――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

第四章
風の堰

   風の堰(1)

 四角く切り抜かれた薄霞む世界を、ガラス越しに見下ろしていた。離れてゆくのは、見慣れた後ろ姿だった。

 ただの一言さえも声を掛けてはこなかった。だから、見送ってやる義理などない。

 王城より離れ行く姿たちの中に、最近見知ったものが混じっていた。思わず目を凝らす。そして確信する。しかし、それだけだ。だからどうするというわけでもない。

 ゆっくりと瞬きをして、深く息を吐いた。

 王子は不機嫌さを演出していた。王の見送りから戻ってきた近衛たちに、彼は理不尽な傲慢さを押し付けていた。それを受ける騎兵たちの反応を、彼はぼんやりとした満足感を抱きながら眺めていた。

 誰にも聞かされなかったが既に知っているアルベルトの行方を、ダーヴィットは硬質な態度で敢えて問いただした。そうすると、彼の近衛たちは気まずそうに顔をしかめる。彼らは、主を子供だと思っているようだった。気難しく、ちょっとしたことで拗ねてしまう、手のかかる少年だと思っている。ダーヴィットは鼻を鳴らしかけた。何かが無性におかしく思えた。

「その……、彼は陛下と一緒にリラに……」

 リーンハルトがどこかビクビクとした様子で、自信なさげに言った。ダーヴィットは片眉を吊り上げてみせた。

「へえ、なんで」

 理由など聞かずとも分かっている。魔道司たちの到着を待つより、連れて行ってしまった方が効率が良い。ただそれだけのことだ。分かっている。

 王子が分かりきっていることを、リーンハルトは律儀に繰り返した。それをさめざめとした目つきで眺めていると、やがて若い近衛は王子の悪戯心に気がついたらしい。尻すぼみになりながらゴニョゴニョと言葉を濁し、説明することを途中で放棄して逃げるように後ろに下がった。

「で?」

 未だ機嫌が治らないような声で、何ともなく、何かを促してみる。生意気な視線を臣下たちに浴びせかけてやる。彼らはそれを嫌がらない。少なくとも、あまり態度には出さない。

 一番扱い慣れているジェレミーが、ほとほとといった様子で肩を竦める。

「いや、だって殿下。先に聞かされてたらあなたはどうします? 止めるでしょう? そんなことになったら面倒くさい。だから黙ってたんです」

 ダーヴィットは数瞬沈黙した。そうだ、面倒くさいことになる。おそらく、全てジェレミーの判断だったろう。ダーヴィットは感嘆と失望の入り混じった思いで、馴染みの騎兵を睨んでやった。

「面倒くさい。『面倒くさい』と言ったな、一国の王子に。これは首を刎ねられても仕方ない」

「まったまたぁ! 私の首刎ねて、一体何の楽しいことがありますか。あなたの周りがとても静かになるだけですよ」

 ジェレミーの堂々とした態度に彼の同僚たちは呆れ、同時に尊敬の眼差しを向けた。ダーヴィットは暫く黙りこくっていたが、やがて少しばかり目元を和らげ、短く息を吐いた。

「もう少し期待してくれても、裏切りはしなかったつもりなんだがな」

「結果的に後出しになってしまったことは、申し訳ないと思っています」

 ダーヴィットの口調が穏やかになったのに応えるように、ジェレミーも嫌味っぽい調子を改めた。

「信用していないわけではないですよ。そこは勘違いなさらぬようお願いします」

 ジェレミーは追って弁解した。ダーヴィットは「もういい」と肩を竦めた。

「お前達が僕のことをぐずり屋の子供だと思っていることがよく分かった」

「できればそういう振りをやめてください、と申しているのですよ」

 ダーヴィットはフンと笑った。近衛たちは苦笑する。聞き分けのない子供のように振る舞おうとする王子は、まさに子供のようで扱いにくい。王子の子供っぽい言動は彼の演技かもしれないが、そのように振る舞って周りを困らせてやろうと目論むところこそ子供っぽい。どこまでが本来の王子であるのか、近衛たちは測りかねていた。

 王子はそれ以上近衛を責め立てるようなことは言わなかった。しかし相変わらず不機嫌そうで、眉間に皺を寄せている。窓の外を眺めたりしているが、皺は深まっていく。むすりと噤んでいた口を開き、フッと音をたてる。

「あいつもな、気に食わない。何考えてるのかさっぱりだ。気持ち悪い」

 顔を歪めながら、王子は言った。彼の不機嫌さの原因の殆どが、その一言に集約されているようだった。

 だが、『あいつ』というものが誰を指しているのか、近衛たちには分からなかった。いや、本当は分かっていたのかもしれないが、その考えを肯定することはできなかったのである。

 ここ数年、ダーヴィット王子は父王ルートヴィヒを避けている。王城に仕えるものなら周知のことだ。彼は王の仕事の様子になど関心を示さなかった。彼は書物に頼り、教師にも頼ったが、ルートヴィヒ王はダーヴィット王子の教師ではなかった。それは王子が王を頑なに拒否したためだ。

 されど、“そのとき”がいつ訪れるかなど、分かりはしない。それは数十年後であるかもしれないし、数カ月後かもしれない。明日来ないとも限らない。王子がいつまで“王子”でいられるか、それは神のみが知ることであって、いつまでも意地を張っているわけにはいかないのだ。

 やつは、自分と同じ年の頃には既に王としてやっていた。

 だから、この僕に同じことができないわけはない。

 王子は今、そのように自己を奮い立たせていた。父王の少年時代を知るほどに、王子は自分が哀れに思えてくるのだ。到底、彼の真似などできる気がしなかった。父との血の繋がりが疎まじく、同時にそれだけが拠りどころだった。

 ダーヴィットは彼の近衛をひき連れ、ルートヴィヒが常日頃こもっている執務室へと向かった。彼は今自分が手を付けるべき仕事について、事前には何も聞いていなかった。聞けば父は教えてくれただろうが、話しかけたくなかった。こんなことではいけないと自分でも思うが、しかし嫌なものは嫌だったのだ。

 向かう途中で、ホールに架かる橋の反対側から、王妃マリアが護衛のゲルダを伴って歩いてきた。ゲルダはヴァリュレイ女王国出身の戦士だ。歳のわりに綺麗な肌をしており、造形も整っていて「美人」だが、大抵の騎兵の男よりも大柄で、腕力でも優っている。胸のあたりの膨らみ方は女性的と言うには程遠く、いかにも硬そうだ。女性が強いことで定評のあるヴァリュレイ女王国でも、いささか珍しいくらいの体格だ。

「ごきげん麗しゅう、王子殿下」

 ゲルダはその低くかすれ気味の声で言った。ダーヴィットはゲルダの男に聞き紛う第一声に、内心改めて驚きを感じながら、フンと鼻を鳴らした。

「そんなに麗しくはないぞ」

「……さようで。見当はずれなことを申しました。お許し下さい」

 ゲルダは長身の上にある頭を軽く下向けた。

 一方、マリアは口をつぐみ、じっとダーヴィットを見つめていた。もし彼女の目つきがもっと鋭かったとしたら、睨んでいるように見えたかもしれない。ダーヴィットは母と目を合わせないように努力していた。目を合わせたが最後、お小言が降りかかってくることは間違いない。

「ダーヴィット……」

 しかし、結局彼が目を合わそうが合わすまいが、マリアはお小言を降らせてきた。それは小言と言うには筋が通っていたし、決して些細なことではなかったが、ダーヴィットにしてみればわざわざ指摘されなくても分かっていることで、ただしたくなかったからしなかっただけのことで、結局は“小言”でしかなかった。

「あなたは王子なのだから、なにかにつけてそのようにあからさまに態度に出すべきではないわ。分かっているわね、陛下がお戻りになられるときには、必ず外に出てお迎えするのよ。いいわね?」

 ダーヴィットは黙ったまま、肩をくいと竦めた。相変わらず目を合わそうとしない王子だったが、マリアはそれでも彼の反応を一応の承諾の意の表明であることを理解して、もう一度、今度は先より穏やかな口調で「いいわね?」と念を押した。王子はもう、なんの反応も返さない。

 マリアは王子の横を通り過ぎて、ダーヴィットが先ほど出てきた扉をくぐって行った。

 扉の向こうに消えていくマリアとゲルダの後ろ姿を見送る騎兵たちに、王子はそっけない合図をして、再度執務室への道を歩き出した。

 常ならば、国王の執務室前には彼の近衛兵が二名ずつ見張りにあたっている。しかし今日の扉の前は閑散としていた。室内からは慌ただしい気配がしている。しんと静まり返るような緊張感が和らいでいるのは、国王が不在なためだろうか。

 ダーヴィット王子とその近衛兵たちが執務室に入ると、王の両手である政務官のニコラとヨハネスをはじめとする官吏たちが顔を上げた。ニコラは髪と伸ばした髭に白色の混ざりだした年頃の男で、ヨハネスは丸淵眼鏡の青年だ。彼らは王子を歓迎した。

「早いな。いつもこの時間に始業してるのか」

「いえ、今日は特別です」

 ダーヴィットが尋ねると、ニコラが答えた。ルートヴィヒが城を出たのが早い時間帯だったため、見送りに出た者たちも常より一足早く一日の仕事を開始したらしい。「すこしゆっくりしよう」という考えに至らないあたり、大分ルートヴィヒに毒されているようだ。

 とはいえど、ダーヴィット自身、いつもはまだ朝食をとっている時頃であるが。

 王の仕事机の上は綺麗に片付いていた。先日シーク帰りに報告へと立ち寄った際は、紙束が山のように積み重なっていたが、もはやその面影はない。数枚の薄い紙が、ぺらりと置いてあるだけだ。

「気のせいですかね、一昨日よりも部屋が広くなりましたか?」

 驚きのにじむ表情で、ジェレミーが言った。ヨハネスが口角を上げる。

「そうでしょう。ルートヴィヒ様がろくすっぽ寝ずに片付けてくださったのですから。私が耐え切れずにうたた寝をしてしまっても、文句の一つも仰らない! しかも――信じられますか? 私が目覚めたとき、私の仕事の半分までもが無くなっていたんですよ」

「それはまた……」

 アンドレが嘆息した。一方で、ダーヴィット王子は呆れたとでも言いたそうな様子で首をひねった。彼はすっかり片付いてしまった王の机に歩み寄った。そして、しばらくその席を無言で見つめていた。他の者たちが王子の様子を窺う。一体どうしたのか、と。

 王子は暫く黙っていたが、やがてため息を吐いた。

「椅子を変えてくれ」

 室内の空気が一瞬滞った。ヨハネス政務官が頬を掻く。

「は、はあ……ええと、高さが合いませんですか?」

 丸淵眼鏡の政務官はあからさまに戸惑いを露わにした。王子の方が細身ではあるが、国王とさして体格は変わらない。そもそも、この部屋で最も高級な椅子を別のものに変えろと言われても、なかなかすぐには対応しかねる。

「ないのか。そうか、ならいい。お前のをこっちに寄越せ。代わりにこれをやる」

 王子はやや乱暴な仕草で、顎を使って王の椅子を示した。ヨハネスは何を言われたのか理解はしたようだが、その提案があまりにも受け入れがたかったようで、「ハァッ!?」と素っ頓狂な声を上げた。そして慌てて口を両手で塞ぎ、王子の表情を恐る恐るといったふうに窺って、仕上げにプルプルと首を横に振った。

「そ、そ、そんなことできるわけが……! お、お待ち下さい、すぐに! すぐにお持ちいたしますから!」

 ヨハネスはそう叫んで、慌ただしく部屋から出て行った。他の官僚たちがぽかんとした様子で彼を見送った。

 ダーヴィットは立ったままで、机上の紙を手にとって、そこに書かれた文字を目で追い始める。ジェレミーが小さく息を吐いた。

「殿下、彼、結構遠くまで行きましたよ」

「だから? アイツと尻突き合わすのなんか御免なんだから仕方ないだろ」

「さすがにそういう言い方は……」

 リーンハルトが噛みあわせた歯の間から、小声で言った。王子は聞こえないのかふりなのか、黙々と紙面の文章を読んでいたが、やがて机に置き戻した。

「ニコラ、この報告書はどうすればいい」

「はい」

 年配の政務官は髭を弄りながら席を立った。彼はダーヴィットの隣に来て、机上に紙を広げた。

「え〜、まずそちらにあります商業収益は、西方都市のものですね。リストとかレイスの。はい。それで、今は丁度農作物の収穫時期に差し掛かっておりますので、そちらの方も幾つか……届いておりますね。税の徴収額についての意見を出しておいてほしい、と陛下から仰せつかっております。追々、各都市からの雑多な要請書などが届き始めるでしょうが、とりあえず本日のところはそういったものはございませんので」

「そうか、なら過去の記録物など見せてほしい。参考に読んでおきたい」

「少々お待ち下さい」

 ニコラは愛想よく応えて、書棚を漁りだした。

 ヨハネスが戻ってきたとき、彼は一人ではなかった。彼より一足先に執務室へ入ってきたのは、騎兵団長のヴァルターだった。ヴァルターは椅子を担いでいた。きっちりと装飾の施された、よい物だ。騎兵団長にとってみれば軽い荷物だろうが、細身のヨハネスにとってはかなりの重荷になる品物であることが容易に想像できる。ヨハネスはヴァルターに繰り返し礼を言っていた。

 王子の近衛たちは、突然の上司の訪問に驚きながらも機敏に敬礼してみせた。しかし当の上司はといえば、「よっ」と軽々しく返しただけだ。

 ダーヴィットは渋面を上げた。ヴァルターは気にした様子もなく、王子の前で椅子を置いた。そして嫌味なくらいにわざとらしい紳士的な仕草をして見せながら、自身が運んできた荷物を指し示す。

「さあどうぞ、王子様」

「…………」

 ダーヴィットはヴァルターを睨んだ。騎兵団長は笑った。

「俺が運んできたのが気に入らないな? だがなあ、流石にこれ以上わがままを言う気にはなれないだろう。我慢だ、我慢!」

 ヴァルターは臆面もなく王子に言ってのけた。ダーヴィットが先に相手から目を逸らした。

「団長、なぜこちらへ?」

 なにか用件があったのではなかろうかと推察したジェレミーが尋ねた。しかし団長は「いいや」と首を振る。

「用ってのはない。偶々、ヨハネス氏が苦心しているところにすれ違ってな」

「本当に助かりましたよ」

「なぁに、大したことじゃない。お互い様だ」

 ヴァルターは、彼を見ようとしないダーヴィットを一瞥し、苦笑した。

「……邪魔したな。じゃ、頑張れ」

 騎兵団長はそれだけ言って、部屋から出て行った。

 その後も暫くの間、近衛騎兵たちは王子を看ていた。心配だったのだ。しかし、彼らが想像していたよりずっと、王子は上手くやっていけそうだった。騎兵に政治のことは分からない。それはかれらの専門分野ではない。王子のことは官吏たちに任せ、近衛たちは部屋から出た。まずはジェレミーとアンドレが見張りとして扉前に残り、午後はマチルダとリーンハルトが任に当たる予定だ。

 過去の記録物にダーヴィットは一通り目を通した。

 ファーリーン一の商業都市レイスは、海岸沿いに位置し、隣国グローラやアウリーとの交易が盛ん。商家上がりの貴族が治める都市は、金の動きが他と明らかに異なっていた。また、ファーリーンの商業を取り仕切る“ファーリーン商会”の本部は、王都リディではなくレイスにある。もはやファーリーンの商業はレイスの独壇場である。

 今、この国で最も栄えている都市はどこか――それはクラーツ公爵領のザルツではなく、王都リディでもなく、レイスだ。レイスは王国にとって無くてはならない存在で、同時に脅威でもある。レイス侯爵は強気の姿勢で、常に大きな発言権を持つ。国王に対してやや反抗的なところがあり、その点を心配する声も多い。

 侯爵はたしかに、あまり人好きのする人物ではないようにダーヴィットは感じていた。しかし、反面リーダーとしては優れているのだろうとも思う。多少の腹黒さは、必要なのだろう。善意のみで動く統治者が都を発展させられる、そのようには王子は考えていなかった。

 そして、自分もそうならねばならないということを、彼は理解している。

   風の堰(2)

 リディの王城にはいくつかの庭がある。全て合わせれば広大な面積となるが、いずれも手入れが行き届いている。ひとけの多い明るい場所では、青々とした芝草が太陽の光を浴びてきらめいている。日陰のひっそりとした場所では、静かな涼風に低木の葉が鳴る。鮮やかな花々は、それぞれの最も美しい姿を主張して、愛らしく背伸びをしている。ファーリーンでは、昔から女性は花にたとえられてきた。

 ここは空中庭園の一つ。リディの王城三階の北側に位置し、建物の影がほどよい日陰を作っている。夏も終わりきらない時期の日差しというものは、窓辺の鉢植えで育った花々にはいささか刺激が強い。

 その庭園からは中庭が見える。マリア王妃はフェンスに手を添わせ、そちらを見下ろしていた。

「ねえ、マリア様。お茶が入りましたわ」

 ヘレンが言った。細くやわらかそうな髪はわずかにくすんだ金色。肌は透き通るように白く、きめ細やかだ。まだ幼いその顔に化粧が施された気配はない。青緑の大きな瞳は長い睫毛に縁取られ、小さめの唇には自然な紅みがさしている。緑色のワンピースがよく似合っていた。

「どうもありがとう。頂くわね」

 マリアは少女に礼を言って、静かに椅子に座った。花の絵が描かれたカップの中には、近くに咲いている真紅の薔薇の花弁が浮かべてあった。

「ああ、失敗していないかしら……、この前ね、お母様にお茶の淹れかたを教わったの。でも、わたしひとりで全部やったのって初めて」

「ん〜……そうね、悪くはないけどちょっと濃いわ。苦味が出ちゃってる感じ」

 ひとくち含んで味を確かめたジゼルが言った。茶味がかった黒髪はつややかで、赤みの少ない白い肌。頬と鼻のあたりに、薄いそばかすがある。若い女性はあまり好みそうにない青いドレスの色は、ジゼルには似合っている。胸元に飾られた造花のブローチが、彼女の装いを地味でない、上品なものにさせていた。

「あぁ、やっぱりそう? お湯が熱すぎたのかしら。なんだかよく分からないの」

 ヘレンは少し気落ちしたようになった。マリアはヘレンが淹れたローズティーの香りを調べた。気品ある花の匂いを、マリアは好んでいる。彼女はその香りに満足し、それから口に含んだ。こくりと呑み込んだあと、彼女はやさしく微笑んだ。

「私は好きよ」

 ヘレンはその言葉に顔色を明るくした。

「次はもっとおいしく淹れられるように特訓してきます!」

 ヘレンはすっかり気を良くして、鼻歌を歌いながらカップの中に砂糖を溶かし入れた。ジゼルはティーカップを手に持ったまま、あまり行儀が良いとは言えない姿勢になって呟く。

「ハイジも来られたらよかったのに」

 ハイジとは、リスト男爵家のヘレンやテルベール伯爵家のジゼルと仲の良い、アクスリー伯爵家の令嬢である。ハイジ――正確には“アーデルハイト”という――は、類まれな美少女と言われ、各地方貴族の若い息子らは勿論、到底身分のそぐわない青少年らにとっても憧れの的であった。ゆえに女子からは嫉妬を買うこともありはしたが、少なくともヘレンやジゼルはそういった感情を持ち合わせていなかった。年下のヘレンはアーデルハイトをジゼルと同じように慕っていたし、ジゼルは年下の二人を気を使わずにいられる妹のように可愛がっていた。

 アクスリー、リスト、テルベールは、元を辿ればファーリーン王家に連なる家系だ。彼らが治める領地は王都から離れた場所にあるが、リディの中心街にも各々城を持っている。彼らが元々住んでいたのはリディの屋敷で、後に時の国王から地方の統治を言い渡され、各地に移った。ヘレンとジゼル、アーデルハイトの父親や兄や弟はそれぞれの土地にいるが、彼らの妻や娘や姉妹たちは王都で生活をする。それは、今となっては必ずしもそうする必要はない習慣だった。

 アーデルハイトは先日、彼女の父が治めるアクスリーの地へ向かい出発していた。彼女の弟の誕生日が近かったのだ。リディとアクスリーの間にはリオス湾があり、移動には船を用いる必要がある。アクスリーが属するのは、ルートヴィヒ王の従兄が治めるクラーツ公爵領で、南方のフォーマ王国に近い。

 ジゼルはテーブルの中央に置かれた焼き菓子をつまんだ。

「お母様が言うの。何処に嫁に出しても恥ずかしくない娘になる方法をマリア様から教わりなさい、マリア様の居佇まいを真似しなさい、って」

 マリアは穏やかな眼差しをジゼルに向けた。

「わたくしの? あら、ジゼルはそのままでいいと思うわよ。とっても魅力的じゃない」

「そ……、そうです?」

 ジゼルはためらいなく放たれたマリアの言葉に、微かに照れた様子だった。それを誤魔化すように肩を竦める。しばらく視線をうろうろさせて、もう一つ焼き菓子を口に入れた。それを飲み込んで落ち着き、そして今度は盛大にため息をつく。

「あぁ、そうだ、聞いて? あたしレイスの次男と結婚させられそうなの。やだわぁ」

「セドリック君ね?」

 マリアが確かめると、ジゼルはうんざりしたように再び息を吐いた。それまで無心で焼き菓子を頬張っていたヘレンが、セドリックの顔を思い出そうとして首をひねった。ポンと手を叩き、また首をひねる。

「んー? そんなに嫌ですの?」

「いやね!」

 ジゼルは髪を振り乱しながら頷いた。

「全然好みじゃない! あのいかにも育ちの良さそうな優男ヅラがぜんっぜん琴線に触れない! 大体、商家ってヤなの。あいつ絶対腹黒いわよ。姉貴がアレだもの! あたし農家の娘になりたい!」

「農家の娘はさすがに無理じゃありません?」

 ヘレンが顔をしかめて言えば、

「……でも夢見るくらい自由じゃない」

 ジゼルは演技っぽくクスンと鼻を鳴らした。

 それは、ルートヴィヒ王がリラに発ってから五日後のことだった。

 朝方。王子は騒ぎに起こされた。部屋の外で足音が慌ただしく行き来し、窓の外からは人声が聞こえていた。彼は召使に着替えを用意させるなり素早く身だしなみを整えて、騒ぎの中心部である城のエントランスホールへと向かった。

 そこには人だかりができていた。酷く動揺した様子の政務官が数人、比較的冷静な王属騎兵たちが十数人、輪になっている。世話人たちは遠巻きにそちらを見守っていた。ダーヴィットは輪に近づいた。

 王子の姿を見つけた誰かが、「殿下」と声を上げた。それに反応して、輪になった者たちが一斉にダーヴィットの方を向く。

「王子殿下……?」

 聞き覚えのある声が、輪の中心から発せられた。ダーヴィットは人壁に埋もれた声の主を目で探す。ややして、一人の男が人だかりをかき分けて姿を現した。ふらふらとしていて、足取りが危うい。

 しかしそれ以上に王子を動揺させたのは、その男の身なりだった。顔も衣服も、頭から爪先まで、全身を黒いもので汚されているその男が誰であるのか、王子はすぐには気づけなかった。男がこちらに近づいてくると、鼻に突き刺さるようないやな臭いがした。王子の前に立った男は、顔にへばりついた汚れをひび割れさせて笑んだ。

「……アクセル殿」

 ダーヴィットは確認するように呟いた。目の前の男はアクスリー伯爵だった。眼球は赤く充血し、唇は乾いて裂け、声はしわがれて、挙動は落ち着きない。到底、王子がかねてより見知っているアクスリー伯爵の姿とは程遠い。しかし、紛れもなく“彼”である。

「ええ、アクセルです」

 男は小刻みに頷いた。その様子が、王子の知るアクセルとは別人のようだ。

「なぜ、こちらに……。家族と領地に向かったのだと聞いていましたが……」

 ダーヴィットがシークへ発っている間に、アクセルは妻と娘のアーデルハイトを連れて伯爵領へ向かったはずだった。最後に彼らに会ったのは三週間前だ。伯爵は一見すると優男にも見られがちな、端麗な容姿をしているが、反して物腰は巨岩のようだった。王家に忠実な騎士の家系に生まれ育ったアクセルの気高き佇まいは、多くの人々の関心を集めたものだ。

 それが見る影もない。

 先程から自分の首が震えていることに、アクセル自身は気付いているのだろうか。当初は黒く変色した血液にまみれた姿に動揺していた者たちも、次第に彼の挙動が気になりだしたらしい。ダーヴィットは衝撃に目眩を起こしそうになりながらも、必死に耐えた。

「伯、こんなところでは落ち着かないだろう。どこか、部屋に」

「いいえ」

 王子はせめて人ごみから離れたところへ案内してやろうとしたが、伯爵は断った。まるで血の海を泳いできたような姿だ。伯爵はそんな自分の身なりを一瞥した。

「このような汚らしい格好で御目に触れてしまったことを、どうかお許しください」

「それは構わないが……怪我をしているのですか?」

 伯爵は首を横に振った。

「いいえ、私は平気でございます」

「そう、……ところで、一人ですか、伯」

 ダーヴィットは尋ねた。アクセルの側には護衛の騎士も見当たらず、彼の家族の姿もない。彼が一人でここに居ることは一目瞭然だが、それでも王子は問わずにいられなかった。彼は知りたかった。伯爵の家族が今どうしているのかを。

「…………」

 アクセル伯爵は沈黙した。閉ざされた唇がぴくりと動いたが、しばし何の言葉も紡がれなかった。伯爵は下方を眺めたままで、やがて話し出す。

「ベルティナ――妻はヴィンツに。……アーデルハイトは……」

 伯爵は再び言葉を詰まらせた。彼の両の眼球が左右に振れた。痙攣を起こした瞳を左手で覆った伯爵は、ふらりとよろめいた。彼の背後に立っていた騎兵団長ヴァルターが背を支えた。伯爵は身を強張らせたまま数秒動きを止め、その後息をついて、背後の騎兵団長に「失礼」と声を掛けながら、ふらふらと自分の力で立ち直った。震える喉で息を吸い込み、伯爵は平坦に言う。

「アーデルハイトは死にました」

 そう言って、アクセルはその場にくずおれた。背を震わせながら呻く。

「なぜ、私はあの子を連れ出してしまったのか。ここにいれば、あのようなことにはならなかったのに。私はエヴァルトをこちらへ連れて来るべきだったのだ。私は間違えてしまった。間違えてしまった!」

「おじさま!」

 城に駆け込んできた女性がいた。息を切らせる彼女は、大理石の床に膝をついた。苦しげな呼吸を繰り返す彼女は、テルベールのジゼルだった。ジゼルは蒼白の顔を上げ、アクセルの姿をその瞳に映した。友人の父はおそろしい血に汚れている。ジゼルは小さな叫び声を上げた。

「ジゼル」

 顔を上げたアクセルが、テルベールの姫の名を呟いた。ジゼルは自身の頬に伝う涙を拭いもせず、アクセルに這い寄る。

「お、おじさま……それ……、ねえ、ハイジは? どこにいるの?」

「…………」

「死んでしまったの? 本当? それって血なのでしょう? ねえ、一体何があったの?」

「ジゼル……」

 取り乱したジゼルは、アクセルの汚れや悪臭に構わず、縋りついた。ヨハネス政務官が彼女を宥め、アクセルから遠ざけようとする。しかしジゼルは、バリバリと音をたてる血染めの上着を握って、離さない。

 アクセルの瞳が、次第に焦点を合わせ始めた。頭部の震えが治まる。彼は一瞬、以前のアクセル伯爵の顔をした。しかし、瞳はすぐに再び陰った。

「きゃっ」

 アクセルはジゼルを突き飛ばした。ジゼルはヨハネス政務官を巻き込んで、王子の近衛たるリーンハルトにぶつかった。

「触るんじゃない」

 ジゼルは困惑を露わにした。伯爵の動作は乱暴で、口調はひどくぶっきらぼうだった。周囲には無言のどよめきがあった。アクセルがこのような冷たい態度をとるところなど、誰も目の当たりにしたことがなかったのだ。アクセルは戸惑うジゼルを見つめて言った。

「これは下賤な獣の血なのだ。お前は触れてはならない。直ちに身を清めなさい。いいね」

 ジゼルは呆然として、頷きはしなかった。アクセルはうつむき、ブツブツと己に言い聞かせるように呟く。

「ハイジは殺された。殺されたのだ、哀れに、惨たらしく。殺されたのだ……許してなるものか、獣め、悪魔め、決して許さん……」

 そして、伯爵は顔を上げた。彼は王子ダーヴィットを真正面から見据えた。

「殿下、此度は他でもなく、一つお願いがあって再び参じました。国王陛下にお目通り願いたいのです」

「……王……。彼は今いない。リラへ行った。……今は私が王の代理です」

「おや、左様でございましたか」

 伯爵は微笑した。只々不気味なだけの笑みだった。彼の髪は乾燥した血液によって束になって固まり、顔面を覆っていたものは此処に来ての表情の変化により、ザラザラと剥がれ落ちていた。粉末になった血は襟元に降り掛かり、大量の体液を吸った衣服が異臭を放っている。伯爵は一歩進み出た。

「では、殿下。あなたにお願いさせていただきます」

 ダーヴィットは反射的に後ずさりそうになるのを抑えこんだ。動揺をおくびにも出さず、なんだ、と瞳で促してやる。アクセルは小さく頷いて言った。

「フォーマへの進軍許可を、どうか」

 ダーヴィットは、それを聞いてもさして驚きはしなかった。伯爵がそういったことを口にするだろうことは、なんとなく想像がついていたのだ。

「フォーマか……」

「ええ、あの蛮族どもです。性懲りもなく我がファーリーン領へ入り込み、私たちに襲い掛かってきました。襲撃者どもは殲滅して参りましたが、しかしあの猿どもには一遍しっかりと灸を据えてやるべきかと思います。やつら、すっかり気を大きくしておるのです」

「……伯」

「いや、分かっております。戦というのは始めたら切りのないもの。どこかでどちらかが折れねばならない。我らリーンの民は、慈悲を以って、神の名のもとにきやつらを赦すのです。しかしですよ、ときには導いてやることも必要ではありませんか。親が子を叱るように、愚行を戒めてやることは必要ではありませんか」

「伯爵、彼らは隣人だ。我々は彼らの親や導師ではありません」

「隣人!」

 ダーヴィットの言葉に、アクセルは両手を叩き合わせた。

「隣人ならば、どうして赦せるのです!? 奴らと我らが対等であるならば、尚のこと! 我々には隣人の暴挙にいかる権利があるはずだ!」

「それは――」

 咄嗟に反論の言葉が出せないダーヴィットの代わりに、ニコラ政務官が興奮した伯爵に語りかける。

「閣下、民を治め、兵を率いる立場であるあなたならば」

「わかっている!」

 アクセルは怒鳴った。彼は「わかっている」と繰り返した。彼が統治者としての権力と責任と思想、一人の親としての凄まじい怒りの狭間で苦悩していることは、容易に想像がつく。

 分かっている。だからこそ、王子は伯爵の願いを聞き入れることはできない。ダーヴィットは首を横に振るだけで精一杯だった。アクセルは王子の態度に落胆をにじませる。

「殿下……。では、私はこの怒りをどのように始末するべきでしょうか。あの子が、アーデルハイトや私の忠臣たちが味わった屈辱を、私は晴らしてやりたい。せねばならない! 王子よ、私は騎兵をお借りしたいなどとは申しません。我がアクスリーの騎士を動かせればそれでよいのです!」

 アクセルの声音は低く抉るようで、眼差しは射るようだった。ダーヴィットは思わず怯んだ。アクセルの背後から、ヴァルターが言う。

「四万の兵で、一国を相手取ろうとお考えですか。それは無謀というもの。貴方ほどの人が、本気でそのように考えているわけはないでしょう」

 アクセルは背後へは一切視線をやらず、鼻であしらった。

「国を滅しようなどと考えてはいない――」

 一人でも多く、殺してやりたいだけだ。

 伯爵は言外に、そう主張しているようだった。ヴァルターは一瞬、言うべきか黙っているべきかを迷うようなそぶりを見せた。口を開き、何も言葉を発することなく閉じる。だが、やがて意を決するように息を吐き、再び口を開いた。

「閣下。はっきり申し上げさせて頂くが、今の貴方はとても危険だ。正常な判断ができる状態ではない。貴方がどのような戦い方をして来られたのかは存じ上げないが、俺の目にはその姿も十分野蛮に映ってしまう」

 鋭く息を呑む音が周囲から聞こえた。誰もが思いながらも口に出すことができなかった言葉を、ヴァルターが言った。

 アクセルは素早く背後を振り返り、相手の胸倉に掴みかかった。怒りに駆られた野蛮な瞳が、ヴァルターを睨みつけた。わなわなと震える口元から、獣のような唸りが漏れる。しかしヴァルターは微動だにしない。彼は静かに受け止めた。アクセルは食いしばった歯の隙間から言った。

「貴様にリーンの誇りがあるか。おお、そうでなくとも仕方あるまい……蛮族め、所詮は貴様も――」

「閣下」

 ニコラ政務官がその先を遮った。ヴァルターは表情を動かさなかった。口を引き結び、水色の瞳をまっすぐと前へ向けていた。緊張感に満ちた空気が漂う。二人ともが黙りこみ、他の者たちはもはや彼らを眺めていることしかできない。息が止まるような思いでいる。あわよくばこの場から逃げ出したいとも。

 長い沈黙。

 先に声を発したのはアクセルだった。彼は興奮状態から抜け出した。一気に頭が冷えた様子の彼は、悔やむように唇を噛んだ。

「……失礼。どうか先の言葉は忘れてくれ……」

「気にしていません」

 アクセルは謝罪した。そして騎兵団長の襟から手を離し、頭を振った。

「……すまなかった。貴殿の仰るとおりだ。私は冷静ではない。今の私は獣よりも野蛮であろうな」

 伯爵は再度王子へ向いた。彼の表情は陰っていたが、先程までよりかは理性を取り戻したように見える。彼は何をどう訴えても、少なくとも今すぐに隣国への進軍を許すような言葉は貰えないということを悟っていた。

 彼は疲れきっている様子だった。彼をこのリディまで引き返させたのは、怒りだっただろう。しかし今は悲しみが勝り、その身と弁を動かす激情はほろりと抜け落ちてしまった。

「……威を成さぬ武力など無きに等しいではありませんか。功を失った過去の威はあてにせず、早々に新たな威を得る必要があると考えます」

 アクセルはその言葉を口にして、その場に倒れこんだ。彼は意識を手放していた。

   風の堰(3)

 衝撃が現実として襲いかかってくることに、少しの時間を要した。幼なじみである少女の死というものが、ダーヴィットの胸中をじわじわと侵食しようとしていた。思い出が溶け、濁り、腐り、ヘドロのようになってゆくような感覚がした。

 彼は、ひとけのない東棟の物陰に佇んでいた。誰とも顔を合わせたくない。強く意識していなければ、ひどくみっともないことになるような気がした。

 背後から靴の音が聞こえたが、彼は動かなかった。そのままで居ると、足音は確かなものになった。棘のような気配を発するようにして、そこに留まった。

 しかし、無情にも音は近づいてきて、彼の背後で止まった。背後に居るのが誰なのか、ダーヴィットには初めから、なんとなく分かっていた。そこには小柄な生者の温度がある。たおやかな春風の香りがした。

「ダーヴィット」

 母の声だった。

「ゲルダから聞いたわ。伯爵の懇請を断ったそうね」

 マリアの声音には褒め称えるような調子があった。ダーヴィットは振り返らず、暗い物陰に身を預けたまま。

「ろくな言葉を返せなかった。ニコラとか……ヴァルターが居なかったら、どうなっていたか分からない」

 マリアはあちらを向いたままで振り返る様子のないダーヴィットを咎めはせず、彼の後ろで佇み、言う。

「そうかもね。でも、彼らがいくら説得を試みたとしても、最終的にはあなたの一言で全てが決まるの。あなたの確固たる意志を、私は誇らしく思う」

「……正しいのだろうか、僕の判断は」

 息子がいつになく気弱になっている、ということをマリアは感じ取った。近年は親子間で言葉を交わす機会も減り、また王子の感情表現も以前ほど顕著でなくなった。そのため、彼が何を考え過ごしているのか、マリアは分からないと感じるようになっていた。

 しかし、今こうして背中を向けて俯いている王子の姿を見ていると、彼の本質的部分は以前までとさほど変わっていないらしい。マリアは胸中が安堵で満たされてゆくのを感じた。

 そして王妃は、自分の言葉を王子がまだ聞き入れることができる、という事をさとった。ファーリーンでは女の意見は未だ軽んじられる。この国の女性は深くものごとを考えず、しかし気立て良く振る舞わなければならない。男が賢いように見せるため、馬鹿なふりをするのが彼女らの役目だった。けれど、王子はまだマリアを「母」だと思っていて、彼女の助言を必要としているようだった。マリアの胸中には喜びが満ちた。

「誰にとっての正義か、によるかしら。……自分だけにとっての正義なら、誰へも遠慮はいらないわ。けれど誰かにとっての……たとえば家族や友人たちにとっての、街や国、もっと広い世界にとっての正義ともなれば、色々な配慮が必要になってくる。或いは目先の目的のためなのか、遠い未来のためなのかも重要ね」

 ダーヴィットは小さく頷いた。マリアは続ける。

「国にとっての正義を選択するのが王の役割なのだから、今回の件で、国家の威信を懸けてフォーマに宣戦布告することは、間違いではないかもしれない。アクスリーのみに限らずファーリーンの人々は少なからず怒りを覚えるし、過去の憎しみを思い返すかもしれない。それを晴らしたいと思うでしょうし、そうすることを許さない王への不満が募りすぎれば、いずれ王の権威は弱くなってしまう。彼らは暴徒と化し、内乱に発展することもありえる。その解決法の一つが、『敵』に不満をぶつけさせてしまうこと。……これまでは大抵そうやって解決してきたわ。きっとフォーマも同じ」

「うん」

 王子は再び頷いた。律儀に相槌を返す様子を、マリアは微笑ましく感じた。

「……けど、憎しみは連鎖する。今回フォーマが攻め入ってきたのも、たぶんそのせい。お義父様……エミル様はその連鎖を断ち切るためにったわ。そしてルートヴィヒ様はその遺志を継いだ。彼らが目指したのは目先の安寧ではなかったから」

「…………」

 マリアは壁に背を預けた。少女のように両手を組み合わせ、息をつく。しばし回想にふけるように沈黙した。

「……高潔すぎるの。彼らの選択は神のように公平で、そして無情だわ。それでも人々は彼らに従う。持っているのよ、――とくにルートヴィヒ様は――人を惹きつけて、従わせてしまうものを。あまりにも強すぎるものを」

「僕にはそれがない」

 ダーヴィットは苦々しい声音で呟いた。マリアは首を横に振る。

「あるわよ。人並みにね」

 ダーヴィットが振り返った。

「それじゃ駄目だ」

 王妃は陰の中で煌めく、深海色の瞳を見た。母である己と同じ色。ダーヴィットは心の底からもどかしさを感じているようで、気難しそうに眉根へ皺を寄せる仕草は、彼の父方の祖父に似ていた。

「どうして? あなたにはあなたのやり方があるはずよ。ジョエルお祖父様なんて、全然大した人じゃないけど好かれてるわ。もちろん、『みっともない』って言う人もいるけれどね。私もそう。母さまを嫌っている人はいる。会ったこともあるわ。でもいいの。こんな私を好きだと言ってくれる人だっているもの。あなたは、そういうところは私に似たけれど、それで良かった、って母さまは思っている」

 ダーヴィットはいまいち納得のいかない様子だ。

「良かったのかな」

「ええ、そう思うわ」

 マリアは迷いなく肯定した。

「だって、あなたは理解者を得ることができるもの」

「…………」

 ダーヴィットはなにか、漠然とした衝撃のようなものを感じた気がした。それが何から来たものなのか、考える気にはならなかった。

 ダーヴィットが執務室へ入ったとき、そこは会議の場となっていた。馴染みの政務官らと、王子の護衛兵、そして王属騎兵の各将校らが数名集っている。主のいない王の卓の上に地図を広げ、誰かがそれを指し示して何かを言うと、唸り声と様々な指摘がなされる。

 会議の中心から少し外れたところに立っていた末端の近衛騎兵リーンハルトが、王子の姿に気づいた。彼が素早く敬礼して見せれば、他の者たちも顔を上げ、リーンハルトの視線を追った。その先に王子が居ることに、一同はわずかに動揺を見せた。

 ヨハネスが眼鏡の位置を必要以上にカチャカチャと直す。

「ああ、あの、殿下、ご気分の方は?」

「……問題ない」

 どうやら気を遣われていたようだ。確かに大きな衝撃を受けはしたが、いつまでも引きずっているわけにはいかない。今この瞬間、ファーリーンを預かっているのは自分なのだ。

「それは素晴らしい」

 感心したように言ったのはヴァルターだった。

「では、殿下も話し合いに参加してくださいますか」

 騎兵団長は丁寧な口調で言った。

「……いいだろう」

 ダーヴィットが答えて移動すると、ヴァルターは会議の中心の場からずれ、そこに王子を導いた。

「南方の守備状況について議論していたところです」

 騎兵団長のヴァルターは、先ほどまで無遠慮に王卓へ手を突いていたが、今は腕を組んで王子の隣に居る。

 ヴァルターは昔からルートヴィヒにもダーヴィットにも遠慮がない。公的な場ではともかく、またからかう目的でのそれは別にして、基本的に王子に対して丁寧な言葉づかいはしなかった。ダーヴィット自身が「礼を失している」と指摘したことは何度もあるが、改善はしなかった。そして実のところ王子も慣れてしまっていて、心の底からそのことを不快に思っているわけでもなかった。

 ヴァルターは半分独り言のような声音で言う。

「伯爵に確認をとったわけではありませんが、――どっちみちあの様子では暫く無理だろうし――彼らがリディを出たのが二十日前。行きは馬車で、かつ引き返してくる時間も考慮すりゃ、まずアクスリーには到着しなかったはず。つまり、大分内地で襲われたことになります。たぶん、ヴィンツからさほど離れたところではない」

 彼はそこで言葉を切って、溜息とともに舌を鳴らした。

「陸はなぁ、ヘザーにだけ目ぇ付けときゃいいんだけどなぁ……。海岸線はなぁ……」

「船で渡ってきたとでも」

 ダーヴィットは厳しい表情で尋ねた。ヴァルターは頷くとも首を傾げるとも言いがたい、微妙な仕草をした。

「ヘザー経由なら、そんな内側に入り込んでくる前に叩けるはずなんだよ。南方駐屯騎士団が機能してりゃ、知らせだって入る」

 ファーリーンが属する中央大陸とフォーマが属する西イガール大陸は、基本的には海を挟んでいるが、ほんのわずかな地続きの場所を持っている。そのわずかな場所にヘザーという都市があり、フォーマの兵はこれまで常にそこを経由してファーリーン領に入り込んできた。また、ファーリーンの兵がフォーマに攻め入る際も同じだった。

 第一騎兵団長のサイラスが、地図を見下ろしながら反論した。

「しかし、フィリス海峡を渡れますか? ファーリーンもフォーマも幾度となくあの海域に挑みましたが、これまで一度たりとも対岸に行き着いた試しがありません」

 長い戦史においては、フィリス海峡の横断は重大な課題の一つだった。西側から入り込む大量の海水が、入り組んだ海岸線にぶつかり複雑な海流を作り出す。海峡には無数の渦が巻き、進行を妨げる。海岸から一定の領域より外へ出ることは難しく、出ることができたとしても障害物と荒い波に船が傷つけられてしまう。ことごとく破壊された船の残骸は、巡り巡ってパトゥレス洋に吐き出される。幾度フィリス海峡に戦いを挑んでも結果は変わらず、やがてファーリーンもフォーマもフィリスを相手取ることはやめた、はずなのだが。

「でも、アウリーの船なら渡りきれますよ」

 マチルダが言った。

「あの辺りの海流に人力のガレーで抗うのは確かに困難だと思います。けれど、動力を魔道に頼ったのであれば、十分可能ではないかと」

「まさかぁ」

 ジェレミーが顔をしかめた。茶々を入れられたマチルダはムッとした様子で、やや刺々しい口調になった。

「現に、クレスの海賊たちは何度もフォーマにたどり着いてます。あれはアウリーの魔道技術との連携があってこそですよ。セランとザルツの間をたった三日で移動できるのだって――」

「ああ、はいはい」

 ジェレミーは両手をひらひらさせながら、マチルダの言葉を遮った。マチルダは不満そうに眉根を寄せて、彼女の隣のリーンハルトが身を縮こまらせる。

「動力が魔道だったらな、まあ確かに可能かもしんねぇよ? だが、それをどうやってアチラさんが扱うんだ。フォーマはファーリーンより魔道嫌いじゃねえか」

「切羽詰ってたら嫌いでも使うんじゃないですか。そういう判断は建設的だと思いますよ」

 いよいよ雲行きが怪しくなってきた。ジェレミーが更になにか言おうとして口を開きかけると、

「は〜い、はいはい、そこまでだよ。取り敢えずはね」

 アンドレが身を乗り出して、口論になりかけている二人を止めた。ジェレミーは自分の態度が少々大人気なかったと感じたのか、苦笑を浮かべて肩を竦めた。が、マチルダの方はまだ不満気だ。

 ヴァルターは興味深そうに、ニヤニヤと口元を歪めながら二人のやりとりを見ていたが、両者が大人しくなればまた自ら口を開く。

「まあな、仮の話だよ。だが、もし本当に海峡を渡って来なすったんだとしたら、そりゃ大事だ。まぐれってのも考えにくいし、凄腕の航海士でも見つけたかな? いや、あくまで仮の話だけど」

 『仮』という言葉を強調してはいるが、ヴァルターは、フォーマ兵が何らかの手段で海を渡り、守りの薄い海岸線から侵攻してきた、という考えを推しているようだ。

「……何か分かればヴィンツ侯爵様が使いをくださるでしょう」

 軽騎兵隊長のロランが頬を掻きながら言った。しかしヴァルターはいまいち気乗りしない様子だ。そんな団長の様子を見て、ロランは小さく肩を竦めた。

「別にいいですけど、我が隊から派遣して頂く分には。とりあえず十小隊くらいでどうです」

「ふっふっふ!」

 ヴァルターはロランのその言葉を待っていたのだ、というように口角を上げた。彼は右手の指を二本立て、軽騎兵隊長に見せた。

「じゃあな、二十分隊で。小回り効かせろよ」

「了解です」

 ロランは団長に倣ったのか、右手の親指を立てて了承の意を示した。

「勝手に話を進めて……」

 ダーヴィットは気難しげに眉根を寄せ、ヴァルターを非難した。騎兵団長はニカニカと白い歯を見せながら王子を振り返り見る。

「おっと、異議ありますか」

「もっと早く気がついて聞くべきだったんじゃないか。今現在ファーリーンを任されているのは僕だ。アンタじゃない」

 ヴァルターは笑みを消して、真面目な顔になった。

「ええ、仰せのとおりです」

 団長は肯定した。王子はこの会議の主導権を握ろうとしている騎兵団長の意図が、分からないわけではなかった。彼は責任を被ろうとしているのだ。状況の分からないクラーツ公爵領に兵を送り込み、万が一損害が出てしまった場合に、出兵を命じたのはあくまで騎兵団長だった、ということにしてしまうつもりなのだろう。だからそもそも会議の場に王子を呼ばなかったのだ。

 だが、それだと自分が何も決められなかったということになるので癪だ、という気持ちが王子にはあった。しかしそれ以上に、ダーヴィットには自分が王子であり、次期国王であるという自覚もあった。

 騎兵も官吏も王族を守り助ける存在だが、彼らに誠を誓わせるのならば、まず自らが彼らに対して誠を示すべきだ。王子はそう考えている。誰かに要求されたわけでもない。ただ、それが自然な在りようだと感じる。

「……異議はない。僕が許可する。軽騎兵二十分隊を、クラーツ公爵領へ偵察へ送ること」

「は」

 一同が敬礼した。

 ダーヴィットの横で、ヴァルターは関心したように、そして満足そうに頷いていた。

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