約束の還る海
第五章

外が騒がしい。漁師のおっさんたちかな。ああ、暑い。
……そうだ。今日帰ってくるんだった。だから、『早く明日にならねえかな』って思いながら、昨日は寝たんだ。起きないと。
陽の光に照らされた部屋の中が、やたらと白い。風に煽られて広がるカーテンの向こう側には、すっかり青く染まった空。真っ白な雲は、神話の中の城みたいだ。午後は雷雨になるかもしれない。
……今、何時頃だ?
いつもより寝過ごしたかもしれない。でも、まだ眠い。
下の階から、物音が聞こえる。マリアが帰ってきてる。まだ起きているってことは、そこまで遅い時間でもないのか?
やっと体を起こして、背伸びがてら大あくび。なんだか、あんまりスッキリ目が覚めない。気分は良いのになぁ。
日陰の床は冷たくて、足の裏が気持ちいい。ベッドの下に入れておいたサンダルを引っ掛ける。
……あれ? また寝てる間にシャツ脱いじまった。裸で行ったら怒られるよなあ。面倒くさ。ボタン二つくらい留めておけばいいか。ああ、あっつい。
そんじゃあ、行くか。ドア開けて、廊下出て――。……なんだか、広い気がする。変だな。今日は、なんだか変だ。
ちょうど上がってきたマリアと目が合った。んん? こいつ、こんなに化粧濃かったっけ? 目元がまるで素顔と別人じゃん。それに、もっと淡い色の口紅のほうが似合いそうなのに。次の誕生日は、おとなしい色の化粧品でもやろうかな。俺が贈れば使うだろうし。
「あら、おはよう。ご飯作っておいたからね」
「うん」
「じゃあ、あたし寝るから。ああ、もう。疲れたぁ」
「おやすみ」
夜に働くのも大変だろうな。なんて思いながらすれ違って、ビックリした。香水の匂いがめちゃくちゃキツい。昨日はそうでもなかったような……。
なんだか、本当におかしいな。まあ、いいか……。
入れ違いに下に行ってキッチンに入れば、台の上に料理が蓋して置いてある。適当な皿を取って、食えそうな分だけ盛り付ける。残りは親父たちの分だ。
それにしても多いな。いつものことだけど。
この家のダイニングって、人がいねえとこんなに広いんだな。いっつも集会場になってるから、忘れてた。どこに座ろうかな。せっかくだし、真ん中で王様気分になってみるかな。
食い終わったら、港に行こう。たぶん、そろそろ戻ってくる。
俺も本土に行きたかった。なんで風邪なんか引いちまったんだろ。毎日毎日、暇でしょうがなかった。美術館だって行きたかったのに。
海沿いの道を歩く。海がタールの壁にぶつかって跳ねる。陽光は白く熱く。あんなに濃い雲なら、触れそうなのに。
「おはようさん、レナ。セルジオら、ついさっき戻ったぞ」
「本当? やった!」
やっぱりみんな帰ってきたな! どんな話が聞けるだろう。
走り出したら、ちょうど風が吹いてきて、背中を押してきた。風と競争したら、どっちが速いんだろう。さすがに風のほうが速いか。
なんだろう、すげえ楽しい。こんなに気分がいいのは久しぶりだ。
船が見えた。ここから大声出したら、聞こえるかな。
「親父ィー! お帰りィー!」
誰かが手を振ってる。聞こえたんだ。誰だろう、親父じゃないな。でけえから、コジモか?
いや、違う、エロイだ! さすが兄貴! いつも真っ先に気づいてくれる!
「ふう、お帰り……!」
「ただいま、レナート。全力疾走だな。転ばないかヒヤヒヤしたぞ」
「風が押してくるんだよ」
「そうかそうか。じゃあ止まれないよな」
息せき切らせてる俺の頭の上に、兄貴の手が乗った。でかくて羨ましい。
「んん……、やめろよガキ扱い」
「お、どうした? 髪が随分柔らかい。やっぱり、ウェリアの水が合ってるんだなあ、お前は」
「やめろっての! 撫で回すなら犬か猫あたりにしとけよ。ほら、そこにいるぞ、猫」
「犬か猫かあ……。お前はどっちだろうなあ。人懐っこいけど、ちょっと気まぐれだしなあ……」
「俺は犬猫じゃねえ!」
なんだよもう。髪だけじゃ飽き足らず、鼻だの頬肉だのつまんで遊びやがって。
「なあ兄さん、これは降ろしていいのか? ……あれ、もしかしてレナート……、だよな? 大きくなったな! 兄さんとじゃれてなかったら、分からなかった。
誰だこいつ。でも……、どっかで見たことあるような……。
「ああ、降ろしていい。……だめだな、この反応じゃあ覚えてなさそうだ。仕方ないか。最後に会ったのは何年前だ?」
「五年くらいかな。ああ、いや。もっと前かもしれない」
「じゃあ、良くて七つになってたかどうか、ってところか。レナ、こいつはディランだ。俺の弟」
「これから、セルジオさんの隊で世話になるんだ。よろしくな」
兄貴の弟? 言われてみれば、確かに似てるな。兄貴より小さい……というか、細いけど。歳が離れてんのかな。でもまあ、兄貴の弟なら、きっと良いやつだろ
「ふぅん。じゃあ、ディランも俺の兄貴だな」
「おお、なるほど……。そうなるのか……」
「へえ。良かったじゃないか、ずっと弟を欲しがってただろ」
「いつの話をしてるんだよ……」
「ガキの頃さ。親父とお袋が困ってたっけなあ。俺もちょっと居た堪れなかった」
「もう……、忘れてくれよ……」
なんだよ、せっかく兄貴分にしてやるって言ってんのに。
「俺の兄貴になるのは嫌なのか」
「嫌じゃない! 嫌じゃないぞ」
「こいつは最近、ちょっと生意気になってきてる。だが、根は素直だから可愛がってやれよ」
「だからぁ! ガキ扱いすんな!」
「なに言ってんだ。まだガキだろうが」
って、また頭を上から押さえつけられる。こんの馬鹿力め……。
「んぐぅ……。おいディラン。兄貴の弟だから、お前も俺の兄貴にしてやるけどな。俺の方が隊じゃ先輩なんだからな!」
「お、そうだな。じゃあ、色々とご教示ください。先輩」
「……『ごきょうじ』って、なんだ?」
「『教えてください』ってこと」
兄貴にこっそり訊いたら答えてくれた。なるほど、そういう言い方があるのか。勉強になった。
「おう、いいぞ! 任せとけ!」
「どうだ、頼もしいだろ」
「はは、そうだなあ」
笑われた。もしかして、馬鹿にされてるのか?
一人で駆けてきた道を、俺と、親父と、兄貴と、ディランの四人で戻った。
家に帰るなり、ダイニングで昼食を取りはじめた三人と並んで、俺は朝飯が残った腹の中に水だけ流し込んだ。それで、会話に混ざったり、聞いたり。うろうろしていた。
「いいんですか、俺までご馳走になって」
「構わん、構わん。あいつはいつも作りすぎるんだ。一人多いくらいが丁度いい」
ディランは遠慮してる感じだったが、親父の言うとおりだ。何も気にすることはねえ。
親父たちは、融資してくれてる金持ちに、たまに近況報告だとかをするために本土に行く。ついでに、学者の集まりに顔を出して、研究の手伝いなんかをして少し金を稼いでくる。あちこち寄り道をできるわけじゃあない。けど、あっちには島にないものがたくさんある。だから行きたかった。
「そうだ、帳面を持ってきたぞ。俺作の、前期リラニア語辞典」
「あったの? やった!」
兄貴から分厚い帳面を受け取った俺は、部屋の中を駆け回ってから、尻でソファーに着地した。
「それ、兄さんが論文書くときに使ってたやつだろ? 理解できるのか?」
「元々がエロイ仕込みだからな。それなりに読めるだろう。レナート、ちゃんと礼言えよ」
「ありがとう、兄貴」
「どういたしまして」
まったく、驚きだな。手書きなのに編集された本みたいだ。小さい文字でびっしり、現代語と、リラニア語とかルドリギア古語とかの古代語を並べて、どの文字が関連してるとか、変化したものだとか、その変化の過程とかが細かく書いてある。
兄貴はこれ、全部頭の中に入ってるんだよな。俺も覚えたい。どうしたらいいだろう。ひたすら読み込んでみるか? それとも書き写してみようかな。
これがあればきっと、俺ももっと色んな石板が読めるようになる。そうしたら、今より親父たちの役に立てる。
「……なるほど、兄さんが教師か。学校には行っていないんだったか?」
「行かない」
「もったいないな。高等試験受けてみたらどうだ?」
「こいつが同年代より詳しいのは、古代語に関連するものだけだ。せめて、中等部で通用するか試す必要がある。たぶん無理だろうが」
「どうでもいいって」
「この島にも、中等部までならありますよね」
行かねえって言ってんのに。ディランのやつ、食い下がるな。
「ある。だが、行きたがらねえよ。昔、初等部に半年くらいは通ったことがあるんだが。まあ、そのときにちょっとな」
馬鹿にしてくるやつらばっかりだった。『幽霊』とか言ってくる。最初は我慢してたけど、いい加減に頭に来たから一番偉そうにしていたヤツを殴ってやった。そうしたら相手はワンワン泣いて、俺の方が教師に叱られた。ふざけんな。
呼び出し食らったマリアは相手の親に謝った。マリアは関係ねえのに、相手の親がメチャクチャに馬鹿にするから、そっちも殴ってやりたかった。帰り道にこれまで散々言われてきたこととか色々話してるうちに、涙が止まらなくなった。もう行きたくないって言ったら、マリアは学校に引き返して行った。戻ってきたと思ったら、『謝罪は全部撤回してきた。もう行かなくていい』って言う。スカッとした。
でも、マリアは自分がどんなに酷いことを言われても俺のために我慢したのに、俺が馬鹿にされていたのを知ったら怒るんだ。それが気まずくて、なのに嬉しかった。その晩は、俺の好きなものをたくさん作って食わせてくれた。
あんなところ行かなくたって、勉強はできるんだ。親父も兄貴も、何だって教えてくれる。いや、何だって、ではないかもしれない。知ってることなら。でも、二人ともその辺の学校の教師なんかより、ずっと物知りだと思う。なんてったって、帝国一のパレス大学を出てるんだ。
「お帰りなさい。ご飯足りた?」
マリアが顔を出した。起きてたのか? さっき寝たばかりじゃん。そんなに騒いじゃいなかったけどな。
「多いくらいだったよ。ありがとう」
「ならよかった。あら、誰? ……ああ、弟さん。名前なんて言ったかしら」
「ディランです、お邪魔しています。マリアさんですよね」
「知ってるんだ、あたしのこと」
「兄がよく話してくれるので」
「ふうん」
マリア、嬉しそうだな。ま、兄貴と仲いいからな!
「ねえ、エロイ。いつ話せる?」
「いつでも。お前の都合がいいときなら」
「じゃあ今日」
「ああ、分かった」
「よおし、レナァ! 今日は俺と寝るぞ!」
親父が急にでけえ声を出すから驚いた。
「はあ? どうせ酒飲むんだろ? やだよ、くっせえもん。兄貴と寝る!」
「いやいや、なあ、おチビさんよ。こいつらの話、聞いてたか?」
「お父さん、用事があるならどうぞ出掛けてきて」
「かぁッ。二人して反抗期か。用事ね、見つけてくるか。ディラン、早いとこ退散しようか。レナート引きずっていこうぜ」
「なんでだよ! 俺だって兄貴と話したいぃ!」
「マリア、明日は譲ってやってくれ。悪いな、エロイ。子供らが懐きすぎちまってさ」
親父に首根っこ掴まれて引きずられる。
なんで俺が引っ張り出されてんだよ。俺の家だろ。いや、親父の家か。
なんでだ? 久々にみんなでいられると思ったのに。
もうすぐアビリス島に着くぞ、って起こされた。
相変わらず、眠くてしょうがない。でも、早く準備しなきゃ置いていかれる。
島は草がぼうぼう。木の枝とか葉っぱが肌を切ってくるから、暑かろうがなんだろうが、着込まないと怪我をする。毒虫もいるし、ヌメッとした変なのに血を吸われたりもするし。
着替え終わった頃にちょうど着いた。朝飯を食いそこねた。なにか残しておいてくれたかな。
島に港なんてないし、周辺が浅いから、この船じゃ近づけない。手漕ぎの小舟に乗り換えて上陸する。貰った辞典を詰め込んだ荷物を持って、兄貴とディランが乗って待っている小舟に飛び降りた。兄貴が朝飯の残りを挟んだ固いパンを渡してくれる。
「やっぱり、空気が違うな。人がいないからか?」
ディランが深呼吸する。こいつは、俺がまだ赤ん坊くらいの頃に、兄貴にくっついてこの島に来たことがあるらしい。それで、考古学に興味を持ったとか。でも、元々は魔道工学が好きだったから、そっちに強いプロメロスの学校に行って、卒業したから隊に加わったんだと。
学校にも色々あるんだな。そういう話を聞くと、俺も嫌なやつらがいなければ行きたかったと思う。もう十二歳だし、今更七歳とか八歳に混ざって初等部の三級生とかやりたくないから、行かないけど。
「人がいないってのは、確かにあるだろうな。それに、なんだか神秘的な感じもするだろ」
兄貴は両手でオールを漕ぎながら言う。まだ上着を着ていないから、日焼けした腕が光を弾いてる。力を入れるたびに筋肉がうねって、血管が浮いてかっこいい。
なんとなく、自分の力こぶを触ってみた。しょぼい。どうしたら兄貴みたいになるんだろう。とか考えていたら、兄貴に笑われた。
「レナートは、ディランみたいな体型になりそうだ」
「えぇ……」
ディランは細い。痩せっぽちじゃないけど、兄貴と比べたらずっと細い。
「そんなに嫌か……? 俺だって人並みに筋力はあるぞ。兄さんが無駄にでかいだけじゃないか」
「無駄じゃないだろう。こうしてお前たちの分も漕いでやってるんだから」
「……それはそうだな」
まあ、ディランの言うことも分かるぞ。兄貴がでかいんだよな。だから回りが小さくて細く見える。
ん? と、いうことは……? 兄貴と並んでる俺は、どう見えてるんだ……? ディランよりチビなのに。
「いや、でも……、でもさあ。頭良くて体も強いって、なんかずるくね」
「こればっかりは体質だからなあ」
不安になって思わず兄貴にケチつけちまったけど、兄貴はハハハと笑った。一人でオールを動かし続けても息切れ一つ起こさない。やっぱすげえや。
喋ってる間に、舟は浜に乗り上げた。
いつも雨季を避けて来るから、半年ぶりだ。すごく久々な気がする。砂浜は相変わらず白くて、キラキラしてて、島の真ん中はこんもりと山になっている。砂地を少し進めば、そこはもう草木の茂った森だ。通り抜けがしやすいように、木を切って板を張った道にしてある。
親父はこういう道を山の上まで伸ばすつもりでいるらしい。隊員のほとんどは、兵役時代に工兵部隊に所属していたとかで、切ったり掘ったりはお手の物。だけど、途中を掘っていればなにかと出土してくるから、なかなか進まない。
アウリーには二十五歳から三年間の徴兵制度がある。職業として軍人をやってる人は少ないらしい。隣のファーリーンは、よく中で揉めたり外と喧嘩したりしているから、専門の人はたくさんいるみたいだし、いざってときは商人だろうが農民だろうが問答無用で兵士として引きずられていくんだって聞いた。怖いなあ。
でも、アウリーは内で揉めたり他と喧嘩したりってのは、あんまりやらない。むしろ、ファーリーンの喧嘩に巻き込まれることのほうが多い。放っておけばいいじゃん。って思うけど、仲がいいからそういうわけにもいかないとかで。
二十人でこの島を探るのは容易じゃないが、給料だとかを考えると、今の人数が限界らしい。そりゃそうだ。この島を調査したって、金は稼げない。むしろ使わなきゃいけない。金持ちが融資してくれる分で、なんとかやりくりしてる状況。あとはそれこそ、雨季でこっちに来られないときは本土で仕事をするか、依頼されたことをやる。
親父はわりと有名っぽくて、依頼自体は結構来る。普段の生活費のあては、ほぼそっちだ。
俺は今のところ、タダ働き要員。親父に養ってもらってるし、他のやつらみたいに何かができるわけでもないから、当然だ。十五になったら給料をくれるって約束だから、あと三年。それまでに、他のやつらに劣らないくらい役立つ人材になっておかないと。だから、兄貴とかから色々教わって勉強してる。
森の中の小道を行った先を切り開いて、滞在中の拠点を設営できるようにしてあるんだけど……。半年も放っておくと、草が生え散らかってしまう。いつも一日目は草刈りとテント張りで終わる。
この島、虫や鳥はいるけど、動物は――野ネズミとか、どこにでもいそうな小動物でさえ見かけないんだ。生き物の気配が少ないからか、夜はちょっと怖い。まあ、凶暴な動物がいたら、たぶんその方が怖いんだろうけど。
次の日は山に登った。
相変わらず草木が邪魔で、小石もゴロゴロしてる。歩けるくらいには整えてあるけど、それも途中まで。前回来たときに、ちょうどスコップに石板が当たった。それを掘り起こしたところで期限になってしまったから、今回は解読班を作って、残りのやつらで道を作る。俺は勉強がてらの解読班。そもそも、力仕事ではあんまり役に立たないし。
兄貴が石板の泥を落として、親父と一緒に刻まれている文字を確認する。石材は、少なくとも自然界で生成されるものじゃない。古代人が、古代の技術で作った、風化しにくい素材。
書かれている文章自体は、短いリラニア語だった。だけど、古代語の中でもリラニア語はとくに、時期や地域によって字形も文型もかなり違ってくる。その辺りを照合しながら読むのは、かなり大変だ。日が傾きかけてきた頃になっても、ほんの最初の方までしか読めなかった。
「『我々は守り人として、この盾を残す』。出だしはこんなものでしょうか。ここに『王』とあるので、その関係でしょう」
「『守り人』ねえ。前にも出てきたことがあるが、なんなんだか」
メリウス王に関連するものだっていう検討は付けていても、分からないことが多すぎる。
けど、メリウス王って神話の人じゃん。本当に、あんな人がいたのかなあ。
「ん、この紋章は……。いや、魔法陣か? こっちは疎い。誰か見てくれ」
「魔道工学やってたなら詳しいだろう、ディラン」
「ああ、それじゃあ……、ちょっと見てみます」
有能な兄弟だ。二人いたら十分なんじゃないか?
ディランは紋章だか魔法陣だかをしばらく睨んでいた。けれど、首の傾きがだんだんと大きくなっていく。
「たしかに魔法陣だろうと思う。だが記述式が古すぎて、どういうものかは分からないな。なにかに反応して起動する仕組みに近そうだが……。たぶん、五千年……から七千年くらい前の形式じゃないかな。一万年までは遡らないはずだ。そこまでいくともう、俺の知識じゃアタリもつけられないから」
「なあなあ。そんなに昔の石板って、こんな浅い地層にあるのか? テーテスの火山灰、二、三回は浴びてるってことだろ?」
「この辺りは積もっても、雨で流されるんだよ。文明滅ぼせるくらいは一気に来るようだが」
ふうん。そっか。雨季に毎年さらされるせいなんだ。平地だったら灰も固まるだろうけど、ここは結構斜面になってるし。海の方にたまってるのかもな。さすが、親父は回答が早いや。
「ねえ。俺にも見せて」
近くで見たくなって、ちょっと前に出た。ディランがどいてくれて、紋章みたいな魔法陣が視界に入る。
その瞬間、額がジリっとした。
紋章が青く光る。その上に埋め込まれていた球体も青く光って、一瞬、俺の腕くらいの光の束になった。眩しさに目が焼ける。
兄貴が倒れた。なに? なんか、焦げ臭い。
頭が、フワフワする。飛んでるみたいだ。
「レナート!」
大きな手が俺の腕を掴まえる。歪んだ景色の中で腕を伸ばしてくるのは、兄貴だ。
フワフワする。
……ああ、落ちてるんだ。そういえば、片側が崖になってたっけ。俺、なんで落ちたんだろう。
みんなの声が遠くなっていく。死ぬのかな。
でも、兄貴が一緒に来てくれるなら、〈死の国〉に行っても死の君と上手く交渉してくれるんじゃないかな。
なんて、思った。
水音に包まれる感覚の中で、目が覚めた。辺りを眺める。深い枝葉が囲んだ空は藍色で、真ん中で白い満月が輝いていた。夜だ。
ひどい寒気がして、飛び起きた。
そうだ、崖から落ちたんだった。あれからどうなった? 服がびしょ濡れだ。きっと、この川に落ちたんだろうって、すぐ近くの清流を見て察する。
兄貴は? 一緒に落ちたなら近くにいるはず。慌てて周りを確認する。
「……目が覚めたか……、よかった」
「あ! ……あ、……兄貴……?」
言葉がつっかえた。兄貴は、脱いだ上着で脇腹を押さえていた。覆いきれていないところが、赤く焼けている。
そう、焼けている。今も。小さな火が、火傷の範囲を広げているみたいだった。
これは、なんだ……? どういうことなんだ……。
「兄貴、それ……、燃えてる……の……?」
「ああ……、水では消えないみたいでな。古代人の罠ってやつか。ちょっと迂闊だったな」
あの石板だ。あれ、俺が近づいた途端に反応したんだ。
「お、俺のせい……」
「なあに言ってんだ。何も、悪いことなんかしちゃいないだろ」
「でも……」
「気にするな。大丈夫だから。じきに救けも来るさ。……ただ、少し流されちまったから、明日中には難しいだろうなあ」
「でも、兄貴! それ、早くなんとかしなきゃ……」
死んじまう。
「うん、そうだな……。どうしたらいいんだろうな……」
また寒気がして、体が震えた。怖い。
「服は脱いで乾かしておけ。水に熱を持っていかれるから。悪いな、火を熾してやれればよかったんだが……」
「お、俺やるから!」
そうだ、火を熾そう。でも、まずは濡れて重くなった冷たい服を脱がないと、凍えて動けない。
「荷物が無くなっちまったんだ。道具がない。慣れてないのに火を点けるのは、大変だぞ。こっち来な。くっついてりゃ温まる」
道具がない。本当だ。道具がないなら、作らなきゃならない。……無理かも。
兄貴の言う通りにすることにした。大木の根本に寄りかかってる兄貴の横に、俺も座り込む。兄貴の腕に、体をくっつけた。
熱くてビックリした。すげえ熱だ。
「水、水飲んだほうがいいよ!」
「ああ、さっき飲んだ。その震えが落ち着いたら、ちょっと持ってきてくれるか。いい水だ。お前も飲んでおきな」
「……うん……」
月が森の中に隠れていく。辺りが暗くなっていく。怖い。
「大丈夫だ。ちゃんといるから」
兄貴は言ってくれる。
でも、俺、なんにもできない。せめて夜が明けたら、木の実とか探してこよう。
気づいたら朝になっていた。いつの間にか、少し眠っていたらしい。
兄貴は?
……汗がすごい。やっぱり一睡もできなかったみたいだ。火傷は広がっている。赤い火種は、俺が眠る前と同じように、じりじりと皮膚を焼き焦がし続けている。横になってときどき呻いている兄貴に、俺がしてやれることってあるんだろうか。誰か、早く助けに来てくれよ。
「兄貴。布、洗ってくるよ」
「……ああ、頼む……」
声に力がない。
預かった布は、血で汚れていた。赤い色素と、黄色の液体が大量に染み込んで、嫌な臭いがする。川の水で、できる限り洗い流して、冷たい水を含ませて返す。
それから、近くに生えていた大きな葉っぱで作った器に水を汲んで、飲んでもらった。
「……はあ。……大丈夫か? 腹、減ったんじゃないか?」
「俺は平気……」
俺の心配なんかしてる場合じゃないだろ。
そうだ、食い物を探してこよう。服も朝のうちに乾いたし、藪の中に入ればなにか……。果物とかなら、兄貴も食えるかな。
柑橘の木が、運良く近いところにあった。皮が緑色をしているから酸っぱいんじゃないかと思ったけど、齧ってみたら甘かった。何個かもいで戻った。
「兄貴、これ甘かった。食べてよ」
「ああ……、そうだな……」
果物の厚皮と薄皮を剥いて、身だけにしたものを兄貴の――見るからに乾いてる口に入れた。
そうしたら、兄貴は激しく咳き込んだ。内臓ごと出てくるんじゃないかってくらいの勢いで、口から真っ赤な血が飛び出してきた。鼻からも、鮮血が滴る。
「兄貴!」
ああ、余計なことをしたんだ、俺。
木に寄りかかった兄貴は、荒い、水気混じりの呼吸を繰り返すだけ。
火傷は胸まで届いた。どうしたら、この火を消せる? 焼けた皮膚は、溶けて消えていく。けれどきっと、焼けているのは表面だけじゃなかったんだ。体の中も、同じようになっている。俺は、黙って見ているしかできない。
石版に近づかなければ……。なんで、あんなふうになった? 分からない。ただ、これだけは分かる。俺が、近づかなければよかったんだ。
兄貴はもう、話しかけても返事をしない。そりゃあ、そうさ。ずっと体を焼かれながら、ついさっきまで話せていたことがおかしい。俺が怖がっているから、無理して平気そうに振る舞っていたんだ。
でも、さすがにそんな余裕はなくなったみたいだ。
また、日が暮れる。救けが来ても、兄貴は助かるのか? この火の消し方を、誰か知っているのか?
早くしないと……。
「殺してくれないか……」
夜中。ずっと黙り込んでいた兄貴は、掠れきった声で言った。呟くみたいに。
首まで焼けてしまった。鼻からの出血も、あれからずっと止まらない。体中の血がなくなるまで、止まらないのかもしれない。
痛みも、苦しみも、到底想像なんかしきれない。でも、俺だったら、絶対に耐えられないと思う。
それでも、俺は兄貴のこと、殺せないよ……。
「なんで……、まだ生きてるんだ……。もう、気がどうにかなる……」
「あ、兄貴……」
不安でどうしようもなくなる。兄貴の近くに這っていく。何もできないのに。
濁った瞳を見て、また怖くなる。兄貴の右手が持ち上がる。俺の頬に触れる。
「俺は……死んだ……」
「生きてるよ……?」
「…………」
いやだ。
「は、はは……、ははは、アハハハ!」
「兄貴!」
もう、だめなのか? 本当に――。
「……え?」
月が見えた。まだ、満月の日を過ぎたばかりの、丸い月。それと――。
「兄貴……?」
「ハハハッ! おい、レナート! 見ろよ、この様を! 酷いもんだ! もうじき全身溶けきって、皮なし人間になっちまうぞ! それでも死ねねえってのか!? そんな馬鹿なことがあるか!」
体にまとわり付く火種を、俺の素肌に押し付けてくる。でも、俺は焼けなかった。熱くもなかった。ただ、発熱した人間の温度を感じる、それだけだった。皮膚がなくなって、漏れるばかりになった兄貴の体液が付着する。生きてる人間からはするはずのない臭い。吐き気がする。
「兄貴、横になろう。大丈夫だって、なんとかなるよ……」
なんの根拠もない慰め。それを言うので精一杯だった。
俺の上に被さったまま、俺を見下ろす兄貴は、それっきり無言になった。瞬きもしなかった。一瞬、死んでしまったのかと思った。
いや、やっぱり死んじまったのかもしれない。兄貴がそう言ったんだから。
痛い。怖い。熱い。痛い。
「嫌だ! 兄貴! やだ、嫌だあ!」
喚くことしかできなかった。力で抗えるはずがないんだから。兄貴が置いて行っちまったこのでかい体をどうにかするなんて、無理だ。
痛い。体を串刺しにされている。兄貴の顔が溶けていく。俺の体が、内側から兄貴の体に焼かれる。
「いたい、よ……、あにき、ぃ……。うっ、あ、あぁ……」
何度も、何度も……、何度も何度も何度も何度も刺し貫かれる。血の臭いが、内側から迫り上がってくる。
顔の下半分まで溶けて崩れた兄貴の顔が、視界を埋める。血走った目。濁った瞳。飢えた野犬のように、血の混ざった唾液を垂れ流す口。未だ鼻から滴り続ける鮮血。
血、血、血。命の色が、生き物から溶け出し、飛び散り、降りかかる。
こんなの、兄貴じゃねえよ。
「やめて……、もうやめてよ……」
やむわけないだろ。これは死にかけの人間の雄で、兄貴じゃないんだから。
「ごめんなさい……、許してください……。ねえ、許して! お願いします! もう許してください! 助けて! 誰か、助けて!」
助けなんか来ないさ。俺が悪いんだ。
俺が、兄貴を殺したんだから。
初出:
