――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
第三章

 朦朧とする意識の中で、身体を調べられた。医者がどんな反応をしているのか、気に掛ける余裕もなかった。

 いっそ気を失えれば楽なのに、痛みがそれを許してくれない。こういうときばかりは、今すぐに腹を捌いて取り出してくれと願ってしまう。けれど、そんなものはいっときの感情だ。いつも、後になってそのように考えたことを後悔する。

 幾分か蘇った感情を再び殺されるのが恐ろしくて、あんな薬はもう二度と使いたくはないと思っていた。だが、痛みにのたうつこともできない状況に陥れば切実に求めてしまうのだから、僕の意志なんて所詮そんなものなのだ。曖昧。それがどうしようもなく嫌だった。

 大窓から海が望める病室で目覚めたとき、痛みはなかった。身に纏っていたのは空色の長衣。せっかく買った服を汚してしまった。純白に沈着した血の色は消えないだろう。わりと、気に入っていたのに。

 水平線から昇ってきたばかりの陽光にきらめく海を眺める。人の気配は遠い。街はまだ目覚めきっていないらしい。

 部屋の扉が開く音がしたから、そちらへ目をやった。レナートが静かに、気配を消すようにして入ってくる。その腕には数冊の本が抱えられている。落ちた視力でも、それらが僕が買った本だということは分かった。

「おっと、起きてたのか」

 まだ僕が眠っていると思っていたのだろう。もう目覚めていると分かった彼は、気配を消す努力をやめて寝台の近くまで潔く歩いてきた。そして、僕の手が届く台に本を置いた。一番上に、他よりも薄く小さい本が乗っている。題字は『メレーの子』。

「しばらく入院なんだってな。どうだ、具合は?」

「……どこまで聞いたの」

 僕は訊ねた。ここまで僕を運んだのは彼だ。医者は僕の身体を調べて分かったことを、話したかもしれない。元から僕がおかしな身体をしていることは知っていただろうけれど、実際のところ、彼がそれをどのように解釈しているのかも、どこまで理解しているのかも分からなかった。それを確かめる勇気もなかったし、必要性も感じなかった。触れてこないのなら、こちらから話そうとも思わない。けれど、なんだか今ばかりは気に掛かって仕方がなかった。

「いや、入院が必要だってことと、内臓が痙攣してるから止めたってことしか聞いてねえぞ。身内じゃねえからな。細かいことは説明されない」

 どの臓器かなんて、僕には分かりきっている。この国の技術なら、動き自体を止めてしまうことができるのだという事実への驚きを凌ぐのは、その『臓器』が何なのか、果たしてレナートも分かっているのかどうかという不安だった。そう、不安だ。彼が僕にとってどうでもいい人間なら、どう思われたところで気になんてならないのだ。僕はそれを知っている。

 僕が返答に満足しきっていないことを、多分彼は分かっている。入院中の暇つぶしにと持ってきてくれたのであろう本を手にとって眺めながら、こちらの様子を伺っていた。

「……まあ、俺とか他の奴らがどうとか、余計な心配はするなよ。話したくなけりゃそれでいいし、話して気楽になるなら言えばいいし。どっちにしろ、医者から俺がお前についての説明を受けることはないからな。お前がなにか言わない限りは、俺も別に触れねえだろうよ」

 レナートは僕をちらと見て、また本に視線を戻した。また少しの沈黙があって、彼は本を閉じて台に置いた。彼は改まった感じで僕を見下ろして、言った。

「分かった。じゃあ、はっきり言うさ。俺はお前を引き上げて着替えさせたときに、お前の体を見たよ。俺はその時に、お前は大方去勢された男だろうって思った。けど、実際のところはそうじゃねえんだろうって今は思ってる。じゃあ、その『実際のところ』がどういうものなのかは、お前の話を聞かなきゃ分からねえだろうけどな」

 僕は異様な生き物だ。いや、生き物として大きな欠陥を抱えている。それを彼は初めから知っていたし、今回のことでより知った。けれども僕への態度は、これまでと変わった感じがない。

「俺にも勇気が要るんだぞ、どこまで知ってるって伝えるのは。こういうのは名誉に関わると思ってるからな。下手に踏み込めることじゃねえだろ」

「……気を使わせたね」

「大したことねえけど。まあ、気が向いたらお前も話せよな。気長に待ってるからさ」

 心臓に杭でも打たれたような衝撃があった。それは、ほんのわずかな痛みを伴うものだった。

「……そんなふうに言う人、いなかった」

「そうか?」

 レナートにとっては、当然のように自然と出た言葉なのだろうか。誰も、勝手に暴こうとするか、憶測で架空の僕を作る。僕の意思など関係なく、大抵は貶めるためにそうする。

 けれど、レナートはそうでないのか。彼にならば、話してもいいかもしれないと思った。けれど、それは今ではない。いつかだ。……本当に待っていてくれるのならば。

 そうだ。彼みたいな人は、いなかった。

「手術をお勧めします」

 入院から一週間、病室に来た担当医師は言った。帝国の……と言うよりも、アウリーの医療技術がフォルマよりも遥かに進んでいることを実感していたところだった。だが、やはり最終的に行き着くところは同じだったようだ。

 微弱な電流を内臓に直接与えることで、大げさな収縮を繰り返す筋肉を小さな動きへと強制的に書き換えているらしい。魔道によって為せるわざだということは分かるが、その方面にはまるで疎い僕には仕組みなど分からない。ずっと、この処置を施していてくれればいいのに、なんて軽く考えてしまう。だが、実際はそんな単純な話でもないようだ。

「細胞が異常増殖し塊になっています。局所に留まってはいるようですが、現に症状が認められているのであれば……」

「全て?」

「摘出となれば、そうですね。先天的な形成不全ですし、今後機能することもありませんから」

 要は、あっても邪魔なだけ、ということだ。大切に取っておいても意味はない。むしろ、不調や病の元にしかならない。別に、僕自身それを大切に思ってるわけではない。それでも無性に抵抗感が湧いてしまうのは、単に腹を切るのが怖いからなのだろうか。多分、この国の技術に任せれば、意識のない中で身体を切られても、そうそう死にはしないんだろう。けれど、僕はすぐには頷けなかった。

 翌日から、医者や看護師とは別の人間がやって来るようになった。名乗られたが覚えなかった。その人は積まれた本から話題を広げようと努力していたけれど、僕はほとんど無視した。僕が手術を受けることを決心できるよう、導く役目を与えられた人らしい。何気なく会話しているようで、実際には僕の思考を読み取ろうとしている。それが分かるから、僕はその人に自分の目を見せないようにして、ほとんど体も動かさなかったし、声も出さなかった。

 結局、その人も数日後には来なくなって、代わりにやってきた医者に手術を受けるよう念押しされた。

 その後もレナートは病室に顔を出した。僕がこの国に合法的に居続けられるようにしてくれたセルジオさんも、二回ほど様子を見に来た。

 ある日、見舞いに来てくれたマリアさんは、僕が汚した服を鞄から取り出して、広げて見せた。

「どう? 隠れるようにしてみたんだけど」

 僕は実際のところ、どのように新品の服を汚したのか分からなかったけれど、たぶん、腰や腿の辺りに色がついてしまったのだと思う。それを覆うように、胴回りの帯部分から垂れ幕のように下がっている空色の布は、店員に押し付けられるようでいて本心では気に入っていたその白色の長衣を、より僕好みに仕立て上げていた。

「ありがとうございます。忙しいだろうに」

「いいの。針仕事も結構好きだから、私。退院したら着てみて」

 そう言って微笑み、彼女はその服を鞄に仕舞った。綺麗な人だと、改めて思った。この国の人にしては、化粧が薄い。灰みの強い薄薔薇色の透ける襟巻きがよく似合っている。彫りが深めで、背も高め。忙しく働く間に傷を付けてしまったのだろう手も、大きめ。決して逞しいわけではなく、むしろ細くて華奢だ。明るく温和な雰囲気の声は、深みを纏っている。

 どことなくちぐはぐとした印象。それがより、彼女の大きな包容力のようなものを際立たせているようにも思える。

 僕はしばらく、本を読んで過ごした。『メレーの子』も何度か読んで、その上で〈アルビオンの書〉も読みきった。結局、手術を受けるかどうかについて、僕は明確な返事をしなかった。けれど、いずれにせよハーワサーによって被った不調が回復するまでは、ここにいる必要がある。

 ハーワサーを急にやめて、下手をすれば死ぬことは分かっていた。けれど、それでいいと思っていたから、レナートたちには言わなかった。元々、死ぬつもりだったのだから、ここに来て突然心臓が止まったとしても構わない。そう思っていたけれど、最近は少し楽しい。考え込むこともあるが、それは今に始まったことではない。レナートと街を歩いた日は、結局は嫌な感じで終わってしまったけれど、自分の脚で人の中を歩いて、物珍しいものを見て、自分の手持ちで買えるものを吟味して選ぶことは、楽しかった。与えられたものではなく、自分の感性が『良い』と感じた衣服を纏って、好きなように歩き回れることに幸せを感じた。また、あのようにできたらいいと思う。だから、今の僕は死ぬことに対して積極的な気持ちは抱いていない。

 やがて、レナートたちはジュールで行う仕事のために出港した。アウリー王国に所属しながらも、自治を認められているクレス州の首都、ジュール。その名が、神話に登場するジュローラという街の名から来ていることは明らかで、その街は後にメリウス王が治めたクレス王国の首都となったらしい。通説では、一万年以上前に書かれたとされる〈アルビオンの書〉。そこに現れる名が、そのままの形で、或いは繋がりを感じさせるようにして現代まで残っているという事実は、興味深い。

 どのようなところか、見てみたかった。けれど、流石に今の状態で『ついていきたい』なんて言えない。僕は病室から海を眺めて、島から離れていく船たちを見送っては、『彼らはあれに乗っているのだろうか。それとも、向こうの船だろうか』と、憧れのような、虚しさのような、得体の知れない気持ちを抱いてその日を過ごした。

 翌日、また医者が念を押しに来た。僕は一晩、眠らずに考えた。そして、僕はまた逃げ出すことを選んだ。

 僕はやっと分かったのだ。自分が変わってしまうことが怖いのだと。

 早朝の海辺。昇り始めた太陽を背にして、細長く伸びる自分の影が示す先へ、宛てもなく歩いた。マリアさんのところへ行こうかとも思ったけれど、やめた。なんとなく、あの人ならば匿ってくれるような気もした。しかし、だからこそ余計に迷惑を掛けてしまう。あの人の父親が僕の保護者として登記された以上、この島を出発したセルジオさんの代わりになるのはマリアさんだろう。病院から勝手に抜け出しただけでも、確実に騒ぎになる。その上僕があの人を頼るわけにはいかない。あくまで、僕が勝手に誰に断ることもなく逃げ出したのだから、責めを負うならばそれは僕一人が受けなければならない。

 とは言え、履き物もなく、いかにも病院着らしい薄青色の長衣だけを纏ったこの姿で、何処に行けるというのか。本気で逃げられるなんて、もちろん思ってはいない。患者が消えたとなったら病院としては一大事だろうし、官憲にも届けが出るはずだ。上手くいって、今日一日姿をくらませられるかどうか、そんなところだろう。

 幼稚な反抗だ。実際のところ、僕が選べる選択肢は多くない。その中に納得できるものがないから、他人に迷惑を掛けるのを分かっていてこんな事をしている。

 僕は自分の影を追って辿り着いた砂浜に座り込んだ。白い砂を手に取り、指の合間から滑らせれば、それはまるで細かな水晶片のようにきらめく。

 寄せては引く波の打ち際を見つめ、その先の水平線へと視線を移した。まだ明るみきっていない夜と朝の狭間の色をした空に、一瞬の輝きが三度走った。音もなく海上に落ちる光。明朝に雷が起こるのは、この地域特有の現象なのだと、レナートから聞いた。

 雷神は本来、ファーリーンで信仰されるべくして生まれた神らしいが、実際にはこのアウリーの端にある島々で厚い信仰を集めてきたようだ。古の人たちは、この朝を告げる雷光に何を見出したのだろうか。

 今日は一日、海を眺めて過ごそうか。早朝に音のない雷が見えた日は、快晴になるらしい。その分暑くもなるだろうけれど、椰子の木陰にでも隠れればやり過ごせるのではないだろうか。海風は存外涼しい。

 僕は立ち上がって、浜を進んだ。透明な海水が砂をさらう場所に、足を浸す。水はくるぶしまでやってきたかと思えば、遠くに去っていく。白砂が泡立つ水に巻き込まれて舞う。その様子を眺め、海と自分の呼吸を合わせてみた。背中を照らす日光の熱さと、足元へ這って来る海水の冷たさを感じる。この島は海の匂いに包まれているけれど、いざ海の中へ入ってみれば、その香りがより強まることに気づいた。鈍くなって久しかった感覚が、戻ってきている。

 僕は運が良かった。ハーワサーは本来、フォルマでもとうに禁止されている薬だ。それでも、実際のところ貧民街などでは不適切な調合でより危険なものと化して出回っているのが実情と聞く。僕の状態に対して他に方法がなかったのだろうけれど、主人は僕のために法を犯し、薬学に詳しく、口の堅い医者を僕に宛てがった。たぶん、ハーワサーを中断してもさほど酷い状況にならないのは、その医者が手を尽くしてくれたからだろう。だが、いずれにせよ、その件が露呈すれば、主人も医者も只では済まなかったはずだ。

 僕は、彼らのもとから消えて良かったのだと思う。彼らは人格者で、有能で、僕のために裁かれたり、その地位を失うようなことは、決してあってはならない。

 レナートは十二歳のときに事件に巻き込まれたらしいけれど、僕が一室に匿われ外界との関係を殆ど断つことになったのも、その年頃だったと思う。実際、僕は自分の正確な年齢が分からない。主人に拾われたとき、僕は幼かった。今よりもずっと痩せていたらしいから、発育がとても悪かったのかもしれない。その点を鑑みれば、僕は今二十歳くらいだろうし、当時の見た目をそのまま受け取れば、十八くらいだろう。発育不全であったことを十分に考慮したなら、レナートと同じ二十二歳にもなれるかもしれない。

 陽光が海を照らし始め、空と連動して青色が広がっていく。遠くで賑わい始めた街の音と、波音を聴きながら、ここに人がやって来ないことを願った。今は一人でいたい。

 椰子の立木に近づき、毛羽立った幹を背にしてまた座った。目に映る光景を、美しいと感じられる。どうせなら、この感覚を持ったままで死ぬことはできないだろうか。感動を失って生き永らえるより、世界の美しさを感じながら息絶えたい。けれど、痛みや苦しみに苛まれながら死ぬのも嫌だ。我儘だろうか。けれど、願望なんて大抵は我儘なものではないだろうか。

 考え事をしながら風景を眺めて過ごす時間は、僕が感じている以上に早く過ぎ去っていくらしい。随分と高くなった太陽と気温に、もう正午も近いことをさとった。夜になったら病院に戻ろう。その前に見つかって連れ戻されるかもしれないけれど、それならそれで仕方がない。そう自分の中で決めて、後で悔いないよう海から来る風を吸った。

「ザヒル?」

 『リオン』に馴染んできた今になって、その名で呼ばれるなんて全く想像していなかった。僕は驚き、振り返ってしまった。無視ができれば良かったと、呼び掛けてきた相手を見てすぐに後悔した。嫌な記憶が蘇る。

「ああ、やっぱりザヒルだ。なんだ、どうしてこんなところにいるんだ?」

 さも親密げな口調で話しかけてくるが、こいつに関しては碌な思い出がない。人違いだなんて主張して通用するはずもないだろう。僕は沈黙して、ただ相手を見つめた。

「そう怖い顔するなよ。美人の睨みってのはことさら恐ろしいって、お前は分からんのか? まあ、そうだろうな。お前は自分より美形の人間なんて知らんだろうし。ところで、おい、俺のこと覚えてるよな?」

「……何の用」

 僕は低く訊ねた。できる限り。けれど、こいつは僕の声を聞くなり笑い出した。

「冗談だろ? もう十分な歳じゃないか。まだそんな半端な声してるのか、お前。もう意気がって男みたいに振る舞おうとするのはやめたらどうだ? ガキの頃ならいざ知らず、その歳になったらどう頑張ったって通用しねえぞ」

「……質問に答えられないらしいね。なら、はるばる僕を馬鹿にするためにアウリーまで来たのか。余程の暇人?」

「おうおう、随分と強気に口応えするようになったな。生憎、俺は貿易商に弟子入りしたんでね。もう四年も忙しくしてるさ。お前がご主人様に囲われて暇に暮らしてた間もな」

 嫌味ったらしい物言いは相変わらず。僕は人に対して、さほど強い感情を持つことがない人間のようだが、こいつばかりは嫌っている。無遠慮に近づいてくる生粋のフォルマ人らしい見た目をした男を、僕は無視しようと試みた。この場から立ち去りたい気持ちと闘う。尻込んだら負けだ。

 僕が涼む椰子の木陰に入り込んできて、こいつはさも愉快な世間話でもするみたいに話しだした。

「俺たちはよくクレスの方に行くんだが、この島は初めてだな。〈星の砂〉とか言ったっけ。評判が良いからどんなものかと思って行ってみたら、まあ驚いちまった。女の成り損ないみたいなのが厨房に立ってるじゃねえか」

 そう言って嗤う。胸糞が悪い。

「遠目で見たんじゃあ分からねえ奴も多いかもしれんが、俺はすぐ分かったよ。お前を知ってるからな。そうじゃなくても声を聞いたら分かる。男が必死に裏声使ってるってな。俺はすっかり気分が悪くなったんで、すぐ店を出た。ああいう奴が作った料理で食事なんかしたら穢れちまう。そうだろ? なのに、連中ときたら気にせず食ってるんだから、まったく、アウリーってのは変な奴ばっかりだ。慣れろって言われても慣れねえよ」

 苦難話をしたいのなら、相手を間違えている。だが、当然分かっていて僕に言っているのだ。

「……少し姿を見ただけで話したこともない人のことを、よくもそんなにこき下ろせるな」

 僕の反発に大した効果はない。分かっていても、黙って聞いてやるのは癪だった。

「お前にとっては居心地が良さそうな場所だろうと思ったよ。街の真ん中に女の成り損ないばかり集めた店があるなんて聞いたときはいよいよ反吐が出そうだった。お前も雇ってもらったらどうだ?」

 青い海を見つめ耐える僕の頭上に浴びせられる、屈辱的な言葉。他人への侮蔑を込めなければ会話もできない下劣さ。お前は人の成り損ないじゃないのか。噤んだ口の奥で主張したところでなんの訴えにもならない。だが、口から出したところで無意味なことを、僕は嫌というほど知ってしまっている。だから、苛立つ心を押さえつけ、黙っていたのだ。

 なのに、続けて浴びせられた嘲笑があまりにも挑発的だったから、僕はいよいよ耐えられなかった

「違った。お前は男の成り損ないだったか。……いや? なんだか判らねえのか。需要がないなら変態の掃き溜めさえ雇っちゃくれねえよな。はは、可哀想に」

 握りしめた右手の甲が痛んだ。考えるよりも先に、僕は動いていたのだ。気づいたときには僕の目線は海から離れ、人を虐げることが趣味の悪魔に向けられ、その顔面を殴りつけていた。

「誰が――、僕がどう在ろうが、どう生きようが、お前には関係ないだろ!」

 喉から血の臭いがする。初めて誰かを殴った気がする。こんな大声を出したのも、初めてかもしれない。

「……殴ったな。男に反抗するなよ、この半端者が!」

 そうだ。分かっていた。何かを言えば何倍もの暴言を返されるのだから、殴れば何倍もの暴力が返ってくるだろうことくらい。まず、腹の上の方を殴られた。僕は飛ばされるように、脆く、あっけなく倒れた。塩辛い砂が口の中に入り、迫り上がってきた胃液と混ざる。とてつもなく不味い。回復してきていた味覚をあだと感じた。

 砂を掻く僕の腰骨を踏みつけて、悪魔は喚く。

「籠の部屋に閉じ込められて可哀想になあ! そのおかしな身体を慰み者に使われてるんだろうって、皆んなよく話してたもんだぜ。人格者のスレイマン様が聞いて呆れるじゃねえか!」

 妄想で恩人をも貶す。あの人は誓って、僕らの保護者だった。彼は僕らの偉大なる父だった。この、僕に暴言を浴びせ暴力を振るう男が貿易商の弟子になれたのも、全てスレイマン様の慈悲によるものだ。

 だが、確かにあの人の博愛精神は陰の者たちによって捻じ曲げられ、事実無根の噂に変えられ流されていることを、僕も知っていた。彼は五十になっても妻を娶っていない。それは、身寄りのない未亡人や妙齢を過ぎた貧しい女性を多く保護するためだ。フォルマの神の法に則って一人を妻にすれば、他の女性に手を差し伸べることはできない。ならばと仮に三十人を娶って、平等に夫としての愛情を与えられるかと問われれば、到底無理な話だろう。だから彼は誰も妻にしないのだが、嫌な噂好きはそういった事実など気にも留めない。とことん馬鹿な連中だ。

「スレイマン様を侮辱するな。媚びて生き永らえたくせに、恩知らずのクズ野郎。尊大に振る舞いたいなら、潔く貧民街の川で溺れ死んでいればよかったんだ!」

 悪魔の暴言に負けじと言い返す。こんなに感情的になったことはない。ズフールの外れに広がる貧民街を流れる川は、糞尿で濁り死体が浮く不浄な場所だ。子供が溺れたところで、誰も助けやしない。誰にも、そんな余裕はないのだ。こいつの気の毒な過去を持ち出して罵倒してしまうなんて、僕も堕ちてしまったのだろうか。情けない。

「……ふざけやがって……!」

 さぞ嫌な記憶を思い出したのだろう。侮蔑の笑みばかり浮かべていた悪魔の顔に、苦悶めいたものがちらついたのを見て、こいつも人間らしく苦しめるのかと、僅かばかり感心した。

 そんなことを思う間にも、振り被られた脚は迫る。

「リオン!」

 覚えのある声に呼ばれながらも、僕は反射的にきつく目を閉じていた。襲い来る暴力に備えて。けれど、重い打撲音が耳に届いただけで、痛みを感じない。僕は救われたような、けれど不穏な予感を抱いて、目を開けた。倒れて身動きもとれずにいた僕と暴力男の間に入り、その身で盾となってくれていたのは、マリアさんだった。

 華奢な背中に受けたであろう激痛に息を詰まらせる彼女の、磨き上げられた銅の色に似た髪を無遠慮に掴み上げて、その顔を確かめた鬼畜はしかめ面で鼻を鳴らした。

「噂をしたからか? 女ごっこが板についた変態が来ちまった」

 未だ蹴られた痛みから解放されないでいるらしいマリアさんは、抵抗することもできずに襟を掴まれ、乱暴に投げ転がされた。布が裂ける音がして、色白の胸元が一瞬あらわになった。彼女は破けた布を引き寄せて、肌を隠した。暴力と辱めに蹲るその様子があまりにもむごくて、僕は砂を這って彼女の前に座り込んだ。殴られた腹が痛んで、背すじを伸ばすことができない。反抗になんてなりやしないと分かっていたけれど、僕は悪魔の顔を睨み上げた。さも腹立たしいと言った顔で僕らを見下ろす人の皮を被った下劣な生き物は、右手をぶらつかせて舌を打った。

「汚らわしいものに触らせやがって。似た者同士で庇い合いってか。お前らにアーリャが定めた法を唱えてやろう。『女は男に逆らってはならない。男は決して女に暴力を振るってはならない』。俺は頭に一本残らず神の法を刻み込んであるし、だからこそ探ったんだよ。半端者と女もどきについて。だが何も決められていない。つまり、殴っても蹴っても罰せられない。何故かって、神はお前らみたいな存在を認めていないからさ。でも、現にお前らは生きている。存在しねえはずのものがよ。嘆かわしい。むしろ、そうさ『嘘を吐くべからず』ってんなら、男のふりだの女のふりだの――、神の法に反してるじゃないか。お前らみたいなのは居ちゃあならねえんだよ。神に反逆する不届き者共。俺は神の御意志を承ってお前らを罰してやるってんだ。さあ、ありがたく罰を享受しろ! 他人を欺く衣装なんざ剥ぎ取ってやる。真実の姿を天に御わす神に示し悔い改めろ!」

 僕の骨に守られた心臓の上を、硬い膝骨が打った。また迫り上がってきたものを、無抵抗に口から吐き出すと、それは赤い液体だった。打たれた反動で後ろに仰け反れば、暖かな手に支えられ、泣き出しそうな声で帝国の神から借りた名を呼ばれる。次は顔でも殴られるだろうか、それとも服を剥がれるのだろうか。僕はもう、何だっていい。ただ、僕を庇い傷つき、後ろで震えている優しい人にこれ以上の辱めを与えるのなら、僕はどうにかしてこいつを殺してやる。

 ああ、そうだ。もう、殺してやろう。怒りは痛みを忘れさせた。なんとしても殺す。今。

 けれど、潰される瞬間の豚のような醜い叫び声を発して、悪魔は弾け飛んだ。状況なんてろくに把握できなかったが、非人間に制裁が与えられたらしいことは、かろうじて理解した。

「ここはアウリーだ。フォルマの神が定めた法はフォルマ王国のもの。アウリー王国にいる以上は、アウリーの法に従ってもらう。現行だな。暴行罪」

 堅い男性の声が、そう言った。僕は今にも天地が入れ替わりそうな視界で、同じ服を着た三人のアウリー人に抑えられ、大地を舐めさせられながら縛り上げられる、悪魔の無様な姿を認めた。

「都合の良い時ばかり縋る神を鞍替えする節操のなさが、こんな変態を生むんだよ。ファーリーン人の方が余程まともだぜ」

「連れて行け」

 問答無用で立たされ、家畜のように縄で引かれ消えていく様子に、蘇った鈍痛に苛まれる胸が幾分かすいた。

「過激な若者がいたものだ。この国ではあまりお目に掛かれない類いだが」

「……あいつが狂ってるだけだ」

 フォルマ人というものがあんな傲慢な畜生連中だなんて思われては堪らない。僕は掠れてろくに声にならない弁明をした。体が痛んで、息が詰まる。

 そんな僕の前に、アウリー人が片膝をついた。上がりづらい顔をかろうじて上げれば、その男性と目が合う。見覚えがある顔だが、どこで見たのか思い出せない。

「今朝、聖ルドヴィコ病院から通報があった。無断で抜け出したのは君か?」

「……すみませんでした」

 謝罪しながら、男性の左腕に巻かれた腕章に気づいた。アウリーの国章と、六本のでできた、車輪のような標章。官憲だと、ようやく理解した。そして、どこか覚えのある目の前の人物は、以前〈星の砂〉にてひどく酔った状態で見かけたことも思い出した。あのときは大層情けない雰囲気だったから、今のいかにも仕事人といった様子との差に驚く。僕は思い出したが、相手は僕を思い出しただろうか。たしか、徹夜続きで飲酒をし、ディランさんに怒られる程度には判断力が失われていたようなので、覚えていないかもしれない。僕とは少し同席しただけで、会話をしたわけでもないから。

「外出許可を申請した方が良かったかもしれないな。とりあえず、戻ってくれるかい? 君からも、彼とのことで話を聞く必要があるかもしれないからね」

 叱りつけられるかと思ったが、官憲の人はむしろ同情的な様子だった。

 ほんの束の間の自由だった。他人に迷惑を掛けて、自分だけならばまだしも、親切にしてくれる人までもが、僕の軽率な行動に巻き込まれ傷つけられてしまった。こんなことなら、病室で大人しくしていればよかったのだと、悔いたところで今更、だ。そして、僕の心の中では、自分の行動に対する後悔よりも、悪魔に対する激しい憎悪が勝っていて、自分ばかりを責めきれない。それでも、やはり僕がこんなところにいたから招いてしまった事態に違いないということも理解している。

「……はい」

 暴れたがる感情を抑えるのが、これほど苦しいとは知らなかった。今ほど、自分の非を認めたくないと思ったのも、初めてだった。

 官憲の人は、僕が立ち上がるのを助けてくれた。肋骨が痛い。踏みつけられた腰にも鈍い痛みが走った。

「少し、待ってくれませんか。この子と話をさせてほしくて」

 マリアさんが、僕を病院に連れて行こうとする官憲の人を引き止めた。

「病室ではいけませんか?」

「……できれば、私の家で」

 何を話すのだろう。彼女が僕に言いたいことがあるのなら、僕はそれを聞く必要がある。怪我をさせたし、散々な目に遭わせてしまった。それに、ちゃんと謝りたい。

「分かりました」

 官憲の人は、ほんの少しだけ考えたようだけれど、結果了承してくれた。そして、まだ蹲ったままでいるマリアさんに歩み寄って、自分の上着――官憲の腕章が付いた制服を脱いで、彼女の肩に掛けた。

「その状態で帰るのも不安でしょうから、お供しますよ。私の上着で良ければ、お使いください」

「……ありがとうございます」

 マリアさんは胸元の金具を留めた。隠れた肌に幾分か安堵したようだった。

 結局、二人とも体を痛めていたから、官憲の人が同行してくれて助かった。両腕でそれぞれの怪我人を支える、動く柱みたいなこの人が、本当に先日の酔っぱらいなのかと疑りたくなる。

 表通りに面した〈星の砂〉の入り口とは別の、住居用の裏口から僕らは中へ入った。

「今日中に病院へ戻ってください。あなたも怪我をしているのなら、診てもらった方が良いかもしれない。事情は明日にでも聞きに伺いますよ。お大事に」

 マリアさんから返される上着を受け取った彼は、念押しするように、けれどあくまで気遣うように、僕らに言い、たぶん彼の職場に帰っていった。

「……あなたがいなくなったって聞いて、探してたの」

 僕に背を向けたまま、マリアさんは言った。破かれて緩んだ服から、白い肩が見えていた。彼女の背中には、きっと青い痣ができているだろう。せめて、骨などが折れていなければ良いけれど。

「ごめんなさい」

 僕は謝った。言葉で伝える以外の方法を持ち合わせていない。

「でも、見つかってよかった。ずっと病室にいたら息も詰まっちゃうよね。せっかくだし、何か食べていって。今日は休業だ。楽しちゃお」

 なんて、マリアさんは壁に取り付けてある棒に下げてあった幅広の布――たぶん、外出の際に日よけのために頭や肩に掛けるのだろう――を取って体に巻きながら、明るく言う。けれど、僕の方は向かない。

「ごめんなさい。嫌な思いをさせてしまった」

 僕はさっきよりも力を込めて謝った。

「私の心配なんてしなくていいよ。久々で驚いたけど、慣れてるから」

 そんな慣れなんて、ろくなものじゃない。マリアさんは顔だけこちらに向けて、笑ってみせた。

「えっと……、なんだかごめんね、そっぽ向いちゃって。服、破けてるから恥ずかしくてさ。……馬鹿みたいだよね。ちょっとだけ、待っててくれる? 着替えてくるから」

 そう言って、マリアさんは上の階に行った。僕は遠ざかる足音を聞き届けて、〈星の砂〉に入るための扉を開けて、店内の適当な椅子に座った。そうして、じっとしていた。鈍い痛みが、腹部と胸元にずっとある。気になって軽く長衣の前を広げて見たら、やはり酷い色をしていた。

 やがて階段を下りてくる足音がして、半分開けておいた扉からマリアさんが姿を見せる。普段、仕事をしているときに着ているような素っ気ない服ではなくて、薄紅の長衣に着替えて、髪も下ろしてあった。そのまま厨房に入っていって、調理器を火にかける。

「今朝から食べてないでしょう? 仕込みだけは済ませてあるし、すぐできるからね」

「手伝います」

「大丈夫。大したことをするわけじゃないから。大人しくしてなさい」

 席を立とうとした僕を、マリアさんは笑って止めた。確かに、僕に手伝えることなんて無いだろう。何もせずにいるのが気まずくて言ってはみたが、大人しくしていた方がマリアさんは楽に違いない。僕は黙って椅子に座り直した。

 魚の切り身を焼いて、香辛料を振る手際の良さを、遠目に眺める。この人だって体を痛めているはずなのに、そんな様子なんて全く見せやしない。口調だっていつもとなんら変わらない。これほどの強さを、どうやって身につけたのだろうか。

 やがて香ってきた匂いへ反応を示した自分の体に、僕はいささか驚く。乾いていた口の中が、潤っているのだ。料理の匂いを好ましく感じ、体が自然とそれを欲する。一体何年ぶりだろうか。

「できた。お待たせしました」

 マリアさんは、いつも店で出しているような料理と、水を持ってきてくれた。卓にそれらを置いて、もう一人分同じものを取って戻ってくる。少し遅い昼食を挟んで、僕らは向かい合った。

「食べ切れるだけでいいからね。無理はしないで」

 マリアさんは帝国の食器を慣れた手付きで使って、食べ始めた。僕は、なんだかアーリャに祈る気になれなかった。神は僕の存在を許さないのだろうか。なら、どうしてこの世界に、こんな形の僕を送り込んだのか。僕が失敗作ならば、全能のあなたはどこにいらっしゃるのですか。

 ……所詮、下等な悪魔の戯言だ。そんなものに惑わされるな。そうは思うけれど、どうしても、今は祈れない。

 僕はマリアさんへの感謝だけを言葉にして、冷えた水を口に含んでから料理に手を付けた。

 柑橘の香りが鼻に抜ける感覚がした。追うように広がるわずかな辛味と、白身魚の新鮮な脂の風味。この人の料理を、初めて味わえたのだと思う。嗅覚も味覚も働いている今ならば、この店が賑わう理由がよく分かる。

 帝国の食器使いにも幾分か慣れてきたから、僕は難なく料理を口に運べたし、『美味』という感覚を途切れさせないことに半ば必死になった。

 僕の食事はこれまでずっとのろまだったから、腹を空かせた若者らしく食べる様子に、マリアさんは少し驚いているようだった。自分がそんなふうに食事をしていることに気づいたのは、彼女の表情がふと視界に入ったときだったけれど。

「お腹、大丈夫?」

 マリアさんが訊いてきた。鳩尾を殴られた直後でよく食べられるものだとは自分でも思ったけれど、痛みだとか吐き気だとか、そんなものは気にならなかった。血混じりの胃液を吐いたのに、数年ぶりに湧いた食欲には抗えなかった。

 僕は気持ちを落ち着かせるために、少し水を飲んだ。

「本当は、ずっと分からなかったんです。何を口に入れても、まるで道端の石ころみたいに、苦くて変な臭いがしていたから」

 正直なことを伝えてみた。マリアさんは一瞬、また驚いた顔をしたけれど、すぐに優しい笑みを浮かべた。

「そっか。それでも食べてくれてたんだね。ありがとう」

「ようやく分かるんです。美味しいって」

「嬉しい?」

 そう問われたから、僕は頷いた。そしてまた魚を口に運び入れる。

「よかった」

 マリアさんは言って、食事を再開した。僕の様子を眺めて楽しそうにしているので、僕は段々気恥ずかしくなってきた。

 僕は早々と食事を終えてしまった。食器を机の端に寄せて、一息つく。

 マリアさんの皿にはまだ料理が半分くらい残っている。たぶん、僕が気を使わないようにと自分の分も用意したのだろう。実際のところ、食欲はないのかもしれない。結局、マリアさんは食べきることなく、ナイフを置いた。

「病院から出てきた理由、聞いてもいい?」

 マリアさんは落ち着いた空気の中、訊ねてきた。今は彼女が保護者代理だ。だが、そうでなくても彼女にならば、話しやすいとも思った。彼女がどこまで知っているのかは分からないけれど。

「手術を受けるように、医者に念を押されて。考える時間が欲しかった」

「体を切られるのが怖い?」

「いや……、……それもあるかもしれない。けれど、僕にとっての問題は、そこじゃない。身体を作り変えられたとき、僕の気持ちも変わってしまうかもしれないと思うと、怖いんです。僕が僕であることを、誰も、何も証明してくれないから。こんな曖昧なもの、変わってしまう。それがいやだ。僕でいたいのに」

 僕は、ぽつぽつと話した。体が変わること、それ自体が怖いわけではない。体の変化に引きずられて、心持ちが変わることが怖いのだ。

「……リオン。『変わりたくない』というその思いは、きっと誰にも譲れないものなんだよね」

 マリアさんは、とても同情的な様子で言った。やっぱり、この人は気づいているらしい。僕の心を僕たらしめるものは、『変わりたくない』という思いで、きっとそれ以外には何もない。『変わりたくない』という思いさえ、変わってしまうかもしれない。

「……でも、その不安な気持ち、私も分かるかも。私って、子供の頃からこうだったから、母に怒られてばかりだった。周りの人は、……きっと母を慰めるためなんだろうけれど、『その子も大人になれば男らしくなるよ』って言って諌めるのね。けれど、私は絶対に変わりたくなかった。たとえどれだけ母に怒られて、他の子供たちに馬鹿にされても。でも、体は望まない形に変わっていってしまう。いつしか自分の声が大嫌いになった。こんな声なら出ないほうが良いと思って、喉の骨を折ったことがあるくらい」

 僕は、果たして自分の体が変化するとき、それを拒絶するために自分の体を自ら傷つけられるだろうか。それだけの思いを、僕は持ちうるのだろうか。仮にそれだけの思いを持てるのなら、手術など受けずに痛みに狂って死ぬことを選ぶのではないだろうか。なら、やはり――。

「僕は半端者だ。あなたのような、強い思いは持っていない」

「私は頑固なの。でも、あなたくらいの年の頃は、まだまだ不安だった。本当の私って、何なんだろう……。私が思う本当の私を証明してくれるものって、何なんだろう。……そんなもの、あるのかなって」

 マリアさんは少し天井を眺めて、黙った。それから、心地の良い、深みのある声で続けた。

「男を演じようとしていたときもあるけれど、女を演じていたときもあるの。舞台女優みたいに、過剰なくらい。そうしないと認めてもらえないと思ったから。でも、今の私はなにも演じていない。これがありのままの私。本当の私を見つけて、受け入れてくれた子がいるから、私は私になれた」

 マリアさんの手が伸びてきて、机の上で握り込んでいた僕の両手を包む。その手は暖かく、優しくて、僕よりも大きかった。落としていた視界を上げてマリアさんの顔を映せば、彼女は言った。

「自分ひとりの思いだけじゃ、不安だった」

 その声は震えて、褐色の瞳は潤んでいた。

 そうだ。この思いを証明する手段がなく、僕一人のものでしかないから、不安になるのだ。男にも女にも属す感覚を持たない僕の心は、何によって形づくられているのか。生まれついての体のせいか? ならばマリアさんのようなひとは存在しないはずだ。この意識の根拠は、どこにあるのだろうか。そもそも、僕はいつからこうなのだろうか。何年も、いくら考えても分からない。ただ一つ、そうして考え込むほどに明確になり強まるのは、『どちらでもありたくない』という思いだった。

 僕とマリアさんは違う。けれど、僕が今抱く迷いや不安によく似たものを、彼女も抱いていたことがあるのだ。

 マリアさんは控えめに鼻を啜った。そして僕の手を離し、長衣の袖で目元を拭った。彼女は大きく息を吐いて、涙を止めようと努力しているようだった。そして、再び続ける。

「こういうこと、勝手に話したら良くないと思うんだけれど。レナートが小さい時、酷いことをしたのは男の人だった。だから――本人は忘れたみたいだけれど、男の人が怖くなっちゃったの。お父さんも近づけなかった。それまでね、私はあの子の面倒を見てた。でも、男の人が怖いのなら、私じゃ駄目かもしれないと思って……。友達の女の子に任せたんだ」

 レナートの名が出て、僕は彼の振る舞いを思い出す。彼は、僕を――少なくとも身体的には――『去勢された男』だと解釈していたみたいだけれど、別段僕を男扱いして接してくることはなかった。マリアさんと長く関わってきたからだろうか。彼の気遣いは自然で、そうと感じさせない。だから、彼といるのは心地よかった。

 彼が男を恐れていた時期があったなんて、僕が知っている姿からは想像ができない。セルジオさんとも、ディランさんとも、他の男の人たちとも、ごく当たり前に接しているように見えたから。

「けれどね、ある日……、もうすっかり夜だった。私はその時、夜のお店で働いていたんだけれど……。そこにね、来たんだ、あの子。一人で。とても怖かったと思う。私、すっごく驚いて。咄嗟にあの子のこと出迎えたら、私のところに駆けてきて、抱きついてきた。だから、私、良いんだって……。あの子にとって、私は怖いものじゃないんだって……」

 幼いレナートにとって、マリアさんは疑いようもなく、最も信頼できるひとだった。それまでの彼女の振る舞いが、在り方が、そうさせた。女性の体を持つ知人よりも、マリアさんのそばにいる方が、レナートは安心できた。傷つき追い詰められたレナートの行動。必死な思いだったのだろうと想像できる。だがその行動は、マリアさんの形にして示して見せることのできない本当の姿を、強く肯定するものだったに違いない。

「だから、もう演じるのはやめようと思ったの。その仕事もやめて、ずっと憧れだった料理屋を始めた。今の私があるのは、あの子のおかげ」

 マリアさんはそう言って、笑った。

「だから、ほんの片隅でいい。気に留めておいてほしいの。『変わっても良い』ってこと。私には変わらないところも、変わったところもある。きっと、誰でもそう。そうやって、変化を積み重ねて、人は生きていくんだと思う」

 彼女は席を立って、食器を厨房の流しの中に入れると、戻ってきて言った。もう泣いてはいなかった。目鼻は赤かったけれど。

「この前直した服、着てみない?」

 突然の提案に、僕は少し戸惑った。彼女の意図が分からなかったから。でも、それも良いかと思って、頷いた。

 二階に上がって、僕が借りていた部屋に入れば、壁の衣掛けに例の長衣が吊られていた。味気ない病院着を脱ぎ、着替えて、部屋の外で待つマリアさんのところに戻った。

 マリアさんは僕を見て、満足そうな顔をした。僕は全身鏡の前に案内されて、自分の姿を映し、眺めた。

「リオンの目の色と似てる布を選んだの。元の形より、この方がいいと思わない?」

 汚れた部分を覆う、晴天の空色。レナートに借りた『メレーの子』に登場する無性の神を描いた挿絵を思い出す。かれらが纏う衣服に、それはよく似ていた。

「……マリアさん、僕は男に見えますか? それとも女に見える?」

「『リオン』という人に見える」

 僕の問いに、迷うような間もなく、マリアさんは答えた。その言葉が、僕はずっと欲しかったのだろう。

「……この服が似合う自分でいたい」

 そうして、生きていきたい。僕の心は決まった。

 病院に戻り、怪我の手当を受けていると、医師が回診の合間を縫ってやってきた。僕は手術を受けることを希望した。

 医師は勝手に病院を抜け出した僕を責めるでもなく、むしろ『急かせ、追い詰めてしまった』と僕に謝ってきたが、そうしてもらえたから、僕は自分を知り、覚悟を定めることができた。だから、そのように伝えた。

 十日後に、僕の体は変わる。もし、それがために僕の心持ちが変化したとしたら、それもまた僕なのだろう。

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