、思案するような間を持たせてから答えた。

「たとえば、その横道に何者かが潜んでいたとして、それが突然飛び出してきた場合、僕がやるべき最も適切な行動とはなんだろう。……って、思いながら僕は五日前も通ったよ、ここを」

 灰髪の男は「そらみろ」といったように肩を竦めた。女騎手は眉根を寄せる。

 金髪の少年は周囲の会話に関心などないようで、問題となっている道を凝視している。中年の騎手は少年を眺め、横道を眺めた。彼は短く息を吐く。

「誰も適当なことを言わないのは分かっている。魔道術に影響されればこういったこともあるのだろうが、そうであれば我々に対処のすべはない」部下達を仲裁した彼は、隣の少年に声を掛け、この場から離れることを促した。

 しかし、それまで微動だにしなかった少年が、突如馬を駆った。はじめからあったのか、なかったのか、判然としないその道の方へと。騎手たちは驚愕の叫びを上げるが早いか、少年の後を追っていた。

 しかし、はたして制止の声はその耳に届いているのか。呼びかけに対して少年は反応せず、前へと駈け進んでゆくばかりである。「魔道術」という言葉に心臓を掴まれた騎手たちは、少年が“何かしらの術”によって操られている可能性に思い至る。道は細く、暴走する少年を停める為に回り込むことはできない上、どこまで続き、進むのかも分からない。

 中年の騎手が、前方の少年の背に向かったまま声を上げる。「リーンハルト、マチルダ、お前たちは引き返せ。リディへ戻り陛下へお知らせしろ」

 マチルダとリーンハルトの若い騎兵二人は機敏に反応し、馬首を反転させ来た道を引き返した。灰髪のジェレミーと、気取り屋のアンドレ、隊長エリアスの三名は、少年を追い続ける。両側に迫る木々が、前方から後方へと猛る勢いで過ぎていった。

 一体どれほどの距離を駆け抜けたことだろう。

 随分と長いこと走った気がする。

 しかし、未だ心音は十回となっていない。そのような気もする。

 時の感覚が、どうも狂っているようだ。自分が今どこにいるのか、まるで見当がつかない。普段であれば、経過時間から移動距離を割り出すことも、その逆も、造作なくやりのけることができる筈であるのに。

 “夢の中”とでも言うべき曖昧さの中に、己の身も魂も置き去りになっているような感覚。思考だけが尚も働き続け、既に死んでいるのか、それとも生まれてさえいないのか、そんな形のない自分という存在が、奇妙なまどろみの中にいる気がした。

 どれほど駈けても……否、実際には大して駈けてはいないのかもしれないが、走らせる馬には疲労の様子は現れなかった。

「……これさ、帰れなくなったりしないかな」

 アンドレが引き攣った笑みを浮かべながら言った。彼自身、自分の口から出た声が、自分のものだという自覚は殆どなかった。ジェレミーは体が震えたことを誤魔化すように、舌打ちをした。

「くっそ恐ろしいこと言うなっての。笑えねえから!」

 自分の声は、こんなものだったろうか。周りを見渡すほどに、この目が自分でない誰かのものであるように感じ、蹄に潰される草の呻きを聞くほどに、この耳が自分でない誰かのものであるように感じた。

 代わり映えのしない光景は、同じ場所を繰り返し走り続けているのではないか、という不安を彼らに生じさせた。しかしその不安感さえも、はたして本当に自分自身が抱いたものなのか、自信が持てない。

 光景に変化が生じたのは、突然だった。唐突に先が開けたことに気付いたときには、光の中に飛び込んでいた。

 草木の廊下は、広い空間の壁へと繋がっていた。円形の天井は高く、淡い青色の空を映しだしている。まるい青空からは陽光が差し込み、それに照らされる緑色は、奇妙なほどに美しい。

 金髪の少年は馬を止めていた。三人の騎兵も止まっていた。

 濃い草色の広場の中央には、緑の苔に侵食され、蔦に絡みつかれた、“何色”とも表現しがたい巨石が横たわっていた。その傍らに毛先の黒ずんだやわらかな金の髪をもった子供が、こちら側に背を向けて、ただ静かに石を眺めている。

 エリアスはふと我に返り、術に掛かってしまったままらしい先頭の少年の隣へ移動し、彼の肩を揺すった。すぐに引き返した方が良い。既に手遅れかもしれない、などという考えがちらつくが、それを本気にすることは許されない。しかし当の少年はというと、何てことなさそうな顔をして騎兵らを振り返った。

「なんだ、別に幻覚を見たわけじゃない。……なんだか気になったから……。どちらにせよ、ファーリーンの領内で起きることは把握しておかなければならないだろ」

 少年は、彼にしては珍しい曖昧な口調ながらも、あくまで自分の意思でここまで来たのだ、と主張した。しかし、彼も他の三名と同じようにどこか呆けた顔をしており、現状を理解しようと努力している様子だ。ジェレミーが盛大なため息をついた。

「そうは仰られましてもね……。ええ、ええ! 確かにその通りですとも、国内情勢を自ら知ろうとなさる御姿勢、実に素晴らしい! 好奇心を発揮するのは状況をちゃんと見てからにしてくださいよ。我々はそう簡単にはくたばりゃあしませんけどね、あなたに付いて守ろうと思ったら命が幾つあっても足りやしません! 我々は大抵のことには対処できます、確かに、ご信頼いただき光栄です! しかし怪奇現象への対処法なんて学んだことありませんから。滅多にいませんよそんな奴は! はっ、帰れない! どうします? 我々は死んでもあなたをリディに帰さなければならないのに、死んでも帰せないってなったらどうすりゃ良いんです!? 神よ!!」

「ま、まあまあ……」

 一気にまくし立てて息を荒げ肩を上下させるジェレミーを、アンドレが宥める。少年は灰髪の騎兵の文句を黙って聞いていた。最年長のエリアスは至って冷静で、彼は佇む子供に慎重に声を掛けた。

「ここで何をしている」

 と。だが子供は聞こえていないのか、全く反応しない。声を上げることもなければ、振り返る気配もない。未だぶつぶつと文句を言い続けるジェレミーを置いて、少年は鞍から降り、瑞々しい草を踏みしめた。騎兵らも慌てて馬を下り、控えた。懲りない少年の好奇心に対し、ジェレミーが更なる苦情を投げかけたが、当人は意に介さない。

「おい、お前。質問に答えろ。ここで何をしている? 何も言わないのなら、我々はお前が何か後ろめたいことをしているものと解釈するが」

 少年は、あちら側を向き続けている子供に言った。それから数拍、やはり無反応かと一同が判断する頃になって、子供はようやく言葉を発した。

「なにか、困ったことでもあった?」

 変声しかけの、中途半端で危うい声だ。そしてそれは、エリアスや少年の質問に対する答えではなかった。質問に質問で返される――、いつもの少年なら気分を害しただろう。しかし今の彼の心は少し広くなっているようで、ここに至るまでの詳細を子供に話して聞かせた。その行動は付き従う三名にとってはとても意外なことであった。ジェレミーやアンドレは「珍しいこともあるものだ」と言いたそうな、あからさまに驚いた顔をした。

 一頻りの説明を受ける間、子供の方はといえばやはり聞いているのか聞いていないのか、相槌も打たずあちらを向いたきりだった。しかし少年の話がひとまず終わると、子供は「ふぅん」と言って、また二拍か三拍か黙りこくってから、ようやくのろのろとこちらを向いた。

 子供の大きな瞳は、琥珀色と濃紫が複雑に混ざり合い、しかし濁ることもなく、澄んだ不思議な色合いをしていた。どこか心ここに在らずといった顔つきをしているが、その不思議な瞳の奥深くにはなにか、確固としたものが存在しているような気がする。彼は十三、四歳くらいに見えた。

 子供は小さな口を、しばしの間モゴモゴとやっていた。やがてうぅん、と唸って、周囲を見回しながら言った。

「期待されてるところ悪いんだけどさ……、僕、そういう難しい術……? とかいうのは使えないよ。……なんだかなぁ、頭がぼぅっとするし……。あぁ、もしかして、僕もその術とかいうのに掛かっちゃったのかもね。……ん〜、ところで僕はなんでこんな所にいるんだろ?」

「知らん……」

 寝起きたばかりといった風情でもたもたと喋る子供に対し、少年もややつられ気味に、幾分かいつもより声を抑えながら答えた。彼ら一行は、一連の怪奇現象の原因がもしかするとこの子供にあるのかもしれないと思い、そのように期待していた。しかし、どうやら当ては外れたようだ。この寝ぼけた子供に何か特別な能力があるようには思えなかった。ジェレミーを宥めていたアンドレが、子供に尋ねる。

「じゃあさ、昨晩この辺りがものすっごく明るく光っていた、ってことは知ってるのかな?」

 子供は「あ〜、う〜」などと首をひねった後、

「全然だね。さっぱり」

 と答えた。

 一行はすっかり拍子抜けしていた。怪奇の道を抜けた先にひとり佇む子供の後ろ姿を見た時、はて一体どんな得体の知れない不審者だろう、と身構えたのに、実際話してみればただの寝起きの子供の様子、そのままであったのだから。一行の主たる少年は、額に手をやりつつ溜息を吐いた。

「はぁ……。まあ、いずれにせよリディには連れて行くさ……」

「リディ?」

 子供は聞き返す。至って親切な調子で、少年は説明してやる。

「リディはファーリーンの首都だ。僕はそのファーリーンの王子、ダーヴィット。連れの三人は、護衛の近衛騎兵だ」

「ん? ……ファー、リーン……?」

 大国名の一つたるその言葉にさえも聞き覚えがないのか、子供はぶつぶつ繰り返しながら首をひねっている。彼は、金髪の少年ダーヴィットが一国の“王子”であるという言葉には大して驚いていない。それどころか、関心がなさそうだった。

 一人黙って先のことを考えていたらしいエリアスは、王子の方を向いて提案した。

「この状況が魔道によるものであれば――ほぼ確実にそうであると考えますが――、我々も含め、ファーリーンの人間ではまず対処ができません。助けを待つにも、これでは何日凌げばよいのか……。元の道に戻れる保証はありません。しかし、ここはその者も連れて、引き返してみませんか」

 ダーヴィットは控えめに頷いた。彼の突拍子のない行動によって、彼らは奇妙な次元に迷い込んでしまったらしいのだ。王子はそのことを謝りはしないが、責任を感じているのは傍から見ていても確かだった。

「おい、お前。名を名乗れ」

 ダーヴィットは子供に命じた。しかし彼は一瞬ぽかんと間の抜けた顔をしたのち、眉を顰めた。そして、ぽつりと呟いた。

「名前……、なんだっけ」

 はたして、己の名が思い出せなくなるほどの寝ぼけとは、いかなるものであろうか。王子は少なからず驚いて、まじまじと子供の様子を伺った。子供は首をひねり、うーんうーんと唸った。

「アル……とかなんとか……僕の名前かな。そんな風に呼ばれてた気がする」

「愛称だろうね。『アル』になる名前って結構多いけど」

 アンドレが言った。ジェレミーが少し考えるそぶりをしてから、例を挙げた。

「アルフレッドとか?」

「アルトゥールの方が良くない?」

「いや、それだと“アート”になるだろ。アレクサンダーの方がいかしてる」

「何言ってるんだい。どう見ても“アレックス”って顔じゃないよ。もっとこう――」

 もはや名付けするような勢いになりながら、二名は言い合った。そんな護衛らを横目でみやりつつ、ダーヴィットもまた一つの名を口にした。

「アルベルトとか」

「あ」

 子供がそれに反応を示した。

「アルベルト。うん、そんな感じ。……違った気もするけど。でも気に入ったからそれにしよう。僕、アルベルトね。よろしく」

 そう言って、まるで幼子のような無垢な笑みを浮かべた。己の名も知らぬという状況で微塵も動じた風でなく、また思い出したそうな気配も見せない様子が、いっそ異様だ。一行は目を見合わせた。

 アルベルトはエリアスと同じ馬に乗せられた。果たして元の道に戻れるだろうか……手に汗握る思いをしながら、彼らは馬を進ませた。

 アルベルトを発見したところまで、彼らは相当な距離を移動していた気もしたし、そうでない気もしていた。そのことについて深く考えようとすると、どうにも気分が悪くなってくる。今共にいる仲間たちとも逸れてしまうかもしれないという恐れを、彼らに抱かせるのだ。

 しかし、帰りの道程はあっけなかった。半マイルとも十マイルとも、それ以上とも感じられていたものが、引き返してみればどう多く見積もっても三百ヤード程度しかなかったのだ。彼らは拍子抜けしながら、元の道へ辿り着いた。かの横道は常に一本で、往路でやたらと遠回りをしたはずはない。

 そして、更に驚いたことが待ち受けていた。横道から抜け出したばかりの場所に、先にリディへ向かうように指示したはずの若い騎兵二人が、未だ留まっていたのだ。

「あれ……? 早かったですね……」

 弓兵のリーンハルトは青白い顔をして、合流した主人と仲間たちを見回しながら、力なく言った。ジェレミーは驚きの表情を顕にする。

「早い? んなことないだろ。お前ら、何だってまだここにいるんだ」

「いえ、あたし達、今ようやくここまで戻ってこられたんです」

 女騎兵のマチルダが、見知らぬ少年を横目で確認しながら、やつれた笑みを浮かべる。

「けど、皆さんはあたし達ほど、帰ってくるのに時間は掛からなかったみたいですね?」

「そのようだな」

 エリアスがくたびれた表情で、溜息混じりに応えた。部下と王子の手前、冷静に振る舞ってはいたが、実際のところは彼も――むしろ、彼が最も――神経をすり減らしていたらしいことが窺えた。

 そんな騎兵らの様子を見て、アルベルトは王子に耳打ちした。

「あんまり迷惑かけちゃダメなんじゃないの?」

 相も変わらず畏れない物言いをする少年に、ダーヴィットは気難しい顔を向けて、「ここに放置していくからな」と脅した。

   夢の始まり(2)

 リディは低山に築かれた城塞都市である。北側の崖を背にして王城が建ち、南側のなだらかな坂に庶民の生活域が形成されている。都市は王城を含む中心街、その外側の旧市街、更にその外側の新市街から成る。各市街の境には、高さ十五ヤード以上に及ぶ石の壁が存在し、戦などの人災対策の面では、国内で最も安全だと言われる。

 また、ファーリーンの宗主国である“アルディス帝国”にとって、この王国の持つ兵力は無くてはならないものだ。ファーリーンは古くから騎士が支え繁栄させてきた国家で、ときに“騎士国”とも呼ばれてきた。現に、ファーリーンの王族男子は過去から現在に渡り例外なく皇帝の騎士である。国内の大都市は必ず騎士団を持ち、国の人口からみた割合としても単純な数としても、兵数は世界一だ。

 軍事力の開示は他国への威圧のためにされており、それが実際に活用される機会というものは限られている。公には、現在のファーリーンの軍は国防の為だけに存在している、ということになっている。だが威圧に説得力を持たせるためにも、民間志願兵として有事の際に戦地に赴く本職商人・農民・その他職業の者達もまた、日々の鍛錬を怠らない。体格の良い国民が多い理由には、そういった事も少なからず影響しているだろう。

 現在ファーリーンの兵力は同国の歴史上で最も充実している。差し掛かりはここ三十年ほどの間に起こり、それ以前は“少数精鋭”が重視されていた。ところが実際のところは、確かに少数ではあったかも知れないが、必ずしも精鋭とも言えないものだった。騎士の資格を得られるのは貴族のみで、正式な武具を持つことが出来るのも貴族や一部の金持ちだけであった。貴族の男子は、幼いころより剣や槍、弓など一通りの武具の扱いを教えこまれるゆえ、町村から徴兵された庶民と比較したら有力である場合が殆どだった。しかしやはり例外というものはある。

 二十四世紀という長い歴史をもつファーリーン王国では、建国当初より封建制をとっている。国王の独裁的執政により、事実上の絶対王政と化していた時代もあるが、基本的には貴族が力を持っている国だ。彼らが優れた政治家・軍人と評価された時代は確かにあり、それによってファーリーンが栄えたことには間違いない。しかし、近年は堕落した傲慢な権力者ばかりが『貴族』・『騎士』と呼ばれるようになっていた。元来実力主義であったファーリーンでは、生まれ持った身分が低くとも、戦で手柄を立てるなどすれば貴族の称号を得ることができ、現在各領地を治める貴族の家系も殆どがそうやって築かれたものだ。だが、いつしかそういった制度は機能しなくなっていた。

 国王は飾りのような存在と化し、最高権力者とは名ばかりで、そこから実権は失われていた。

 そんな状態が改まり国王に権力が戻ったのも、やはりここ三十年ほどの間に起こった出来事だ。国王が再び権力を持つようになり生まれたのが、『王属騎兵団』。生まれ育ちさえ隠さず明らかにするのであれば、元が乞食であろうが国外の人間であろうが、ファーリーンの貴族であろうが平等に扱う。必要なものはファーリーンへの忠誠心と、戦力。それだけだ。しかし入団の為に設けられた厳しい試験は、無知な善人にあらゆる知識を叩き込み、かれらの心身を痛めつける。それを耐え抜き不撓不屈の精神を得た者だけに、王国最高のほまれは与えられるのだ。恐ろしく狭い門を潜り抜けた先で近衛にでも選ばれようものなら、末代までその者の名は語り継がれるだろう。

 しかしそんな心身を鍛え抜かれた猛者たちが、普段何をして生活をしているのかといえば、――気の抜けない厳しい訓練に血反吐を吐く思いをするのは日常だが、それ以外のことを挙げれば――大抵はリディの壁の修復・補強作業であり、やはり実戦上に赴く機会はそうそうあるものではない。

 これらの説明を、ダーヴィット王子とその付き人たちは、新顔のアルベルトにしてやった。

 二日半に渡る馬旅を終え、王子らはリディへと帰還した。新市街の正面門の門番が王城へ知らせを届けるために要した時間は、非常に短かった。

 旧市街の門を潜れば、街人が列を成して王子の帰還を待ち構えていた。更に中心街に入れば、王城へ続く上り道の両脇に騎兵がずらりと整列している。演習や工事作業の途中だったとみられる兵がちらほらと居て、正装の者ばかりではない。しかし敬礼の姿勢は完全に統一されていた。王子と護衛の近衛が通り過ぎると、騎兵らは左胸に添えていた拳を下ろしつつ機敏に直立不動の姿勢をとり、その後一歩下がって持ち場に戻ってゆく。

 坂の上に見える王城は厳かだ。遠目からでは、無駄な装飾の施されていない、直線的で無機質な建造物に見える。だが、よく近づいて観察してみれば、計算され尽くした黄金比で構成された精密な文様や彫刻が、石の壁と床と柱、諸々を飾っている。無骨さの中にも繊細さが窺えるだろう。

 きょろきょろと辺りを見回していたアルベルトが驚嘆した。

「凄いなぁ。お城ももちろん凄いけど、街を囲んでる壁なんてさ、造るのにどのくらい掛かったのかな」

 四十万もの人間を収容する壁は、確かに気が遠くなるような規模である。心なしか自慢げに、ダーヴィットが答えた。

「リディは古代大戦時代の建築の一つだ。古代の建造物と分かるものは、世界のあちこちに残っているが、原型を残しているものは少ない。ここと同時期に造られたと言われてる“リラ”を見ればきっと分かるだろうが、当時は今より魔道が栄えていた。完全な人力ならそれこそ百年単位の時間が掛かるだろうが、古代の技術なら僕らが想像するほどの苦労はせずに済んだんだろう」

「凄い技術だ。どうして今は廃れてるのかな」

 素朴な疑問を、アルベルトは投げかけた。ダーヴィットは一瞬肩を竦めて答える。

「ファーリーンは特に廃れてるんだ。リラとかアウリーとか、ヴィオール辺りはまだ魔道が力を持ってる。まあ、それでも古代には及ばないんだろうけど。そもそも、古代大戦の発端として有力な説の一つに、『魔道の発展によるもの』ってのがある。実際のところは分からん。なんせ、二十世紀も前に決着がついた話だし、発端なんてそこから更に五十世紀も遡らなきゃならないんだ。それで足りるかも怪しいな。当時の書物も無ければ、伝説だってあちこちにあってどれが正しいのか分からない。せいぜいその程度の事しか知れない」

「この国に伝わる伝説は?」

 アルベルトが興味深そうに尋ねた。

「もちろんある。ファーリーンは至極英雄的存在だ」

「それを信じたら良いんじゃない? なにか問題でもあるの?」

「別に、問題というか……。信じ切れないだけだ。ファーリーンには善であって欲しいと思うが、実際に善であったとは限らないだろ」

「ふぅん」

 ダーヴィットの答えに相槌を打って、アルベルトは黙った。

 城へと続く坂は、途中から階段へと変わる。一行は馬から降り、その長い階段を上った。鍛錬を積んでいる騎兵ならいざ知らず、王子やアルベルトといった成長途中の少年には決して楽ではない。階段を登りきった時、二人の息は上がっていた。

 彼らは呼吸を整えて、巨大な城門をくぐった。

 重い音を立て、扉が開かれた。王子の帰還を宣言する声が広大なホールに響き、家臣たちが出迎える。ホールの天井は高く、中央には幅広の階段が、どんと構えている。その階段は、謁見の間の扉と東西の主回廊への入り口とを繋ぐ橋への、唯一の上り口だ。

 その階段を、丁度二人の女性が下りてきた。一人はダーヴィットに付く護衛と同じ格好をした、女性にしてはかなりの長身で、非常に肩幅が広い、戦士然とした黒髪の者。もう一人は、もっと小柄で愛らしさのある、ダーヴィットと同じ明るい金髪と深海色の瞳をもった美女だった。彼女は長い髪を柔らかく揺らし、ドレスの裾をほんの少し持ち上げつつ、ゆっくりと彼らに近づいた。

「お帰りなさい、ダーヴィット」

 その声は、穏やかな風に揺られて鳴る、草木のさわめきのような、静かで優しいものだった。しかし辺りの喧騒にもそう簡単には紛ることもないだろう、強さのようなものも感じさせる。彼女は見慣れない子供に、穏やかに微笑みかけた。

「こちらの方は?」

「拾った」

 ダーヴィットは簡潔に答えた。まるで道端の落し物でも持ち帰ってきたようなもの言いだ。女性は絶句したが、当の拾われものは「その通り」とでも言うのか、ニコニコとしている。しかし女性は済まなそうな表情を浮かべて、子供の方を向いた。

「ごめんなさいね……。わたくしは、マリアといいます。この子――ダーヴィット――の母です」

 そう言って、マリアは美しいお辞儀をした。対するアルベルトも名乗った。

「アルベルトです。お母さんだったんですね。お姉さんかと思いました」

「あら、お上手ね」

 アルベルトのお世辞に(といっても実際に彼女は若く見えるのだが)マリアはクスクスと笑った。

 そのやりとりを、ダーヴィットは気難しい顔で眺めていた。

 帰還の報告をするために、一行は王の執務室へと向かった。

 ダーヴィットらは、宗主国であるアルディスの同盟者『北方遊牧民シーク』の長たちの集会に出席し、その帰りにアルベルトと遭遇した。騎兵団に対するシーク民の融資――それは他でもない“馬”だが――を得ることは、ファーリーンの軍事力の強化に必要不可欠であり、また彼ら遊牧民は基本的に機動力の高い軽騎兵の集団でもある。敵に回すような事態は、極力避けねばならない。過去、彼らの不興を買って滅ぼされた国の数を数えるためには、両手の指を一回ずつ折るだけでは足りない。彼らの行動域は中央大陸全土を埋め尽くす寸前まで広がったこともあり、その際には帝国の存続も危ぶまれた。

 広々とした謁見の間を素通りし、ダーヴィット達は王の執務室へと続く廊下を進む。王のもとへ近づくほどに、ダーヴィットからは彼がいつも放っている気迫のようなものが失せていった。

 しばらく行くと、遠目からでも王の近衛が二人、執務室の扉の前に立っているのが見えた。波打った鮮やかな赤毛を両肩に垂らした、比較的細身の青年が、かったるそうにフラフラ揺れている。

「う〜、くっそ、くっそ。交代まだぁ? もう時間過ぎてんじゃねぇの〜? 早く来いよ。あ〜、もう、ホント、早く来なさい。早く来るんだ。早く来やがれッ!」

「しゃんと立てよ。仕事中ずっとフラフラしてるくせに、文句言うな」

 赤毛の騎兵とは対照的に、きっちりと背筋を伸ばしている真面目そうな騎兵が注意した。

「それと、交代の時刻までは十五分ある」

 抑揚のない相手の言葉に、赤毛の騎兵は舌打ちした。

「うるっせぇな。分かってんだよ、ンなことは。分かってて言ってんの、オワカリデスカ〜? えぇ〜? もぉ〜、何が辛いってさ、お前と二人でいる時間がホント辛いわ。地獄かここは。ここが地獄なのかぁ。あぁ〜ん、誰か哀れなボクを救ってクダサ〜イ! この顔面硬直悪魔から解放してくらさいよぉ〜。うぇ〜ん。シクシクぅ」

 赤毛の騎兵は顔を両手で覆って、あからさまな泣き真似をした。明らかに仲が宜しくない様子だ。不快感を顕著に表す赤毛に対し、その相方は静かに溜息を吐く。

「喧しい。黙って立っていることもできないのかお前は」

「ウェェン」

「黙るか姿勢を正すかしろ。どちらかでもやると死にでもするのか? おい」

「グスングスン」

「……なんで俺がこんな奴と組まなきゃならないんだ。煩いし邪魔だし。一人の方がずっと良い」

「フワァ〜! 凄いや意見が合うなんて〜! ボクもボクも! ボクもで〜すぅぅ」

 赤毛の騎兵が素早く顔を上げた。不自然な満面の笑みを浮かべて相方を見る。威圧的な無表情と、相手を激高させる類の笑顔が暫しの間ぶつかった。先に顔の筋肉を動かしたのは、真面目な騎兵の方だった。彼の引き結ばれた口元と頬が、ピクピクと痙攣した。

「今後一切自力では口が開けないように縫合してやる」

「ハァンッ」

 赤毛の騎兵は柔軟な顔の筋肉を使い、これでもかというほどに歪んだ表情を作った。そして自分より背の高い相手の顔を、下方からグイッと覗き込む。

「いっつもいっつもお小言いっぱいアリガトウねぇ! 姑ババアでももっとマシなこと言うわ!」

「当然だ馬鹿が。俺はお前の姑じゃないからな!」

「ハイハイそ〜ですねそ〜ですねお仲間ですねボク達は大切なお仲間でぇす! 滅しろインキン。テメエの近くにいるとなぁ、体中カユくなんだよ!」

「ほぉう? なるほど、分かった。いいだろう。ならスッキリさせてやる!」

 真面目そうな騎兵が長剣を抜いた。それに対する赤毛の騎兵は、もはやわけのわからないことをひっきりなしに喚いて、スラッとサーベルの切っ先を相手に向けた。

 王子は既に至近にいるというのに、彼らは憎たらしい相手の事しか視界に入っていないらしい。かろうじて相手に斬り掛かりはせずに耐えているが、王子の方には見向きもしないあたり、相当な興奮状態にあるようだ。目の前で剣先を相手に向けたまま言い争う先輩の番兵二人の間に、恐れげもなく割って入ったのはマチルダだ。

「お二方。執務室の前です。陛下は今現在、お仕事中ではないのですか」

 そこで言い合っていた二人は、ピタリと静止した。次に発するべく喉に上がらせていた言葉を、キュッと呑み込んで、二人は剣を収めた。そして何事もなかったように敬礼して、王子を歓迎した。

「お帰りなさいませ、王子殿下。陛下がお待ちです。どうぞお入りください」

「賑やかでしたね」

 執務室の扉を開けるなり、机に向かい忙しなくペンを走らせる男性が、顔も上げないまま笑い混じりに言った。騒ぎ立てた二名は気まずそうに俯いたが、俯いた姿勢のままで互いを未だ睨みつけている。王子と護衛、アルベルトが全員執務室内に入ると、背後の扉は静かに閉まった。だがその扉の向こう側からは小声で言い争う声がまだ聞こえてくる。

 部屋の中央の卓に向かう男性は、処理済みの書類を傍らの政務官に手渡した。その時ついでのように顔を上げて、微かに口角を上げながら訪問者を一瞥した。

「お帰り」

 彼はすぐに視線を外し、机の端に積まれている紙をまとめて十枚ほど手に取った。それをぱらぱらと捲ると、一番下の一枚と中程の二枚を抜き取って手元に残し、それ以外を机の右端に寄せた。そして足元の収納から便箋らしきものを取り出すと、先の三枚の紙を捲ったり戻したりしながら内容を確認する。

「どうぞ、話してください」

 重厚感のある万年筆を便箋の上に走らせながら、彼は促した。ダーヴィットが口頭での報告を始めた。

 書類仕事に集中しているらしい男性の顔立ちは、王子ダーヴィットとよく似ていた。王子とは違い、黒髪と翠眼の持ち主で、肌の色もダーヴィットより幾分か強めだ。鼻梁の線がくっきりとしていて、王子よりも精悍な造形をしている。しかし、おそらく初対面の人間が二者の姿を見た時には、まず“親子”かごく親しい肉親同士であろうと予想するだろう。

「王様?」

 アルベルトは小声で隣のリーンハルトに尋ねた。若い近衛騎兵は黙って小さく頷いた。

 王は穏やかそうな性格の持ち主に思えた。口調や纏う雰囲気に落ち着きがあるためだろう。

 彼は素性不明の少年アルベルトを一瞥した時、驚いた様子も一切なく、他の者たちと同様に微笑を向けてきた。しかし、その実強い威圧を与えられたことに、アルベルトは気づいている。ほんの一瞬間合った翠の瞳には、並の精神力を持つ人間を大人しくさせておくには十分なものが宿っていた。

 アルベルトがあれこれ感心し、室内を無遠慮に見回している間にも、ダーヴィットは件の報告を終えたらしい。「以上」という締めの言葉が発せられた後は、暫し紙の折れる音だけが室内に響いていた。王は報告を受ける間に書いていた手紙を蝋封し、先に除けておいた紙束の上に乗せた。そしてそれらを隣の席の政務官の机に移した。

「“要点を明確に”そう添えて、これら全てレイスへ送り返すように」

 政務官は頷き、書類と王の手紙を丁重に受け取った。

 王はそこで漸く一息ついて、椅子の背もたれに寄りかかった。

「絹物一反でラザやリャードの馬一頭が買えるなら安いものです。あちらが現状で満足してくださっているのなら何より。良い返答をしましたね、ダーヴィット。ご苦労でした」

 そして彼は自分の右肩を揉みながら続ける。

「それと、これは別の件ですが。夜中眩しかったでしょう。リディここからだと、丁度みなの通り道の近辺に原因があったように見えたのですが」

 王の説明要請に、エリアスが一歩進み出て発言する。

「その件に関しましては、こちらの少年と絡めて説明致すことになります」

 王の視線が再びアルベルトに向く。穏やかそうな微笑を浮かべつつ、微かに首を傾げてみせる彼の仕草は、“名乗らないのか?”という無言の圧力そのものだ。

「ええと、アルベルトって呼んでください」

 少年は仮の名を名乗った。なっていない口の利き方に渋面を示したのは、王の傍らの政務官らだった。一方の王本人は別段気にしたふうでもなく、静かに席を立つ。

「ファーリーン王国一五四代国王、ルートヴィヒです」

 と、改めて身分を明かした。そしてまた静かに着席して、彼はエリアスに続けるよう促した。

くだんのものが現れた翌日、我々は光源が存在していたと思われる地帯を捜索いたしました。結果、直接的な関係性は不明でありますが、おそらくは魔道術の類……私には魔道の知識が有りませんので、正確なところは分かりませんが――、聞き及ぶところの『幻術』らしきものに遭遇しました」

 そして、エリアスは一連の出来事の要点を説明した。体験の当事者も、あの日何が起こっていたのか正しくは理解していない。ただ漠然とした“奇妙な体験の記憶”のみが残っているに過ぎない。ルートヴィヒはエリアスの説明を一通り聞いてから、幾つかの質問をした。その際の王の言葉の選び方は的確で、非常に曖昧とした当事者の記憶を鮮明にさせていく。彼は更に、アルベルトにも幾つかの質問をした。しかし結局、その少年は自分自身のことさえ何ひとつ分かっていない、ということがはっきりしただけだった。

「では、あの光と幻術と彼――アルベルトには、何かしらの関連があるものと仮定しておきましょう。……いずれにしても、魔道司の知恵を借りぬことには、どうにもなりませんね。困ったものです」

 と、別段困ったような顔もせずに王は言った。おそらく彼は、エリアスらの話を聞くまでもなく、そもそもの初めからそのような結論に至ることを想定していたのだろう。ルートヴィヒは改めて、一切全てが他人事でしかないような顔をしてその場に立っているアルベルトを見た。

「君は本当に、何も知らないのですね?」

「自分が何を知らないのかも知りません。たぶん」

「なるほど」

 少年の返答に、王は穏やかに頷いて返した。そして机に肘をついて、組み合わせた手の甲に顎を乗せ、なんとも表現のし難い思いでいるような苦笑を浮かべた。

「自分が何者なのか、一切分からない状況に置かれている、と……。ならば、もう少し動揺していても良いように思うのですが」

 その発言に、ダーヴィットが苛立ったように眉根を寄せた。

「こいつが嘘ついてるって思ってるわけ?」

「一応、半分くらいは」

 きっぱりとそう答えたが、その後ルートヴィヒはにこりと笑って見せる。

「もし、君の記憶の剥落が『幻術』かなにかの影響によって起こったものならば、専門家が診れば解除できるでしょう」

 エリアスが司令を求めて一歩進み出た。

「魔道司の出動を要請する、ということで宜しいですか」

 ルートヴィヒは顔に落ちかかる前髪をかき上げながら答える。

私が行きます・・・・・・。ですので、皇帝にはそのように知らせを送ってもらえれば。かの光が『魔術』絡みで人に影響を及ぼした可能性あり、の言伝と共に。今話してくれた内容をそのまま先遣に伝えてください。先遣の言伝を、私が辿り着くまでに皇帝陛下が聞いておいてくださるかは分かりませんが」

「お待ち下さい陛下!」

 王の発案には、近衛も、彼の側で補佐する政務官らも驚愕した。若い政務官が反射的といった様子で声を上げ、すぐさま口元を抑え、小刻みに震え始めながら確認する。

「あのぉ……、それはつまり、しばらく、その……リディをお空けになられる、ということでございますか……?」

「見ての通りこの体は二つ以上にはなりませんから、自ずとそういうことになるでしょうね」

「ああ、なんという……」

 若い政務官は意気消沈して、自分の椅子に座り直した。

「王子は暫く国王代理です。頼みますよ、ダーヴィット」

 ルートヴィヒはやはり微笑を浮かべているが、結局彼は一度も王子と目を合わせなかった。

   夢の始まり(3)

 執務室の外の番は交代していた。今度の二名は、至って黙々と業務をこなしている。別段険悪な雰囲気もなく、穏やかなものだ。王子たちが部屋から出てくると、二人の騎兵は黙って敬礼をした。

 扉が閉められる音を背後に聞きながら、一行は静かに歩く。どこか空気が重苦しいのは、王子のせいだろう。彼は執務室から十五歩ほど離れると、大きな溜息を吐いた。同行者たちは聞き流す。王子はまた十歩ほど進んだところで、もう一遍溜息を吐いた。なんだか悲劇的に振舞っているダーヴィットに声を掛けたのはアルベルトだ。彼は何の気なさそうに言う。

「ダーヴィットって、ルートヴィヒさんに似てるね」

「……は?」

 ダーヴィットがちらりと、アルベルトを見た。王子の顔には困惑が表れ、その言葉の意味を図りかねるようでいて、その奥には明らかな“不快感”らしきものが、表に出ようか潜んでいようかと惑っている様子が見て取れる。近衛が苦虫を噛み潰したような表情で、アルベルトに咎めるような視線を送っている。しかし少年はそれに気づいていないのか、そのまま続けてしまう。

「最初はあんまり似てないな、って思ったんだ。マリアさんともだけど。でも、やりとり聞いてたら、やっぱりルートヴィヒさんとはそっくりだよ」

 ダーヴィットの“不快感”が、重い体を引きずるようにして、表情に這い出してきた。

「具体的に、どの辺が?」

「うん? うぅん……」

 アルベルトは首をひねった。漠然とそう思っただけなのだろうか。具体的な要素を挙げろと言われても出てこない様子だ。

 しかしいずれにせよダーヴィットには関係無かったようだ。ただ“ルートヴィヒと似ている”と言われたことが気に入らないらしい。

「おい、撤回しろ」

「なんで?」

 アルベルトは怖気づかない。ダーヴィットはアルベルトの胸倉を掴んで喚いた。

「嫌だからだよ! アイツと似てるだって? ふざけるな。これ以上の屈辱があるか! くそっ」

 そう吐き捨てると、王子は乱暴にアルベルトを突き放し、酷く苛ついた様子を隠すこともなくこちらに背を向け、カツカツと足音高く歩いて行ってしまった。

「殿下! 待ってくださ――」

 マチルダが王子を追おうとしたが、アンドレが引き止めた。アルベルトはきょとんとした顔で、悪びれる様子もなければ乱暴に扱われたことへの不満も持った風ではない。彼は静かに、立ち去って行く後ろ姿を眺めていた。

 王子と逸れたアルベルトたちが、再び謁見の間に差し掛かろうとした時、背後からぱたぱたという足音と同時に彼らを呼び止める声がした。振り返って見てみれば、先ほど執務室で震えていた若い政務官が小走りで駆け寄ってきている。丸渕の眼鏡がすこしばかり可笑しい痩せた男は、引き留めた一行の中に王子の姿がないことに驚いた様子だ。

「ダーヴィットに用事?」

 その名も仮だという、身元不詳の怪しい子供が訊ねてくる。あろうことか王子殿下を呼び捨てとは、これいかに。若い政務官は目玉を大きく剥いて、騎兵たちを見回した。

「いえね、ご本人は許可済みなんですよ。僕らは殿下が良いなら、それで良いかな〜……って。……ね?」

 アンドレが弁解した。丸渕眼鏡の政務官は、こめかみが痛むようで、手を添えて耐えていた。しかしやがて息を吐くと、要件は王子にではなく、アルベルトの方にあるのだと言った。

「明後日、陛下はリラにお発ちになられるご予定です。その際、どうかアルベルト殿にもご同行くださるように、と」

「ふぅん。いいよ」

 アルベルトは提案を吟味する時間も置かず、答えた。

「はぁ……、そうですか。お話が早くて何よりです。では、そのようにお返事賜ったとお伝えいたします」

 政務官は、アルベルトのあっさりとした返事を抱え、執務室の方へと帰っていった。

「殿下がこの場に居られたら、きっと引き留めたでしょうね……」

 マチルダがぼそりと言った。ダーヴィットは王に強い反発心を持っている。彼はなにかとルートヴィヒに反抗せずにはいられないらしいのだ。そして、王子は彼にしては珍しく、このアルベルトという少年に多少心を開いていたように、近くで仕える近衛たちは感じていた。ならば尚更、王子はきっとアルベルトを引き留めようとしたに違いない。

「陛下が何かを言い忘れるなんて、珍しいんじゃない?」

 リーンハルトが、呆気に取られたとも訝しむとも驚嘆するとも言える表情で呟いた。彼とよく似た容姿をしているエリアスが答える。

「……まあ確かに、あまり記憶に無いかな」

 肩を竦めたジェレミーが、リーンハルトの背を叩いた。

「やっぱ見えてらっしゃるんだよ……。おかしな事するんじゃねぇぞ、ハルト。全部陛下にはお見通しなんだからな」

「俺っ!? おかしな事って、何もそんな……」

「う〜ん。僕は一番やらかしそうなのって、ジェレミーだと思うけどなぁ」

「同意見です」

 王子の護衛たちはそのようなことを語らいながら、謁見の間を横切った。

 それから程よい間を取って、王子の護衛たちは主のもとへと向かった。隊長のエリアスは、近衛兵長のところへ報告へ行かねばならず、皆とは行動を別にした。また、アルベルトに関しては、おそらく今、彼がダーヴィットと顔を合わせるのは良くなかろうとのことで、客室で休憩をとらせている。

 近衛たちに、ダーヴィットのいる場所は想像がついている。ホールの階段を降り、北側の扉から出ると、そこは中庭だ。石柱で天井を支えられた回廊が取り囲む広大な庭には、刈り込まれた芝と茂み、柑橘の低木が生え、花壇の柵の中にはとりどりの花々が咲く。与えられた水が珠粒となって、陽の光を反射させている。無彩色な城の壁との対比によって、その光景はより鮮やかに見えた。

 そして、目当ての人物はやはりそこに居た。王子は中庭のベンチにだらしなく寄りかかっていた。背もたれに腕を乗せ、脚を組んで、それはもう、大層だらしのない様子でぼんやりと上を向いている。

 近衛たちは、柱の影に隠れて王子の姿を見守る。剣呑とした気配は、もはや纒ってはいないようだ。護衛達の存在には気づいていないらしい。騎兵らは互いに顔を見合わせる。対象までの距離はおよそ二十三歩。よし、突撃しよう。

 と脚を踏み出そうとした矢先、王子のもとに一人の女性が近づいて行くのが見えて、彼らは思いとどまった。その女性とは、王子の母であるマリア王妃であった。

 美しい金の髪をたなびかせながら、マリアは王子に歩み寄る。小鳥のようなさりげなさで、息子の傍らに腰掛けた。彼女は見守る騎兵たちの存在に気づいていたようで、彼らに微笑んで見せた。

 王子の護衛たちは、再び柱の影に隠れた。王子を宥める役は王妃にお任せするべきだろうと、彼らは素早く決定した。柱にへばりつき、四つの顔を縦に並べて王子と王妃の様子を覗う。あまり、会話が弾んでいる様子はない。たまに王子がぽつりと口を開き何かを言って、王妃がそれに頷いてみたり、ゆるゆると首を横に振ってみたりしているのは分かるが、それだけだ。

「殿下はどうして、あれほどまで陛下に反発されるんでしょう……」

 マチルダが呟いた。彼女に限らず、多くの人間はルートヴィヒ王に対し好意を抱いている。〈賢王〉と〈剣王〉の異名を持つ彼に、殆ど崇め奉るほどに心酔している者も多い。“英雄王ヴィート”の再来だとか、神憑りだとかいう話があちこちで口々にされている。迷信めいたものには関心を示しにくいファーリーンの民にとって、それは少々異様とも言えた。

「昔はよく懐いておられたんだけどなぁ」

 ジェレミーが呟いた。彼は七年前から王子に仕えている。エリアスを除けば、王子の護衛として働いてきた時間は最も長い。王と王子の仲が良好だった時代を、ジェレミーは知っているが、その仲を違えた原因には心当たりがなかった。アンドレが指先で顎を撫でながら言う。

「気難しいお年頃、っていうのもあるんだろうけど、でもちょっと……やりすぎって感じかな?」

 黙っていたリーンハルトが、眉間の皺を深くして「むむ」と唸った。

「俺、分からないです。陛下は頭も良いし、強いし。でもそれだけじゃなくて、優しい。そりゃ、お忙しい方だからあまり殿下とお話する機会は無いのかもしれませんけど……。他人の俺だってそう感じるんですから、殿下ならもっと――」

「身内だからこそ見える何か、ってのもあるだろうけどな」

 ジェレミーが言った。しかし彼は、自分で言ったその言葉に自信があるようには見えなかった。彼は王子に仕える人間だが、ルートヴィヒ王を敬愛する人間の一人でもあるのだ。ジェレミーは短い息を吐いた。

「どっちにしろ、他人の俺らには憶測を立てる事しかできんさ。――ほら、お話が終わったようだ。出迎えようぜ」

 洗練された朝の陽光が少年の顔を照らし、彼は微かな喪失感と、開放感をいだいて目蓋を開いた。そこは広い客間の、柔らかな寝台の上だった。

 アルベルトはのろのろと体を起こした。小太りな女中が運んできた食事を胃に納め、のんびりと身だしなみを整えた。南の窓から外を見やれば、広大な都市の全貌が明らかとなっている。なだらかに傾く大地の上に築かれた、灰色の街並み。ところどころに、わずかな煉瓦の黄みや赤み、樹木の緑が混ざっている。

 やがて、太陽が十分な高さに昇った。アルベルトは部屋を出た。

 石造りの廊下は幅が広く、天井も高い。廊下に限らず、この城は全体的に規格が大きめだ。アルベルトはきょろきょろと辺りを見回しながら、東棟の回廊を歩き進んだ。やがて、昨日彼を迎えてくれたエントランスホールに出た。西回廊に渡るため、謁見の間の扉を素通りしようとしたとき、アルベルトの左手にある階段を、一人の男が上ってきた。

 男はアルベルトに気づくなり、「おお」と右手を挙げて、馴々しい挨拶をしてくる。階段を上りきって、アルベルトの前に立ちはだかったその男は、背が高く、服の上からでも分かるほど筋肉質で、いかにも戦士然としていた。三十代も半ばを過ぎた頃だろう彼は、面白いものを見つけた子供のような顔をした。

「おまえか、アルベルトってやつは?」

 アルベルトは素直に頷いて返した。そうすると、洒落た顎髭のその男は人懐こそうな笑顔を見せる。

「そうかそうか。そうだよな、だと思った」

 男は一頻り一人で納得したあと、右手を差し出した。

「俺はヴァルターだ。ファーリーン王属騎兵団の団長をやってる。宜しくな」

「こちらこそ」

 アルベルトは差し出された相手の右手を握り返した。ヴァルターはしげしげと、無遠慮にアルベルトを眺めた。

「へぇ、話には聞いてたが、落ち着いたもんだな。肝が座った人間の顔してるぜ。訓練されたってなかなかそうはならんだろう。まあ、何かしらの仕事で来たんなら、もうちっと怪しまれないように凡人を演じるだろうよな」

 そして、ヴァルターはアルベルトの背を叩いた。

「明日、リラへ発つんだって? シークの方から来たばっかだってのに、大変だ。道中長いから、ちゃんと野菜食えよ」

 騎兵団長は労りと忠告の言葉を少年に与えると、謁見の間の扉を開けて入っていった。

 ヴァルターを見送ったあと、アルベルトは再び歩を進めた。西棟の入り口に至るまででも、相当な距離を移動した気がする。道中はしきりに他人とすれ違った。それは、雑用をこなす召使だったり、官僚だったり、身分の高そうな人物だったり、またその人に付き従う騎士だったり、城の警備のためにうろつく王属騎兵だったり、と様々だった。アルベルトのことを小耳にでも挟んでいるらしい者は、彼の姿を認めると、大抵は簡素な挨拶をしてくれた。ときには、事情を知らないらしいお節介焼きの女中が、アルベルトを城に紛れ込んだ街の子供か何かと勘違いしたのか――実際に街の子供がこの城に紛れ込むような事は、間違っても滅多にはあるまいが――「ここで遊んではだめよ」と言って出口へと案内してくれることもあった。騎兵の助けがあり、城から追い出される事態は回避することができたが。

 城は東西が対称となった造りをしているらしい。西回廊を暫く歩き続けると、やがて上階へ繋がる階段が現れた。階下へと続くものと隣り合ったそれに、アルベルトは足を掛けた。緩やかな段差を確固と踏みしめ続け、踊り場へ。そして更に上を目指す。最上階まで上り詰めたときには、アルベルトの脈も上がっていた。

 音が聞こえている。

 草原を吹き流れる、風のような音だ。

 豊かなその響きに惹き寄せられ、アルベルトは歩いた。深い色合いをした木製の扉、その向こう側から漏れ聞こえるその音色に、少年は耳を傾けた。

 数多の音は手を繋ぎ合って、螺旋を描き、大きな波となり、近づいては離れ、昇ってはくだる。このたった一つの扉の向こうの部屋で、それらは踊り戯れている。

 アルベルトは扉を開けず、黙って、静かにその曲を聴いていた。なぜか、どことなく懐かしいような、不思議な響きだった。

 やがて、心地よい時間の終わりは訪れた。アルベルトはドアノブに手を掛けて、回した。がちゃりと金具が動く音がして、次にギィと低く軋む音がした。

 その部屋の中には、金髪の少年が一人、こちらに背を向けて椅子に座っていた。彼は左手に、なにか大きな曲線を描くものを支え持ち、右手には弓のような棒を持っている。うなじのところでひと束に編み下げられた明るい金髪が、背後の気配に小さく揺れた。少年は大げさに息を吐いて、振り返った。

「聞いてたのか」

 ダーヴィットが尋ねた。アルベルトは扉を閉めながら頷く。

「聞き惚れてたよ」

「あっそう」

 ダーヴィットは再びあちらを向き、それほど棘のない声音で呟いた。アルベルトは遠慮なくダーヴィットに近づいて、王子の手が支え持っている“なにか”を指差した。

「それなに?」

「ああ……、チェロ」

 ダーヴィットはさりげなく、それがアルベルトによく見えるように向きを変えてやった。

「チェロ? それから、さっきみたいな音が出るの?」

 アルベルトの質問に、ダーヴィットは「まあ」と答え、右手に持っていた“弓”を相手に差し出した。アルベルトは目を瞬かせる。

「弾いてみろよ」

 ダーヴィットが言った。アルベルトは弓を受け取ったが、何をどうしたら良いのか分からない。ダーヴィットがふりで示したことを、アルベルトは真似た。チェロの弦に弓を当てて、ゆっくりと引いてみる。

 耳障りな音がした。

「だめだった」

「だろうな」

 アルベルトは首を横に振りながら、弓をダーヴィットに返した。ダーヴィットは再び弓を手に持つと、構えた。アルベルトはひょいと一歩下がる。

 腹の底から体を震わせるような、重低音。脚の裏側から、地の鳴動が伝わってくる。巨大な波となって押し寄せるその音は、胸のあたりを縮こまらせるが、同時に心地の良いものだった。

 音程はしっとりとなめらかな中音域に上がり、大いなる母の温もりのように室内に満ちた。大気が共鳴し、倍音となって重なる。

 ダーヴィットは器用に指先を動かして、軽やかな高音をも奏でる。歌声のような美しい響きが囁きかけてくる。

 そして次第に高揚してゆくチェロの歌声は、やがて開け放たれた窓から飛び立った。大空を舞う音の精霊の姿が、目に見える気がした。

 やがて楽曲は終焉を迎えた。呆然としたアルベルトの様子に、ダーヴィットは満足気な表情を浮かべた。

 朱色の西日が窓から差し込む。空を鮮やかに染め上げる落日を、目を細めて眺めた。

 再び一人となった部屋の中を、ダーヴィットは見回した。

 空虚な空間だ。かつてはここに満ちていた音の数々が、失われている。

 いいや、本当ははじめから、そんなものは無かった。ここにかつて在ったものは、己が“在る”と信じていただけで、実際には存在しなかったのだ。きっと全ては、自分一人のみが抱いていた錯覚だったのだ。

 埃を被った“黒い影”を、横目で眺める。

 どうせ“それ”は、何も応えはしない。

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