――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

第八章
魔聖の白

   魔聖の白(1)

 リラの白塔は、黒雲の向こう側を指し示すようにそびえ立つ。太古の時代より変わりなく輝き続ける法陣の光が、淡く人の世を照らしあげる。ときに“聖剣”とも、“神体”とも例えられてきたこの塔は、今となっては解明することのできない無数の魔道術によって成る。足もとでは人間たちが営む生活が街を形成し、広大な帝国の都として二五世紀もの間在り続けてきた。

 今生の君主は、この神秘の塔を人型じんけいに象ったが如き容貌を持つ。すらりとした肢体は無機質とも感ぜられる白さ、坐すれば足もとへ広がる流麗な白髪、双眸は古の魔道の色を湛える。かれの造形の美しさは浮世離れし、印象はいっそ不気味でさえある塔そのものである。

 牢もまた、気を狂わせかねないほどの一面の白色であった。精神は孤独に飲み込まれ、肉体は白に解けていく。

 青年は長い間、白い壁に背を預け、うつむき、瞼を伏せていた。耳の奥で血潮が轟いている。彼は意識のありかを見失い、しばしばこの一面の白と一体化した。その都度に、己の姿を見下ろした。時は無意義に流れゆき、とめどなく押し寄せるのは先への不安ではなく、過去の虚しさばかりであった。

 彼は“ジーメオン”という名を与えられた。彼の生まれた辺境の地は、かつて祖国に見捨てられた場所であり、また母国の愛を授かることもない。青年は、無力に死にゆく人々を見送りながら生きてきた。母は幼い息子を残し、はびこった病になすすべもなく、美しい身を腐らせながら息絶えた。父の所在は不明で、顔を見たことも、母の生前に話題に上がることもなかった。だが、己の容姿を顧みれば、リーンの男でないことは容易に想像がつく。

 三世紀前にファーリーンより切り離されたヘザーは、ザナブと名を変えてフォーマの一部となった。しかし、ザナブの民に人としての権利は与えられていない。祖国ファーリーンとの関わりは強く制限され、子供たちは暴力的に生まれ落ち、今や、ザナブの民に残されたリーンの面影はわずかである。

 しかしながら、青年の母は純血のリーン人らしい白い肌を持ち、淡く輝く金の髪と、空を映し出す青い瞳をしていた。にもかかわらず、青年の手は母とは似つかぬ浅黒い色をし、髪は濃い褐色だった。それらが視界に入るたびに、青年は自らの父が母にとってどういった存在であったのかを案じた。

 青年は母国に失望し、祖国を憎んでいた。リーンの血は、彼の内にたしかに受け継がれている。しかしそれゆえに、手を差し伸べることのない祖国への憎悪は募っていくばかりであった。

 彼の回想は、突如浮かび上がる赫い波紋によって遮られた。波紋は身体を断じ、鮮血の色は無限に拡がっていく。まもなくして意識が呑み込まれた。生者の色彩に溺れる。

 赫は迫り来て、微笑んだ。苦痛の証たる子をも愛した、偉大なる母の気配を漂わせながら。そして彼の意識を穏やかに宥め、縋り付く間も与えずに彼方へ流れていった。

 殿下、という若い魔道師の呼びかけで、クレメンスは我へと返った。瞳が重く、視界はちらついている。体調を気遣う魔道師に、リラの第二皇子はかろうじて笑みを見せた。陽の光にあたることのない白い肌が、幾分か蒼白さを帯びている。

 純白の床に横たわる痩せた青年は、魔道術によって深く眠らされていた。陽の光に灼かれた髪と肌は、萎えそうなほどに乾いている。

 皇子は一つ、深呼吸した。気遣わしげな魔道師に対し、かれは一言、「鍵が掛かけられている」と告げた。魔道師が瞬きをする。皇子は痩せた青年を見下ろしたまま、再び沈黙した。

 アルディスの皇帝たるヴァイスは微笑を浮かべている。「手の込んだ事をする者がいたものだ」かれは穏やかな表情のままで、クレメンスへ視線を向けた。「おそらく無茶な上塗りをされたのだろう。これを引き剥がすのは難しい。境い目というものはひどく曖昧なものだからな」

 クレメンスは口を引き結び、小さく頷く。

 ヴァイスは横たわり眠る青年――ジーメオン――を見下ろす。「当人に説明はしてあるのか」

 クレメンスは苦い顔をした。「一応は。しかし抵抗したので、術で眠らせました」

 ヴァイスは肩を竦めた。「手荒になってしまったな」

「できればそうしたくはなかったですよ」クレメンスは悲しみとも不満とも、またはそれらが入り混じったらしい口調で返した。

 ヴァイスはゆったりと頷く。「知っているよ。させたのはわたしだ」

 クレメンスは曖昧に視線を伏せた。かれは皇帝の命によって、ジーメオンへの記憶解析術を施行した。しかし、青年の記憶には、何者かによって一部が曖昧に歪められている形跡があった。魔道術による記憶操作を受けていることが皇子にはわかったが、それを解除することはかれにとって難しい。記憶に関する領域は、いわゆる“幻術”の系統であり、クレメンスよりも皇女の方が得意とする領域である。しかしまだ若い彼女が記憶解析を行う相手は、幼い子供である場合がほとんどだった。多くは、過酷な光景を見なければならないことが明白な場合に、周囲が良しとしないのである。そのため大抵の場合はクレメンス皇子や、ヴァイス皇帝が施術していた。

 ヴァイスは左手をかざす。白を飾り立てる宝飾品、手首からしなだれる小さな石たちが、涼やかな音をたてた。皇帝は低く、囁くようないにしえの言葉を紡ぐ。ジーメオンの胸元から、精霊文字が浮かび上がった。

 やがて皇帝のの詠唱は止まり、光があらゆるものをすり抜けながら舞うようになる。ジーメオンの体から溢れ出る無数の精霊文字は、彼の上に大小様々な魔法陣を形成していった。

 クレメンスは両手を握りしめ、身を固くしながらその様子を見つめていた。帝国で最も優れた魔道士とされるかれであっても、実用段階まで完成させることは困難である太古の術。それを、ヴァイスは易々と成してみせる。

 ヴァイスは蒼い瞳の瞳孔をほそめ、整列してゆく光を見つめていた。しかし、意識のないジーメオンの表情がわずかにこわばったとき、皇帝は一つの精霊語を呟く。その瞬間、無数の精霊文字とそれによってつくられた魔法陣と光は収縮し、瞬く間にジーメオンの中へ戻っていった。室内は静まり返る。

「難しいな」ヴァイスは短く言った。

 クレメンスは沈黙したまま、皇帝の表情を伺う。幻術は元来繊細な分野だが、ヴァイス皇帝の口から「難しい」という言葉が発せられれば、状況がことさら複雑であることを示す。

 ヴァイスはジーメオンを見下ろしながらも、彼の姿の向こう側へと視線を向けている。「術の形式はわたしに近いようだが」かれはどことなく曖昧な様子で言った。

「古代術式ということですか」クレメンスがかすれ気味の声で訊ねる。

 ヴァイスは頷く。「わたしの知人が関わっている可能性は高いな」かれは細い指で白髪を梳いた。「もしその者のうちのいずれかであれば、エシュナを壊すこともできただろう。まあ、かれらのなかでそういったことをしそうな者は一人だが」

「その人は、どういった……」クレメンスが控えめに訊ねる。

 ヴァイスは目を細めた。「名はいくつかあるが、わたしは“ルベウス”と呼んでいた」

紅石ルベウス?」

明星シャールの兄弟だな」

 手のひらを上へ向け、ヴァイスは言った。クレメンスは天体図を頭の中で広げる。隣の恒星系を公転する惑星のひとつが“ルベウス”である。ルベウスと名付けられたものは多く存在するが、その人物は天体から「ルベウス」を借りたのであろうと、クレメンスは解釈した。

「一体なにが目的でそのような……、エシュナにしても――」クレメンスはジーメオンを伺う。「彼のことにしても」

 ヴァイスは再び目線を遠くした。ゆったりとした間をおいてから、かれは首を傾がせた。

 皇帝が立ち去ってから、クレメンスもまた牢をあとにした。ジーメオンもいずれ覚醒するだろう。暴かれた記憶を消してやることはできたが、クレメンスは敢えてそうしなかった。

 かれは〈魔道師の巣〉へと足を運んだ。クレメンスの肩書きは魔道士だが、優れた研究者でもある。これほど魔道士向きの体質でなかったら、かれは迷わず魔道師の道を選んでいただろう。

 〈魔道師の巣〉は相変わらずの様相で、会話は少ないが喧しかった。みな、それぞれの課題を自らに課し、各々の世界に入り込んでいる。

 最奥の定位置にクラリス皇女がいた。先日研究に一段落付いた彼女は二日間昏睡し、目覚めた今はどこか気の抜けた表情で水晶管を見つめている。その横で、ルーカス皇子が自分の机を片付けている。彼は研究室よりも蔵書層にいることが多く、こちらへやって来ることは少ない。ルーカスの席は皇女の隣にあり、本人の気も優しいために甘えられ、机は常に物置だ。たまにやってくる彼は、毎回使い物にならない机を綺麗にすることに時間を割かねばならない。

 クレメンスの机へは、さほどの被害は及んでいない。かれが自分の席に座ると、ルーカスが顔を上げる。

「ねえ兄さん、片付けるの手伝ってくれないかな」

 クレメンスは微笑を返しただけで、何も言わなかった。かれは本を広げて、目を通し始める。

「クラリス、次はなにするか決まってるの?」クレメンスが隣で頬杖をつく妹に訊ねた。

「続きよ」彼女は端的に答えた。「最終目的は神経系の外的補助だから」

「そうそう、伝達物質の可視化に成功したんだって。さすがだね」

「まだほんの一部よ。中枢部はずっと複雑になるから、まだ時間は掛かりそう」

 ルーカスは兄にほとんど無視されたためにむくれた。彼は黙って手を動かすことに専念すると決めたらしい。

 クレメンスは、古代魔道術に関する研究を好んでいる。古代術式は難解だが、効率がいい。魔道士としても非常に興味深い分野である。

 古代魔道術は上級属性を中心に据え、下級属性を補助的に用いるという形態である。求める効果に応じて、適切な属性選択がされる。下級属性を組み合わせ、ときに上級属性に近い効果を上げることを狙い、却って複雑化してしまう現代魔道術とは対照的だ。

 ルーカスの机がきれいになった頃、〈魔道師の巣〉へ新たな訪問者があった。白い装いに鮮やかな髪色が映える女性は、皇妃カミラである。彼女の動作は優雅であり、同時に老いを感じさせない軽快さをもつ。

 まず彼女の存在に気がついたのはルーカスで、彼は「カミラ様」と口にした。つられてクラリスとクレメンスが顔を上げ、「お母様」或いは「母上」と言った。カミラは柔和な笑みを浮かべる。

 長兄エルンストと三男のルーカス、次男のクレメンスと長女のクラリスは、母親が異なる。クレメンスとクラリスの母はカミラであるが、エルンストとルーカスの母は“イリス”という女性だ。イリスはヴァイスの実の妹であったが、リラの皇族の慣習に則った関係を築いた。イリスは二十年前に亡くなっているため、クラリスは彼女との面識がない。

 元々、カミラは子供たちを特段区別することはなかった。若い頃に身を置いていたシークの環境や慣習に影響を受けている部分は大きいだろう。だがイリスが亡くなったあと、彼女はそれまで以上に遠慮をしなくなった。彼女はイリスからは好かれていなかったが、その子供たちからはよく懐かれていたため、実母を亡くした二人の少年はカミラに悲しみを預けた。

「クレメンス、地下室がもうすぐ空くそうですよ。いえ、もう空いたかもしれません」カミラは三人の近くまでやってきて言った。

 クレメンスは瞳を瞬かせた。「ああ……、ありがとうございます。番の者に通信してもらえるよう伝えておいたのですけれど」かれは腕飾りを撫でた。

「その人を責めないでね」カミラは微笑む。「わたくしの散歩に付き合わせてしまっただけだから」

「はあ、そうですか」クレメンスは気の抜けた笑みを浮かべた。

「魔力解放?」クラリスが訊ねる。「久しぶりじゃないの」

「最近はひと月ごとくらいかな」クレメンスは何枚かの紙を手に取り吟味する。

「なんだ。もう半年くらいやっていないのだと思ってた」クラリスは興味をなくしたように水晶管へ視線をもどした。

 ルーカスが背後の書棚から取り出した魔道書を広げ、呟くような声で言う。「クラリスはいつも研究に夢中だから」

 クラリスは片眉を動かした。

 準備を終え、席を立つクレメンスの姿をルーカスは目で追う。「あまりやりすぎないようにね」

 ルーカスの忠告に、クレメンスは「はあい」と間延びする返事をした。

 地上から二階層分の空間をおいて展開されるリラの地下階層は、三重の密閉可能な出入り口がとりつけられた広大な部屋に占められている。そこは主に危険性の高い魔道術の実験に使用され、地下室に充満する術の残骸は、生身の身体へ少なからぬ影響を与える。そのため、入室の際は防護魔法を自らに施すことが決められている。

 入口で常に待機している見張りの者は、利用の手順を毎回事務的に解説する。幼少期から定期的に地下を使用してきたクレメンスに対しても、その儀式は例外なく行われる。

 クレメンスが研究者ではなく魔道士となった理由は、生来の“体質”に依る部分が多くを占める。すなわち、内包する魔力の質と量が、あまりにも人並み外れていたのだ。その類まれな力は破滅的なものともなり得、制御能力が身についていなかった子供時代、かれはその力を持て余し、不随意に溢れ出させることが頻繁にあった。

 研究者としての一面を持つかれは、自らのための魔道具を設計した。装飾品の形に作り上げたそれを常に身に着けることで、際限なく湧き上がる魔力を微量ずつ体外へ放出するのである。のちにクラリスが改良を施し、力を使い切った魔石に魔力を充填できるようになった。それでも、魔道具の働きはクレメンスにとって十分なものとは言えず、決壊までの猶予を延ばす以上のことはできなかった。

 だが、現在のかれはこの魔力開放の儀を新しい魔道術を試す機会と捉えている。とうに暗唱できる地下室の利用解説を聞き終え、設置された魔道盤から防護魔法を受ける。念を入れてその上へ更に防護術を施し、かれは三重の扉を通っていった。

 扉が完全に閉じれば、室は暗闇に包まれる。破壊的な魔道術が常日頃実行される空間では、魔道灯は設置したところで容易に破損する。光は必要に応じて作らなければならない。クレメンスは右の腕輪を媒体にして、光源を生む。そして研究室から持ち出した古代魔道術式を広げる。

 かれは火の魔道術を得意としているが、火の魔道術は魔力の消費が激しいために、魔力開放で積極的に使用していた結果かもしれず、その点も含めて生来の相性の良さがあった為かもしれない。

 火は下級属性のなかで最も光に近く、共通点も多い。つまり、最も上級魔道術への応用が利きやすく、そこから古代魔道術の形態へ変換することも比較的容易と言える。

 クレメンスは精霊語の発音を小さく口ずさみ、確かめる。何度か繰り返し自信を得ると、術式の記された紙を懐へと仕舞った。

 かれはこれから、光の魔道術を試みる。古い書物には“星の輝きの再現”とあった。非常に断片的で不完全な術式を、クレメンスは時間を掛けて解読した。かれが紙面上で受けた印象と、それによる予想では、火の魔道術を大きく上回る熱が放出されることは確実だった。

 光を操るためには闇を理解しなければならない。二つは表裏一体であり、両極であり、限りなく同一に近い存在だ。決して切り離すことはできない。クレメンスはまず、光の魔道術の威力を中和するために、闇の魔道術を部屋に張り巡らせた。広大な部屋の六つの地点から闇を放つと、室内の暗黒は濃度を増した。

 クレメンスは準備を終えた。かれは一つ、肩を軽快に上下させて短い息を吐いた。目蓋を伏せ、精霊語を紡きはじめる。詠唱に乗せて、慎重に栓を緩めながら魔力を放出する。

 目蓋の向こう側が輝きだす。数種を重ねて施した防護魔法を経ても、熱気は肌に迫る。かれは目蓋を上げた。

 強烈な光が広大な部屋の全貌を照らしていた。闇は隅に追いやられている。クレメンスは自らの体内で淀みはじめていた魔力が、かつて感じたことのない凄まじい勢いで消費されてゆくのを感じていた。それは一種の爽快感を伴う。

 そして、かれは周囲を見渡す。明度は、かれが人生で数度だけ拝した太陽ソールがもたらすものと酷似している。

 かれは小さく、「星の輝き」と呟いた。

 頭上の白天井が赤らむ。赤褐色から橙色に変化しながら拡大する美しい円に、クレメンスはわずかな時間意識を奪われた。かれは我へ返り術を中断する。対の魔道術にのみ込まれ、激しい白熱光は息絶えた。室内は再び、静寂の闇に包まれる。

 クレメンスの鼓動は激しく打ち鳴っていた。浅い呼吸を繰り返しながら、かれは床へ膝をつく。熱の色が薄れていく天井から、視線は釘を打たれたように離れない。リラの壁、それも地下室の建材が熱で変色するなど初めてのことだった。これまでリラの白色は、いかなる仕打ちを受けたとて顔色を変えることはなかったのである。

 呼吸を繰り返せど、クレメンスの鼓動は慌ただしいままだった。精神は慄き、体は爆発的な魔力の放出により激しく疲労している。

 世界中を探しても、リラの地下室ほどに堅牢な場所は滅多に存在しないだろう。術が放たれたのがこの場でなかったとしたら、今の僅かな時間で一体どれほどのものが燃え尽きたであろうか。或いは、“燃える”という過程さえ経ず、瞬く間に消滅していたのかもしれない。

 クレメンスの細い肩が震えた。恐怖心と好奇心の入り交じる思いが、胸から溢れようとしている。遠い過去の時代、これほどの魔道術は当たり前に存在していたのである。

 かれは言葉にも、声にもならない感情を、喉の奥で鳴らした。

   魔聖の白(2)

 リラ最上階〈奉呈の間〉、その直下層は〈天空の間〉と呼ばれる。〈奉呈の間〉は皇帝であっても容易には立ち入ることのできない聖域だが、〈天空の間〉は皇帝と後継者に制限なく開け放たれる。

 〈天空の間〉もまたリラの例に漏れず一面の白色で、魔道の光は薄く落とされていた。広大な部屋の中心には半球状の魔道盤が設置され、放射状の光を放っている。天井を覆うように広がる藍色の半球膜は淡く透き通り、大小様々な光点を映し出し、見事な星空を形成する。暗雲に天を覆われたリラの地であっても、魔道はその向こうに広がる正確な天体図を示すことができる。

「そろそろ目視も可能になる頃合いでしょうか」魔道盤の台座にもたれ、天上と手元で視線を行き来させながらエルンストが言った。

 ヴァイスは満天を見上げ、「ふむ」と相づちを打つ。「ずいぶんと近づいたな」

 エルンストは、今しがた写し取った図面と、七日前の日付けが記された図面を重ね、いくつかの星々を線で繋いだ。その線の角度や長さを測り、書き留めていく。彼は再び空を見上げ、筆先で星をたどる。そして新たに目印となる天体を加え、書き物を置いた。

「やはり五百三十日程度ですね。リラの真上に昇ったときに、紅星ルベウスは最も接近します」

 ヴァイスは頷いた。かれは薄い笑みを浮かべ、細い指を顎に沿わせる。「〈奉呈の間〉には、ルベウスに関する記述があるのだが、あれはこちらに近づくとき、土産を持ってくるようだ」

 エルンストが端正な眉をひそめた。「……それはまずいのではありませんか」彼は半球膜を見上げ、未だ中点とは離れた紅い光を見つめる。

 ルベウスの主星は明星シャールと呼ばれ、太陽ソールと満ちたアルブスに次いだ光度をもつ。ルベウスが中点に重なったとき、その向こう側には明星が並んでいることであろうが、明星の光はルベウスによって遮られ、この地上には届かない。そのときリラの真上で輝いているのは、太陽ソールの光を反射した紅星ルベウスだ。

 エルンストは嘆息した。「いずれあの星は太陽ソールの力に捕らわれてしまうのかもしれませんね」

「そうだな。元々ルベウスに対する明星のちからは弱い」ヴァイスは瞳をほそめた。「それに、太陽ソール明星シャールは引きあっている。かれらは少しずつ近づいているのだ」

「それも〈奉呈の間〉に?」

 ヴァイスは曖昧に笑んだ。「たぶんな」その言葉を言い終えるか否かといったとき、かれの蒼い瞳の瞳孔が鋭利に細まった。

「いかがなさいました」エルンストは皇帝のわずかに変化した気配を感じとり、訊ねる。

 彼方に焦点を合わせていたヴァイスは、常の穏やかな雰囲気を纏いなおし、案じ顔のエルンストを見返した。「噂をすれば、というやつかな」

 フレデリックは頭を抱え、アルベルトは手の甲を掻いた。二人の少年が佇むのはリラ北西部〈赤の都〉の内であるが、共にここまでやってきたはずの大人たちの姿を視界に捉えることができずにいた。

 好奇心旺盛な二人にとって、リラの街並みは魅力に溢れていた。しかし、もともとが魔道に対して好意的感情を持ち合わせない王属騎兵の大人たちは、少年たちのように歩を止めて魔道の片鱗に魅入るということはなかった。次第に彼らの間隔は開いていき、ついには互いの姿を見失うまでに至ってしまった。

 分断を引き起こした決定的な品は、魔道式時計であったろう。八又に分かれる通りの中心に設置された台座上の時計は、天地に水平面を向けた円盤の形をしており、中心部には正円の鏡がはめ込まれている。その鏡の輝きは、月の満ち欠けと連動しているのだと、通りがかりの老爺が解説していった。このリラ上空を覆う黒雲の向こうで輝いているであろうアルブスを、この円盤はうつしだすという。また、時計の背景色はゆっくりと変化し、昼は薄青、夜は藍色になるとも。円盤のきわには十二個の記号が割り振られ、大小三種のわずかに浮遊する球体が、“鏡の月”を中心として、同心円を描き回転している。最も内側の小さな球体の動きはすばやく、やすらかな心音六十回程度の間に同じ記号へ回帰する。二番目の球もまたごく僅かずつ動いているのが確認できるが、最も外側を回る大きな球体は、眺めている限りでは静止しているように感じられた。

 この魔道式時計が、フレデリックを完全に魅了してしまった。そして、どうやらアルベルトもそうであったらしい。

 自らの不注意で逸れた以上、自分から合流する努力をするべきだ、という考えと、不用意に動き回ってはかえって事態を悪化させてしまう、という考えが、フレデリックの中で争っている。何度か、アルベルトを待機させて通りを探索してみたが、奇妙なことに有意な情報が得られない。大人たちは間違いなく、この八つの通りのいずれかに進んだはずであるのに、リラの住民は彼らを見かけていないと言う。彼らはどちらかと言えば、目立つ集団であるにもかかわらず。

 刻々と時間が経つにつれ、フレデリックの不安は増していった。アルベルトは魔道式時計の台座に背を預けて座り込み、危機感などはまるで感じていない様子だ。フレデリックは天を仰ぐ。彼方で輝く巨大な魔法陣の薄紅が、穏やかな光を注いでいる。

「もし、坊っちゃん」

 その声にフレデリックは跳ねた。彼は驚いた勢いのまま、声の在り処を振り返る。

 彼の真後ろに佇むのは黒い人影。顔の位置はずいぶんと高く、振り向いたフレデリックが初めに見留めた場所は胸の下であった。視線を上方へ移動させれば、白い端正な顔がある。“かれ”は微笑んでいた。

「私のことを、覚えておいでですか」低く、深く響く声で、かれが訊ねる。

 フレデリックは瞠目した。必要以上に白く塗られた顔立ちは、寒気がするほどに整っている。人並みから頭一つは飛び抜ける長身と、長く艷やかな黒髪をもつかれは、男性的とも、女性的とも感じられる気配をはなっている。

「イーロン――」

 黒い衣装で指先まで覆ったかれが、黒が縁取る赫い瞳を細めた。

 フレデリックは大きな目を頻りに瞬く。「どうしてここに?」

「観光です」イーロンは穏やかに答えた。

 フレデリックは笑い声をもらした。「ああ、前に会ったときもそう言ってたっけ。全然変わってないんだね。七年経つのに」

 イーロンは微笑む。「見た目ですか? 化粧でごまかしているだけですけれども」そう言ったかれは、フレデリックの背後を伺う。

 フレデリックは背後の少年の名を呼び、再度イーロンの方を向く。「彼はアルベルト――、いや、話すと長くなるんだけれど……。みんなそう呼んでる」

 イーロンは頷き、アルベルトへ歩み寄った。腰をかがめ、濃紫と琥珀色の混ざった丸い瞳を覗き込む。かれは薄い唇を弧にした。「イーロンです」そう言って、黒手袋に覆われた右手を差し出す。

 しかし、アルベルトはしばらく反応しなかった。彼はただイーロンの赫い瞳を見つめ返すばかりで、しびれを切らしたフレデリックが促すように名を呼び、ようやく右手を差し出した。挨拶以外に二人の間に会話はなく、イーロンは再びフレデリックのもとへ戻った。

「坊っちゃんは、なぜここへ?」

 フレデリックは両手を揉み合わせた。「魔道を学びにね、……一応」彼はひどく自信なさげに答える。

「なんだか元気がありませんね」イーロンは思案げに宙を見つめ、そして思い当たったようだ。「もしかして、一緒に来た方と逸れてしまったとか?」

「よくわかったね」フレデリックはうなだれた。

「この辺りで逸れたのですか」イーロンが追って訊ねると、フレデリックは「そうだと思う」と答えた。イーロンは周囲を見渡し、再び思案して「あまり移動しないほうが良いかもしれませんね」と言った。

 フレデリックは両手で顔を覆った。自らの不注意で大人たちに迷惑を掛けているにもかかわらず、行動しないでいるべきだという結論は、彼にとって心穏やかならざるものだ。

 イーロンはフレデリックの肩に手を置いた。「そう落ち込まないでください。お迎えが来るまで、私が居るのではいけませんか?」

 フレデリックは勢いよく顔を上げた。「一緒にいてくれるの?」穏やかに頷くイーロンを仰ぎ、フレデリックは安堵で頬を紅潮させた。「ああ、でも――」彼の眉尻が下がる。「イーロンも用事があるんでしょう?」

 イーロンは微笑んだ。「私は旅に予定は立てません。無計画に散策していたら、あなたと再会した。あなたが頷いてくれれば、私の用事は決まります」

 フレデリックは胸を撫で下ろし、頷いた。イーロンはフレデリックの肩を、元気づけるようにたたいた。かれは差路の合間に立てられた案内板の方へ向かっていき、しばし土台を観察した。指先で表面を撫ぜ、納得したらしいかれはフレデリックを手招きして、その場所に腰を掛けた。フレデリックはアルベルトに呼びかけたが、彼は眠たそうに首を振り、地面に座り込んだまま居るつもりのようだ。フレデリックはイーロンの隣へ落ち着いた。

 この場は〈赤の都〉と呼ばれるが、光景はリラの街並みらしく一面白色である。地面は磨き上げられたようになめらかで、立ち並ぶ建造物もほとんどが同様の素材から成っているようだ。背の高い直方体と円柱状の建物が立ち並び、空中に掛けられた橋たちが暗雲を遮る。建物と、それらをつなぐ橋々の合間から覗く三つの塔が、〈赤の都〉上空の淡い赤色光を放つ魔法陣を支える。

 〈赤の都〉という名の由来は、その街並みを照らしあげる魔法陣の色にある。同じ理由で、対となる南東の〈青の都〉も名付けられた。しかし、中央の〈白の都〉を照らす法陣の光は淡紫である。〈白の都〉に関して言えば、おそらくリラ城本体にちなんだのであろう。

 フレデリックは、彼が幼少の頃に出会った、かつてのイーロンの姿を思い起こしていた。かれの顔色の白さは厚く塗られた白粉によるもので、本来の肌色を完全に覆い隠している。薄紅の光のなかで眺めるイーロンの顔立ちは、陽光のもとよりも幾分血の通った人間らしく感じられた。

「なにか魔道術を覚えましたか」イーロンは隣で指先を弄っているフレデリックに訊ねた。

 フレデリックは遠慮がちに「すこしだけ」と答えた。

 イーロンは笑った。「なるほど、手応えを感じておられるのですね」

「そんなこと言ってないよ……」フレデリックはうつむき、拗ねたように呟いた。

 イーロンは微笑を浮かべる。「坊っちゃんはご自分に厳しい方ですから、本当に“すこしだけ”だと“全然だめ”とおっしゃいますでしょう」

 心当たりが無いとも言い切れないのか、フレデリックは視線を泳がせた。彼の内には、幼い記憶がよみがえっている。彼が魔道に魅せられるきっかけとなった緋色の炎は、今、隣でリラの巨塔を仰いでいる麗人――その人の指先から生まれたものであった。かれは語り上手でもあったため、夢見がちな幼い少年だったフレデリックをたやすく魅了した。七年の月日を経てもなお鮮明に記憶され続けるほどかれの容姿は印象深く、七年の月日を経たにもかかわらず何一つ変化していない。それは奇妙であったが、同時にフレデリックにとっては魅力に感じられた。一種の不気味さというものは、彼にとっては“美しさ”となり得る。時を経ても変わりなく美をもたらすイーロンという人物は、フレデリックにとって長く好意の対象であった。

「ねえ」

 アルベルトの呼びかけが、フレデリックの耳に届いた。彼は魔道式時計の横に座り込む少年を見やる。アルベルトの瞳はイーロンの方を向いていた。イーロンはリラ城から視線を下ろし、足もとの少年と目を合わせる。

「なぜ、そんなに一生懸命肌を隠しているの」

 その問いに、イーロンはアルベルトと見つめ合ったまま笑みを深めた。指摘通り、かれの服装は念入りである。身にまとうものは黒い生地ばかりで、手指の先も、首元も抜かりない。かれの衣服で覆われていない部位といえば頭部のみだが、黒髪は結い上げてもなお腰まで届き、顔には白粉を塗り込んでいるのだから、目立つ様相であることは決して否定できない。

 フレデリックは腰を浮かせ気味に身を乗り出して、イーロンを横目に囁いた。「かれは肌があまり丈夫じゃないんだ……」

 フレデリックの言葉を肯定するように、イーロンは右肩を竦める。アルベルトは「ふうん」と短く反応して、それ以上は追求しようとせず、また遠くの方へと意識をやった。

 フレデリックは身を縮こまらせながら、自らの発言が余計なものだったかどうかを確かめるようにイーロンを見上げる。それに対し、イーロンは微笑を返した。

「相性の良い属性などはわかりましたか」イーロンは先程までの話題を続けた。

 イーロンの様子に安堵したフレデリックは、彼の質問に答える。「上界属性。一番は風なんだって」

 イーロンは穏やかに頷いた。フレデリックがイーロンへ同じ質問を返すと、黒い装いの人は右手を掲げた。その仕草が火と地、ときに光と闇を含めた属性の分類を示しているということを、フレデリックは理解した。

 フレデリックは妙に納得した気持ちになり、口からまるい息を吐く。「そういう雰囲気あるよ」

 イーロンは自覚があるようで、口角を上げた。

 フレデリックは穏やかな心境で、リラ城を見上げる。美しくもおぞましい巨塔は、彼の体の芯を竦ませる。継ぎ目のない外壁、無数に張り巡らされる魔道術、リラを構成するなにもかもが、現代の人々には到底想像しきれない技術から成るものだ。

 帝国に現存する最古の書物といえば、リラ最上階〈奉呈の間〉の〈アルビオンの書〉である。リーン経典等のもとともなったその神話には、リラ城と思われる建築物の記述がある。〈アルビオンの書〉の原本が記された時代は定かとなっていない。しかし、記述に使われた言語がルドリギア祖語であることを念頭におき、後年のあらゆる記録と照合してゆけば、一万年の過去まで遡ることはできる。

「いつ見ても、この城は――いえ、塔というべきか――、美しいですね」イーロンが呟いた。

 フレデリックはイーロンの表情を伺おうとした。

 しかし、低くかわいた音が頭の中で鳴り響き、視界が歪む。ほんの一瞬、彼は意識が遠のくのを感じた。

「疲れましたか」

 最近になって、聞き慣れ始めた声がした。フレデリックは振り返る。そこにはルートヴィヒと、騎兵たちがいた。困惑するフレデリックをよそに、アルベルトは何事もなかったかのように立ち上がって、腰の埃を落とす。

 腕を組んだドミニクがため息をつく。「休みたきゃ一言声かけろよ」

 フレデリックは呆然と周囲を伺った。イーロンの姿はどこにもない。視界の中には魔道式時計があり、身を乗り出して盤上を伺えば、奇妙なことに気づく。フレデリックは慌ただしく時計に駆け寄った。

 示される時間は、過去へ巻き戻っていた。フレデリックは首筋が冷たくなるのを感じ、彼は再び周囲の状況を確かめようと顔を上げる。騎兵たちの不審がるような視線を気にかける余裕はない。

 肩に手を置かれ、フレデリックは勢いよく振り返った。ルートヴィヒの静かな眼差しがある。フレデリックは唐突に、ルートヴィヒとイーロンにはどこか似たところがあると感じた。

「不安な思いをさせてしまいましたね」ルートヴィヒは、フレデリックの耳に届く程度の、抑えた声で言った。

 フレデリックは安堵で脱力しかけながら、首を横に振った。

   魔聖の白(3)

 リラの街の地表に、水源は認められない。水分を生成する魔道術は存在するものの、十二万の人々を潤すだけの水を常に生み続けるということは、――たとえ古代の魔道の技術をもっても――この渇いた風と大地の中心であっては難しい。リラの人々の潤いの源は、地の下深いところにある。リラと、その西にあるリオス湾は繋がっているため、湾から取り込まれた海水はリラの魔道によって真水に変換され、人々にゆき渡る。リラの浄水施設は白と赤と青、それぞれの都に一つずつ、合計三箇所あり、衛生的な街を保つ。

 その浄水施設の濾過膜に、数日前から異物が詰まるようになった。分析の結果、異物はエシュナ大橋の建材の一部であると判明し、管理者たちは発見次第回収している。破片には熔解した痕跡があったが、実験では現代魔道術の極である高温に五分間耐えてみせた。また、そのために用いた魔道術に大掛かりな手順を要したことで、一朝一夕で常人が橋を破壊することの難しさが証明された。

 ルートヴィヒらは、エシュナの破片が流れ着く浄水施設の一つへ足を運んでいた。〈赤の都〉下層に広がる、人工的な地底湖の様相を呈するその場所は、静謐として澄み渡っている。一行の足音と、無意識に潜められた話し声だけが空間に反響していた。

 管理者の一人が、今朝採取したばかりだという破片をルートヴィヒに手渡す。ファーリーンの王は面を返しながら観察した。

「随分軽いですね」

 管理者は頷いた。「古代建築によく見られる建材の一つで、最も軽い部類に属する合金です」

 破片は報告どおり一度溶け、変形して再び固まったらしい歪さを呈している。

「ベルンで橋を見てきましたが、目に映る範囲では建材に微弱な変形が認められる程度でした。熔解していたとは」ルートヴィヒは感心したように言う。

 最後尾に立っているガイが、背後に向かって敬礼の動作をする。他の騎兵たちもそちらを振り向き、同じように敬礼し道を開けた。護衛魔道士を連れたエルンストの姿があり、管理者は「太子様」と言って低頭する。エルンストは迷いなくルートヴィヒの前まで進み出た。

 彼は天界色の瞳で検問するようにファーリーンの者たちを見渡す。最後にルートヴィヒに向けられた瞳は、彼の身体を透かした先を見るように焦点がずらされていた。足もとへ下りていった視線は瞬間に上昇し翠の双眸をとらえ、皇太子は皇帝とよく似た造形の顔に笑みを浮かべる。

「あとで父がお呼びすると思います」そう言った彼は一同に敬礼をとき、顔を上げるよう続けた。

「皇太子殿下もこちらにご用事が?」

 ルートヴィヒの問いに、エルンストは頷く。「ええ。共に城を出られれば良かったのですが、立て込んでいたもので」そう答えながら、彼は袖口に手を通し、何かを取り出す。端正な浅黒い指先が抓んでいたのは、金属の破片だった。

「これは先日回収したものです」エルンストはルートヴィヒの持つそれに、取り出したものを近づけた。「気になる所見があったので分析に回したのですが……。この破片の外縁部――少し色が変わっていますが――、ここは細粒子が一部抜き取られていて、こうなると熱耐性が著しく低下します。自然にこの状態になることはありませんので、橋が破壊される際に経られた手順の一つでしょう」

「変換されたということですか」ルートヴィヒは手元の破片を見つめ、呟く。彼は顔を上げ、エルンストへ向いた。「古代の合成物の場合、組成図の認知度は限られているのでは」

「はい」エルンストは頷く。「一般に組成図は出回っておりません」

 魔道において、物質の組成を変える“変換術”というものは基礎術の一つである。変換には予め対象となる物質のつくりを理解している必要があるため、世の魔道司はあらゆる物質の組成図をものにすることへ労力を費やす。基本的な物質の組成図は目録化され流通しているが、特殊な物質――とくに古代合成物ともなれば管理は厳しく、特定の魔道司のみが閲覧を許される。しかし、そもそも組成図自体が存在しないことも多々あり、その場合、魔道司自ら解析しなければならない。

 エルンストは破片を袖口に仕舞った。そしてルートヴィヒの耳元に寄り、抑えた声で囁く。「父には、なにか心当たりがあるようですが」そこで言葉を止め、ルートヴィヒの表情を見つめる。しかし、ファーリーン王は眉さえ微動だにさせなかった。エルンストは瞳を伏せ、一歩退いた。穏やかな息を吐く秀麗な顔貌に、皇帝と酷似した微笑が浮かぶ。「あの人がことを話す気になってくださるまで、私はあれこれと詮索し、無駄な労力を費やし、無駄な時間を過ごすのです。しかし無駄だと分かっていても、私はそうせずにいられない」

 ルートヴィヒはエルンストの方へ僅かに顔を向ける。「私もですよ」

 エルンストは品のよい、短な笑い声をあげた。彼は両腕を抱きながら、ファーリーンの一同を見渡す。騎兵たちの影に隠れるように佇む痩せた金髪の少年は、エルンストと視線が合うと慌てて瞳を逸した。しかし、無礼に当たると感じたのか、自信なさげながらも視線を戻す。

 エルンストは愛想よく首を傾がせ、気弱そうな少年に声を掛けた。「フレデリック君でしたね。弟たちから聞いています、君は随分、魔道術の才能があるようですね」

 フレデリックは瞳を丸く開いて、声を上げずに口を開閉した。

 エルンストは微笑む。「君にとって、このリラという街のあり方は、興味深いものでしょうか」

 フレデリックは頷いた。「とても」

 エルンストは身を反転させ、人口湖の水中で光る魔法陣を眺めた。「リラは、様々な魔道術が複雑に作用し合い、途方もなく長い時間、ほとんど姿を変えることなくこの場所にあります」彼は天井を仰ぐ。そこには光を放つことのない、停止された術式の跡が無数に広がっている。「この施設も、基盤にあるのは古い魔道術です。そこに、人々は新しい魔道術を重ね、補填し、改良を加えて、今のかたちがあります」

 ルートヴィヒはエルンストの後方に立ち、湖水内を見つめる。「ファーリーンでは、生き残っている魔道技術がとても限られています。人々の魔道に対する意識の問題も根強い」

 エルンストは天を仰いだまま、呟くように答える。「リーンの民にそなわる古い記憶が、影響しているのかもしれませんね」暫し沈黙し、彼は振り向いた。「お時間がよろしければ、少し私がご案内しましょうか」

 フレデリックの表情が、あからさまに高揚する。

 ルートヴィヒは少年を横目にし、頷いた。「願ってもないことです。ぜひ」

 リラの太子は、ファーリーンの者たちを的確に導いた。彼の穏やかな口調は、魔道に対して関心の薄い人間の意識を引き寄せ、解説に耳を傾けさせる。嫌悪や不信といった感情を容易に飛び越え、太古の幻想を魅せた。

 そののち、ファーリーンの一行は未だ諸用を残しているというエルンストと別れ、リラ城への帰路へとついた。城の足もとには、皇帝の側近兼護衛である半竜人レイアスの巨大な影が見える。

「皇帝陛下が殿下をお呼びです」かれはファーリーン王を見下ろさないよう気づかってか、竜人系特有の金と空色の虹彩を伏せて言った。

 ルートヴィヒは頷き、同行者らに自由に行動するよう言い渡す。近衛騎兵長のコンラートを側に付け、城内に用を見つけた者たちと共に昇降盤へ身を預ける。

 昇降盤は途中幾度か停止し、新たに人を乗せ、人を降ろしながら上昇していった。最終的にルートヴィヒとレイアス、コンラートのみが残り、謁見の階層を超えてゆく。

 そして到着した皇帝の私室がおかれた階層は、魔道灯の明かりが殆ど落とされていた。静まりかえり、薄暗い。謁見の層より上部はそれ以下の階層とは構造が異なり、昇降盤を囲む広場は縮小し、代わりに両腕を広げた幅の通路が設けられている。他の階層のような開放感はなく、八方が白色であるという点を除けばファーリーンの建築様式とさほどの差異はない。

「我々はここで」

 通路の入り口でレイアスが言った。コンラートはレイアスを見上げ、そしてルートヴィヒへ伺いを立てるように視線をやる。ルートヴィヒが頷くと、コンラートは通路を挟んでレイアスの左に立った。

 ルートヴィヒは通路の奥へ進んだ。足音は洞窟内のように反響する。明かりの灯っていない魔道灯をいくつか通り過ぎ、突き当たったところで立ち止まる。彼は目前の扉を指の甲で軽く叩いた。向こう側から聞こえる「どうぞ」という声を確認し、ルートヴィヒは扉を開ける。

 その部屋の中は、ほぼ暗闇と言ってよい環境だった。奥の机に向かう人影の周囲のみを、薄明かりが照らしている。ぼんやりと浮かび上がる白髪の後ろ姿の向こうから、筆記音が紡がれている。書き物をしているようだった。

「適当に掛けてくれ。あと四行できりがよい」部屋の主は静寂に調和する声で言う。「おまえには少し暗いか」かれは手元から顔をあげることなく、短い精霊語を呟いた。すると天井の魔道灯が一つ灯る。「実のところ、煌々としたのは苦手でな。これでゆるせ」

 ルートヴィヒは小さな円卓の席に掛けた。この部屋は、一人で使うにはいささか広すぎるように見える。時は静かに流れ、人々の喧騒もここからは遠い。壁にそなわった時計の小さな星が、月を二周する。

「時代が異なれど、人の思いというものはさして変わらぬな」書き物を続けながら、ヴァイスは言った。「だが、時代は言葉を隔てる。精霊たちが紡ぐいにしえの言葉は、今の人々へ届かない」かれはやわらかな息を漏らした。手を止め、顔を上げ、宙を眺めている様子である。「生まれたとき、わたしは精霊の仲間だった。わたしはかれらに言葉を教えられたが、わたしに現代の言葉を教える者は、なかなか現れなかった。七つになるまで、わたしは人の言葉を話せずにいたよ」ヴァイスは黒表紙の厚い手帳を開き、穏やかに笑う。「気味が悪かったのだろうな。なんせ、誰も理解し得ない言葉を、虚空に向かって呟く子供だったのだ。“かれ”が私を見つけるまで、わたしは人間と、ほとんど意思の疎通ができなかった」

 ルートヴィヒは静かにヴァイスの後ろ姿を見つめた。

 ヴァイスはわずかに首を回し、蒼い瞳をルートヴィヒに向ける。「知っているか。真の精霊語はルドリギア祖語なのだ。人々が精霊語だと思い、魔道術に用いている文字は、古語のものだと」

 ルートヴィヒは黙って首を横に振る。

「そうか。ではまたひとつ賢くなったな」ヴァイスは微笑み、再び前を向いた。「いにしえの人たちの記憶を蘇らせる。これはかつて、私の友がしていたことだが――」ヴァイスはそこで、暫し言葉を止めた。かれの気配は穏やかである。「……わたしはかれに尋ねたことがある。“それは必要なことなのか”と。すると、かれは言った。“私にとっては意味がある”と」

 そして、再び静寂が訪れた。星が静かに一つ周る。

「それにしてもこの本は回りくどい言い回しが多いな。著者に親近感を覚える」ヴァイスは筆を置き、振り向いた。

 暗い影のおとされた白い顔貌は、光の中に在るよりも一層美しく映えていた。両の瞳は輝きを反射し、長髪は暗色の絨毯に広がる。薄い唇が弧を描き、笑み声が零れた。

「ひどい有り様だな」ヴァイスはたおやかに言った。「心地わるかろう」かれは小さく手招きする。

 ルートヴィヒは静かに席を立ち、ヴァイスの前へ歩み寄って跪いた。ヴァイスがルートヴィヒの頭上に右手を掲げれば、腕飾りが涼やかな音をたてる。精霊語が囁かれると、かれの掌から朗らかな光の粒子が降り注ぐ。

「まったく、無茶をする」ヴァイスはため息混じりに言い、右手を下ろした。「これでよかろう」

「ありがとうございます」ルートヴィヒは平坦な声で言った。

 ヴァイスは円卓の席を手で示した。ルートヴィヒは立ち上がり、再び椅子に掛ける。

「術者を見たか」ヴァイスは肘掛けにもたれながら尋ねた。

 ルートヴィヒは「いえ」と短く答える。

「そうか」ヴァイスは表情を消し、宙を見つめた。「だがまあ、だいたい想像はつく」彼はわずかに姿勢を正し、声の調子を低くしてルートヴィヒの双眸を覗き込む。「今後同じようなことがあっても、深追いはするな。リラの地であったがこそ、あれの力は弱まっていたのだ。おまえは術者向きの体質ではないから、あちらがその気になれば容易にとらわれる」

 ルートヴィヒは暫し沈黙してから、瞳を伏せた。「はい」

 ヴァイスは口元を隠して、小さな笑い声を漏らした。「そう気を落とすな。叱っているわけではなく、案じているのだ。おまえはよくやった」

 ルートヴィヒは反応しかねるように、口角をわずかに上げながら首を傾がせた。

 ヴァイスは常のように、穏やかな微笑みを浮かべる。「あちらの狙いは何だと思う?」

「おそらく、あの少年かと」ルートヴィヒは迷いなく答えた。

「そうか」ヴァイスは頷く。「彼の様子は?」

「変わりありません。術の影響は受けていたはずですが」

「ふむ」ヴァイスは右手の指先を細い顎に添え、熟思するそぶりを見せた。かれは短く息をついて、膝の上で両手を組む。「我々が注意して、よく見ておこう」

 ルートヴィヒは静かに了承の意を示した。

 一月ほどのリラ滞在を経、帰国の準備を始めていたファーリーンの者たちのもとへ、ヴィオール方面からの知らせが届く。王属騎兵団に所属する四人の青年がもたらしたのは、アクスリーが危機的状況に陥っているという情報だった。ヴィンツ騎士団第一連隊を率いたラルド副団長は、重傷を負いながらヴィンツへ帰還した。彼は七百以上の半竜人によって構成された軍勢によって、アクスリーは陥落し、自らの率いた隊も壊滅に至ったと話した。話を終えたラルドは、二日後に死亡した。更に、アクスリーへ帰還途中であった伯爵一家が襲撃を受け、息女が命を落としたという。

 ファーリーンの者たちはリラ城の三階層目の一室を借り、詳細な情報交換を行った。

 コンラートがアクスリー伯爵の所在を問うと、隊の中でも一際生真面目そうな青年、ボリスが答える。

「準備が整い次第、リディを出立なされるとのことでした。できれば陛下と合流したいと」

 双子の片割れワイアットが、腰を浮かせ気味に尋ねる。「エシュナ大橋が通行不能になっているという噂を聞いたのですが、皆様は大丈夫でしたか」

「いいや」エリアスが首を横に振る。「大変な目に遭った」

 エシュナが通れなかったためにヤーガを経由し、遭遇してしまった災難について、ルートヴィヒは淡々と話した。先王の代からの忠臣としてよく知られたヘルムートの死が語られたとき、軽騎兵隊の若者たちは驚きと困惑、無念の入り交じる表情を見せた。

 だが、この話をしたルートヴィヒの方には、どこか感心が薄いように見受けられる雰囲気があった。彼は長く余韻に浸らず、今後の行動について指示を下していく。フレデリックとアルベルトは、暫しリラに待機させると言う。アレンについては、通常の動作にはほぼ支障なくなったものの、未だ騎兵に求められる激しい動作を行うには不十分な体調であったため、フレデリックらの護衛も兼ねてリラへ留めることとした。

 ルートヴィヒが思索のために暫し言葉を止めたとき、部屋の扉が鳴った。リラの第二王子が、控えめに顔を覗かせる。

「父に、皆様と同席するよう言われまして。入ってもよろしいですか」

 ルートヴィヒは頷いた。騎兵らが場所をあけ、クレメンスは席に着く。ルートヴィヒが経緯を手短に話すと、クレメンスはその顔に険しい表情を浮かべながら頷いた。

「ここのところ一層きな臭いですが、今回の件も含め、父は魔道司の関わりを確信しているようですね。魔道司に対抗するのなら、魔道司が必要ということなのでしょう」皇子は膝の上で両手を組む。「魔道士団を動かすことも考えますが、ひとまず、皆様がこちらを発たれるのであれば私を同行させてください。力不足かもしれませんが……」

 ルートヴィヒが席を立ち、「心強いです」と右手を差し出せば、クレメンスは安心したように頬を緩め、同じように右手を差し出し握り合わせた。

 再度腰を下ろしたクレメンスは、「しかし……」と小さく唸る。「半竜人ですか……。味方であれば心強いことこの上ないですが、敵となると厄介ですね」

 ルートヴィヒは頷く。「少年一人が相手でも持て余すのですから、集団となれば到底一筋縄ではいかないでしょう」

 王が騎兵らに言い含めるように言うと、彼の忠臣たちは背筋を伸ばした。

 そして彼らは二日後の明朝に、ヴィオールを目指しリラを発つことを決めた。リディへの帰還が遠のいたファーリーンの一同は、各々戦いを想定した準備を始めた。

   魔聖の白(4)

 リラの人々とファーリーンの人々とでは、昼夜に対する意識に少なからぬ差異があるのだろう。時刻が夜中を示していても、リラの街は静まり返ることがない。昼の時間に活動する人間と、夜の間に活動する人間の数に大きな違いがないために、この街は常に閑散とし、賑わってもいるのだ。

 ファーリーン王ルートヴィヒと従者である王属騎兵ら、皇子クレメンスは明け方の頃、ヴィオールの首都ガートを目指しリラを発った。夜は、明けても更けても〈赤き荒野〉の領域にさしたる影響を及ぼさない。

 リラとヴィオールとをつなぐ整備された街道には、暗幕によって遮られた陽光を補うように、魔道灯が設置されている。およそ七十歩間隔で立ち並ぶ、背の高い柱から吊り下げられた光はよく広がる白色で、街道から外れぬ限りは手元まで明瞭に照らし出す。都で借りた馬の蹄が地面を掻けば、乾いた赤錆の砂が舞い上がった。

 幾度か商隊とすれ違いながら、一行は東西に聳え、圧倒的な存在感を放つ霊峰、シーダとリースの合間を進んでいった。小さな魔道の光に、女神の名を冠する山々を照らし出す力は到底ない。

「この辺りは、魔力がとても豊富です」クレメンスが言った。乗馬に慣れていないかれは、ルートヴィヒ王に背中を預けている。「五つの霊峰から、強力な気が常に発せられているのです。我々魔道司からすると、この一帯は“聖地”と呼ぶにふさわしい。古の詩人アリオンは“魔境”と表現しましたが――、たしかに見た目はそう言った感を否定できませんね」笑みを含んだ穏やかな口調で言ったかれは、背後のルートヴィヒに届く程度の声量で続ける。「フレデリック君のことで、提案があるのですが」

 ルートヴィヒはクレメンスの後頭部を見下ろして尋ねる。「なんでしょう」

「魔道学校に通えば、きっと彼にとって得るものは大きいのではないかと」クレメンスは横目でルートヴィヒを伺い見ながら言った。

 帝国内に魔道学校はいくつかあり、魔道をより神聖視するリラやヴィオールと、より生活に溶け込み身近なものであるアウリーが、それぞれ魔道の教示に力を入れている。

 ルートヴィヒは口角を上げた。「正直、そのように仰って頂けることを期待していました」

 クレメンスが安心したように肩の力を抜く。「よかった。燻らせるのはあまりにも勿体無い」

 ルートヴィヒは頷く。「帰国したら、正式にフレデリックを魔道士として訓練することを発表します。皇子殿下に認められたとなれば、誰も反対しないでしょうから」

 今回ルートヴィヒは他の騎兵たちへの体裁として、レイスの名でフレデリックを自身に同行させた。しかし、こういった手を使う場合は都度侯爵に話を通さなければならない。“騎兵”として扱えば、王の判断のみでフレデリックを動かすことが可能である。

「“生まれた国が悪かった”などと思われては、切ないですからね」ルートヴィヒは穏やかに言った。

 クレメンスは微笑む。「ルートヴィヒ様の時代に生まれたことは、大きな幸運でしょう」

「そうだと嬉しいのですが」ルートヴィヒは微笑混じりに言った。

 天空の黒雲は、シーダを過ぎるまで付きまとった。たどり着いた暗幕の終わりから、淡い空色が降り注ぐ。薄青と黒が滲む空模様の下、密かに栄える宿場には多くの旅人や商人が屯していた。馬たちへの給水も兼ね短い休息をとることとした一行は、萎縮する他の利用者へ意識的に関わることはせず、少しばかりの距離をおいた。

 クレメンスは日陰を選んで座り、ファーリーンの者たちが馬の世話をする様子を眺めた。数十歩移動した場所には、昼の光が降り注いでいる。ヴィオールは曇天の多い気候だが、今日は随分と天気が良いらしい。クレメンスは外套で頭部ごと体を覆う。普段日光に当たらないかれにとって、陽光は刺激が強いだろう。

 ヴィオールの空色は、晴天時でもどこか霞がかったように沈んでいる。温暖な気候とは言えないが、寒冷というわけでもない。木々は多くなく、とくに広葉樹は少ない。空気は乾燥気味で、風には少量の砂が混ざっている。降水量もファーリーンと比較すると圧倒的に少なく、育つ作物にも限りがある。この国の主な産業は魔石の採掘、加工、輸出で、主要な取引相手はリラとアウリー、帝国外のいくつかの国々だ。また、魔石はファーリーン王国内でも、“宝石”として流通している。

 一行はその後も休息を挟み、八日後の昼にヴィオール大公国の首都ガートへ到着した。

 灰色がかる空色と、岩石の露出する大地の間に現れる都市の姿は、色彩に乏しいファーリーンの都市や、整然としたリラとはまた異なる。ヴィオールの建築は曲線を多用し、幾何学的で、鮮やかな色彩を放っている。

 半球状の屋根を載せた大公宮を見上げ、クレメンスは目を細めた。

 現在大公国を統治しているのは、リアナという女性である。ヴィオール大公家はリラ皇家から分かれた家系で、また屡々皇族の者を迎え入れ血を混ぜる。そのため、大公一族は神族と人間の狭間にあるとされ、リアナはクレメンスにとって遠からぬ血縁者でもある。

 岩肌の目立つ丘の上に建つ大公宮へ、一行は歩を進めた。丘の道は綺麗に整えられ、宮の外壁には神話の光景が刻まれている。中央の塔では〈月の神子〉が天を仰ぎ、足元で〈天空神〉と〈賢神〉が控える。その下方には、無数の人々がときに争いながらも生を営む様子が描かれている。しかし、長い時の流れの中で石の絵は風化し、かつては精巧な立体物であっただろうその面影は、ほとんど消えていた。

 大公宮の門をくぐると、使用人が出迎える。宮の内部は外観以上の奇抜さで、非常に賑やかであった。一面白色無地のリラとは対照的な様相であっても、親類の家系が築いたとあってか、そこから放たれる印象はどことなく共通したものだ。床、壁、柱、天井、ありとあらゆる場所に絵や模様が彫られ、色が染められている。

 騎兵らは玄関口近くの客間に通され、騎兵長のみの付き添いでルートヴィヒとクレメンスが奥に通された。予め知らせを届けていたため、リアナは間もなく二人に対面した。

 リアナ大公は五十代に差し掛かった年頃の女性で、落ち着いた色味の肌と天界色の瞳を持つ。濃紫紺の長髪を後頭部から編み下げ、眉間から細長く通る鼻筋と、切れ長でありながら柔和な目、小さい口と薄い唇、なめらかで皺の少ない頬をもつ、美しい人物である。色彩のふんだんな緩めのローブを纏い、手首や胸元、腰に黄金と煌めく石の装飾を身に着けている。

 リアナはクレメンスが挨拶の言葉を発し終わらないうちに、歓喜の叫びを上げながら両腕を広げ、半ば駆ける勢いで歩み寄った。彼女はクレメンスの両手を握り、感動と喜びを言葉にする。そして、客人たちを小円卓の席に導き、自らもそのうちの一つに掛けた。

 リアナは細眉を顰める。「怒涛の展開よね。私の代はもう平穏に過ぎてほしかったわ」そして彼女はルートヴィヒの顔を見つめ、「あなた、本当にお父上とよく似てこられたわね。あの人よりも物腰は柔らかいけれど。よく言われるでしょう?」語尾に穏やかな笑みを含ませて言った。

 先代ファーリーン王にして現ルートヴィヒ王の父であるエミルは、一五二代ファーリーン王と女中の間に生まれた私生児であった。彼は生まれる前に王宮から出され、セルバーで一般人として育った。しかし、彼が十代に差し掛かろうという頃、突如王子としてリディに迎え入れられたのである。彼は間もなく、自身の能力の高さを証明したが、その出自による貴族たちからの強い反発を払拭するには、長い時間を要した。だが、ときに独裁的な強硬さを用いながらも、結果的に彼は多くの偉業を成し遂げる。そして彼は齢三十八で没した。唯一の嫡子であるルートヴィヒが十六の時のことである。

 帝国と連合の不仲の歴史は長く、停戦を挟みながらも終わることはなく、現在へ至る。しかし個人単位であれば両者の仲は必ずしも険悪と言い切れるものでもなく、また有益さを見出すのならば、周囲の流れに反して交流を求めるようになる者たちもいた。

 帝国と連合の内で、国土の隣接するファーリーン王国とフォーマ王国の小競り合いは、時期によってはまさに日常の一部となり得るものだった。そうであっても、現在ほどに両国間の国交が制限されていた時代は多くない。

 エミル王の時代になり、ファーリーンとフォーマの関係は大幅に改善されはじめた。感情面よりも実質的な互いの国益を重視したエミルの外交は、先代フォーマ王タラールの思想とも重なるものだったのだ。しかし、当時既に年齢を重ねすぎていたタラール王はいつ倒れてもおかしくはなく、また彼の長子イスマイルは父王とは相容れない意見の持ち主であった。

 停戦条約の締結が急がれる中、フォーマへ赴いたのはヴィオール大公家の者たちだった。当時の大公とその妻、二人の子どもたちは、殺伐さの失せかけたフォーマの地で、危機感など微塵も抱かず王都への道を進んだことであろう。

 しかし、大公一家の消息はフォーマ国内で途絶えた。このとき既にタラール王は没しており、帝国は長子イスマイルの罠に掛けられたのである。そのことに帝国側が気づき行動を起こすまでに、さほどの時間は掛からなかったが、大公家の者たちを取り戻すことは容易ではなかった。四ヶ月に及ぶ交渉と捜索の末に発見されたのは、大公とその妻、息女の遺体と、憔悴しきった公子の身柄であった。

 そして、帝国はフォーマへの攻撃を開始した。それは 近代で最も大きな戦へと発展していき、フォーマ北部アシュタール地方が主戦場となったために『アシュタール戦役』と呼ばれるようになる。

 この時期に帝国の支配者層も多くが入れ替わり、現王ルートヴィヒが即位したのもこのアシュタール戦役のさなかであった。帝国はファーリーンを主戦力としてフォーマへ制裁を与え、二年間の戦闘の後には国交を厳しく制限するようになる。

 大公家の生き残りである公子フェリクスは、クレメンス皇子とは同年代で、友人同士でもあった。当時公子は九才で、事件後はリラへ身を置いた。しかし彼は心を閉ざしきり、声帯を破壊されていたこともあり、他人と言葉を交わそうとしなかった。それは親友であったクレメンスも例外ではなかった。公子の心身の傷はついに癒えることなく、そして、十二歳を迎える直前に忽然と姿を消した。

 公子が姿を消し、十五年の歳月が過ぎた。彼の安否は不明であり、リラを去って間もなく自ら命を絶ったとも考えられた。しかし、彼の友好的な関係者たちは、フェリクスがどこかで傷を癒やし、生きていることを現在も願い続けている。

 リアナは短く息を吐いた。「これ以上大事にならなければそれに越したことはないけれど、魔道士団は用意してあるから、必要なら声を掛けてちょうだい」

「感謝します」ルートヴィヒは低頭した。

 リアナは両手を組み合わせる。「エシュナもね。いつかは壊れる日も来るだろうとは思っていたけれど、ずっと未来の事だと信じていたから、本当に驚いたわ。あの橋がなくなるなんて、これから大変ね」彼女は憂鬱そうな息を吐いた。

 エシュナ大橋は、ファーリーン北部とヴィオール、リラをつなぐ重要な役割を担っていた。ヴィオール及びリラは作物の生産に向かない土地にあり、一方ファーリーンは農耕に適した広大な国土を持つ。食物のみならず衣類の原料生産も活発で、その点においてヴィオールとリラはファーリーンにほぼ頼り切りである。そして、それらを輸送するときの要の一つがエシュナ大橋だった。大橋はファーリーン領に属し通行料を徴収しているが、船舶輸送に掛かる経費と比較した場合、距離や物量に依っては、より低廉に済ませられることが多い。その手段が失われた以上、ヴィオールやリラの人々の生活に少なからず影響は出てくるだろう。

 また、ファーリーンが徴収した通行料は、基本的には同国の軍備費に充てられることになっている。一部は橋の維持費として使用するが、大規模な崩壊は想定されていなかったために、これまでの通行料から再建費用を捻出することが困難なのだ。

「手紙の件は、ご検討頂けますか」真剣な面持ちで、ルートヴィヒが言った。彼はリラへ滞在している間、リアナへ大橋の今後について提案を送っていた。

「検討するしかないわよね」リアナはため息混じりに笑む。「あなたの案には価値があると理解しています。あなたが私と同じ時代に、友好的な立場の人間でいてくれて助かったわ。そうでなければ、私は今頃無能と蔑まれていたでしょうから」

「いいえ」ルートヴィヒは瞳を伏せた。「あなたは真の賢女だと思います」

 日が落ちると、ガートの街は魔道の明かりに包まれた。翌朝には辺境のヴァラットへ出立するファーリーンの一行と皇子のために、リアナは休息の場を提供した。晩餐は過去と未来の話題に昂ぶりながらも、もうじきに終わろうとしている。

 リアナが意図せずルートヴィヒの手元に目をやったとき、彼女の気配は突如張り詰めた。淡く酔いがまわっていた彼女の目つきが険しさを帯び、ルートヴィヒもまた、自らの手元とへ意識を向ける。指先が微細に振動していた。彼はその時初めて、自らの異変に気づいたようだ。席を立ったリアナの硬い気配に、騎兵らとクレメンスも異変を感じ取り、場が静まる。

「宮殿の外に誰も出さないでちょうだい。ガート内の警備も強めて」リアナはその場の者たちに言った。

 一同は大公の言葉で凡その状況をさとった。どうやらルートヴィヒ王に毒物を仕掛けた者がいるようである。場は再び騒がしくなり、ガートとファーリーンの兵たちは宮殿内に散るか、会場の警護を強めることに当たった。

 リアナはルートヴィヒのそばへ行き、彼の手をとり、観察する。彼女はルートヴィヒに指を動かすように言い、立たせたり、口を開けさせたり、瞼を拡げたりした。案じ顔のクレメンスが静かに二人へ近づく。

「なにか、自分で分かることはある?」リアナはルートヴィヒに訊ねた。

 暫しの沈黙の後、ルートヴィヒは答える。「エバロ系に近いように思います」

「やはりね」リアナはため息をつき、三歩離れた場所で佇む若い女性に言った。「フィーネ、ヴェイレスとパラリアを持ってきてちょうだい」

 フィーネと呼ばれた女性は簡潔な返事をして、早足で会場を出ていった。

「あの娘、私の弟子なの」リアナは言った。彼女は医療と薬品についての知識に富み、大公となる以前は医療者として活動していた。椅子を寄せて掛けた彼女はルートヴィヒの顔色を注意深く伺い、肩の力を抜いた。「ほんとうに平気そうね。放っておいても大丈夫かしら。でも一応解毒はしておきましょう」

 ルートヴィヒは無言で頷いた。

 リアナは緊張しきった様子のクレメンスに声を掛ける。「大丈夫だから座りなさいな。この人、父親に毎日なにかしらの毒を飲まされていたのよ。それで耐性ができてるの」

 クレメンスは目を見開いた。「エミル様に?」

「ええ」ルートヴィヒは両掌を開閉しながら答える。「私は生まれつき感覚が鈍いものですから、自分の異変に気づきにくいのです。対応が遅れても大事にならぬように、色々と」

「かなり無茶なことをしていたわよ」リアナは呆れた様子で言った。

 フィーネが二つの瓶と、いくつかの道具を持って戻ってきた。そして同時に、厨房で泡を吹いて倒れている調理師が発見されたという知らせももたらされる。

「エバロよねえ」リアナはフィーネから受け取った道具を広げ、調剤をはじめた。間もなく彼女は小分けにした解毒薬をフィーネに渡す。「これをその人に飲ませてちょうだい。半刻しても呼びかけに反応しなければもう一度与えて」

 フィーネは再び会場を後にした。

 リアナはルートヴィヒにも解毒薬を渡そうとして、止まる。「もう震えも治まってるじゃない。これを飲んだら却って良くないかもしれないわ。どうする?」

「薬品に関しては素人ですから」ルートヴィヒは答える。

「この人ほどの玄人いないわよねえ」リアナはクレメンスに同意を求めるように言った。状況に圧倒され気味な皇子に曖昧な笑みを返された彼女は、結局作った薬をルートヴィヒには渡さず、片付けを始めた。「倒れていた調理師に話を聞きたいわね。たぶん、明日の朝まで意識ははっきりしないでしょうけど」

 ルートヴィヒは落ち着き払った様子で言う。「騒ぎ立てるつもりはありません。謀者は大公殿下の方で処理してもらいたい。私は予定通り、明日発ちます」

 リアナは落とした声で訊ねる。「私を疑うことはしないのかしら」

「何のためにそうするのですか」ルートヴィヒは訊ね返した。

「すぐには思いつかないけれど」リアナは少し考えるそぶりを見せてから、小さく息を吐いた。「いずれにしても、この地で問題が起これば私の責任ですから」そして、横目で伺うようにルートヴィヒを見つめる。「もし、犯人に厳しい処罰を与えなかった場合、あなたは気を悪くするかしら」

「理由に依ります」ルートヴィヒの口調には、寛大さというよりも、この件に関する関心の薄さが表れている。

 リアナは肩を竦めた。「進展があったらリディの方へ手紙を送るわ。体調には十分注意しなさいね」