――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

Aldyss -アルディス-
第一章 ファーリーン
第二節 赤き荒野

 騎兵館前の広場を、一人の少年が足音低く歩いていた。早朝の薄青い大気が周辺を霞ませ、また冷えた流動が彼の切り揃えられた金の髪を靡かせた。

 今しがたは、静寂を打ち壊す怒声が響いたところである。それはこの少年の細く薄い背に向けられたものだ。だが少年は俯いたままで、その声の主の方を振り返ることなく足を速め、その場から立ち去った。

 彼の名はフレデリックという。レイス侯爵家の四男だ。ただし、庶子である。

 レイスはファーリーンの北西部に位置し、グローラ聖皇国との橋渡しを担う、商業・貿易で栄える都市だ。“黄金の街”とも呼ばれ、レイス侯爵の発言力は、南部ファーリーンを統括するクラーツ公爵(現在の公爵は王の従兄である)に次ぐ。

 フレデリックは厩舎から馬を連れ出し、待ち合わせ場所の王城前へと向かった。そちらでは、制服を纏った王の近衛が十名、出立の準備を進めているところだった。フレデリックは暫くの間、彼らから離れた場所で佇んでいたが、やがて近衛の一人がフレデリックの方へと近付いた。

「フレデリックさん、今後の話もあると思うので、あちらに行きましょう」近衛の青年は、先程まで自らがいた場所を示した。その若い近衛はアレンという。

 フレデリックは頷き、アレンに付いて行った。

 やがて、旅装に身を包んだルートヴィヒ王が、同じく旅装をした二名の高位政務官を伴い、王城の玄関棟から姿を現した。彼らの側には見送りに現れた王妃と、城に残る政務官、騎兵団長と王城仕えの騎兵等がいて、やや離れた場所から王子が旅立つ者達を眺めている。

 ルートヴィヒの傍らに立つアルは、黒の衣服を纏い、白茶色の肩掛けを紫石の飾り物を用い左胸の辺りで留めている。それは、この街にやってきたときの装いと同じものであった。

 敬礼する近衛達の元へやって来たルートヴィヒは、腰に一対の双剣を装備している。彼は剣士としても名高いが、それは両手に刃を持つという稀有な形にも拠る。

 ルートヴィヒが黒馬に騎乗すると、彼に同行する臣下ら(二名の政務官と、その一人と同乗するアル、十名の近衛、そしてフレデリック)もまた各々の馬に跨った。

 騎兵団長は馬上の王に向かう。「国王陛下に、天空神の加護あれ」彼は通りの良い声で言った。

「我がリーンの純真なる民と、その守護者達に、英雄王の加護を」ルートヴィヒは平坦な口調で、しかしやはりこちらも良く通る声で応えた。

 ルートヴィヒは馬を進ませた。同行する近衛達は速やかに隊列を組み、王と、アルを同乗させた政務官らと、フレデリックを囲んだ。

 ミュゼー中央大路には、三千の王属騎兵が正装で立ち並び、一様に左胸に拳を当てる敬礼をしている。また、その奥にはリディ中心街配置の騎士達が並び、剣を天に突き立てている。

 ルートヴィヒは周囲に一瞥を与えることなく道を進んだ。近衛と政務官らもまた王に倣ったが、アルは辺りを眺め回し、また覗き込もうとしては背後の政務官に窘められている。そして、フレデリックは俯き続けていた。

 一行は新市街南大城門から都外へと出た。ルートヴィヒら十五名は、誠直の月、第三の次元神の日の午前半ば、リディを発った。

 リディの外へと踏み出したとき、フレデリックは深い溜息を吐いた。長く下を向いていた彼だが、都を出ると顔を上げた。

 新市街を囲む城門の外には、農耕地が広がっている。北シルフィ平野は、中央大陸の全面積のうち二割近くを占める広大な平地だ。王都リディも属する中部は温暖な気候で降水量も程良く、農業が発展している。また、北部ファーリーンは南部ファーリーンよりも中小都市が多く点在し、それらは大都市と中継を結びながら、整備された街道によって繋がれている。

 一行は途中、街道沿いの街に立ち寄りながら、東の帝都を目指す。順調に進めば十七日程度の旅となる。先ずは北部ファーリーン最東端の都市ベルンを目指し、そこからリオス湾を跨いで南へと伸びるエシュナ大橋を渡る。ヴィオール大公国を経由し、ヤーガ山脈を迂回するのだ。

 東の空高くに昇り始めた太陽が南天を超える頃、一行はリット川近くの宿場で休息を挟んだ。そして南天を超えた太陽が西の地平線近くまで降りる頃、本日の目的地であった街、セルバーに到着した。

 街外れで遊んでいた子供達が国王一行の到着に気付き、騒ぎ立てながら街に入り戻って大人達を呼んだ。少人数で構成されるセルバー騎士団の者達が、国王訪問に歓喜する街人らを宥めながら一行と並び街を進んだ。街の半ば程まで行くと、彼らは杖を手にするセルバー男爵と、その妹に迎えられた。

「ようこそおいでくださいました。これからの長旅に備え、ごゆるりとお過ごしいただければと思います」男爵は言った。左足が十分に動かない彼は、妹の助けを借りながら一行を先導した。

 低い丘の上に立つ屋敷へと一行は招かれた。庭の手入れは十分に為され、館内も清掃が行き届いていた。窓が多く、差し込む黄昏色が室内を照らしている。

「じきに夕食の用意が整いますので、それまでどうぞお寛ぎください」男爵は国王達に言うと、召使達に屋敷の案内を任せた。

 一行は屋敷の二階に上がった。ルートヴィヒが通されたのは王族の来賓用に誂えられた部屋で、貴族として王に同行しているフレデリックにも個室が与えられた。政務官二人とアルは同室、騎兵らには広めの三部屋が用意されており、近衛騎兵長が手早く部屋割りを決めた。

 セルバーは特に前王エミルと縁の深い場所である。小規模な田舎街ではあるが、ここを拠点とするセルバー男爵家の国王に対する忠誠心は厚い。先代王時代以前の、殺伐とした王と貴族達の関係の中でも、概して王に協力的な姿勢を崩すことのなかった家系だ。

 やがて完全に日が暮れ、屋敷内には灯りが燈された。一行は夕食をとり、その後は各々の時間を過ごしていた。

 フレデリックは与えられた部屋にいた。寝台に腰掛けた彼は、随分と長い間俯き続けている。

 部屋の扉が軽く叩かれ、フレデリックは顔を上げた。扉に歩み寄り開ければ、そこにはアレンがいた。「お休みでしたか」というアレンの問いに、フレデリックは首を横に振った。彼はアレンを部屋に招き入れると、再び寝台へ座って項垂れた。

「隣、宜しいでしょうか」アレンは訊ねる。

 フレデリックは左隣を叩いた。アレンは示された場所に腰を下ろす。

 フレデリックは溜息を吐く。「俺は情けない」彼は掠れた声で言う。「皆を納得させられるだけの力があれば良いのに。例えば、アレンみたいに強ければ、そうしたらきっと、堂々とリディを出発できたと思う」彼は膝を抱えた。「何故、陛下は俺を連れ出されたのだろう。俺なんて落ち零れで、なんの役にも立ちはしないのに」

「陛下にはお考えがおありです」アレンが言う。「ですから、今はフレデリック様にできることを、精一杯に為されたらそれで良いと思います」彼はフレデリックに笑みを向ける。

「アレンはその、“陛下のお考え”について、なにか知っているのかい」フレデリックは訊ねる。

 アレンは頷く。「大まかには。僕の口からはお話しできませんけれどね」

「そうかい」フレデリックは寝台へ仰向けに横たわった。

「明日の出発も早いですが、眠れそうですか」アレンは傍らで横たわる少年に訊ねた。

 フレデリックは頷く。

 アレンは微笑を浮かべた。「では、僕もそろそろ休みます」彼は寝台を立つ。

 フレデリックは再び上体を起こした。「ありがとう、気遣ってくれて。俺は昔から、君に庇われたり慰められたりしている」彼は扉へと近づくアレンに言った。

 アレンは振り返り、フレデリックに笑みを見せる。「こちらでの立場がどうであれ、僕は貴方の騎士であるという約束を違えません」そして彼は部屋から出て行った。

 リディを発って五日、その日は特段天候が良く、凡そ雲の見られない快晴だった。地平線の先では、ヤーガ山脈(別名を“赤い山脈”という)の影が明瞭さを増している。一行の旅は順調だった。

 そして更に五日後の昼、彼らは中間目的地である、北部ファーリーン最東端の都市ベルンに到着した。北部ファーリーンの東側を統治するベルン侯爵家の拠点でもあるその街は、ヴィオール大公国と北部ファーリーンを陸路で繋ぐことのできる唯一の場所である。王都リディ、黄金の街レイス、南部ファーリーンを統治するクラーツ公爵の拠点ザルツ、それらの大都市に次ぐ規模を持ち、活気に溢れている。

 城門近くで一行を出迎えたのは、ベルン侯爵の嫡男ヴィクトールだった。ルートヴィヒの妻マリアはベルン侯爵家の出である。このヴィクトールはマリアの弟で、ルートヴィヒにとっては義理の弟である。

「長旅ご苦労様であります。陛下、お会いできまして大変光栄です」ヴィクトールは一行を労り、ルートヴィヒに慇懃いんぎんとした挨拶をした。だが、その後彼は笑みを浮かべたまま沈黙した。

「どうしました」ルートヴィヒが言葉を促す。

 ヴィクトールは背筋を伸ばした。そして深く息を吸い、言った。「エシュナは通行できません。中央付近が大規模に崩落してしまったようなのです。まだ調査中ではありますが、到底渡ることはできないでしょう」ヴィクトールは瞼を伏せた。「申し訳ありません」

「どういった様子なのか、見せてもらえますか」ルートヴィヒが言う。

 ヴィクトールは「勿論です」と言い、一行を街の南へと導いた。

 彼らは数十のベルン騎士に囲まれながら移動した。エシュナ大橋の崩落と国王の訪問により、ベルンの街は激しく混乱している。南へ向かう程に群衆の壁は厚くなり、大橋を望める場所には人々がひしめいている。押し寄せる人の壁を騎士達が掻き分けて道を作り、ルートヴィヒ達は立入りを制限する柵を越え、長大なエシュナの末端に乗り上げた。

 ベルン侯爵のジョエルが、一行に近付いて来た。彼は娘のマリア、孫のダーヴィットと同じ金の髪と深海色の瞳の持ち主だ。

「ようこそお越しくださいました。私もお出迎えする心算だったのでございますが、この通り、処理に追われてしまい。申し訳ありません」ジョエルは言った。

「怪我人などはいるのですか」ルートヴィヒは訊ねる。

 ジョエルは首を横に振る。「恐らく、その心配はないかと。判明したのが今朝のことですから、夜中のうちに崩れたのでしょう」

 青い海を渡り霞の中に伸びてゆくエシュナ大橋は、侯爵らの言うように途中で支柱ごと崩壊している。

「ヴィオール側の足場は残っているのでしょうか」近衛の一人が問う。

 ジョエルは頷く。「今は霞が濃くなってしまい良く見えませんが、中間八マイル程度が崩れたらしく。それより奥は無事なようでした」

「夜間の見張りの者は、なにか見ていないのですか」政務官が訊ねる。

「これも面目ない限りなのですが」ジョエルは表情を歪めた。「交代の者も含め、皆眠ってしまっていたらしく」

 ルートヴィヒが微かに眉を動かした。「全員とは奇妙ですね。一晩中眠っていたわけではないのでしょうが」

「一の刻から二の刻頃までが空白の時間となっています。その間に橋は崩れたようです」ジョエルは答えた。

「原因に心当たりはありますか」ルートヴィヒはジョエルに訊ねた。

 ジョエルは唸る。「老朽化、というのは一因としてあるのではないかと思いますが。見張りが一様に眠ってしまっていたことを思うと、人為的なものが働いていたようにも思えます。しかし、これだけの規模の崩落を一刻間で起こす技術というものが想像できないのです」

 ルートヴィヒは暫しの沈黙の後、頷いた。彼は同行者達を振り返り、「今後の予定を立て直す必要があります」と言った。そして政務官らの方を向き、「二人のうちのどちらかはベルンに残り、彼らの手助けを。どちらが残るか、今日中に決めておくように」と言った。

 指名された二人の政務官は了承の意を示した。

 ジョエルが表情を緩める。「宜しいのでしょうか」

「問題ありません」ルートヴィヒは言った。そしてジョエルの方へと向き直る。「皆と話し合いたいので、場所を用意してもらえますか」

「ご案内します」ジョエルは繋がれていた馬の手綱を柵から外した。

 一行は先と同じように、民衆を掻き分けながら進んだ。民がルートヴィヒの名を叫ぶ声が、激しい喧騒の中に紛れる。彼らは立ち止まることなく、ジョエルの先導に従った。

 大橋からさほどには離れていない場所に建つ宿へ、一行は案内された。そこは、この街で最も規模の大きな宿の一つであった。背の高い柵と見張りに守られた庭は、その外で騒ぎ立てる民衆を受け入れることはなく、石畳は整然と並び、花壇の植物は瑞々しい。高貴な客を迎え入れる施設として、申し分ない外観を備えている。

 彼らはその中の広い一室へと集まった。椅子に掛けた要人達の周りを、王の近衛やベルンの騎士達が囲む。

 ジョエルは深く息を吐きながら、背凭れへと身を預けた。「ベルンは大橋に頼り過ぎました」彼は言う。

 ルートヴィヒは膝の上で両手を組み合わせた。「元々、ここは大橋の管理の為に築かれた街です。橋に頼りがちになるのは仕方のない面もあるでしょう」

 ジョエルは溜息を吐く。「元通りになるのならば、それに越したことはありませんが。果たしてそれができたとして、何年掛かることやら」

「この件も皇帝陛下へお伝えします。古代建築に関しては、ヴィオールやリラの方が詳しい。しかし、橋の崩壊に伴う損害に対しては、我々の方で知恵を出して緩和するしかありません。あれはファーリーンのものですからね」ルートヴィヒは言った。

 大橋はヴィオールとファーリーン北部を繋ぐものだが、ヴィオール及びリラは作物の生産に向かない土地にあり、一方のファーリーンは農耕に適した広大な国土を持っている。食物のみならず衣類の原料生産も活発で、その点に於いて、リラとヴィオールはファーリーンに頼りきっている。そして、それらの品を輸送する際の要となる一つがエシュナ大橋だった。大橋はファーリーン領に属し、通行料を徴収していたが、船舶輸送に掛かる経費と比較した場合、距離や物量によっては、より低廉に済ませられることも多い。その手段が失われた以上、リラやヴィオールの人々の生活にも少なからず影響は出てくる筈で、皇帝や大公も黙して看過するわけにはいかないだろう。

 また、ファーリーンが徴収した通行料は、基本的には同国の軍備費に充てられることになっている。一部は橋の維持費として使用されるが、大規模な崩落等は想定されていなかった為に、これまでの徴収分から再建費を捻出することは困難だ。

 ジョエルは唸り、そして再び溜息を吐いた。

「さて、今後についてですが」ルートヴィヒは同行者達を見渡した。「二択です。クロエから船に乗るか、ヤーガを越えるか。意見を」

 ベルン近海は岩礁地帯だ。かつ、複雑で速い海流を持つ。その為、船での航行は難しい。この街の人々は橋の利用に慣れきっており、難しい航海を任せられる人員も、船もない。エシュナ大橋が渡れないということは、この街からヴィオールへ行くことを難しくさせる。もし船を用いヴィオールへ渡るのであれば、三日掛けて西へと引き返し、クロエから出港する必要がある。

「ヤーガを越えるよりは、船の方が安全かと思います」近衛騎兵長が言った。「ヤーガの山道は整備が行き届いているとは言えません。子供もおりますし、時間が掛かっても迂回することをお勧めします」

「あまり時間を掛けすぎるのはいかがなものでしょうか」反論するのは政務官だ。「クロエから渡っては、我々がリラへ到着するのは二週間以上後になります。既に先遣隊はヴィオールへと渡って、リラへも到着する頃でしょう。いずれ帝都にもエシュナ崩落の報は届くでしょうし、我々が遅れればその影響かと解釈してもくださるでしょうが、それとしても皇帝陛下をお待たせするのはいかがなものかと。そもそも、我々は少し急いでいた筈です」

「そのことですが」近衛がルートヴィヒを見た。「なぜ、ああも急に出立ということになったのでしょうか」

 一同の視線がルートヴィヒへと向かう。リディを発つという王の決定は唐突なもので、一行はさほどの準備期間も与えられなかった。

 ルートヴィヒは自らに集まる視線に対し、沈黙を返した。そして、「ヤーガを越えます」と短く言った。「体力のある者は、ない者を助けてください」

 急ぐ理由を、ルートヴィヒが答えることはなかった。しかし、それ以上に問い質そうとする者も、彼の決定に異を唱える者もいない。

 国王一行は、当初の予定では翌日にベルンを発つ筈であったが、山脈越えの準備を整える為に、更にその翌日へと出発を見送った。

 ベルンから馬で半日のところに、ファーリーンから帝都方面へ抜けるヤーガの山道入口がある。国王一行は見送りのヴィクトール、数名のベルン騎士と共にそこへやって来た。赤土が露出する大地に生える草は疎らで、木々は細く小さいもののみが自生している。渓谷に沿って流れる沢に隣接するように造られた山道は、利用者が少ない為に殆ど手入れもされていない。しかし、植物が生息しづらいということによって進路を遮るものもなく、見晴らしは良好である。

 国王一行は、山道入口で馬を下りた。馬達はベルンへと引き返す。道は起伏が激しい為、平原に適化している馬の脚には酷だと判断された為である。

 荷物を抱え、準備を行う国王らに対し、ヴィクトールもまた馬を下り、「お気を付けて」と強く念を押した。

 そして、国王一行は山道に踏み入れた。身軽な近衛が先行し、安全を確認しながら進む。

 帝都周辺は盆地で、その周囲の土地は円形に隆起している。その隆起部が“ヤーガ山脈”と呼ばれる。ヤーガ山脈のうちで、特に高い場所に山頂を持つのが次の五つである。東のギア(最も標高がある)と、北西のミュウン、南東のシーダ、北のラナ、南のリースだ。現在一行が歩み進んでいる場所は、左手側にミュウンを望む深い渓谷である。ヤーガ山脈の別名は“赤い山脈”だが、この赤い地質というものはリラ周辺の“赤き荒野”と呼ばれる盆地のものと同系である。酸化鉄を多く含む為に、赤く見える。だが、この土地に植物が生息しづらいのは地質の問題というよりも、気候の影響に因るところが大きい。赤き荒野の上空は厚い黒雲に覆われ、昼間であっても夜のように暗い。その低い黒雲は数千年か、或いはそれ以上もの長い時間、帝都の上空に存在し、本来そこに降り注ぐはずの陽光や、月光を遮り続けている。ヤーガ山脈は、その厚い黒雲が薄れゆく場所だ。帝都周辺の赤き荒野に雨が降ることはないが、このヤーガの地には時折小雨が降り注ぐ。それによって小さいながらも沢が生まれ、その周辺に原始的な苔が生えるのだ。

 雲が厚い為、午後も半ばになると辺りは暗くなった。休憩所として建てられたのであろう小屋までは到着したものの、全員が休める程の広さはない。その為、騎兵の半数は屋外で過ごさなければならなかった。月明かりも差さない為に、辺りは闇に包まれている。小さな蝋燭に火を灯し、一行はそれを囲んだ。

 簡素な食事を終えると、アルは早々に床へ横たわり眠りに就いた。フレデリックは小屋の隅に座り込んで靴を脱ぎ、脚を揉んでいたが、ルートヴィヒが傍らへやって来た為、靴を履き直そうとする。

「そのままで結構」ルートヴィヒは言った。「少し話をさせてください」彼はフレデリックの隣に腰を下ろした。

 フレデリックは靴を置き、姿勢を正す。

 ルートヴィヒは声を抑え、訊ねた。「君は魔道に興味がありますか」

 フレデリックは瞠目した。ファーリーン人は魔道に対して良い印象を持たない。彼は小屋の中心部で仲間との会話に興じるアレンに視線を向けた。しかし、アレンはフレデリックを見ない。フレデリックは視線を落とす。幾度か口は開かれるが、そこから言葉が発せられることはない。

「私は興味があるのです」ルートヴィヒは言った。「君はどうですか」彼は再び、抑えられた口調で訊ねる。

 フレデリックは深い呼吸の後、顔を上げた。薄く開かれた唇の間から、「あります」という細い声が発せられる。

 ルートヴィヒは翠の瞳を細めた。「君は勇気がある。それならば、同行してもらった理由を話しましょう」彼は言った。「我が国に、魔道の専門家が欲しい。君に協力してもらいたい」

 フレデリックは口と瞼を広げてルートヴィヒを見つめた。

「君の立場のこともある」ルートヴィヒは続ける。「例えば、王属騎兵団に魔道部隊が作られたならば、君は“王属騎兵”の肩書を持ったままで、能力を発揮することができるかも知れない。君は魔道司向きの体質のように見受けられますし、剣を取って扱うよりも、研究に勤しむ方が合っているのではないかと、思うことはありませんか。もし、そう思うのであれば、私は協力することができます」

 フレデリックの青い瞳が輝いた。しかし、それも僅かな時間であって、再び陰る。「自分に、そのような大役が務まるとは思えません」

 ルートヴィヒは頷いた。「現在のファーリーンで、魔道という学問に従事するのであれば、多くのものと戦わなければならない。王の命に従ったに過ぎずとも、君へと向く非難は避けられないでしょう。それに耐える覚悟は必要です」彼はフレデリックの肩に右手を置いた。「先ずはリラで、魔道に触れなさい。その上で、どうするか決めると良いでしょう。これはあくまで“提案”ですから、君がどうしたいのか、それで構いません」ルートヴィヒは立ち上がり、宙を見つめて沈黙するフレデリックを見下ろす。「今日は疲れたでしょう。こういった場所では休みづらいかもしれませんが、そろそろ横になりなさい」そして、ルートヴィヒはその場を離れ掛けた。

「陛下」フレデリックが顔を上げ、明瞭な口調でルートヴィヒを呼び止める。

 振り向いたルートヴィヒに見下ろされながら、フレデリックは一度深い呼吸をし、そして言った。「やります」

 ルートヴィヒは頷く。「ならば、リラ滞在では学びを得る努力をしなさい」

 フレデリックは背筋を伸ばした。フレデリックは騎兵の輪の方へ視線を向けた。アレンはフレデリックに笑みを向けていた。フレデリックもまたアレンへ笑みを返した。

 ヤーガに踏み入れ、四日目。ミュウンの頂の横を通過した辺りから、空はより暗さを増し、空気は冷え、鉄錆の赤も濃度を増した。人の手が加わったものといえば形の悪い山道以外にはなく、植物の生息する気配もない。昼夜の判断も付き難い空模様の下、一行がその日の休息地として選んだ場所は、南側が崖壁に面する広場だった。薪などを調達することができないため、一行は本日も蝋燭の小さな灯りでやり過ごす必要がある。

 円となって灯りを囲む一行の中、フレデリックはブーツを脱いだ。彼の足裏の皮は剥けていた。近衛の一人がフレデリックの方に近づき、彼の足を光に照らす。「これは辛かったろう」と近衛は言い、腰の物入れを漁った。彼は取り出した薬草を千切り、清潔な布片に少量の水と共に揉み込んで、フレデリックの足に充てがった。

 手当を受け終えたフレデリックは、感謝を述べてブーツを履き直した。

 辺りは静まっている。近衛騎兵長が低い声で、「陣を取れ」と言った。近衛達は速やかに王、フレデリック、アル、政務官を取り囲んだ。フレデリックは行動を起こす兵達の様子を口を開けて眺めていた。腰の剣に手を添えた近衛らは、暗がりの四方を睨む。

「気付かれたか」

 一同は南の崖上へ目をやったが、そちらは暗闇だった。だが、このとき空の黒雲が深く切り込まれ、間から青白い月光が差し込んだ。このヤーガの、特に赤き荒野に程近い場所に於いて、それは殆ど奇跡的なことである。

 崖上の者が、その高所から飛び降り、一同の目前へ着地した。月光に照らし出された姿は少年のもので、顔立ちは幼い丸みを帯びているが、曝け出された腹部や腕には筋張った肉が隆起し、肩幅は広い。厚い唇の間からは鋭利な歯が覗き見え、黄金と空色に縁取られた瞳孔の奥が煌めいた。

 近衛の一人が「半竜人か」と呟くと、少年は笑みを深めた。

「ファーリーンの王様はこの中にいるのか」半竜人の少年が訊ねた。

「私です」ルートヴィヒは、少年から大股で五歩分の距離のところから名乗り出る。

「流石、躊躇わないか」半竜人の少年は一歩進み出て、ルートヴィヒの翠の瞳を覗き込む。彼は眉根を寄せ、「おっかない目をしていやがるな」と呟いた。そして二歩下がった。彼は帝都方面に続く道へと目を向ける。

 近衛達は少年の視線を追った。帝都方面の道はここまでと同様、崖壁と岩、乾いた土と砂によって成る光景だが、近衛達の表情は険しさを増す。

 半竜人の少年は帝都方面を見つめたまま、溜息を吐いた。「腰抜けどもが。怖気付きやがったか!」彼は怒鳴った。

 潜んでいた者達が叫びを上げながら姿を現した。数はおよそ三十。剣を振り翳す彼らの衣装は粗末で、不揃いだった。近衛達は陣形を変え、襲撃者らに対峙する姿勢をとる。

 半竜人の少年は、未だ向かい合うルートヴィヒに笑みを向けた。「可哀想な奴らだよ。相手してやってくれ」そう言い、彼は近場の岩上に跳び乗った。

 近衛達と襲撃者らの剣が衝突し、金属音が鳴り響いた。

 ルートヴィヒは前線を一瞥する。「全員生かして捕らえよ」

 王の命令に、近衛達が了承の返事をした。しかし、近衛に対して襲撃者の数は多く、次第に陣形は崩れていく。襲撃者のうちの何人かはルートヴィヒの元まで辿り着き、剣を振り翳した。しかし彼らの攻撃はいなされ、却ってルートヴィヒに打ち倒されて拘束された。敵味方が入り乱れ始めると、子供達を後退させるように近衛騎兵長が指示した。政務官がアルとフレデリックを伴い、戦線から離れた。

 半竜人の少年が口角を上げる。彼は岩から下り、子供達と政務官の方へと近付いた。政務官が前へと進み出て、護身用の短剣を構え、二人の少年を背に庇って立った。フレデリックも腰の剣を抜いた。

「貴様達の目的はなんだ」政務官が硬質な口調で訊ねた。

「その少しだけ小さい方の奴を、渡して欲しいんだよ」半竜人の少年は、政務官の背後に庇われる二人の少年のうち、アルの方を示し言った。

「彼が何者なのか、貴様は知っているのか」政務官は更に訊ねる。

「いいや」半竜人の少年は首を横に振る。「俺も、言われたことを従順にやっているだけだからさ。詳しいことは知らん」

「突然に襲ってくるような相手に、引き渡すことができると思うか」政務官は少年の要望を拒否した。

「あいつらのことか」少年は背後で暴れる多数の襲撃者達を示し、そして肩を竦める。「あいつらの目的と俺らの目的は同一じゃない。俺は何もしちゃいないだろ」

 政務官は依然として少年を睨み続ける。

 半竜人の少年は溜息を吐いた。「素直に従ってくれるならな、何もしなかったよ」彼は腰の背面に取り付けられた武器を外し、右手に提げた。それは両端が鉤爪状に湾曲した刃物で、持ち手は中心部にある。全長は少年の腕程だが、湾曲部分を引き伸ばせばその倍の長さにはなるだろう。厚い鋼製らしく、相当な重量と見受けられる。

 半竜人の少年が武器を振り翳しながら大地を蹴り、政務官は身を竦め目を瞑る。そこへ一人の近衛が飛び入り、少年の攻撃を防いだ。

「ヘルムート様」と、政務官は緩んだ表情でその近衛の名を呼んだ。ヘルムートは先代王の時代から仕える、最も歴の長い近衛である。

 半竜人の少年は舌打ちをし、それから猛攻を繰り出し始めた。近衛の剣は決して脆い造りではないが、少年の厚い武器と無闇に衝突した場合、確実に折れるだろう。だが、ヘルムートは受け流し続ける。一方で攻勢へ出ることは難しいらしく、彼の表情は次第に険しくなっていった。

 少年が身を翻し、ヘルムートへの攻撃を止めた。彼が自身の首元に翳した左腕は深く切り込まれている。ヘルムートの援護にやって来たのはアレンで、少年の腕へ十分に刃を食い込ませた彼は、再び剣を振るった。それに対し半竜人の少年は、先までヘルムートを襲っていた右手の武器で対応した。アレンの攻撃を受け止めた彼の左腕はおびただしく出血している。

 その間に、ヘルムートは半竜人の少年から距離を取り、呼吸を整えていた。半竜人の少年もまたアレンの剣を強く弾き、近くの岩に跳び乗る。彼の口元は歪み、眉根は寄せられている。「二人掛かりは困るな」と、彼は言った。

「多勢を連れて襲ってきたそちらが言えることではないだろう」アレンは硬質に応えた。

 半竜人の少年は口角を上げる。「全く、その通りだな」彼は共にやって来た者達の方へと目を向けた。彼らは未だ騎兵達を手間取らせている。少年は視線を前方へと戻す。彼の右手側にヘルムート、左手側にアレンが立つ。三人の立ち位置は正三角を描き、ヘルムートの背後約七歩の場所に政務官と少年二人が佇んでいる。

 少年は短く息を吐くと、武器を投擲した。重い刃は回転しながらヘルムートへと向かう。この時ヘルムートが取った行動は、迫り来た刃を自身の剣で防ぐことだった。しかし、半竜人の少年が投げた武器と衝突した騎兵の長剣は、激しい音と共に折れた。体の前に構えていた腕は衝撃で弾かれ、脇へと広がる。ヘルムートが胴体を無防備に晒した瞬間、既に接近していた半竜人の少年はそこへ蹴りを打ち込んだ。ヘルムートは政務官らが立つ傍の崖壁まで飛ばされ、背を強打し、吐血して動かなくなった。

 アレンが半竜人の少年を追い、背後から斬り掛かった。しかし彼の剣は、振り向いた少年の手によって握られる。掌に刃が喰い込み鮮血が流れ出るが、少年は力を緩めない。アレンが両手で押し込もうとする剣を、半竜人の少年はその傷を負った片腕で脇へと押しやるのだ。幼体とはいえ半竜人ならば、その力は鍛えられた人間の成人男性のものを凌ぐ場合がある。アレンは剣から手を離し後退した。だが、少年は幼体の敏捷性で以って、素早い反応を示した。彼の右肘がアレンの胸の中央に当て込まれ、鈍い音と乾いた音が同時に鳴る。アレンは呻き、二歩後退した後、膝を突いた。

 フレデリックは叫び、アレンの元へ駆けた。半竜人の少年はそちらには一瞥を与えることもなかった。政務官は目を見開いた状態で佇む。

 半竜人の少年は、先程投擲し赤い大地に落ちた自らの武器を拾い上げた。「あまり手間取らせるんじゃねえよ。死人が増えるぜ」彼は鋭利な歯を噛み合わせながら言った。

 政務官は尚もアルと半竜人の少年の間に進み出たが、金の瞳に睨まれると後退あとずさった。

 半竜人の少年がアルへと手を伸ばす。アルは逃げようとしなかった。だが、少年の手がアルに触れ掛けたとき、少年は打ち倒された。政務官が「陛下」と声を上げる。

 ルートヴィヒは、うつ伏せに倒れた半竜人の上に乗り上げていた。双剣を少年の首元と右手に突きつけ、左足は少年の負傷した左手を踏み付けている。右膝が脊椎を圧迫し、少年は息を詰まらせた。

「その利き腕か、脚か、壊す必要がありそうですね」ルートヴィヒは平坦に言った。

 少年の表情が歪む。彼の傷ついた手がヤーガの大地を下敷きに潰され、赤砂と血液が混ざる粘着質な音が鳴る。「冗談じゃねえぞ」半竜人の少年が噛みしめた歯の隙間から吐き出した。

 少年の左手が鮮血を散らしながら宙へ投げ出された。ルートヴィヒの脚は弾かれ、少年が彼の下から抜け出す。しかし少年が体勢を立て直すより先に、ルートヴィヒは剣を振るった。少年は退くが、その体には傷が付いた。少年が武器を振るう暇を与えることなく、ルートヴィヒは双剣を繰る。薄い月光の下、二つの影は断崖へと迫った。これ以上には後退することができない位置まで追いやられた少年は歯噛みし、ルートヴィヒを睨み、崖から飛び降りた。

 ルートヴィヒは崖下を見下ろす。彼は暫ししてから、政務官の方へと歩み戻った。「逃げられましたね。できれば、彼も拘束したかったのですが」激しい動作の直後であったが、ルートヴィヒの呼吸は一切乱れていなかった。

 暫し見開いた目で王の姿を追っていた政務官だが、肩を跳ねさせ「ヘルムート様」と叫んだ。彼はヘルムートの傍らに膝を突く。

 そしてルートヴィヒはアルの隣に立った。アルはルートヴィヒを見上げ、二人は無言で見つめ合った。

 半竜人の少年に置き去られた襲撃者達も、やがて全て捕らえられた。三十二名だった。逃亡を謀った者もあったが、近衛達はそれを許しはしなかった。襲撃者らも含め、大きな怪我を負ったのはヘルムートとアレン、そして逃亡した半竜人の少年の三人で、襲撃者らの中には特段負傷者はいない。

 ルートヴィヒは近衛にアルを預け、襲撃者達に近づく。そのうちの一人に、彼は声を掛けた。「貴方がたは、どこの者ですか」

 話し掛けられた若者は、ルートヴィヒから目を逸らす。「答えろ」と近衛に身を揺すられると、顰めた顔で答えた。「ザナブ」と。

 ルートヴィヒは頷く。「貴方がたの狙いは私ですね」

 ザナブの若者は「そうだ」と言った。

 ザナブとは、ファーリーンと争いがちな隣国フォルマ王国との境目にある街で、かつてはファーリーン領であったが、現在はフォルマ領となっている。それに際し、ヘザーという都市名もザナブに改められた。百年ほど前のことである。

「あの少年とは、どういった関わりがあったのでしょうか」ルートヴィヒは若者に訊ねたが、若者は肩を竦めるだけだった。ルートヴィヒは捕虜となった若者達を見渡し、「貴方がたには、リラまで同行してもらい、そちらで詳細を伺います」と言った。そして彼は背後を向いた。

 先程フレデリックの脚の手当をした近衛がアレンの傍らにいた。アレンは布を噛まされている。近衛は数を数え、勢いを付けてアレンの上半身を捻った。アレンが呻くのを、フレデリックが瞳を潤ませながら眺めている。

 そして、ヘルムートは政務官と一人の近衛に見守られていた。彼は夥しい量の血液を、鼻や口から溢れさせている。呼吸も困難な様子である。

 ルートヴィヒはヘルムートの方へと歩み寄った。見守る二人が退き、ルートヴィヒはヘルムートの前に片膝を突く。ヘルムートは目を開け、ルートヴィヒを見た。彼は浅い呼吸を何度か繰り返した後、尚も右手に握られ続けていた、折れた剣を差し出した。

 ルートヴィヒはヘルムートの差し出された右手を握った。そして言う。「ここまで、良く尽くしてくれました」彼はヘルムートの折れた剣を受け取り、傍らの近衛に渡した。そして双剣の片割れを鞘から引き抜く。

 ヘルムートが瞳を閉じる。ルートヴィヒは両手で剣を握り、ヘルムートの首を断ち切った。

 彼らはそれから二日半歩いた。ヤーガの岩壁は途切れ、先は開けた。彼らの行く手には赤褐色のヤーガの岩肌よりも鮮明な“赤”が広がっている。彼方に望める帝都リラの塔は、幾重にも重なり合う巨大な魔法陣を頂きながら、黒雲を貫く程に高く聳える。闇色の中に浮かび上がる白は、古代の魔道によって生かされてきたものだ。

 そして、それを抱く広大な“赤き荒野”へと、彼らは下りて行った。

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