約束の還る海
第四章

通常時の交流対象は、黒色の頭髪を持つ研究職の者たちで、それも事務的な調整のため以外に接触することはない。稀に白銀の指導者階級の者が直接司令を言い渡しに来る。黒と白以外の人間とは、全く以って無縁だった。
それは、唐突な出来事であった。巨大な蒼の天蓋の向こうで荒ぶる空模様を、直接目の当たりにしたことはない。だが、もし迅雷が霹靂として天蓋を突き破り、目前に降り立ったなら、この脳髄は危険信号を発し、それに伴い情動もまた揺れ動いたやもしれない。その状態を端的に表するにふさわしい言葉は、『驚愕』。
かの者は私に驚愕を齎した。黄金の頭髪を戴き、軍事司令者階級に属することを示すかれは、淡い情動を持ち合わせていた。百年に及ぶ研究実験の末に、第一の試作品として形を成したこの身もまた、副次的にそれを備えている。だが、かれは違う。非情に稀な、不詳とされる現象の産物。変異体。
変異体は粛清対象となる。であるから、かれは永くそれを隠し生きてきた。どうか、内密に留めてくれるようにと懇願するかれの姿に、個としての生への渇望を見た。
情動を司る脳の分野が、触発されたようだった。仲間の存在に安堵する心地とは、斯様なものであろうかと納得した。それはどうやら、あちらも同様であったらしい。監視を逃れながら密会し、互いの情感を打ち明け合うほどに、共感の喜びを知る。
制御の利かない電流が、脳内に生じる。眠らせていた細胞が、覚醒めはじめた。
*
ウェリアを発って約一週間。東に向かって船を進ませた。アウリー本土の南端に位置するクレス州は、王国に属しながらも共和制の自治を認められた特殊な場所だ。
州都ジュールは、『メリウス王誕生の地』などと言われるが、証拠などはない。だが、少なくともこの国ができる以前から現在まで、ジュールがそのように言い伝えられながら存在してきたという、歴史的根拠はある。一万年以上も昔の神話時代に、この土地がどのようなものだったかを確かめる術はないが、二千五百年ほども『ここがかつてのジュローラである』という信念のもとで、実際にそう在ってきたことは事実だ。仮に、ここがかつてのジュローラではなかったとしても、今を生きる人間の大部分にとっては、『ジュールはかつてジュローラだった』ということにしておいたところで、なんの不都合もない。
俺は生まれて初めて、ジュールの地を踏んだ。アウリー人ならば、一度はこの地に立ってみたいと思うものらしいが、俺もずいぶん長いこと興味があった。
港から眺める光景は、王都にも劣らない。活気があり、古い建築があり、それでいて洗練された印象がある。彼方の丘に建つのは、王宮の規模をも凌ぐような、メレーの神殿。
ちょうど、正午になる頃だ。ウェリアよりも気温は低いかもしれない。全体的に、ここの街並みは白い。快晴の空と輝く海の青とも相まって、清潔感がある。実際に道も綺麗だ。住民の多くが、この街を美しく保つ努力をしているのだろう。『メリウス王誕生の地』、『メレー神殿の本拠』などといった肩書は、ジュールの人間に高尚な意識を抱かせるはずだ。或いは、自治という特例を貰っている以上、風紀の乱れを生じさせるわけにはいかない、といった思いもあるかもしれない。その他にも、理由はあるだろう。
クレス州に君主はいない。だが、政治家の大部分は神官だ。有力な神官なら、相応の発言力もある。『有力な神官』というのは、それこそ先祖代々神官の長を輩出し続けているアルベルティーニ家の出や、そのような家の後ろ盾がある神官だ。クレスにおける神官長とは、執政長と殆ど同義。人民を代表して神に仕え、神の恩恵を人民へ渡す。というのが、彼らの役割だそうだ。
現在、クレスは州としてアウリー王国に所属しているが、王がクレスの自治に直接干渉することはない。過去には、クレスも君主を戴いて独立していたこともあるらしいが、どうにも堕落して上手く回らなかったようだ。基本的には干渉されないが、いざとなれば自治権を取り上げられる。そのくらいの緊張感があったほうが、上手くいくのかもしれない。立場としては危ういとも言える。
俺たちがこれから行くべきところは、遠く離れた港からでも目星が付けられる。丘の上のメレー神殿は看板のようなものだ。あの近くに、歴史あるメレーの神官一族アルベルティーニ家の邸宅が建っている。港から少し街なかに入ったところの噴水広場で、案内人と合流する手はずになっている。
俺は、ジュールの景観になんだか魅了されていた。あっちこっちに目を向けながら、列の後ろの方について歩いていく。建物の白い外壁が眩しい。通りの幅は十分に広いし、日当たりもいい。その中央を、細長い花壇が仕切っている。これまた白やら、赤やら薄紅、黄色に空色……、そして鮮やかな緑。花には詳しくないが、彩りは目を引く。
いつの間にやら、待ち合わせ場所の広場に到着していた。中央に鎮座するのは巨大な噴水。陽の光を受けてきらめく水が、飛沫を上げて舞う。精巧な彫刻は有名だから、俺も絵で見たことがある。だが、実物の迫力には圧倒された。
厳しい顔つきの海神ピトゥレーの広い右肩に座り、滑らかな腕を天へと掲げるのは、美貌の半神メリウス。
アルビオン神話において、メリウスが成した偉業は多い。だが、その中でも『荒神ピトゥレーとの和解』は、まさに神話的であり、寓話的だ。海神のためなのか、どうやらこの噴水に使われているのは海の水のようだ。磯の香りがする。
ふと、案内人の男が俺を見ていることに気がついた。なんだか神妙そうな顔つきをしている。他の連中より若いのが気になるのか? 確かに、俺は連中より十も二十も三十も年下だが、やれることは多いぞ。なんとなく、そっちに行ってみる。
「なあ親父。あの噴水、海水使ってるぞ。よく劣化しねえよな」
「……親父?」
親父の方に声を掛けたら、案内人の男がこれまた神妙そうに呟いた。なんだよ。なんか文句か……、変なところでもあるのか?
「おいレナ。神官様だぞ。まずは挨拶しねえか」
言われて案内人の男を改めて見れば、なんだ、たしかにメレーの神官服らしきものを着ている。
「ああ、どうも」
適当な挨拶をした。ジロジロと見られたのはこっちだ。今更畏まるのも変な感じがしたし、第一に俺はジュールの人間でもなければ、熱心にメレーを信仰しているわけでもない。親父は畏まってほしかったのか、なんだか不服そうだったが。
「……君の子かね」
「書類上はな。実子じゃあねえよ。海で拾ったもんでな」
「う、海で……」
神官の顔が青くなるのが目に見えて分かった。何だってんだよ、さっきから……。……と、あれ? どうも、親父はこの神官と随分親しげじゃないか。大学時代の友人が一人、ジュールの神官だということは聞いている。その一人は、まさにアルベルティーニの当主だっていう。この神官の年齢は――親父と同じくらいかもしれない。親父よりも若く見えるが、そもそも親父が老けている。
と、なると? 依頼した当主自ら、案内のために出てきたってことか? いや、待て。さすがにあの挨拶は、メレーの神官長にするにはいい加減すぎた。
「申し訳ありません、神官長様でいらっしゃいましたか。無礼な態度を、どうかお許しください。レナートと申します。セルジオの調査隊では若輩の者ですが、この度は尽力させていただきます」
挨拶をし直す。親父の教育に問題があったみたいに思われたら嫌だ。全く、不躾な下っ端神官だと思い込んで油断した。手遅れかもしれないが、やらないよりはマシだろう。
「レナート君……か。うむ、そうか……。うむ……、よろしく頼むよ」
やっぱりどうも、神官長の顔が青い。というか、時化た空みたいな色だ。大丈夫なのか?
「さっきから具合が悪そうだな。休んでいるのか、テオ」
テオ。俺の予想は当たっていた。アルベルティーニの現当主はテオドーロだから、この人が神官長で間違いない。
しかしだ。この顔色は俺が見ても心配になるくらいだから、旧友の親父からしてみれば不安にもなるだろう。神官長というのは忙しいとは聞いていたが、俺の想像よりもずっと過酷な仕事なのかもしれない。相当無理して出迎えに来てくれたのだろうか。
「いや……。いや、大丈夫だ。気にしないでくれ。馬車を用意してある。どうぞ」
神官長はそう言って、広場の端に並んでいる数台の馬車を示した。一台に四人は乗れるな。適当に振り分けると一人余るんで、俺は神官長と親父と一緒の馬車に乗り込んだ。
馬車はなめらかに舗装された道を、アルベルティーニの邸宅目指して進みだした。
「それで? 〈メリウス王の墓神殿〉の記文ってのは、どんなものだ」
親父は窓の外を横目にしながら、メレーの神官長に訊いた。
「手紙に書いた通りだが、その後も息子なりに他の書物を探したりと努めているようなので、幾らか情報は増えたかもしれない。私はあまり、そちらに携われないのでな。詳しいことは、息子の方が案内する」
「それじゃあ、お前さんの息子の指示に従えば良いわけだな」
「あれで分からんから、君を呼んだのだ。むしろ指示して使ってやってくれ。本人もそのつもりで居る」
「今年、大学を卒業したんだったか?」
「ああ。早くに入学できたのに、神官修行のために引き戻したものだから時間がかかってしまった。今後、院に進むかと迷っているようでな。元々、文化方面に感心があったのだが、最近は特に考古学に惹かれているようだ。君たちと関われば、何かしら響くものもあるだろう」
「おいおい、責任重大じゃねえか」
俺は黙って、おっさん二人のやり取りを聞いていた。アルベルティーニ家の生まれ、且つ既に神官修行も終えている。となれば、将来は重役の神官だろう。神学あたりに熱心なのかと思いきや、存外俺と興味の方向性は近いらしい。歳も同じだと聞いているし、是非とも仲良くなっておきたいところだ。威張りくさったヤツなら御免だが。
急に、馬車の中が静かになる。俺がなにか言うような場面でもないから、黙って揺られている。相変わらず顔色の良くない神官長は、独り言みたいな小声で呟いた。
「アンドレーアを見たなら、君たちは驚くだろうな……」
どういう意味だ? と思うのと同時に、『アンドレーア』という名前は、ジュールではさぞ好まれることだろうとも思った。その名が、メリウスの父で、アルビオン神話において『神の言葉を正しく聴くことができた最後の人間』で、尚且つメレーの神官だった『アンドローレス』が元になっていることは明らか。たぶん、この神官一族には過去に何人もの『アンドレーア』が居たことだろう。
窓枠にもたれかかったまま、ジュールの街並みを眺めていた。視界の端に入ってくる神官長の姿は、なんだか処刑場に連れられていく人間のようだった。胸元に、得体の知れない濁りのようなものが湧いて、溜まっていくような感じがする。やけに息苦しい。
オリーブの木が、若い実をつけて立ち並ぶ丘。その中を蛇行して上っていく道を、馬車の行列は進んでいく。見下ろすジュールの街並みは白く、整然として、帝都リラの写生画を想起させる。きっと、実際には似つかないんだろう。青空と白波を立てる広大な海を望む光景は、黒雲と赤砂の舞う大地とは対照的だ。
メレー神殿の高い壁が随分と近づいてきたところで、馬車は止まった。御者が扉を開けたので、まずは出入り口に近い俺が降りる。他の馬車からゾロゾロと出てきた仲間たちと共に、ファーリーンの有力貴族の邸宅にも劣らないだろうアルベルティーニ家の屋敷前で屯する。どいつもこいつも――当然俺も含めて、この場に似つかわしくない服装だ。
屋敷の主である神官長に先導され、足を踏み入れた広大なエントランスホール。俺は圧倒された。これが個人の家だってのか? 白大理石の床には、ラピスラズリ色の光沢を放つ絨毯が敷かれている。何の繊維を使っているんだか。本当に、ラピスラズリの粉末を練って糸にしたんじゃないだろうな。先日新調したブーツの厚底が、柔らかく沈み込む感覚。心地良いような、悪いような。どうせなら、裸足で踏んでみたい。果たして、これは玄関に敷くようなものなのか? 俺だったら寝室用にする。
「お二人ずつで、一部屋をお使いいただけますか。一階と二階に用意してありますので、後ほどご案内します。まず、今回お呼びした件について、軽くご説明を――」
「父上、戻られましたか。そちらの方々が……?」
上の方から声がした。なぜか耳に馴染んだような声。吹き抜けた天井を通り越して、二階の位置からこちらを見下ろしているその姿を見た瞬間、思考が停止した。
「アンドレーア……」
「……は? おい、待て、待て。なんだ、どういうことだ、これは」
誰かが動揺を言葉にする。海色の瞳と、俺のそれがかち合った。驚愕に染まっていくその顔を見て、俺も同じ顔をしているんだろうと思った。だって、こいつは俺と同じ顔をしている。
「ああ……。そういうことだったのか」
親父の呟きが耳を抜けていった。
「テオ……、テオドーロよ。これはつまり、アルベルティーニ家の慣習ってのは、未だ廃れちゃいなかったってわけだな」
「……我が家に課された使命なのだ。我々が、クレス人であるために。……ここが、ジュールと呼ばれる限り」
「なんてこった……。それじゃあ、あの時お前が俺を呼んだのは……。そうか……」
まるでわけが分からん。髪を切って整えて、サファイアブルーのローブを纏った俺が、階段の上で品よく佇んでいる。言葉もなく見つめ合っていれば、自分の立ち位置が曖昧になる感覚がしてくる。あそこに立っているのは、俺だ。なんて、馬鹿らしい。が、それは本当に錯覚なのか?
「やはり、先に説明しなければなるまい。セルジオ、アンドレーア――」
神官長が俺を見た。
「……レナート君。話をしよう」
そのまま、流水のように逸らされていった視線を、俺は無意識に追った。今、初めて気がついた。その目の色は、俺とよく似ている。
親父に腕を引かれるまま、後に続く。分身の気配を、感じながら。
二十二年前の夏。親父は海を漂う小舟を見つけた。それは木で組み立てられた、全長三フィートにも満たないもので、中には花が敷き詰められていた。
花々に埋もれるようにして、赤ん坊が眠っていた。今日には廃れて久しい、水葬の様相。身分を示すようなものは何もなく、赤ん坊の肌の色はまだ斑で、切られた臍の緒も取れていなかった。
その、葬られたような赤ん坊は、生きていた。ウェリア島に戻った親父は、赤ん坊を病院に預け、官憲に届け出した。だが、分かったことといえば、その赤ん坊は生まれて一週間も経っていない、健康な男児だということだけだった。
親父は赤ん坊を引き取って、養子にした。『レナート』という名を与え、仕事の際には近所の家に預けながら育てた。
そうして、俺は今に至る。
青色の部屋は静まり返っている。俺と、親父と、神官長と、その息子が机を囲んでいるが、誰も口を開かない。何かを語り始めるのなら、それは神官長だろう。或いは、概ねの状況を理解したらしい親父かもしれない。
俺は黙って待つ。正面に座っている神官長の息子と、時折目が合う。鏡を見ているようだ。混乱した頭でも、なんとなくこいつと自分の関係を察することはできた。少なくとも、密接な血の繋がりがあるのだろう、と。
「……レナート君」
口を開いたのは、やはり神官長だった。
「広場で君を見て、まさかと思った。だが、セルジオが君を『海で見つけた』と言ったとき、確信した。君も、私の息子の姿を見て、何かしら感じたことだろう。だから伝えよう。君は、このアンドレーアの、双子の兄弟だ」
「……双子か。道理で似てるわけだ」
予想通りの答えだった。今更驚きもしない。
「我が家には、千二百年に渡って続けられてきた慣わしがある。双子が生まれたとき、先に取り上げられた方を神の子として海に捧げる――、というものだ」
つまり、俺はこのアンドレーアよりも先に産声を上げちまったわけだ。
メリウス王の話を思い出した。神と、神官アンドローレスとの間に生まれた半神の英雄は、生まれたその晩に海へ流された。荒神ピトゥレーへの捧げものとして。俺がメリウス王の物語を好んだそもそもの始まりは、自分の境遇をあの半神に重ねたからだった。
「……まるで、本当にメリウスみたいじゃねえかよ、俺」
ソファーの柔らかい背もたれに沈み込む。天井を覆う海藻の模様を、『海だなあ』なんて思い眺めた。
「いかにも、彼になぞらえた儀式でもある。かつて、この地を災害が襲い、滅びかけたとき、神官アルベルティーニの元に双子が生まれた。先に取り上げられた赤子は、右手に蒼玉を握り、額には青い痣を持っていた。アルベルティーニはその子を海神に捧げた。それを期に、この地を襲い続けた災は収束した。ゆえに、このアルベルティーニ家において、双児の誕生とはすなわち災害の予兆――或いはそれを鎮めるものとされる。最も側近く神に仕える家系の者として、我々はその責任を果たさねばならない」
神官長は語る。それがこの家――というか、この土地の伝統なわけだ。責任ある立場も大変だな。なんて、俺は他人事のように思った。
「だが、もう昔の話だろう」
親父が言う。確かに、それは千二百年前の話だ。額の痣はともかく、石を持って生まれたなんて胡散臭い。何かしらを握って生まれたなどという話は、過去の英雄やら聖者やらの伝記によく描かれるものだ。もしこれが『赤い石』だったら、『母親の腹の中から、血の塊でも持って出てきちまったんだろ』とでも言えたものだが。青となると何だろうか。
赤ん坊を海に流したら災害がおさまった、なんてのも。信心深くなけりゃあ『偶然だろ』で終いだ。まさか、アルベルティーニの子孫で、現に神官を続けている人間がそんなことを言えるわけもないだろうが。
「確かに、昔の話だ。しかし、アンドレーアらが生まれる四年前から、事実として気象は荒れていた。嵐、高波で街の五分の一が浸水したこともあるし、災害による直接的な死者は州都のみで一〇二名に及んだ。海難事故も含めれば二千を優に超える。儀式の後、それらが鎮まったのもまた事実だ。偶然かもしれない。だが、神に仕える一族が、神に関わる伝統を、迷信だと言って断つことはできない」
「そりゃあ、そうかもしれんが――」
「だが、実際のところ海神様は俺がいらなかったみてえだぞ」
親父の言いかけた言葉を遮って、俺はどうしてか口を挟んでいた。
「そうじゃねえのか? 俺は人間に拾われて、人間としてピンピン生きてる。流す前に、神様に伺ってみたら良かったんじゃねえの? 『もういいですよ』って言ったかもしれねえ」
他人事に思う。それと同時に、少しばかり自分ごとにも思う。
変な感覚だ。実の父親と、生まれる前は仲良く抱き合っていたかもしれない双子の兄弟を目の当たりにして、いざ湧き上がる感情はどんなものだろう。
懐かしさなどない。恋しさもない。ただ、目の前に同じ顔があるってだけだ。
それが、無性に気持ち悪い。
「神様は飽きちまってるのかもしれねえぜ。その伝統的な慣わしってのは、いつまで続ける気なんだ? アンドレーア様よ、あんたならどうする? 神の仕え人なんだろ。『そろそろご機嫌のほどはいかがですか』って訊いてみてもいいかもしれねえぞ。聴けるんならな」
「君の怒りは尤もだ」
神官長は言った。何かを堪えているようだった。伏せた瞳に、震える声。何を我慢してるんだ?
「俺が怒ってる? なんで。俺は別に、なんにも不幸なことはねえぞ。親父に拾われて、姉貴がいて、仲間がいて、十分幸せにやってる。怒る必要なんかねえだろ」
俺を差し置いて苦しんでるってのが、なんだか気に食わないんだ。俺は本当に、何にも悲しんでもねえし、恨んでもいねえ。大体、俺を人柱にするのを選んだのは、あんたじゃねえか。ただ、実際的なところを指摘しただけだ。それで責められたような気になられたんじゃあ、それこそ気分が悪い。
だって、俺がいけないみたいだろ。なんで、殺されたはずの俺の方が、殺した方の人間を苦しめているふうになるんだよ。
「終わりにしようぜ、この話は。そう深刻になるなよ。あんたらにとって、俺はもう死んだものなんだからさ。いいだろ、『よく似た他人が来た』くらいに思っておけば。俺だって、あんたらは他人にしか思えねえんだ」
神官長が急に席を立った。肩が震えていた。俯いた顔は、長い髪の影になっていた。
ああ、なんだ。この人は、俺を他人だとは思えないってか。どんな感情で俺を海へやったのか――、快くそうしたわけじゃないんだろうな。だとしても、俺は同情するような立場じゃねえ。許すとか許さないとか、そういうものでもない。覚えていないことについて文句を言わなきゃならんほど、俺は不幸じゃない。
「……そうだろうとも」
絞り出すように言って、神官長は海みたいな部屋から出ていった。
またえらく静まり返ってしまった。アンドレーアは、さっきから――俺が質問してからずっと――なにやら考え込んでいる様子だ。
「……難しいなあ」
親父がため息に混ぜながら言った。何がだよ?
「俺の親父はあんただぞ」
「……そうか」
俺は思っているままを伝えた。親父は横目に俺を見て、一度深く頷いた。それから、無骨な太い指を組んだ上に黒い髭を乗せて、小さく何度か首を縦に揺らした。考え込んで迷っているときの、親父の癖だった。
エントランスに戻ったら、ディランが一人で残っていた。
「お帰り。他の皆は客室に案内してもらいましたよ。詳しい話は、明日するって。……で、何の話だったんだ?」
「なんてことねえよ。このアンドレーア様と俺が、双子の兄弟だったってだけだ」
ディランはやっぱり驚きはしなかったが、気まずそうな顔をした。俺と、後ろの方で相変わらず考え込んでいるらしいアンドレーアを見比べる。
「いや、そいつは……、なんてことないのか……?」
「変な気を使うなよ。俺は『神の子』らしいんで、元々この家の子供じゃあねえのさ。偶々、この若い神官様と同じ顔で生まれたってだけだ。形だけは似てるってな。中身の仕上がりはこの通りさ」
違う親に育てられりゃあ、違う性格になるんだろう。目配せした背後では、アンドレーアが姿勢良く佇んでいる。神官服が様になるものだ。俺が同じものを着たら、裾やらをあちこちに引っ掛けて、破いたり汚したりしまくるのが容易に想像できる」
「親父さん、このことは……、皆に伝えるんですか?」
「そうさなあ……」
ディランが訊けば、親父は唸る。別に言っていいんじゃねえの? なんて俺自身は思ったが、この家の慣習だ。たぶん、表沙汰にしていることでもないんだろう。なら、あまり言いふらすのはよくないのか。
「まあ、この顔だからな。概ね察しているだろう。訊かれたら答えてやれ。外に吹聴して回るようなことはするな、って付け加えとけよ」
「さすがに、その辺りは弁えてるでしょう」
親父の指示に、ディランは頷いた。
隊の連中は皆、俺が親父の実子でないことを知っているし、なんなら海で拾われたことだって知っている。生きたままで水葬されたような状態だったことだって、知っている。なぜなら、大体のやつらはその時の様子を実際に見ていたからだ。直接見ていないのは、ディランだけだったはず。
結局その日、仕事の話はなかった。晩飯の席に神官長は顔を出したが、俺のことは見なかった。
翌日、大部屋に集められて、アンドレーアから説明を受けた。要約すると、『神話に登場する建造物の、具体的な場所やらを記した古い書物が見つかったので解読を試みたが、行き詰まった。なので、専門家に頼みたい』ということだった。
案内された蔵書室に入ったとき、俺は少しばかり目が回った。個人の家に置いておくには、あまりにも多すぎる本の数に圧倒されたからだ。
「この部屋にある書物の殆どは、アルベルティーニ家が作成したものです。ジュール、及びクレスについての記録。家の者以外の方を招くことはないのですが、父の許しを得ていますので、どの書でもお手にとっていただいて結構です。私が見つけられた〈メリウス王の墓神殿〉についての記述は、こちらの方にまとめてあります。まずは、確認していただけますか」
アンドレーアは蔵書室の端に置いてある机を示した。あまり、何人も集まれるところでもなさそうなんで、とりあえず親父が行った。
えらくとっ散らかった机だ。アンドレーアは几帳面そうな雰囲気のやつだが、案外がさつなのだろうか。ウェリア島にある自分の机と、まるで同じような散らかり具合を見て、なんだか複雑な気分になった。
「一番古いのは……、前期リラニア語か。六千年くらい前になるな」
「標準的と言われるリラニア語や、ルドリギア古語であれば、私もある程度は読めるのですが……。混ざり合っているとなると、なかなか」
「リラニア語自体が中間期の言語ですからね。方言も入っているようだ。丁度いい、うちにはこの辺りが得意なのがいるんですよ。おい、レナ。こっち来い」
呼ばれる気がしていた。他のやつらを押しのけて、狭い通路を進んで親父たちの方に行った。親父が紙を寄越してくる。パッと見て、綺麗すぎると思った。
「お前が写したのか? 原本はねえのかよ」
真新しい紙を机に置いて、アンドレーアに訊いた。こいつは良かれと思ったんだろうが、典型的なリラニア語とルドリギア古語の文字に整形されちまっている。この時期の文字は曖昧なんで、その曖昧さを取り除くと意味が変わってくることが往々にしてある。
「原本……というか、それも写しだと思いますが」
「んなこたあ分かってるよ。六千年前の本なんて石板でしか残らねえんだから。写しの写しのそのまた写しよりは、写しの写しの方がマシだって言ってんだ」
「ああ! なるほど!」
アンドレーアはとんでもなく素直に納得したようだった。なんだよ、ちょいと嫌味っぽく言ってやったのにつまんねえな。もうやらねえ。
「ええと……、あ、これだ。この辺りを写したんです」
アンドレーアは古い本を山の中から取り出して、半ばあたりを開いて椅子の前に置いた。手に取らず座って読めってことだな。こんな古書を立ち読みなんかしたら崩れそうだもんな。了解、了解。
いざ、本と対面。表紙だけは比較的新しいが、中のものはまあ古い。これは牛か馬の皮だ。
まずは、アンドレーアが開いて渡してきたページを見てみる。『メリウス』、『王』、『神』、『神殿』などといった、見慣れた文字が頻出している。他には『ジュローラ』、『墓』なんてのも出てくる。繋ぎ合わせることで『メリウス王の墓神殿』という言葉になる部分も、確かにある。
だが、どうも気になったのは、『海に沈んだ』という部分だ。単純に考えれば、これは『メリウス王の墓神殿』に掛かっていると思われそうだが、俺はどうも、これが『ジュローラ』に掛かっているような気がしてならなかった。或いは、両方だ。
他のページにもう少し明確な記述がないか探してみる。三ページ遡ったところで、『ジュローラは海に沈んだ』と確認できる一文を見つけた。だが、これだけではメリウスの子供時代にジュローラが津波に襲われたことを指しているのか、その後のことを指しているのか、はっきりしない。
もう少し遡る。そこで俺は見つけた。『ジュローラの側に建てられた〈メリウス王の墓神殿〉は、海に沈んだ』。この『海に沈んだ』は、明らかに『メリウス王の墓神殿』に掛かっている。そして、この本は時系列に添って書かれている。
つまり、メリウスの没後に、ジュローラは海に沈んだ――かもしれないわけだ。俺は最初に開いていたページに戻って、その先を読む。『エイラの丘は沈まずに残った』らしい。『エイラの丘』ってのは、ジュローラ北部にあった高地のことだ。
と、言うことは。そこ以外は沈んじまって、残っていないってことだ。
「どうも、ジュローラは山やら丘やらを残して、海の中に行っちまったみたいだな」
「……やはり」
読み取れたことを最低限の言葉で伝えれば、アンドレーアは別の本を開いて見せてきた。
「『クレスの都は東に移った』」
アンドレーアが標準リアニア語の一文を読み上げた。自分の顔が、自然とニヤけるのが分かった。
「親父ィ、当たりだぜこれは。やっぱり、ジュローラは今のキュアス諸島にあったんだ」
親父の顔は動かなかったが、後ろの方から他のやつらがざわつくのが聞こえた。
「エイラの丘は、ウェリア島だ。俺はずっと、そう考えてきた。もちろん、何の根拠もなくそう仮定してきたわけじゃあねえ。が、また一個、根拠が増えたわけだな。レナ、後で詳しく教えろ」
「おうよ」
心なしか得意げに親父は言った。すると、今度はアンドレーアが紙束を親父に見せながら、意気揚々と語りだす。
「ウェリア島がエイラの丘だと仮定できるのなら、概ねの辻褄が合うんです。私が得られた位置情報と照合すると、〈メリウス王の墓神殿〉は王宮から南に二四キロム、エイラの丘は王宮から北北東に一三〇キロム。ウェリア島を基準にすれば、諸島の南端あたりに王宮があっただろうと考えられます」
一キロムはおよそ、〇.六マイルだ。一つの街から発展したクレス王国の都ってのは、まあ恐ろしく広大だったわけだ。小国なら、余裕でその領地がすっぽりと入っちまうだろう。
「やっぱり、アビリス島なんだな」
「アビリス島?」
後ろの方で誰かが呟いて、それを聞き取ったらしいアンドレーアが首を傾げた。親父が髭をいじりながら答える。
「元は名もなき無人島ですよ。我々はそこに〈メリウス王の墓神殿〉の手がかりがあると考え、調べ始めて三十年余り。名無しの島じゃあ不便なんで、仲間内では『アビリス島』と呼んでいるんです。丁度、キュアス諸島の最南端にある。ウェリアの南に、約九〇マイル。つまり、エイラの丘から南に、約一四五キロム。王宮を挟まず直線で結んだなら、許容範囲の誤差です」
「アビリス島……」
アンドレーアは繰り返して、少しの間黙り込んだ。そうしてから、なにか覚悟を決めたみたいな顔で、親父の方に身を乗り出す。
おい……、神官服の飾りが俺の額に当たったんだが……。……気づかねえらしい。
「もし、よろしければ……、私もその島に行ってみたい。同行させていただけませんか?」
思い切ったことを言うもんだ。俺は椅子にもたれて、目の前で揺れる神官服の飾りを眺めた。
「お父上の許可が得られれば、構いませんよ」
親父は大して考えるような間も置かずに答えた。まあ、未開の島を歩き回れる脚かどうかは不安なところではあるが、あちこちから出てくる石板の解読要員としては多少使えるだろう。
「ありがとうございます!」
もう行くのが決まったみたいな様子で、目が輝いている。父親が許せば、って言ってんだろうが。まあ、確かに神官長の許可を得る方がまだ簡単かもしれない。そう危険な場所ってわけでもないし。
ジュールには二週間、滞在する予定だ。その間に更なる資料を探す。ついでに少し観光でもしてみたいところだ。一応は俺の生まれ故郷だってんだから、少しくらいならサボって歩いても許してくれるだろ。
今日のところは、それぞれでどんな本があるのかをざっと見て回るようだが、俺はさっきの前期リラニア語の本と睨み合っていた。まだ何か引っ張り出せるかもしれない。
リラニア語というものは、基本的には表語文字と表音文字が混ざった言語だ。厄介なのは表語文字で、ルドリギア古語文字そのままなのかと言えば、そうじゃないものが多い。表音文字にしたって、分かっているだけで二百近くある。音素も音節もとっ散らかっていて、体系として整っていない。使われる文字は時期によっても変わるし、地域によっても変わる。俺が読まされたのは、正確に言えば『前期インクレスリラニア語・南部方言』ってやつだ。
……ああっと、この字はなんて意味だったっけな。見覚えはあるんだが、忘れちまった。家の書写帳のどれかにあったはずなんで、帰ったら照合しよう。ってわけで、気に掛かった文字を手帳に写し取った。
「レナートさん」
「……、あ?」
集中していたんで、声を掛けられて反応するのに一拍二拍遅れた。アンドレーアが俺の手元を興味深そうに覗き込んでいた。
「貴方は、どこで古代言語を学んだのですか? 私と同じ年なのに、驚くほど流暢に読んでいるじゃないですか」
はァ? 神官長の息子で、パレス大の出で、英才教育の集大成みたいなやつがそれを言うか? 俺は初等教育も受けてねえっての。まあ、俺が『いらねえ』って言ったから受けてねえんだが。
「お前だって読めるだろ」
「それはまあ、そうですけれど……。私は立場上、幼少期から教え込まれてきましたし。それに、標準的と言われるものでなければ、とてもそんなふうには」
まあ、そうか。クレスの神官は政治やらも勉強しなきゃならねえし、俺みたいに大方の時間を古代言語の習得に費やすってのは難しかろうな。
それで? さて、誰に教わったんだったか。俺にこの古い文字を教え込んだ誰か――、って言ったら、そりゃあ大方親父だろうが。……と、思うんだが。いつも不思議なのは、親父は自分で読めるはずのものを、わざわざ俺に読ませる。単に経験を積ませるためにそうしているのかもしれないが。
「……俺はパレス大で、考古学を専攻してるからな」
「え、本当ですか? 私も人類学部でしたけれど……、貴方のことは知らなかった……」
「そりゃそうだろ。嘘なんだからよ」
本気で信じたらしい。わずかに眉をひそめたが、それで文句を言ってくるでもない。まったく、気が抜けるほど素直なやつだ。
「しょうもねえこと言うな。すいませんね、そいつはガキの頃のことを、少し忘れちまってるんですよ。ですが、そのガキの頃に一所懸命勉強していたのが、根底にあるもんで」
後ろの本棚の前に立っていたらしい親父が、手元の本から目を離さずに言った。アンドレーアの眉が尻下がりになった。
「そうだったのですか……」
と言って、深掘りもしなければ、まずいことを聞いたかもしれないと変な気を使って謝ることもしない。しっかり弁えてることで。謝られても困るからな。こちとら気にしてねえんだから。
四日間も蔵書室に籠もってたんで、気晴らしも兼ねてジュールの観光に出ることになった。
俺を含む連中を案内するのはアンドレーアだ。神官長の息子の顔はジュールでは知られたものだし、それによく似たツラが並んでいたら騒ぎになりかねない。俺は日除けのフードを深めに被った。
結局、神官長はあれ以降姿を見せない。色々忙しいってことだろうが、俺と顔を合わせたくないってのもあるんだろう。
かつてクレス王国の都だったジュローラは、おおよそ現在のキュアス諸島全域を領地としていた。ということで、俺たちの見解はとりあえずのところ纏まっている。その名を引き継いだジュールは、ジュローラとは比較になどならないほど小さな街だ。とは言っても、アウリーの王都セランだってこんなものなのだから、ジュローラがいかに巨大だったかという方向に考えた方が適切だろう。
そんな都を持っていたクレス王国ってのは、相当でかい国だったはずだ。少なくとも、現在のアウリー王国全土、それに加え、海中に沈んでしまった分の土地くらいは含まれていただろうと考えられる。
ジュローラが海に沈んだという説については、親父がこの方面に携わるよりもずっと以前から唱えられていたものではある。数千年前の記録と比較すると、明確に海面が上昇している。特に、熱帯地域で顕著だと言われる。中央大陸の西側を占めるファーリーン王国は、海を挟んで南北に分かれているが、それは海水の流入によって低地だった中央部が湾になったためらしい。現に、リオス湾の海底には古代都市の痕跡が残っているという。アウリーよりも涼しいあの地域でさえ、それだけ地形を変えてしまっている。ならばキュアス諸島のあたりなんてのは、昔とはまるで様相が違うだろう。
メレー神殿はジュールを一望できる高地に建つ。アルベルティーニの邸宅から少しばかり坂道を登れば、純白の柱と壁がそそり立っている。真珠にしては鮮やかすぎだし、オパールにしてはやや大人しすぎる、光の神殿。実際に何の素材を使っているのかは、見た感じではよく分からない。そこらにあるような岩を組んで、光沢剤を塗っただけかもしれない。仮にこの建材が全て貴石の類だとしたら、こんな完璧な形で現存しているなんて、あまりにも治安が良すぎるだろう。或いは、メレーの加護とやらか?
しかし、今日の食い扶持もままならないような人間ってのは、どこにだっているものだと思う。歴史ある都市なら尚更、そんな人間で溢れていた時代だってあるはずだ。祈り縋れば、メレーは何かしらの酬いを与えてくれるのかもしれないが。この世界で生きるなら、ある程度の物質的な恵みが必要だ。俺たちには肉体ってのがある。
アンドレーアはともかく、俺たちは一般人なんで、神殿内に入ることはできない。フードを念入りに引き下ろしながら、神官が見張っている開かれた入り口から中を覗き込んだ。
虹色の光を反射する外観とはまた異なって、青白い光が床と壁を照らしていた。内側の建材は、水晶だろうか。それとも、月長石か。いずれも古代から重宝されてきた鉱物だが、この青白い感じは月長石か、それを模したものだろう。
決して、暇を持て余しているわけではない。さっさと次の見どころまで案内してもらう。馬車に乗り込み、アルベルティーニ邸を通り過ぎ、丘を下る。先ほど見晴らしたジュールの街並みの中に紛れていく。
まずは、例の海神とメリウス王の彫刻が飾られた噴水広場。この噴水に使っている海水は、地下水路で海から引いてきているらしい。道理で、常に新鮮な水なわけだ。溜め込んで使い回した海水では、広場が臭くなる。来たついでに、俺は気になっていたことをアンドレーアに訊いてみた。
「なあ、この彫刻ってなんで溶けねえんだ?」
「詳しいことは分かりませんが、エシュナ大橋の建材と同じだろうと言われています」
「へえ。じゃあ古代大戦時代の遺産ってわけか。思ったより古いな」
失われた古代技術の賜物、ってやつだったらしい。こういうのは、それこそエシュナ大橋だとか、リラの塔だとか、パレスの謎遺跡の建材だとか、実用的なものに使われている印象だったが。こういう美術品なんかにも使われている場合があるらしい。なら、わりと優雅な時期もあったってことだ。そりゃあ、五千年も休みなく争い続けていたら、今頃人類なんか残っていないか。
一つ謎が解決した。初めて見たときから、どうも気になっていたんだ。俺は気分良く次の場所に案内される。なんでも、街の至る所に神像があるとか。観光客はそれらを順に見て回るのが嗜みらしい。ちなみに、それらはかの有名な神像彫刻家ロザリアの作なので、噴水像よりもずっと新しい。
まずは、広場から少し西に移動したところにある、キュアストス像を紹介された。元は陽光神だったが、次第に医療を司る神へと変わっていった、キュアス諸島の名の元になっている神だ。切れ長で理知的な印象の目元に埋め込まれているのは、エメラルドとアメジストが混ざったような色味をした石。
『光の神』と言えば、〈月の神子〉が最高位だが、雷神のリヨンもそうだ。陽光神だったキュアストスも、言わずもがな。アルビオン神話に『太陽神』ってのはいないが、『太陽の光を司る神』はいる。このキュアストス像は、光の具合によって瞳の色が変わるらしい。なかなか粋な意匠だ。陽光ってのは、色の変化が月光よりも著しい。
次に案内されたのは、少し北に上がったところにある広場だ。そこの花壇に座り込んでいるフィオリローザは、十代の少女らしき姿をしている。草花を愛でるような神の膝の上で、近所で飼われているのか野生なのか知れないウサギとリスが、仲良く野イチゴを食っていた。ローズクオーツ製の丸い瞳が、くつろぐ小動物らに向いている。いつもこうなのか、偶々なのか。通りすがりの婆さんに訊いてみれば、『いつものことじゃよ』と答えられた。もしかしたら、フィオリローザはこの二匹を可愛がっているのかもしれない。
東に移動したところに、川がある。流水を別ける土台の上に、蛇みたいにヒョロく且つ絶世の美形に彫られたエクアロイスと、寄り添うエファラディートがいた。エクアロイスは大河の神だが、何度も死んでは蘇る。エファラディートはその姉だか妹だかははっきりしないが、妻でもあって、エクアロイスが死ぬたびに生き返らせようと奔走する。アルビオン神話では、この二柱の神についての項だけでもかなりの文量を割いている。『ふざけてんのか』と思っちまうような死に方やら生き返らせ方もあるが、多分当人たちは至極真面目だったことだろう。瞳にはやはり、貴石が嵌め込まれていた。エクアロイスはブルートパーズで、エファラディートはガーネットだそうだ。
また北に向かうと、ちょっとした高台があって、その上に塔が建っている。塔のテッペンにいるのが、写生画で見知った雷神像だった。塔に登れば近くで見られると言われて、俺は螺旋階段を駆け昇った。
何にも遮られずに吹いてくる海風に煽られながら、リヨンの隣に立ってみた。右手を天に掲げるその姿は、巨大だった。なんせ、俺より三フィートは背が高い。他の神像が、わりと人間の等身大で造られていたので、リヨンもそんなものだろうと思っていた。
遅れてやって来た他のやつらも、リヨンの大きさに驚いたようだった。塔の上に置くので、遠くからでも判るように大きく造ったのか。原初の神だから、他より大きくしたのか。作者の意図は分からない。
だが、やはり尋常ではない美貌を彫り出している。どうやったら、こんな美形を想像の世界から連れ出して来れるんだろうか。ロザリアっていう芸術家は、全くどうかしている。いっそ異常だ。眼光に嵌め込まれているのは、中心にブルーダイヤモンドをあしらった黄金。明らかに、他より手が込んでいる。
美しすぎて気持ちが悪いという感覚を、自然の中に覚えることはままある。だが、人の手で造り出されたものに、これほどのおぞましさを感じたことはなかった。今にもこちらに振り向いて、話しかけてきそうな生々しさ。そんなことは絶対にありえないと突き付けてくる、無機物の身体。
ロザリアは、『これらは私の空想で、理想である。私にとっての神々を、私は現したに過ぎない』と言い残した。目には見えないなにかが、見えていたという意味なのかもしれない。俺には分からない。だが俺がどう解釈しようと、このロザリアや、同年代を生きたエドアルドが並外れた表現者であったことは、確かな事実だ。
そもそも、俺は子供の頃に本土の美術館で目の当たりにした、エドアルド作の『天空の双神』に描かれたリヨンに魅了された。天空神の系譜に誕生した原初の双子は、方や風神と呼ばれファーリーンで信仰され、方や雷神と呼ばれアウリーの端で信仰された。現在のファーリーンでは、風神のシルフィードも雷神のリヨンも天空神と融合したそうだが、アウリーでは未だ、リヨンは雷神として在る。
エドアルドは、『天空の双神』を対称的に描いた。どちらがリヨンで、どちらがシルフィードなのか。それは周囲に描かれた雷光と、うねる大気の描写で判別できる。だが、それがなければ、きっと区別がつかない。
それでも、明らかになにかが違うと感じた。幼かった俺には、その『違い』を言葉にして説明することはできなかったが、たぶん、今でもできないだろう。色合いが違ったか? 表情が違ったか? 纏う布の広がり? 髪の靡き? 指の角度?
たぶん、どれも同じだった。そう描かれていた。けれど、俺は風神よりも雷神の方に、明らかに惹かれたのだ。そして、そのときに思った。『俺はきっと、雷神に出会うことができたなら、一目でそうと解るだろう』と。
だが、残念ながら俺は神の姿を見る目を持ち合わせていない。俺が古代人か、神官か、占術師かなにかだったら、リヨンと話せたのだろうか。
純白の雷神像に触れていた。翼のようにはためく石の布を巻き付けた、滑らかな腕。冷たく硬い感触。心中で『リヨン』と呼び掛けるが、空色を湛えた黄金の瞳は、俺を見留めてはくれない。当然だ。
「お前の雷神好きは、誂いにくい」
俺より離れたところから像を眺めていたらしい仲間の方に戻るなり、肩を竦めた親父に言われた。
「分かるぞ、セルジオ。だが仕方ないさ。レナはリヨンに恋してるんだもんな」
「はぁ? 何言ってんだ。馬鹿か」
勝手言いやがる。これだけの芸術品を目の当たりにしたら、その世界観に引き込まれたってしょうがねえだろ。
……なんて、言い返してやろうかと思ったが、存外間違ってもいないのかもしれない。
始まりは、確かに憧れだった。今でもその感情は持ち合わせている。だが、いつからか拗らせてしまったようだ。『憧れ』の一言で表すには、余計なものが纏わりついている。
たぶん、俺はどうかしているんだろう。だが、まあ……。リヨンくらいの神なら、許してくれると思う。なんなら、この程度のことには慣れているかもしれない。
二週間の滞在期間のうちに、それぞれが資料を集めた。そしてウェリアに戻る日が来た。
結局、アンドレーアの俺たちに同行したいという希望が通ったのは、出港日の前夜だった。神官長は慎重だったらしい。俺はだいぶ軽く考えていたが、確かに万が一にもあいつに何かあれば、後継者に困ることになるだろう。二週間も邸宅に滞在していたから、何人かの使用人と顔見知りにはなった。だが、アンドレーアの身内は父親だけのようだった。母親らしき人物とも、会うことはなかった。
神官長は港まで見送りについてきた。アンドレーアがいるから当然だろうが、俺の方も気にしているような気配を感じた。何か言いたげなふうで、何も言ってはこない。初日に俺から突き放したみたいになったのが、堪えたんだろうか。だが、もしどうしても言いたいことがあるのなら、言ってくるだろう。無理して話しかけてもらいたいなんて思っていないし、俺から言うことはない。二週間会話もしなかった。そもそも殆ど顔も合わせちゃいねえんだから、今更だ。
船は、隊員二十人と同行者を乗せても余裕がある。フォルマやファーリーンでは未だガレーが主流らしいが、アウリーでは魔道動力を用いる。一応帆はついているが、動力が壊れたときくらいしか出番はない。俺の知る限り、この船の帆が活躍したことはない。
船が港を離れる。遠ざかる生まれ故郷。その実感なんてものはまるでない。それなのになぜか、俺はその白い街並みが大気の奥にかすれて消えてしまうまで、目が離せなかった。
ジュールを発って四日。日も暮れたので錨を下ろし、夕飯も食い終わった。酒好きの酔っぱらい連中が、船室で騒いでいる。
その喧騒を足下で聴きながら、俺は星を見ていた。少しばかりの酒を片手に。
ジュール産の白葡萄酒は、香草の匂いが強く、やや辛い。なんだか薬みたいだと、アルベルティーニの家で出されたものを飲んで思った。俺は、ウェリア産の甘くて渋い赤葡萄酒の方が好みだ。
見張りは交代制だが、どうも気が緩む。天候も良いし、風も弱い。相方なんて、すっかり寝こけている。食後のほろ酔い具合で、凪の海にゆるく揺られていたら眠くなるのは分かる。だが、隣でいびきをかいているやつがいると尚更、俺の意志だって長持ちしない。どうせ何も起こりはしないと、端から思っているから。
ガクリと頭が落ちた衝撃で、目が覚めた。同時に感じたのは、妙な焦燥感。隣を見れば、相方は先までと変わらずに寝ている。
嫌な感じの正体を探る。風は相変わらず弱いし、波は穏やかだ。動力を切った船は振動もしていないし、船室で騒いでいた連中も、寝たらしい。
静かだ。だってのに、なんでこんなに気持ちが悪いんだ。
波が切られる音が、かすかに聞こえた気がした。高所に上がって周囲を見回してみるが、何もない。そう思ったが、もう一度念入りに確認した。
遠方に黒い影が見えた。岩礁か? いや、あんなところにはなかったはずだ。
新月の夜は星がよく見える。だが、星明かりは小さい上に遠い。殆ど目の頼りにならない。だが、闇の中をより黒く塗りつぶす影が、次第に大きくなっている気がした。組まれた足場を飛び降りて、甲板の床で腹を掻いている相方を叩き起こす。
「おい、何かこっちに来る。船だと思うか?」
「ああ……? どれだって?」
ズレた眼鏡を直しながら、見張り役の相方は俺の指が示す方に目を凝らす。さっきよりも、またデカくなっている。
「船……、だろうな。明かりも点けずに、どうしたんだろうな。遭難でもしたか? セルジオを呼んでくるから、見張ってろ」
「分かった」
遭難……。動力が壊れたのか。だが、帆があるはずだ。これはアウリーの法律で決まっている。必ず帆は付けろ、と。夜が明けたら、風を頼りに移動すればいい。近場の小島になら、いくらでも辿り着けるはずだ。
違和感。なにかがおかしい。
ああ、そうか。動力なしで接近するには、速いんだ。風は横から。それも至って弱い。
そう思い至った瞬間、俺は声を張り上げた。
「おい! 錨上げて動力入れろ! 不審船だ!」
親父の指示を待たずに、下のやつらに叫んだ。階段のところで寝転がっていたディランが飛び起きて、船倉に向かって駆けて行った。間もなくして、動力音が船を鳴らす。
「救難信号を示せ」
親父が拡声器で呼び掛けるが、無反応。
かと思いきや、急に明かりが点った。黒い影でしかなかったものが、爛々とその全体像を示す。こちらよりも二回りくらい大きい船だ。もはや忍ぶ必要もないとばかりに、低い動力音を鳴らし、速度を上げてくる。
「チクショウが! 賊じゃねえか!」
親父の悪態が、拡声器を割らんばかりに響いた。
ようやく錨が上がって動けるようになる頃には、賊の船は接舷していた。板が渡され、荒くれ者共が乗り込んでくる。船倉から武器になりそうなものを持って上がってきた連中との殴り合いが始まるが、俺の手には何もない。
何かないか。あちこちに目を向けていたら、背後から羽交い締めにされた。ぶん殴って逃げようと思ったが、腕が動かせない。なら脚だと思ったが、今踏ん張らねえと抱え上げられちまうと、咄嗟に判断した。
だが、間違いだった。蹴り上げるべきだった。相手は俺よりずっと体格の優れた男で、力があって、俺が踏ん張ってみたところで碌な抵抗にはならなかった。足のつかない状態で、首に回された腕に呼吸も遮られ、あれよあれよと運ばれる。俺を呼ぶ声が遠ざかる。喉を締めてくる汗臭え腕に爪を立てたが、あえなく意識は飛んだ。
そう長く気をやっていたわけではないようだが、気づけば俺の体は縄に巻かれて、転がっていた。
知った船の舷側。あれが見えるってことは……、ここは賊の船か。向こうでは、まだガチャガチャとやりあっているらしい。
連中は概ね学者の集まりだが、それなりの戦いの技術――魔道具を扱う腕――を持っているんで、心配はしていない。だが、悪いことに俺が人質になってしまったようだ。俺を救けるとなればさすがに骨が折れるだろうが、切り捨てようとするやつらでもない。面倒を掛けることになった。
なんだってこう、俺は拐われちまうんだか。十年前だって、確か……。そうだ。こんな感じの、薄汚い船の甲板に、縛られて転がされていたんだ。
いつ、怪我をしたんだったか。拐われるときだったか。それとも、いざ縛り上げられて身動きが取れなくなって、それでも暴れようとして騒いでうるさいから、ってんで切られたんだったか。
同じような状況になっても、思い出せない。ガキだった。よほど怖かったんだろう。俺は、今でも忘れたままでいたいようだ。
……そうだよ。……忘れているんだよな?
不意に頭の中を過ぎったのは、至極可笑しな疑問だった。返答は、なぜか俺の思考を先回る。
――ああ、『正しい記憶』を忘れたんだ。
……正しい記憶? なんだそりゃ。違う記憶があるってのかよ?
俺の意識から離れたところで、俺の頭の中で、なにかが会話をしている。
……馬鹿言うな。前にもこんなことが……
「……あったか……? こんなこと――」
視界に灰色の砂塵が舞った。脳が痙攣する。ざらつく視界の中、一瞬捉えたのは巨大な人影。幻覚?
違う。いや、そうだ。焼き付いちまったんだ。捕まえられた腕が折れそうだ。
違う。これは幻覚なんだ。視界を覆うのは男の影。耳奥に響いて頭の中を殴りつけてくるのは、子供の泣き叫ぶ声。
誰の声だ?
なんて、馬鹿かよ。知っているくせに。
「あ……、ああ……。やめろ……」
幻の照準が合っていく。子供の声と、俺の口から出る声が、言葉が、重なる。
「――やめろ! 違う! 嘘だ! こんなの違う、やめてくれ!」
――兄貴。
そうだ。俺は『あのとき』も叫んで、懇願したんだ。こんなふうに。
私は今こそ、あなた方を隔てる荒れた泥濘に横たわり、この身を以て橋となろう。
私は狭間に生まれし者。
故に、あなた方の手をとり導こう。
どうか、私を愛してくれるのならば、同じように互いを愛してはくれまいか。
そうして、私を平和の礎としてくれるのならば、
神より賜いしこの命、あなた方へ歓び捧げる。
『アルビオンの書』‐後世記‐ メリウス王の章 より
初出:
