第二章
赤き荒野
赤き荒野(1)
早朝。薄青い大気の流動が、ひやりと頬を撫ぜる。
騎兵団の館の前には少年が一人。彼は霞がかる光景の中を、足音を低くして歩いていた。切り揃えた金髪が、さらりと靡く。細く頼りなさげなその背中に、朝の静寂を打ち壊す罵声が降り掛かった。
「おぉい、“坊っちゃん”よー! なぁんで、よりにもよってあなた様なんぞが陛下のお供に選ばれたのでございますか? 騎兵団の底辺の底辺、『最底辺』の役立たず様がさぁ!!」
「ばか、聞こえるだろ」
大きな声で喚き立てる気の強そうな若者を、彼の傍にいる少年とも青年とも言い難い年頃の者が咎めた。気の強そうな若者は、これ見よがしに舌打ちをする。
「聞こえるように言ってんだろ!」
金髪の少年は俯き、何も言い返すこともせず、振り返ることもなく、ひたすらその場から逃げるように足を速めた。
少年の名は、フレデリック。
ファーリーンの大貴族、レイス侯爵家の四男である。レイスはファーリーンの北西部に位置し、三大国間で常に中立を保つ『グローラ聖皇国』との橋渡しを担う。昔から商業で栄え、レイスはファーリーンにとって最も重要な都市の一つだ。レイス侯爵の力も大きく、卿の発言力は王の従兄であるクラーツ公爵に次ぐ。
フレデリックは待ち合わせの場所へ辿り着いた。そこには既に、王の近衛騎兵たちが集まっている。近衛騎兵長のコンラート、近衛最年長のヘルムート、普段は王子の護衛を務めるエリアス、その強面と槍捌きから“死神”の異名を持つハインリヒ、背が低く童顔のドミニク、長身で無口な弓兵カルテン……。いずれも王属騎兵では――いや、ファーリーン中で――尊敬と羨望の的となっている、近衛騎兵の勇士たちである。
そして彼らの立つ位置より奥の方には、若い騎兵が三人、一頭の馬を囲んでいる。馬の背にはフレデリックより二つくらい年下らしい子供が、ぎこちなく跨っている。その者の、やわらかな色合いの金髪は、毛先にゆくほど濃紫色に移ろっている。フレデリックは若い近衛たちの話の邪魔をしないよう、出来る限り目立たないよう細心の注意を払いながら、頭を低くして近づいてみる。
「ふぅむ。やっぱ、一人で乗るのは厳しいか」
焦げ茶色の頭髪を刈り込んだイザークが言った。それに対し、やや青みがかった黒髪のガイが同意を示す。
「途中、何があるか分からんからな。疾駆して振り落とされでもしたら一大事だ」
「誰かと一緒の方が安心ですよね?」
優しげな目つきをしたアレンが、馬上の子供に話しかけた。子供は素直に頷き返している。そのときアレンが背後でこそこそとやっているフレデリックに気づいたようで、振り返った。
「フレッドさん、おはようございます」
「あ……、うん……、おはよう、……ございます……」
フレデリックはしどろもどろになりながら返した。
子供が乗る馬の陰になったところには、赤毛の騎兵ラースローがいたようだ。ラースローは目を閉じ、気だるげに壁に背を預けながら座り込み、おそらく馬の餌だろう干し草を、もさもさと噛んでいる。フレデリックは内心飛び上がるほどに驚きながらも、できるだけ足音を立てないようにしながらそろりそろりと通り過ぎた。
そのあとフレデリックは厩舎に入り、自分の馬を探した。この厩舎では三百頭の馬が暮らしている。さすがに王属騎兵三千名の相棒全てを、ここに住まわすだけの余裕はない。残りは旧市街と新市街に点在する厩舎と、リディの街外に作られた広大な放牧場でのびのびと過ごしているはずだ。聞く話では、彼らは日々、世話係の騎兵や厩舎の管理人を困らせて楽しんでいるらしい。
フレデリックは彼の馬を見つけた。淡い灰色の体毛を持った騙馬だ。殆どの騎兵は、賢くて強い“シークの馬”を相棒にしているが、フレデリックは、このファーリーン生まれの穏やかな性格をした馬が気に入っていた。フレデリックが近づけば、彼はフンフンと鼻を鳴らしながら、長い脚を踏み鳴らした。
フレデリックが相棒を連れて厩から出ると、丁度近衛騎兵長が部下たちに集まるよう呼び掛けているところだった。王の近衛たちは、素早い反応で兵長の前に一列に並ぶ。フレデリックは近場の柱に急いで馬を繋ぎ、その列の末尾に加わった。
そのフレデリックの隣に、先ほど馬の背でこわばっていた子供が、いそいそと並びに来る。“お客様なんだから、別に並ばなくていいのに”とフレデリックは心の中で呟くが、それをあえてこの場で口に出す勇気はなかった。
そのときフレデリックは、そう言えば自分は私服であった、ということに気づいた。もしかすると、そのせいなのだろうか。歳も若く、体つきも貧相な彼はおそらく王属騎兵には見えないだろう。そんな彼が列に加わったため、この子供は『自分も並ばなければならない』と勘違いをしてしまったのかもしれない。そんなことを、フレデリックは列の端の方で考えて、憂鬱な思いになる。
「はっ!」
男ばかりの野太い返事の声が突如上がり、フレデリックはビクリと肩を飛び上がらせた。兵長の話をろくに聞いていなかった証拠だ。フレデリックは自己嫌悪に陥り、彼の心境は更に憂鬱さを増した。
近衛騎兵たちは、かの長い階段を駆け上がっていった。フレデリックはぼんやりとした子供と一緒に厩のそばで待機し、訓練さながらの動きをする近衛騎兵たちの後ろ姿を眺め、絶句していた。
騎兵たちは城門の前まで一気に辿り着くと、達成感に満ちた清々しい表情で主を待った。やがて、旅用の装備をしたルートヴィヒ王が、政務官たちの名残惜しむような視線を背負って現れた。
「陛下、本当に……行ってしまわれるのですね……」
劇的な今生の別れのように悲壮な声音と表情で、丸渕の眼鏡を掛けた若い政務官が言った。ルートヴィヒはもはや何度目か分からないその言葉を受けつつも、穏やかな表情は全く崩さなかった。若い政務官の背後に居た、髪や髭の殆どが白くなっている年配の政務官が前へ出てくる。
「ご不在の期間中、案件処理の最終決定は王子殿下がなさるでしょうが、恐れながら我々の方から進言させて頂く場面もあるかと存じます」
「宜しく。きっと右も左も分からぬ有様でしょうから」
「承りましてございます」
年配の政務官は仰々しいお辞儀をした。
そして、マリア王妃が現れる。彼女は自分の護衛とダーヴィットの近衛を連れて、静々と城門から出てきた。彼女はルートヴィヒの前に立つ。
「ごめんなさい、ダーヴィットは……」
マリアは申し訳無さそうに眉尻を下げて言った。ルートヴィヒはゆったりと笑んだ。
「あの子の見送りは期待してませんよ」
王の返答に、王妃は一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐにいつものたおやかさを取り戻した。
「陛下、どうぞお気をつけて」
王は頷いて返した。ルートヴィヒに同行することとなったエリアスが、リディに残す彼の部下たちに一切を託す言葉を掛け、ジェレミーが代表してそれに応えている。皆の挨拶が終わったのを見計らって、王は近衛に向き直った。
「さあ、そろそろ行きましょう」
近衛たちは左胸に拳を当てて、敬礼した。
一方、厩舎そばに佇む少年二人は、取り敢えずの自己紹介を終えたあとは会話らしい会話もせず、王と近衛が戻ってくるのを待っていた。やがて王と近衛騎兵らは長い階段を下りてきて、厩舎の前に繋がれていた馬を解放する。そして、ひらりとその大きな動物の背に跨った。
「アルベルト殿は、フレデリックの馬にお乗りください」
近衛騎兵長のコンラートが馬上から言った。フレデリックは「はい」と返事をして、アルベルトが彼の馬に乗れるよう、上から手を引っ張ってやった。
中心街の大通り、その両脇には王属騎兵が全員正装に身を包んで整列している。通りの入口のところへ王が進むと、騎兵団長のヴァルターが彼の御前に立った。そして、高らかに口上を述べる。
「国王陛下に、〈天空神〉の加護在れ」
「我がファーリーンの純真なる民と、その守護者たちに、精霊王の加護を」
ルートヴィヒ王は、穏やか且つよく通る声で応えた。礼口上のやりとりを終え、ヴァルターは素早く横に退いた。そしてファーリーンの王に敬礼する。一拍おいて、三千の騎兵が同時に、右の拳を左胸に押し当てた。
ルートヴィヒたちは、騎兵が控える通りをゆっくりと進み出した。三千もの兵がずらりと並ぶ様は、壮観だ。アルベルトは感心しきった顔で、馬に揺られながら辺りを見回している。しかし、フレデリックの方はそんな景観に構う余裕はなかった。彼は、並んだ騎兵の全員が自分を憎々しげに睨みつけて、責めているに違いないと信じていた。彼は中心街の門を出るまで、どうしても顔を上げることができなかった。
「フレデリック。既に聞いていると思いますが、今回、君はレイス侯の代理人です。もっと堂々としていなさい」
中心街を出、旧市街に入ったところでルートヴィヒが言った。王から名を呼ばれたことにフレデリックは身を震わせたが、彼は自信なさげなままで「しかし……」と呟く。
「館の者たちは、そのようには考えておりません。私は近衛に非ず、まして一般の騎兵としましても、全く実力が伴っていないのが周知の事実であります……。表向きをそのようにはからって頂いても……。館の者は皆、私が陛下に御同行させて頂くことを、不当であると考えておりますので……」
「チッ」
背の低い重騎兵のドミニクが舌打ちをした。フレデリックはビクリと飛び跳ねる。
「ったく、キノコ生えるわ。いいか、陛下が“レイス侯の代理だ”って仰ったら、誰が何と言おうがお前はレイス侯の代理なんだよ!」
「うぅ、はい、すみません……」
ドミニクの口調荒い言葉に、フレデリックはビクビクとしている。いまいち慰めの効果が無かったらしいことに思い至り、ドミニクは隣のカルテンを見やりながら肩を竦めた。
彼らは新市街を南門から抜け、同時にリディの街を出た。
都市の外に広がる広大な北シルフィ平野は、中央大陸の全面積のうち三割近くを占める。さわやかな緑が、さらさらと心地よい音をたてる。一行は馬の歩みを少し速めた。
「すぅ〜っ、はぁ〜っ」
赤毛の騎兵ラースローが深呼吸をしながら勝手気ままに馬を駆った。波打つ鮮やかな赤毛が馬の尻尾の動きと連動して、わさわさと揺れている。
「何をしてる! さっさと定位置に戻らんか!!」
ピリピリしがちな堅物男ガイが、顔を合わせるたび(つまり毎日)喧嘩をしている相手を怒鳴りつけた。しかし、ラースローはガイを馬鹿にしきったふざけた顔をして抗う。
「肺が腐っちまうってんだよ! テメェの隣にいたらな!!」
ガイは額に浮き出た青筋をひくつかせた。前方にいるイザークが笑いながら振り返る。
「落ち着け、ガイ。多目に見てやれって、あんまりじっとさせてるとラースローは発狂しちまうから」
「しかしだな、隊列を乱すというのは……」
ガイは出来る限りラースローを視界に入れないようにしながら反論した。すると、ルートヴィヒが笑い混じりの口調で言う。
「まあ、いいんじゃないですか」
彼はその辺を駆け回る自由人を横目で見て、「ふっ」と短く息を吐いた後、前を向いた。ガイは完全に納得できたわけではなさそうで、眉間にしわを寄せつつ溜息を吐く。
「……陛下がそう仰るのなら」
「ヒョーゥ! さすが王サマ分かってるぅ!」
遠くの方からラースローが叫んだ。
そんなやりとりを聞き流しながら、アルベルトは背後で肩身の狭い思いをしているらしい少年を振り返った。
「ねえ、“フレッド”って呼んでも良い?」
「……べつにいいけど」
フレデリックはおもむろに顔を上げ、力なく答えた。アルベルトはにっこりと笑ったあと、興味津々といった表情になって訊ねた。
「リラってどんなところなの?」
「すごいところ」
フレデリックは殆ど投げやりにも感じられる調子で言う。
「凄いところ? フレッドはリラに行ったことがあるの?」
「うん。とにかく、凄いんだよ」
あまり興味の無いような顔をしてフレデリックは話すが、彼の瞳はきらきらとしている。美しい回想に感激している目だ。前を行く親切なアレンが、フレデリックたちを振り返った。彼はアルベルトの質問に具体的に答える。
「リラは本来、城の名前なんです。というか、リラ城が一つの都市として機能するくらい巨大なんです。少なくとも、二五〇〇年も前から、リラ城は変わらずに在るそうですよ。何故そんなに長い間残っていられたのか、っていうと、リラには古代の魔法が掛かっているからだそうで。現在では解読ができない、もの凄く高度な術なんだとか……」
そして、少し言葉を切って続ける。
「きっと、行けば分かると思いますけど、リラ城の周りって完全な荒野なんです。普通に考えたら、あんなところに住もうなんて思わないですよ。数日移動すれば、水も植物も、動物もたくさんいる場所に行けるんですから。……リラが建設された頃は、今とは違う環境だったのかなぁ……。何といったって、何千年も昔ですからね……」
アレンは言葉を溜めて、
「はぁ、これぞロマンですよ……」
と、うっとりと言った。フレデリックもアレンと似た感性の持ち主のようで、話を聞いているうちに彼の瞳は爛々とギラつきはじめていた。
やがて、日は高く昇った。一行は近衛騎兵長コンラートの指示に従って、一旦馬を休ませるべく、灌木の茂みの中に入っていった。真夏は過ぎたとはいえ、未だ日中の気温は高い。日差しを遮るもののない平原を移動し続けるのは、決して“快適な旅”とは言えないものだ。近衛たちの服装は黒が基調のため、日差しの熱を吸収しやすく、さらに暑い。
彼らは木陰の中に入り込むなり、うめき声を上げながら涼を貪った。辺りを見渡してみると、近くに小川が流れている。涼しげな音と、微かにひんやりとした空気がそちらから届けられる。一行は馬を川辺に連れて行って水を飲ませ、自分たちも革袋の水をがぶがぶと喉に流し込んだ。
アルベルトは水を持ってきていない。誰にも指示されなかったため、水の必要性に思い至らなかったのだ。しかし彼は困惑する様子もなく、小川に近づいて、その手で清流の水を掬おうとした。
「まあ、お待ちなさい」
優しげな声が背後から聞こえて、アルベルトは手に溜めた水を落として振り返った。
そこにあったのは、悪魔の如き顔面だった。
陰になった目元には、銀灰色の瞳が光っている。アルベルトはその、少しばかり恐ろしい顔を見返す。
「水だよね? ちゃんと君の分も用意してきたから、大丈夫。まあ、確かにここの水は綺麗だし、美味しそうではあるけど……。馬は慣れているから平気だけれど、君はひょっとするとお腹を壊してしまうかもしれないからね。念のため、こっちを飲んでもらえるかな?」
そう語りかけながら、大きな体のハインリヒは、たぷんと音のする革袋をアルベルトの掌に乗せた。彼の声は慈悲深く、聖人のようである。
しかしその顔が悪魔、いや、“死神”のようなのだ。おそらく、本人は優しく微笑みかけているつもりなのだろうが、傍から見ればその表情は邪悪というか、死の恐怖を煽られるものにしか見えないのだろう。彼のあだ名“死神”は、彼の槍捌きに因んだ部分はあるだろうが、大方はこの顔から連想されたものに違いない。
アルベルトは黙って頷き、水を受け取った。そして袋の口を開いて、零さないようゆっくりと飲んだ。そして彼は周囲を観察する。
ルートヴィヒは木の根に寄り掛かり、腰の両脇に佩いた二本の剣の具合を見ていた。刃はほんの一部たりとも錆びたりしておらず、鋭い銀色の光を反射させている。王は反射する光を顔に受けながら、血抜きの溝を指先でなぞっている。やがて顔を上げてアルベルトと目が合うと、彼は穏やかな表情で、“どうかしたのか?”と伺うように首を傾げた。アルベルトが臆さず、じっと翠の瞳を見つめていると、ルートヴィヒは困ったような顔で笑って、目を逸らした。
小一時間後、彼らは再び馬に跨がり、東へ進んだ。額から流れ落ちてくる汗を辛抱強く拭う者もいれば、痺れを切らして上衣を取っ払ってしまう者も居た。
農村、というよりは“集落”と言った方がしっくりとくる、家屋と畑の集まりを幾つか通り過ぎた。日はまだ十分高い場所にあるものの、彼らは本日の終着点へとたどり着いた。
町の名は、セルバー。のどかな田舎町の風情で、地面は綺麗な石畳で舗装されている。道の脇には、美しい曲線を描く黒鉄の柵が張ってあり、その奥の手入れが行き届いた花壇は、控えめに客人を迎え入れる。一行は馬を降り、街へ入った。
広場で遊んでいた子供たちが、王とその付き人たちの姿を見つけて、騒ぎ立てながら駆け寄ってくる。
「おうさまきたよー」
「きへいさんだぁ、かっけぇ〜!」
近衛たちは子供たちの期待に応えるべく、姿勢を正して“憧れの騎兵”らしく佇むのだった。
「おわあぁ!!」
十歳になるかならないかくらいの少年が、叫びなから駆けてきた。
「ドム兄!? ドム兄じゃん!!」
「よお」
ドミニクは片手を挙げて応え、突進してきた少年をそのままの勢いで抱え上げた。
「チビの怪力おじちゃんだ!」
「あぁ!?」
新たに駆け寄ってきた幼い少女が笑いながら言うのに、ドミニクは元から大きな目を更に見開いた。
「なんだそれ、誰が言ったんだ!! お前か!」
ドミニクは抱え上げた少年に問いただした。少年はペロッと舌を出してみせる。ドミニクは「このやろう」と毒づいて、容赦なく少年を地面に落とした。
「いてっ」
「俺よりデカくなってから“チビ”呼ばわりしろや『ドチビ』!」
「へんっ、どうせそんなのすぐだよ」
少年は自信満々に反抗した。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
その時だった。彼らの耳を劈く悲鳴が起こった。子供達の叫びに、その場に居た者たちは反射的に振り返る。
ハインリヒが顔を隠しながら、後ろにはけて行くところだった。
赤き荒野(2)
一行はセルバー男爵を加え、街の中を移動していた。男爵は使いを寄越すことなく、自ら街の入口付近で囲まれている一行を出迎えに来た。そしてハインリヒが子供たちにその顔を恐怖され泣かれていることを知ると、慌てて頭を下げてきた。「慣れているから、大丈夫」と答えたハインリヒは、しかし少なからず傷ついているように見えた。
腰の低い統治者は、一行を自らの館へ案内する。その途中にすれ違う街びとたちは、男爵に対しても国王に対しても親身で好意的だった。男爵は、人々に話し掛けられればにこやかに返し、ときに自分の方から話し掛けていた。この街の出身だというドミニクは、男爵とも親しげである。背の低い騎兵は、砕けた口調で男爵と会話をしていた。
セルバー男爵は口ひげを伸ばしていて、腰は低いようだが同時に威厳も兼ね備えていた。それは“高慢”とは程遠い。歳の頃はルートヴィヒと同じくらいなのだが、口ひげのせいもあってか、少々老けて見える。杖を突き歩く様子からして、左足が不自由のようだ。
やがて、セルバー西部の坂の上に立つ館の庭に足を踏み入れた。そよぐ木陰が芝と石畳を揺らしている。さほど大きな館ではないが、その分手入れが行き届いている。ところどころに木材が張られた建物には、暖かみがある。庭の端にある小さな池は、白色の細い柵に囲まれている。玄関の前では三人の女中が待っていて、一行を出迎えた。
館の中も外観を裏切らず、隅々まで小綺麗にしてある。窓がいくつも取り付けられていて、建物の中だというのにとても明るい。
「お茶をご用意いたします。格好をお楽になさいましたら、また下りて来て頂けますかな」
女中が客人達を上階の部屋へ案内するのを、男爵は階段の下から見上げて言った。
王のルートヴィヒが通されたのは、王族の来賓専用の客室だった。フレデリックとアルベルトにもそれぞれ個室が与えられ、騎兵たちは広い相部屋に案内された。いずれも、派手すぎず落ち着いた内装でありながら、装飾品の一つ一つはこだわり抜かれた逸品である。
各々は部屋で荷物を置き、重い装備品を外したり、部屋と通路の点検などをしてから、再び男爵の待つ階下へと降りた。
男爵は長テーブルの置かれた、この屋敷で最も広いと思われる部屋で待っていた。彼は人数分並べられた席を指し示し、客人に着席するよう促した。ルートヴィヒが男爵の向かいに座り、その隣に近衛長が掛けた。そのあとは、皆好き勝手に自分の場所を確保していった。そして彼らが着席するなり、手際よく用意された香り高い紅茶が出された。湯気の立つそれは、大分熱そうである。
ルートヴィヒは、まだ熱湯のそれを何のためらいもなく口に含んだ。そしてやはり何ともなさそうな様子で、男爵に話し掛ける。
「もう随分とお会いしておりませんでしたが、如何です? 体の方は」
「あぁ……、ええ、少々鈍った感は否めませんな。しかし、とりあえずは『ぼちぼち』といったところでありましょうか」
男爵は愛想よく答えた。「お気遣い痛み入ります」と、感謝の言葉を添えて。
赤毛の騎兵ラースローが、無遠慮に男爵と国王を見比べている。そして同僚たちの表情を窺って、首を傾げた。その様子に気づいた男爵は、気を害した様子もなく訊ねる。
「私の脚のことが気になりますかね?」
「ん〜……」
ラースローは、彼にしては珍しく頷くのをためらった。
「気になるっちゃぁ、気になるけど、聞くのも野暮かなって」
彼の口の利き方を咎めるように、ラースローから最も離れた席にいるガイが咳払いをした。しかし男爵はやはり気にしたふうではない。
「いえ、気になるなら訊いてください。これは私の武勇伝を語るのに、調度良い口実なんです」
「あ、そうなの。じゃあ訊く。『その脚、どうしたんです?』」
ラースローが言った。男爵は一連の会話を微笑を浮かべて聞いていた王に、「話しても宜しいですか?」と今更ながら伺いを立てる。ルートヴィヒは「どうぞ」と答えた。王の許可を得ると、男爵は「実は……」と十分に間を溜めてから白状する。
「私、十年ほど前は王属騎兵に所属しておりました」
「近衛の候補として、第一に名の挙がっていた方です」
ルートヴィヒが補足した。ラースローがガタンと席を立った。
「どぇ〜ッ! ホントっすか!? 先輩!? 先輩じゃん! よぉ、先輩ッ!!」
男爵は笑った。
「堂々と話せるのは、その部分だけなんですけどね。まあ続きです。十年ほど前に、フォーマとの競り合いがありました。あそこと揉めるのは珍しいことでは有りませんが、少し大々的な“戦”になりかけまして。その時、私は王属騎兵として南方に向かい、戦闘に従事いたしました。私は小隊を率い、敵陣営の背後に潜り込む役目を仕り、そしてそのように決行いたしました。ところが敵に見つかり、総叩きに遭い、その際流れ矢が左膝に当たり、骨が砕けてしまいました。暫くごたごたしていたものですから、満足な手当が出来ませんで……。膝が曲がってしまって、以前のようには動けなくなってしまいました。なので、王属騎兵を『退役』という形で辞めざるをえませんでした」
「こいつに矢が当たったのは、同僚を庇ったからだ」
ドミニクが言った。男爵は口角をキュッと引き上げて、頬を掻いた。そしてどことなくこそばゆそうに笑った。
「そう、ここでこういう感じで補足が入ると、私はすごく英雄っぽいでしょう? 私ひとりのときはこの話はしませんけど、この一言の補足を入れてくれる知り合いがいるときは、私は進んでこの話をします」
「へっへっへ。正直なオジサンだな〜。嫌いじゃないよ」
ラースローは膝を叩いた。
「わたくしは、兄が戻ってきてホッとしましたのよ」
先までお茶出しをしていた若い女性が、男爵の後ろのあたりに立って言った。男爵はちらりと背後の女性を見、再び前を向き、
「妹です」
と、客人たちに紹介した。男爵の妹は、兄と似た愛想の良い笑顔を見せる。そして、じっとりとした眼差しで兄を見下ろした。
「この人、わたくしに爵位の後継を押し付けるようにして出て行ってしまうのですもの。突然! まだ十かそこらの、幼いわたくしにですよ? ひどいと思いません?」
「父さんが亡くなる前に帰ってきたじゃないか」
「ええ、そうね。おかげさまで、わたくしの毎日気が気じゃない少女時代は、全て無駄になったわ」
彼女は、政治の勉強に明け暮れた自分の少女時代を哀れみ、兄に振り回された事を多少は根に持っているようではある。だが、それ以上の信頼を男爵に対し寄せていることが、傍目にも分かる。
「あまりどつかないどくれよ」
男爵は困ったような笑みを浮かべながら、許しを請うた。
やがて日が落ちた。獣脂で穏やかな明りが灯され、先の談話を交わした部屋で一同は夕食をとった。
その後は、それぞれ客室に戻ってくつろいだり、腹ごなしに外に出てみたりと、勝手知ったる様子で自由に行動した。アルベルトは部屋に入るとベッドに寝転び、間もなくうとうととし始めて、そのまま眠りに落ちた。
ルートヴィヒは、外に出て辺りをうろつくうちの一人だった。彼の護衛として、エリアスとヘルムートが付き添っているが、どちらかというと“同行”といった様子だ。
「この歳になると、ああいう食事は少し胃にもたれる。昔はなんともなかったんだが」
「仕方ない。あまり若くないのは事実だ」
どことなく悲しげに愚痴るヘルムートに対し、エリアスは達観した様子で言った。前を行くルートヴィヒが笑う。
「おっと。なら、私も若くないということですかね」
ヘルムートが感動したように「おや」と言う。
「陛下も我らと同じでございますか。おお、聞いたかエリアス、私らのこの消化不良は、どうも年寄りなせいではないらしいぞ」
「それはよかった」
エリアスは言葉少なに同調した。
やがてルートヴィヒは歩みを止め、石段に腰掛けた。衣服の金具がカチリと鳴る。彼は手を組み合わせて、夜空を見上げた。二人の護衛は静かに佇み、見守る。王は上弦の月の光を顔に浴びながら、目を細めた。
「……ここは、良いところです。土地も民も、素朴で温かい」
藍色の風景に沈みながら、王は呟いた。涼しい風がルートヴィヒの横をすり抜け、石段を軽やかに昇って行った。
王は回想に耽り、その温もりに浸っているように見受けられる。しかし彼から微かに滲む気配は、“それ”を探り、求めるようでもあった。
近衛騎兵の為の部屋は、二つ用意されていた。部屋分けは年長者と年少者で組となって分けられている。年長組の部屋には、コンラートとハインリヒ、殆ど口を利かないカルテンが残っている。なお、ドミニクは生家に顔を出しに行っている。
近衛長のコンラートは、後ほどヴァルター団長に提出する報告書を作成するために、本日の出来事を記録していた。カルテンは、威力と飛距離を出すため特別に設計された、複雑な構造をしている彼の弓を分解し、油を注してみたりしながら几帳面に手入れをしている。そしてハインリヒだが、彼はまだ少し落ち込み気味の様子だ。
「しばらくリディから出なかったせいかな。今日はなんだか、少しグサリときてしまったよ……」
うなだれ、掌でふにふにと顔の皮を動かしながら、死神顔の騎兵は言った。ハインリヒを見慣れた騎兵や、城で働く召使、官僚などは、今更彼に会ったとていちいち驚きはしない。その環境に慣らされていたハインリヒは、久方ぶりに子供に泣かれ、傷ついていた。子供好きの彼にとって、子供に泣かれるということは結構辛いようだ。
コンラートは記録の手を頻りに止めては相槌を打っていたが、やがてペンを置いてハインリヒの方を向いた。そして仲間を慰める言葉を掛けてやった。
「お前、その顔はな、優れた武器だぞ」
ハインリヒはそのこわい顔を、悲しみにうち震えるように歪ませながら上げた。
「そうだ……、そうなんだよ。私は戦士になるしかなかったんだ。いや、別に戦士が嫌だってわけじゃないよ……。……けれど、まさかこの顔で、教会の司祭や孤児院の運営者なんて、できやしないじゃないか」
「それはそれで面白そうだな」
「面白さはねぇ、……そんなに求めていないかな……」
しょんぼりと彼は言った。そして、はと気づいたようにコンラートの表情をまじまじと伺う。
「……私のことを報告書に書くつもりかね」
「さて、どうしようか」
コンラートはしらばくれた。
「いやいや、書かないでくれよ。団長のことだ、絶対大笑いするに決まってる」
「笑うかもしれんが、言いふらすようなことはしないだろう」
「いいや、団長の笑いを聞きつけて、皆わらわらと何事かと訊きに来るんだ。ほらもう、目に浮かぶよ。だから書かないで欲しいんだよなぁ」
ハインリヒは懸命に説得した。しかしコンラートは巧みに聞き流し、しまいには話題を逸しに掛かる。彼はふと思い出したように言う。
「そう言えば、あのアルベルトって子供。お前が後ろから声を掛けてやったとき、驚いた様子がなかったんだが」
ハインリヒは「ああ……」と相槌を打って、
「肝の座った子だよね……」
と言い、あまり生気のない笑い声を上げた。
一方、年少組の部屋。こちらは約一名の活躍によって賑やかだ。
「いや〜、知らんかった! あの人騎兵だったんだ! なぁなぁ、イザークは知ってた?」
ラースローは腹から寝台に飛び乗って言った。彼の体はボヨンと弾み、寝台はギシリと音を立てた。ラースローに指名されたイザークは、荷物を漁りながら答える。
「まあな。俺の実家、セルバーの近所だしさ。噂にはなってた。ガイはどうだ?」
「ああ、俺も噂程度だ。ルゼットほど話題にはなってなかったと思うが」
装備の点検をしているガイが答えた。ラースローはチッと舌打ちをした後、
「な〜、アレンは〜?」
と、自分だけそのことを知らなかったのが不満だ、というような顔をして、年上の後輩に訊ねた。窓辺で涼しい風に当たるアレンが振り向く。
「騎士団では、結構な有名人でしたよ。貴族出身の王属騎兵だ、っていうんで。近衛の候補に名が挙がるくらいですから、人気もありました。……誰もご本人にお会いしたことがないのに」
と、後半は笑い混じりに言った。ラースローは「へぇ〜」と言いながら目を細める。
「アレンはレイス侯のオッサンみたいなの想像してたんね」
「えぇ?」
アレンは尚も笑みを浮かべているが、少し困惑したようだ。
「いや、そういうわけではないですよ。確かに、侯は身近な貴族方のお一人ではありましたけど……」
彼は額を触りながら答えた。ラースローは起き上がって胡座をかいた。
「まぁねー、フレッド見てりゃぁねー、偏らないよねー。マジ、あのおっさんと性格間逆すぎね? ホントに親子かよって! なぁ!?」
「あの、すみません、そういうつもりで言ったわけでは……」
「おい。お前な、困らせるようなことを言うんじゃない」
ガイがラースローを窘めた。ラースローは苛立った様子で反発した。
「うるせぇ! テメェには話しかけてねぇんだよ、黙ってろ!!」
「お前が黙れ。声がでかい。館の方々にも近隣住民にもひどい迷惑だ」
「く、く、く、く、んぐぐ」
珍しくガイの言葉が効いたらしいラースローは、口元をわななかせながらも大声を出すことは控える努力をした。彼は荷物の中から水袋を引っ張り出して飲んだ。
「……っぷぅ。てかさ、オッサンはともかく、フレッドはなんだって――。……いや、しゃあないか。ここは剣術・槍術・弓術・馬術至上主義だかんね。あれじゃ目ぇ付けられるって、うん。ん? あの性格って元からかいな?」
そしてまた水を飲んだ。その様子を横目で見届けてから、今度はイザークが訊ねる。
「アレンはなんで騎兵になったんだ? レイス騎士団では大隊長だったんだよな? こっちに来るときには、相当引き止められただろ」
「うん……、そうですね……」
アレンは答えにくそうに頷いた。口に含みすぎた水を苦しげに呑み込んで、勢いづいたラースローが言う。
「あれだろ、フレッドのお守りだよな!」
「いや、その……うーん……」
苦しげに呻くアレンを見かねて、ガイが同期の二人を諌める。
「やめろって。権力者の傍ってのは色々あるんだよ」
「お、そうか。そうだよな。すまん」
イザークは悪気なく単純な興味からした質問が後輩を困らせていたことに、ガイの一言で気がついた。彼は素直に引き下がった。ラースローもアレンに対してはそれ以上質問をしなかったが、ガイに対しては積極的に食って掛かっていった。犬猿の仲の同期二人を目を細めながら眺めるイザークが、やがて溜息を吐く。
「……やっぱりさぁ、この二人は別部屋の方がいいって」
「そうですね……」
アレンもしみじみと頷いた。
夜行の猛禽の鳴き声が、館裏の森から聞こえてくる。夜は更けて、その身を半分しか取り戻せていない〈月〉の明かりが、弱々しく大気を照らしていた。人々は眠りに就き、話し声も、足音もしない。窓の外で生き物が動く気配も感じられず、植物までもがひっそりと息を潜めていた。
フレデリックは寝付けずにいる。彼は以前から、セルバー男爵のことを人伝の話から聞き、知っていた。男爵はまったく、噂どおりの人物だった。強いて言うなれば、想像していたよりも親しみやすい雰囲気の人だ、というくらいであろう。
自分などとは違う。彼こそ“本物”だ。
だからこそ思う。彼は負傷などをして、誉から身を退くべき人ではなかった、と。
さて、何故自分はここに居るのだろうか。ここにしか逃げ場所がなかったから? そんなことはない、“ここ”こそ、最も自分に相応しくない場所だろう。表舞台から追放されるべき真の人間は、ここにいる。温かいベッドの中で、ぬくぬくと寝返りを打ちながら、薄ぼんやりと目を開いて天井や床や壁を眺めている。能なしは今、この場所にいるというのに。なぜ、誰も追い払ってくれないのか。
逃げ出したい。
けれど、“逃げても良い”と誰かが言ってくれないのなら、ここに居るしかない。
――おれは、己の全てを自分一人で背負う気概もないのか……。
フレデリックは、体の芯が冷たくなってゆくのを感じた。彼は身動きをとる気力もなく、体が死に、そして硬直してゆくような恐怖を感じた。
そして恐怖が瞳の奥を凍りつかせたとき、彼は意識を手放した。
赤き荒野(3)
リディを出発して三日。シルフィ平野の緑の先に、“赤い山脈”が仄かに見えはじめた。青白い大気の厚い幕が、あの山々までの距離がまだ暫く遠いものである、と教えてくれる。しかし、彼方の空に覆いかぶさる頂の偉大さといったら、ここからでも寒気を覚えるほどである。
中央大陸の東部に聳えるヤーガ山脈は、人々から“赤い山脈”と呼ばれることが多い。円環状に連なる山々には、女神の名が冠される。神々の腕の中に、アルディスの帝都、リラが在るのだ。
そして、一行は更に二日馬を進めた。日が傾きはじめた頃、地平線の先にはっきりとその街の姿をとらえた。それは明らかに大都市である。先に立ち寄ったセルバーとは異なった趣を持っている。背の高い建造物が立ち並ぶ街の背後には、鮮明さを増したヤーガの山々が構えている。街の西門は王都との玄関口であり、南門はヴィオール大公国と繋がっている。
西門のあたりで、十人ほどの騎馬がうろついていた。彼らは王たちの姿をとらえるや慌ただしくなり、やがて一人が街の中へと駆けて行った。残った者たちはこちらを向いて整列し、じっと固まった。
間もなく、西門から更に二十人ほどの騎士が出てきた。先頭を進んでくるのは、ベルン侯爵だ。ルートヴィヒは隊列を崩し、先に進み出た。侯爵は明るい金髪と深海色の瞳を持った、五十代も後半といった歳の男だ。彼はルートヴィヒの眼前まで来ると馬を降りて、恭しく頭を下げた。
「ようこそお立ち寄り下さいました。我らベルンの者どもは、国王陛下及び騎兵閣下方のお越しを、心よりお待ち申しておりました」
ルートヴィヒ王は馬上のまま応える。
「出迎えに感謝します。どうぞ、頭をお上げください」
ベルンの侯爵はその言葉に従った。彼はルートヴィヒの顔を見上げ、人懐こそうな笑みを浮かべた。
「ええと、堅苦しい御挨拶はこのくらいで宜しいですかな?」
ルートヴィヒは笑って許可した。侯爵はわかりやすくホッとして見せて、再び馬に乗った。彼はルートヴィヒの前から少し横に避けて、王の進行を促した。ルートヴィヒが進みだすと、侯爵は王の横に並び、今度はより親しげに話しかける。
「こちらへお越しくださったのは、はて、何年ぶりでございましたかな? 街の様子は、以前いらした頃と、おそらくはさほど変わってはおらんと思うのでございますが、なんせ私は毎日ベルンに居りますので、日々の微々たる変化に気づいておらぬだけやも知れませんがね。もしかしますと、陛下には大層驚かれるところもあるかも……」
そこで侯爵は大事なことを思い出したようにハッとして、次の瞬間には気まずそうに背を丸めた。
「あのですね、実は、ひとつお知らせしておかねばならぬことがございまして」
「なんです?」
「ええ、実は、昨日エシュナ大橋が崩落しまして、現在通行ができぬのです」
王のすぐ傍を進んでいたヘルムートがうめいた。
「なんと。それはまたどうして」
エシュナ大橋は、ファーリーン北部とヴィオール大公国を直接陸地で繋ぐ交通路だ。王都を有するファーリーン北部は、東がヤーガ山脈、南はリオス湾に面し、帝都、公国とは隔てられている。ベルン周辺の海域は、ヤーガ山脈の麓から湾に流れ込む岩礁のために、船の進行が困難だ。エシュナ大橋はファーリーン最東のベルンからリオス湾を跨ぎ、ヴィオールに至る。全長は十七マイルにも及び、ファーリーン北部とヴィオール大公国、帝都リラとを結ぶ、貴重な陸路だ。そして、エシュナ大橋は古代大戦時代の名残のひとつだと言われている。
ベルン侯爵は力なく、首を横に振った。
「とんと原因が分からぬのです。昨夜までは何の異常も見受けられなかったようなのでございますが、今朝になってみると中央から八マイル分の足場が海の中に……」
侯爵は両手を組み合わせ、額に押し当てた。
「実に面目ない。あまりに突然の事でしたものですから、お知らせする間もなく……。修復には年単位の期間を要するかと思われます。それ以前に、あの……工事の予算の方がですね……」
ルートヴィヒは表情を変えることなく聞いていた。彼はベルンの街並みの右側から伸びる、巨大な橋を眺めた。件の崩落箇所は、この場所からだと見えないものの、確かに人通りは調査人がうろつく程度のもので、殆ど無いようだ。ルートヴィヒは橋から目を逸らして頷いた。
「費用はなんとかします。ベルンとの通行ができぬとなれば、ヴィオール、リラも困るはずですから。公国は二、三割程度なら援助してくれるはずです。……皇帝にお話することが増えましたね。しかし――」
彼は侯爵を見る。
「崩落の原因は明らかにしなければなりません。自然に起こるべくして起こったものなのか。老朽化するには十分すぎる時間を経ていますし、海面下の部位が腐食しきっていた可能性もあります。あるいは、とりあえず全面的か部分的かは問わず、人為的なものであったのか」
侯爵は唸った。
「人為的……でございますか? 一晩で大橋を破壊するとなれば、大掛かりな人数を要すると思われますし、となれば目撃者が居ないというのも……」
不自然だ、と顔をしかめるベルン侯爵の横で、王は口角を上げた。
「なにも、肉体労働者が叩き壊したとは限りませんでしょう」
「はあ……。と、申しますと……?」
王の言葉の意味を飲み込めていないベルン侯爵は、ぽりぽりと額を掻いた。ルートヴィヒは侯爵の目を見、暫し沈黙してから訊ねた。
「先遣隊は、いつこちらを?」
「一昨日の朝出発しました。エシュナ大橋からヴィオール方面へ」
侯爵が答えた。ルートヴィヒは穏やかに頷く。
「そうすると、予定通りリラに到着しそうですね。我々は山脈を越えることにします。馬を預かって頂けますか」
一行はベルンの民たちから盛大な歓迎を受けた。それは殆どが国王の訪問を喜んだものであって、その他の者たちは“ついで”に過ぎなかった。だが、統治者の待遇にある程度付きものの、招かるざる雰囲気というものが全くない。誰もが一様にして、国王ルートヴィヒに尊敬の眼差しを向け、喝采し、中にはその姿を目にしただけで涙を流す者までいた。
生きながらにして神格視される国王。彼の凪いだ翠の瞳は広く民を見据え、穏やかな微笑を以って歓待への感謝を告げた。
やがて侯爵に案内され辿り着いた場所は、侯爵城にほど近い宿屋だった。二つに分かれた入り口は、片方が質素な木の扉から賑やかな酒場へ、もう片方が重厚な装飾が施された石の扉から貴賓館へ繋がっている。国王一行は貴賓館への入り口を通った。廊下の途中に、二人の騎士によって警備されたアーチがあった。その向こう側からは、泥酔したオヤジの大きな声や、酔いが回って泣き喚く青年の悲壮な声、化粧や香りの濃そうな女が男に絡みつく艶めかしい声が、漏れ聞こえてくる。
民衆の混沌とした享楽の場が、そちらには在る。ほんの石壁一枚で隔てられ、しかもその壁がアーチとしてくり貫かれた向こう側に。ベルンの現侯爵ジョエルが、こういった場所に強い興味を持ち、実際に入り浸る癖があるのは有名な話だ。彼は“下賤な民のたまり場”の常連である。若い頃は、臣下の目を盗んで城を抜け出す常習犯でもあったことが、周知の事実とされている。
敢えて自身の居城ではなく、街の宿屋に国王を案内するあたり、なかなかに押し付けがましいようでもある。しかしジョエル侯爵は、この程度のことで国王は気分を害したりしない、ということを知っているのだ。
「陛下、いかがです。もし宜しければ、賑やかなところでお食事など。まあ、あまり綺麗な場所とは言えませんが、ここの料理は街一番ですよ。なんといっても、城のシェフより腕が良いんです。まったく、由々しきことですな。かと言ってここの料理人を引き抜いたりすればきっと皆が泣いて悲しむので、仕方なく私が通うようにしておるのですが」
終いには、酒場での晩餐を提案し始める。ルートヴィヒは笑った。
「どこへでも、お勧めされたところへ行きますよ」
「では決まりですな。どれ、厨房に伝えてまいります。おい、そこの。そう、お前だ」
ジョエルは、客人たちの背後から付いてくるベルン騎士の一人に声を掛けた。
「皆様を客室にご案内しておくれ。場所は分かるな?」
「はあ、それはまあ。しかし、小官が厨房へ伝言に参った方が妥当なのでは……」
「少し煽ってやらねばならんだろう。私の信頼が懸かっているのだぞ」
そう言うと、ジョエル侯爵はすたこらと酒場へのアーチを潜って行ってしまった。指名された騎士は先頭へ出てきて、頭を下げた。国王一行はベルン騎士に先導されて、それぞれの客室で荷物を置き、そして一息ついてから、彼らは賑やかな階下へと降りていった。
酒場は広く、人は多いが窮屈な印象はない。侯爵は既に、慣れた様子で陣取っていた。彼は王たちがこちらへ来たことに気づくと、席を立ち一行に近づいて、座席を指し示す。ルートヴィヒたちはジョエルに促されるように、各自席を引いた。王が座るのを見届けて、ジョエルも再び席についた。彼はテーブルを見回し、うぅむと嘆息した。
「懐かしい。エミル様も、ベルンにお越しくださった際には、よくこの酒場にいらっしゃいましてね。大抵は私の方からお誘い申し上げたものでございましたが、時折は陛下の方から私をお誘いくださいましてな……。いやぁ、実に懐かしい限りです」
そしてルートヴィヒの姿を眺め、
「陛下は、お父上に瓜二つでございますよな。こうしておりますと、なんだか昔に立ち戻ったような心地がいたします。……エミル様は、ルートヴィヒ様よりも険しい面持ちでおられることが、多うございましたがな……」
ジョエルは過去を想起し、遠い目をした。ルートヴィヒはそんな侯爵の様子を横目で眺め、穏やかな表情を浮かべている。
「そうですか」
彼は一言だけ相槌を打った。
と、カウンターの向こうから、茶髪の女性が酒の注がれたジョッキを幾つも持って出てきた。
「いらっしゃいませ!」
彼女は威勢よく歓迎の言葉を口にし、ルートヴィヒたちの卓へ来て、重そうなジョッキをゴトンと鳴らしながら彼らの目の前に置いた。
「うぉやった、美人だ!」
顔よりも、その豊かな胸の辺りに視線をやったまま、ラースローが言った。それに対してわざとらしい咳払いをしたのは誰か、などわざわざ確認せずとも明らかだ。女性は赤毛の青年ににっこりと笑いかけた。
「ウフ! どうもありがと!」
そして赤いスカートをひらめかせて、再びカウンターの奥に戻っていった。それから大した間を置かずに、彼女はその両手にまた幾つかのジョッキを持って出てきて、先ほど出しそこなった騎兵数人、そして少年二人の前に飲み物を置いた。
「君たちのは、果汁の水割りだよ」
彼女はアルベルトとフレデリックに言った。
「ね〜ぇ! ねえお姉さんってば! ねえねえ、名前なんていうの!?」
まだ興味を惹かれていたらしいラースローが、やかましく女性に絡んだ。彼女は赤い紅を塗った唇をいたずらっぽく笑ませ、腰を屈め、人差し指を口元にやりながら片目を瞑った。
「アンナよ。この宿の看板娘」
「ふぅむ。看板娘にしとくにはなぁ、ちょいと歳がいきすぎてないか?」
ジョエルが指摘した。アンナは目尻を吊り上げて、つかつかと侯爵に近づき、彼の頭を遠慮なくひっぱたいた。
「失礼なオヤジめ! この!」
「いてて」
ジョエルが許しを請うと、アンナはキッと侯爵を睨みつけ、そうしてからは陽気に笑い出して、そのままカウンター奥の厨房に入って行った。ジョエルはその後姿を眺め、頭をさすりながら大げさな溜息を吐いた。
「この通りです。はぁ、実に嘆かわしい。彼女だけじゃありません。この街の大概の人間は、私をあまり敬ってくれないのです」
そう言ってから、彼もまた笑い、酒を呷った。
そんなあれこれを余所に、アルベルトは甘い香りのする飲み物をひとくち飲んだ。すっきりとした果実の潤いが喉に広がる。
ややして、彼らの卓に食事が運ばれてきた。芋や野菜を長時間煮込んだものを冷たくしたスープや、香草と一緒に炙った頭付きの魚、切った腹の中に調味料やハーブなどを詰めて焼いた鳥、ベーコンの乗ったパイなど……、色彩あふれた見目の素晴らしい料理が、テーブルに所狭しと並べられてゆく。騎兵の中でも大食漢の者たちが、感謝の言葉も矢継ぎ早にこなし、腹におさめはじめる。
「これが私のおすすめなんです」
やや酒が回りはじめて、常より更に陽気になりだしたジョエルが、勝手にルートヴィヒの皿に色々と盛ってゆく。ルートヴィヒも始めのころは快く礼を言って受け付けていたが、結局のところ侯爵は全ての料理を「おすすめ」と言って盛りつけてくる様子であったので、ついには王も「もうそのくらいで結構です」と言って遠慮した。
酒を三杯飲んだところで、ラースローが給士を引き止め、何かを伝えた。彼の正面に座るアレンが咎めるような言葉を掛けたようだが、赤毛の騎兵は構う様子もない。給士は暫くその場で迷っていたが、やがて厨房の方へと消えていった。一通り料理を運び終えて落ち着いたらしいアンナが、入れ替わりに出てきた。そしてあまり食の進んでいないフレデリックに話しかける。
「ねえ、坊っちゃん。お口に合わなかったかしら?」
「えっ」
この頃あまり眠れていない様子のフレデリックは、ひどく驚いた様子で慌てて顔を上げた。そしてアンナと視線が合うと、今度は慌ててうつむく。
「いえ、あの……すごく美味しいです……すみません……」
「なんで謝るのさ? まあよかった。美味しくない、ってわけじゃないんなら」
アンナは殆ど使われた形跡のないフレデリックの取り皿を持って、テーブルの真ん中の辺りに行った。そして大分削がれた焼き鳥の体をナイフで弄った。次に鍋の中から、ぶつ切りにされて煮込まれた魚の身を取り出して、「う〜ん」と唸ってから、茹でた葉物を数枚皿に盛り、その上に調味料の混ざった油をすこし掛けた。
その頃、厨房の奥から給士が酒樽を転がして出てきた。その大きな樽は他でもなく、こちらの卓の方へと向かってくる。近衛兵長コンラートが眉根を寄せた。
「何だあれは。どういうことだ」
「ラースローが注文してました」
イザークがモグモグと口を動かしながら告発した。コンラートは呆れた顔をして、ラースローを見る。赤毛の騎兵は意味の分からない歓声を上げ、いつも以上にやかましい。
アンナは一通り盛り付けの終わった皿を持って、不安そうにしているフレデリックのところに戻ってきた。フレデリックはアンナと、アンナが持っている皿を交互に見比べる。
「なにも、『全部いけ』とは言わないよ。でも、せっかくだからさ、あたしの親父の仕事ぶり、味わってやってくれないかね?」
アンナは優しげに笑いかけながら、フレデリックの前に皿を置いた。フレデリックは一瞬惚けたような顔をしたあと、こくりと頷いた。彼はフォークで、皿の上の山を崩し始めた。その様子を見届けてから、アンナは隣のアルベルトに目を向けた。彼はひどく眠そうな顔をしていて、頭がふらふらと揺れている。アンナはおかしそうに笑い、少年の頭を軽く叩いた。するとアルベルトは一瞬だけぱちりと目を開けるものの、間もなく再び目蓋をとろりとさせる。
「はっはっは! なんだい、君は。赤ちゃんみたいだね! 酒の匂いで酔っ払っちまったか?」
「うぅ〜ん……」
「もう外はすっかり暗くなっているし、いつもならそろそろ寝床の準備を終えている頃かもしれないね」
ハインリヒが怖い顔を笑ませて、アルベルトを庇った。
「部屋に戻って休みますか?」
「うぅ……うん」
ルートヴィヒが尋ねるのに、アルベルトはへにゃりと頷いた。酔いが回って顔を赤くしているジョエルが、給士を呼ぼうとする。ところが、イザークが立ち上がって運び手に立候補した。隣のガイが引き止める。
「階段で落としそうだな。とても任せられる状態じゃないぞ」
「そんなるぁテメェが行きゃぁいいだルォぉッ!?」
ラースローが器用に舌を巻いて言った。ガイはいつもとなんら変わりのない顔色をして、酒の入ったジョッキを傾ける。
「誰かさんが考えなしに注文した酒の成分を分解するのに、俺の体は必死に働いている最中なんだが」
「がははは! 平気へ〜き! ザルの網目ガバガバなんだからさ〜! ガイ君は〜! げははははは! おぇっ。……っあっはっは!」
いつの間にか座り直していたイザークが、何が楽しいのか不明だが大声で笑い続け、背中をバシバシと容赦なく叩いてくるので、ガイは煩わしそうに眉を顰めながら小突き返した。すっかり酔っ払っている様子のイザークとラースローを、ドミニクが責めるような顔で睨むが、当の二名は全く意に介した様子もなければ、そもそも咎められていることに気づきもしない。
一連のやり取りを見ていたアンナは笑っていたが、やがて「じゃあ」と口を出す。
「カルテン行ってやんなよ。どうせあんた、大して飲んでないだろ」
「……俺?」
無口な弓兵は、魚の中骨を噛み砕いていた。
「嫌そうな顔すんじゃないよ。良いだろ、子供を三階まで担いで戻ってくるくらい。出来ないの?」
「……別に、嫌そうな顔をしたつもりはない」
カルテンは魚の骨を口から離すと、椅子を引いて立った。彼は足取り確かにアルベルトの方へ近づき、すっかり船を漕いでいる少年の右腕を自分の肩に回そうとした。だが、自分と子供の身長差について思い当たったのか、途中で離し、アルベルトの脇に手を差し込んで抱え上げたかと思うと、勢いをつけて肩に担いだ。アンナは唸った。
「食後にねぇ、そんな担がれ方したら、あたしなら吐くよ」
カルテンの右肩が、アルベルトの腹部にめり込んでいる。たしかに苦しそうな体勢である。しかし、当のアルベルトはなんの呻きも漏らさないため、アンナもそれ以上の苦情は言わなかった。アルベルトを担いだカルテンは酒場のアーチをくぐり、その先の薄暗い階段を上って行く。やがて彼らの姿が見えなくなると、アレンが小声で呟いた。
「僕、カルテンさんが『ああ』か『いや』以外の言葉を喋っているところ、初めて見ました」
「ん? そうなの? 確かに口数は少ないけど」
アンナが逆に驚いたような顔で言った。ヘルムートが笑う。
「やつは滅多に喋らんよ。アンナだけ特別なんだろうさ」
一同の視線がアンナに集まった。アレンは妙に納得したような顔をして笑っている。
「えっ、ちょっと、なにさその目。ちがうちがう! そういうんじゃないってば!」
ひとり不満気な顔をしているラースローを除いて、酒場中の視線がアンナに集まった。彼女は顔を赤くさせながら厨房へ逃亡した。
「まったく、二人共もういい年だっていうのに……」
ジョエルがやきもきした様子で手を揉んだ。
赤き荒野(4)
何名かが酒場で酔い潰れ、放置され、そのまま夜が明けた。酒場の床で目覚めたジョエル侯爵はひどい頭痛に苦しんだ。それでもルートヴィヒ王とその付き人たちが客室から降りてくると、彼は街を案内すると申し出た。しかし、ルートヴィヒは丁重に断った。この街にいる限り、屋外に出ればどこからでもヤーガ山脈の頂が見える。そちらが東だと理解していれば、そう迷うこともない。無口なので案内役には適さないかもしれないが、ベルン出身の騎兵もいる。
ルートヴィヒは、体調に問題のない近衛七名を連れ、街へ出た。宿の外は昨日の日暮れ時以上の賑わいを見せている。まだ比較的早い時間帯であるが、既にあちらこちらで店が営業を始め、人が出入りしている。リディの旧市街も公共施設が多く賑やかだが、普段王族が眺めている中心街はあまり活気づいてはいない。店や教会など、人が集まる施設は旧市街に集中しており、中心街には由緒ある家系の館がある。景観を重視して、庭園などに場所を利用しているため、人口の密度が低いのだ。
昨日のうちにルートヴィヒ王の姿を目におさめていたこの辺りの街人は、今再びルートヴィヒ王の姿を目撃しても騒ぎたてはしなかった。ルートヴィヒは建物の合間から覗いている“赤い山脈”を眺め、息を吸った。
「ルートヴィヒ様、それに騎兵の皆様! おはようございます」
何者かが声を掛けてきた。ルートヴィヒは息を吐きながら、声のした方に視線をやる。焦げ茶の髪の、貴族風の格好をした男の姿を見つけた王は、穏やかに笑んだ。
「ヴィクトール殿。お久しぶりです」
「ええ!」
三人のベルン騎士を伴う貴族風の男は、王のもとへ近づき、畏まって形式張った礼をした。
「御挨拶が遅れまして、申し訳ありません。エシュナの方に入り浸っておりましたもので」
「その節は、災難でした」
「いいえ。陛下のご進路を妨げるは、我々の不肖の致すところ。実に面目ない限りであります」
貴族風の男ヴィクトールは、不甲斐なさを詫びた。ルートヴィヒが“良いから顔を上げろ”という旨の言葉を三回掛けてから、ようやく彼は前を向いた。ヴィクトールは尚も謙りながら、王の背後に控える騎兵らにも、丁重な挨拶をした。そして、不審がるように辺りを遠慮がちに見回してから、王に訊ねた。
「あの、父は……?」
「ジョエル殿は、宿のお部屋で休んでおられます」
ルートヴィヒが答えると、ヴィクトールは全てを察したように「ああ……」と頭を抱えた。
「まったく、情けない……。大橋を通行不能にした上、陛下に醜態をお見せするなど……」
ルートヴィヒは笑った。
「飾らぬのがジョエル殿の長所です」
そして、ヴィクトールは二日酔いで潰れている父ジョエルの代わりに、街の案内を買って出た。案内人を加えた一行は、宿の前の広場を通り過ぎる。鉢植えが鮮やかな広場だった。四角い石畳で舗装された街路の両脇に、店と民家が融合した三階建てが並ぶ。その白い壁には、茶褐色の木の板が貼られ、窓際からは緑の葉と赤い花弁が鮮やかなプランター、木彫のオブジェなどが吊り下がっている。
「陛下、姉は元気にやっておりますでしょうか?」
のんびりと歩きながら、ヴィクトールが訊ねた。ルートヴィヒは頷く。
「あまり面と向かって話す時間を取れずにいるのですが、病気や怪我はしていない筈です」
ヴィクトールは「よかった」と顔を綻ばせた。
「ところで」
ひとまず会話が途切れたらしいことを見計らって、近衛最年長のヘルムートが口を挟んだ。
「ヴィクトール殿は、ルートヴィヒ様を“兄君”とお呼びになられないのですか?」
質問を受けたヴィクトールは口をぱっくりと開いた。彼は数拍固まった後、慌てふためいた。
「そのような事はできかねます! 畏れ多い! ルートヴィヒ様ですよ? 自分が陛下の義弟だという事実を思うだけでも、意識が遠のきかけるというのに……あ、“兄君”ですと? “兄君”? ……兄君とは……、お、おお、うぉあぁっ」
ヴィクトールは目を見開いて、その場に膝を突いた。ルートヴィヒが笑う。
「そのように呼んでくださっても一向に構いませんが」
「もったいない!」
ヴィクトールは頭を抱えながら叫んだ。その様子に、ヘルムートも笑う。
「いえいえ、それこそ勿体のうございます。なにも“兄君”という言葉に拘る必要はありませんでしょうが……“兄上”とでも、なんとでも。とにかく、陛下を『兄』とお呼びになれるのは、ヴィクトール殿だけなのでございますからな」
ヴィクトールは小刻みな動きで首を横に振る。
「それが、それが畏れ多いと! 私はあまりにも運が良すぎる! ルートヴィヒ様と同じ時代に生きている! それだけで奇跡ではございませんか。それが、その上、私が“弟”などと……。なんということだ! この私が、この世でたった一人の、陛下の弟!!」
ヴィクトールは膝を突きながら両手を広げ、天を仰いだ。彼に同行している騎士ら、通行人が、なんとも表現のしがたい表情で彼を眺めていた。
なんとか立ち上がってくれたヴィクトールの案内で、彼らは一旦侯爵の城へ向かった。数人の召使が彼らを出迎えた。どうやら、ジョエルと三名の騎兵もこちらに戻っているらしい。
午前いっぱい休んでいくらか回復したらしいジョエルは、城の厨房脇の部屋で大量の水を飲みながら、息子たちの帰りを待っていた。酔い潰れた騎兵三人も、まっすぐ歩ける程度にはなっていた。彼らは恐ろしいことに、『嘔吐数自慢』などという下品な話題で盛り上がっていた。アルベルトは昨晩酒場で眠ってしまってから本日の日が昇るまでぐっすりとしていたらしいし、フレデリックもここ数日分の寝不足を解消することができたようだ。
正午の休憩の為に茶が出され、彼らは一息ついた。こまごまとした菓子も提供され、朝食を食べそこなったアルベルトが、遠慮なく口に放り込んでいる。
一同が揃った雑談の場、そこでヴィクトールが唐突に言った。
「私は、姉が陛下に嫁ぐとなったとき、彼女を羨ましく思いましたよ。……あ、いえ、べつに変な意味ではなく。当時私はまだ子供でしたし、単純に憧れていたのです、ルートヴィヒ様に。日々、陛下のようになりたいと願っていました……。謂わば、創作の――完全無欠の英雄に惹かれる感覚とでも申しますか……。もう私もいい年した大人ですが、子供の頃に受けた印象が変わらず……」
義弟の言葉に、ルートヴィヒはやはり穏やかな表情でいる。彼らの父であるジョエルが、黙って水の入ったグラスを傾けた。中身を二、三口で流し込んで空にし、彼は勇んで席を立った。
「さぁて、では体も楽になったことだし、今度は私がベルンの街をご案内しよう。フレデリック君に、ええと、アルベルト君といったかね? せっかくの機会だ。午後も長いわけだし、それにここにいてもあまり楽しくはないだろう? 私は楽しくないのでよく抜け出すのだ。なに、あまり遠出はしないから、大丈夫!」
そしてルートヴィヒの方を向く。
「陛下はいかがなさいますか? すこしお休みになられた方が宜しければ、お部屋は整えてありますゆえ……」
「そうさせていただきます」
ルートヴィヒは頷いた。ジョエルは召使を呼んで、王を客間に案内するよう言いつけた。そしてルートヴィヒは、先に自分に同行しなかった騎兵三名に、ジョエルと共に行くよう命じた。
ジョエルとフレデリックとアルベルト、イザークとラースローとアレンの六人は、ベルンの街へと繰り出した。
城の門を出、庭の中央を通る道を突っ切ったところで、ジョエルが言う。
「うぅん、しかしなぁ……健全で活動的な若者が興味を惹かれるような場所は……。演劇とか興味あるかね? 闘技場は今日はやっていないし、あとは賭博場くらいしか……それならあそこでも年中やってるんだが」
ジョエルは昨晩宿泊した宿の方を指差して言った。フレデリックは曖昧に笑う。そういうものには抵抗があるようだ。
「演劇ってなにやってんの?」
打ち解けたせいで完全に敬語の抜けてしまったラースローが、ベルンの侯爵閣下に訊ねた。地位とそれに伴う礼儀を重んじるファーリーン人のアレンとイザークは、驚きのあまり目を見合わせる。ジョエルは全く気にしたふうではなく、上機嫌に笑う。
「いやぁ、それは分からないなぁ。実際に行って演目を見てみないことには」
騎兵たちは主人に従うのが仕事で、ルートヴィヒからはジョエルに従うよう言い付かっている。ジョエルは二人の少年に希望を伺っているが、アルベルトはこれまででも『何がしたい』とは全く言わないし、となれば自ずと決定は貴族のお客様フレデリックに任せられてしまう。自己主張の苦手な少年はたじろぐばかりだ。
「賭け事やりたい、って感じじゃなさそうだよね」
アルベルトが気を遣ったのか、別段そういうわけでもないのか、言った。とにかくその言葉はフレデリックにとって大いなる助け舟だった。彼は必死に頷く。
「じゃあ、劇場に行こうか」
ジョエルは笑った。
「え〜、本日の演目は、ヴィートの英雄譚らしい」
街の中心からほんの少し南に行ったところに劇場がある。比較的裕福な人々でごった返す広場で、ジョエルは客人たちに教えてやった。
「ヴィート?」
アルベルトは聞き慣れないその言葉を繰り返した。ジョエルは頷く。
「そう、ヴィート。ご存じない? ですよね、失礼。大体ですが、今から二五〇〇年前にアルディスは建国されました。正確には、二四七五年……でしたかな? 最近頭の回転が悪くなってきましてな、間違っておったら申し訳ない。それで、ファーリーンは帝国と同時期に建国されましたので、我が王国も同期間の歴史を持っております。アルディス帝国とは、古代大戦時代の終結と共に打ち建てられた国の一つで、同じ頃に“グローラ聖皇国”も西方の大陸で興り今もあるのですが、当時のアルディスは、なにかと大変な時期だったのです」
ジョエルは少しばかり大げさな動作で、劇場の方――と言うより、それがある方角――を向く。
「まず、南方の“フォーマ・イシャク連合王国”……かつてはそこに“ザン”も含まれておりましたが、その元となる数百の少民族をも、アルディスは統治しておりました。しかし、実に忌々しいことに、初代の皇帝は建国間もなくして暗殺されてしまったのです。後に皇帝の側近だった者が犯人と発覚し、その者は処刑されましたが……。まあ、そういうわけでして、ただでさえ広大であらゆる民族の入り乱れた帝国の元首が、早くも不在となってしまったのです。そこで立ち上がったが、我らがファーリーン王」
彼は口上を述べるような調子で、高らかに言う。劇場前に集まっていた人々が、ジョエルに注目した。
「ヴィートはファーリーンの王でありながら、その宗主国であるアルディスの実質的な統治をまで行ったのです。古代大戦を集結に導いた英雄は、神族の末裔たる一族にリラの玉座を取り戻させました。ヴィートとは〈天空神〉の加護を受けた英雄です」
ジョエルは誇らしげに締めくくった。
そして小一時間後、彼らは劇場から出てきた。
「ヴィート役のやつ、もう少しなんとかならなかったのかな」
イザークがぼやいた。ラースローが勢い良く頷く。
「重心が不安定すぎるし、肩も甘いし。腹とケツに力入れろっての、色々舐めすぎ。なんか見ててイライラしたわ。何度ヤジ飛ばすの我慢したと思うよ? 誰か褒めて」
「いやいや……」
アレンが困った顔をした。
「見た目の華やかさを重視したんですよ、あの場合。顔とか体型とか、そちらの方が重要だと判断されたんでしょう。僕らからすると、確かにふらついててみっともない感じがしますけど、一般の観客の方々はあまりその辺りには拘りませんから。むしろ、軽やかな動作で凄く強そうに見えたかもしれませんよ」
元レイス騎士の新人王属騎兵は、的確な分析をした。
「ははは。流石、専門家は手厳しいなぁ」
演技と役者に酷評を下す騎兵三人を見て、ジョエルはおかしそうに笑った。
「劇場なんて久しぶりだったが……う〜ん、あの話はあまり……。もうちょっと、こう……窮地に陥って、そこから這い上がってくるような一幕が欲しいな。あまりにも円滑に事が運びすぎて、あれでは退屈だ。何人の観客がいびきをかいていたことか」
ジョエルの目の付け所は、騎兵たちとはまた違っていた。
「おもしろかったよ?」
アルベルトが言った。フレデリックは隣の少年の感想にはっとした様子だったが、しかしはっきりと頷きはしなかった。大人たちがここまでの酷評を下す前で正直な感想を述べるのは、フレデリックには難しかった。一方、ジョエルはアルベルトの言葉に少し安心したようだ。
「楽しんでくれたのなら何よりだ。しかし、ここはやはり“本物”を見に行こうではないかね?」
ジョエルは街の中心広場の方に建つ、白い壁の教会堂を指差した。
「あちらにはヴィート王の彫像があります。もちろん、彼が亡くなってから随分後に造られたものですし、ベルン教会のものはリディの元物の複製品ではありますが」
「お〜し! 口直しだね! いこいこ〜!!」
張り切ったラースローが進み出た。
教会堂の扉には、王侯貴族の城の扉が持つ重々しさとは、また違った荘厳さがあった。その一枚の板で隔てられた先は、あきらかにこちら側とは空気が異なっているように感じられる。人々の話し声、笑い声、生者のもの音は耳に馴染んでいる。教会堂の中へ入り扉を閉めたとき、その耳に馴染んだ音はひどく遠い場所に――時間の流れから切り離され、永遠に失われるように感じた。
場は緊張感に満ちていた。研ぎ澄まされた針か刃が、首元に当てられている……、そんな心地がする。空気は冷たく、鋭利で、ここにいると精神が解放されるような軽やかさを感じるのに、体は普段より重く感じられ、“思考”というものが邪魔なものに思えた。
礼拝の時間から外れた今は、小柄な司祭が会堂の隅にひっそりと佇んでいる以外、誰もいない。
祭壇の奥には、全身に鎧をまとい、両手に剣を持ち、胸の前で腕を交差させている男の像があった。前髪の隙間から覗く顔は若々しい。彼は目を閉じ、微かに俯いている。その佇まいは、何かを祈っているようにも見えた。
「ヴィート王は双剣使いだったと言われておるのです。奇しくも、ルートヴィヒ陛下と同じ、双剣士。なにか、運命めいたものを感じてしまうのは致し方ありますまい」
ジョエルは声を潜めて言うが、会堂の中にはその声がやけに響いた。
ヴィート王の背後、高い場所にもう一人の像があった。その中性的な外見の人物には、腕のほかにも背に一対の翼がある。アルベルトは祭壇に近づき、その白鴉の翼を持つ人物を眺めた。彼、か彼女か判然としない体つきのその人は、教会堂の壁と一体化しながら、ヴィート王を見守っている。有翼人の像を興味深そうに見つめているアルベルトに近寄りながら、ジョエルが言った。
「かれはファーリーンの神……というと語弊があるのですが、ファーリーン人が崇める神の一柱、〈天空神〉です。かれは風を司り、“自由”や“理性”を象徴しています」
ジョエルはアルベルトの隣に並ぶ。
「ちなみに、翼の生えた人といいますと、現実には『竜人』という種族がおりましてな。ローラ大陸の南方の島にて暮らしていたらしいのですが、十数年ほど前に火山の噴火が起こったかなにかで、今は滅びてしまったようです。竜人の翼は、この〈天空神〉の背に表されているような、鳥類の柔らかなものではありません。コウモリのように筋張り、しかも大層硬いもののようで……」
三名の騎兵とフレデリックも、祭壇の前に近づいてきた。ラースローがいまいち納得しかねるような顔をして唸った。
「“自由”と“理性”。まあ理性的なのは分かるけど、“自由”ねぇ……。ボクさあ、正直言ってファーリーンが自由なところだと思ったこと無いんだよね。だってさ、でっかい石の壁造って、その中に百年とか……千年単位で閉じ籠もってんでしょ。全然自由さ感じらんないよ。ファーリーンじゃ生まれつきの地位だの立場だのにこだわるけど、僕の故郷ではそんなものに縛られないよ。“石壁の国”の人らは『野蛮だ』とかって言うけど、強い奴が弱い奴から奪うのは当たり前さ。強いか弱いかを決めるのは社会じゃなくて自分なんだから。誰にも遠慮する必要はない。草原ではね」
「君は遊牧民だったのかい」
ジョエルが意表を突かれたような顔で言った。普段ラースローと関わっているイザークとアレンも、いつもと少し様子が異なった同僚の様子にいささか驚いている様子だ。ラースローはいつものゆるい態度に戻った。
「そ〜そ〜。分かんなかった? こんなに自由人なのに」
「ああ、いや、噂には聞いていたんだ。そうか、君がそうだったのか。ふむ……」
ジョエルは英雄王と〈天空神〉を見上げた。
「……自由だからその象徴を崇めるわけではないんだ、きっと。そうなりたいから、求めるのではないだろうか」
薄暗い教会堂の祭壇に佇むファーリーンの民の象徴は、静かだった。
すっかり日が暮れ、多くの者は寝静まっている。侯爵城の、ルートヴィヒに充てがわれた部屋には彼と、もう一人。
ヘルムートがいた。二人は小さな卓を挟み向かい合っている。ヘルムートはやや潜めた声で訊ねた。
「レイス侯の代理、とは、どういった用件なのでございますか?」
ルートヴィヒは微笑した。
「分かっているでしょう。詭弁だということくらい」
「ええ、まあ」
ヘルムートは頷いた。
「して、本来の目的とは? お教え頂けませぬか」
「ファーリーンに魔道組織を作りたい。単刀直入に言えば、そういうことです」
ヘルムートは瞬きをした。ルートヴィヒはくすりと笑う。
「驚きましたか?」
「……それはもう……」
ルートヴィヒは席を立った。彼はソファーに移動し、長い脚を組んだ。
「どういうわけか、ファーリーン人は魔道を拒絶する。ほとんど“本能的”と言ってもいい。あなたもそうでしょう?」
ヘルムートはわずかにたじろいだ。
「そう……、たしかに、そうでございますな……どちらかと申しますと」
「リラもアウリーも、ヴィオールも魔道国家だというのにね」
ルートヴィヒは静かに言った。彼は右膝にゆるく組んだ両手を乗せた。
「ヘルムートは知っているでしょう、私が幼少期にほんの少しだけ魔道を齧っていたことを」
ヘルムートは頷いた。彼はルートヴィヒの少年時代を知る人間だ。ルートヴィヒは従兄のアレクシス(現クラーツ公爵)から、魔道の手ほどきを受けていた時期がある。しかし、それも随分と幼いころの話だ。
「エシュナ大橋の崩落について、あなたはどう思います?」
「どう、とは?」
「私は、あれが自然に壊れたとは思いません。魔道司が破壊したのではないかと考えます」
昼、ジョエルたちが出払っている間に、ルートヴィヒはエシュナ大橋を視察してきた。崩れ落ちた規模と、橋の構造を改めて確認したルートヴィヒは、かの崩落が魔道術によって引き起こされたものである、という考えを強めていたようだ。
「魔道司とは、そのような事が……一晩で八マイルもの足場を、誰にも気づかれず破壊することが……?」
「できるでしょう。優れた魔道司であれば」
ヘルムートは絶句した。魔道というものに関わりのない戦士である彼には、到底理解の及ばない次元の話だ。だが、彼はかろうじて我に返ると、王に訊ねた。
「魔道を解する者が必要というお考えは、理解しました。しかし、なにゆえフレデリックを?」
王の凪いだ翠は、燭台の光をガラスのように反射させている。彼の視線の先にあるのは、大気のみ。ルートヴィヒは目を細めた。
「それは、“なんとなく”です」
赤き荒野(5)
威圧的な赤褐色。女神の名を冠しながらも、むしろそれらは雄々しい。連なる山々の岩肌、天にめり込む鋭い頂。遥かな太古に生まれた隆起は、人類の記憶が始まる以前から、存在していたのだろうか。だとするならば、人の、生命というものの存在の、なんと小さきことか。大いなる時の流れの中で、大地はいかほどのものを知り得ているのか。人はそれを想像しようとするほどに、孤独感にさいなまれる。
エシュナ大橋の崩落に伴い、国王一行は進路の変更を余儀なくされた。“赤い山脈”とあだ名されるヤーガの谷間には、一応の“道”が存在する。しかし人の通った形跡は少なく、足場も悪い。馬の蹄には過酷な道程、一行は相棒たちをベルンの街に置いて、自らの脚で歩み進んだ。
巨大な盤石が平らな足場を作ってくれている、かと思えば、乾いた赤土に覆われた下で唐突に割れる。粗末な道端に鎮座する岩々は赤茶け、白色の細い筋が幾本も走る。動物の筋組織にも似たその模様は、これらの岩石が巨大生物の腐りかけた死体であるようにも見せる。
南北に聳える頂は雲の上。谷間の空気は冷たい。先日立ち寄ったベルンの街と、さして距離があるわけではない。だというのに、この地から見上げる空は昼でも薄暗い。
一行は言葉数も少なに、歩いた。
渓谷に通る小さな水の流れ。雨が降らない為にひび割れる大地であっても、その流れの周囲のみは土が濃く潤い、原始的な苔の緑がまだらに存在している。糸のようなその流れを目印にして、彼らは歩く。
「このあたりは年中曇り空ですが、雨は滅多に降りません」
ルートヴィヒが、すぐそばを歩くアルベルトに言った。王は長い脚で、岩同士の隙間や段差を軽々と超える。柔軟なバネのような身体で息一つ乱さず、むしろ平地を歩いているとき以上に軽快な動作に見える。
「この山脈を境にして、ファーリーン側とリラ側の気候は大きく変わります。ファーリーンは、――地域にも依りますが、基本的には温暖で、雨量もそこそこあります。しかしリラ側は、一年を通して寒く、乾燥しています。草木の類は、ほぼありません。天然に生息しているものは、まず無いといっても良いでしょう。この山もそうですが、リラ周辺の土壌には鉄が多く含まれていて、赤く見えるのです」
エリアスが段差を越えて、ふうと一息つき言う。
「古代大戦時代には、この辺りでも多くの人間が死んだ。そのときに流れた大量の血液が、この山や、リラの荒野に染みこんで赤くなったのだ……と、昔の人間は考えていたらしい」
「ヒィィッ」
ラースローが背筋を震わせた。それに対し、ガイが現在の一般論を返す。
「いくら人が死んだと言っても、血液中の鉄だけでここまで赤くはならないだろう」
ガイはこころなしか背後を気にかけている様子だった。気は合わないが息が合ってしまうために、いつも一組として行動させられている二人は、今回も互いに罵り合いながら、隊列の後尾を歩いている。
「つってもよぉ〜、……なんか、うぅ〜ん……」
ラースローがいつになく曖昧に唸った。途方もない時間を、血の流し合いに明け暮れて過ごした時代がある。その間に流された血も、途方のない量だったろう。それによって赤褐色の大地が形成された、という話は確かに現実的ではないかもしれないが、完全なる比喩や創作話と言い切ってしまうには、いささか――。
「視線のようなものを感じませんか? ……どこからだろう」
足場の確認をしながら最前を行くアレンが言った。ラースローは耳を覆う。
「言うなっての! うぅ、ユーレイ! ユーレイかなやっぱ! イヤァァ、ボクは善良なラザの息子だよぉ〜!! 襲うなら隣のヤツにしてクダサーイ!!」
指名されたガイだが、彼はラースローの言葉は無視をして、一瞬立ち止まって周囲を見回した。
「確かに、気配の出処が分からんな」
そしてまた歩き出す。近衛騎兵長のコンラートは、ファーリーン人の部下達を一瞥して言う。
「剣はすぐ抜けるようにしておくよう」
日が暮れると、辺りは本格的な闇に包まれた。雲に覆われた空には、星も月も浮かんでいない。
ごく小さな小屋、と言うよりは“洞穴”があった。人工的に造られたそこは狭く、入って休むことができるのは、せいぜい三人といったところか。しかし、少なくとも“人工物が存在している”というだけでも精神的な安息は得ることができる。一応、壁と天井のついたその空間には、まずルートヴィヒ、フレデリックが入り、そしてアルベルトが押し込まれた。騎兵らは洞穴の外の暗闇の中で見張りをする。薪の調達できないこの場所では、明かりを灯すための燃料を得ることが出来ない。ベルンで入手した獣脂とて、長くは保たないだろう。彼らは夜目を利かせて、それで足りない部分は視覚以外で補った。一同は干し肉とチーズを齧った。
「昼間の気配はなくなったか?」
エリアスが言った。ハインリヒが暗闇の中で頷く。
「そうですね。一体なんだったのかな……」
「夜になったらいなくなった、ってことは! つまり、ユーレイじゃぁなかったって事じゃん!?」
ラースローが手を叩いた。しかしイザークが意地悪く脅す。
「分からないぞぉ? もしかしたら、気配を消しているのかもしれん。……ラースロー、今、お前の後ろに……」
「あーーー!!」
シーク人の騎兵が大声で叫んだ。彼は身をこわばらせながら後ずさり、洞穴の外壁に背をくっつけた。
「バッカ! バッカじゃねえの!! そーいうのやめろって言ってんだろ、このバカ!!」
限られた語彙で必死に罵るラースローのわめき声が反響し、ヤーガの女神が何度も彼の言葉を繰り返した。
一方、洞穴の中は静かだった。入り口から騎兵たちの話し声が入り込んでくるが、中では誰も口を開かない。フレデリックは遠慮がちな性格のため、王の前で私語を口にすることなどできないし、王に自ら話しかけるなど以ての外だった。アルベルトは既に眠ってしまっているようで、寝息らしきものが聞こえる。
ルートヴィヒは起きているようだが、全く喋らない。身じろぎもしない。彼は二本の剣を肩に立て掛けるようにして抱き、押し殺したような息を時折吐き出している。精神統一とでもいうのか、何かに集中しているようだ。フレデリックは王の物思いか何かの邪魔をしないよう、当のルートヴィヒ以上に静かにして、外の会話を黙って聞いているほかなかった。
そして、また一回、二回と、ルートヴィヒが息を吐いた。
王は突然、立ち上がった。彼は抱えていた剣を床に置き、洞穴の外に出た。外で屯する騎兵たちが、突然の足音に振り返る。『陛下、如何なさいました』という質問が口々にされるが、ルートヴィヒはそれには答えず、軽くあしらった。王は足先に触れた小石をひとつ手にとって、細かな砂が覆う岩の地面になにかを描き出す。
辺りは暗く、周囲の者たちに王の手元は見えない。おそらく、ルートヴィヒ本人にさえ碌に自らの手元は見えていないはずだ。ところが王からは一切の迷いらしきものは感じられない。
ややして、ルートヴィヒは小石を足元に転がした。そしてそのわずか一瞬後、一同は反射的に目を瞑った。そして恐る恐ると再び開いてみれば、ルートヴィヒの足元に描かれた文様のようなものと、それに左の掌をかざしている王の姿が、はっきりと見えた。
地面に描かれた文様が、白色の光を発している。ルートヴィヒは静かに立った。そしてその顔に下からの光を浴びながら、驚きで固まっている一同へ向く。
「少しは視界が良くなりましたか?」
王はほとんど他人事のような口調で言った。そして再び足元の文様に目をやる。洞穴の中からその様子を遠巻きに見ていたフレデリックは、慌てて入り口へ這い出した。彼は目を大きく見開いて、必死にそれを見つめ、呟く。
「光……? 光の魔法……これが……」
ルートヴィヒは少年の方へ振り向いて、優しげに微笑した。フレデリックはハッとした様子で俯く。
ルートヴィヒは洞穴へ戻った。フレデリックは入り口のところで固まったまま、下を向いている。ルートヴィヒは双剣を取り、それを再び肩に立て掛けて抱き、座った。洞穴の口から入り込む淡い光は、天井を照らし、反射したものが、床と、その間にあるものを形どる。
長い沈黙。王の近衛は光景を受け入れるべく各々努力していた。アルベルトは相変わらず眠り続け、フレデリックは地面に突いた自らの両手を照らす光をただ見つめていた。
「フレデリック」
名を呼ばれ、少年は顔を上げる。彼は首を回し、背後の黒い王の影を見た。微光を反射する翠の瞳が、フレデリックへ向いている。少年はじっと見つめ返す。一体どんな言葉を掛けられるのか、と、心を縮こまらせながら。王は訊ねた。
「君は、魔道に興味がありますか?」
と。フレデリックは息を呑んだ。
少年は、“はい”と、答えることはできなかった。騎士国ファーリーンで生まれ育った男子である以上、彼は戦士になる必要があった。しかし、彼はそうなることができずにいる。きっと、この先何年生きようともできないだろう、ということが、彼には分かっていた。
“魔道に興味がある”
それを認めることは、ファーリーン人の責務を投げ出すことに等しい。彼はまず、魔道に興味を持つ以前に、戦士にならなければいけない。戦士になれない以上、魔道には興味を持つ権利などないのだ。
しかし、“ない”と、“魔道などに興味はない”と答えたとしたら、結局自分には何が残るのだろうか。戦士になれない自分は魔道はおろか、何にも興味を持ってはいけないというのなら、一体自分は何に関心を持ち、何をして生きれば良いというのか。何もしてはいけないと言うのなら、生きる意義などないではないか。
フレデリックにとって、それは悲しい現実だった。心から尊敬する王の国、そこに自分の居場所はなかった。ルートヴィヒ王が治めるこの国にとって、自分は不要な存在でしかなかった。
フレデリックは思わず涙をこぼした。長い沈黙は肯定でしかない。国民としての責務を放棄することを、王へ宣するようなものだった。フレデリックの心は決して“そう”ではないのに、文化が、慣習が、“そう”させてしまう。
「答えなさい」
王は無情に命じた。口調は穏やかだが、逆らうことを許さない威圧感がそこにはあった。外の騎兵は、誰一人として言葉を発さない。緊迫した気配は、第三者が壊して良いものではなかった。
フレデリックはすすり泣く。自分はこんなにも王を敬愛しているのに、それを行動で示すことができない己に苛立った。少年は涙を拭う。それでも、せめて心だけは誠意を持ちたかった。
「……あります。ずっと、魔道を勉強したいと思っていました……」
フレデリックは王の翠玉を見つめ返しながら、答えた。
「きっかけは?」
王は尚も質問する。フレデリックの答えを、『良し』とも『悪し』とも評さなかった。フレデリックは身体が冷たくなってゆくのを感じながらも、ここまで来てしまえば引き返すこともできぬと腹をくくる。彼は先よりもはっきりとした口調で、確固と答えた。
「七年前に、レイスへやって来たグローラの旅人が、魔道について語ってくれたことが……、それがきっかけでした」
「得体の知れない、気味の悪い力によって起こる現象だと、思わなかったのですか?」
「思いません」
ファーリーン人の多くが、一般的に魔道に対して抱いている印象がいかなるものか、フレデリックは知っている。しかし、理解することはできなかった。彼以外の人間が彼を理解できないのと同じように。旅人の指先に灯った、緋色の燈火。幻想的だと思いこそすれ、フレデリックはそれが気味が悪いなどとは一切感じなかったのだ。
ルートヴィヒはまた暫く黙っていたが、やがて緊張をほぐすようにゆるく笑った。
「それは良かった。完璧です。正直な返答、ありがとう」
ルートヴィヒはずるりと鼻を啜る少年をいたわった。フレデリックはその穏やかな王の言葉に身体の力を抜いた。
“許された”、のだろうか。
ルートヴィヒは、自らが描き出した淡い光を見つめ、言った。
「フレデリックには、手伝ってほしい事があります。その役目は、君のような人物である必要がある。……君にしかできないことです」
王は再び、視線をフレデリックの方へ向ける。
「引き受けてくれますか」
フレデリックは大きな目を瞬く。フレデリックは時間を掛けて王の言葉を理解し、そして口元を震わせた。返事をしなければ。しかし、声の出し方を失念し、彼は池の魚のように口をぱくぱくさせながら、必死に頷いた。その様子に、ルートヴィヒは穏やかに笑む。
『君にしかできないこと』。こんなに素晴らしい響きを、フレデリックは他に知らない。
安心しきったフレデリックが眠った後、洞穴の外では王の近衛たちが“魔法陣”を取り囲んでいた。主が描き出した光源。非常に興味を惹かれるものだった。もし、これがルートヴィヒ王の手によるものではなかったとしたら、彼らは近づこうとはしなかっただろう。
「なぜ光るのだろうか。何かが燃えている様子もないが……」
コンラートが言った。上から覗き込んだり、横の方から斜めに眺めてみたりしているが、視点を変えたところでこれが何なのかを理解することができるなどとは、コンラート本人も思っていない。しかし、なぜかそうせずにはいられない。暫く無言でいたアレンが、静かに頷いた。
「炎とか、雷とか、それに伴って光は生じますし、魔道術であってもその仕組までは変わりません。けれど、優れた魔道司さんは“光そのもの”を『無』から生じさせることができるそうです。ここで言う『無』っていうのは、燃焼とか雷とかの『“現象”が無い』という意味で……」
「悪いが何を言っているのかわからん。けど、陛下が凄いんだってことは分かった」
イザークが唸りつつ言った。アレンは苦笑しながら頷く。
「詳しいんだな、お前」
ガイが呟いた。アレンは、もはやあっけらかんとした様子で恐縮してみせる。
「文字の知識だけですけどね」
「……美しいものだな」
ヘルムートが呟いた。一同が彼に視線を向けた。最年長の近衛はひとり、昨日の王の言葉を思い起こす。
――ファーリーン人は、本能的に魔道を拒絶する。
たしかに、そうだ。そうだった。話に聞くだけでも、不気味だと感じた。心霊じみた怪しい力によって生まれる現象など、到底信用ならない、と。
しかし、この淡い光に心がときほぐされる心地が、今はしている。
赤き荒野(6)
夜が明けようとしている。西方から射し始めるべき陽光は暗雲に遮られている。この赤き領域に深く踏み入ってゆくほどに、“光”は遠のいていった。見渡せる風景は薄暗く、空気は冷たい。鼻腔が麻痺するような感覚は、冷えた吸気のせいか、鉄錆の尖ったにおいのせいか。
魔法陣をブーツの底で掻き消せば、白色光が儚く失われる。“赤い山脈”で過ごす、二日目の朝が到来した。
道は昨日よりも意地悪く凹凸入り乱れ、硬い岩壁は見晴らしを遮る。
なにかの気配が、再び感じられはじめた。少なくとも、生身の人間のものであると云うことは、皆確信している。そう考える以外を、ファーリーン人はできない。
しかし、いずこからやってくる“もの”であるのか……。連なる山々に気配までもが反響してしまっているのかもしれない。東西南北、天地いずれの方位からでも、その何者かの息遣いが感じられる。王の護衛たちは各々の武器の柄に手を掛け、神経を張り詰めさせながら、ヤーガのひどい足場を歩き続けた。
季節は秋の差し掛かり。未だ夏の余韻が消えぬ頃。しかしこの女神の懐は冷えきっている。死して冷たくなった母の胸、それに縋りつく幼子の悲しみと無力さを、今、彼らは感じているのやもしれなかった。
「この辺りで、ようやく半分といったところでしょうか」
未だ疲労の様子を見せないルートヴィヒが言った。厚く垂れこめる暗雲のせいで、午後も四時間と経てばすっかり辺りは暗くなる。手頃な広場を見つけたところで、一行はそこを本日の終着点とした。もはや人の手が加わったものは、この女神の身体を削り造った形の悪い道以外にはなく、植物は生まれいでる気配もなく、ここには無機物の世界が広がるばかりだ。王は再び魔道の光を設け、辺りを照らしてやった。
肩を寄せ合い魔法陣を囲み会話に興じる一同のなか、フレデリックはひっそりとブーツを脱いだ。左足を見てみると、足の裏と踵のところにべっとりと血が滲んでいた。フレデリックは身震いする。もう片方の足も同じようなことになっているのが、容易に想像できた。だが、状態を確認するだけで、フレデリックは再びブーツを履こうとする。この程度のことで騒ぎ立てて、王や近衛に迷惑を掛けるつもりは全く無かった。しかし、隣に陣取るアルベルトが彼の血まみれの足に気づいて声を上げる。
「痛そうだね」
改めて言われると、じわじわと痛みが酷くなるような気がした。フレデリックはため息を吐きながら頷いた。普段、あまり歩かないせいだ。足の皮が柔らかいせいで、度重なる摩擦に耐えられなかったのだろう。明日も、明後日も歩かなければならないというのに、それを思うとどうしても憂鬱になる。もっと足の皮を鍛えておくべきだった。
「おい、それ、ブーツの大きさが合ってないんじゃないか。見栄張ってデカイの履いたって良いことないぞ」
「ブッ」
フレデリックの正面に座っているドミニクが諭したのに、ラースローが吹き出した。
「センパァイ、それって経験談っすか? ンブッフフフ」
腹を抱えて笑う後輩に、背の低い騎兵は顔をしかめた。
「分かってんならわざわざ聞くな、ボケ」
「へぇい」
ラースローは笑うのをやめた。そんなやりとりをしている間に、ハインリヒが応急処置の手筈を整えていた。怖い顔の大男は、彼が常に携帯している薬草を細かく千切り、少量の水を含ませた清潔な布切れに包み揉み合わせながら、フレデリックの元へ来た。
「ずっと我慢していたのかい。気なんか遣わないで、もっと早く言ってよかったんだよ」
その顔は恐ろしくとも、フレデリックは既にこの人物の性格を理解している。大人しく処置を受けた。ハインリヒは二本の足に包帯を巻いてやりながら、少年が脱いだブーツを横目で見る。死神の顔をした騎兵は、小さく笑った。彼はフレデリック本人にしか聞こえないくらいの小声で言った。
「ドミニクの言ったことは、全くの見当はずれってわけでもないようだね」
フレデリックはしゅんとしたまま、曖昧に頷いた。見栄を張っているつもりはない。しかし、足幅が狭いのでファーリーン人の一般的な規格に合わず、特注でもしないと丁度良い物は手に入らない。最近背が伸びたのに伴って足も細長くなったので、リディの靴屋で適当に見繕ってみたのだが、どうもこの通りだ。あらかじめ、詰め物でもしておけば良かったのかもしれない。
ハインリヒは少年の足にブーツを履かせた。包帯の厚みで、少し密着感が得られた気がする。強面の騎兵は「よし」と言った。
「なにごとも、ひどくなりすぎる前に誰かに伝えることだね」
ハインリヒは穏やかに言いながら、少年の頭をぽんと撫でるように叩いた。フレデリックは素直に頷く。
不意に、
「剣を抜け!」
唐突な号令が掛かった。コンラートの指示に、近衛は誰ひとりとして動揺せず、兵長の指令が下るのと殆ど同時に各々の武器を構えていた。驚愕しているのはフレデリックただ一人で、彼の隣のアルベルトは相も変わらずぼんやりとして、のんびりと首を回して背後を振り返ったのだった。
ざわめき。人がうろたえる気配。その数は、一つや二つではない。指折りで数えるにも些か多すぎる。魔術の光の届かない場所に、人々が集まっている。一同は目を凝らすが、その姿は見えない。闇の中、一つの影が蠢いた。
「だーからさぁ、言ったじゃん、オレ。隠れるだけ無駄だから、って」
響いたのは子供の声だった。まだ高い、活発そうな少年の声。闇の中から進み出てきた者は、魔術の光を正面から受けた。浮き上がったその姿は、やはり子供のもの。顔立ちは幼く、背も低い。しかし、剥き出しの腹部と腕には筋肉の形がはっきりと表れ、筋張り、到底子供らしからぬ体格だ。
ルートヴィヒが静かに立つ。そして威張り散らす子供を無言で見つめた。
「こわ」
少年は翠の双眸から瞳を逸らさず、真っ直ぐに見返しながら、薄く笑んだ。彼の虹彩は金色に煌めき、シアンに縁取られた不思議な瞳孔を持つ。右手に見たこともない形をした、重たげな武器を携え、ゆらゆらと歩を進めこちらへ近づいてくる。厚い唇の隙間から、尖った歯が覗いている。
「……半竜人か」
両手で長剣を構えるヘルムートが、足下の砂利を踏みしめ均しながら呟いた。
子供は無言で、互いの顔がよく見える位置まで、単身で近づいてきた。彼は目の前に立ち並ぶ王属騎兵とルートヴィヒ王を一通り見上げた後、にやりと口角を上げた。鋭い牙が光った。短く息を吐いて、少年は背後を振り返る。
「おぉい、ウスノロ共よぉ。いつまで隠れんぼしてんだよ。なあ、この兄ちゃん達を見習えや、もっと楽しーい遊びを知ってんぞ!」
闇の中から、粗末な鎧に身を包んだ人々が現れた。辛うじて胸部を守る鉄板を取り付けたもの、傷とへこみだらけの甲冑を纏うもの、布を纏っただけの者も多かった。次から次へと現れる襲撃者たちは、皆同じ剣を携えている以外、共通点は見受けられない。半竜人の少年は、いつの間にやら岩の上に立っている。彼の背丈より頭一つ分は高い場所に登り、どうも見物するつもりらしい。
なぜか、雲が途切れた。このヤーガの暗幕が外れることなど、そう滅多にある事ではない筈である。〈月〉は満ちていた。青白い顔をしたかれは、辺りを淡く照らし上げた。
襲撃者たちが、南の谷を降りてくる。広場を埋め尽くすほどの数だ。ところがあまり統率が取れている様子はなく、戦法などには頓着しない様子で、各自が鬨の声を上げて突っ込んでくる。
「ファーリーン王、覚悟!」
初めに動いたのは、軽騎兵のラースローだった。戦い慣れぬ様子の敵は、一様にそちらへ意識を向ける。最も気にかけねばならない存在が何であるのか、彼らはまだ察していない。その隙にルートヴィヒは大股に三歩踏み出した。コンラートが斬った敵が、こちらに倒れ込んでくる。ルートヴィヒはその倒れ来る者の背を踏み台として、跳んだ。
否、“舞った”と表した方が、適切かもしれない。
彼は風に舞い上がる木の葉のように、軽やかに――そして、重力に従いひらりと落下しはじめる。
王は二本の剣を抜いた。金属の擦れ合う、いやに耳あたりの快い音が鳴る。
そして――
――鉄同士のぶつかる、凄まじい音響に我に返った。
宙で回転した勢いで、金属を叩き割る。微塵に砕けた敵の剣は四散し、二つの首が転がった。ルートヴィヒは赤い大地に降り立つ。頭を失った二人の襲撃者は、輪切りにされた首の断面から断続的に血を噴出させながら倒れた。
王は背後を振り返り、彼の敵を一瞥した。無感情な翠。襲撃者の慄きが満ちる。岩上の少年が、ピュウと口笛を吹いた。
「恨みを買うことを恐れはしませんが、殺されるつもりもありません。私を殺すつもりであるなら、己が殺される気で参れ。それが嫌だというのであれば、黙って引き退きなさい」
襲撃者は恐怖を顔に貼り付けている。しかし、誰一人として背を見せようとしなかった。憎悪と畏怖が入り乱れたような表情の彼らは、暫し沈黙した。しかし、誰かが雄叫びを上げたのを皮切りに、再び剣を振り上げた。王は乱暴に下ろされる剣先を難なくかわし、敵を切り伏せる。
「下がっていなさい」
ルートヴィヒはフレデリックとアルベルトに言った。ヘルムートが二人を庇いながら戦線から後退した。二人の少年を岩壁と自分の背の間に挟み、剣を構えて襲撃に備える。
ルートヴィヒ王の剣捌きには一切の無駄がない。洗練され、重量を感じさせないほどの軽やかさと、滑らかさをもつ。しかし、その振り下ろされ、薙ぎ払われ、突き刺される刃は、その見た目からは到底想像がつかぬほどに重い。敵の鉄殻を、いとも容易く貫通させる一対の剣。与えれば受けるはずの衝撃に、未だ刃毀れの様子はない。素早い剣戟に、時折緋色の火花が散る。それを受け止める腕は痺れ、武器は折れるか、弾き飛ばされる。怯み上がる一瞬のうちに、〈剣王〉はたとえ視界に入ったとしても認識する間を与えさせない鋒で、確実に者共を仕留めていった。
近衛は王の舞台を創りあげる。彼らの剣は王を守るもの、それ以上につき従うものであった。気まぐれな“風”は、決して斬られることはない。どこからでも吹き、どこへでも流れる。常人には想像の及ばない動作を『想像すること』は、決して簡単なことではない。
この次の瞬間、王はよろめいて膝を突くことだろう。
しかし、そうはならない。ルートヴィヒ王は己の重心が傾き、平衡を崩すべき場面に遭っても、それさえ活かす。彼はひらりと回転し、自身の肉体に向くべき物理の力を敵に与える。血飛沫までもを巧みに避け、もはや数十ともなる人間を斬り殺しているというのに、彼は涼しい顔をしていて、衣服は殆ど汚れていなかった。
ハインリヒが、向かってきた者の傷んだ鎧の隙間を槍で突き刺す。彼はもう一つの武器である剣を抜き、振り返りざまに背後の者を斬った。わずかに急所を外したために絶命に至らず喘ぐ若者に、エリアスがとどめを刺した。
半竜人の少年は、それらの様子を遠巻きに眺めていた。彼らの率いてきた集団は、既に多くが息絶えている。一方で、王の一行には傷一つ与えられずにいる。少年は溜息を吐いた。呆れ返ってものも言えない、といった様子で。彼はひょいと岩から飛び降りた。
フレデリックはアルベルトと共にヘルムートに庇われ、じっとしていた。薄暗い光景の中に飛び散る液体。あれは血なのだろう。彼は震えた。恐ろしくて仕方がなかった。
そんなフレデリックのもとに近づいてきたのは、半竜人の少年だった。ゆらゆらと肩を揺らすような歩き方で、楽しそうに口角を上げている。ヘルムートがそちらへ剣先を向ける。フレデリックもまた、辛うじて剣を抜き、構えた。その剣先は小刻みに震えている。半竜人の少年はわざとらしく目を見開き、その臆病な少年を無遠慮に眺めた。
「あぁ、なんだァ? ビビっちゃってさぁ。……つーか、モヤシみてぇだなぁ。んん? いーや、モヤシの方が頑丈だ、違いない。おい、剣なんか振り回して平気か? 腕折れないか? 肩外しても戻してなんかやんねぇぞ? ……ひ、ヒヒヒ、ヒャッハハハッ! おぉい! プルプルプルプルッ!! なにそれ、クッソウケんだけど!!」
彼は盛大に笑った。
しかし、その笑い声は唐突に絶えて、笑みは失せた。残ったのは鋭い金の眼光。獲物を前にした、獣のごときそれだった。
「行け!」
それは一瞬の出来事。ヘルムートの命令にすぐさま反応したのはアルベルトだ。彼は震えるフレデリックの腕を掴み、その場から走り離れた。脚を縺れさせるフレデリックを強行に引きずる。
両端が鉤爪のように湾曲した奇妙な武器を振り回し、半竜人の少年はヘルムートに襲い掛かった。騎兵は素早い反応でその凶悪な形をした刃を避けた。続けざまに襲い来る戟を、今度は剣で受け流す。硬い金属がぶつかり合い、ガキン、ガキン、と大きく鳴った。半竜人の子供の力は、恐ろしく強かった。少年の見た目の重量には到底そぐわない。子供らしからぬ凶悪な表情も相まって、彼はまさしく『怪物』のようであった。
ヘルムートの剣は長く、至近に寄られれば思うように反撃を繰り出すことが難しい。間合いを取るために幾度も引き退くが、半竜人の少年はすかさず追ってくる。明らかに戦い慣れていた。
風を切る音がした。弓兵カルテンが放った矢だ。無口な弓兵はドミニクと連携し、近場にやってくる敵を剣で切り伏せつつ、射撃で他の隊員を補佐していた。矢は真っ直ぐ半竜人の少年に接近する。少年もそれを認識した。
しかし、避けようとはしなかった。ただ小さく舌打ちをし、その動きを予測した上で頭部を狙い定めてきたそれを、自らの腕で受け止めた。
左の下腕を貫通した矢は、あと僅かのところで少年の頭には突き刺さらなかった。柄で塞がれた腕の穴から、じわじわと鮮血が流れ出てくる。そこに一瞥をくれることもなく、少年は武器を繰り続ける。負傷は彼に隙を生じさせはしなかった。むしろ、より力を増させる。
並の使い手であったなら、一撃で剣は折られていただろう。半竜人の少年の攻撃を、ヘルムートは巧みに受け流し続けた。しかし、一度たりとも反撃を見舞うことはできずにいる。慌ただしい戦闘のなか、ふとそちらの様子を捉えたコンラートは、そこから最も近い場所で戦う部下の名を呼んだ。
「アレン!」
アレンは自らを呼んだ近衛騎兵長を見た。コンラートが顎をしゃくって見せた方へ、視線をやる。苦戦するヘルムートの様子に、瞬時に指令を把握した。彼は目前を遮る敵を退かし、走った。そして長剣を両手で握り直し、半竜人の少年に背後から斬りかかった。
少年が振り向く。彼は重い音の響きと共に、アレンの剣を弾く。そして素早く後退し、二人の騎兵から間合いを取った。少年は顔をしかめる。
「後ろからってのはさぁ、卑怯じゃねぇの」
「多勢で無勢に襲いかかってきたそちらに言われる筋合いはない」
アレンが硬質に答えた。彼は勢い込んだ一撃が容易く弾かれたことに内心驚きながら、手に力を込めて痺れをやり過ごす。半竜人の少年は鼻で笑った。
「無勢だって? 敬意の表れだろうよ」
さすがに二対一では分が悪いと思ったのか、半竜人の少年は攻めてこない。互いに気を譲らず、睨み合う。
しかし次の瞬間。少年は何の前触れもなく得物を投擲した。鉄塊はヘルムートに向かい飛ぶ。騎兵は咄嗟に自らの元へ接近してくるそれを剣で防ぐ。彼の剣が派手な音を立てながら折れた。
そして気づけば既に半竜人の少年が目前に迫っていた。彼はにんまりと笑んだ。
鈍い打撲音。
ヘルムートの腹部に、半竜人の少年が蹴りを入れていた。騎兵はその衝撃で数ヤード飛んだ。彼は赤い巨岩で背を打ち、反動で前のめりに倒れ込みそうになる。膝を突く直前に気を持ち直した彼は、折れた剣を地面に突き刺して耐えた。彼は敵の姿を再び視界に捉え、歯を食い縛って一歩踏み出す。
だが、彼の体はこわばった。ヘルムートは目を見開き硬直する。
そして、彼は苦痛の呻きと共に、口と鼻から大量の血液を吹き出した。
「ヘルムート!」
エリアスが名を呼んだ。
アレンは少年に斬りかかっていた。剣は左の肩口を深く切り裂く。だが、相手は自らの掌が傷つくことも厭わず、肩を斬られ、下腕には矢の突き刺さったままの血が滴るその手で、刃を握り返した。アレンはその恐ろしいほどの握力で固定されてしまった剣を両手から離して、後退しようとした。しかし、わずかに遅かった。半竜人の少年は無傷の右手で、騎兵の胸に掌底打ちを食らわせる。
「っが……」
心拍が停止しそうなほどの衝撃に、アレンは唸った。
「あ、あぁ、アレン――!!」
フレデリックが叫び、剣を取り落として駆け出そうとする。そんな彼の腕をアルベルトが掴み、引き止める。
半竜人の少年は、血にまみれたアレンの剣を地面に落とした。そして自分の武器を拾い、遠くに蹴り飛ばした騎兵と、胸を押さえながら睨んでくる目前の若い騎兵を眺める。そして、未だ戦意を抱きながらも動けずにいるアレンの横を通り過ぎ、混戦が繰り広げられている方へと歩いてゆく。既に大方は片付いていた。少年が率いていた軍勢の圧倒的敗北というかたちで。
戦友の元へ駆けつけたエリアスは、ヘルムートの様子を診る。彼の気管は血で塞がれ、その上まともに咳もできずにいた。足下の大地には、鮮やかな赤が染みている。
「あーッ、もう、やめだヤメ!!」
半竜人の少年が叫んだ。残り数人となっていた襲撃者らが動きを止め、ルートヴィヒたちも少年を見やる。少年は不機嫌そうに、鼻に皺を寄せた。
「って言ったらよ、マジでやめちがいやがんのな。まあ、どうせその程度だよな。雁首揃えてヨォ、クソの役にも立ちやしねぇ。テメエら何人いたよ? ああ? 八十だろ、八十。そんで? 一人も殺れねえとかさぁ、舐めてんだろ。死ぬ気で来たんなら一人くらい殺してけってんだよ。あー、アホらし。ザックザックザックザック首切られてさぁ。オレはテメェらの手助けはしてやるがよ、テメェらの代わりに仕事してやる気はねぇんだよ。ったく、ええ? おっかない兄ちゃん達だよなァ。おっかないおっかない。分かるぜ、オレだってこの人ら怖いもん。だって、オレは今ここで死ぬ気はないからな! テメェらと違って! ヘヘッ。おい、ところで、何人ションベン漏らした? くっせぇんだけど」
“仲間”を罵りながら、半竜人の少年は下腕に突き刺さった鋼の矢を折った。新たに血が溢れ出す穴から、残骸を抜き取る。彼は傷口を抑えて、はじめて痛みに呻いた。しかしそれもすぐに引っ込める。彼は〈剣王〉とその護衛らを見回し、
「次はさ、もうちっと楽しい思いができるとイイなぁ。ヨォ、ファーリーンの王サマよ、今度会ったときはオレの相手してくれよ。いいか、頼んだぜ」
と、その幼い顔に合ったあどけない笑みを浮かべ、その後には岩の間を身軽に跳び渡って闇の中へと消えて行ってしまった。カルテンが矢を放ちはしたが、それが当たったかどうかは分からない。
生き残りの襲撃者たちが、絶望の呻きを洩らす。彼らは自暴自棄になって、ルートヴィヒに斬りかかった。ガイとラースローが逸早く反応し、瞬時に彼らの喉笛を切り裂き、殺した。ドミニクは茫然と立ち竦む最後の一人の剣を叩き落とし、羽交い締めにする。襲撃者の若者はそのときになって暴れ出したが、間もなく鳩尾に打ち込まれたイザークの拳によって、あっけなく意識を飛ばした。
鎧を剥がされたヘルムートは、かろうじて息をしていた。しかし彼が負った傷は重く、このような辺境の地でまともな処置などできる筈もなかった。或いは、リラまで辿り着くことも不可能だろう。この場にいる全員が――ヘルムート本人も含めて――そのことを理解していた。
負傷した騎兵は、今や言葉を発することはできず、体内で溢れ続ける血を気管に詰まらせながら、浅い呼吸を繰り返している。
ヘルムートが折れた剣を掲げ上げた。彼の手は震えていた。
「……、陛下……」
空気だけが抜けるその口で、長年仕えた主を呼ぶ。
ファーリーンの王は無言で進み出た。そして忠臣の傍らに膝をつく。戦友の様子を見守っていたエリアスは立ち上がり、一歩退いた。
ルートヴィヒはヘルムートが掲げ上げた剣を、確と受け取った。彼は、死に瀕した虚ろな瞳をまっすぐ見つめた。
「永く私に仕える、誇り高い騎士の名誉にかけて……、聴き届けます」
彼はヘルムートの折れた剣を傍らに置き、自らの剣を抜いた。双剣の片割れを両手で握り、掲げる。
それが振り下ろされたとき、ヘルムートの命は絶たれた。
二日歩いた。ヤーガの岩壁が途切れ、先が開けた。
赤褐色の岩肌よりも鮮明な“赤”が、広がっていた。
彼方に望むリラの古城。幾重にも重なりあいながら浮かぶ、巨大な魔法陣。淡い光を放ち、天空に聳える塔の天辺から地を照らす。
古代の魔道が生かし続けた、美しくも妖しい、荘厳な城。
それを抱く広大な〈赤き荒野〉を、彼らは見下ろしていた。