――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

第七章
虚なる緑

   虚なる緑(1)

 レイスはファーリーン北西の辺境に位置する。その街は、商業の分野においては、他の追随を許さなかった。多くは武人の家系である同国の統治者階級のものたちにとって、商業というものは自らが進んで関知するところではなかった。

 しかし、この都の統治者に限っていえばまったくその限りではなく、現在レイス侯爵の家名をもつその一族は、元をたどれば商人であった。

 いきさつはおよそ三世期前にさかのぼる。隣国フォーマ王国およびその同盟国らとの争いに散財していた国家に対し、ゴールドスミス卿は自らの財産を融資した。膠着していた戦況は、それによって動いた。ファーリーンが優位に立ったのである。時の王はゴールドスミス卿の親切に感激し、大いに感謝した。そして、彼に“レイス侯爵”の地位を与えたのだ。

 しかしその一方、それまでレイスを統治していた古い貴族は、外部へ情報を流したとして罪に問われ、当主もろとも一族が処刑されるという事態になった。

 レイスの街は広大である。というのも、レイスには街を囲む壁がないためだ。人々は制限なく居住地を広げてゆくのだ。

 侯爵城周辺のもっとも古い地域には、歴史的価値の高い建造物が密集している。その一方で、港や街の外れに向かうほどに、新しいもの、グローラ等との交易によって流入してきたものも多く見かけるようになる。

 街人はほとんどが裕福であり、とくに金のある者は自らが小貴族であるかのように振る舞う。その一方で、貧しいものは確かに存在している。いずれの街でもそうである。しかし、ここレイスはその格差がいささか顕著だ。

 今もまさに、下町の宝石商の店から、みすぼらしい格好をした少年――或いは青年――が、飛び出してきた。

「ああ、もう! 痛い! 痛いってば!! 冗談に決まってるだろ! 物盗りなんかするもんか、ボクはそんなに卑しい身分の人間じゃないんだからね!!」

 痩せた店主に杖で打たれながら大げさに喚く少年――青年と言うには少しばかり甲高い声をしている――は、今一度のろのろと振り下ろされようとしている、木製のそれを避けた。そして、自らの首に掛けた奇妙な色合いの首飾りをつかみ、店主の眼前に突きつける。

 少年の鼻は歪んでいる。鼻骨を折るなりしたのだろう。そのせいで造形の崩れて見える顔を、神妙なものにして宝石店の店主である男を睨んだ。

「いいかい、おじさん。もう一回言うからね? これは、〈フォルクヴァンのフレア〉のお家にウン百年間受け継がれてきたお宝だ。分かったね? 金貨三十枚だよ」

「十二枚」宝石商はきっぱりとした口調で言った。

 少年は目を見開く。「少なくなってる! さっきは十五枚って言ってたじゃないかっ!!」

 杖に寄りかかりながら、宝石商は鼻を鳴らした。「まだ粘るかい? そんな趣味の悪い飾り、誰も欲しがりはしないさ。少なくともファーリーン人には受けないね。よしんば、グローラあたりで捌けたとしても――」

「グローラ!」少年が声を上げた。「グローラなんざクソ食らえだ! あそこに寄越すくらいなら海に捨ててやる!」

 少年の剣幕に、店主はいささかたじろいだ様子だ。「どうも嫌なことがあったようだな。で、フレアってのは偉いフレアさんかい?」

「そう!」少年は一瞬で表情を明るくして、頷いた。「ヴァリュレイ女王の次に偉い、あのフレアだよ!」

「なるほどね」宝石商は頭を掻いた。「あんた、奴隷だろう。そのフレアさんのところから逃げ出してきたんだろうが……。それが貴重なものだって言うなら、尚更買い取る気にはならないよ。それがヴァリュレイとの喧嘩の種にでもなったら俺が困る。そんないわくつきのもの、手元には置いておきたくないよ」一旦言葉を切り、跪く少年を見下ろして続ける。「俺はね、あまり博打をしたい性格じゃないんだ。頼むから他を当たってくれ」

 商人の中には、危険な代物をこそもとめる者がいるが、この下町の宝石商はそう言ったたちではなかった。彼の望みは、父、祖父、曾祖父、それ以前の代から続くこの店を、先へと残すことである。そのためには賭けに出なければならない機会もあるだろう。しかし、今がその時だとは思わなかったようだ。

 だが、少年の方もこのまま引き下がる気はないようである。彼の目の前にいる商人は人の良さそうな顔つきをしていた。実際、少年がこれまでに話しかけてきた数多くの人間の中で、誰よりも親身であったのは確かだ。そのため少年はしおらしい雰囲気を演出して、瞳をうるませて食い下がるのだ。

「おじさん、ボクの顔をよく見ておくれ。目や口元、顎の形……悪くないでしょう。むしろ、整っていると思わないかい? ――でも、この鼻……、潰れてひん曲がった鼻!!」彼は自らの顔を鷲掴んだ。「この鼻が全てを台無しにしてしまったんだ! 生まれたときからこんな鼻だったわけじゃない。もっと真っ直ぐで、高かった!! 完璧な形だったんだ!!」

 少年は肩に触れるくらいの黒髪を振り乱し、地に伏せた。宝石商は後ずさる。少年の剣幕に危険を感じたからだ。

「去勢奴隷なんてさあ、醜男ぶおとこがなるものだろう? ボクはさ、そんなものとはこの上もなく縁遠かったんだ。本当は……ッ、ボクは、ボクはフレアの夫になるはずだったんだ! すっかり子供の頃から決まってたんだよ!? ずっと、ずっとボク……フレアぁ……。ああ、それなのに……忘れもしないさ、あれは一昨年の……。……うぐぅ、クッソぉあんの野郎ォ!!」

 少年は地面を殴って顔を上げた。虚空を睨みつけるライラックの瞳は怒りに燃えている。

「そうさ、あのときボクは病気で熱があって、フラフラだった。ろくに動けもしないボクにあいつが……あの……バルディンの野郎がッ! 殴りかかって来て! これ!! この鼻を潰しやがった!! このブサイクな顔! ああ、反吐が出るッ!!」少年の首に掛かった重い飾りが、ジャラ、と鳴った。「ボクは奴隷に格下げさ! ブサイクな男の使い道なんてそれしかないんだから! でもさあ、ボクのこの顔はさ、後天的なものなんだよ? ボクの子供は、ボクの本来の美形の遺伝子を継いでくれる筈じゃないか! ねえ、おじさんもそう思うよね!?」

 同意を求められ、宝石商はわけが分からないながらも頷いた。そうしなければ目の前の少年が今以上に荒れてしまうことが目に見えている。

 少年は一瞬歪な笑みを浮かべたが、またすぐに涙を瞳に溜めて鼻を鳴らした。

「ボクはフレアにもそう言ったんだ。『だから、なにも心配することないんだよ』って……なのにあのクソ野郎が! ボクの後釜に収まりやがった!!」少年は芯を失ったように、力なく石畳に伏した。「ふ、ぅ、あぁ、ぐすっ、むごいよぉ……、恋人と恋敵の睦事むつごとを、奴隷として見ているしかなかったボクの気持ちが分かるかい? 見せつけられたんだよ、バルディンの野郎に……。ああ、悔しい、悔しいッ!! あいつの股ぐらの袋をズタズタに切り裂いてやりたい! ボクにしたように……、いや、もっと苦しむ方法で! 屈辱的な方法でェッ!! ハッ!」彼は勢いよく身を起こす。「ブッ千切って淵海の大蛇に食わせてやろう! 化物の大口に自分のキンタマが呑み込まれるところを見て、あいつめ絶望すりゃいいんだ! 化物のクソかゲロになったキンタマの残骸を、泣きながら掻き集めりゃいい! ヴァリュレイ中に触れを出してやる! 公衆の面前でてめぇを素っ裸に剥いて、無様な股間を指差して笑ってやるからな!! アぁーっハッハッハッハッハ!! ざまあみろだ! 鎖に繋いで外に放置してやる! 切り株凍らせて死ね!! なぁーにが〈光の貴公子〉だバーカ!! 絶対泣かせてやる! 絶対! ぜったい!! ぜぇったいにだあぁ!!」

 仇をいざ目前にしたかのような形相で、宙を指差し嘲笑していた少年は、ひとしきり笑ってから再度背を丸めた。石畳を細長い爪で掻く。何度も声を裏返らせながら喚き散らす彼は、明らかに情緒が不安定の様子だ。通行人はもちろんのこと、十数件も離れた店の主や客が様子を伺う程度には、少年の叫びはよく通った。

 宝石商の男は、この少年をどのように店の前からどかせばよいのか考え、手を揉んだ。

 ところが、少年は宝石商の脚にすがりついた。「ねえ、おじさん! ボクはそいつ――バルディンに復讐してやりたいんだ! その為に、ボクには先立つものが必要なんだよぅ!!」

 去勢奴隷の少年は、熱意に満ちた顔つきで、涙を頬に伝わらせながら宝石商の男を見上げた。「お願いだ、金貨三十枚で交換してくれ」

 宝石商は腕を組み、ゆっくりと目を閉じた。彼は一つ息を吐く。少年が息を呑む気配が宝石商に伝わった。やがて商人は口を開き、静かに息を吸った。青年が喉を鳴らす。

「十枚」

 無情にも言い放たれた値に、少年の表情が消えた。

「あなたの店が潰れますように」

 少年はそう言い放ち、音もなく立ち上がった。彼はその後、二度と宝石商の男を振り返らず、西の方へ歩き去る。

 先ほどから幾度も通りがかっていたレイス騎士が、伺うように宝石商の男を見ていた。男は手を振り、話し合いが終わったことを伝える。騎士はヴァリュレイ人の少年が向かった方とは逆へ歩いて行った。

「ああくそ! むかつくな! 下手に出てやってるって言うのに、ファーリーン人ってケチばっかなんだ!!」

 ヴァリュレイの地からやってきた少年は、ひとり悪態をつく。彼はこの国から出ていくことを決心していた。既に十八件もの店で追い返されている。

 “グローラでなら、或いは”という言葉は、何度か耳にした。グローラという言葉を聞く度に、彼は己のはらわたが煮えくり返るような思いを味わった。彼を今のような境遇に追いやった男の祖国がグローラである。その男は突如ヴァリュレイにやって来て、〈光の貴公子〉という異名を掲げ、悠々とフォルクヴァン城を闊歩していたと、少年は記憶している。

 少年は、首元の飾りをあらためる。指摘されてみれば、たしかに彼が嫌ってやまない男が好みそうな造りであるかもしれない。が、その男の服飾品の好みというものを、少年はよく知らなかった。

 少年は港へと歩を進める。船代はない。グローラ生まれのあの男の事はまったく気に食わないとは言え、グローラという国自体にはなんら恨みはない。そう自らに言い聞かせて、嫌な思い出を頭の中から排除しようと奮闘しつつ歩き続けること四半刻。やがて、街並みの合間から、灰色がかった港が姿を現す。

 停泊する船たちの規模と数に、少年は圧倒された。多くはレイス、グローラの船舶であり、それらを見分けるのはごく簡単である。人力を動力とする無骨なガレーがレイス――ファーリーン――のもの、曲線美のある魔道動力船がグローラのものだ。少年が生まれ育ったヴァリュレイの船は、ファーリーンのものとほとんど変わらない。

 しかし、この港でもっとも少年が目を惹かれたのは、アウリー王国の船であった。かの王国は、乗組員が千を超すことのできる巨大な軍用船を何十隻も所有している、というのはヴァリュレイでも有名な話である。レイスの港に停泊しているのは貨物船で、百人程が乗れるものと見受けられる。ファーリーンやヴァリュレイの人間にしてみれば、その規模でも十分すぎるほどだ。しかし、当のアウリーに言わせれば、これらはむしろ小型の部類なのだ。

 そして、アウリーの船はグローラのものと同じく、動力が魔道である。つまり、乗組員のほとんどが常に自由に動くことができる。軍用となれば、船の操縦に携わる一部の人間以外は、すべて戦闘員となるのだ。アウリーの海軍が“世界最強”と世に言わしめる由来は、そこにある。

 レイス港に停泊するアウリーの貨物船から、いかにも重量のある積み荷が魔道の力によって引き下ろされる。その様子を遠巻きに眺めて、ヴァリュレイの少年は身震いした。もし、万が一あの荷物が落下したなら、あの場所で受取を待っている青年は潰れてしまうに違いない。彼は想像した。そして、できるだけそちらを見ないようにと心がけようとした。

「だいぶ改良されましたね」

 まさに、少年が目を逸らしたその場所から声がした。喧騒の合間に偶然耳に届いた声が気になり、少年はそちらを向いていた。淡い茶髪の青年の後ろ姿がある。

「前回こっぴどく却下されましたんで……」アウリーの商人らしき男性が頭を掻いている。

 茶髪の青年は頷く。「及第点です」

「きゅ、及第点……ですか」アウリーの商人は、あきらかに愕然とした様子である。

 茶髪の青年は微笑む。「でも、買い手はつくでしょう。これはこれで捌きます。次はもっと――」

 ヴァリュレイの少年は彼らの方へ近づいた。茶髪の青年は真剣な表情でアウリーの商人に指示していた。少年にはそのやりとりの意味はよく分からなかったが、茶髪の青年が滞りなく品物の改善点を挙げていく様子を見て、彼もまた商人であることは分かった。

 アウリーの商人ははじめ肩を落としていたが、彼もまた真剣な面持ちになって茶髪の青年の言葉をメモしている。

「それで、あのぅ……」ひとしきりの指示を受けてから、アウリーの商人は切り出した。「このこはどのくらいの値が……?」

「八百ですかね」茶髪の青年がさらりと答える。

 アウリーの商人は破顔した。「はあ! 良かった! ありがとうございますセドリックさん!」

「これで採算取れますか?」セドリックと呼ばれた茶髪の青年は、アウリーの商人が差し出した両手を握り返して訊ねた。

「はい、なんとか……。ああ、よかった……」

 セドリックは綺麗な笑みを浮かべた。「あなたがクビになってしまうと困りますからねぇ」

 これらのやりとりを目撃し、耳にしていたヴァリュレイの少年は、“八百――おそらくは金貨で八百という意味であろう――”という言葉におののいた。それに比較すれば、三十枚などまったく大したことはないように感じた。彼ならば、あのセドリックという青年ならば、このフレアの黄金を真っ当に取り扱ってくれるやもしれない。

 という、曖昧な自信を湧かせたヴァリュレイの少年は、セドリックがアウリー人と別れた頃合いを見計らって近づいた。

「や、やあお兄さん、ちょっといいかな?」

「はい、なんでしょうか」

 セドリックは振り向いた。ヴァリュレイの少年はすこしだけ相手の様子を伺う。しかし、セドリックは少年がみすぼらしいなりをした不細工な人間であっても、嫌そうな顔は一切しなかった。むしろ綺麗な笑みを浮かべて、こちらの言葉の続きを待っている。ヴァリュレイの少年は胸を撫で下ろした。

「あのー……、えっと、ボク……いや私はヴァリュレイからやってきました者で、ラキと申します。んっと、手持ちの財産がこの首飾りしかなくて、お金に変えられたらと思ったんですが、街の宝飾店は取り合ってくれなくて……」

 彼はどうやって相手に失礼のないように取引に持ち込めば良いのかわからず、言葉尻が消えた。少年――ラキ――は世間知らずの箱入りと、奴隷の人生しか経験していないのだ。

 次の言葉を迷うラキの首元に注目したセドリックが、わずかに目を細める。

「それは、光金ですね」

「え?」

 “光金”という言葉を、ラキは聞き慣れない。セドリックは穏やかな表情で言う。

「暗い場所で光りませんか?」

 ラキは「ああ!」と手を叩いた。「そう、光るんだ! 宝物庫でもなんだか明るかったからすごく目を引いたんだよ! 夜だってランプ代わりになるくらいさ! うんうん、思えば、こいつには随分助けられたっけなあ……。ああ、なんだか愛着が……。うぅっ、でも、ボクはこれを売ってお金にしないと……もう雑草食うような生活したくないもの……」

 ラキが悩んでいると、セドリックは近場の大きな建物を指し示した。

「私の事務所でお話しましょう。どうぞ」

 これまでにない手応えを、ラキは感じた。そして浮足立った。

   虚なる緑(2)

 セドリックの事務所であるシーゲート支所は、高級調度品で埋め尽くされていた。主には取引待ちの商品だという。

 セドリックは柔らかなソファをラキに勧め、二人分の紅茶を淹れてから向かいに掛けた。

「それは、どういった経緯でラキ様のお手元へ?」セドリックが尋ねる。

 ラキは先に下町の宝石商らに話した内容を繰り返した。今度こそ感情的にならないよう、細心の注意を払いつつ。

 彼が所有する首飾りは、フレアの家を出ると決意した際、餞別として断りなく貰ってきたものだ。要するならば、盗品ということになる。悲劇を語る間にはセドリックの眉尻は哀れみに垂れ下がり、手に汗握る場面では身を乗り出した。

「そのフレアさんは、女王騎士キュリアの総帥の方ですか?」ラキの話が一段落ついた頃を見計らってか、セドリックは問うた。

 ラキは勢いづいて、頬を紅潮させる。「そうさ! 今一番有名なフレアと言ったら、〈フォルクヴァンのフレア〉さ!」彼は胸を張って主張した。

 〈フォルクヴァンのフレア〉は、ラキにとって最も誇るべき女性だった。彼女が恋敵バルディンと寄り添っている場面を目撃したとしても、ラキは“彼女が自分を裏切った”などとは露ほども思っていない。

「なるほど。では、本題に。この首飾りを、お幾らで売ろうとお考えですか?」

「あ、ああ……」ラキは回想の世界から、現実へと帰還した。「そうだね……他では金貨三十枚くらいで交渉していたんだけど……」

「はい? なんですって?」セドリックが我が耳を疑うといった様子で聞き返す。

 ラキは身を跳ねさせた。そして縮こまったが、彼はこれ以上安く手放す気はない。もっとも、はじめの頃は金貨八十枚程度にはなるものと考えていた。しかし、それでは商人たちにまったく相手にされなかったため、次第に値を下げていったのだ。だが、金貨三十枚ほどの価値もないというのならば、この首飾りは思い出として持ち続けようとラキは考えた。彼は口を引き結んだ。

「アルディス通常金で三十の価値だと、あなたは仰るのですね」

 ラキは眼力を強めた。一方のセドリックは、どこか呆れたような様子だ。

「相場というものをご存じないようだ」彼は紙とペンをジャケットの胸ポケットから取り出し、ラキに見えるようにテーブルの上でなにかを書き始めた。

「いいですか、現在通常金貨一枚あたり、光金は0.0385オンス購入できます」

「え、えぇ、それっぽっち……?」ラキは驚いて声を上げた。

 セドリックは続ける。「金貨三十枚ですと、光金は1.16オンスで価値がだいたい釣り合います。そこで問題の首飾りですが、こちらは鍍金めっきではなく、内側まで純粋な光金のようですよ。重量はおよそ――」セドリックは首飾りを改めて手に持った。見た目以上に重い金細工を確かめたあとは、再びそっとテーブルに置き戻す。「明らかに70オンス以上あります。立派なものですね」

「つけてるとさ、肩が凝るんだよ」ラキは愚痴を吐いた。

「でしょうね」セドリックは笑う。「軽めに見積もって70オンス、ということは、光金の部分だけでも――まあ、まず金貨一八〇〇枚を下ることはないでしょう」

「…………は?」

 ラキは口を開けた。言葉が出てこない様子である。セドリックはさもおかしそうだ。

「はは、それに宝石だって付いてますよ。ガーネット、エメラルド、オパール……。比較的ありふれたものではありますけど、貴石は貴石です。更にもし、これが二百年以上の歴史を持っているのなら、価値はもっと上がりますよ。あはは、金貨三十枚か! 真顔でそんな値をふっかけられたら、みんな冗談だと思うでしょうね!」

「そ、そんな……、そんなに良いものだったんだ……」

 ラキは呆然とした。商人が取り合ってくれなかった理由がわかった。

「あなたがこの首飾りの材質を通常の金だと思い込んでいたにせよ、三十枚では到底たりない。その十倍の値は主張するべきでしたよ。そうしたら、もっと早くに買い手がついたかも。そしていずれは、店頭にあなたから買い取ったときの七倍以上の値札が付けられ、並べられていたでしょう。我々にとって、こんなに素晴らしい取引相手はいませんよ。どうぞ、お気をつけください」

 セドリックは金と光金の相場を記した紙をラキに渡し、ペンを仕舞った。ラキは上の空で紙を受け取り、綺麗に整った文字を眺めた。

「もしご希望とあれば、――こちらでももう少し検討のお時間を頂くことにはなりますが――、買い取ることは可能ですよ」

「あ、ああ、……うん……」

 ラキは曖昧な相槌を打った。

 大抵の場合、セドリックはシーゲート支所で寝泊まりしていた。彼にとって、眠る場所さえ確保できるのであれば、それが自室であろうと仕事場であろうと大した問題ではない。それでも週末、必ず一日は帰宅することにしているのは、彼の父がそう言いつけているためだ。

 セドリックの父リチャードは、レイス侯爵である。また、ファーリーン商会の議長でもある。

 リチャードには息子が四人いるが、その中で最も有能な者は誰かと問われれば、十中八九の人間は次男セドリックの名を挙げる。

 セドリックは、十三歳のときから父の商会議長の仕事を手伝い始め、そして十五でグローラとの大取引の監督を務めた。その交渉は、周囲は勿論、父さえ驚かせるほどの成功をおさめた。その後も幾つもの商談で良い結果を出し続け、彼は若くして多くの信頼を勝ち得、十八で公に議長補佐の肩書を得た。そして、忙しい父の代わりに議長の仕事を受け持ち、現在は最も有能な商人の一人として国家に貢献している。

 本日はと言えば、父によって定められた帰宅日であり、セドリックが全ての仕事を終える頃には日が沈みきっていた。彼の部下の殆どは彼より年上だったが、セドリックは年少者らしい遠慮と、持ち前の愛嬌でもって大層好かれている。

 夜道が冷える時期になっていた。質のよいダークグレーの薄手のコートを羽織って、シーゲート支所をあとにしたセドリックの目に、ある人物の姿が映った。

「おや、ラキ様。いかがなさいました?」

 昼間のヴァリュレイ人の少年が、物陰で蹲っていた。声を掛けられたラキは、僅かに肩を震わせてから顔を上げた。相手がセドリックだと分かると、彼はホッとした表情を見せた。

「や、やあ。……都会の喧騒は心にしみるね……」

 どことなく寂しげにそう言ったラキは、腕をさすりながら周囲を見渡した。

「宿はお取りでない?」セドリックはわかりきったことを聞いた。

 ラキは情けなさそうに頷く。「お金がないからねぇ」

 セドリックは少し考えるような間をもたせてから言った。「では、私の家にお越しになりますか?」

「え……、いいの?」

 セドリックは眉尻を下げて笑った。「わりと広い家なので」

「本当に良いのかい? ご家族に迷惑にならない?」

「大丈夫ですよ。一人二人増えたり減ったりしたところで、誰も気にしませんから」セドリックは冗談っぽく答えた。

「願ってもない申し入れだな」ラキは立ち上がった。「森の中じゃあ、そんなに感じなかったんだけどね。身なりの良い人達がひっきりなしに通りかかる場所じゃあ、自分がすごく惨めに思えてつらくなってしまうんだ」

「どうぞ、それほど遠くではありませんから」

 セドリックは、ラキを貴人にするように行く手へ導いた。ラキははじめ面食らったようだったが、すぐに笑みを浮かべた。

 二人でテイラー通りを東へ進む。通行人はセドリックに道を開ける。ラキはお喋りで、セドリックはやはり聞き上手だった。だが、それと同じくらい話上手でもあった。

 やがて、レイスで最も古いハイドランジア城が見えてくる。このレイスの主である侯爵一家の居城だ。レイス侯爵はもう一つ、レイス北部の“ゴールドスミス城”も所有しているが、現在はもっぱらハイドランジア城が本邸だ。

「ねえ、お城の方に向かっているのかい?」ラキが少しばかり不安そうに訊ねた。

「まあまあ、ついてきてください」セドリックは楽しそうに言った。

 城門に近づいたところで、門番騎士が敬礼した。「お帰りなさいませ、セドリック様」

「ただいま」

 ラキは口を開けてセドリックを見た。

 楽しい計画が成功したような顔で、セドリックはラキの方を向いた。「我が家へようこそ」

「君、侯子だったのかい!?」

「セドリック様、そちらは?」騎士が訊ねた。

「僕のお客様だよ。入ってもいいよね?」

 門番は扉を開けた。セドリックはラキを導きながら、一週間ぶりに帰宅した。

 敷地内へ入れば、まずは庭が出迎える。今は夜の暗がりで全貌が明らかでないが、広大な庭園である。城を見上げれば、窓から灯りがぽつぽつと漏れている。

 セドリックはラキとともに城内へ入った。出迎えの侍女に事情を説明しつつ、コートを預ける。

「フォルクヴァン城にも負けてないな」きらびやかなホール内を見回しながら、ラキが呟いた。

 セドリックは笑う。「光栄です」そして別の侍女を呼び止めて、ラキを託した。「僕のお客様なんだ。ヴァリュレイからお越しになった、ラキ様。僕はこれから父上にご挨拶してくるから、丁重におもてなししてね」

「かしこまりました」侍女はしっとりと頷いた。

「困ったことがあったら、気軽に声を掛けてください。ご自由にくつろいで。じゃあ、また」

 セドリックはラキへ断りを入れて、柔らかな赤いカーペットを革靴で踏み進んで消えた。

 廊下には、おおよそ等間隔で燭台が取り付けられ、一つ飛ばしで火が灯されていた。薄明かりがあらゆる置物、装飾品を柔らかく照らしている。古い絵画、精巧な彫刻、美麗な文様が施された陶器の花瓶や、壺、それらを引き立たせる古典調の台座。そして、家系につたわる甲冑。

 それらすべてが強い個性を持つが、すべては調和し、互いを引き立て、一つのすばらしい空間を作り上げていた。この最善の展示を成したのはリチャード侯に他ならない。

 セドリックは軽やかに改段を上り詰めた。父の私室前には執事がいて、慌てて主人に取り次ごうとしている。しかしセドリックは執事を押しのけ、勢い良く扉を開け放った。

「帰りましたよ父上!」無邪気な子供のようにセドリックは叫んだ。

 リチャードは大きくため息を付いて、机上の書き物から顔を上げた。

「お前は何をしたいんだろうな」

「一週間ぶりの父との再会にはしゃぐ、かわいい息子」

 リチャードは微妙そうな顔をした。「せめて十歳若返ってからにしなさい」

「それはどうも、残念でした」セドリックは肩を竦めた。

 リチャードは軽く額を押さえ、大きく息を吸って葉巻に手を伸ばした。「おかえりセドリック。ご苦労だった」そして火をつける。

 リチャードは一息ふかせた。白い煙を口から吐ききって、彼は気難しそうに言った。「帰ったら聞こうと思っていた。おまえ、私の名で王へ手紙を書いたな」

 セドリックはにっこりとした。「あは、バレました?」

「まったく……」そしてもう一息ふかす。「もう、今日は遅い。報告は明日で良い。私も、まだやることがあるのでね。早く休みなさい」

「分かりました。父上もね」セドリックは頷いて、くるりと踵を返した。

 セドリックはタイを緩めながら、一週間ぶりに自室へと向かった。二度めの角を曲がったところで、とある人影が彼の視界へ飛び込んだ。セドリックは目を細めた。

「パトリック」

 レイス侯爵家の三男パトリックは、丁度浴室から出てきたらしい。“レイス侯爵家の息子たちのうちで最も有能な者はセドリックである”と答える人間が十人中八人か九人いるとしたら、残りの一人か二人はこの“三男パトリックである”と答えるだろう。

 規則正しい生活をよく心がけるパトリックは、白いガウンに兎毛のやわらかい履物といった出で立ちで、これよりはもう部屋でくつろぐばかりの様子だ。彼の、兄と同じベージュ色の髪から、十分に拭いきれていない水分がぽたりと襟元へ落ちる。部屋に戻ってから、乾くまで世話人に梳いてもらうのだろう。

 ぬるい安らぎの時間にねじ込まれた兄弟の邂逅は、兄にとってはともかく、弟にとってはあまり嬉しいものでなかったようだ。彼は兄の声に呼び止められるとビクリと肩を震わせたのだった。適当に掛けていたらしいガウンを素早く直し、腰紐の締り具合を確かめ、そうしてからようやく、少々ぎこちなく振り向いた。

「おかえり……」

 セドリックは笑みを浮かべながら、両手をすり合わせた。「今日は冷えるね」

「ああ……」パトリックはうつむきがちに頷いた。

 セドリックはにやりとした。「すっかり遅い時間になってしまった。今週はさ、僕はもう帰ってこないかも! なんて思ったかい?」

「い、いや、別に……」

 パトリックの瞳に動揺が走るのを、セドリックは見逃しはしなかったが、敢えて指摘もしなかった。セドリックはするりと、弟の左側へ移動した。二人の背丈はさほど変わらない。兄は弟の顔を覗き込むが、パトリックは決してセドリックと目を合わせようとしなかった。

「ところで、フローレンスの様子はどうだい?」パトリックの頬に息がかかるほど近づいて、セドリックが尋ねる。

 パトリックは逃げるように顔を逸らす。「分からない。あまり見かけてない……」

「アリシアは?」

「たぶん、いつも通り」

「エリック」

「……いつも通り」

 セドリックはパトリックの肩に友好的な調子で腕を回した。「そう、じゃあ部屋から出てきてないんだね。なら、殴られたりもしてない?」

「ああ……」

 パトリックの様子は、蛇に睨まれた小動物のようだ。それでも瞳だけは決して兄と合わせようとしない。いまや彼は殆ど追い詰められ、壁に背をこすりつけていた。

 パトリックの速い心拍が三十ほど鳴っただろうか。セドリックはやっと弟から離れた。

「なら良かった。まあ、もう小さい子供じゃないもんね。次期騎士団長殿?」

「…………」パトリックは沈黙した。

 セドリックは、すっかりこわばったパトリックの背を軽く叩く。「悪い。湯冷めしてしまうね。早くベッドに入ったほうが良い。ああ、それとも風呂に入り直そうか。お兄ちゃんと一緒に」

「寝る」

 パトリックはその瞬間、解き放たれたようにセドリックの手を振り払った。そして、ほとんど走るようにして、その場から逃げ去った。

 セドリックは笑顔の横で手を振り、見送った。

 その部屋には、誰彼たちから贈られた調度品の数々があった。物の数は十分すぎるほど。しかし、どこか殺風景にも感じられるだろう。部屋の主は、世話人をあまり入れない。人の出入りが少ないためか。それとも、部屋の主の心根の反映か。

「〈リザード〉」

 ベストのボタンを外しながら、セドリックは言った。自分自身の他には誰もいないはずの室内で、まるで誰かに呼びかけるような調子で発せられた言葉。それに応える者はない。暫しの沈黙――。

 バルコニー側の扉が開いていた。金色の刺繍が施された赤いカーテンが、秋の風にふわりと広がる。その背後から、低い声は返ってきた。

「居りますよ」

 それは、地の底から響くような、地そのものから発せられるような、どこか幻じみた男の声だった。

 ソファへ仰向けに身を投げだしたセドリックは、右腕を額に乗せて、昼の様子からは誰も想像し得ないだろう無愛想さで言った。「のろい」

 バルコニーの声がクスリと笑った。「最近、すこし混み合ってましてね」

「そうかい。悪いね、忙しいところ」

「いえいえ」

 さして相手をいたわる気のなさそうな調子にも、〈リザード〉は気を害した様子がない。かれは遠い場所から、少し反響するふしぎな声で、セドリックに語りかける。

「南方の用は済みましたね」

 セドリックは口角と目元に弧を描く。「ふうん、それは良かった。誰か死んだ?」

「たくさん」〈リザード〉の声はどこか悲しげだった。

「そうは言っても、君がこれまでに見てきた死人の数にまさるとは思えないけどね」

「数の問題ばかりでもないのですよ」子供に言い聞かせるように〈リザード〉は言った。

 セドリックは相変わらずの不敵な笑みで、腕の下からバルコニーへ視線をやった。「へえ、よくわからないけど。そうなんだね」

 〈リザード〉の気配は、なにかを諦めたようだった。かれは声の調子をわずかに変えた。「あなた、今日は珍しいものを見ていましたよ」

「なんのことだろう」

「金の」思い出させるように〈リザード〉は言った。

「ああ……」セドリックは顔から腕をのけて、眉尻を上げる。「あれがなんだって?」

「鍵です」

「鍵?」セドリックは驚いたように声をうわずらせたが、表情はぴくりとも動いていない。「あれが? 鍵らしくない形だな」

「穴に挿し込むわけではありませんからね」

「フフ」

 セドリックはソファから腰を上げた。そしてバルコニーへと歩み寄る。カーテンをよけ、その後ろに立つ黒い影の〈リザード〉を見上げた。

「綺麗な顔」

「私もそう思います」〈リザード〉は自信に満ちた様子で答えた。

 かれは針のように鋭利な瞳孔で、セドリックの緑色の瞳を覗き込む。「その瞳の凪さの、懐かしいこと」

「“旧人類の目”とか言ったね。どういう意味なんだか」

 〈リザード〉は微笑んだ。「さぁて……」黒手袋に覆われた指先が、セドリックの頬に伸ばされた。

 そこで、〈リザード〉の動きはぴたりと止まった。かれは何かに耳をそばだてるように息を潜めた。三拍ほどの間を置いて、手を引く。

「行かなくては」

 セドリックは肩を落とした。「ああ残念。いい雰囲気だったのに」

 〈リザード〉は小さく笑って、背を向けた。「またお会いしましょう」

 瞬きの後、そこにはもう〈リザード〉の姿はなく、宵闇のみがあった。

   虚なる緑(3)

 深夜。多くの人々は眠りにつき、草木さえもさわめくことを控える時頃。ハイドランジア城の門番は、誰も己を見ていないのを良いことに、外壁にだらしなく背を預け、うつらうつらと首を上下に揺らしていた。時折、冷たい鋼の合わせ目が耳障りな音をたて、それによって現実に引き戻されながらも、彼は懲りずにまた船を漕ぐ。

 それを数分か、数十分か続けていた。ふと、彼の耳に自分自身の呼吸音とも、鎧の鳴る音とも異なるものが届いた。門より内側、ハイドランジア城の敷地内から。おそらくは中庭のあたりだろう。犬猫とは明らかに違う、二足歩行をする生物が、草を踏み駆ける音がする。素直な判断を下すのであれば、それは確かに人間の気配だった。

 番兵は柵扉の合間から、こそりと様子を伺う。心もとない燭台の光に引き伸ばされた影が、七十ヤードほど離れた草地に広がった。その人影は、どこか切迫したような息づかいを伴い、こちらへと近づく。

 その後ろを追うように、もう一つの影がぬぅっと現れた。ゆらり、ゆらり……と、のろくあやしい、亡霊のような緩慢さ。しかし、その割に歩みは早い。

 先の人影は、懸命に暗闇を探り歩く。だが、「キャア」と短く叫ぶと同時に草の上に転がった。

 女の声をした影は腰を抜かしたようで、いざりながら追いつこうとする影から逃れる。しかし亡霊の如き影は一呼吸の間に女の目前に迫っていた。

「ヒッ」再び女が小さく叫ぶ。

 追いついた影が女の上へ覆いかぶさった。二つの影は融合し、一つの塊となり、そして静かに、静かに蠢き始める。

 番兵は、卑猥にうごめく影から目を背けた。門番として通常あるべき姿勢をとり、暗い城外を黙々と凝視する。寒気を感じるのは気候のせいのみではあるまい。背後からは、底意地の悪い男のしつこくまとわりつくような囁きと、あわれな女のすすり泣きが、冷ややかな風に乗ってくる。

 番兵は息を殺し、気配を消し、それらを無視した。良心の呵責に抗いながら。

「あ、ァ、レ……ェッ」

 残酷な殴打音、番兵はきつく目を閉じた。

 腐臭じみたいやな息遣いと、哀しいすすり泣きの音は、しばらく続いた。

 うっそりとした朝だった。霧雨が街を湿らせる。

 レイス侯爵家の三男パトリックは、いつも決まった時刻に目を覚ます。よほど体調が悪いだとか、父などに命令でもされない限り、彼は太陽が昇るか昇らないかの――今くらいの時期であれば、まだくっきりと月が輝いているような――ころに、ベッドから出る。

 パトリックは、寝具にまだくるまっていたいとぐずる己の瞼と頭を叱咤して、冷水で顔を洗い、前日のうちに使用人が用意しておいた服に着替えて、滅多に寝癖のつかない髪を適当に梳き、一応全身鏡の前に立ってみて、そうして静かに自室から出た。

 廊下の燭台は、夜中のうちに脂が燃え尽きていた。暗い藍色の世界の中で、うっすらと浮かび上がる物陰を頼りにして、パトリックは城の裏口へとたどり着いた。彼は、父に管理権を与えてもらった一本の鍵を用い、外へ続く扉の鍵穴へ差し込んだ。

「誰?」

 唐突に声を掛けられた。パトリックは息を呑んで、背を扉に預けるようにして素早く振り返った。「聞きなれない声だ。でかいネズミかな」

 パトリックが硬質に言えば、軟弱な少年のような声の相手は憤ったように踵を鳴らした。

「ネズミとは失礼な!」

「お前こそ誰だ」パトリックは腕を組んだ。

 薄暗がりの先で、軟弱で傲慢そうな少年がふんぞり返るのが淡く見える。

「ボクが先に聞いたんだ。そっちから答えるのが筋じゃないのかい?」

「…………」パトリックは小さく舌打ちした。大股に二歩前進し腕を伸ばすと、彼の手先は軟弱で傲慢な少年の襟首を掴んだ。

「うぇ、苦しい」

 パトリックは弱々しい抵抗を見せる相手にうんざりしながらもその者を引きずり、手早く扉を開け放つと、掴んだ相手を外へ放り投げた。藍よりは明るい青の世界の中へ、少年が無様に転がる。パトリックも外へ踏み出した。

「やっぱガキか」相手の姿をまじまじと見て、パトリックは呟いた。

「何するんだ!」黒髪の少年が腰をさすりながら喚く。「ボクは侯子様のお客なんだよ! こんな無体なことをして良いと思ってるのかい!?」

 パトリックの表情がわずかにこわばった。「……兄さんの?」

「あれ……?」侯子のお客――ラキ――は、動揺を見せた。「あ、……君も侯子様……なのか……な?」

「…………」パトリックは肯定するように押し黙った。

 ラキは相手の地位が高いと気づくなり慌てふためいて、わたわたと名乗った。

 パトリックはどうでもよさそうな目つきでラキを見下す。そうしてから一つ息を吐き、ラキへ手を差し伸べた。

 ラキは僅かに動揺したようだが、パトリックの手を取り立ち上がる。

「で、お客様がこんな時間に、うろついてるのはなぜだろう」

 パトリックが嫌味っぽく言うと、ラキはむっと眉根を寄せた。が、不満の言葉は続けなかった。彼は傲慢だが、権力者には弱い。

「いや、その……」ラキはどもる。「お手洗いを借りたんだけど、部屋に戻る道順がわからなく……」語尾は殆ど聞こえなかった。

「じゃあ、廊下で眠れば?」パトリックはからかうように言った。

「はあ? いやだよ、寒いもの」ラキは口を尖らせた。

「なんだよ」パトリックはあざ笑う。「俺にあんたの部屋まで案内しろって?」

 ラキは歯ぎしりした。そしてパトリックをじっとりと睨む。「いいよ。してくれなくて。この城の中でボクが野垂れ死んだら、それはキミのせいだけど」

 パトリックはゆっくりと瞬きした。そして、彼の口角がわずかに上がる。次の瞬間、小さく吹き出した。「見かけによらず図太いやつだな」

「ボクは正直者なんだ」ラキは得意気に答えた。

「わかった」パトリックはいつもの涼しげな表情に戻っていた。「先に俺の用を済ますが。ついてこい」

 パトリックはラキを連れて中庭を縦断し、城門へ向かった。霧雨が頬を湿らせる。

「一晩ご苦労だった」パトリックは門番へ声を掛けた。

「あ、パトリック様……いえ、勿体ないお言葉です」

 パトリックが労うと、番兵はどこかぎくしゃくとしながら答えた。面頬が上げられていて、騎士の表情がよく伺える。何もかもを青白く染め上げる早朝の明かりの中でも、その顔は殊更ことさら青白く見えた。

「体調が悪いのか?」

「い、いいえ……?」やはりぎこちなく騎士は答える。

 パトリックは番兵を深く追求しないことにして、「勤めが終わったら、しっかり休めよ」と声を掛けた。

「はい……」

 番兵が頷くのを横目で確認しながら、パトリックはラキを連れて城門を出た。

「意外に優しい言葉を掛けるんだね……」番兵の姿が遠のいたところで、ラキは言った。

 パトリックは眉をひそめる。「べつに優しくなんかない」彼はさっぱりと答えた。

 城から幾分か距離を取ったところで、パトリックは物陰にラキを引き込んだ。ラキは小さく呻く。

 パトリックは周囲を警戒するように、潜めた声で言った。「もうハイドランジア城には戻るな」

「えッ、なんでさ!」ラキはパトリックの声音に引きずられたのか、ごく小声で問い詰める。

「セドリックにたぶらかされてきたんだろ。アイツとは関わらないほうが良い」

「彼はいい人だ」

「言うと思った。そう見せかけてるだけさ。とにかく、もう関わるな。城に入るのも許さない」

「そんな……」突然の追い出しに、ラキは愕然とした。せっかく暖かい人間味ある生活に数日は浸れると思っていたのに。しかし、それ以上の気がかりを思い出して、彼は慌てた。「ちょっとまってよ、ボク、部屋に大事なものを置いたままなんだから!」

 パトリックはラキを鋭く見やった。彼の目の奥には、頑なな決意と揺れ動く恐怖があった。彼の表情は真剣そのもので、ラキはもう、それ以上何かを言い返すことができなかった。

 暗がりの中で、青年は光を放つ金の首飾りを取り上げた。冷たく無機質な緑が、薄明かりを反射しきらめく。

 ずしりと重力を感じさせるその首飾りを、彼は群青色の空色に透かした。青年の瞳と同じ色をした緑石が、落ちかけた十六夜を映し出す。彼は目を細めた。

「みんなアレに夢見てるんだ。馬鹿馬鹿しいね」

 彼は呟き、こちらを見下ろす白い月を揶揄するように見つめ返しながら、太古の『鍵』を懐に仕舞い込んだ。

 日が昇り、人々が各々の役割を果たそうと活動を始める頃には、レイス侯爵とファーリーン商会議長を兼任するのリチャードもまた、業務を開始していた。彼の私室から壁と扉一枚で隔たれた執務室は、侯爵の類まれなる感性によって、集中を妨げない程度の装飾が施されつつも整然としていた。

 侯爵に対面するのは、商会議長補佐のセドリックだった。彼はこの一週間の成果を、上司リチャードに報告しているのである。セドリックは自らが手掛けた百近い取引の全容を、メモも見ずに淡々と述べていた。彼の横では、簿記が目にも留まらぬような速さで記帳している。このようなことをせずとも、月末になればその月の記録が各事務所から届けられる。それでもリチャードは、毎週セドリックの口から聞き出していた。この親子には、そのくらいしか交流の機会がないのだ。

 脳内の記録物を大量に取り出す作業をするとき、セドリックは決まって無感動な目をうろつかせた。時折まぶたを伏せれば、彼の比較的長い睫毛はピクピクと震えた。そして、自らの体のどこか――眉間であったり腿であったり――を、指先でひっきりなしに叩くのが、幼い頃からの癖だ。

 セドリックは――ラキと光金の首飾りの件を除いては――全てを報告し終えた。あまりにも事務的な親子の交流は、あっという間に終りを迎える。

「じゃあ、父上。僕はこれで。兄弟たちにかまってやらないと。昨日からウズウズしてたまらないんです」

「ほどほどにしろ」リチャードはわずかに苦々しげな顔つきをした。

 しかし、セドリックは父のその表情を見ては笑みを深めた。「父上もね。今日の業務は午前だけって決めてるんでしょ」

 リチャードは肩を竦めた。そして手で『出ろ』と合図をして、煙草をふかせた。だが、いざセドリックが部屋の扉に手をかけると、リチャードは彼を引き止めた。

「なあ、セドリック。カナリヤを殺したのはお前か?」

 セドリックは振り返った。緑の瞳が開かれている。「ああ……」上の空とも感じられる顔つきと声で、彼は答えた。「はい、鳴き声の耳触りが悪くて、つい。あれは父上のお気に入りでしたね。すみません。新しいのを買い直しておこうと思っていたんですが、忘れていました。……来週までには見つけてきますよ」

 リチャードは反射的に口を開いた。唇がわな、と震えた。しかし、彼は結局言葉を発することなく、そのまま口を閉じた。そうして微かながら眉をひそめ、首を横に振った。

「いや、……いい。買い直さなくていい」

「……ふーん?」セドリックは納得していない顔をした。理解できないものを見下すような視線を、彼は父へと向けた。

 おそろしく冷たい目だ。何もかも見通すようで、何も理解し得ない。リチャードはこの息子が自分の元へ生まれる以前から、これとよく似た瞳を知っていた。

「もういい。……行きなさい」

 無残に握りつぶされ、血と臓物で金色の羽を汚して、冷たい石床に打ち捨てられていた亡き妻との思い出に、リチャードは心中で深く詫びた。

 そんな父の心境になど全く関心のない様子で、セドリックは今度こそ部屋から出た。

 リチャードの執務室をあとにしたセドリックは、三階から二階へと下り、中庭を見渡しながら廊下を進んだ。薄い灰色が空を覆っている。朝方は小雨がちらついていたが、今は上がっているようだ。しかし、この様子ではまたいつ降り出してもおかしくない。

 中庭から進行方向へ視線を戻すと、セドリックの一歳違いの姉アリシアが、二人の侍女を伴って角を曲がったところだった。彼女はセドリックに気づくなり、眉をひそめた。

 だが、一方で弟の方は、その貼り付いたような笑みをより深くした。「姉さぁん! 会いたかったよ!」

 彼は両腕を広げ、アリシアに駆け寄る。飼いならされた犬のように、小柄な姉に抱きついた。アリシアはよろめいたが、かろうじて倒れずに耐えた。不機嫌そうな顔を取り繕いもせず、アリシアはセドリックを見上げる。

「ふふ」セドリックは笑った。彼は姉の顔に自らの顔を近づけた。白粉を塗ったアリシアの頬に、セドリックの息がかかる。

「よして」アリシアは顔同士の隙間に紫の扇を広げて、弟を遮った。「私から二歩離れなさい」彼女は命じた。

 セドリックはニコニコと従う。そして、驚いて固まった侍女たちにちらりと目配せし、愛想の良い笑みを浮かべた。「まずかったみたい?」

 アリシアはドレスの裾を直す。「あなたねえ、いちいち近すぎなのよ。気持ち悪い」

 ため息混じりに姉が言えば、弟はけろりとした顔で答える。「仲のいい姉弟って、こんな感じなのかと思って」

 侍女たちがクスクスと笑う。

「私に仲のいい兄や弟なんていたかしら」つんとしてアリシアは答えた。

 セドリックは叱られた幼子のように眉尻を下げた。「そんな寂しいこと言わないでよ」彼は拗ねたように唇を尖らせて、つれない姉の代わりに自分自身を抱きしめる。「一応ね、パトリックにはしていないんだ。ハグまでなら許してくれるかなと思ったんだけど。やっぱりダメみたいでさ。僕は久しぶりに会えたのが嬉しかったから、もーういっぱいキスしてあげたかったんだけど。あの子も姉さんみたいに気持ち悪がって、結局させてくれなかった。目も合わせてくれないんだよ、寂しいなあ」

 侍女たちがまた笑った。「セドリック様って、本当におもしろい方。わたくしたち、毎週セドリック様のご帰宅を楽しみにしておりますの」

「おや、そうなの?」セドリックはにっこりと笑った。「そんなに嬉しいこと言ってくれるなんて。君が僕の妹になってくれたらな……。あ、そうだ。来週はなにかお土産でも買ってきてあげる! 何がいい? ちょっとくらいなら高価でもいいよ。ちょっとだけならね」

 その時だった。

「口ごたえするか、この恥知らず! あばずれが!」

 城内に響き渡る声があった。ガラガラと乾いたそれの持ち主は、普段滅多には喋らない代わりに、いざ口を開けば汚い恫喝ばかりだった。声の主は明らかだ。レイス侯爵家の長男、エリックである。

 侍女たちは、先の声にすっかり怯え、二人で肩を寄せ合っている。

「珍しいね、昼間に起きてるなんて」

 そう呟いたセドリックの傍らで、アリシアは嫌悪丸出しの表情で吐き捨てた。「あの声、ほんとう気分悪いわ。私もゴールドスミス城で隠居しようかしら。今すぐ出ていきたい」

「アリシアが離れちゃったら、父上が寂しがるよ」

「知らないわよ」

 アリシアはエリックの声がした方をキッと睨んでから、セドリックを押し退けてその場から立ち去る。彼女の侍女たちが、慌てて主人を追っていった。

   虚なる緑(4)

 セドリックは、先ほどより幾分か調子の下がった喚き声のする方をしばらく眺めていたが、やがてそちらへ歩を進めた。はじめの角を右に曲がり、左手に備わる扉を四つ見送る。その先の右側に幅広のアーチ。向こう側には、中庭を見渡せるバルコニー付きのホールがある。このハイドランジア城で、もっとも豪華なあつらえが施されたその部屋は、パーティー会場として時々用いられる。

 その広い部屋の中央のあたりに、ひょろ長い人影があった。足元には金髪の女性が倒れている。血走った目で彼女を見下ろす、ひょろ長い影の正体こそが、セドリックの兄であり、レイス侯爵家の長男でもあるエリックだ。陽に当たることが少ないため、彼の肌は不健康に青白く、不眠症であるがために目の下には濃い隈がくっきりと浮き上がっていた。髪はだらしなく伸ばされ、髭もまばらで、ひどく不格好である。

 エリックは腰を折り、足元に倒れた女性のブラウスの襟を掴んで、乱暴にゆすり起こした。女性は抵抗しない。ぼんやりと宙を見つめているその顔は、ほとんど意識がないように見受けられる。しかし、セドリックにはそれが“ふり”でしかないことが分かっていた。彼女の意識は、いつだって鮮明なのだ。

「えい、フローレンス! 聞け! 私が侯爵になった暁には、真っ先におまえを殺してやる。お前の子供も、ここに引きずり戻して殺す。アレンもだ。あいつはどうしてやろうか? あの裏切り者め、お前とフレデリックの前で痛めつけてやろう。あいつはもちろん従うだろう。そうだろう? お前たち親子を人質にとってやれば、あいつは逆らえん。そうに決まっている。泣いて許しを請うのはお前だぞ、フローレンス! さんざアレンを痛めつけてやったら、そうしたら、動けぬあいつとフレデリックの前できさまを犯してやる。犯しながら殺してやるからな。今から覚悟しておくんだな、フローレンス!」

 エリックは早口でまくしたてて、金髪の女性フローレンスを、またも乱暴に床へ転がした。そして鼻息荒くゆらりと立って、横たわるフローレンスの顔に唾を吐いた。白く泡立った唾液がフローレンスの頬を伝い、糸を引きながら床へ滴った。

 エリックは振り返り、アーチの柱にもたれかかるセドリックの姿をとらえた。しかし彼はすぐに視線を外して、人を呪い殺しているさなかのような顔をしながら、ホールを後にしようとする。

「パトリックは殺さないんだ」

 明るい調子でセドリックが言うと、エリックはぴたりと立ち止まった。セドリックはまったく大したことではないような、軽い口調で続ける。

「彼を産んだがために、母上は亡くなったんじゃないか。エリックはパトリックあれが嫌いなんだろ。パトリックに対する計画は何もないの? それとも、なんだかんだ言っても完全に血が繋がってるわけだし、ちょっとは可愛いのかな?」

 エリックはおぞましい形相でセドリックを睨みつけた。血走った眼球がぎらつく。「あの小僧の名を! 私の耳に入れるな!!」

 エリックはそう弟を怒鳴りつけ、鼻息を荒くして出ていった。セドリックはその後ろ姿を無表情で見送って、兄の姿が見えなくなってから、わざとらしいため息をついた。

「栄養不足だ」セドリックはフローレンスの方へ近づいた。「だからあんなに苛々してるんじゃないの? まったく、ちゃんと食事をして、昼に庭でも歩けば少しは落ち着くと思うんだけど、僕が何言っても聞かないからね。まあ、誰が言っても聞かないだろうけど」曇り空の中庭を眺める。「彼が次のレイス侯爵って、本気なの? 信じられない。こんなに恐ろしいことってある? ハイドランジア城の亡霊なんかより――って言っても、僕は出会ったことがないけど――、そんなものより、あれが僕の上に立つって現実のほうが受け入れがたいよ」

 セドリックは足元のフローレンスをいたわるように、ベストの胸ポケットから取り出したシルクのハンカチで、彼女の顔についたものを拭った。

「かわいそうに。エリックは母上のことが大好きだったんだ。だから、あなたのことが好きになれない。あの母上のこと、僕はあまり好きじゃなかったけど、エリックは彼女が優しかった頃を知ってるからね。でもまあ、彼女が僕らに対して意地悪になったのはさ、父のせいだと思うよ。もともと、他と比較してものすごく器の広い女性ってわけでもなかったし。ひどい欲求不満だったんだ。しょうがないよ」

 セドリックは、目を閉じたまま微動だにしないフローレンスを見下ろしていた。そして、エリックの唾液が染み込んだハンカチを、顔をしかめながら指先でつまみ、宙でひらつかせる。

「僕のことも怖いのかな、お姉さん。寝てるフリしてるのなんて分かりきってます。さあ、目を開けなよ。あいつの臭くて汚い唾を拭ってやったんだ」

 目を閉じたままで、フローレンスは微かに青ざめた。彼女は一瞬ためらったようだが、やがて目を開いた。蒼色の瞳が、行き場なくさまよう。

「どこか痛むところはない? フローレンス」

 優しげな口調でセドリックが問うと、フローレンスはゆっくりと体を起こし、首を横に振った。

「そう、よかったね」綺麗に磨かれた木材の床の上に、セドリックは座り込んだ。

 フローレンスは三十代に差し掛かった痩せた女性で、金髪は肩よりわずか下方に届く辺りまで伸ばされている。微かに緑みを帯びた青い瞳は強い意志と生命力に満ちているが、少なからず疲れているようでもあった。ハイドランジア城の召使がまとう制服よりも質素な装いで、白いブラウスとアイボリーのロングスカート、腰につけた黒茶のベルトと同色のブーツ。飾りらしいものは、何一つ身につけていなかった。

「ねえ、寂しくないんですか?」セドリックは藪から棒に言った。「あなたの大好きなフレデリックとアレンがいなくなってしまってさ。そもそも、あなたが望んだことではあるけど、少し後悔してるんじゃありません? 正直なところ」

 フローレンスは唇を噛んだ。

 目ざといセドリックは、満足そうな笑みを浮かべた。「でも、仕方ないよね。あなたが望んだんだもの、あなたは耐えなきゃ」彼はそう言い放ち、そして「あーあ」と天を仰いで見せる。「みんなに虐められて、守ってくれる騎士ナイトもいなくてさ――可哀想なお姫様。物語風に仕上げたら、悲劇を好む大衆ってものに受けそうだ。……ねえ、辛かったら出ていってもいいんですよ? 父はある程度の援助をします。父だって、あなたには悪いと思ってるんだ」そこまで口にして、セドリックは俯くフローレンスの顔を覗き込んだ。「それとも、父へのあてつけ?」

「違う。リチャード様には感謝してるもの」フローレンスはやっと言葉を発した。

 セドリックはさも意外そうな顔をした。「だって、“父親”と重ねてたんでしょ? それなのに子を孕ませられて、嫌じゃないの?」

「それでも」フローレンスはきっぱりと断言した。

 セドリックは信じがたそうに、あからさまに首をかしげた。呆気にとられたような表情で、床をコツコツと指先で叩く。彼はふっと笑みを浮かべた。

「あっそう」彼はすこし苛立っているようだった。彼の笑みは完璧だ。フローレンスを鼻で笑い、嘲って、そして彼女の腰に腕を回して擦り寄った。セドリックは声をひそめ、秘密ごとを打ち明けるように言った。「でもさあ、あなたはエリックにも抱かれているわけでしょう? フフ、昨日も中庭でヤってましたよね」

 フローレンスは顔を青ざめさせた。「あなた、起きてたの……」

 フローレンスの動揺した様子に、セドリックは満足げだ。「まあね。実を言うと、何度も鉢合わせてるんだ。ほら、あんまり寝付きの良いほうじゃないからさ、僕。ああ、安心して。誰にも言ってませんし、言いません。言いふらされたくないでしょう? ただし、勘のいいやつはいますからねぇ。既に気づかれてるところまでは、僕は関知しませんけども」

 フローレンスはしきりに瞬きをした。すっかり動揺しているようだった。

 セドリックは低い声で、彼女の耳元に囁いた。「そのうち彼の子まで身籠りそうだね。エリックはその辺、気なんか使わなさそう。むしろ、アイツはあなたに意地悪がしたいんだろうから。ねえ、いちいち薬とか飲んでるの? たいへん。あまり薬物に頼りすぎるのもよくないけどねぇ。程々にどうぞ? ところで、アイツの精液ってすっごく汚そうだよね! オエ! ねえ、あなたも汚いと思うよね? …………、あ……ごめんなさい、嫌なこと意識させちゃったかな。でも、十分注意してくださいよ、父が悲しむもの。……アレンもかなぁ。う〜ん、彼はすっごく悲しむだろうねえ! 口には出さなくても。彼は顔にも出さないけど、内心では色々思ってるよきっと」

 フローレンスは自らの肩に手を回した。彼女の瞳は見開かれて、薄く水膜が張っている。

 そんな彼女の頬に、セドリックはまるで慈しむように指先を添わせた。「ほんとうに、可哀想なフローレンス。リチャードにアレンにエリック……。まあ、あなたが望んだのは、はじめからアレン一人だったんだろうけどね」彼はフローレンスの顔を覗き込み、彼女の下腹にふわりと手を添えた。クスリと笑う。「なんなら、僕の子を孕んでみます? あの阿呆エリックのよりはマシな子が生まれますよ、きっと。それにずっと清潔だし、優しくしてあげます。ねえ、どうです、義母上ははうえ?」

 フローレンスが喉から引き攣った音を発した。身を硬くし、腹部に添えられたセドリックの左手を凝視する。

 セドリックはじっとフローレンスの表情を見つめていた。しかし、彼は急にフローレンスの口元へ自分の耳を寄せた。「えっ!? なになに!? “気狂い男の子供なんて御免だわ!”って?」そう言って、フローレンスの顔を下方から見上げた。

 フローレンスは、セドリックの瞳を真正面から捉えた。冷たい爬虫類のような、緑の目。一度捕らえられたが最後、並の意志では逸らすことがかなわない。彼女は、自分が今どこにいて、誰と話をしていて、どんな感情を抱いているのか分からなくなった。

 「そんな顔して」セドリックは悲しげな表情を浮かべた。「本当にそんなふうに思ってるんだ……僕をキチガイだって。酷いや。傷つきました」セドリックはフローレンスから身体を離した。

 そして、唐突に妙に明るい感じになって、あっけらかんとした様子で義母の隣に座り直したのだった。それからの彼は、異様に饒舌だった。

「話変わりますけど、いいですか? この頃仕事が忙しくて。そりゃあ、良いことですけどね。でも、あまり忙しいと……分かるでしょ? ヒマがないんだよ。ほら……女の子とかさ、声掛けたくなるでしょ? 僕って今二十五歳なんだ、知ってましたっけ? まあ、正直なところ女性じゃなくても良いんだ。でもねえ、誰が見てるか分からないから。女の人なら誤魔化し利くでしょ。一番安全なのが、人間の、成人してる女ってだけの話でさ。はあ、昨日もさ、せっかく――ん〜、まあいいかそれは。あなたなら分かってくれると思うけど、僕は別に愛がほしいわけじゃないんだ。求めてないし、与える気もない。それでも、人並みに性欲はある。だって、そこは別の回路でしょう? 一人で処理しろ? そうしてますよ。相手が捕まらなけりゃそうするしかないでしょ。でもさあ、誰かに……って事を知っちゃうと、自分でってのがなんだかすっかり物足りなく感じてしまうんだよ。そういうものじゃない? だって、次どうしたらいいかとか、実際どうしようかとか、完璧に分かってるわけですもの。ちょっとは思い通りにならない方が楽しいでしょ。まあ、思い通りに動くように操作するけどさ。でも、この場合動くのは僕じゃないからね。余分な考えとか感覚とか、排除できるし、集中できるんだよ。第一、あれは面白い感覚だよ。でもちょっと恐いね。……そう、恐い! こういうことって! 素晴らしい感覚! あの身体が完全に制御不能になる一瞬がさ! 身体が僕の主導権を握るんだ。なんてスリリングなんだろう! それがクッソ楽しくてたまらないんだ。僕らをこういう仕組みにつくった誰かさんは、なんてヤツだろう! とんでもないよ! 天才だ! 僕はこの仕組みが好きだな。ねえ、僕ってべつに、相手にはこだわらないんだ。僕ほどこだわらない人間ってきっと珍しいよ? なんなら死人だっていいんだから。石像や絵画だって。犬猫だっていいさ。ときに、植物のグロテスクな曲線美にも魅力を感じる。冷たく鋭利で、無骨なナイフにも。そして、グレイブルーの空と、インディゴの夜、髪を湿らす霧雨、つま先に蹴られる石ころ……。みんな同じさ、僕にとってはね。当然、見た目――或いは音、触感など――は、良いに越したことない。自分で言うのもなんだけど、僕の美的感覚って結構優れてると思うんだ。いや、……う〜ん、美的感覚? 美的感覚ってなんだろう。まあ、あなた達が考えてるのと同じかどうかは分からないな。きっと、もう少し論理的で数学的なんだと思う。それを“感覚”と言って良いのか。まあ良いでしょう、僕にとってはこれが“感覚”なんだ。――フローレンス、あなたは十分に美しいよ。あなたが持ってる美しい要素と、美しくない要素を挙げてみようか? 聞いても仕方ない? でも、あなたには美しい要素のほうが多いよ。七対三くらいの比率かな。それとも六対四? その中間くらいか。あ、補足しておくけど、これは外見の要素から導き出したんだ。内面までは加味してないから、あしからず……内面はね、研究中なんだ。でも外見に関して言うなら、この程度が一番好まれやすいよ。人は美しすぎても良くない。美しすぎるとね、かえって気持ち悪いものなんだ。ちょうどいい具合ってのが……う〜ん、難しいね。でも、分かるでしょ? 何事も統計を取るんだって。そうすると、自ずと“平均値”ってのが出てくるから、いろんなことをそれに基づいて考える。適度にずらしながら。その“適度”も統計から導き出すんだけどね。僕はこれらを利用するのが、ちょっと得意なんだ。だから仕事がうまくいく。……あー、ええと、……なんの話をしているんだっけ? まあ、こんなのってよくあることですよね。仕方ないな。だって、色々考えてたって口は一つしかないんだもの――。……そうそうそう、それにね、肉親だって気にしませんよ。だって、所詮は他人だから。血がつながってる。だから? 遺伝学的によろしくないってんなら、子供ができないようにすりゃあいい。それだけの話じゃない? そもそも、絶対なんてないってことになってるなら、ものすごく慎重に相手を選んでも、ごく僅かな確率には当たってしまうことがあるはずなんた。そんなときってどうするの? 期待はずれだってガッカリする? 自分勝手にも程が有るんじゃない? って、僕が言えた口じゃないか! アハハ! まあ、どうせみんなそんなめんどくさいことって考えてないよね。ただ、世間が“そう”だから“そう”してるだけなんだ。ていうか、聞いて? 僕ってばうっかりしてた。アレ……、――ほら、あの小鳥、いただろ? 父上がかわいがってた……インコだっけ? あ、違うカナリヤだ――アレを殺したことすっかり忘れてたんだ。父上がガッカリしてたよ。悪い事しちゃったかなぁ。でも、仕方ないじゃないか、煩かったんだもの。ピィピィピィピィ喧しくてさあ。ついね、ついカゴに手ぇ突っ込んで、引っ掴んで潰しちゃった! グチャッて! そしたらね、『ギェッ』て言ったよ! うん? 『ギュァッ』って感じだった? うまく再現できないなぁ。ま、僕は一応人間だからね、鳥が出す音を完璧に模倣するのは難しいんだ。なんかね、中からいっぱい出てきた。何が出たか聞きたい? 聞きたくない? あ、そう。じゃあ想像にお任せするね。僕、すごく残酷なことしちゃったかも。でも、あんな片手で潰せるような弱い生き物なのが悪いと思うんだ。それでも僕は反省したよ。弱い生き物には優しくしてあげるべきだった。だから、遠ざけるのが正解だったのかなって、思った。けどさ、もう殺っちゃったんだ! 仕方ないよね! 僕が後悔したところで生き返るわけじゃなし!」

 フローレンスは不穏さを感じた。彼女はセドリックが少年だった頃から彼を知っていて、彼の性根など分かりきっていた。だからこそ、彼女はセドリックの様子が普段となにか異なっていることを感じ取った。セドリックは不思議と人を惹きつけた。フローレンスは、自分が彼の口から紡ぎ出される言葉に捕らわれてしまったことに気がついた。しかし、すでにもう遅く、フローレンスはもはや彼の話から意識を遠ざけることができなくなっていた。この先へ続く彼の話を、聞いてはならない。本能的に悟った。それでも、彼女の身体は大蛇に巻き付かれたように息苦しく、動かなかった。フローレンスの耳は、意識は、セドリックの言葉を拾い続けるのだ。

「アリシアってすごい人だと思うんだ。だって、いっつも口の緩い侍女を侍らせてる。誰もができることではないでしょう。僕は嫌だよ、口やかましい女……だか男だかに四六時中つき纏われるなんて。ねえ、アリシアのアレはさ、僕のためにやってるんだよ。彼女も本来はあまりうるさいの好きじゃないんだ。彼女、僕のこと心の底から嫌ってる。いつも身の危険を感じてる。いかにも、だって僕は肉親だって気にしないんだから。……ねえ、エリックみたいに臭くて汚いヤツは僕も嫌いなんだけどさ、パトリックってすごく可愛い子だと思うんだ。もちろんあなたもかわいいよ……」セドリックはフローレンスの蒼い瞳を覗き込んで、静かに続けた。「フレデリックもね。とくにあの子は隙だらけだ。実際、僕は何度か――」

 セドリックは、“しまった”というような顔をした。わざとらしかった。そして、彼はいやらしい笑みを浮かべた。「あー……、ふふ、ごめんなさい。今のは忘れて?」

 フローレンスは愕然とした。「まさか……あなた……」

「なあに?」

「そんな……もし、もしそうなら……私……」

「貴様を殺してやる!」

 セドリックが声を上げ、フローレンスはセドリックの胸ぐらに掴みかかった。笑みをその顔へ貼り付けたセドリックは、床へ仰向けに倒れ込む。フローレンスは彼の上に乗り上げた。

「ええ、ええ! そうよ、殺してやるわ!」

 蒼い瞳は怒りに燃えていた。しかしセドリックはあざ笑う。さもおかしそうに、まるで楽しい玩具で遊ぶ子供のように。

「そうかい、やってみなよ。あははは! 僕がいなくなったらレイスは終わりだろうな。有能なレイスの次男坊を殺したら、あなたは酷い非難を受けるだろうけど、まあ、あなたはそんなこと気にしないだろうね! さあ、どうぞ!」

「許さない、許さない、殺してやる」

「僕が言葉に刺されて死ぬようなヤツじゃないって、知ってるでしょう? ほら、首を締めるのは嫌かい? ならナイフを取ってくる時間をあげよう」

 フローレンスは嗚咽を漏らしていた。彼女の頬を後悔の涙が伝い落ち、セドリックの顔を濡らした。セドリックは静かな微笑みを浮かべた。

「……分かってる。あなたにはできない」彼は手を差し伸べ、フローレンスの目元を拭った。「本気にした? 冗談ですよ」

 フローレンスの手から力が抜けた。セドリックのワイシャツの襟から、彼女の手は離れた。セドリックは、体の上に乗り上げたままのフローレンスを片手で支えつつ、起き上がった。

「嘘……? 本当に?」フローレンスは縋るように訊ねた。

 セドリックは服の皺を延ばした。そして、髪型を整えながら、全く他人事でしかないような空虚な口調で言うのであった。

「ああ、そうだよね……冗談だと思いたいもの。冗談だったって言葉を信じるさ。そりゃあね、可愛い一人息子がさ、異母兄に犯された事があるだなんて、信じたくないですもんね?」

 フローレンスの表情が凍りついた。セドリックは冷たい笑みをフローレンスへ向けた。

「いいや、もちろんそんな事実はありませんけどね。でも気になるって言うなら、今度フレッドに会ったときに本人へ聞いてみなよ。……ママにそんな事聞かれたら、困っちゃうかな……。ねえ? 絶対『そう』とは言わないよ。あなたに分かるかは知らないけど、彼にも男のプライドっていうのがあるんだから。しかも、あれでも人一倍強い。人って見かけによらないよね」

 フローレンスはいよいよ泣き崩れた。

 セドリックは薄ら笑みを浮かべて立ち上がる。彼は情を解さない緑の瞳を、フローレンスへ落とした。

「充実した日。主にはあなたのおかげだ。話を聞いてくれて、どうもありがとう。ねえ、フローレンス、どうしてこんなに酷いことばかり言うのか分かる? それはね、あなたが僕の家族だからだよ」

 床に倒れ込み声を上げて泣くフローレンスへ、そう声を掛け、セドリックは彼女のもとから立ち去った。

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