Aldyss -アルディス-
第一章 ファーリーン
第三節 影の到来
日々、ダーヴィットは王に代わり執務室にいた。
先日の奇怪なる光はリディのみならず近隣都市町村からも確認できており、説明を求める旨が記された書状が多く都へと届けられていた。ルートヴィヒは旅立つ前に、“本件は調査中である為、現時点で説明できることはない”という内容の手紙を各所に送っていたのだが、その効果の程は十分でない。
それはリディの中であっても同様で、信心深い人々の中では特に大きな話題として取り上げられ、大まかには善なる予兆か不吉の前触れかで意見が分かれ、日々論争の種となっている。リーン教会は、そういった人々を宥める為の演説を繰り返した。
光の件以外にも通常の政務はあり、王の代理を任されたダーヴィットは忙殺の日々を送っていた。王に付き添った二名の高位政務官がこの場にはおらず、人手も不十分である。
寛赦の月、第一の次元神の日。国王が都を発って二週間が経った日の早朝、ダーヴィットは喧騒によって目覚めた。彼が隣室の護衛になにごとかと問うたところ、このような答えが返ってきた。「アクセル様がお戻りになられたようです」
アクセルとは、南部ファーリーンの辺境近く、隣国フォルマ王国と最も近い都市であるアクスリーの領主だ。リディで暮らす妻と娘を連れ、アクスリーへ戻るために先日リディを出発した筈である。日数を考慮すると、途中で引き返してきたことになる。
ダーヴィットは眉を顰める。「なにかあったのだろうか」と呟いた彼は着替え、手早く身なりを整えて部屋を出た。
ダーヴィットは護衛と共に王城一階の客間へ向かった。王子が入室すると、室内にいた臣下らは隅へと退いた。中央の長椅子に掛ける人物は振り返り、王子の姿を認めて立ち上がる。
「殿下、突然申し訳ありません」端正な顔立ちの男、アクセルは言った。歳は中年に差し掛かった頃である。ファーリーンでは未婚男子以外には歓迎され難い長髪だが、その淡い赤毛は一本に束ねられ、左肩から流されている。瞳の青色もまた幾分赤みが強い。
ダーヴィットはアクセルの向かいの席に座り、伯爵にも着席を勧めた。「既に聞いておられるでしょうか。王は現在ここを留守にしておりますので、心許ないかとは思いますが、私がご相談を承ります」彼は前置いた。「それで、いかがなさいましたか」
アクセルは視線を伏せ沈黙した後、口を開く。「フォルマ兵による襲撃を受けました」
周囲は低く騒めいたが、間もなく再び静まった。
「先の闘神の日、我々はヴィンツより南東の街道を進んでいました」彼は眉根を寄せる。「信じてはいただけないかも知れませんが、騎士達の様子が異様だった。まず、娘が拐われたにも拘わらず、彼らは誰一人として声も上げず、呆然と宙を見つめるばかり。私が声を掛けても反応は薄く」
「待ってください、拐われたと仰っしゃいましたか。アーデルハイトが」ダーヴィットはアクセルの言葉を遮って訊ねた。「彼女は今、どこに」
アクセルは瞳を伏せ、深く息を吐いた。彼は言った。「娘は死にました。私が見つけられたのは彼女の遺体です」
「なんということでしょう」政務官の一人が口を覆う。
「彼女だけではありません」アクセルは続ける。「私と妻以外は、全て」
「ミロウ子爵も、という意味ですか」ダーヴィットは問う。
アクセルは頷いた。「続けても宜しいでしょうか」彼は王子に訊ねる。
ダーヴィットは額を抑えた。「申し訳ない。頼みます」
「襲撃者達はフォルマ兵の装いでした。覆面をしていましたが、多くは目元の特徴からして確かにフォルマ人であったと言えるでしょう。数は凡そ八十といったところでしょうか。結局、彼らの目的というものは明らかにはできませんでしたが、統一された装いから見て、彼らは一応、正規のフォルマ兵でしょう」アクセルは言った。「行いは、せいぜいならず者のそれでしたが」彼は噛み締めた歯の隙間から吐き出した。
ダーヴィットの護衛が呟く。「南方駐屯騎士団の監視を、潜り抜けてやって来たということでしょうか」
アクセルは頷く。「そういうことになるでしょうね」
「南方の警備を強める必要があるな」そう言ったのは王属騎兵団長のヴァルターだ。背が高く、体は厚く、淡い金髪と空色の瞳で、顎髭を剃り込んだ三十代半ばを過ぎた年頃の男である。「速やかに南部ファーリーン、特に東部地方の都市に通達を出すべきかと」彼は王子に言った。
「私が引き返す折りにヴィンツに立ち寄った際、侯爵にそのようにお願いして参りました。手は打ってくださっている筈です」アクセルが答える。
「左様でしたか」ヴァルターは頷いた。
年長の政務官が挙手する。彼は王子に発言を許可されると、言った。「閣下は先程、騎士達の様子について言及なされましたが、実は先日こちらでも不可解な現象が起こりまして」
アクセルは片眉を上げる。「戻る道中で何度か耳にしました。奇怪な光が現れたとか。そのことでしょうか」
政務官は頷く。「その光の出どころに、王子殿下が接近した際のご様子が」彼はダーヴィットの方を見て、「お話ししても宜しいですね」と確認した。
「そうだな。構わない」ダーヴィットは頷いた。
政務官は続ける。「その際の殿下のご様子と、伺った騎士達の様子に、類似点があるように思えるのです。お話を聞く限り、その状況で放心してしまうのは確かに異様です。それも、多くの騎士がそのような状態に陥っていたとなれば、例えば妖術の類による影響など、視野に入れて考えるべきかと思います」
アクセルは暫し沈黙してから、「騎士の一人が“竜の眼”などと呟いていました。関係があるかは分かりませんが、また随分と奇妙なことを、と思いましたね」と言った。「実のところ、“妖術”というのは私自身考えていたものではあるのです。しかし、これを言っては皆様に怪しまれはしないかと。ですので、安心しました。やはりあれは、そういったものだったのでしょう」彼の視線は遠方へと向いている。
騎兵団長がダーヴィットに向かう。「調査が進めば、また南部から知らせが届くでしょう。それから動いても良いかとは思いますが、まずはこちらから――王が協力するという意を示す為にも、兵を派遣することをお勧めします」
「どの程度が妥当だろうか」ダーヴィットが呟く。
「状況が分かりませんから、一先ず王属騎兵一個中隊で宜しいかと」
「分かった」ダーヴィットは頷く。「軽騎兵隊一個中隊を南部に派遣しろ」彼は騎兵団長に命じた。
「了解しました」ヴァルターは左胸に右の拳を当てる敬礼で応えた。
ダーヴィットはアクセルに向き直る。「伯爵は先ず、お休みください」
アクセルは俯く。「申し訳ありません。少し、そうさせていただきます」彼は吐息混じりの声で言った。王城仕えの騎兵に手を取られ、彼は部屋から出て行った。
客間には王子達が残された。室内は暫し静まった。
その中で口を開いたのはヴァルターだ。「私は騎兵館に向かい、隊の編成を手配して参ります」彼は言った。そして王子と室内の者達に敬礼し、客間を後にした。
ダーヴィットは溜息を吐いた。「選りにも選って、王のいぬ間にこういったことが起こるとは」
最年長の政務官が口を開く。「この大変な時期に殿下が指導者としての立場を経験なされたことは、後に大きな力となる筈です。苦しい思いもおありかと存じますが、ここにいる皆が殿下の味方であって、決して協力を惜しむことはないということ、お忘れになられぬようお願い致します」
ダーヴィットは政務官を見つめた後、一同を見渡した。室内の者達が頷いた。ダーヴィットは瞳を伏せ、そして幾分表情を緩めた。
二日後、寛赦の月、第一の月の日に、王属騎兵の中隊がリディを出発した。
そしてその三日後の天空神の日に、ヴィンツからの第一報を脚に結び付けた白烏がリディに到着した。
白烏は主にファーリーン地域に生息する中型の鳥で、知能が高い。リーン人の神は白鴉の姿で描かれることが多いが、この白烏もまたファーリーン人にとっては古くから馴染みのある動物だ。行動範囲が広く、多少の人語は理解しているとみられる。十分に飼い慣らされた白烏は通信媒介として使役され、日々文書や軽荷物を携えた白烏がファーリーンの空を飛び交っている。
ダーヴィットは会議室に要人達を集めた。その中にはアクセルもいたが、彼は窶れ、この数日の間にも明確に痩せている。
白烏が携えてきた文書の内容は、先日アクセルが齎した情報とほぼ変わりはなかった。王都が位置するのは北部ファーリーンの中心部であるが、問題が起きているのはリオス湾を挟んだ南部ファーリーンの南東方面である。調査による詳細な情報が王都へ到着するまでには、まだ暫くの時間が掛かるだろう。
次の天空神の日。午後、ダーヴィットは王城を抜け出していた。政務官達が一日の自由時間を王子に提案したのである。ダーヴィットは初め拒否したが、政務官達は“適度な息抜きによって仕事の効率は上がる”等、様々な理由をつけて王子を説得し、結果的にダーヴィットはその提案を受け入れた。
ダーヴィットは午前中、城の音楽室に一人で籠もり、セロを演奏していた。そして昼を過ぎてから、彼は護衛らと共に街へ出た。服装は先日アルと共に外出した際のものとほぼ変わらないが、上着が幾分厚手のものになっている。
ダーヴィットの護衛の一人はルートヴィヒ王に同行し、都を離れている。その為、現在王子を守っているのは年若い四名だ。
彼らは中心街を抜け、旧市街へと入った。騒ぎが拡大しかねない人けの多い場所を避けつつ、ダーヴィットは王都リディを散策した。彼は庶民的な食事処で甘味を味わった。書店に立ち寄り、棚が立ち並ぶ狭い通路を他の客とすれ違いながら往復した。王城の図書室には置かれていない最新の書籍を幾つか手に取り、内容を流し見た後は、隣接する楽器屋でセロを弾く際に用いる弓の弦を購入した。
そうして過ごすうちに午後も半ばとなり、日も傾き始める頃となった。
「過ぎてしまえば、まるで一瞬の出来事だったな」ダーヴィットは広場の長椅子に掛けて呟いた。
「また参りましょう」護衛が言った。「暫くは難しいかも知れませんが、政務官方が仰られたように、息抜きは大切ですよ。我々も、こうやって殿下の散策にお供することは楽しいのですから」
「そうか」ダーヴィットは微笑混じりに言った。彼は近くに立ち並ぶ護衛達を見上げる。「最後に、教会堂へ行っても良いだろうか」彼は訊ねた。
護衛達は頷く。「勿論です」
日暮れ時のリーン大教会堂は、内外に多くの明かりが灯っていた。暖色の炎が石壁を照らしている。
その日は週に一度の祈りの日――天空神を崇める彼らファーリーン人にとって特別な、“天空神の日”であったので、多くの人々が教会堂の中にはいた。講壇の上には全国のリーン教会を統括するレイン総司祭長が立ち、静穏な声音で人々の祈りを導いている。
ダーヴィット達は足音を低くして、教会堂の隅の席に掛けた。遠方で天空神と英雄王の純白の像が、朱色の光を淡く反射している。
ダーヴィットは深海色の瞳を伏せた。総司祭長の温厚な声が教会堂内に響き、静穏な時間が過ぎる。
しかし何者かが「殿下」と呟いた。ダーヴィットの周辺の者達が顔を上げ、辺りを見回し始める。
ダーヴィットは帽子を深く被った。だが、彼の存在は急速に知れ広がった。周囲の者達が席を立ち、口々に「王子殿下」と騒ぎ立てる。
護衛達がダーヴィットを囲み、彼らは教会堂の出口を目指す。しかし、押し寄せる多くのリーン教徒に阻まれる。
騒ぎは教会堂内全域に広がっていった。信心深い人々の中では、先日の光は善なる予兆か不吉の前触れかで議論がされていたが、既に噂として広がっている南方でのできごと(アクスリー伯爵家が襲われ、その夫妻以外が亡くなってしまったこと)によって、あれは不吉の前触れであって、これからも多くの不幸が襲い来るに違いない、という意見が強まっていたのだ。
「静粛になさいませ!」レイン総司祭長が声を張り上げる。
だがリーン教徒は鎮まらない。ダーヴィットは方々から先日の光輝について問われ、南方で起こっていることについて問われた。しかし彼に答えられることはない。
人波の中で転倒者が現れる程に、騒ぎは激しくなった。ダーヴィットは一刻も早くこの場を離れる必要があったが、数百にも及ぶ人々から成る壁を四人の護衛で、民を負傷させることなく切り開き、教会堂外へ向かうことは容易ではない。
ダーヴィットが顔を上げた。彼が視線を向けた柱の影には、長身の、黒服を纏う人物が立っている。そちら側には人が少なかった。
ダーヴィットは護衛達に声を掛け、黒服の人物の方へと移動した。人波が追って来るが、黒服の人物は長い腕を伸ばして、ダーヴィットを壁と自身の体の間に隠した。その場所には扉があった。黒服の人物はその扉を開け、ダーヴィットを押し込む。そして護衛達もそちらに通し、人々が追い付く前に自分もその中へ入り扉を閉め、鍵を掛けた。
そこは部屋になっていた。寝台と書棚、照明の他に家具はない。
そして、この部屋にはアクセルがいた。先週の会議に姿を現したときには痩けていた頬が、幾分元の肉付きを取り戻している。
「さて、大変でしたね」と、黒服の人物が言った。
ダーヴィットは振り返った後、一歩下がり顔を上向けた。
その人物の顔貌は整っていた。手脚が長く、姿勢が良い。平均的に長身といわれるファーリーン人男性と並んでも、背丈は頭半個分抜けている。施された化粧は厚く、肌は真白に、目元と唇は黒色に塗られており、長い睫毛に縁どられた瞳は鮮血の色をしている。瞳孔は縦に細長く、腰まで届く長髪は艷やかな黒色である。肌の露出は顔以外にはなく、首元は黒衣の襟を立て、手もまた黒い手袋によって覆われている。
「まずは名乗らねば失礼というものですね」黒衣の人物は言った。彼は黒に包まれた右手を胸元に添え、「ノックスと申します」と言った。
「ノックス」ダーヴィットは繰り返した。「先は助かった。礼を言う」そして彼は首を傾げる。「しかし、貴方はリーン教会の関係者というわけではなさそうだが」
「彼は聖皇教会の司祭なのです」アクセルが言った。
ダーヴィットは目を瞬き、開く。「では、グローラから来たのか」
ノックスは頷く。「異なる教といえど、教義には共通点もあり、また相反するものがある。それらを理解し、決して互いを卑下することなく、共に人々の幸福――延いては世界の安寧のために尽力しましょうと。そういうことで、お互いに勉学者を送り合っているのですよ、聖皇教会とリーン教会は。私はその、聖皇教会からお勉強させていただく為に来て、ここでお世話になっている者です」
「教会がそういったことを実施していると、初めて知った。不勉強だった」ダーヴィットは言った。彼はノックスの衣装へ目を向けた。白を基調とするリーン教会の法衣とは異なる、黒を基調とする衣装は聖皇教の導師着である。
アクセルが二者の方へと歩み寄る。「彼とは、先の大地神の日に知り合ったのです。私の話を良く聴いて、慰めの言葉をくれました。とはいえ、初めは異教の司祭ということで抵抗もありましたがね」彼はダーヴィットに言った。
ノックスは微笑を浮かべる。「祈りの日は、私はこの部屋に籠もっているのですが、他に人がいない場であれば伯爵様もお話しがしやすいかと思い、お招きしておりました。本当はレイン様とご対談できれば良いのでしょうが、あの方も大変お忙しいから。私が少しでも代わりになれれば良いのですけれど」
「私が心の安寧を取り戻し掛けているのは、他でもなく貴方の力だ」アクセルはノックスに言った。
ノックスは端正な笑みをアクセルへ向ける。「ありがとうございます。導師冥利に尽きますよ」
「目立つのが気になるなら、その化粧を落としたらどうだろうか。少しは目立ち難くなるのではないか」ダーヴィットはノックスの白塗りの顔を見て言った。
「確かにそうですね」ノックスは微笑を崩さない。「けれど、これを落としてしまうと、それはそれで」
ダーヴィットは肩を竦める。「ならば仕方がないな」
「王子殿下は、グローラにいらしたことはおありですか」ノックスがダーヴィットに訊ねた。
「いいや」ダーヴィットは首を横に振る。「いずれは、と思っているが」
「ぜひ、いらしてください」ノックスは微笑む。「特に、宗教芸術に触れていただきたいと思います。聖皇国といえば、聖皇教会があってこそ成り立っているものですから。こちらにもまた“無性の芸術”がありますけれど、あちらはある意味対極と申しますか、いささか派手なところがありましてね」ノックスは西側の壁を向いた。この教会堂の祭壇がある方向である。「私も一度、是非拝見してみたかったのです。天空神とヴィート像を。素晴らしい彫刻ですね。あまりにも美しい」ノックスは囁く声で言った。
ダーヴィットは笑みを浮かべる。「作者不詳だがな」
「惜しいですね」ノックスは眉尻を下げた。「これほどの作品を創り上げた方。他の作品があるのならば拝見したかった」
ダーヴィットもまた、ノックスが向く西側の壁へ顔を向けた。「天空神はともかく美しいことに異論はないが、ヴィートに関しては相当に理想化されているように感じる」
ノックスは赤い瞳を横目に、ダーヴィットへ向けた。「そのように思われますか」
ダーヴィットは頷く。「だが、偉人と呼ばれる存在の扱いとは、多かれ少なかれそういうものなのだろう。とくに昔の人物になればそれだけ、実際の資料にも乏しいわけだしな」彼は言った。
ノックスは息を吐く。「人は過去を美化してしまいがちです。或いは、そうであったように願ってしまう。行き過ぎた願いは事実を捻じ曲げてしまうこともある。己が好む姿へと」彼は瞳を伏せた。
室内は静まり返る。室外――礼拝堂の騒ぎも落ち着いている。
「祈りは継続されるのでしょうか」ノックスが呟く。「彼らが再び席に着いてくれているその間に、貴方がたはここを出られた方が宜しいでしょう」
ノックスは部屋の北側に向かった。そちらにもまた簡素な扉があり、彼はそれを開けた。先は薄暗い廊下になっている。
「ここから教会堂の裏手に出ることができます」ノックスは言った。
「馬でおいでになられましたよね」アクセルが扉の方へ歩み寄る。「馬丁に、裏へ皆様の馬を連れてくるよう言って参ります」彼はそう言って、先に部屋を出た。
「では、私達はゆっくりと行きましょうか」ノックスは微笑をダーヴィットらへ向け、先頭となって廊下へ出る。
「貴方はいつからここにいたのだ」ダーヴィットは前を歩く黒衣の人物に訊ねた。
「まださほど時間は経っていません。前月最後の天空神の日にこちらに到着しましたから」ノックスは答える。
ダーヴィットは更に訊ねる。「暫くはリディにいるのか」
ノックスは首肯した。「当分はその予定です」
やがて廊下は突き当りの古びた戸に面した。先にここから出たアクセルによって閂は外されている。
外気は冷え、日は殆ど暮れていた。西方の空に僅かばかりの黄昏色の名残りが覗えるかどうか、といったところである。
赤みの長髪の男は、二人の馬丁と五頭の馬と共に、既にその場所にいた。
「邪魔して申し訳なかった。話の最中であったろうに」ダーヴィットはアクセルから馬の手綱を受け取りながら、言った。そして騎乗する。
「いずれ再び、お会いすることもあるでしょう」ノックスは馬上のダーヴィットに言った。「そのときまで、私を覚えていてくだされば嬉しいのですけれど」
「その容姿のままでいてくれるなら、絶対に忘れはしないと約束できるだろう」ダーヴィットは笑みを浮かべて言った。
「では、このままで。私もお約束しましょう」ノックスもまた、その両性的な顔貌を微笑ませて答えた。そして彼は空を見上げた。
今宵は新月であった。晴れ渡った夜空に、多くの星の輝きが窺える。
「日が暮れてしまいましたが、中心街への通行は制限されませんか」ノックスが天を見上げたまま訊ねた。
ダーヴィットもまた空を見上げる。「大目に見てもらおう。城の者達には心配を掛けてしまっているだろうが」そして彼は視線を落とし、「伯爵は旧市街に泊まっていくのですか」とアクセルに訊ねた。「奥方は屋敷におられるのですよね」
アクセルは頷いた。「別々に暮らしていた時間が長かったものですから、時々離れなければ、寧ろ落ち着かないのですよ」彼は苦笑を浮かべつつ言った。
アクスリー伯爵家は三貴族と呼ばれるうちの一つで、他にはリスト、テルベールがある。三貴族は、遡れば王家の分家である。この家系の当主、長男は各地治める都市で、女と次男以下の男子は王都で暮らすことが慣習となっている為、夫婦や父娘は通常離れて生活している。以前はそれが王家への忠義を示す方法の一つであり、また義務でもあったが、現在は決して強制されるものではない。しかし、彼ら三貴族は未だその習わしを引き継いでいる。
「そうか」ダーヴィットもまた薄い笑みを口元に浮かべた。内の光を溢れさせている教会堂の外観を眺めた彼は、アクセルとノックスの二名を馬上から見下ろした。「世話を掛けた」そしてダーヴィットは四名の護衛と共に、中心街の王城へと騎首を向けた。
ノックスとアクセルはその場に佇み、夕闇の中に消えて行く王子らの背を眺めていた。
ダーヴィットらは無事に王城へ戻った。玄関棟では、政務官達と彼の母である王妃マリア、王属騎兵団長のヴァルターが立ち並んでいた。王妃は僅かに顰めた表情で、騎兵団長は笑みを浮かべ、政務官達はそれぞれの反応(街でなにがあったのかを問い詰めたり、無事であることを喜んだり)で、王子一行を出迎えた。
翌日からは、再びの忙殺が王子らを襲った。ベルンのエシュナ大橋が崩れ、国王一行がヤーガ山脈へ向かったという報告も、リディへと届いている。エシュナが崩落したことに伴う損害を政務官がダーヴィットに計上し見せると、ダーヴィットは頭を抱えた。
ダーヴィットが街に出た日の八日後、寛赦の月、第四の大地神の日。ヴィンツからの詳細な報告書がリディへと到着した。一同は再び会議室へと集った。
「事態は想像以上に深刻です」そう告げたのは文書を手に顔を青褪めさせる政務官である。「先ずですが」口を開いた彼はアクスリー伯爵を一瞥した。彼は嚥下し、続ける。「アクスリーが半竜人によって占拠されています」
「半竜人だと」声を上げたのは王属騎兵団長のヴァルターだ。
「それだけではありません」政務官は更に続ける。「ミロウ城砦を拠点とする南方駐屯騎士団は全滅。先日視察のためにアクスリー方面へ出されたヴィンツ騎士団第二連隊もまた壊滅したとのことです」
「アクスリー内の様子は調べられたのか」アクセルが訊ねた。彼の口調は平坦である。
「いえ、都市内に放った偵察隊は戻ってこなかったらしく。ただ、侵攻を受けた当日にアクスリーから脱出してきたという女性がおりまして、その者の話によると」政務官はそこで言葉を止めた。再びアクセルを横目にした彼は、唇を噛んだ後、大きく息を吸い、言った。「エヴァルト様が、お亡くなりになられたようです」
「なんだと」アクセルの表情が動いた。
エヴァルトはアクセルの嫡子である。いずれはアクスリー伯爵の地位を引き継ぐ立場にある、先日十四歳の誕生日を迎えた少年だ。アクセルがリディから妻と娘を連れてアクスリーへ向かっていたのも、その息子の誕生日を祝おうとした為のことであった。
アクセルの細い眉の根が寄せられ、喉元から息が吐き出された。「街の者達は無事なのだろうか」
「その女性の話では」政務官が文書を目で追いながら答える。「アクスリー騎士は恐らく殆どが殺されただろうと。一般市民の中にも多くの犠牲者が出ていて、しかし無事に生き残っている者達もおり、閉鎖された街の中に取り残されている、とのことです」そして彼は眉尻を下げ、「市民の虐殺を止める為に、エヴァルト様は犠牲になられたのだ、とも、彼女は申していたそうです」と、付け加えた。
そして室内は静まった。アクセルの「そうか」という呟きが響いた。彼は暫しの沈黙の後、言った。「身代わりを立て、実際には逃げ延びているやも知れぬ」
「きっとそうでしょう」ダーヴィットがアクセルに同意した。
「生き残っている民がいるのなら、都市の奪還は尚のこと急がねばなりません」ヴァルターが言った。彼は壁際に丸められ置かれていた南方の地図を持ち出し、室内中央の大卓に広げる。
アクセルが席を立ち、騎兵団長が広げた地図に寄った。
「王にこのことを知らせる必要があるのではないか」ダーヴィットもまた作戦会議の輪の中に入り、言った。
政務官が答える。「その件でしたら、こちらへ白烏を飛ばすのと同時にリラへも飛ばしたそうです。あちらへもあと数日のうちに到着するでしょう」
ヴァルターは政務官から文書を受け取り、目を通した。やがて顔を上げ、一同を見渡す。「二千の騎士が七百あまりの半竜人に壊滅させられた、と。戦闘は市外で行われたようですが、そこに人間の戦闘員はいなかったらしい。アクスリーの騎士七千が殆ど抵抗を許されなかったとなれば――さらに言うなら、南方駐屯騎士団二万がミロウ城塞ごとその半竜人らに全滅させられたのであれば――、全体では四、五千といったところでしょうか」彼は文書を卓に置き、腕を組む。「ファーリーンの戦闘員は半竜人との相性が悪いので。その程度の数でも城塞を落とすことは可能かと。我々が真正面からいつものように戦っても、損害ばかりを出してしまう可能性が高いのは確かでしょう」
「交渉に持っていくことができれば理想か」ダーヴィットが言う。
ヴァルターは頷いた。「あちらには“アクスリーの民”という人質もありますしね」彼は眉根を寄せる。「しかし、駐屯騎士団は四千の影を認識できなかったのか。なぜ白烏を飛ばさなかった」彼は首を横に振り息を吐いた後、アクセルに顔を向けた。「都市の食糧備蓄はどの位ですか」
「一ヶ月分程度だが、敵に奪われているやも知れぬ。いずれにせよ、我々が兵を整えている間に尽きるだろう。生き延びた民を飢えで死なせるわけにはいかぬ」机に置かれたアクセルの拳が握られた。
「食うものがなければ敵も困る」ヴァルターは呟いた。「いつまで占拠して街を閉鎖しておくつもりなのかは分かりませんが、長くそうするなら敵方も動かねばならない」そして息を吐いた。「半竜人が相手では、我々王属騎兵団でも恐らく対人戦闘程の戦果は上げられないでしょう。特に重装騎兵は、半竜人と戦わせたくない。騎士団が対抗できなかった要因の一つは、重い装備と、それに合わせた日々の訓練にあっただろうと思います」彼は一呼吸置いてから、再び一同を見渡した。そして、低い声で言う。「私は、魔道士団に協力してもらう必要があると思う」
「魔道士ですか」顔を顰め呟いたのは第二騎兵団長である。
帝国に属する国には、大きくはファーリーン王国、アウリー王国、ヴィオール大公国がある。ファーリーン以外の二国は魔道国家で、帝都リラもまた魔道の都だ。それであるにも拘わらず、ファーリーン人の多くは魔道を嫌悪する。その為に、ファーリーン王国では魔道が発展しなかった――或いは、著しく衰退したのである。
「ヴィオールならアクスリーとも近い。出動を願うなら、直ぐにでも我々と合流してもらえるでしょう」ヴァルターはダーヴィットを見る。「とは言っても、私の一存ではどうにもなりませんが」
ダーヴィットはアクセルを見る。アクセルは瞳を伏せている。
ダーヴィットは室内の者達に向けて言った。「確かに、半竜人や竜人は、一般的に魔道術との相性が悪いと言われている。例えばだが、ファーリーンの兵団だけではなく、魔道士団も共に街を包囲したならば、市内を占領する相手側に与えられる圧は強まるだろう」
アクセルが口を開く。「使える有効な手は、使いたい。というのが、正直なところではあります」彼は言った。
「では、ヴィオールにはそのように要請を」ダーヴィットは言った。
ヴァルターは口角を上げる。「王属騎兵も評判は良いですから、軍勢の中に紛れていれば多少なりとも敵はその存在を考慮するでしょう。それに、身軽な訓練を積んだ兵なら半竜人相手でも十分に戦える筈です」彼は王子を振り返り、「都には第三騎兵団を残して、第一、第二騎兵団は総員アクスリー地方に送るということで、宜しいでしょうか」と訊ねた。
「それでいい」ダーヴィットは頷いた。「しかし」彼は呟く。「その半竜人達は恐らくイシャクの管轄だろう。アクセル殿達を襲ったフォルマ兵と関わりがあるのかどうか。一応あそこは“連合王国”などと呼ばれてはいるが、実際には互いに無関心な国だしな」
「敵の頭領を捕まえて問い質せば、それも分かるでしょう」ヴァルターが言った。そして背筋を伸ばし、アクセルへと向く。「知らせを受けられれば、恐らく陛下はその足でアクスリー方面へと向かわれるかと。閣下はいかがなされますか」
「私もアクスリーへ向かうつもりだ」アクセルは答えた。
「良かった」ヴァルターは口元に笑みを浮かべる。「ルートヴィヒ様とアクセル殿が統括されるとなれば、兵の士気も上がる筈ですからね」
ダーヴィットは政務官達を見渡して言う。「南部には、可能な限り兵をアクスリーへ送るよう要請する。ヴィオール大公にはこれらの内容を踏まえ、魔道士団の助力を請う手紙を書く。王もまたガートに立ち寄るだろうから、大公の方からこちらでの決定ごとを伝えてもらおう」
政務官達は了承の意を示した。
「私は騎兵団の先行隊がリディを発つ際に、共にこちらを出立致します」アクセルが言った。「できれば早めに陛下と合流したいところです」
ダーヴィットは頷く。「我々も、この都からでき得る限りの助力をするつもりです」そして彼は口調を硬くして続けた。「我が国の領地が侵されたとなれば、王はそれを看過することはしないだろう。然るべき処置――、敵の正体が明らかとなった暁には、十分な制裁を与えることを辞さないかも知れない」
王子の言うところとはつまり、これを機に再び、古くから価値観の相違から衝突を繰り返してきたフォルマ王国との戦が(また或いはそこにイシャクも加えられ)始まるやも知れぬということであった。