――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
第一章

 背骨を重い音が叩いてくる。微睡みの世界で聴こえるその音は、近づいてくる。ひりつく瞼が、開けそうだった。

 目を開けなければ。息苦しい。息が止まっている。目を、開けなければ。

「――はっ」

 耳の奥で、激しい脈動が響いていた。目は開いた。息もできる。

 薄暗い空間に、影が浮かぶ。捉える間もなく、視界の端に逃げていくそれは、瞬く度に生まれ、消える。

 鼓動が落ち着いてくる。影はやがて、生まれるのをやめた。眼球の動く範囲で、辺りを確かめてみる。木造りの小部屋だろうか。よく見えない。この体は、簡素な寝台に横たわっているようだ。足が向いた方に、扉が一つ。空気穴のような小窓から流れ込んでくるのは、緩やかな風と、人の話し声。そして、波音。

 薄い記憶を手繰り寄せる。死に損なったのか。それとも、死んで別の世界にやって来たのか。判らない。夢見る感覚に、馴染みすぎてしまった。

 近くの小卓の上に、満ちた水呑コップがあった。やたらと重く感じる体を起こし、自然とそちらへ伸びる手を、伸びるのに任せる。

 手が痙攣した。掴みかけた水呑を取り落とす。硝子が高い音を立て、床に砕け散った。水が、乾いた床板の色を濃くしながら広がっていく。その様子を、なすすべもなく眺める。

「何か落ちたか」

「あいつだ。目が覚めたのかもしれない」

 部屋の外から聞こえた会話。扉が開いた。人影をすり抜けて入り込んできた陽光に、瞳が焼ける。

「水か。新しいものを持ってくるから、少しだけ待ってな」

 そう言って、人影は消えた。男の声だった。この部屋の中で、誰かと話した記憶が朧げにある。夢だったかもしれない。だが、いずれにせよ、あの人とではなかった。

「レナート、目が覚めたようだから行ってやれ。俺は水を取ってくるから」

「分かった」

 レナート――アウリー人の名前だ。呼びかけられて応えたその声には、聞き覚えがある気がした。明朗そうな若者の声だ。半ば駆けるような足音がして、閉じきられていなかった扉が、無遠慮に開け放たれる。眩しい。

「おはようさん。自力で座れるようになったんだな。具合はどうだ? 顔色も良くはなったみたいだが……。日焼けがひどいな。丁度塗り薬を切らしちまってんだよ」

 僕を見下ろす青年の瞳は、海の色をしていた。滲む姿に目を凝らす。

「そんな睨むなよ。薬はあとでやるから」

 別に睨んでない。が、面倒なので黙っていた。

 青い瞳が、鮮やかにきらめいている。褐色の緩い巻き毛は、短髪に見えた。だが、彼が割れた水呑を見下ろしたとき、うなじのところでまとめられている長髪だと分かった。僕よりも若いということはなさそうだが、大して歳は離れていないだろう。海色がやたらと主張してくるのは、たぶん目が大きいからだ。いくらか焦点が合ってきた。古典的なアウリー人らしい特徴を備えた顔立ちをしているようだ。つまり、眉が濃く、睫毛が長く、鼻は高いがやや短く、唇は血色が良くて、厚め。背丈は僕とそう変わらないだろうが、露出した腕や首元、革帯が締められた腰回りの形を見る限り、僕よりもずっと健康的な肉付きをしている。

「自分の名前、言えるか?」

 彼はアウリー人だ。なら、ここはファーリーンと盟友関係を保ち続ける、アウリー王国の領域かもしれない。アウリーとフォルマに直接的な――現代まで引きずられるような因縁はおそらくないが、友好国の敵であるフォルマに対して、アウリー人が好印象を持っているとも考えづらい。なら、フォルマ人の名を答えるのは控えるべきだ。幸い、この容姿はリーン人として通用する。

 その程度のことを考えられるくらいには、この頭は働いた。が、咄嗟にファーリーン人の名を思いつくことはできなかった。

「……忘れた」

 だから、そのように答えた。そうしたら、目の前のアウリー人――多分そのはずだ――は、大げさに首を傾がせた。

「おかしいな。昨日は答えてたのに」

 なら、なんで訊いたんだ。昨日、こいつと話したんだろう。だからこの声に聞き覚えがあったのだ。何を話したのか、全く思い出せない。かなり朦朧としていたはずだ。名前を誤魔化そうなんて頭は、きっと働かなかった。素直に答えてしまったに違いない。

「まあ、本当に忘れちまったなら仕方ない。知りたいか?」

「……いい」

「ふうん、そうか。答えたくないなら、それはそれでいい。とにかく、昨日話したことは覚えてないんだな。なら、改めて俺の名前を教えておくよ。レナートだ。よろしく」

「……ああ」

 一体、何を考えているのだろうか。答えたくないなら、それでいい、だと? もう答えているのに? 知らないふりをしてやる、ということか。こいつの意図が見えない。

 と、先ほど水を持ってくると言って、一瞬姿を覗かせた男が戻ってきた。片手に新しい水呑、もう片手には木桶を携えている。

「お待たせ。取っ手付きの容器にしたよ。手に力が入りにくいようだから」

「……ありがとうございます」

 年長の人間には、畏まった態度をとるものだ。このレナートとかいうやつも、ひとつ、ふたつは年長かもしれないが。どうも畏まってやる気にならないのは、どういうわけなのか。

 とにかく、受け取った水に乾ききった口をつける。冷たさが頭の奥に響いた。なぜ、こんなにも冷えているのだろう。気温はズフールとさして変わらない気がするのに。井戸から汲み上げたばかりの水だって、ここまで冷えちゃいない。

 僕が床に散らかしてしまった硝子片を、年長の男は木桶に放り込んでいく。彼を見下ろしながら、レナートが言った。

「とっくに気づいているかもしれないが、ここはアウリー王国の領海だ。つまり、船の中ってことだな。海に浮いていたお前を見つけて、引き上げた。今はウェリア島に向かってるところだ。ウェリア島は分かるか?」

「……まあ」

 ウェリア島――、アウリー南部キュアス諸島の中枢とされる島だ。本土から離れているわりに発展していると、本で読んだことがある。

 しかし、ここがキュアス諸島の海域なら、僕は随分な距離を流れて来たことになる。果して、何日掛けてここまでやって来たのだろう。あの日の暦が分からない以上、確かめようがない。この時期のマスィール海流は速いが、それに乗ったのだとしても、身一つで、生きてここまで流れ着くなんて到底現実的ではない。が、どういうわけか現に流れ着いてしまったのだから、奇妙なことだ。

「それで、名前はどうする?」

 レナートが僕の隣に座り込んできた。容易に距離を詰めてくるので、身構えてしまう。よく話に聞くところのアウリー人らしいといえば、そうなのかもしれないが。

「なあ、お前の名前だよ。この先、名無しじゃあ困るだろ」

「なんでも」

「へえ。じゃあ、『リオン』がいいかな」

 レナートは予め考えていたみたいに、迷いなくその名前を口にした。リオン。知っている気がする。記憶を掘り起こそうとして、ふと思い出した。

「雷神か……」

「お、よく知ってるな。そうだよ、『リヨン』の人名形だ」

 やはり、彼は僕を帝国の人間だと認識していない。この容姿なら、まずファーリーン人だと思われるはずだし、ファーリーンの人間なら雷神の名には馴染みがあるはずだ。〈アルビオンの書〉に記された、リーン人にとっての主神が初めに生み出した原初の神。ファーリーン人なら知らないはずがない。つまり僕は昨日、朦朧とする中で確実にフォルマ人の名前を答えてしまったということだ。

「帝国の神の名前が、嫌じゃなけりゃな」

 とどめだ。よく分かった。フォルマ人にとっての神は唯一。『神々』と呼ばれる存在は、僕らにとって神ではない。レナートは僕をフォルマ人だと認識している。

 僕は雷のためだけの神を信仰しない。だが、雷に神力を見出して神格とする風習を、否定しようとも思わない。

「構わない」

「ならよかった。初めの印象で、思ったんだ。海に浮いているお前が、やたら人間離れして見えた。血の気が失せてたせいかもしれねえが……。昔に見た、絵に描かれた雷神の姿と重なってさ」

「いきなり飛び込むから、何事かと思ったよ」

 大まかに片付けを終えたらしい男が、苦笑を交えた声音で言った。頭に巻いた藍色の布から覗く、レナートよりも明るい茶髪。緩い巻き毛がちになるのは、アウリー人の傾向なのだろう。瞳は若いオリーブの実のようだ。歳は、三十代の半ばくらいだろうか。声質や話し方から、温厚さを感じ取れる。

「人が漂流していると思ったら、そりゃあ慌てるだろ」

「あの距離からだぞ。よく人だって分かったものだよ。人だと気づいたってな、身一つで、近くに島もない、船だって滅多に通らない場所だ。普通は警戒するぞ」

「そこまで考えなかったんだよ」

「考えたほうが良いな。せめて、一言声を掛けてくれ。錯乱したのかと思うだろう」

「錯乱したにしては、飛び込みも泳ぎの身ごなしも、なかなか華麗だったと思うぜ」

「そこまで見てなかったな」

「なら見たほうが良い。いくらか安心できる」

 二人のやり取りを聞き流しながら、僕は冷たさの和らいだ水を含んだ。

 ふと、衣服に気が向いた。着慣れた服を身に着けていなかった。最後に着ていたのは、白い絹の長衣だったはず。けれど、今この体を包んでいるのは、おそらく綿糸で紡がれた布地の、丈が腰辺りまでしかない薄茶の上着と、硬い紺色の脚衣。

「……この服」

 頭の中が冷えていく。誰かからの返事を求める気持ちと、何も知りたくない気持ちの狭間から、小さな呟きが押し出される。

「そういや、そろそろ乾いたか。上等な服だったが、海水に浸っちまったからなぁ」

 僕の呟きが、隣に座ったレナートに拾い上げられる。

「着替え……」

 僕はまた、先と同じような呟きを繰り返す。不安と恐怖が思考を支配する。

「俺の替えだ。とりあえず、その水飲んじまえよ。思ったよりは元気そうだが、海水だって幾らかは飲んでるはずだ。暑いしな」

 レナートは水を飲むよう促してくる。それだけか? 自力で着替えられたはずがないんだ。ならば、手伝ってもらったか、全て誰かに任せたことになる。多分、レナート。こいつだ。ならば見たに違いない。なぜ言及してこない? なぜ距離を詰めてくる? 気色悪いと思っているくせに。吐き気がする。なぜ生き延びてしまったのだろう。消え去りたかったのに。どうして、僕を殺してくれなかったんだ。と、海に悪態を吐きたくなった。

「昼過ぎ――あと四刻くらいでウェリアに着くんで、そうしたらまずは病院に行こうぜ」

「嫌だ」

「そうか」

 咄嗟に拒否した僕に対するレナートの反応は、あまりにも平坦だった。まるで、初めから嫌がることが分かっていたみたいに。

「嫌なら、なあ。ディラン、こいつの様子を見た感じ、どう思う?」

「素人目なら、平気そうには見えるかな」

「ならいいか」

「いや、そういうわけにはいかないだろ。第一、身元不明者だぞ。官憲に届け出さないと」

 アウリーの政府に身元を探られたら、どうなるのだろう。『リオン』なんて偽名を使ってやり過ごせるものなのか。そもそも、僕はどうしたいのだろう。きっと、フォルマからの流れ者だということは遅かれど暴かれる。そうしたら、あの国に送還されるだろう。それから? 恩人の元へは帰れない。全ての善意を裏切り逃げておいて、どんな顔をして許しを請えというのか。かと言って、彼以外に頼れる人もいない。要は、あの国に僕の居場所は、もうない。

「もう一度、海に放り込んでよ」

 自力で歩き回れる体なら、今すぐにでも甲板に出て、飛び込んでやるのに。レナートは身を乗り出した。

「よしときなって。溺死なんて、碌な死に方じゃねえんだ。別嬪が台無しになるしな」

「第一、それは聞けない頼みだよ」

「僕を引き上げたことなんて、他の誰にも知らせなきゃいいだろ……!」

 自分ひとりの脚で甲板に出ていく力がない以上、誰かに支えてもらって、手摺を乗り越えさせてもらわなければならない。死ぬのにも介助が要る。それはつまり、彼らに『殺してくれ』と頼んでいるも同然だ。だが、そもそも放って置いてくれればよかったのだ。一度救け上げたのをなかったことにしたところで、彼らの罪じゃない。アウリーの法がどうなっているのかなんて知らないが、僕を見つけたこと自体を黙っていればいい。僕が死んだことなんて、アウリー人の誰も知らないのだから。

 久方に、感情が昂ぶった。それを、隠す余裕もない。

「落ち着けって。別に、ウェリアに着いたからって、すぐ官憲に報告しなくたっていいだろ。適当に理由つけて、何日後とかにでも顔出せば」

 レナートが言った。僕の様子を見かねたのだろうか。幾らかの融通を利かせようとする彼の態度に、僕の熱くなりかけた感情は長持ちしなかった。

 急に、なにもかもがどうでもよくなる。飲みきる気にならずに中身を半分残した水呑を小卓に置いて、壁にもたれた。体がだるい。自分の感情の起伏を制御できない。疲れる。

「大丈夫か?」

 訊ねられても、答える気になれない。億劫で仕方がない。

「怠いなら、少し眠ってろよ。島に着くまで、まだ時間はあるからさ」

 僕は頷く代わりに、薄く開いた瞼を緩慢に伏せた。軋みわずかに浮く寝台の感触。レナートが立ち上がったらしい。

「着いたら起こすからな」

 終いにそう言って、二人は部屋から出ていった。

 一人になった小部屋の中で、また薄く目を開ける。脚を寝台に上げるのさえ面倒で、結局レナートが退いた場所に上体を倒した。視界に入るのは貧相な腕。日焼けとは無縁だった肌が赤くただれているそのさまを、暫く眺めていた。

 「おい、着いたぞ」

 いつの間にか眠っていた。部屋の外が賑やかしい。先ほど襲ってきた酷い倦怠感は和らいでいたが、やはり体は重い。のろまに起き上がる。

「一人で歩けるか?」

 僕は立ち上がってみる。少しゆるい長靴。これも借り物なんだろう。厚めの靴底で、木の床を踏みしめる。歩けるだろうか――。

 ぐらりと体の芯が揺れたと気づいた瞬間、視界が回っていた。倒れる、と思う間もなかった。

 だが、幾らかの時間が過ぎても、僕の体が木板に打ち付けられることはなかった。

「ほらな。こうなると思ったんだ」

 上から降ってくる声はレナートのもの。背中を支えられていると気づくが早いか、押し上げられて重心を戻される。彼の手がなければ、小卓の角で頭を強打していたところだ。ほんのさっき死にたがっていたくせに、首の裏に冷たい汗が滲んだ。

「手なら貸すぞ」

 倒れないよう壁に腕をついた僕に、レナートの左手が伸べられる。深爪気味で、擦り傷の多い手だった。

「壁を伝っていく」

「そうかい」

 正直、壁は心もとない。だが、レナートの手を取る勇気がなかった。力の入りにくい足腰を叱咤して、僕を待ちながら先導してくれるレナートについていく。

 意識を取り戻して初めて、日の下へと出た。陽光は容赦なく僕の目を焼き、頭に重い鈍痛を走らせる。

「なんだ? やたら眩しそうだな……」

 不審がるようなレナートの声が、遠くから聞こえる。彼はすぐ近くにいる。分かっている。頭に照りつける光が熱い。瞼を突き破るほど強烈な光に襲われているのに、閉じた視界は急速に暗くなっていく。熱い頭皮の内側、頭蓋骨の奥、頭の深いところから頸に、冷水を流し込まれるような感覚。まただ。息ができない。立っていられない。

「危ねえ!」

 水中から聞くような叫びが耳に入るなり、僕の意識はまた遠くに行ってしまった。

――病院に連れて行くべきだろう。あれは単に弱っているだけじゃない。病持ちなら、適当な処置を受けさせないと。

――自分の具合は、本人が一番分かってるだろ。その上で『嫌だ』って言ってんだ。事情があるんじゃねえの。

――なら説得しないとな。

――分ぁったよ。

 知った声同士が、どこかで会話をしている。浮上する意識。体を起こす。僕はまた、知らない場所で、寝台に横たわっていた。白い天井と、彫り込み模様の入った白い壁。透ける布が、窓からの風を受けて深呼吸するように広がる。ぼんやりと眺めていたら、レナートが盆を持ってやって来た。

「お。起きられたのか」

「……ここは?」

「ウェリア島の、俺の家。丁度、空き部屋があったんでな。とりあえず、なにか食ったほうがいい。何日も食わずじゃあ、立ちくらみも起きるってもんだ。ほらよ」

 亜麻布がかかった膝の上に、盆を置かれる。

「……なにこれ」

「豆粥。同居人が下で料理屋やってるから、厨房の端で作ってきた。魚介が平気なら、味は悪くねえと思うぞ。見た目は、まあ、ゲロっぽいけど」

 こいつは、いざ目の前にある料理を吐瀉物に例えられて、僕の食欲がそそられるとでも思ったのか。鈍った嗅覚では、薄味そうな料理の匂いも分からないのだ。仮に、本当に吐瀉物だったとしても分からない。本当にそう思えてきてしまう。やめてほしい。

 こんな心境なんか知ったことではないだろうレナートは、窓際の壁に寄りかかった。

「お前、これまで使ってた薬だとか、あるか? 必要なものがあれば、俺が医者に相談してきてやるよ。貰えるかどうかは分からねえけど」

「……今はいらない」

 痛みを誤魔化すために焚いていた薬は、その効果と引き換えに体の機能を狂わせる。瞳を光に順応させにくくするのも、血液の勢いを弱らせてしまうのも、脱力するのも、意識が朦朧とし続けているのも、あの煙を吸い続けたせいだ。痛みがないのなら、不要なもの。この腹の中にある不束な臓器は、とりあえずのところは、眠りについたらしいから。

「そうか。……なあ、気を悪くするなよ。一応、確認するだけだ。伝染るものか?」

「伝染らないよ」

「だろうよな。うちにはどうも、心配性なのがいるからよ。訊いておけってうるせえんだ」

「……気にするのは、当然じゃないかな」

 どこぞから流れてきた人間が、何度も倒れていれば気にもなるだろう。まして、船という限られた空間で過ごした時間があるのなら、尚更だ。気にしないレナートのほうがおかしい。

 つまるところ、海から引き上げた僕を着替えさせたのは、彼なのだろう。そのときに僕の体を見て、僕の不調がそれに由来するものだと解釈している。いかにも、その通りではあるけれど。果たしてそこまで察しが行き届くものだろうか。いずれにせよ、彼は僕の異常を、他の人には伝えなかったらしい。気を利かせてくれたようだ。

 豆粥を見下ろす。銀色の匙が添えてある。道具を使っての食事は、あまりしたことがない。が、とりあえず手に取ってみた。掬い部分が大きい。これは、唇に添えて啜ればいいのか。それとも、口の中に入れるのだろうか。正しい使い方は分からないが、間違っていれば指摘してくるだろう。レナートは、僕がこういった道具を扱い慣れていないことも知っているはずなのだ。掬い取った粥の上澄みを啜ってみる。大麦らしきもののかけらが混ざった、ぬるい液体。

 もう、何年も口の中にまとわりつく苦味。何を食べても気持ちが悪くなる。この料理本来の味も、分からない。

「どうだ?」

 と訊かれても、気の利いた感想は言えない。良いものかもしれない。僕の舌が馬鹿だから、分からないだけで。

「悪くないんじゃないの」

「ならよかった。慣れたら、下で出してるものも食ってみろよな。島じゃあ、結構評判の良い飯屋なんだ。ああ、それと、動けるようになったら体を洗ったほうがいい。一応、引き上げたときに真水を掛けたが、塩気が残ってると荒れるからな。この部屋を出て、右手側の向かいが浴室だ。着替えは……、また俺のを貸してもいいけど、同居人のやつでもいいぜ。ローブみたいな服が多いから、そっちのが楽かもな。背丈も身幅も、大して変わらねえ感じだし。女物だが」

「貸してもらえるならなんでもいいよ」

「じゃあ、とりあえずアイツのを置いておくよ。そんなに女々しい感じにはならねえと思う。後で好きなものを買いに行けばいいさ」

「この家、二人で住んでるの?」

 女性の同居人がいるのなら、関係性によっては僕は非情に邪魔なのではなかろうか。そう思って訊ねれば、レナートは首を横に振った。

「いいや、三人だ。親父と、その娘と、俺。まあ、それぞれ誰とも血は繋がってねえんだけど」

 軽い口調で、そう答えられる。なら、その女性は義理の姉――か、妹ということか。どうも、複雑な家庭なようだが、他人のことを言えた口ではない。いずれにせよ、案じていた関係ではないらしいので、多少は居座らせてもらっていいのかもしれない。

「明日、下で仕事の打ち合わせがあるんだ。ほとんど雑談でさ。下りられたら顔出せよ」

「……そうだね」

 多分、あの船に乗っていた人たちが集まるのだろう。なら、礼くらいは言っておかなければ。『やはり死にたい』と僕がまた本気で思ったなら、それは僕自身が改めてけじめをつければいい。荒波が打ち付ける崖下に落ちたとき死ぬはずだったのに、失敗したのはどう考えても運のせいだ。こんな、遠い異国まで流れてきたのも運のせい。レナートの目に留まったのも、多分運のせい。でも、僕を引き上げて世話をしてくれたのは、彼らの善意に違いない。

 レナートが作ってくれた豆粥をなんとか食べ終え、一休みしてから体を洗った。浴室では、壁の高いところから首をもたげるようにしている、無数の細孔が開いた金属の円盤が温水を降らせてくるので戸惑った。噴水の一種なのか? どういった仕組みなのか分からない。見たこともない。アウリー王国は魔道が発展しているから、これもそういった類のものなのだろうか。

 全身鏡に背を向けて、体に残っていた海塩を洗い流した。硬くなっていた髪が、元に戻った。用意されていた服に袖を通してみれば、たしかに着慣れた長衣と似た感覚がした。

 それから部屋に戻って、また眠った。夜中に二回ほど目が覚めたが、はっきりと覚醒したときには、窓から朝日が差し込んでいた。

 久々に、意識が明快であることに気づいた。自分を自分だと思える感覚は、数ヶ月ぶりだったかもしれない。

 正午近くに階下に行った。賑やかな大衆食堂は〈星の砂〉の名で島の人々に知られていて、レナートのお姉さんが切盛りしているとのことだ。僕がそこに行ったときには、殆どの席が人で埋まっていた。

 こんなにも多くの人で賑わった場所に紛れるのは、何年ぶりだろうか。尻込みしていたら、人混みの中で手招きするレナートの姿が見えた。意を決して、一歩踏み出す。

 厨房を通り過ぎるとき、銅色の髪を結い上げた人の後ろ姿が見えた。

「動けるようになったか。よかったな」

 食事中の見知らぬ人に話しかけられた。多分、船に乗っていた人なんだろう。

「お世話になりました」

 声を掛けてきた人と、その人と同席している人たちに軽く礼を言った。席の合間を縫うように進み、レナートの元に辿り着く。彼は隣の席を引いて座るように促してきたので、従った。

 四人で使うのに丁度いい机を囲んでいたのは、レナートと、彼とともに僕を世話してくれた人と、黒い髭をたくわえた見知らぬ人だった。

「セルジオだ。今ここにいる大体の奴らを纏めてる」

 髭の人が言った。ここにいる人たち……、ざっと見た感じ、二十人と少しくらいだろうか。そもそも彼らがどういった集団なのか、僕は知らないのだが。

 ふと、視力がいくらか回復していることに気づいた。人々の顔が、判別できる。

 セルジオと名乗った彼の無精じみた髭は、縮れた黒い短髪と繋がっている。眉も太い。日に焼けた顔は、五十代も終わりかけの歳に見える。だが、体は厚めの筋肉とそれを覆う脂肪でできているようで、実際はもう少し若いのかもしれない。

「ご迷惑をお掛けしました。救けていただいて、ありがとうございます」

 詫びと礼を言った。この人が纏め役なら、僕をこの島まで運ぶことを許可したのは彼だ。

「気にするな。海での拾いものには、なぜか慣れてるんでな。それより、礼儀がなってる。どこかの誰かとは大違いだ」

「へえ。そりゃあ、もしかするとだがよ。そいつはひょっとすると、誰かの教育が良くなかったのかもしれねえな」

「ケッ。よく言うぜ」

 レナートとセルジオさんが言い合った。どういう意味なのかと少し考えて、僕と比較されたのがレナートなのだと理解した。

「おっと。そういえば、俺も名乗ってなかったか? ディランだ。よろしく」

 船で世話をしてくれた人が言った。僕の前でレナートと話していたのだから、たぶん何度か名は耳にしていると思う。が、記憶に残っていなかったので助かった。

 セルジオさんと、ディランさん。頭の中で繰り返した。

「さぁて、腹ごしらえといこうぜ。ま、俺たちはもう食ってんだけどさ。どれにする?」

 机には大皿料理が置かれていて、好きに取って食べろということだった。野菜と、魚を焼いたものならば口にできるだろうか。肉料理や、乳酪チーズを溶かしたようなあつものスープもあったが、陸の動物の肉は、あまり受け付けない。レナートが皿を持って待っているので、僕は茹で野菜と焼き魚の切り身を、少しだけ取ってくれるように頼んだ。

 昨日までより、頭はすっきりとしていて、視力も回復していたから、味覚も少しは元に戻っているだろうかと期待したが、そちらは変わっていなかった。

 ほのかに匂いは感じるが、やはり苦い。のろまに半分くらい食べ進めたあたりで、セルジオさんが頭の上で両手を大きく叩き鳴らした。騒がしかった空間が、静かになる。

「食ってていいぞ」

 当人も食べ続けているレナートに言われたので、僕は食事を続けた。取ってもらった以上、残すわけにはいかない。

 ディランさんは手を止めて、立ち上がったセルジオさんを見上げている。これから始まるのは、仕事の話なんだろう。僕には関係がない。

「前に一度話したが、ジュローラのアルベルティーニから来ていた依頼の件だ。受けることにした。四回後の賢神の日に出るから準備しておけ。以上」

 セルジオさんは低く太い声で言って、座った。それで終わりなのか? 店の中が、再び賑やかになる。

「なんだよ、親父。乗り気じゃなかっただろ」

 食事を再開したセルジオさんに、レナートが言った。『親父』と呼びかけた。彼がもう一人の同居人なのだろうか。

「俺たちがアビリスに行っている間に、また使いが来ていたらしい。当主によると、〈メリウス王の墓神殿〉に関する情報じゃないかっていう話だ。おいえの大書庫を片付けていたら出てきたとかで、一部が読み解けたらしい」

「一部かよ。大神官様がまともに読めねえものを、よく俺らに読ませようなんて考えに至るな」

「読めねえわけじゃあなかろうが、忙しいんだよ。そもそも、読み解いたのは若様だっていう話だ。たしか、お前と同い年じゃなかったか。優秀だな」

「俺だって優秀だろうよ」

「親父さん、ジュローラの神官様と知り合いでしたっけ」

 ディランさんもセルジオさんに『親父』と呼びかけた。関係性が分からない。

「もう何十年も会っちゃいねえが。そんじゃあ一丁、俺は返事の手紙をしたためる。お前さん、ゆっくりしていけ」

 セルジオさんは僕に黒い目を向けて言い、席を立った。そして、先ほど僕が下りてきた階段を上っていく。やはりレナートの父親か。この家に住んでいる人だ。挨拶ができてよかった。ディランさんは愛称として『親父』と呼んでいるのだろう。

「よおよお、ディランじゃねえか」

 喧騒の中から声がして、どこからだろうと意識を向けようと思ったところで、空席になった場所に人が座った。くたびれた感じの人で、金色の液体が半分くらいを満たした大きな酒坏を机に置く。

「随分久しぶりだな。なんでこっちにいるんだ」

 ディランさんは親しげに応えた。友人なのだろうか。

「またウェリア配属になったんだよ」

「なんだ。首を切られたのかと思った。官憲様が昼間から飲んだくれていいのか?」

「書類仕事でほとんど四徹だぜ。ようやく非番になったと思ったら、頭が変に冴えちまって眠れねえと来た」

「そいつは気の毒にな。だが、そんな状態で引っ掛けたら、後で後悔するぞ」

「分かってるよ……」

 力なく、机に突っ伏す。その人が役人だと言うから、身が固まった。ディランさんは、僕のことを話すだろうか。レナートはまるで興味なさげに食事を続けているから、言う気はないのだろうけれど。

「……そういや、あんたの兄さんはどうしてるのかね。気のいい人だったじゃないか。俺も前にこっちに来たときは新人で、本土とは勝手も雰囲気も違うもんだからさ。随分と世話になった」

 突っ伏したままで、官憲の人は呟いた。彼を見ていたディランさんの穏やかな表情が、わずかに強ばった気がした。

「ええと……、あの人の話はしないでほしいんだが……」

 控えめな制止。けれど、すっかり酔いの回った様子の相手は気づかないのか、酒坏に残った中身を一気にあおって、続ける。

「お前もプロメロスで優等生だったが、兄さんはパレス大なんだろう? セルジオのおっさんも、優秀な人材を捕まえたもんだぜ、って。本土でもたまに聞くくらいさ。責任を感じちまったんだろうか。真面目そうな人だったし。事情がさっぱりなんだよ。なんせ、俺は結局、あの後すぐ本土に――」

「なあ」

 ディランさんが酔っ払いの肩を掴んだ。結構な力が入っているのが、僕にも分かった。

「頼むから、あの人の話をしないでくれ」

 口だけは笑ったまま、絞り出すように彼は言った。

 突っ伏した姿勢から起こされた官憲の人の目が、ふとレナートに向いた。彼はなにかに気づいた様子で、明らかに慌てだした。ガタガタと椅子を鳴らして、席を立つ。

「あっ。いや、すまない。酔っ払いはこれだから……。ま、まあ、よけりゃあ、また後で――」

 空になった酒坏を持って、離れていく。そうかと思えば、勘定を済ませてさっさと店から出て行ってしまった。相当気まずかったらしい。

 レナートは官憲の人が去るのを横目で見届けると、明らかにその話題を避けたがっている様子のディランさんに、無遠慮に畳み掛けた。

「お前、兄弟なんていたっけ?」

「……いたかもしれないな。多分、もう死んだよ」

 ディランさんは乾いた声で笑った。

「ひでえ言い草じゃん。喧嘩でもしたか? お前と長く付き合ってきて、兄弟の話なんて聞いたことねえぞ」

「ああ、……してこなかったかもしれない」

 ディランさんはレナートから目を背けている。人混みの方に向けられたオリーブ色の瞳は、何を見ているわけでもなさそうだった。

「まあいいや。それより、なあリオン。俺さ、ガキの頃に海賊に拐われたことがあるんだ。ありゃあ、十二のときだから、丁度十年前になるんだな。それで、ええと……、たしか腹を切られたんだよな?」

「そうだよ」

 口調ははっきりしているが、ディランさんの目はまだ、ぼんやりと宙を見つめている。

「それで、何ヶ月も入院したんだぜ。そんだけ酷い怪我だったってのにさ、傷跡。ほら」

 レナートは上着の裾を上げて、腹部を見せてきた。普段日に当てないのか、色が白い。やっぱり僕なんかより健康的で、筋肉が綺麗に浮き出ている。僕の体が筋っぽいのは、単に痩せすぎているだけだから、少し羨ましく感じた。そのレナートの腹に、傷跡らしきものは一切見当たらない。

「分かんねえだろ? わざわざ本土から患者が来るくらいの病院がさ、このウェリア島にはあるんだ。『聖ルドヴィコ病院』って言ってさ。昔はリーン教の教会だか、修道院だったんだとよ。ルドヴィコってのは、リーン教の聖人な。あそこが教会だった頃に、なにかすげえことをしたんだろうな」

「宗教改革戦争でな。敗戦側の人だったんで、死後暫くは罪人扱いだったらしいが。終戦から百年後に聖人に格上げだ。価値観だとか解釈だとか、ファーリーンでも百年もしたら変わるものなんだろう」

 レナートの説明に、ディランさんが大きく補足した。聖ルドヴィコの名は、歴史書で見かけたことがある。たしか、ファーリーンの偉人にしては、随分と好意的な書かれ方をしていた。

「さすが。プロメロス大卒はちげえ」

「このくらいは一般常識だろう。ましてウェリアで育ったんなら。興味がなさすぎるんだ」

 本気なのか誂いなのか分からないレナートの言葉に、ディランさんは笑って返した。元の、穏やかな雰囲気が戻ってきた。

 レナートは上着を戻して、椅子の背にもたれた。もう食事は終わりらしい。

「俺、あの頃のことはあんまり覚えてねえんだ。穴抜け状態っていうかさ。それがどうにも気持ち悪くてな」

 独り言みたいな口調で、レナートは僕に言った。

「仕方ない。それだけ酷い状態だったんだ。すっかり思い出したって、気分の良いものじゃないだろう。なら、いいじゃないか。忘れたままでも」

 ディランさんはそうなだめるが、レナートは不服なようだ。

「周りの話についていけなくなる。俺も知ってるはずなのに。さっきのやつとかもそうだろ。本当は、お前の兄貴のことだって――」

「いいんだって。そのうち勝手に思い出すかもしれないんだ。そうしたら、おっかなくて泣くかもしれないぞ、お前」

「おい、あんまり馬鹿にするなよ」

 冗談めかしてディランさんは笑うが、少し元気がないように感じた。兄弟の話が嫌だったのか、レナートを心配しているのか、その両方なのか、或いはまた別のことが理由なのかは、僕には分からない。

 けれど、快活で悩みがあるようには感じさせないレナートにも、――屡々、人は『忘れたいほどつらい記憶』などと言うことがあるが――実際に忘れてしまうほどのなにかがあった。その事実は、僕の、彼に対する見方に若干の変化をもたらしたように感じられた。

 そこには、『親近感』も含まれていたのかもしれない。

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