――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
プロローグ

蒼き宝石の君

メレーの御胸の小さきものは

夜の藍に煌き

朋の愛を真実に照らす

水に揺れる蒼き玉は

古の幻想を秘め

オフィーリスの訪詩たずねうた 〜クレス・アウローラ〜

 硝子越しの陽光が、瞳の奥で弾けている。窓掛けを下ろそうかと思ったけれど、動くのが億劫でやめた。今日になって幾度目か、彼方で交わる空と海の境界に瞳を向ける。薄墨が鬱陶しく滲んでは、消えて、また滲む。陰で緑の葉を揺らす鉢植えのあたりに、合わない焦点を移してみる。割り込んでくる光と影。どこに目を向けたところで、ろくに見えやしない。そうしてまた、膝の上で広げたままの本へと視線を落とす。ただ、それの繰り返し。

 文字を追ってみようとする。二重にも、三重にもなって乱れる細字の羅列。見つめて待てども変わらない。諦めて、開いたところをそのままに、脇へと置いた。

 ここフォルマ王国が建てられた当初から敵対し続けているという、ファーリーン王国と、その宗主アルディス帝国の根幹となる神話が綴られた、長大な書物。〈アルビオンの書〉。フォルマでは禁書として取り締まられるこの本を手に入れるのは、容易ではなかったはず。ただ、興味があると漏らしてしまった。その言葉のために、この本を僕の手元に与えてくれた主は、やはり尊敬されて然るべき人だ。

 扉向こうで錠が鳴る。主か、医者か、どちらか。やがて姿を現したのは、黒い髭をたくわえた、白装束を纏う、長身の、中年の男。主人だった。

「起きていたのか。体調はどうだ。出血は止まったと聞いたが」

「……薬を炊いていれば」

 やたらと掠れた声が出た。主の耳に届いただろうか。寝台の枕元で、白い薄煙を出し続けている香炉。おそらく、この国で最も強力な薬。今どき、誰も――まともな人間なら――、使いはしない劇薬。

 主人は、寝台の向かいに備えられた白の長椅子に座った。部屋の白壁に、白を纏う彼の姿が、一瞬紛れて消えた気がした。主は暫くの沈黙の後、口を開いた。

「……そうか。ならば何よりだ。と、言ってやりたいところだが……。その薬、これ以上使い続けることはできないそうだ。長期使用で幻覚症状が現れてくるだろうことは、予めの説明にもあったが……」

 感覚を鈍麻にさせる薬だ。痛みを誤魔化すために、一日中、ひと月ほど使い続けている。以前にも何度か、同じように使用した。そろそろ潮時だというのなら、そうか、と納得する。自分の感情が希薄になってきたことは、とうに自覚している。物事に対する関心も、以前のようにはいだかない。今のような生活を初めて、何年経つのだったか。

「お前は賢い。このような場所に閉じ込めておくようなことは、したくない。薬のためにその賢さが失われてしまうのも、無念でならないのだ、私は。痛むものを取ってしまうことが、やはり一番よいと思う」

「……そうでしょうね」

「腹を切らねばならないが、よく慣れた医者を呼ぶ。不安に思うことはない」

「ええ……。考えておきます」

 何度も提案されてきたそれに、僕は何度も繰り返してきた言葉で答える。

 主が僕を見つめている気配がする。彼の黒い瞳が、僕の顔に向いているのが分かる。やがて、彼は唸った。

「その様子では、次はないだろう。もし、またその発作が起こったら、私はお前を眠らせて、医師に執刀を頼む」

 決断しない僕に代わって主がそれを決定するのなら、いずれにせよ僕が答えを出す必要はない。それでいい。僕には、なにが正解なのか分からない。次がいつかも、分からない。半月後かもしれないし、一年後かもしれない。今後一生、無いかもしれない。

「近頃、お前の表情は動かない。元々、あまり感情をあらわにする性格ではなかったが、寝惚けたような目をしている。焦点が合っていない。私の顔も、あまり見えていないだろう?」

 僕の目に映る主人の瞳は、六つ。口は、三つか四つ。表情など分からないが、そこに顔があることは分かる。この部屋にやってくるのが、医者と主人の二人だけで、背丈と声が違うから、判別ができる。この部屋に、もっと多くの人間が訪ねてくるとしたら、僕は主人を見つけられないだろう。この目はもう、ほとんど役に立たない。

「その本は、どの程度読むことができたのだ」

「冒頭のところです。……ここまで」

 〈アルビオンの書〉の、読み進めたところまでの紙束を摘んで、示してみる。全体の十分の一程度だ。

「それを与えて半年だ。以前のお前なら、とうに読み切ってしまっているだろう。帝国風の言い回しは独特かもしれない。私も軽く目を通してみたが、容易な書物ではないと感じた。だが、お前が鈍くなっていることを判断するには、十分だ」

 半年。半年経っても、まだ。そうか。

 文章が、まるで頭に入ってこないのだ。ただ、文字が並んでいるばかりに見えて、うまく言葉をつなぎ合わせられない。言葉が、理解できない。

「今なら、まだ元に戻れる。腹のものを取ってしまえば、この部屋を出て自由の身にもなれるはずだ。私としては、その知性をズフールの発展に活かすことを将来に見据え、学びに励んでほしいと思う。しかしお前が望むのであれば、帝国に行くのもよい」

「……帝国に?」

「お前は、リーン人の血統だ。お前ほど典型的なリーン人の容貌をした者も、昨今のファーリーンでは珍しかろう。そちらに縁があるのなら、一度はその地を踏んでみるとよい。あちらの風土がお前に合っているのなら、そのまま落ち着いてしまってもよい。名残惜しくは思うが」

 発覚したなら罰せられる危険を冒してまで、主人はこの〈アルビオンの書〉を与えてくれた。類稀な人徳者。そう呼ばれる彼に、唯一の汚点を作っているのは、他でもない僕だ。僕を匿い、養育し続けること。それが、主人の厚い人望に隙を作る。僕は、彼のもとから消えるべき存在だ。

「……だがな、いつかお前がこの街で、持てる力をいかんなく発揮してくれたなら、私の鷲鼻も高くなるというものだ」

 主人は笑い混じりの温かな声で、言った。消えるべきなのか、それとも、この街にとって有益な人間になるべきなのか。理想だけでなら、そんなものは決まっている。けれど、並の覚悟では、到底応えられない。

 主人が咳をした。こめかみを押さえているようだ。この部屋に充満する煙を吸ったせいだろう。医者はいつも、口鼻を覆ってやってくるのに、主人はその顔を隠すようなものを身に着けてこない。それが、彼の気遣いであり、優しさなのだと理解している。

「もう暫く休んでいなさい。夜にまた、様子を見に来る」

 主人は長椅子を立ち、香炉の蓋を開けた。たしか今朝……、いや、昨日だったか……。医者が薬草を足していった。いずれにせよ、まだ残っているはずだ。香炉の中を見た主人は頷いた。そして部屋を出ていく。再び錠が鳴る。

 また、一人になった。広げたままの分厚い本に、あまり使い物にならない目を向ける。かろうじて読み取れた『神々』の名には、覚えのあるものもあったが、それはきっと、ほんの一部に過ぎない。

 非情なほどに美しく、天上の国アルビオンの様子は描かれる。その中に在る無機質じみた帝国の神々の姿に、なぜか僕の頭をかすめた想いがあった。かれらは、僕と同じなのだろうか、などと。

 閉じた本を片腕に抱え、ふらつく体で机へと向かった。羊皮紙を広げ、筆を取った。字を書こうと指先に意識を向ければ、震えた手が筆を落としそうになる。左の利き手に右の手を添えても、震えは治まらない。幼児が戯れに書いたような、乱雑な字。それはまるで、のたうつ環状生物だった。自分が書いた文字でさえ、この目は読み取ることができない。

 ようやく絞り出した言葉は、紙一枚を埋めて終わった。もっと書けるはずのそれが、どうしても書けなかった。浮かぶ言葉は、暴れる文字を制御しようと気をやれば、その間に消えていってしまうから。短く終わってしまった言葉を締めくくる。風で飛んでしまわないよう、瑠璃の重りを乗せた。

 そして、再び〈アルビオンの書〉を手にとる。これを残していったら、主人に余計な迷惑が掛かるかもしれない。

 大窓を開け放つ。ぼやけた水平線の向こうから海上を滑り、崖を昇ってきた風が、一気に吹き込んでくる。光に脳が焼かれる心地がした。このまま焼ききれてしまえばいい。

 露台に出て、潮風に吹かれる。瑠璃と同じ色をした海と、雲もなく無限に広がる空を眺めた。見えない目でも、見ておきたかった。

 夢と現実の狭間に、ずっといる。自分が生きているのかどうかも、もう分からない。本当はとっくに死んでいるのではないかと、よく思う。

 白い鴉――リオス鳥が羽ばたいてきた。また来たのかと手を伸ばせば、そいつの趾が腕に絡まった。珍しい翠の瞳で、首を傾げながらこちらの顔を覗き込んでくるのを、かろうじて視認した。

「お前みたいな翼があれば、違ったのかもしれない」

 そう呟けば、白鴉はその翼を大きく広げて、水平線めがけて飛んでいった。

 僕は鉄の手摺を乗り越え、その上に座った。消えた足場、指に掛けただけの履物が脱げて、遥か下方で飛沫を上げる海の中へ落ちていく。空へ顔を向ける。深く息を吸い込んだ。深く、肺が限界を訴えても、更にもっと、あと少しと。

 ぐらりと天地が回転する。なぜかこぼれ出た笑みと一緒に、吸い込みすぎた空気が口から漏れる。手摺を押して、離れる。

 空を見続ける。淡青の光は、どれほど落ちていったところで、遠のきはしなかった。

   親愛なる方へ

 私のために、これまでどれほどの代償を支払われたことでしょう。貴方に拾われたことは幸運でした。敵国人の容貌を受け入れ、他の子供達と分け隔てることなく、また奇怪な身を嗤うこともなく、ただ私が望むように生きられるよう、尽くしてくださった。

 けれど、貴方のような人ばかりでないことを、私は知っています。貴方のような方は、きっと他にはいない。貴方の温情を知ってしまった私は、自由の身となることが恐ろしい。いえ、この身で生まれた以上、私の心が自由を得ることは不可能であると思います。

 私に費やしてくださった、多くの時間と労力、財産、その優しさに深い感謝を。

 貴方の善なる行いに、アーリャよりの酬いがありますように。

貴方を敬愛する子供の一人より   

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