約束の還る海
メレーの子 前編
カエラスに降り立った〈月の神子〉より、フェムトスは天空を賜り、メレーは大海を賜り受けた。
海の担い手となったメレーは、先ず一束の髪を切り取り、海水へと投げ入れた。すると、黒く淀み渦巻く水は間も置かずに透き通りはじめ、泡を湧かせた。水泡は広がり、飛沫を上げ、やがて巨大な神が現れた。その者はラリマーの肌とサファイアの瞳、そして波のようにうねるエメラルドの髪から成っていた。メレーはその雄々しい姿をとった分身に『ピトゥレー』という名を与え、カエラスの広大な海を治めるように命じた。
しかし、ピトゥレーの気性は激しく、その身よりも巨大な波を興し人々を攫い、また或いは小島を沈めるなどといったことをして時を過ごすばかりであった。
メレーは彼の者の宥め役として、十二人の海の妖精姉妹ウェヴィリアをつくった。初めこそ友好的に関わろうと努めた彼女たちだったが、次第にピトゥレーを恐れるようになった。しかし、長女のジャメナは勇敢だった。彼女はピトゥレーの神殿へ通い、かれが人々を苦しめることがないよう日々願った。ところが、激高したピトゥレーはジャメナを殺してしまった。彼女の妹たちは一層ピトゥレーに怯え、かれに意見することはおろか、話しかけることすらできなくなってしまった。
姉妹たちはメレーに泣きつき、百年姉の死を嘆き続けた。メレーは妖精たちの嘆きを全て聞いた後で、その姿を消した。
ジュローラの街に、アンドローレスという人間の若者がいた。彼はメレーの神殿で育った神官だった。
ある日、常日頃おこなっているように祭壇で祈りを捧げていたアンドローレスは、メレーの言葉を聴いた。それは、「今からあなたの元へ一人の女が行くから、その者と子を成すように」というものであった。アンドローレスは己の気が違えたのかと感じ狼狽えた。メレーの神官は結婚することも、血の繋がった子を持つことも許されていない。アンドローレスは若くして模範的な神官であったので、そのような望みを抱いたことはなかった。「それはできません」と、アンドローレスは答えた。
メレーは言葉を続けた。「私に仕える人間のうち、最も私に信を置き、常に頼らんとするあなたにこそ伝えている。生まれた子はピトゥレーに託す。他の者ではならない。何故ならば、子への愛着によって、その時に手放すことができないためである。あなたは私の言葉に従うので、この役目を担うことができるだろう。他の者では務まらぬ役目を、私はあなたに与えよう」
「私にとって最も敬愛すべきメレー、どうか戸惑う私の心をお赦しください。私は今、邪悪なる者があなたの気配を真似て、私を堕落させようとしているのか、または私の中に存在する邪なものが、さも偉大なるあなたの言葉であるかのように私自身に語りかけているのか、判らないのです」アンドローレスは祭壇に飾られた七色の光を放つ水晶球へと跪き、言った。
「立って、振り返り、そこにいる女を見なさい」メレーは命じた。
アンドローレスは疑いの晴れぬまま、メレーのものと思しき言葉に従った。そうして振り返れば、すぐそばに一人の女がいる。アンドローレスは顔を覆う薄布を上げて、その者の姿へ人の目を凝らした。美しい女は、古代人のように青白く透き通る肌をして、髪は神殿の銀色を反射させ、瞳はアンドローレスと同じサファイア石の輝きをたたえている。
アンドローレスは焦り顔の覆いを戻し、女に背いて水晶球を仰ぎ縋った。「メレー、この女の名はなんというのですか」と、彼は神と語らう言葉で問いかけた。
しかしメレーは答えず、代わりに彼の背後に立つ女が、人の言葉で答えた。「好きなようにお呼びなさい」
アンドローレスは恐ろしげに再度振り返り、顔の覆いを外し、またよくその女を見た。そして「メレーなのですか」と確かめれば、女は微笑み、アンドローレスの手を取った。だが、彼の問いには答えなかった。
しかし幼少より神に仕え、語り合ってきたアンドローレスには、触れ合った手より通じる気がメレーのものと同一であることが分かった。女の中にメレーの霊が存在していることを、彼は確信した。
親も兄弟もなく育ってきたアンドローレスの居場所は、常にメレーの神殿であった。身寄りのない女を保護したといって、仲間の前では人の姿をとったメレーを『メーリア』と呼び、親しんだ。
やがてメレーはその人間の女体に子を宿した。他でもないアンドローレスとの子である。アンドローレスは初めこそ素知らぬふりをしていたが、元来正直者で嘘のつけぬ性分であるところに、神官仲間から疑われ続けることに耐えきれず、間もなく神官の誓いを破ったことを告白した。
アンドローレスは糾弾され、神殿を叩き出された。メーリアもまた、その霊が休むべき場を追われ、ふたりは露頭をさまようこととなった。尊敬を預かる神官の規則を破ったアンドローレスの噂は忽ちにジュローラ中へと知れ渡り、誰もが彼を見下げ、美しきメーリアは高潔なる神官を堕落させた汚らわしい女と罵られた。
メーリアは食事を要さなかった。十二回の満月を見送る間、彼女は食物はおろか水さえも口にはしなかった。しかしながらその体は決して痩せ細ることはなく、瑞々しい美しさを保ち続け、その胎の中で成長してゆく生命を護り続けた。
しかし、純然たる人間のアンドローレスが衰えるのは早かった。物を乞うたところで見向きもされず、時に暴力をも振るわれた。しかしながら盗みを働けるほど堕ちることもできず、彼は泉の水を飲み、野草を食んで過ごした。英気ある若さを湛えていた肉体が、あらゆる骨を皮の下に浮き上がらせるようになるまでに、さほどの時間は要さなかった。
月の満ちた凍える夜、メーリアは男児を産み落とした。その嬰児を抱き、衰弱し立つこともままならないアンドローレスを支え彼女が向かった場所は、波が激しく砕ける海だった。そして、朦朧とするばかりのアンドローレスに、メーリアは言った。
「あなたは私を恨むこともせず、疑いもせず、いかなる時も私と共に在ることを望み、他者から蔑まれ、飢えても、その意志を貫き通した。あなたの魂に、私は祝福を与えましょう。間もなく私はこの肉体を離れ、霊としてのメレーに戻る。あなたもまた肉体を離れたなら、霊として在り続けなさい。私と共に在りなさい。私の手として、時には足となり、私の一部となるのです。あなたが生前に負った不名誉はやがて消え去り、いずれは讃えられることでしょう」
アンドローレスの喉は乾き、人の声は出なかった。ゆえに、彼は神の言葉で答えた。「名誉が欲しいとは思いません。永久にあなたへと仕えることができるのなら、私にとってはそれが至上の歓びです」彼は土気色の顔貌に満ち足りたものを浮かべ、落ち窪んだ眼孔の中にあるサファイア石に幕を下ろした。
メーリアは嬰児とアンドローレスを抱き、ふたりと共に波打つ海の中へとその身を沈めた。濁流の中で、メーリアは嬰児を手放した。そして、小さくなった肺から僅かばかりの気泡を吐き出したアンドローレスを、強く抱いた。
間もなく、ふたりは人の身を抜け出した。かれらは〈永遠なる者〉たちの住まう天上の国へと昇っていった。
凪いだ海面に漂う小さきものをピトゥレーが見留めたのは、それから間もなくのことであった。かれはその小さきものを拾い上げ、眺めた。一見では人の嬰児に見え、頑なに閉じ合わされた瞼を、石英の光が飾っている。ピトゥレーは未だ光に慣れぬ赤子の目を、指先で押し広げた。
そこに在ったのは人の眼に非ず、ピトゥレーと同じ神の瞳であった。しかしながら、あまりにも小さくか弱い、人の赤子のような姿で生まれた神など、これまでにない。ピトゥレーは他の神々との関わりこそ好まないが、最も古くから存在し、強大な力を持つ神の一柱である。その原初神の瞳は遥か彼方、カエラスの裏側までをも見通すことができるのだから、かれが知らぬものごとなど、ほとんど存在しないのだ。
つまり、ピトゥレーが拾い上げた小さきものは奇怪な存在であったのだが、かれはその小さきものからメレーの気を感じ取った。
ピトゥレーがメレーを呼べば、メレーはすぐに姿を現した。人の眼では捉えることのできないメレーの姿も、神の眼は鮮明に映し出すことができる。それは高次の光であり、『脈動する水晶球が、虹色の帯を無数にたなびかせるが如きさま』である。
ピトゥレーは小さきものの柔らかな足首を掴んで吊るし、忌々しげに睨みつけた。「半神半人とはこのようなものか。これを私の元へ寄越すとは、一体どういったつもりなのか」
メレーは虹色の帯をはためかせながら答える。「それはあなたのもの」
「私は他の神など好かんが、人間はもっと好かぬ。半ば神であろうが、こうして逆さにしていれば死ぬ。脆い生き物だ」
「あなたのものとはいえ、私の子。殺せるというのなら、どうぞやってごらんなさい」
ピトゥレーは気難しげに呻き、嬰児を近くの磯の中へと投げ込んだ。嬰児はその時になって、ようやく声を上げて泣き出した。
それをまた拾い上げたのは、ウェヴィリアの末妹リリエであった。彼女は、長女のジャメナがピトゥレーに殺される際に切り落とされた尾びれが転じて生まれた、幼い妖精だった。「ピトゥレー様がこの子を側に置きたくないのなら、私たちが面倒を見ましょう」リリエはジャメナ譲りの物怖じのなさで言った。
ピトゥレーはリリエに見向きもせず、返事もしなかった。気難しい神に代わり、メレーがその提案を許した。
リリエはウェヴィリアの棲家に半神の赤子を連れて帰った。姉妹は話し合い、赤子に『メリウス』と名付けた。イルカの乳を飲ませ、その子供と遊ばせているうちに、メリウスは成長してゆき、やがてウェヴィリアらが獲ってきた魚や貝を食べるようになった。しかし、時折妖精たちの棲家の岩上に、大量の魚が打ち上がっていることがあった。妖精たちは魚の肉を食べることはしないので、メリウスがその肉を食べなければならない。
そういった事が幾度か続いたある日、リリエはピトゥレーの神殿に行き、退屈げに水槽を眺めている海神に伝えた。「ピトゥレー様、メリウスはそれほど食べません」
ピトゥレーは鮮やかな模様を輝かせている小魚を見つめたまま、「それがどうした」と言った。
「お伝えしておこうと思ったのです」リリエは答えて、それだけを用件に神殿を後にした。
その後も時折、ウェヴィリアの棲家の岩上に魚が打ち上がることはあったが、せいぜい二、三匹に留まるようになった。
更に成長したメリウスは、人間の街へと出掛けるようになった。人々の住まう街には、海では目の当たりにすることのできないものが多くあった。メリウスがよく足を運んだのは、近く栄えたジュローラの街であったが、彼はそこが自身の出生地であることは知らずにいた。
ある日、彼はこのような話を耳にした。
『かつて、アンドローレスという神官がいた。しかし、彼は神官の決まりを破り、自らの子を成し、そして生まれた子供とその母親と共に海へ潜り、死んだ』
メリウスは詳細が気にかかり、知ろうとして、街の人々に訊ねて回った。アンドローレスが死んだのは、十二年前の出来事だった。メリウスは、自分が丁度アンドローレスの子供と同じ年齢だと気づいた。そして、彼は街の人々から「君はどこか、落ちぶれる前のアンドローレスに似ている」と、頻りに言われた。
メリウスは、アンドローレスという人が自分の父親なのだという確信を持った。彼は、母親がメレーであることは知っていたが、父親が誰であるのかは知らずに生きてきたので、激しい関心を抱いた。
彼はアンドローレスについて、更に訊ねて回った。しかし、聴くほどに街の人々から発せられるのは、「神官の規則を破り零落して死んだ、情けない男だ」といった言葉ばかりだった。メリウスは虚しくなり、訊ねるのをやめた。
彼は妖精の姉たちが待つ海へ帰ろうと、日暮れ時の港へ向かった。そこで彼は、「近頃、一帯の海を荒らす怪物が現れる」という話を耳にした。漁師たちは怯え、仕事に身が入らないらしい。
メリウスは正義感と好奇心を半々に抱いて、その怪物とやらを探しに向かった。
噂の怪物は、深海の底で淡い白色光を放っていた。手脚を六本ずつに持つ、途方もなく臣大な生物である。
メリウスは恐れを知らない少年だった。彼はその生き物に近づき、声をかけた。「この頃、この辺りの海を荒らしているというのは、あなたですか」
謎めいた生き物は臣大な水晶球のような目玉を回し、問い返した。「お前は何者だ」
「メリウスです」と、彼は答えた。
怪物は瞳の光をかすかに弱めた。「知っている。メレーが生んだ半人の子だろう」そう言って、恐ろしく長い腕を伸ばし、メリウスの細い体を掴まえた。
怪物の力は強く、メリウスは苦しみに藻掻き解放を求めた。しかし彼の言葉は届かないようだった。
「私はケーレーン。ピトゥレーの気まぐれによって生みだされた。この醜い姿がその証。十二本もの手脚をつけられた。かれは私のようなものを造ったのを恥じてか、海底に沈め縛りつけた。何万年と。だが、私はあるとき気づいてしまったのだ。何故私がこの様な仕打ちを受けねばならぬのかと。ゆえに私は外へと出向くようになった。この体を海面へ浮かべれば、大波が興り生き物は逃げ惑う。成る程、荒らしていると思われるのは道理やもしれぬ」ケーレーンは淡々と、半ば独白のように言った。
暗く冷たい深海の底には、巨大な鎖と楔の残骸が散乱している。それは、ケーレーンが力の限りで以って破壊したものなのだろうと、メリウスは想像した。
「己の醜悪さは理解している。どうにもならぬことにもはや悲しみを覚えはしないが、人間を怯えさせたいわけではない。もうここから離れるのはやめよう。私には陽の当たらぬ場所がふさわしいのだ」ケーレーンは巨大な手からメリウスを解放した。
全てを諦めたかのようなケーレーンの様子に、メリウスの胸は痛んだ。ケーレーンに悪意などはなく、かれが浮上した場所が偶然ジュローラの近くであったというだけなのだ。ならばと思い、メリウスは言った。「人間のいない場所なら、きっと誰も怯えさせることはないでしょう。僕が案内します。今日は月が満ちていて、天上の国がよく見えますよ」
メリウスはケーレーンを誘い、浮上した。ケーレーンは戸惑いがちながらも、メリウスに続いた。海面が近づくと、メリウスはケーレーンの背に乗った。二人は共に水上へと姿を現した。水面に浮かぶケーレーンの体の巨大さは、その上に街を築けるほどだった。
ケーレーンは水晶球の瞳を満月に向けて、七色に煌めかせていた。月光を浴び、数ときほど漂ったかれは、突然に「神の叡智たるや!」と叫んだ。巨大な声は雷鳴にも似て、彼方まで響き渡った。そしてケーレーンはメリウスに言った。「友よ、感謝する。私は闇雲に存在していたわけではなかったのだ。天上の国は私のすぐ近くにあった」
メリウスにはケーレーンの言葉の意味が分からなかった。しかし、ケーレーンの瞳からは憂鬱な陰りが消えていた。メリウスはケーレーンの気持ちが晴れやかになったのならば幸いだと思った。
海面が小さく揺れ、海の底から低い音が轟くのをメリウスは聞いた。
ケーレーンは身を沈めながら言った。「戻らねばならない。メリウス、万年と生きてきたが、お前と過ごしたこの僅かなひと時にこそ、最も意義があった」
ケーレーンが海の底へと姿を消して間もなく、轟音が鳴り響き、海が動いた。
洞窟に戻ったメリウスは、呆然と立ち尽くした。彼と、彼の姉たちの棲家が消え去っていたのである。ウェヴィリアたちを探さねばと我に返ったところで、彼は巨大な声に呼ばれ、目を向けた。憤怒の形相を浮かべる海神の姿に、メリウスは生まれて初めて恐怖の感情を抱いた。
「ケーレーンを連れ出したのは貴様か」ピトゥレーはメリウスに詰め寄った。
メリウスは、己の倍以上もの身の丈幅をした神の姿に怯えながらも、ようやく頷いた。
「愚か者め。無知で慮りの無い半人など、やはり碌なことをせぬ」ピトゥレーはメリウスへの嫌悪や呆れも露わに吐き捨て、姿を消した。
棲家が消え、姉たちの姿もなく、突然に海神から詰られたメリウスは混乱し、その場に座り込んだ。そこへメレーが現れたことにさえ、気づくまでに幾ばくかの時間を要した。
「メリウス、ウェヴィリアたちは無事です。皆、ピトゥレーの神殿にいますよ」メレーは言った。
メリウスはウェヴィリアに会いたいと思いながらも、ピトゥレーの神殿へと向かう勇気を持つことができなかった。
「ジュローラの街に向かいなさい。あなたにはすべきことがある。人々はあなたの力を必要としているのだから」メレーは身じろぎもせず沈黙するメリウスに、続けて声を掛けた。
「僕は忌み子でしょう。皆アンドローレスを軽蔑しているのだから」メリウスは力弱く言った。
「それが悲しいのなら、尚のこと。あなたはあの街に行き助力しなさい。それとも、ここでずっと蹲っているつもりですか」
メリウスの気は進まなかったが、メレーの後押しには逆らえず、仕方なくジュローラの街へと向かった。
いざ再びやってきたジュローラの街には、惨状が広がっていた。建物は崩れ、奥の森は消え去り、泥に埋もれていた。広場であったはずの場所には壊れた船、浜から遠く離れた森の跡地にはクジラの死体があった。なぎ倒された樹木の枝にはサンゴの腕が絡まり、瓦礫の合間や泥の下には人々の体があった。
メリウスは変わり果てたジュローラの様子に愕然とした。あの美しく栄えた街は、跡形もない。命を落とし声を失った人々の嘆きが、泥に塗れた瓦礫の下から、或いは水平線の下から、メリウスのもとへ届く。亡者の呻きに紛れる生者の気配を、彼は感じ取ることができなかった。そも、果たして生者など存在しているのかさえ、危うい様子である。
だが、そのような中で、彼の耳は幼い子供の悲鳴をとらえた。それは確かに、生者の声であった。彼は声を目指し駆けた。通りの形跡もない場所を、瓦礫を乗り越え、泥の瘤を踏み越える。足の裏に奇妙な柔らかさを感じて何物かと確かめれば、その瘤は人間の、原型をとどめていない遺体だった。メリウスの体は恐怖に震え、視界は揺れる海中へと落ちた。それでも彼は幼い生者を救わんと――或いは己自身への救いを求めて――走った。
男たちが三人、巨大な石を退けようとしていた。幼い悲鳴は、彼らが退けようと奮闘する巨石の下から聞こえてくる。メリウスは駆け寄って、何も言わずに男たちに手を貸した。退けられた石の下にはメリウスよりも幼い少女と、彼女を抱きしめたままで息を引き取っている若い女性がいた。若い女性の脚は潰れていたが、幼い少女は無傷だった。メリウスは喉を枯らすほどに泣き続ける少女を抱き上げた。
「あなた様は、お若い神であらせられましょうか。無知な我々はあなた様を存じ上げません。どうか、御名をお教え頂けませんか」泥と汗で汚れた男の一人が、メリウスに跪きながら言った。
メリウスは悲しみに濡れた瞳を、男たちに向け答えた。「僕は愚かな子供です。神などではありません」
しかし、男たちはメリウスの返答に納得しなかった。「我々は三人の力を振り絞り、長らくこの巨大な瓦礫と戦っていたのです。我々がやって来たとき、この子の母親はまだ生きていたというのに、我々ではこの巨石を退けることができなかった。そこへ駆け寄ってきたあなたが、その細腕を添えられるなり、あれほど重く微動だにしなかったものが、あっけなく退いてしまった。到底人の為せるわざではありません」
「それでも、僕は神ではないのです」メリウスは繰り返し否定した。その頑なさに、男たちは食い下がるのを諦めたようだった。
少女がいくらか安心したらしいのを確かめ、メリウスは何が起きたのか、男たちに訊ねた。
三人は身を震わせ、口にするのを恐れる様子を見せた。だが、彼らは神ではないにしろ、神によって使わされたことには違いなかろう少年の問いに、真摯に答えようとした。「まず始めに、大地が揺れました。街全体が、まるで嵐に遭遇した小船のようでした。建物は崩れ、石畳が割れました。それから、浜の水が退いていきました。遥か彼方まで水は退き、大地がどこまでも続いているように見えました。我々はただ呆然として、海は何処へ行くのだろうと、サンゴを眺めていました。そこへ、リヨン様が雷光と共にやって来られて、メレー様の神殿へ逃げるよう言われました。我々は神殿に匿っていただき、そうしている間に海が戻ってきました。それはまるで山のようで、街を押し潰し、全てのものを攫ってゆきました。そして、あらゆるものを掴んだ大波は引き返していきました。けれども、その巨大な海の山は一度のみならず、三度もやって来て、この街を破壊し尽くしたのです。メレー様の神殿だけが、我々を守ってくださいました」
メリウスは、泣き疲れてまどろみ始めた幼い少女を眺めながら、「この子はどうして生き伸びられたのだろう」と呟いた、そして彼は男たちに雷神の行方を訊ねた。かれはフェムトスの系譜に属する原初神である。
「リヨン様は、我々に神殿へ向かうよう告げられてから、その後お姿を見かけておりません」男たちは答えた。そして、「神殿に逃れた者たちは無事ですが、高台に住んでいた人々の様子が気がかりなのです。海に襲われはしませんでしたが、地竜が暴れた際に家々や崖が崩れてしまったことには違いありません。聞けば、瓦礫の下で生きている者が大勢いるようなのです。どうか、力をお貸し頂けませんか」と、メリウスに頼み込んだ。
「僕にできることならば、幾らでも」メリウスは男たちの頼みに応じ、少女をメレーの神殿に預けてから、急ぎ高台へと向かった。
ジュローラの丘は海に襲われてはいなかったが、地面の至る所が裂け、崖が崩れ、家々は瓦礫となって潰れていた。重い石の下敷きになった人々、崩れ落ちた岩に当たり傷ついた人々、滑り落ちた土砂に埋まっている人々、多くの人々が命を失いながらも、未だ多くの人々が生きていた。軽傷の人やメレーの神殿に逃れ無事であった人は、崩壊した街の中で救いを求める声を探し、助け出そうとしていた。
命は保っているものの、動くことのできない人々が、至る所で蹲り、横たわり、苦しんでいた。メリウスは街中を駆け廻り、人々の傷を癒やしていった。メリウスは動けるようになった人々に、他の人を助けるように言って、次の人、また次の人の元へと走り、癒やし、声をかけ続けた。その様子に、人々は「少年の姿をされた神が救いに来てくださった」と活気づいた。
しかし、メリウスの心境は悲哀に満ちていた。真の神ならば、人々の傷をすっかりと治してやることができる。メリウスは半神であるがために、それができなかった。数千ともなる人々の全てに手を差し伸べられるだけの力もなかった。彼は人々を救いながらも、無力感に苛まれていた。
夜が明ける頃、キュアストスがやってきた。かれはまさに癒しを司る神だった。その頃、メリウスは立っていることもままならないほどに疲弊していた。それでも尚次の怪我人の元へ向かおうとする彼を、キュアストスは引き止め、半神の少年に自らの気を吹き込んだ。そして、母か父か、年の離れた姉か兄か、そういった具合でメリウスを抱き横たわらせ、言った。「その幼い身で、力を使い続けるのはさぞ苦しかったことだろう。君の意志力を私も見習わねばなるまい。負傷者のことは私に任せてよろしい。まずは少し休んで、それから瓦礫の下にいる者たちを救けておやりなさい」
キュアストスの気を取り込んだメリウスの体には力がみなぎっていたが、慣れない神気の取り込みによって思考は幾分混乱し、強い睡魔に襲われていた。うつろな意識の中で、かつては陽光神とも讃えられたキュアストスに寝かしつけられる己はまるで赤子のようだと、メリウスは思い、そのまま眠りへと落ちた。
目覚めてのちの七日間、メリウスはキュアストスに続きジュローラへとやってきた神々と共に、人々の救出へ尽力した。彼はその間眠りもせず、食物も水も要さなかった。その様子を目の当たりにした人々がメリウス自身の主張がどのようであれ、彼を只の人間だなどとは思えるはずがなく、メリウスの知らぬ間に彼を祀る祭壇が造られていた。
八日目に、メリウスはこの惨状の中にあっても、以前となんら変わらぬ真珠のきらめきを放ち続けるメレーの神殿へ赴いた。かつて、父であるアンドローレスが人々の尊敬を集めながら過ごしていた場所であることを、今の彼は知っている。高位の神官のみが立ち入ることを許されている祭壇の中へ踏み込み、メレーの神体を模した七色の光を反射させる水晶球を見上げる少年を咎める者は、誰一人として存在しなかった。彼の父を蔑み追いやったメレーに仕える神官たちまでもが、ジュローラを救うべく奔走し続けた少年に敬意を表し跪いていた。
メリウスはメレーに呼びかけた。水晶球が輝きを増し、メレーの意識がやってきたことを確かめて、彼は言った。「僕がケーレーンを連れ出したことで、ピトゥレーは酷く怒っていました。この惨状は、僕が引き起こしたことなのでしょう」この言葉は、彼の口を介さずにメレーへと伝えられた。
メレーは肯定もせず、否定もしなかった。ただ、「あなたはジュローラの人々の拠り所となりつつある」と言った。
「あなたが既にそうではありませんか。これほどまでに立派な神殿があり、多くの神官があなたに仕え、人々はあなたを信奉している」
「そうであっても、私の言葉は彼らに届かない」メレーは答えた。「私の言葉をなんら不自由なく、正しく聴くことができる人間は、アンドローレスが最後だった。神の時代は、そう遠くないうちに終わるでしょう。人々は神の存在を己自身に対し証明する手段を失う。それでも尚、信じようと努める者はいるでしょうけれども、神が人を統治することはできなくなる。かつての人間たちは、私の姿をあなたと同じように見ることができていました。けれども、現代の人間に私の姿は見えない。私の声を聴くことができる人間もわずかで、それもようやく言葉の断片を拾うことができる程度。ここに並ぶ神官たちが、そのわずかに残された人間です。彼らのような者たちも、間もなくいなくなる。このジュローラを離れれば、より若い神々の姿でさえも、とらえられない人間がいる。そして、次第にそれは当然のこととなる。そろそろ、人間には人間の神が必要なのです。それを、例えば『王』と呼びましょう。神の存在を見失っても人々が迷わぬよう、『国』を造り、人間の力で人間を導くこと。その道を、人々に示すこと。それが、あなたの役割の一つです」メレーは語り、姿を消した。
メリウスは己が生み出された理由を知った。半ば神である彼には、人に示すことで畏れられる力があり、半ば人間である彼の姿と声は、神から離れゆく人の耳目から失われることがない。
メリウスは暫し、メレーの意識が抜けた水晶球を見つめ、立ち尽くしていた。
神殿を出るなり、メリウスは人々に取り囲まれた。彼らは皆一様に興奮した様子で、街のために奔走した少年を讃えた。しかし依然としてジュローラは崩れたままで、泥砂に塗れ、人々が安息を得ることは困難な状況にある。
人々が口にする食物は、草花を司るフィオリローザが作り出し、与えていた。メリウスは瓦礫を退けることに必死だったために、自分が飲まず食わずでいたことに気づかず、そして通常の人間にとっては食物と飲料が不可欠であることを、このときになって思い出した。
彼は自分の周りに跪き、涙ながらに感謝の言葉を口にする人々を鎮め、言った。「僕はあなた方にとって欠かすことのできない重要なものを、幾つも忘れてしまっていたのです。僕一人で成せたことなどありません。どうかここへ集ってくださった神々、そして隣におられる方々へこそ、その感謝の思いは向けてください」
メリウスのそばに、キュアストスとフィオリローザがやってきた。古い神で賢者らしくもありながら、どこか若々しい気配を纏うキュアストスは、「我々は君に力を貸したまで。真にこの街を救わんと奔走したのは君だろう。皆、そのことが分かっているのだ。君はもう少し自分自身を高く評価して良いのだよ」と言い、美しい少女の姿をしたフィオリローザもまた、キュアストスに同意を示した。
メリウスは自分の行動を思い起こし、これが他人の行動であったなら、確かに自分はその者を讃えるだろうと考えた。彼は人々から向けられる感謝を、素直に受け取ることにした。
しかし同時に、メリウスには未だ気がかりなことがあった。他の街からやってきたキュアストスは、その街もまた地竜が暴れたために崩壊し、次いでやって来た大波に攫われたことをメリウスに教えていた。ならば同様に、更に他の街でも人々は苦しんでいるのではないかと、メリウスは考えていたのである。一先ずは心持ちの余裕を取り戻し始めているジュローラの民へ、彼は語りかけた。「皆さん、きっとこの街を元通りにしましょう。僕も力を尽くします。けれども、僕は他の街の様子も気にかかっています。ジュローラと同じ様に、救けを求めている人々がいるのではないかと。だから、少しの間この街を留守にします」と言えば、人々は不安げな眼差しをメリウスへと向けた。「ジュローラは始まりの地。メレーの系譜に属する神々が、あなた方のためにここへ集うでしょう。だから、きっと大丈夫」メリウスは人々の不安を和らげるため、穏やかに言った。
重傷者は既にキュアストスが治癒した。軽傷であればフィオリローザの力で癒すことができる。メリウスはキュアストスに旅の同行を求めた。ジュローラのように大地と海に襲われた場所には、多くの負傷者がいるに違いない。食物を人々に恵むフィオリローザへは、街に残ってくれるように頼めば、二神は快く承諾した。
「本当は、私もあなたと共に行きたいところだけれど」フィオリローザは白詰草を編んだ輪をメリウスの首に掛け、「あなたが無事でありますように」と祈りを込めた。
メリウスは人々と神に見送られながら、キュアストスと共に旅立った。
メリウスとキュアストスは海沿いを歩き、島を巡った。地域ごとに出会う多くの神々が彼らへ協力したが、中には人を好いていない神もいた。かれらは崩壊した人々の生活を立て直すことに関心を持たなかった。だが、未だ少年のメリウスが恐れることなく神へ協力を仰ぐ姿を目の当たりにした人々は勇気づけられ、土地神の守りが得られなくとも努力した。その様子を傍観しているうちに、心変わりをして人々に力を貸すようになる神は多かった。
しかし、どのようにしても元のようには戻せない地域もあった。海水に浸ってしまった土地での耕作は困難で、街の形だけを再建したところでその後の生活ができない。土地神が非協力的であったり、死んでしまったりした場所であれば尚更である。そのような場所で生き残った人々に、メリウスはジュローラに身を寄せるよう提案した。身寄りのない人々の多くは、彼の言葉に従った。
ジュローラの街から遠く離れ、月日は流れたが、メリウスは廻るべき街の全てを廻るまで、故郷へは帰らないと決めていた。ジュローラに移住するべく旅立つ人々を、その土地に住まい見守ってきた神々や、旅の途中で出会いメリウスらと道を共にしてきた神々が導いた。
数年を掛け、メリウスはキュアストスやその他の神々と協力し、人々を救け、破壊された街を再建するために知恵を絞り、それが困難であれば、その地の人々と神々をジュローラへと誘った。
メリウスには後悔の思いがあった。それは強い責任感となって彼を動かした。ケーレーンを海底から連れ出したことが、今回の惨状を引き起こしたのであろうことは分かっていた。ケーレーンに対する親切心が仇となり、人々を殺め苦しめる結果となったのであろうと、メリウスは思い悩み続けた。しかしながら、万年に渡り海底に縛りつけられ、楔で打ち止められていたかれに、僅かばかりであっても自由を知ってもらいたいと思ったことは罪であろうか。メリウスの悲しみと後悔は、ピトゥレーに対する怒りと共にあった。
そして、彼はメレーによって与えられている自分自身の役割についても考え続けていた。メレーが言葉にした『王――人の神――』なるもの。そのあるべき姿を、彼は模索し続けていた。
メリウスがジュローラへ帰還したとき、彼は少年と呼ばれる年頃を過ぎていた。彼の背丈は頭一つ分以上も伸び、その素直さは変わらずとも、幼い精神から脱していた。
ジュローラは賑わいを取り戻していた。崩壊以前の街並みとは変わったが、メリウスが各地から集めた人々と神々の協力を得て再建されたジュローラは以前にも増して活気づき、領域はより広大なものとなっていた。
メリウスは早速街を散策しようとしたが、彼の帰還は忽ちのうちに知れ渡り、瞬く間にも人々に囲まれ、身動きを封じられた。神々もまたメリウスの元へ集った。第一に彼の帰還を喜んだのは、かつてメリウスに白詰草の首飾りを贈り見送った、フィオリローザだった。その植物の贈り物は、数年の時を経ても変わることなくメリウスの首元を飾り続けていた。
フィオリローザは成長したメリウスを抱きしめ、ロゼーの花弁を舞わせた。「あなたの帰りを待っていました。驚いたでしょう。これ以上に賑わう街が他にあるでしょうか。あなたが集めた者たちが、これほどまでにジュローラを大きくしてくれたのです」
舞い散るロゼーの花弁が幾らか落ち着く頃、アマーラの街からやって来たエファラディートが、難しげな様子でメリウスに声をかけた。「喜び合っているところに申し訳ないのだけれど、今起こっている問題について、伝えても構いませんか」
「問題とは」メリウスは喜びの冷めぬフィオリローザを宥めながら訊ねた。
美を司るエファラディートに並び立っても霞まぬ美貌を持つリヨンが進み出た。かれとはセレノスの街で出会った。かつてジュローラに大波が押し寄せた際、人々にメレーの神殿へ逃げ込むように告げて去った雷神である。かれは同様にして各地へと危険を告げ、結果として多くの人々を救った。「各地から人が集まったであろう。皆、それぞれの習慣と信仰を持っている。その点において相容れることが難しいらしく、各々が信仰してきた神のうち、誰が最も優れているのかなどといった理由で争ってしまう。我々にとっては、生まれ順や司るものごとの大きさなど些末でしかないのだが、人間にとってはそうでないらしい。街は確かに大きくなった。しかし、今は生まれ育った故郷者同士で、居住地が分かれている」
メリウスは落胆した。この地に集まった者たちは、皆故郷を失っている。同じ苦境を味わっているのならば、互いを理解し合えるものだとメリウスは考えていたのだ。しかし、ものごとはメリウスが予想したようにはいかなかった。彼はどうするべきか考え、悩んだ。
「メリウス様、どの神が最も優れているのか、どうかあなたが決めてください」
人々の中から、水晶同士を打ち鳴らしたような、心地よく透き通る声がした。メリウスはその声の主を探そうとしたが、その者は自らメリウスの前へと進み出た。
それはメレーだった。美しい人の女の姿をしていたが、メリウスには彼女がメレーであることが一目で分かった。
「あなたが決めたことならば、私たちは従います」メレーは水晶の声で言った。
人々はざわめいた。それは賛同の意を各々が隣人と確かめ合うために起こったものだった。自分たちを救うべく最も奔走した者が誰であるのか、皆が理解していたからだ。
メリウスはメレーを見つめた。『人の神』という言葉の意味、あるべき姿を、メリウスはこの時ひとつ発見した。彼は人々を見渡し、神々へも目を向けた。メリウスは手を握り体内の空気を吐き出してから、近くの石段に飛び乗った。
「私があなた方を導きましょう」メリウスは高らかに宣言した。
メリウスを見上げ困惑をあらわにする人々に向け、メリウスは拡声の術を用いて続けた。「私は、あなた方に嘘をついてきた。私の父は人間です。そして、私はメレーの子でもある。私はあなた方の兄弟で、ここにおられる神々とも兄弟なのです」
人々はメリウスが神の術を用いることは知っている。それによって救けられたのだから。現にメリウスは術を用いて、広大な街の全てに自らの声を届けている。だが、メリウス自身は常に自分自身のことを「人間である」と言い切ってきただけではなく、「神ではない」と強く主張してきた。また、彼の容姿は人間の若者と変わりないように人々の目には映っていた。多くの人々は、メリウスの言葉を半ば信じたが、半ば疑った。
メリウスは続けた。「誰もが各々に尊敬する神がおられることでしょう。けれども、その神々の祖はメレーであって、最も偉大な神を挙げよというのならば、少なくともメレーの系譜に属する神々の守護を受ける我々にとっては、メレーでしょう。しかし、もはやメレーの姿を捉えられる目を持つ人間はいません。あなた方はそれぞれに信仰してきた神を、変わらずに敬って良いのです。けれども、かれらの中から一番を選ぶことはできません。選ぶことであなた方が争うのならば、それは必要のないことです。そもそも、かれらに優劣などありません。どの神を敬う者が偉いなどということもない。ですが、半神半人などという存在ならば、皆さんは半端なものだと思うのかもしれません。しかし私が神であり、人であることは事実で、そのことを私自身がいつまでも否定し続けるわけにはいかないのでしょう。半ばに属する存在であるがこそ果たせる役割を、果たさねばならない。それは、この場所をあなた方の安らぎの場、真の拠り所としてゆくこと。私がメレーより授けられた使命であるのと同時に、私という人間が抱く願望です。もし、あなた方が私のこの願いに賛同してくださるのなら、それ以上に喜ぶべきことは、今の私にはありません」
静まり返った広場の中心に、メリウスは立っていた。彼は少しばかりの神の力を持つ人間の若者であろうか。それとも、人の姿をした弱い神であろうか。そのような存在に人々は付き従うものであろうか。人々を導くことが役目であると、彼はメレーより伝えられてきた。そして今、彼の目前にはメレーがいて、当にその時であるとばかりに言い寄られ見つめられれば、メリウスはこの瞬間に覚悟を決める他なかった。
「あなたは偉大だ」と、奥の方で男が拳を突き上げた。その隣には少女がいた。
メリウスは、声を上げた男が、かつて崩れ落ちたこの街で共に瓦礫を退けて回った一人であると、すぐに気づいた。そしてその傍らに立つ少女が、瓦礫の下から助け出した子供であるということも分かった。
「あなた様が来てくださらなければ、私達は渇き、死んでいたことでしょう」次に叫んだのは女だった。アマーラの街の者である。
アマーラはエクアロイスの大河によって潤う街であった。しかし海の水に侵され、エクアロイス神が滅び、美しき河もまた消え去った。エファラディートには夫であるエクアロイスの河を蘇らせることができず、多くの人々が渇き、死んでいった。アマーラの人々に対し、『街を捨てる』という決断をさせたのはメリウスである。それは、大河とともに生きてきた人々にとって、途方もなく勇気の要ることであった。だが、メリウスの熱心な説得によって彼らは動いた。そうしてジュローラに住み、エファラディートがジュローラに蘇らせたエクアロイスの小川によって、今は十分な潤いを得て生活している。
「あなたは人の苦しみが分かる。まさに人の神です」若い声が言った。少年である。彼はセレノスの街の子だ。
セレノスの街は島に築かれていた。しかし人々が神殿を造り崇めていた神は、街が壊れ人々が苦しみ死んでいっても気に留めはしなかった。メリウスは神殿の神ネッソに幾度も助力を請うたが、かれはついに見向かなかった。メリウスはセレノスの人々へも街を出ることを勧めた。残った者たちもいたが、多くの若者はジュローラの街に移住することを決断した。メリウスは放浪していたリヨンにセレノスの人々を託し、次の街へと向かったのだった。
メリウスの働きを思い出した人々は、「メリウス様に従います」と声高に宣言し、「『人神』メリウス」と言った。
メリウスは手を挙げて人々の声を抑えた。「確かに、私は半神であるけれども、『神』と呼ばれるとやはり居心地が良くない。私の半分はあなた方と同じ人間なのだから。ですから、私のことは『王』と呼んでください。半神の私のためにメレーが作った言葉です。そして、ジュローラの人々には、お伝えしなければならないことがあります」メリウスは一呼吸を置いて言った。「私の父は、かつてこの街で神官をしていた、アンドローレスなのです」
人々は再び静まった。ジュローラの者たちは勿論のこと、事情を知らぬ他の地よりやって来た者たちも、ジュローラの人々の様子にただならぬものを感じた様子で、互いに顔を見合わせた。
アンドローレス。かつてジュローラの人々より尊敬を集めた若き神官。しかし神への誓いを破った者として堕ち蔑まれ死んだ男である。そのことを知らぬジュローラの民が、一体どれほどいただろうか。
「メリウス王」ジュローラの民の当惑を散らすように、先の拳を上げた男、かつてメリウスと共に街の瓦礫を退けて回った男が叫んだ。
メリウスを王と呼ぶその声は広がり、静まっていたジュローラの民も互いに手を握り合い、「メリウス王、我らが誇るべきアンドローレスの子」と声高に言った。その中には、アンドローレスと共に過ごしたこともあろう、メレーの神官服を纏う者もいた。
メリウスの胸は歓喜に震えた。旅を共にしたキュアストスが彼の背を柔く叩いた。メリウスは眼前のメレーに向かい、「これで宜しいのでしょう」と確かめた。
メレーは微笑み、メリウスを囲む神々に向けて言った。「彼はまだ、とても若い。皆の助けを必要とすることでしょう」
「我々はメリウス王に、力と知恵を貸すことを惜しみません」フィオリローザ、キュアストス、エファラディート、そしてリヨンを始めとする神々が応えた。
メリウスはこの場に集う全ての人々と神々に深く感謝し、かれらと共に、かれらのために己の力を尽くすことを誓った。
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