――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
第四章

 通常会話をするのは、黒色の頭髪を持つ研究職の者たちで、それも至って事務的な調整のため以外に関わりを持つことはない。稀に白銀の指導者階級の者が直接司令を言い渡しに来る。

 黒と白以外の人間とは、全くもって無縁だった。

 それは唐突な出来事であった。巨大な蒼の天蓋の向こうで荒ぶる空模様を目の当たりにしたことなどないが、もし迅雷が霹靂として天蓋を突き破り目前に降り立ったなら、この脳髄は同程度の危険信号を発し、それに伴い情動もまた揺れ動いたやもしれない。

 その者は黄金の髪を戴いていた。軍事司令者階級に属することを示す。

 かれには淡い感情があった。百年に及ぶ研究実験の末に、第一の試作品として形を成したこの身もまた、副次的にそれを備えていた。だが、かれは違う。非常に稀で、偶発的な現象の産物。変異体。

 変異体は失敗作であり、粛清対象となる。であるから、かれは永くそれを隠し生きてきた。

 どうか内密に留めてくれるよう懇願するかれの姿に、個としての生への渇望を見た。

 情動を司る脳の分野が、触発されたようだった。仲間の存在に安堵する心地とは、斯様なものであろうかと想像した。

 それはどうやら、あちらも同様であったらしい。監視の目を逃れながら密会し、互いの情感を打ち明け合えば、共感の喜びを知る。

 脳内に制御の効かない電流が生じる。眠らせていた細胞が、覚醒めはじめた。

     *

 ウェリアを発って約一週間、東に向かって船を進ませた。アウリー本土の南端に位置するクレス州は、王国に属しつつも共和制の自治を認められた特殊な場所だ。州都ジュールは、『メリウス王誕生の地』などと言われるが、実際のところ証拠はない。だが、少なくともこの国ができる以前から現在まで、ジュールがそのようにして存続しているという、歴史的根拠はある。一万年以上昔の神話時代に、この土地がどのようなものだったのかを確かめる術などないが、二千五百年ほども『ここがかつてのジュローラである』という信念のもとで、実際にそう在ってきたことは、説得力としては十分だろう。仮にここがかつてのジュローラではなかったとしても、今を生きる人間の大部分にとっては、『ジュールはかつてジュローラだった』ということにしておいたって、なんの不都合もない。

 俺は生まれて初めて、ジュールの地に足をつけた。アウリー人ならば、一度はこの地に立ってみたいと思うものらしいが、俺もずっと興味があった。

 さて、港から眺めた光景は王都にも劣らない。活気があり、古い建築があり、彼方の丘に建つのは王宮の規模をも凌ぐようなメレーの神殿だ。

 ちょうど正午になる頃だが、ウェリア島よりも熱気は落ち着いている。全体的に白い街並みと、快晴の空と輝く海の青は、清潔感を覚えさせる。道も綺麗だし、住民の殆どが、きっとこの街を美しく保つ努力をしているのだろう。『メリウス王誕生の地』、『メレー神殿の本拠』などといったものが、ジュールの人間に高貴な意識を持たせているのかもしれない。或いは、自治という特例を貰っている以上、風紀の乱れを生じさせるわけにはいかない、といったような思いもあるかもしれない。たぶん、その他にも色々あるんだろう。

 クレス州に君主はいないが、政治家の大部分は神官だ。有力な神官なら相応の発言力もある。アルベルティーニ家のような『神官一族』と呼ばれる家系は、『政治家一族』とも言える。神官長とは執政長でもある。人民を代表して神に仕え、神の恩恵を人民へ渡す、というのが彼らの信条らしい。現在、クレスは州としてアウリー王国に所属しているが、王がクレスの自治に直接干渉することはない。過去にはクレスも君主を戴いて独立していたことがあるものの、どうにも堕落がちになる。基本的には干渉されないが、いざとなれば自治権を取り上げられる、くらいの緊張感があったほうが、なにかと上手くいくらしい。難しい立場だとも言える。

 俺たちが目指すべきところは見えている。丘の上に見えるメレー神殿は目印だ。あの近くに、歴史あるメレーの神官一族アルベルティーニ家の邸宅があるらしい。港から少し街なかに入ると、噴水広場があって、そこで案内人と合流することになっているそうだ。

 俺はジュールの景観になんだか魅了されて、あっちこっちに目を向けながら、列の後ろの方を進んだ。建物の外壁の白さが眩しい。通りの幅は十分に広くて、日当たりも良い中央を、花壇が飾っている。これまた白やら、赤やら薄紅、黄色に空色……、そして葉の緑。花には詳しくないが、色鮮やかで目を引かれる。

 いつの間にやら待ち合わせ場所の広場に到着していたらしく、親父が迎えの人間と話し始めていた。

 さておいて、俺は巨大な噴水に目を奪われた。透明な水が、飛沫を上げて舞っている。精巧な彫刻は有名だから、俺も絵で見たことがある。だが、実物の迫力には圧倒された。厳めしい顔つきの海神ピトゥレーの広い右肩に座り、滑らかな腕を天へと掲げるのは美貌の半神メリウスだ。アルビオン神話において、メリウスが成した偉業は多い。だが、その中でも『荒神ピトゥレーとの和解』は、まさに神話的で、寓話的だ。海神と王の彫刻のためか、どうやらこの噴水に使われているのは海の水のようだ。磯の香りがする。

 ふと、案内人の男が俺を見ていることに気づいた。なんだか神妙そうな顔をしているんで、そちらに行ってみる。

「なあ親父。あの噴水、海水使ってる。よく劣化しねえよな」

「……親父?」

 何気なく親父の方に声を掛けたら、案内人の男がこれまた神妙そうに呟いた。なんだ? 何か変なところでもあるのか?

「おいレナ、神官様だぞ。挨拶しねえか」

 親父に言われて、改めて案内人の男を見たら、なんだ、確かにメレーの神官服らしきものを着ている。

「ああ、どうも」

 俺は適当な挨拶をした。今更畏まるのも変な感じがしたし、第一に俺はジュールの人間でもなければ、熱心にメレーを信仰しているわけでもない。親父は畏まってほしかったのか、なんだか不服そうだったが。

「……君の子かね」

「書類上はな。実子じゃあねえよ。海で拾ったんでな」

「う、海で……」

 神官様の顔が青くなるのが目に見えて分かる。何だって言うんだ。……と、あれ? どうも親父はこの神官様と随分親しげじゃないか? 大学時代の友人が一人、ジュールの神官だというのは聞いている。その一人ってのはアルベルティーニの当主だっていう話だ。この神官様の年齢は、見たところ親父と同じくらいかもしれない。親父よりも若々しく見えるが、そもそも親父が老けてるんで。となると、当主自ら案内のために出てきたってことか? いや、待て。さすがにあの挨拶はメレーの神官長様にするにはいい加減すぎた。

「すみません、神官長様でいらっしゃいましたか? 失礼いたしました。レナートと申します。セルジオの調査隊では若輩の者ですが、この度は尽力させていただきます」

 俺は真っ当に思われるよう、挨拶をし直した。親父の教育の仕方に問題があったみたいに思われたら嫌だ。手遅れかも知れないが、やらないよりはマシだろう。

「レナート君……か。うむ、そうか……。うむ……、よろしく頼むよ……」

 やっぱりどうも、神官長様の顔は青い。というか、時化た空みたいな色だ。大丈夫なのか?

「さっきから具合が悪そうだな。テオよ、休んでるのか?」

 俺の予想は当たっていたみたいだ。アルベルティーニの現当主はテオドーロだから、この人が神官長様で間違いない。しかし、この顔色は俺が見ても不安になるくらいだから、旧友の親父はそりゃあ心配するだろう。神官長というのは忙しいらしいが、無理して出迎えに来てくれたのかもしれない。

「いや、大丈夫だ。気にしないでくれ。馬車を用意してあるから、どうぞ」

 神官長様はそう言って、広場の端の方に停めてある数台の馬車を示した。一台に四人は乗れそうだ。親父は適当に振り分けたが、一人余ってしまったので、俺は神官長様と親父と一緒の馬車に乗り込むことになった。馬車はなめらかに舗装された道を、アルベルティーニの邸宅を目指して進みだした。

「それで、〈メリウス王の墓神殿〉の記文っていうのはどんなものだ?」

 親父は窓の外の景色を横目にしながら、神官長様に訊いた。

「手紙に書いた通りだが、その後も息子なりに他の書物を探したりと努めているので、いくらか情報は増えたと思う。私はあまりそちらに携われないので、詳しくは息子の方が案内するだろう」

「それじゃあ、お前さんの息子の指示に従えば良いわけだ」

「あれで分からんから君を呼んだのだ。むしろ指示して使ってやってくれ。本人もそのつもりでいる」

「今年大学を卒業したんだったか?」

「ああ。せっかく早く入学できたのに、神官修行のために引き戻したものだから時間がかかってしまった。今後院に進むかと迷っているようでな。元々、文化系に関心があったのだが、最近は特に考古学に惹かれているようだ。君たちと関われば、何かしら響くものもあるだろう」

「そりゃあ、責任重大だな」

 俺は黙っておっさん二人のやり取りを聞いていた。将来の重役神官なら、神学あたりに熱心なのかと思いきや、存外俺と趣味は近いらしい。歳も同じだと聞いているし、父親と同じくらい腰が低ければぜひとも仲良くなっておきたいところだ。威張りくさったやつなら別だが。

 急に馬車の中が静かになった。俺が何か言うような場面でもないので、黙り込んで大人しくしていた。相変わらず顔色の良くない神官長様が、ほとんど独り言みたいな小声で言った。

「アンドレーアを見れば、君たちは驚くだろう……」

 どういう意味だ? と思うのと同時に、『アンドレーア』という名前は、ジュールでは大層好まれるだろうとも思った。その名が、メリウスの父で、アルビオン神話において『メレーの言葉を正しく聴くことができた、最後の人間』で、なおかつメレーの神官だった『アンドローレス』が元になっていることは明らかだ。たぶん、この神官一族には過去に何人もの『アンドレーア』がいたことだろう。

 俺は窓枠にもたれかかって、ジュールの街並みを眺めていた。横目に神官長様を見れば、なんだか処刑場に連れられていく人間みたいな様子に見えて、俺の胸元には得体の知れない濁りのようなものが湧いて、溜まっていくような感じがした。

 オリーブの木が若い実をつけて立ち並ぶ丘を、馬車は上っていった。見下ろすことのできるジュールの街並みは白く、整然として、帝都リラの写生画を俺に思い起こさせた。きっと実際には似つかないものなのだろうが。黒雲と赤砂の舞う大地ではなく、青空と白波を立てる広大な海を望める。

 メレー神殿の高い壁が近づいた辺りで、馬車は止まった。御者が扉を開けたので、一番近くに座っていた俺が先に降りた。他の馬車からぞろぞろと降りてきた仲間と、ファーリーンの有力貴族の邸宅にも劣らないだろうアルベルティーニ家の屋敷前で屯した。どいつもこいつも、当然俺も含めて、この場に似つかわしくない服装だ。

 この家の主である神官長に先導され、俺たちは玄関をくぐった。

 広大なエントランスホールに、俺は圧倒された。これが個人の家か? 白大理石の床にはラピスラズリ色の光沢をはなつ絨毯が敷かれている。何の繊維を使っているんだか。本当にラピスラズリの粉末を練って糸にしたんじゃないだろうな。先日新調したブーツの厚底が柔らかく沈み込む感覚が、心地いいような、悪いような。どうせなら裸足で踏んでみたい代物だ。果たしてこれは玄関に敷くようなものなのだろうか。俺だったら寝室用にしたい。

「お一人で一部屋を使っていただきたいところではあるのですが、部屋数が足りないものですから……。お二人ずつで、どうかご容赦ください。一階と二階に用意しておりますので、後ほどご案内を。まず、今回お呼びした件について、軽くお話の方を――」

「父上、戻られましたか。そちらの方々が……?」

 上の方から声がして、見上げた。なぜか耳に馴染んだ声。吹き抜けた天井を通り越して、二階の位置からこちらを見下ろしているその姿を見た瞬間、俺の思考は停止した。

「アンドレーア……」

「……待て、待て。なんだ、どういうことだこれは」

 誰かが動揺を言葉にする。海色の瞳と、俺のそれがかち合った。驚愕に染まっていくその顔を見て、俺も同じ顔をしているんだろうと思った。だって、こいつは俺と同じ顔をしている。

「ああ……。そういうことだったのか」

 親父の呟きが耳を抜けていった。

「テオ……、テオドーロよ。これはつまり、アルベルティーニの慣習ってのは、廃れちゃいなかったってわけだな」

「……我が家に課された使命なのだ。我々がクレス人であるために。……ここがジュールと呼ばれる限り」

「なんてこった……。じゃあ、あのときお前が俺を呼んだのは……。そうか……」

 まるでわけが分からない。髪を切って整えて、サファイアブルーのローブを纏った俺が、階段の上で品良く佇んでいるんだ。俺たちは言葉もなく見つめ合っていた。周りの騒ぎなんざどうでもいい。『あそこにいるのは俺だ』なんてまるで馬鹿らしいが、それは本当に錯覚なのか?

「やはり、先に説明しなければなるまい。セルジオ、アンドレーア――」

 神官長が俺を見た。

「……レナート君。話をしよう」

 そのまま、流水のように逸らされていった視線を、俺は無意識に追った。メレーの神官長はもう、俺を見ていない。俺は親父に腕を引かれながら、神官長の後に続いた。後ろをついてくる分身の気配を感じながら。

 二十二年前の夏、親父は海を漂う小舟を見つけた。それは木で組み立てられた、全長三フィートにも満たないもので、中には花が敷き詰められていた。花々に埋もれるようにして、赤ん坊が眠っていた。今日には廃れて久しい、水葬の様相を呈していたという。身分を示すようなものは何もなく、赤ん坊の肌色はまだ斑で、切られた臍の緒も取れていなかった。

 その葬られたような赤子は、生きていた。親父はウェリア島に戻り、赤子を病院に預け、官憲に届け出した。だが、分かったことといえば、その赤子は生まれて二週間も経っていない健康な男児だということだけだった。親父は赤子を引き取って、養子にした。『レナート』という名を与え、仕事の際には近所の家に預けながら育てた。

 そうして今に至るレナートと名付けられた赤ん坊とは、俺のことだ。

 青色の部屋は静まり返っている。俺と、親父と、神官長と、その息子がいるが、誰も口を開かない。何かを語り始めるのならば、それは神官長のはずだ。或いは、概ねの状況を理解したらしい親父か。何も分からない俺は黙って待っていた。時折、正面に座っている神官長の息子と目が合う。鏡を見ているようだ。俺は混乱した頭でも、なんとなくこいつと自分の関係を察することができた。少なくとも、密接な血の繋がりがあるのだろう、と。

「……レナート君」

 口を開いたのは、やはり神官長だった。

「広場で君を見たとき、まさかと思った。だが、セルジオが君を『海で見つけた』と言ったとき、確信した。君も私の息子の姿を見て、何かしら感じたことだろう。だから伝えよう。君は、このアンドレーアの双子の兄弟だ」

「……双子か。道理で似てるわけだ」

 俺は大体予想できていたから、今更ひっくり返りはしなかった。

「我が家には、千二百年間続けられてきた儀式がある。それは、双子が生まれたとき、先に取り上げられた方を神の子として海に捧げる、というものだ」

 つまり、俺はこのアンドレーアよりも先に産声を上げちまったわけだ。メリウス王の話を思い出す。メレーと神官アンドレーアとの間に生まれた半神の英雄は、生まれたその晩に海へ流された。荒神ピトゥレーへの捧げものとして。俺がメリウス王の物語を好んだそもそもの始まりは、自分の境遇をあの半神に重ねたからだった。

「……まるで、本当にメリウスみたいだな。俺」

 俺はソファーの柔らかい背もたれに沈み込みながら呟いた。天井を漂う海藻の模様を、『海だなあ』なんて思いながら眺める。

「彼になぞらえた儀式でもある。かつてこの地を災害が襲い、滅びかけたとき、神官アルベルティーニの元に双子が生まれた。先に取り上げられた赤子は、右手に蒼玉を握り、額に青い痣を持っていた。アルベルティーニはその子を海神に捧げた。それを期に、この地を襲い続けた災いは収束した。ゆえに、このアルベルティーニ家において双児の誕生は、災害の予兆、或いはそれを鎮めるものとされる。最も側近く神に仕える家系の者として、我々はその責任を果たさねばならない」

 神官長は語る。それがこの家の伝統なわけだ。責任ある立場というのも大変なものだな、なんて、俺は他人事のように思った。

「だが、もう昔の話だろう」

 親父が言った。確かに、それは千二百年前の話だ。額の痣はともかく、石を持って生まれたなんて胡散臭い。何かしらを握って生まれたなんていう話は、過去の英雄やら聖者やらの伝記によく描かれるものだ。もしこれが『赤い石』だったら、『母親の腹の中から血の塊でも持って出てきちまったんじゃねえか』とでも言えたものだが。赤ん坊を海に流したら災害が収まったというのも、信心深くなけりゃあ偶然だろうと言って切り捨てちまうだろう。まさか、アルベルティーニの子孫で、現に神官を続けている人間がそんなことを言えるわけもないだろうが。

「確かに、昔の話だ。しかし、彼らが生まれる四年前から、事実として気象は荒れていた。嵐、高波で街の五分の一が浸水したこともあるし、災害に関連する死者は州都のみで百二名にも及んだ。儀式の後、それらが鎮まったのもまた事実だ。偶然かもしれない。だが、神に仕える一族が、神に関わる伝統を、迷信だと言って絶つことはできない」

「だが、実際のところ海神ピトゥレー様は俺がいらなかったみてえだぞ。俺は人間に拾われて、人間としてピンピン生きてる。流す前に、神様に伺ってみたら良かったんじゃねえのか? 『もういいですよ』って言ったかもしれねえ」

 俺はなぜか口を挟んでいた。他人事に思うのと同時に、少しばかり自分事にも思う。変な感覚だ。実の父親と、生まれる前には仲良く抱き合っていたかもしれない双子の兄弟を目の前にして、いざ湧き上がる感情はどんなものだろう。懐かしさなどない。恋しさもない。ただ、目の前に同じ顔があるってだけだ。それが、無性に気持ち悪い。

「神様は飽きちまってるのかもしれねえぜ。その伝統的儀式は、いつまで続けるんだ? アンドレーア様よ、あんたならどうする? 神の仕え人なんだろ。そろそろご機嫌のほどはいかがですかって訊いてみても良いかもしれねえぞ。聴けるんならな」

「君の怒りは尤もだ」

 神官長が何かを堪らえるように言った。伏せられた瞳に、震える声。こいつは何を我慢してるんだ?

「俺が怒ってる? なんで。俺は別になんにも不幸なことはねえぞ。親父に拾われて、姉貴がいて、仲間がいて、十分幸せにやってるんだから」

 俺を差し置いて苦しんでるのが、なんだか気に食わない。俺は何も悲しんでねえし、恨んでもいねえ。俺を人柱にすることを選んだのはお前じゃねえか。俺はただ、実際的なところを指摘しただけで、それで責めたられたような気になられたんじゃあ、それこそ気分が悪い。だって、俺がいけないみたいじゃねえか。なんで、殺されたはずの俺の方が、こいつを苦しめてるふうになるんだ。

「終わりにしようぜ、この話は。あんたらにとって、俺はもう死んだものなんだからさ。いいじゃねえか、『よく似た他人が来た』って思っておけば。俺だって、あんたらは他人にしか思えねえんだ」

 神官長が急に席を立った。ひどくうつむいて、肩を震えさせて。ああ、なるほど。こいつは俺を他人だとは思えないわけだ。どんな感情で俺を海へやったのか。たぶん、快くそうしたってわけじゃあないんだろう。かと言って俺は同情するような立場じゃあねえ。許すとか許さないとか、そういうものでもない。覚えてねえことについて文句を言わなきゃならねえほど、俺は不幸じゃない。

「……そうだろうとも」

 絞り出すように言って、神官長は部屋から出ていった。またえらく静まり返ってしまった。アンドレーアは、さっきから――俺が質問してからずっと――考え込んでいるふうだ。

「……難しいな」

 親父がため息に混ぜながら言った。何が難しいってんだ?

「俺の親父はあんただぞ」

「……そうか」

 俺は思っているままを伝えた。親父は横目に俺を見ながら、無骨な太い指を組んだ上に黒い髭を乗せて、小さく何度か首を縦に揺らした。考え込んで迷っているときの、親父の癖だった。

 エントランスに戻ったら、ディランが一人だけ残っていた。

「お帰り。他のやつらは客室に案内してもらったよ。詳しい話は明日することになったみたいだが。……何の話だったんだ?」

「なんてことねえよ。このアンドレーア様と俺が双子の兄弟だったってだけだ」

 ディランは気まずそうな顔をして、俺と、後ろの方で相変わらず考え込んでいるらしいアンドレーアを見比べた。

「いや、そいつは……なんてことないのか……?」

「変な気を使うなよ。俺は『神の子』らしいんで、元々この家の子供じゃねえのさ。偶々、この若い神官様と同じ顔で生まれたってだけだよ。なりだけは似てるってな。中身の仕上がりはこの通りだろ」

 違う親に育てられりゃあ、違う性格になるんだろう。ちらと後ろを見れば、アンドレーアが姿勢良く佇んでいる。神官服がえらく様になるものだ。俺が同じものを着たら、裾やらをあちこちに引っ掛けて破いたり汚したりするのが容易に想像できる。

「……親父さん、このことは他のやつらには伝えるんですか?」

「そうさなあ……」

 ディランが訊けば、親父は唸る。別に言っていいんじゃねえか? なんて俺自身は思ったが、この家の慣習に関わるし、たぶん表沙汰にしていることでもないんだろう。あまり言いふらすのも良くはなさそうだ。

「まあ、この顔だ。全員ほとんど察してるだろう。訊かれたら教えてやれ。外に吹聴して回るようなことはするな、って付け加えるのを忘れるな」

「その辺りは弁えてるはずですよ」

 親父の指示にディランは納得したようだった。隊の連中は皆、俺が親父の実子ではないことを知っているし、なんなら海で拾われたことだって知ってる。生きたまま水葬されたみたいな状態だったことも知っている。なぜなら、大体のやつらはそのときの様子を見ていたからだ。直接見ていないのはディランだけだったはずだ。

 結局、その日仕事の話はなしで、俺たちは船旅の疲れを取ることに専念した。

 翌日、大部屋に集められて説明を受けることになった。神官長の姿はなく、アンドレーアが俺たちを呼んだ経緯やらを語った。要約すると、『神話に登場する架空のものだと思われている建造物の、現実に通じそうな具体的な場所やらを記した古い書物が見つかったので解読を試みたものの、行き詰まったので専門家に頼みたい』ということだった。

 案内された蔵書室に入ったとき、俺はその個人の家に置いておくにはあまりにも多すぎる本の数に圧倒され、少し目を回してしまった。

「この部屋にある書物の殆どは、アルベルティーニ家が作成した、ジュール及びクレスについての記録です。家の者以外の方を招くことはないのですが、父の許しを得ていますのでどの書でもお手にとって頂いて結構です。私が見つけられた〈メリウス王の墓神殿〉についての記述は、こちらの方にまとめてあります。まずは確認していただけますか」

 アンドレーアは蔵書室の端に置いてある机を示した。あまり何人も集まれるところでもなさそうなんで、とりあえず親父が代表して行った。えらくとっ散らかった机だ。アンドレーアは几帳面そうな雰囲気のやつだが、案外がさつなのだろうか。ウェリア島にある自分の部屋の机とまるで同じような散らかり具合を見て、なんだか複雑な気分になった。

「一番古いのは、前期リラニア語か。六千年くらい前になるな」

「標準的と言われるリラニア語や、ルドリギア古語であれば、私もある程度は読めるのですが……。混ざり合っていると、なかなか」

「リラニア語自体が中間期の言語ですからね。方言も入っているようだ。しかしうちにはこの辺りが得意なのがいるんで、丁度良かった。おい、レナ。こっちに来い」

 呼ばれる気はしてた。俺は他のやつらを押しのけて、狭い通路を親父たちの方に進んだ。親父は持っていた紙を俺に寄越した。パッと見て、綺麗すぎると思った。

「お前が写したのか? 原本はねえのかよ」

 俺は真新しい紙を机に置いてアンドレーアに訊いた。こいつは良かれと思ったんだろうが、典型的なリラニア語とルドリギア古語の文字に整形されちまってる。この時期の文字ってのは曖昧なんで、その曖昧さを取り除くと意味が変わってくることがある。

「原本……というか、それも写しだと思いますが」

「んなこたあ分かってるよ。六千年前の本なんて石版でしか残らねえんだから。写しの写しのそのまた写しよりは、写しの写しの方がマシだって言ってんだ」

「は、はあ、確かに。ええと……、この本です。私が写したのはこの辺りですが」

 アンドレーアは古い本を山の中から取り出して、中頃を開いて椅子の前に置いた。手に取らず座って読めということだな。俺は椅子を引いて座った。いざ古書と対面。表紙だけは比較的新しいが、中のものはまあ古い古い。これは牛か馬の皮だな。

 まずは、アンドレーアが開いて渡してきたページを読んでみる。『メリウス』、『王』、『神』、『神殿』などといった、見慣れた文字が頻出している。他には『ジュローラ』、『墓』なんてのも出てくる。つなぎ合わせることで『メリウス王の墓神殿』という言葉になる部分も確かにある。だが、どうも気になったのは『海に沈んだ』という部分だった。普通に考えれば、これは『メリウス王の墓神殿』に掛かっていると思われるだろうが、俺はどうもこれが『ジュローラ』に掛かっているような気がしてならなかった。或いは両方だ。他のページに、もう少し明確な記述がないか探してみる。三ページ遡ったところで、『ジュローラは海に沈んだ』という一文を見つけたが、これはメリウスの子供時代にジュローラが津波に襲われたことを言っているのかもしれないと思ったので、もう少し遡った。そこで俺は見つけた。『ジュローラのそばに建てられた〈メリウス王の墓神殿〉は、海に沈んだ』。この『海に沈んだ』は明らかに『メリウス王の墓神殿』に掛かっている。たぶん、この本は時系列に沿って書かれている。つまり、メリウスの没後にジュローラは海に沈んだ――かもしれないわけだ。俺は最初のページに戻って、その先を読む。『エイラの丘は沈まずに残った』らしい。『エイラの丘』っていうのは、ジュローラ北部にあった高地のことだ。つまり、そこ以外は沈んじまって、残ってないってことか?

「どうも、ジュローラは山やら丘やらを残して海の中に行っちまったみたいだな」

「……やはり」

 俺が読み取れたことを最低限の言葉で伝えると、アンドレーアは小さく呟いて別の本を開いて俺に見せてきた。

「『クレスの都は東に移った』」

 アンドレーアが標準リラニア語の一文を読み上げた。俺の顔が自然とにやける。

「親父、当たりだぜこれは。やっぱりジュローラは今のキュアス諸島にあったんだ」

 親父の顔は動かなかったが、後ろの方から他のやつらがざわつくのが聞こえた。

「エイラの丘は、ウェリア島だ。俺はずっとそう考えてきた。もちろん、何の根拠もなくそう考えてきたわけじゃあねえ。が、また一個根拠が増えたわけだな。レナ、後で詳しいことを教えろ」

「おうよ」

 親父の声は、こころなしか得意げな感じだった。そうしたら、アンドレーアが紙束を親父に見せて意気揚々と語りだした。

「ウェリア島がエイラの丘だと仮定できるのなら、概ねの辻褄が合います。皆様をお呼びするに当たって、具体的な位置情報を得られたので……、とお話したかと思いますが――。どうやら、〈メリウス王の墓神殿〉は王宮から南に二十四キロム、エイラの丘は王宮から北北東に百三十二キロム。ウェリア島を基準にすれば、諸島の南端辺りに王宮があっただろうと考えられます」

 一キロムはおよそ〇.六マイルだ。一つの街から発展したクレス王国の都ってのは、まあ恐ろしく広大だったわけだ。小国なら余裕でその領地がすっぽりと入っちまうだろう。

「やっぱりアビリス島なんだな」

「アビリス島?」

 後ろの方で誰かが呟いて、アンドレーアが首を傾げた。親父が髭をいじりながら答える。

「元は名もなき無人島ですよ。我々はそこに〈メリウス王の墓神殿〉の手がかりがあると考え、調べ始めて三十年余り。名無しの島じゃあ不便なんで、仲間内では『アビリス島』と呼んでるんですよ。丁度、キュアス諸島の最南端にある。ウェリアの南に、約百マイル」

「アビリス島……」

 アンドレーアは繰り返して、暫し沈黙した。そうしてから、何か覚悟を決めたみたいな顔で、親父の方に身を乗り出した。おい、神官服の飾りが俺の額に当たったんだが。……気づかねえらしい。

「もし、よろしければ……、私もその島に行ってみたい。同行させていただけませんか」

 思い切ったことを言うもんだ。俺は椅子にもたれて、揺れる神官服の飾りを眺めていた。

「お父上の許可が得られれば、構いませんよ」

 親父は大して考えるような間も置かずに答えた。まあ、未開の島を歩き回れる脚かどうかは不安なところではあるが、あちこち掘り返すと出てくる古い石版の解読要員としては使えるだろうから、俺も反対はしない。

「ありがとうございます!」

 アンドレーアはもう行くのが決まったみたいな様子で目を輝かせる。父親が許せば、って言ってんだろうが。まあ、確かに神官長様の許可を得る方がまだ簡単かもしれない。そうそう危険な場所ってわけでもないし。

 ジュールには二週間滞在予定なんで、その間に更なる資料を探す。あとは、少し観光でもしてみたいところだ。一応は俺の生まれ故郷だって言うんだから、少しくらいならサボって歩いても許してもらえるんじゃないだろうか。

 今日のところはそれぞれ、どんなものがあるのかをざっと見て回るようだが、俺はさっきの前期リラニア語と睨み合っていた。まだ何か引っ張り出せるかもしれない。リラニア語っていうのは、基本的には表語文字と表音文字が混ざった言語だ。厄介なのは表語文字で、ルドリギア古語文字そのままなのかと言えば、そうじゃないものが多い。表音文字にしたって二百近くある。音素も音節もとっちらかっていて、体系として整っていない。使われる文字は時代によっても変わるが、地域によっても変わる。今俺が読まされているのは、正確に言えば『前期インクレスリラニア語・南部方言』ってやつだ。……ああっと、この字はなんて意味だったっけな。見覚えはあるんだが、忘れちまった。家の書写帳のどれかにあったはずなんで、帰ったら照合しよう。ってわけで、俺は気に掛かった文字を手帳に写し取った。

「レナートさん」

「……あ?」

 集中していたんで、声を掛けられて反応するのに一拍二拍遅れた。アンドレーアが俺の手元を興味深そうに覗き込んでいる。

「貴方は、どこで古代言語を学んだのですか? 驚くほど流暢に読んでいるから」

 神官長の息子で、パレス大の出で、英才教育の集大成みたいなやつがそれを言うか? 俺は初等教育も受けてねえっての。まあ、俺が『いらねえ』って言ったから受けてねえんだが。

「お前だって読めるだろ」

「そうですけれど……。私は立場上、幼少期から教え込まれてきましたし。それに、標準的と言われるものでなければ、とてもそんなふうには」

 まあ、そうか。クレスの神官は政治やらも勉強しなきゃならねえし、俺みたいに大方の時間を古代言語に費やすってのは難しかろうな。それで? さて、誰に教わったんだったか。俺にこの古い言語を教え込んだ誰か……、って言ったら、そりゃあ大方親父だろう。……とは思うんだが。いつも不思議なのは、親父は自分で読めるはずのものを、わざわざ俺に読ませる。単に経験を積ませるためにそうしているのかもしれないが。

「……俺はパレス大で考古学を専攻してるからな」

「え、本当ですか? 私も人類学部でしたけれど……、あなたのことは知らなかったな……」

「そりゃそうだろ。嘘なんだからよ」

 本気で信じたらしい。アンドレーアはわずかに眉をひそめた。まったく、気が抜けるほど素直なやつだ。

「しょうもねえこと言うな。すいませんね、そいつはガキの頃の事を少し忘れちまってるんですよ。だが、その時に一生懸命勉強していたんで」

 後ろの本棚の前に立っていたらしい親父が、手元の文章から目を離さずに言えば、アンドレーアの眉は今度は尻下がりになった。

「そうだったのですか……」

 と言って深掘りもしなければ、まずいことを訊いたかもしれないと変な気を使って謝ることもしない。しっかり弁えていることで。実際、謝られても困るんだよな。こちとら気にしてねえんだから。

 四日間蔵書室に引きこもってたんで、気晴らしも兼ねてジュールの観光に出ることになった。案内役はアンドレーアだ。神官長の息子の顔はジュールでは知れてるし、それによく似た面が並んでいたら騒ぎになりそうだったので、俺は日除けのフードを深めに被って、髪も隠した。

 結局、神官長のおっさんはあれ以降姿を見せない。色々忙しいんだろうが、たぶん俺と顔を合わせたくないってのもあるんじゃないかと思う。

 かつてクレス王国の都とされたジュローラは、おおよそ現在のキュアス諸島全域を領地としていたらしい。その名を引き継いだジュールは、ジュローラの比較になどならないほど小さな街だ。とは言っても、アウリーの王都セランもこんなものだ。ジュローラがいかに巨大だったか。そんな都を持っていたクレス王国ってのは、相当でかい国だったんだろう。少なくとも、現在のアウリー王国全土と、海中に沈んでしまった分の面積くらいはその中に含まれていたはずだ。

 ジュローラが海に沈んだという説については、以前から唱えられていたものではある。数千年前に比べて、海面が上昇しているからだ。特に熱帯地域で顕著だと言われる。中央大陸の西側を占めるファーリーン王国は海を挟んで南北に分かれているが、それは海水の流入によって、元は低地だった中央部が湾になったためのようだ。現に、リオス湾の海底には古代都市の跡が残っているという。アウリーより涼しいあの地域でさえそれだけ地形を変えちまうんだから、キュアス諸島のあたりなんて昔とはまるで様相が違うだろう。

 メレー神殿は、ジュールを一望できる高地に建てられている。アルベルティーニの邸宅から少しばかり坂道を登れば、純白の柱と壁がそそり立って、来る者の前に立ちはだかる。真珠にしては鮮やかすぎだし、オパールにしてはやや大人しすぎる光の神殿。実際に何の素材を使っているのかは、見た感じではよく分からない。そこらにあるような岩を組んで光沢剤を塗っただけかもしれない。仮にこの建材が全て貴石の類いだっていうなら、こんな完璧な形で現存しているなんて、あまりにも治安が良すぎる。或いはメレーの加護とやらか。しかし今日の食い扶持もままならないような人間ってのは、どこにだっているだろう。祈り縋ればメレーはなにかしらの酬いを与えてくれるのかもしれないが、この世界で生きるなら、ある程度の物質的恵みは必要だ。俺たちには肉体ってのがあるからな。

 アンドレーアは別だが、俺たちは一般人なんで、神殿内に足を踏み入れることはできない。フードをより引き下ろしながら、神官が見張っている開かれた入り口から中を覗き込めば、虹色の光を反射する外観とはまた異なって、青白い光が透明の床と壁を照らしていた。内側の建材は水晶だろうか。それとも月長石か。いずれも古代から重宝され、何かと愛されてきた鉱物だが、この青白い感じは月長石かもしれない。或いは、それを模したものだろう。眺めていたら一日くらい過ぎてしまいそうだ。

 俺たちも暇を持て余しているわけではないので、さっさと次の見どころまで案内してもらう。馬車に乗り込んで、アルベルティーニ邸を通り過ぎ、丘を下る。さっき見晴らしたジュールの街並みの中に入り込んでいく。

 まずは、例の海神とメリウス王の彫刻が飾られた大噴水広場だ。どうやら、この噴水に使われている水は、地下水路で海から引いてきているらしい。道理で常に新鮮な水なわけだ。溜め込んで使い回した海水では、広場が臭くなる。初めて見たときから気になっていたことを、俺はアンドレーアに訊いてみた。

「なあ、この彫刻ってなんで溶けねえんだ?」

「詳しいことは分かりませんが、エシュナ大橋の建材と同じだろうと言われています」

「へえ、じゃあ古代大戦時代の遺産ってわけか。思ったより古いな」

 失われた古代技術の賜物ってやつだったらしい。こういうのは、それこそエシュナ大橋だとか、リラの塔だとか、パレスの謎遺跡の建材だとか、実用的なものに使われている印象だったが、こういう美術品にも使われたりしていたのか。なら、わりと優雅な時期もあったんだろう。そりゃあ、五千年も休みなく争い続けていたら、今頃人類なんて残ってないさな。

 一つ謎が解決したので、俺は気分良く次の場所に向かった。なんでも、街の至るところに神像があるらしく、観光客はそれらを順に見て回るのが嗜みらしい。ちなみに、それらはかの有名な神像彫刻家ロザリアの作なので、広場の噴水よりもずっと新しい。

 まずは広場から西に少し移動したところにあるキュアストス像だ。元は陽光神だったが、次第に医療神になった、キュアス諸島の名の元になっている神だ。切れ長で理知的な印象の瞳は、エメラルドとアメジストが混ざったような色をしている。『光の神』といえば〈月の神子〉が最高位だが、雷神のリヨンもそうだ。陽光神だったキュアストスも言わずもがな。光の具合によって瞳の色が変わるように、という意匠は、なかなか粋なもんだ。とくに陽光ってのは色の変化が顕著だからな。

 次は、少し北に上がったところにある広場の花壇に座り込んでいるフィオリローザ。十代の少女の姿をした草花を愛でる神の膝の上で、近所で飼われているのか野生なのか知れないウサギとリスが、仲良く野イチゴを食っていた。たぶんローズクオーツの丸い瞳が、丁度くつろぐ小動物らに向いている。いつもこうなのか、偶々なのか、通りすがりの婆さんに訊いてみたら、いつものことだと言うんで、もしかしたらフォリローザはこの二匹を可愛がっているのかもしれない。

 東に少し移動したところに、川があった。流水を遮る土台の上に、蛇みたいにひょろいが絶世の美形に彫られたエクアロイスと、寄り添うエファラディートがいた。エクアロイスは大河の神だが、何度も死んでは蘇る。エファラディートはその姉だか妹だかははっきりしないが、妻でもあって、エクアロイスが死ぬ度に生き返らせようと奔走する。アルビオン神話ではこの二神についての項だけで結構な文量を割いている。『諧謔かいぎゃくかよ』と思わせるような死に方やら蘇らせ方もあるが、たぶん当人たちは至極真面目だったと思う。瞳にはやはり貴石が嵌め込まれていて、エクアロイスはブルートパーズ、エファラディートはガーネットだそうだ。

 また北に向かうとちょっとした高台があって、その上には塔が建っている。そのてっぺんにいるのが、俺も写生画で見知っている雷神像だ。塔に登れば近くで見られるというので、俺は螺旋階段を駆け上った。何にも遮られずに吹いてくる風に煽られながら、俺はリヨンの隣に立った。右手を天に掲げるその姿は巨大だった。なんせ俺より三フィートくらい背が高い。他の神像がわりと人間の等身大で造られていたので、リヨンもそんなものだろうと思っていたから度肝を抜かれてしまった。遅れて他のやつらもやって来て、やはりその大きさに驚いたようだった。塔の上に置くので遠くからでも判るよう大きく造ったのか、原初神だから他より大きくしたのか、作者の意図は不明だ。だが、やはり尋常ではない美貌を彫り出している。どうやったら、こんな美形を想像の世界から連れ出してこれるんだか。ロザリアっていう芸術家は全く異常だ。眼孔に嵌め込まれているのは、中心にブルーダイヤモンドをあしらった黄金。明らかに他より手が込んでいる。

 美しすぎて気持ちが悪いゾッとする、という感覚を、自然の中に覚えることはままある。だが、人の手で創り出されたものに、これほどのおぞましさを感じることはそうない。今にもこちらに振り向いて話しかけてきそうな生々しさと、そんなことは絶対にありえないと突きつけてくる無機物の体。ロザリアは『これらの姿は私の空想で、理想である。私にとっての神々を、私は現したに過ぎない』と言い残した。目には見えない何かが、見えていたという意味なのかもしれない。俺には分からないが、どうであれ、ロザリアや、同年代を生きたエドアルドが並外れた表現者であったことは確かな事実だ。

 そもそも、俺は子供の頃に本土の美術館で目の当たりにしたエドアルド作の『天空の双神』に描かれたリヨンに魅了された。天空神フェムトスの系譜に生まれた原初の双子は、方や風神と呼ばれファーリーンで信仰され、方や雷神と呼ばれアウリーで信仰された。現在のファーリーンにおいては、風神のシルフィードも雷神のリヨンも天空神と融合したようだが、アウリーでは未だリヨンは雷神として在る。エドアルドは『天空の双神』を対称的に描いた。どちらがリヨンで、どちらがシルフィードなのか、それは周囲に描かれた雷光とうねる大気の描写から読み取れるが、それがなければたぶん判らない。だが、明らかに何かが違った。幼かった俺には、その『違い』を言葉にして説明することはできなかったが、たぶん、今でもできないだろう。色合いが違ったか? 表情が違ったか? 纏う布の広がり? 指先の角度? たぶん、どれも同じだった。けれど、俺は風神よりも雷神の方に、明らかに惹かれたのだ。そして、そのときに思った。『俺はきっと、雷神に出会うことができたなら、一目でそうと解るだろう』と。だが、残念ながら俺は神の姿を見る目を持ち合わせていない。俺が古代人か、神官か、占術師かなにかだったら、リヨンと話せたのだろうか。

 俺は純白の雷神像に手を伸ばしていた。翼のようにはためく石の布を巻き付かせた腕に触れてみる。冷たく硬い感触。心中で『リヨン』と呼び掛けるが、空色を湛えた黄金の瞳は、俺を見留めてはくれない。当然だ。俺は滑らかな腕から手を離して、像から離れた。

「お前の雷神好きは誂いにくい」

 俺よりも離れたところから雷神像を眺めていたらしい仲間の方に戻ったら、親父が肩を竦めながら言ってきた。

「分かるぞセルジオ。だが仕方ないさ。レナはリヨンに恋してるんだ」

「何言ってんだ」

 勝手言いやがる。これだけの芸術品を目の当たりにしたら、その世界観に浸っても良いだろ。……なんて言い返してやろうかと思ったが、存外間違ってもいないのかもしれない。

 始まりは確かに憧れだった。今でもその感情は持ち合わせている。だが、いつからか拗らせてしまったようだ。『憧れ』の一言で表すには、余計なものがまとわりついている。たぶん、俺はどうかしてるんだろう。まあ、リヨンくらいの神なら許してくれるはずだ。なんなら、この程度のことには慣れてるかもしれない。

 二週間の滞在期間のうちに、それぞれが必要だと考えた資料を集め、まとめて、いざ出港の時が来た。

 結局、アンドレーアが俺たちに同行したいという希望が通ったのは前日の夜だった。神官長は俺が思っていたよりも慎重だったらしい。たしかに、万が一にもアンドレーアに何かあれば、後継者に困ることになるはずだ。二週間邸宅に滞在して、何人かの使用人と顔見知りにはなったが、アンドレーアの身内は父親だけのようだった。母親らしき人物とも会うことはなかった。

 神官長は港まで見送りについてきた。アンドレーアがいるから当然だろうが、どうも俺の方も気にしているふうだった。何か言いたげな雰囲気でいるくせに、声を掛けてはこない。俺があまり話し掛けられる隙を作ってやらなかったのもあるだろうが、どうしても言いたいことがあるなら言ってくるだろう。別に無理して話し掛けてもらわなくたって良いし、俺から言うこともない。なんなら、俺の方から『あんたは他人だ』って突っぱねちまったわけだし、二週間のうちに会話もしなかったし、そもそも顔も殆ど合わせちゃいねえんだから、今更だ。

 俺たちの船は、隊員二十余りを乗せて余裕がある程度の大きさだ。フォルマやファーリーンでは帆船やガレーが主流だが、アウリーでは魔道動力を用いる。大抵の場合、一応帆は付いているが、基本的には動力が動かなくなったときくらいしか出番はない。

 アンドレーアを加えた俺たちは、ウェリア島に向けてジュールの港を出た。遠ざかる生まれ故郷。その実感などはまるでないが、なぜか、俺はその白い街並みが大気の奥にかすれて消えてしまうまで、目が離せなかった。

 ジュールを発って四日。日も暮れたので錨を下ろし、夕飯も食い終わって、酒好きの酔っぱらい連中が船室で騒いでいるのを聞きながら、俺は星を見ていた。ジュール産の白葡萄酒は、香草の香りが強く、やや辛い。なんだか薬みたいだ。俺はウェリア産の甘くて渋い赤葡萄酒の方が好みだなと、一杯だけ飲んで思った。

 見張りは交代制だが、どうも気が緩む。天候も良いし、風も弱い。相方なんてすっかり寝こけている。食後のほろ酔い具合で、凪の海にゆるく揺られているとどうしたって眠くなる。隣でいびきをかいてるやつがいると尚さら。どうせ何も起こりゃしないと端から思ってるもんだから、俺の意志も長持ちしなかった。

 だが、ふと目が覚めた。妙な焦燥感があった。隣を見れば、相方はやはり寝てる。そいつを放って、俺は嫌な感じの正体を探ろうとした。風は相変わらず弱いし、波は穏やかだ。動力を切った船は振動もしていないし、船室で騒いでいた連中も寝たらしい。静かだ。だってのに、なんでこんなに気持ちが悪いんだ。波が切られる音が微かに聞こえた気がした。高所に上がって周囲を見回してみるが、何もない。そう思ったが、もう一周念入りに確認した。遠くに黒い影が見えた。岩礁か? いや、あんなところにはなかったはずだ。

 新月の夜は星がよく見えるが、星明りは遠いから殆ど役には立たない。だが、闇を塗りつぶす影が、次第に大きくなっている気がした。俺は台を下りて、床で腹を掻いている相方を叩き起こした。

「おい、何かこっちに来る。船だと思うか?」

「ああ……? どれだって?」

 俺は影を指差した。さっきよりもまたデカくなっている。

「船……、だろうな。明かりも点けずに、どうしたんだか。遭難でもしたか。セルジオを呼んでくるから見張ってろ」

「分かった」

 遭難? 動力が壊れたのか。だが、帆があるなら近場の島にいくらでも着けられるだろう。夜が明けたら風を頼りに移動すればいい。そもそも、動力なしにこんなに早々とこちらに接近できるものなのか? 風は横からだし、それもかなり弱い。

 ……いや、おかしい。

「おい! 錨上げて動力入れろ! 不審船接近!」

 親父の指示を待たずに、俺は下のやつらに叫んだ。飛び起きたディランが船倉に向かって、間もなく動力音が船を鳴らした。

「救難信号を示せ」

 親父が拡声器で呼び掛けるが、無反応。かと思いきや、急に明かりが灯った。黒い影でしかなかった船が、爛々とその全体像を示して、もはや忍ぶ必要もないとばかりに低い動力起動音を鳴らし、速度を上げて来る。

「チクショウ! 賊じゃねえか!」

 親父の悪態が拡声器を割らんばかりに響いた。

 ようやく錨が上がって動けるようになる頃には、賊の船は接舷していた。板が渡されて、荒くれ者共が乗り込んでくる。船倉から武器になりそうなものを持って上がってきた連中との殴り合いが始まるが、俺の手には何もない。何かないかと目をあちこち向けていたら、背後から羽交い締めにされた。ぶん殴って逃げようと思ったが、腕が動かせない。なら脚だと思ったが、今踏ん張らねえと抱え上げられちまうと咄嗟に判断した。だが間違いだった。蹴り上げとけば良かった。

 相手は俺よりずっとでかい男で、力があって、俺が踏ん張ってみたところでまるで無意味だった。足のつかない状態で、首に回った腕に呼吸も遮られて、あれよあれよと運ばれる。俺を呼ぶ声が遠ざかる。喉を絞めてくる汗臭え腕に爪を立てながら、俺は意識を飛ばした。

 そう長く気をやっていたわけではないようだが、気づいたら俺の体は縄で巻かれて転がされていた。見上げれば知った船の舷側。あれが見えるってことは、つまり俺は賊の船に連れてこられちまったようだ。向こうではまだガチャガチャやりあってる。連中は概ね学者の集まりだが、学者なりの戦いの術――魔道を扱う腕――を持ってるんで心配はしちゃいねえ。だが、悪いことに俺が人質になっちまった。

 なんだってこう、俺は攫われちまうんだか。十年前も確か……、そうだ。こんな感じの、薄汚い船の甲板に、縛られて転がされてたんだ。いつ怪我をしたんだったか。攫われるときだったか。それともいざ攫われて、暴れてうるさいからってんで切られたんだったか。

 同じような状況になっても思い出せない。ガキだったし、よほど怖かったんだろうな。俺は今でも忘れたままでいたいようだ。

 ……そうだよ。……忘れているんだよな?

 不意に頭の中を過ぎったのは、至極可笑しな疑問だった。返答は、なぜか俺の思考よりも早かった。

 ――ああ、『正しい記憶』を忘れたんだ。

 ……正しい記憶? おい、違う記憶があるってのか?

 俺の意思から離れたところで、俺の頭の中でなにかが会話する。

 ……馬鹿言うな。前にもこんなことが……

「……あったか……? こんなこと――」

 視界に灰色の砂塵が舞った。脳が痙攣する。ざらつく視界の中、一瞬捉えたのは大きな人影。幻覚? 違う。いや、そうだ。焼き付いちまったんだ。掴まえられた腕が折れそうだ。違う。これは幻覚なんだ。俺の視界を覆う男の影。耳奥に響いて頭を殴りつけるのは、子供が泣き叫ぶ声。誰の声だ? なんて馬鹿かよ。知ってるくせに。

「あ……、ああ……。やめろ……」

 子供の声と、俺の口から出る声が、言葉が重なる。

「やめろ、違う! 嘘だ! こんなの違う、やめてくれ!」

 ――兄貴。

 そうだ。俺は『あのとき』も叫んで、懇願したんだ。こんなふうに。

 私は今こそ、あなた方を隔てる荒れた泥濘ぬかるみに横たわり、この身を以て橋となろう。

 願わくば、新たな橋があなた方の血で染まることがなきよう。

 私は狭間に生まれし者。

 故に、あなた方の手をとり導こう。

 どうか、私を愛してくれるのならば、同じように互いを愛してはくれまいか。

 そうして、私を平和の礎としてくれるのならば、神より賜いしこの命、あなた方へ歓び捧げる。

   『アルビオンの書』‐後世記‐ メリウス王の章 より

初出:

NEXT