――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

Aldyss -アルディス-
第一章 ファーリーン
第四節 魔聖の白(上)

 帝都リラは赤き荒野の只中に聳え、黒雲に覆われた天を貫くほどに背が高く、そして純白である。足元に広がる街は、中央部を〈白の都〉、北西を〈赤の都〉、南東を〈青の都〉と名付けられ、それらはリラの遥かな高みである頭頂部から降り注ぐ淡紫の光によって照らされている。光を放つのは古代の魔法陣で、現代に於いても保持されるその魔道の力は、アルディスの都を守護し続けている。

 赤き荒野に生命を見出すことは難しい。そこは荒廃の果てにあり、乾いた赤錆の大地の上には寒風が吹き、細かな砂を巻き上げて流れてゆく。黒雲に覆われた空には、昼に太陽が姿を現すことはなく、夜に星が煌めくことも、月が下界を覗きに顔を出すこともない。

 そういった中に浮かび上がる“白”の神秘性を、かつてとある詩人はこのように表した。“魔境の大地に突き刺さる、聖剣”と。

 ファーリーン王の一行は、寛赦かんしゃの月、第二の太陽の日にリラへ至った。当初の予定より三日遅れての到着である。彼らは帝国兵らに出迎えられた。帝国兵達はファーリーン王と共にやって来た多数の捕虜に目を見開いた。リラの城内へ駆け込んでいった帝国兵は、十五名程の同僚を連れて戻り、ファーリーンの近衛騎兵達から捕虜を預かった。

「この者達は一体」帝国近衛兵の一人が、近衛騎兵長に訊ねる。

「エシュナ大橋が崩落したことは既にご存知ですか」近衛騎兵長が問う。

 帝国近衛兵は「ええ、先日報告が」と頷く。「そのためにヤーガを越えて来られたのでありましょう。それだけでも災難でしたが」

「半ばほどで襲われましてね」近衛騎兵長が肩を竦める。「この者達と、子供の半竜人に。残念ながら、半竜人の方は捕らえることができませんでしたが」

「それは大変なことでしたね」帝国近衛兵は眉尻を下げ、ファーリーンの一行を見渡した。

 アレンはここまで仲間の手を借りながらも自力で歩いてきたが、帝都に到着するのに伴い担架に横たえられた。

 帝国近衛兵はアレンを横目に、「そちらの方の負傷の程度は」と訊ねた。

「肋が数本と、定かではありませんが胸部も脱臼しているのではないかと。内臓への損傷がなかったのが救いでした。ただ、実はもう一人負傷しまして。そちらは程度が酷く、助けることができなかったのですが」

 帝国近衛兵は眉根を寄せる。「子供の半竜人というのは、身軽な分却って大人よりも手に負えないのかも知れませんね」

 直方体状の、いずれも純白である建物が整然と立ち並ぶリラの街並みの中を、彼らは進んだ。都の人々は遠巻きにファーリーン王一行を眺めていた。

 やがて一行はリラ城内へと足を踏み入れた。第一階層の下はいわゆる玄関口で、地階層と呼ばれる。長身のリラを支えるこの層の内部は特に広大で、円形の空間内は壁に取り付けられた魔道術による光源に照らされている。外観と同じ純白の石壁が環状に周囲を取り囲むその中央には、巨大な円盤が置かれており、帝国兵がファーリーンの一行をその円盤の上へと導いた。ルートヴィヒと近衛、政務官とフレデリック、アルと数人の帝国兵が乗り、残りの帝国兵と捕虜達はその場に留まる。

 円形の岩盤の一面には、黒い滲みがある。それは規則性をもって描かれる魔法陣であり、また盤の隅には白色の台が置かれ、その上面にも複雑な魔法陣が浮かび上がっている。

 帝国近衛兵が台上の魔法陣に剣の柄飾りを翳す。すると、彼らの足元に広がる暗い魔法陣が暖色の光を放った。彼らの周囲の景色が上方から下方へと流れ始め、地階層の床が離れてゆく。円盤が上昇しているのである。ファーリーンの近衛らや、下層に残った捕虜達が目や口を開いた。

 このリラの中心を地下から頂上まで貫通して移動することができる円盤は、昇降装置である。リラ城の建設と同時に設置されたであろうそれは、重力操作の術式で作動する。重力操作自体が難易度の高い術系統であることに加え、安定して繰り返し作動させることのできる仕組みについて、リラの人々は解明しきれていない。しかし、この装置がなければ、彼らがこの城に住まうことはできない。

 十階層目まで上昇したところで、昇降盤は停止した。そこで、アレンと彼を運ぶ帝国兵二人が降りた。この階層に医務室がある為だ。

 再び盤を上昇させるべく帝国近衛兵が台に向かったところで、ルートヴィヒがそれを静止し、フレデリックに「君も足を診てもらいなさい」と言った。

 フレデリックは足元を見下ろし、やや沈黙した後で「はい」と答え、アレン達を追った。

 そして円盤は再び上昇を開始する。更に五階層上がったところで止まり、全員は円盤から降りた。すると再度円盤一面の魔法陣が輝き、下層へと戻って行った。

 十五階層目の光景もやはり一面の白色である。昇降盤の通り道として開けられた巨大な穴の周辺には透き通る壁があり、その外側には正円形の広場がある。壁際には多数の扉が備え付けられ、奥へと伸びてゆく通路の入口が数箇所に見られる。一階層は三階建てから成り、吹き抜けの中心部から上階の回廊を覗くことができる。

 帝国近衛兵が「レイアス様」と言った。一同がその帝国近衛兵の視線を追うと、そちらには非常に背の高い男が、一室の扉を潜り抜けてきたところだった。

 長槍を携えた巨体の人物はルートヴィヒの前まで歩み寄ると、跪いて低頭した。しかし、そうしても尚男の頭頂部はルートヴィヒの胸程までもある。“レイアス”と呼ばれた彼は、半竜人の容姿の特徴を完全に備えている。即ち、非常な長身と逞しい筋骨格、広い肩幅、長い手脚、尖鋭な耳、黄金の虹彩と瞳孔を囲み込む空色、そして女性らしいとも男性らしいとも表し難い顔立ちだ。

「ようこそおいでくださいました。謁見の準備を整えておりますので、明日までお待ちいただければと思います。皇帝陛下が御身を案じておられました」レイアスは言った。

「先ずは到着が遅れたこと、お詫び申し上げます」ルートヴィヒは応える。

「お怪我等されておられぬのなら、陛下はご安心なさるでしょう」レイアスは顔を上げ一瞬の微笑を見せると、立ち上がった。

 レイアスの背丈はおよそ七フィート半。半竜人としては平均的な体格である。長めの黒髪は左の襟足近くで束ねられている。

 竜人はローラ大陸南方のラジェンレクス島で生活を営む種族であったが、十二年前のテーテス山噴火(遠く離れたファーリーンの気候に数年間影響を及ぼす程のものだった)によって滅んだ。竜人の寿命は長い。誕生から五十年程の歳月を費やして成長し、その後二百年にも及ぶ青年期を経、急速に老化する。彼らの体高は少なくとも八フィートを越える。そして、竜人と人間の混血である半竜人という種族は、容姿に関していえば人間よりも竜人に類似した部分が多く、成長と老いの過程に関しても同様である。ただ、基本的に半竜人は竜人よりも小柄で、翼を持たないという点が異なる。

 ファーリーンの一行はレイアスから大まかにリラの構造の説明を受けた。昇降装置と、外壁を周る外階段でのみ、階層を移動することができる。そして昇降装置は各々の身分によって操作用の鍵に制限が掛けられている。最上階まで昇ることができる鍵を所持しているのは皇帝ただ一人であり、その直下層までの鍵は皇太子、その下の皇帝の私室がある階層へ至る鍵は、皇族と皇帝の側近兼護衛であるレイアスのみが所持している。

「陛下が、国王殿下へ鍵をお渡しするよう仰せになられましたので」レイアスは魔法陣の描かれた台座に魔石が嵌められた魔道具を腰の金具から外し、ルートヴィヒに差し出した。「古代文字はお読みになられるとのことで」

「少しですが」ルートヴィヒは答えつつ鍵を受け取った。

「問題ありません。台上に刻まれた目的の階層を表す数字の上へと翳してください。それで作動します」次に、レイアスは現在立っている吹き抜けの中心広場から、一階の東側を示す。「お休みの際には、この階層の一〇三から一一八番室をお使いください」

「この階層だけでも十分過ぎる程の広さがありますね」政務官が呟く。

「また後程、詳しくご案内します」レイアスは微かに口角を上げて言った。

 翌日、一行は同階層の広間に集められ、そこで皇帝への謁見の時間がやって来るのを待っていた。

 暫くして、レイアスの左手首を飾る腕輪が光を点滅させながら、微細に振動した。彼は左手を顔の近くへと持ち上げる。レイアスは腕輪に口を寄せ「了解」と短く言った。そして彼は室内の一同に呼びかける。「用意が整いました。謁見の間へご案内します」

 一同はレイアスに導かれ、再度昇降盤へ乗った。盤は三十階層目まで上昇する。

 そこは、これより下の階層とは異なり一階建てで、中央広場から北側へ向かって幅広の階段が伸びていた。その頂上には、周囲の壁と同じ白色をした両開きの扉が構え、両脇では白銀の鎧を纏った二名の帝国兵が立ち見張っている。

 階段を上って行くレイアスの後ろを、ルートヴィヒ、政務官、近衛と、彼らに囲まれたフレデリック、アルが続いた。

 扉脇の帝国兵もまた、レイアスの左手首に嵌められた腕輪と類似したものを身に着けていた。帝国兵は先程のレイアスと同じように、腕輪に向かい話し掛けた。その数拍後、一行の眼前に構える扉が緩慢に開き始める。完全に開ききると、レイアスがルートヴィヒに目配せをし、扉の向こうへと踏み入れた。ルートヴィヒ達は彼に続く。

「ファーリーン王国より、ルートヴィヒ国王殿下御一行の御成」

 謁見の間に口上が響く。室内は八方白色であり、そして広大でもある。彫り物がされた円柱が中央の通路を挟んで立ち並ぶが、高い天井を支える役割を担う程の長さはない。自然光が差し込むことのないリラ城ではあるが、この部屋は特に明度が高く、あらゆるものの影が朧である。壁の上部に設置された魔道灯の白色光は、全ての方位で反射し、上から照らされれば下に落ちる筈の影は、下から跳ね返る光によって打ち消される。

 先頭を行くレイアスの足が止まり、彼は前方へ一礼した。再び顔を上げた彼は、玉座に続く階段の半ばに立ち、背後に並んでいたファーリーンの一行へと向いた。

 ルートヴィヒは腰にいた双剣を鞘ごと取り外し、左手に持ち、床に片膝を突いた。彼は深く低頭する。彼の同行者らが同じように跪く中、アルは立ち尽くしていた。隣のフレデリックが彼の袖口を引くと、アルは両膝を突いたが、頭を下げるということはしない。彼の視線は前方へと向けられ続け、玉座に座る人物を見つめている。

 その玉座の人物の顔貌は、非常に(奇怪とも言える程に)整っていた。その肌や髪は完全な白色で、瞳は左が赤色、右が青色である。長い白髪は床に流れている。

「この度は、我が宗主たるアルディスの帝、アル=ヴィシース様より御拝謁の場を賜りまして、恐悦至極に存じます」ルートヴィヒが言った。

 アルディス皇帝アル=ヴィシースは悠揚に頷いた。「良くぞ参った。面を上げよ」彼の口調もまた悠揚である。

 ルートヴィヒは皇帝の言葉に従った。

 皇帝の左手側には、白い長衣を纏う女性がいた。彼女はやはり白色である座席に掛け、微笑を浮かべ、鮮やかな茶髪は高い位置で丸く纏められている。年の頃は、ルートヴィヒより一世代分年嵩である皇帝と同じ程であろう。彼女は皇妃カミラである。

 その対となる皇帝の右手側には、アル=ヴィシースと良く似た顔立ちの、しかし彼とは異なる浅黒い肌と、短く切り揃えられた濃紫紺色の髪を持つ青年が座している。彼は皇太子アル=ネクサである。

「道中は大儀であったようだな。なれど、王に負傷等がなかったことは幸いと言えるだろうか。王を護る者達に、敬意を表する」アル=ヴィシースはルートヴィヒの後ろで低頭する者達を見渡して言った。そしてルートヴィヒに視線を戻し、続ける。「さて、本題へと入るが、まず先遣から聞いている夜中やちゅうの光について話してもらいたい。宜しく」彼はルートヴィヒに促した。

 ファーリーンの王都リディや、北部ファーリーンの多くの街から確認できた、深夜の空を照らし上げた光について、ルートヴィヒは語った。光源の凡その位置、輝き続けた時間、ダーヴィット王子が近辺を捜査した際、様子に異変を来したことについても触れた。その異常を押して進んだ先にいたのがアルという少年(しかしこれが彼本来の名であるのかどうかは定かではない)だった。彼は自分の身分も、なぜ、いつからその場所にいたのかも分からないと言う。

「彼が、その少年です」ルートヴィヒは背後のアルを示して言った。

 紹介されたアルは、皇帝の色違いの瞳を見つめていた。アル=ヴィシース皇帝は肘掛けに凭れ、微笑を浮かべながら少年の濃紫と金の混ざり合う瞳を見返す。皇帝の細められた左の赤い瞳は微細に揺れている。しかし右の青い瞳の鋭利な瞳孔は針のように窄まり、アルへと向いている。

 やがてアル=ヴィシースは声を上げて笑った。彼は隣の皇妃の方へ上体を寄せ、囁く。「彼は私と気が合いそうだ。そう思わぬか」

 皇妃は笑みを深める。「そうですね」

 アル=ヴィシースは胸元を押さえ、笑いを鎮めた。そしてルートヴィヒ達に視線を戻す。「さて、では我々はどのようにしたら良いのかな」

「彼の記憶解析をお願いしたく思います」ルートヴィヒは言った。

 アル=ヴィシースは頷く。「良かろう。それに、現場へ魔道師を派遣して調べさせても良いだろう。ところで――」彼はファーリーンの一同を見渡す。「エシュナが渡れぬのでヤーガを越えてきたということは分かっている。だが、どうも大勢連れてきたと聞いたぞ。これはどういったことなのか知りたいな」

 ルートヴィヒは答える。「彼らはヘザーの者達です。ファーリーンに対する複雑な思いがあって、我々を――特に王である私を狙って――襲ってきたのでしょう。帰国までの間、牢を貸していただければ」

「勿論、それは構わぬ」アル=ヴィシースは言う。

「有難うございます。しかし」ルートヴィヒは続ける。「彼らを主導していた者は、彼らとは異なる目的を持っていたようです。半竜人の若者で、アルを攫おうとしていました」

「成る程な」アル=ヴィシースは遠くを見つめる。「どうも、きな臭い。古代建築のエシュナが独りでに壊れるとは到底思えぬ。なにか、目的があって破壊されたのだろう。安易に関連付けるのも良くはないだろうが、アルは少し厳重に守る必要があるやも知れぬな。先ずは彼の記憶解析を行ってから、色々なことは検討しよう。どの位の期間滞在する予定だろうか」

「ひと月半ほど」ルートヴィヒは答える。

「ならば、さほど急がずとも良いな」アル=ヴィシースは背もたれに身を預けた。

「陛下」と、ルートヴィヒは皇帝の注意を引く。「私は我が国にも魔道司の組織が必要だと考えているのですが、その入りとして、レイス侯爵家の者であるこのフレデリックに魔道の知識を得てもらいたいと思います。リラの魔道師に教えを請うことはできるでしょうか」

「良いことだな」アル=ヴィシースはルートヴィヒが示した細身の少年に微笑を向けた。「自由に声を掛けると良い。だが、できれば魔道士の方が良いぞ。“師”は大抵気難しいのだ」彼は少し黙った後、頷く。「三番目の子が暇をしているから、構ってやってくれると良いかもしれぬ。教師としても、さほど悪い選択ではないだろう。話をしておくよ」

 ルートヴィヒが礼を述べるのと同時に、フレデリックも帝国式の敬礼(額の前で両手を合わせる動作)をした。

「さて」アル=ヴィシースは一同を見渡す。「この位で宜しいだろうか。ルートヴィヒに関しては個人的な話もあろう。また都合がつき次第知らせるよ」

 レイアスが段を上がり、腰を屈めてアル=ヴィシースの真白く細い手を取った。アル=ヴィシースは席を立ち、長い裾を引きながら、玉座の裏手にあるアーチを潜り、場を後にする。彼を追うように、皇太子と皇妃が続いて行った。

 その後、帝国兵がファーリーンの一行を導き、謁見の間から退場させた。一行は、ファーリーンとは異なる帝都での生活に関する説明を受けた。古代魔道の叡智によって成るリラの地で、彼らは約一ヶ月半の間過ごす予定だった。

 一行がリラへ到着してから二日後、皇帝はアルの記憶解析を行う術士を手配した。二十六階層目の二階、二〇二番室に、アルとルートヴィヒ、そして魔道の学習の為に入室を許可されたフレデリックがいる。

 予定されていた時間を幾分過ぎた頃、部屋の扉が開き一人の人物が入室してきた。第二皇子のアル=レムシスである。彼の容姿は実年齢よりも若々しく、また男性的なものでもない。背丈は少年のアルとさほど変わらず、彼よりも細身で、母から受け継いだらしい鮮やかな茶髪と群青色の瞳を持つ青年だ。彼は先ず、待たせた者達に謝罪した。「遅れて申し訳ありません。妹が施術するよう言われたのですが、彼女は今、研究から手が離せないようで。代わりに私が行いますので、宜しくお願い致します」

「お久し振りです、皇子殿下。先日はおめでとうございました」ルートヴィヒはファーリーン式の礼(右手を胸元に添え、上体を軽く前傾させる)をした。

 先の誠直の月、第四の太陽の日はアル=レムシスの誕生日だった。アル=レムシスは帝国式の礼(額の前で両手を合わせる)で応える。「グローラの魔道書は非常に興味深いものでした。入手は難しかったのではありませんか。感謝致します」

「お役に立てるようでしたら幸いです」ルートヴィヒは言った。

 アル=レムシスは柔和な顔立ちに笑みを浮かべ、ルートヴィヒへ向けた。そして、彼はアルの向かいの席へと座る。「では、早速ですけれど」彼は道具を卓へ広げ、姿勢を正してアルの瞳を覗き込む。「危険性を伴う術です。慎重を期しますから失敗する可能性は低いですが、万が一の場合、記憶の混乱が起こり得ます。つまり、記憶の時系列が入れ替わる、抜け落ちる、自分のものではない記憶が定着してしまう、等といったことです。成功したとしても、術後は軽度の頭痛と、一時的な混乱が起こることが多いです。了承いただけますか」

 アルは頷いた。

「では準備を行うので、そちらに横になってください」アル=レムシスは壁際に置かれた簡素な寝台を示して言った。

 アルは指示に従い、寝台の上に仰向けになった。

 アル=レムシスはアルの近くに椅子と小卓を寄せ、細い毛筆の先を墨壺に浸す。「失礼」と断りを入れると、彼はアルの前髪を上げ、額を露わにさせた。そしてその額に魔法陣を描き始めた。基本となる円形の中に多数の直線、小円、古代の文字が記される。

 記憶解析は非常に高度な術式である。複雑な対応が求められる為、古代語の発音で術を動かす詠唱法の技術がなければ、到底行使することはできない。詠唱法は近年まで失われていた技術であり、それを復活させたのは他でもなく、今この術を用いようとしているアル=レムシス皇子の父、アル=ヴィシース皇帝である。詠唱法の技術を持つ者は少なく、皇帝の子供達と、他一握りの魔道司に限られる。

 アル=ヴィシース皇帝はあらゆる術の発動に際し、魔法陣(描陣法という術発動形態で、通常多くの魔道司はこちらを操る)を使用することがない。彼は古代語(または精霊語とも呼ばれる)のみを用いる。

 だが、彼以外の詠唱法使用者は、彼程には古代語を流暢に紡ぐことはできない。アル=レムシスも例外ではない。その為、彼は術の補助として魔法陣を描くのだ。自由度は制限されるが、効率的に術を操ることができる。

 やがて、アル=レムシスは筆を置いた。左手首に無色透明の石が飾られた腕輪を嵌める。「では、始めます」と言い、腕輪の嵌った左手をアルの額に描いた魔法陣に翳す。彼は深く息を吸った。そして、その小ぶりな口から古代の言葉が紡がれ始めた。声帯を用いず、吐息で口内を鳴らす。緩やかに吐かれていた息が唐突に喉の奥を鳴らし、短い吸気音が連続するなど、現代語にはない発音によって古代語は成る。

 間もなくアルの額の魔法陣が発光した。アル=レムシスは詠唱を止め、再び筆を執り、卓上の白紙に手早く図形や文字を記してゆく。アルの額の魔法陣と連動するように輝く腕輪を眺め、再び紙面に筆先を走らせる。彼は墨を含ませた筆で、アルの額に新たな古代文字を書き加えた。最後に、魔法陣の中心に細い指の先を当て、一つの古代語を短く囁いた。

 旋風の如くに光が溢れ、同時に周辺の光度が下がった。魔法陣は周囲の光を吸収し、羅列する古代文字を、光と共に螺旋状に放出する。強烈な光が、室内の者達の姿を照らした。

 アル=レムシスは続々と溢れ出る古代文字の羅列を見つめていたが、やがて微かに眉根を寄せた。彼は紙面に文字を書き足し、再度溢れる光と文字へ視線を戻す。輝く腕輪の嵌った左手を額に添え、息を吐き、軽く唇を噛んだ彼は、席を立ち、アルの頭頂部の方へ移動した。そして両手を差し出し、少年の頭部を包むように押さえ、俯いて精霊語を囁く。彼は時折、被術者の様子を窺いながら、暫し静かな詠唱を続けた。だが、やがて彼はアルの頭から手を離した。そして吐息と共に肩を落とし、短い精霊語を発した。光の放出が絶え、周囲に静穏な光度が戻る。

 アル=レムシスは席へ戻り、一度呼吸をした。そして、薄く瞳を開けたアルの肩を叩く。「ご苦労様。終わりましたよ」アル=レムシスは微笑を浮かべて言った。彼はルートヴィヒの方を見る。ファーリーンの王と目が合うと、彼は声を出す事なく、視線で室外を示した。

 ルートヴィヒは頷いた。彼は二人の少年に「少し待っていてください」と言い、アル=レムシスと共に部屋の外へと出て行った。

 アル=レムシスとルートヴィヒは、先の部屋から少しばかり離れた廊下の端で話を始めた。

「どうやら、術や外傷、心傷に因るものではありませんね」アル=レムシスは抑えた声で言った。「基本的に、記憶が“消える”ということはありません。記憶領域が物理的に損傷を受けたり等した場合は別ですが、そうであれば容易に分かります。一般に、記憶喪失と呼ばれる状態は、実際には記憶そのものを失くしてしまったというわけではなく、脳と記憶が分離してしまっている状態を指していることが多いのです。この脳という本体と、記憶という部品との間の接続がうまくできない為に、本体からすると記憶を失くしてしまった、というようなことになるわけです。要は、これらの接続さえ上手くいけば、記憶は認識でき、“思い出す”ことができるようになります。ですが、彼――アル君には、繋げる先の記憶というものが初めから存在していないようなのです」アル=レムシスは息を吐いた。「彼には年相応の、生きる上での知識はあるようです。しかし、それをいつ、どのように得たのかの記憶が存在しない。王子様に見つけられ、ここに至るまでの記憶は勿論保持していますが、それ以前に関しては完全に空白です」

「随分特殊な状態のようですね」ルートヴィヒが呟く。

「私自身も初めて遭遇する事例ですし、文献等でもこういった状態については読んだことがないですね」アル=レムシスは答えた。

「では一応、彼に、我々へ対して危害を加えようという意思があるのかどうかだけ、教えていただけますか」ルートヴィヒは言った。

 アル=レムシスは表情を緩めた。「悪意や企みなどがないことは保証します。本当に無垢です」

 ルートヴィヒは頷く。「ならば良かった」

「この事は本人に話すべきでしょうか」アル=レムシスはルートヴィヒに訊ねた。

 ルートヴィヒは背後の扉を横目にした後、再度アル=レムシスへ向いた。「話しておきましょう」彼は答えた。

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