文芸ファンタジー×ヒューマンドラマ

約束の還る海
第六章

 揺れている。ほんの、僅かに。人の声が遠くから……、近づいてくる。言葉が明瞭になっていく。

 だるい。重い瞼を押し上げる。組み合わされた、色褪せた木材。見知った気がする、天井。

「起きたか、レナート。大した怪我はしていないみたいだったが、大丈夫か?」

 間近で聞こえた声の方へ視界を移す。そこにいたのは……。巻いた茶髪、オリーブ色の目をした男――。

「水、飲むか?」

 近づけられる、焼けただれて、溶け崩れていったはずの、顔――。

「――う……、ああッ! 嫌だ、寄るな!」

「ど、どうした……」

「あ……、兄貴……」

 緑の目が開く。零れ落ちそうなくらいに。蒼白になっていく、覚えているよりも、いくらか華奢な顔。

 ……違う……、こいつは……。

「……あ」

 部屋から駆け出ていった……。

 ……ここは? 船だ……。俺は、助かったのか? いや、夢を見ていた? じゃあ、さっきのやつは……。

「レナート」

 黒い髭を蓄えた男は、記憶の中にある姿よりも、随分と老けていた。

 ……そうか。あれから、十年経ったんだっけ。

「……親父……?」

「ああ、そうだ」

「……俺、さっき……、ディランのこと、間違えて……」

「分かってる。しゃあないさ。なんとなく似てるからな」

「あいつに、大丈夫だって……」

「心配すんな。伝えておく」

 十年。俺は、その間どうしていた? 眠っていたのか?

 いや、全部覚えてる。けど、現実感がない。全部、何もかも、これまでの全てが夢だったみたいだ。

 今も、まだ。

「なあ、あの後……、あいつはどうなった?」

「あいつ? 誰のことだ」

「兄、……エロイ」

 あいつを、なんて呼べばいいのか分からない。どう呼ぼうとしても、収まりが悪い気がする。

「お前を見つけたときには、死んでいた。正直、あいつかどうかの判断は、その場で付けられなかった。目が覚めたお前の様子で、やっぱりそうか、と納得したが」

 死んだのか。そうだよな。

 助け出されたときのことは、覚えていない。意識がなかった。島に戻ったあたりから、思い出せる。男ってだけで怖くて、でも周りは男ばっかりで、大騒ぎした。病院に突っ込まれて、体の治療を受けて――。

 でも、精神もどうかしちまっていた。そのまま、丸一年。殆ど病室から出られなかった。もう終わったはずの出来事を夢の世界で繰り返しては、それがまた現実に起こったんじゃないかと、毎日のように錯乱した。そして夢だったと気づけば、今度は絶望して打ちひしがれ、泣いたり怒ったり。

 俺は、何に怒っていたんだろう。兄貴か、俺自身か。その両方か?

 いや。きっと、この世の全てだった。

「遺体は置いてきた。図体がでかくて、引き上げられなかったからな。それに、あいつだっていう確証も、なかった。どいつもこいつも、生きてるって希望を持ちたがったんだ。お前を襲ったのはあいつじゃないってことも、信じたかった。俺もそうだ。だが、……特に、ディランはな」

「『海賊に襲われた』なんて周りに説明したのは、なんでだ。実際のところ、腹なんか切られちゃいなかったんだ。そりゃあ、痕なんか残ってるはずねえよな」

「お前が負った傷があれだろう。正直に話せば、お前の居心地が良くなくなると思った」

「はは、確かにそうだろうな」

 笑ってしまう。なにも面白いことなんかねえってのに。

 親父が俺を気遣って周りについた嘘を、俺は本当だと思い込んだわけだ。どうして、そんなに徹底して思い込めたんだか。あいつがいる本当の記憶を消し去って、嘘の情報から都合のいい記憶を作り出した、ってことだ。

 まったく、呆れるほど器用な頭をしてやがる。

 それで、今の俺は何なんだ? 嘘の記憶で生きてきた俺は、それ以前の俺と同じ人間か?

 ……なんて、馬鹿らしい。が、実際、胸を張って『そう』と言えるだろうか。自分に問う。肯定と否定が、同じ具合で返ってくる。

 俺は誰なんだ? レナートだ。少なくとも、外身はそうだ。じゃあ、中は? 俺は今も昔も『レナート』かもしれない。だが、一貫したそいつではない。

 ……ああ、なんで俺は、自分のことを『そいつ』なんて、他人みたいに言うんだろう。

「もう少しでウェリアだ。休んでな」

 親父も部屋から出ていった。一人になる。考え事をするにはうってつけ、ってやつだ。今は、あんまり、そういうことにかまけたい気分じゃねえのに。

 むしろ、誰かそばにいて、ベラベラ喋ってくれりゃあいい。

 ……一人は、嫌だ。

 久しぶりのウェリア。なんて、たかが一ヶ月程度離れていただけのくせに、『十年ぶりだな』だとか片隅で思っちまった。この島の様子が変わっていくのを、俺は見てきた。覚えてる。なのに、その実感があまりにも薄い。夢で見て、知ってる光景。そんな具合だ。

 アンドレーアが興味深げに島を眺めている。結局、船の中であいつとは禄に話さなかった。あいつのこれまでの人生ってのは、どんなものだったんだろう。自分の記憶を思い出してから、興味が湧いてきた。とは言え、話を聞く気になるわけでもない。

 ところで、俺らの船を襲った海賊はどうなったのか、ってのは訊いてみた。官憲の巡回がいい具合に通り掛かったらしい。俺を乗せたまま逃げようとしたようだが、国が所有する船が積んでる動力には敵わなかったとかで。

 運が良いんだか、悪いんだか。

 港で俺たちを待っていたのは、背の高い女。マリアだって分かるのに、なんでだか、急に印象が変わったような気になっちまう。一月前と、何ら変わっちゃいないはずなのに。分かってるんだ。分かっているのに、感覚が追いついてこない。

 マリアは、先に降りたアンドレーアに声を掛けようとして、やめた。俺だと思ったらしい。顔は似てるから仕方ない。雰囲気が違うから、すぐに気づいたんだろう。それでもって、どういうわけなのかを親父に問い詰めている。事の経緯を説明されて、えらく驚いているんだろうなって感じだ。

 その様子を、甲板の手摺りに凭れ掛かりながら見下ろしていた。マリアの目がこっちを向いた。なんとなく、手を振ってみる。マリアは笑って見せてきた。

 だが、たぶん俺の様子が変だったんだろう。荷下ろしに行き来する親父をまた引き止めて、話しかけている。親父は一言で伝えたようだった。きっと、『昔のことを思い出した』って具合に。

 マリアが固まる。それから、またこっちを見た。なんとなく、ぎこちない感じで。

 俺はさっきと同じように手を振って、船を降りた。

「よお、久しぶり」

 自然と自分の口から出た言葉に、自分で驚く。なにが『久しぶり』だよ。たかが一ヶ月ぶりじゃねえか。

「あ……、うん、お帰りなさい」

 ほら、困ってるじゃねえか。

 しかしまあ、随分と落ち着いたもんだ。昔は顔の原型が消えるくらいの厚化粧だったってのに。歩き方やら、仕草やら、話し方やら……。

「綺麗になったじゃん。昔はそういうもんだと思ってたけど、この方が自然だよな。今思うと、あの頃は無理してたんだなって感じがする」

「……そう、おかげさまでね。ありがとう」

 だから、困らせるだけなんだから、黙ってろよ。

 俺の思いを無視して、口から言葉が出ていく。それにまた、俺はいちいち突っ込んで、独りで馬鹿みてえ。

 まるで、誰かに身体を乗っ取られたような感覚。でも、言ってることは俺の意見に反しているわけじゃない。ただ、どうしてそれを言っちまうのかが分からない。言わなくていいのに。黙ってりゃおかしなことにはならねえのに。

 口をついて出る言葉は、いかにも俺が十年間どこかをほっつき歩いていたような具合で、俺が築いてきた十年間をどこかにやられちまったみたいだ。

 なのに、それが自然なことのような気もして――。

 ああ、全く。俺は自分が分からねえ。

 いつものように〈星の砂〉に集まって、今後の予定について話し合う。アンドレーアが加わって、親父の見立てが具体性を帯びたから、いつもより真面目な雰囲気で、いつもより長引いた。

 そういや、前にアンドレーアから『なんでそんなに古代語に詳しいのか』って訊かれたな。誰に教わったのか、あのときは曖昧だったが。

「なあ、親父。昔あいつに貰った古代語の帳面って、どこにいった?」

「見るのか」

「あれば役に立つだろ」

「俺の部屋にある。お前が持っておく気があるなら返す」

 なるほどな。隠しておいてくれたわけだ。あの雑多な本の山に紛れていたら、ちょっと片付けに入ったくらいじゃ分からねえだろう。

 ああ、それと。ディランに怯えちまったんだ。ちゃんと謝ってなかった。いつもなら話し合いの場では同席するのに、今日は離れたところにいるあたり、やっぱり俺に気を遣ってるんだろう。或いは、本人が気にしているのかもしれない。どっちにしろ、一言声を掛けておくくらいは、した方がいいだろう。

「おい、ディラン」

「どうした?」

 いつも通りだ。こいつも、兄貴と同い年になったんだな。そう思うと、あいつは随分若く死んじまったと感じる。俺もあと十年したら死んでるってことだ。

「さっきは悪かったなと思ってさ」

「ああ、その事か。気にしてないよ。それより、お前のほうが平気か?」

 俺の心配。やっぱり兄弟か。

 ディランが今、死んじまった兄貴に対してどんな思いを抱いているのかは分からない。けど、俺の覚えている、知っている限りでは、兄貴を尊敬して憧れていたはずだ。たぶん、昔の俺と同じように。

「いや、まあ、船の中で目が覚めた瞬間はな。でももう平気だぞ。具合悪そうに見えるか?」

 平気そうにしか見えねえだろ。そのつもりで訊いたのに、ディランは慎重だった。

「今のところは、そうだな。大丈夫そうに見えるよ。俺の目には」

 なにか、見透かされているような気がした。平気なはずなんだ。現に、そこまでおかしな言動はしていないはずだ。それこそ、十年前に病院に突っ込まれていたときみたいな、明らかにどうかしちまった感じではない。そりゃ、少し混乱している印象はあるかもしれないが。概ね、今までと変わりなく見えるはずだ。

 なのに、どこかでやっぱり大丈夫じゃねえって騒いでいる自分がいる――、ような気がしている。ずっと、心臓の周りを多足虫が這い回っているような、詰まっているような、気持ち悪さがある。でも、こいつを取り除いたら、それこそ自分が狂っちまいそうな予感がする。どうにもできない。

 そうさ、平気じゃない。具合悪いんだ。それが言えない。具合悪そうにも振る舞えない。

「心配性だな。なんともねえし、なんともならねえよ」

 ほら。『本当は調子悪い』って言えねえ。『正直、無理してる』って言えねえ。

 この口と身体は、さも俺がなんともないように振る舞うのが上手くて、俺が言いたいことを言わせちゃくれねえし、辛気臭く悄気しょげかえったようにもさせてくれない。いつもみたいに、あっけらかんとして、陽気なように振る舞わせる。

 自分の言動を制御できない。

 けど、この方が良いのかもしれない。怖いだの嫌だの、消えたい死にたい殺したいなんて騒ぎ始めたら、それこそ周りも俺も困っちまう。

 話し合いも腹ごしらえも終わって、自分の部屋に向かった。なんとなく、部屋の中にあるものを片っ端から手にとって、眺めた。

 やっぱり、違和感がある。

 棚に並んだ帳面を開いては、それを書いたときのことを想起する。借りてきた本の内容を写したこともあれば、その日その時に思いついたことを乱雑に書き留めたこともある。覚えている。なのに、俺が書いたと思えない。俺の字だ。確かめるために、同じ文章を適当な場所に書いてみる。同じ字だ。間違いなく、俺が書いた。どうして、そう思えないんだ。

 気持ちが悪い。

 俺は幽霊なのかもしれない。まだ生きてるって勘違いしていて、実際は妄想の世界の中にいるんじゃないだろうか。

 ああ、だとしたら、いつ死んだんだろう。ついこの間だろうか。それとも十二のとき? いや、親父に拾われた時点で死んでいたのかもしれない。

 そうだ。だって、ありえないだろう。ジュールからキュアス諸島まで、何百マイルあるか。木の小舟で、そんな距離を流れてこれるもんか。そうとも、本当は死んでいたんだ。だから、ガキの頃に『幽霊』なんて言われたんだ。あいつらには真実が見えていたんだ。

 ……馬鹿らしい。変なことばかり考える。

 帳面を放り出して、そのままベッドに倒れ込んだ。北側の小窓から、琥珀色の夕日が細く入り込んでくる。腿に当たって、温い。

 疲れた。このまま眠っちまおう。また、夢を見るだろうか。昔に何度も繰り返した酷い悪夢でなければ、何でもいい。

 ぬるま湯を頭から被り続けて、立ち尽くす。ただ、身体を清めようと思った。そうしてやってきた浴室で、知らぬ間に俺の手に握られていたのは、ナイフだった。

 マリアが仕事で使っている、肉を切るためのもの。

 いつ、持ってきた? 記憶にない。これをどうしようと思って、こんなところに持ってきたんだろうか。

 なんて思いながらも、俺は理由を知っている。

 切り落とすために、持ってきたんだ。何を? 分かってるさ、嫌で仕方がないんだろう?

 でもさ、そんなものを切るのに使ったら、このナイフはもう料理づくりに使えねえぞ。よく手入れされた、特注品のナイフなのに。あいつになんて謝るつもりなんだ?

 やまない思考。俺の意識から分離した身体の動作。脚の間にぶら下がっているものに、刃が当たる。いや、当てた。

 素晴らしい切れ味だ。容易に、薄皮に線が入る。血液がにじみ出る。頭上から降り注ぐ温水に混ざって、赤色が流れていく。薄皮を切ったくらいじゃあ、痛かない。が、もっと深く刃を押し込んだら、どうなるだろう。切り落とすより前に、俺の意識が飛ぶだろうか。

 スッパリ切り落とせないで、半端に繋がったまま病院に運ばれたら? 切れたところを繋ぎ合わせて、元に戻されるのか? それとも、潔く切り落としてくれるか?

 どっちにしろ、俺はきっと意識を保っていられない。『こうしてくれ』と頼むことはできないだろう。医者次第ってことだ。大博打だな。

 薄皮一枚。それ以上刃が進まない。

 おい、ビビってんのかよ。

「レナー。着替え持っていかなかったでしょう。置いておくからね」

 やべえ、マリアだ。こんなことしてるってバレたら、なんて思われるだろう。頼むから、早いところどこかに行ってくれ。

 なんて懇願も虚しいものだ。曇ガラスの扉一枚、向こう側に透けているだろう俺の影は、あいつにどう見えたんだろうか。俺のことを、いつまでもガキだと思っている、無遠慮なやつ。いや、そもそも、いつも素っ裸で家の中をうろついているのは俺なんだから、遠慮がどうとか言える口じゃあねえか。

「レナ、大丈夫?」

 向かい合った鏡に、扉から覗くマリアの顔が映った。

 うわ……、なんつう不気味な表情をしてるんだよ、俺。まるで愛想のない、肌色を塗り忘れた粘土の人形みたいだ。

 褐色の目が、大きくなる。曇ガラスの扉が、壊れるほどの勢いで開いた。

「何してるの!」

 そういや、こいつの大声って、あんまり聞いたことねえな。なんて、どうでもいいことを思う。

 相変わらず、俺の感情は俺の遠くにある。自分が何を考えているのか、いまいちピンとこない。

「……気持ち悪いから」

 やけに乾いた俺の口が、そう言った。気持ち悪いから、なくしたいんだ、と。

 重たげなため息。マリアも呆れたろうな。俺も呆れてる。何してるんだろう。

「……渡しなさい」

 素直に従った自分自身を、意外に思った。

 まあ、こいつの目の前で続行するのも酷い話だ。賢明な判断だと評してやろう。

「……あんたが、こんなことする必要ないでしょう」

 受け取ったナイフを背後に隠して、諭すように言ってくる。そうだな、俺もまあ、そう思ってる。

「気持ち悪いんだよ。自分が雄だって思うと、反吐が出そうになる。人だって所詮動物だ。理性なんてものがなければ、そこらじゅうで発情しておっぱじめやがる。元々、そういう生き物だからな。そんなこと考えちゃいませんよ、みたいな態度してたって、考えてんだよ。本当、気持ち悪い生き物だ」

 淀みなく俺の口から発せられるのは、性的欲求に対する嫌悪。それを抱く生き物への嫌悪。そして、それを隠す手段を持ちながらも、その下ではやはり抱いているに違いない『人間』を嫌悪する言葉だった。

 思い出したんだ。俺は入院している間、大人になりたくねえって喚いていた。一年の間に声が低くなってきて、ああ嫌だ嫌だと騒いでいた。雄としての生殖機能が働き始めることを、受け入れられなかった。どうにかして止めてくれと、医者に懇願し続けたが、それはできないと断られ続けた。

 理解ができなかった。マリアは良くて、俺はダメな理由が分からなかった。『大人になったときに、きっと後悔する』と懇切丁寧に諭されながら、『その大人になりたくねえって言ってんだよ』と食い下がった。

 結局、どれだけグズってもダメだった。自分の身体が雄として完成してしまったのを知った或る日、俺は何かを自分の中から消去した。

 俺の身体に存在する不快なものを、消せなかった。代わりに、中に存在する不快なものを殺すことに、成功した。俺は楽になった。退院の日は間もなくやってきた。

 なのに、殺したはずのものが、蘇りかけている。また、狂い始めている。

 あの頃とは違う。俺は自分の行動を、まだ抑えられている。だが、完全にタガが外れたら――。俺は、自力でやれるだろう。あの頃とは、違うから。

「レナート、……病院、行く?」

 薄皮切ったくらい、病院に行くほどのことじゃない。精神状態だ。自分でも、まともだとは思っていない。

「自分が何しでかすか、分からねえ。……自由じゃない方が良いんだろうな」

 俺はそう言った。本心なのか、上辺なのか、気遣いなのか、逃げなのか――。やっぱり、分からなかった。

 十年前に世話になった医者ってのは、何人かいた。いちいち顔や名前を覚える余裕はなかったが。

 あの頃の俺は、毎日泣き喚いて怒り狂って、物に当たり散らしていた。時にはベッドに縛り付けてでもいなきゃならねえような、どうしようもないガキだった。

 そんなガキに懲りもせず、淡々と付き合ってくれたのは、若い医者だったと思う。女だった。とにかく男が駄目だったから。

 病院の診察室で再会したのは、その医者だった。さすがに、あれだけ世話になった相手だ。俺も覚えていたらしい。いや、思い出した、のか。

 いくら久々の再会だって言っても、せいぜい医者と患者の関係だ。喜ぶようなことでもない。ただ、どうせ世話になるなら、事情をよく知っている医者のほうが気楽かもしれない。そういう意味では、喜ばしいと言えなくもなかった。

 付添いのマリアが、こいつから見た俺の様子を話す。大体の経緯も含めて。今の俺は、あまり自分のことを自発的に話せる気がしなかった。第一、どこから話せばいいのかも分からない。

「突然に記憶を思い出したから、混乱しているんでしょう。当時、癒やしきれずに仕舞い込んでしまった感情がありましたし」

「なあ先生。俺、ナイフ取ってきたときのこと、覚えてねえんだけど」

 なんとなく、言っておいた方がいい気がしたから、伝えた。すると、医者の眉根が、微妙に寄った。

「覚えていない?」

「そう。あのこと思い出してから、ずっと夢見てるみたいで、朦朧としてるっていうか。今もそうなんだけどさ。眠りながら取ってきちまったのかな。『身体洗ってサッパリしよう』と思って、部屋を出たところまでは覚えてんだよ。でも、ハッと気づいたら、そのときにはナイフ片手にぬるま湯浴びてたんだ。うっかり寝ちまって、その間にやらかしたのかと思ってさ。夢遊病っていうの?」

「……夢遊病……」

 医者はなにか深刻そうなことを知ったみたいに呟いた。それから、マリアに質問する。

「言動に一貫性はありますか? 人が変わったようになったりだとか、そういったことは?」

 マリアは、たぶん俺のこれまでの様子を思い出して、考えて、答えた。

「ナイフを持って浴室にいたことに驚かされたくらいで、それ以外に気になったことは……。私の見ている範囲では……、ない、です。むしろ、あまりにもいつも通りで、却って戸惑うくらいで」

「なんでこんなことしてんだ? とか、言ってんだ? とは思ってるぞ。体を乗っ取られたみたいな感じなんだよ。俺の真似するのが巧いから、傍から見てたら分からねえだろうな」

 はあ? またかよ。何言ってんだよ俺。気持ち悪いな。いよいよ頭おかしいやつじゃねえか。いや、だからここに来たんだが。

 昔のことを思えば、よほど話は通じてるだろう。メチャクチャなことを言ってはいるが、意思の疎通は取れている。

 とは言え。俺はだいぶおかしなことを言ったわけだが、医者は全く驚いた様子もなければ、俺の混乱を伝染させられるようなこともなかった。むしろ、何かの手応えみたいなものを感じたような雰囲気だった。

「他の誰かを知覚している? それはあなたの中にいるの?」

 そんなことを訊いてくるから、今度は医者に対して『何言ってんだ』と思った。他の、誰か?

「他の誰か、って。俺だろ。幽霊にでも取り憑かれてるってか?」

「あなたの体を乗っ取って、行動する誰か。その人と、会話はしますか?」

「話になんてならねえよ。後ろの方で文句言ってるのは分かるけど」

「後ろとは?」

 誘導されている。自分でも気づいちゃいるが、意識しないようにしているところへ。これを知った周りは、俺を完全に異常者と見なすだろう。まだ、紛れていたい。隠しておきたい。そのために、自分自身でも知覚したくない。

 でも、それじゃあきっと駄目なんだろう。俺は自分の知らぬ間に、何事かをやらかす。誰かを傷つけるかもしれない。それを回避したいなら、自分を把握しなくてはならない。

「後ろ、っていうか……、それは……。……まあ、うん……。……頭の中、かな」

「それじゃあ、今私と話しているのは、体を乗っ取る人?」

「……分かんねえ。ていうか、どっちが本当の俺なのかな、って……、思う」

「どちらもあなたかもしれない」

 医者はなんとなく、控えめな口調で言った。俺の顔色を伺うみたいに、こっちを見ている。

「今、私の言葉を受けて、不快に感じましたか?」

「……いや、なんていうか……。ずっと、仕舞い込んでた本当の記憶と、俺が作った嘘の記憶があるじゃん。だから思うんだよな。今の俺って、どっちの延長線上にいるんだろう、って。十年ぶりに目が覚めた本物なのか、嘘の俺なのか」

「『嘘の君』はいないと思うよ。だって、あなたはそれで十年も生きてきたんだから。人生の半分。どっちも本物じゃないの?」

「そしたら、本物が二人もいるじゃん」

「いけない?」

「おかしいだろ」

「他人と比べておかしいと感じるかどうかより、君にとってその状態が苦しいかどうか、じゃない?」

 医者の口調が崩れてきた。昔みたいな感じだ。そうだった、この人、こういう感じだった。

「……気持ち悪い感じはする。現実感がないから。あと、知らない間に何かやらかしそうだから、怖い」

「なるほどね」

「はあ……。俺、十年前より厄介なことになってねえか。あの頃は――、いや、あの頃も大概だったが」

 医者は椅子を回して、俺の方に体を向けた。

「君があの頃より辛いのなら、あの頃よりも厄介なのかもしれないね。そういう状態になった原因だけど、私の持っている知識の中に、思い当たるものはある。『こんな大変な事があって、苦しいから忘れたい』ってね。本当にどうしようもないときは、人間って忘れられるんだよ。頭がいい生き物だから、もっと高度なこともできる。『これは自分に起きたことじゃない』って、記憶とか、感情とか、自分を苦しめるものを自分自身から切り離す。そうしたら他人事になるでしょ」

「無責任だな」

「正当な自己防衛反応だよ。じゃあ、訊いてみよう。例えば、十年前に体験したことが、君じゃない誰か親しい人に起こったことだったとする。その人が、『あれは自分に起きたことじゃない』と思うことで、なんとか苦しみを和らげている。そんな状態のその人に、君は『無責任だ、自分事だって自覚しろ』って言える?」

 そんなふうに訊かれちゃあな。酷えじゃねえか。俺には言えねえさ。そんな権利もない。

 でも、自分には平気で言える。何でだろう。

 他人に言われるよりも先に、自分で言っておいて、なあなあにしたいのかもしれない。分かってるから、言ってくれるなよ、て具合に。『無責任だ』って誰かに責められるより、その方がマシな気がするから。

 先手の逃げだ。だが、そもそもそんな逃げを打つ必要が、俺にあるんだろうか。誰が、俺を『無責任だ』と責めるんだろう。俺の周りの人間に、そんなやつがいるんだろうか。

 きっと、無意味な自虐をしているんだ。

 結局、医者は俺の様子を詳しく診たいらしいし、俺も自分が何をやらかすんだろうっていう不安があったから、ちょうど空いていた一人用の病室で暫く過ごしてみることになった。

 刃物は当然だが、鋭利なもの、紐になりそうなもの、とにかく自分を殺す道具になりそうなものは徹底して取り上げられた。部屋の外から鍵が掛けられ、行動範囲はベッドから半径約三.五歩分程度の面積に限定される。

 不自由なものだ。それを求めて来たってのに、いざとなると不満を感じる。暇つぶしにできることなんてのは、本を読むくらい。取り上げられたものの中にはペンも含まれているから、書き物もできない。いちいち貸してくれと頼むのも面倒。

 窓は内開きで、外側が格子柵で覆われている。いくらか洒落てはいるが、柵であることには違いない。なんだか、囚人にでもなったような気分だ。

 とにかく暇だった。見舞いに来るやつはいるが、帰っちまえば独りだし、自分の世界へ入っていくには都合が良すぎる環境だ。

 溶けた顔を思い浮かべて、過ごしている。

 月光なんて淡いもんで、森の中は暗かった。あんなもの、実際には大して見えていなかったんじゃないかと思う。だが、なぜかはっきりと思い出せる。

 見たくなかったのに。見えなかったはずなのに。見えてしまった。あれは、殆ど俺の想像だったのかもしれない。

 いずれにせよ、昔はあの光景が浮かぶたびに動揺して、騒いでいた。あのときの俺には、あの光景は疑いようもなく現実だった。

 それが、今は窓枠に肘をついて、格子越しに海を眺めながら、なんとなく思い浮かべている。『前に見た、恐怖物の文学作品の挿絵にでもあったかな』なんて具合で。『あれはちょっと、印象強かったな』なんて。

 医者も言っていたが、すっかり他人事だ。現実に、この身を痛めつけられながら聞いた唸り声も、覚えている。半分は空想だったかもしれないが、日の下で、明るみの中であいつが溶けていく様は、確かにこの目に映っていた。

 十年経てば、薄れる程度の記憶だったのだろうか。それとも、『忘れる』なんて薄情な真似をしたから、思い出しても尚遠いのだろうか。

 体の感覚は、忘れたのか?

 なんて、興味半分で探って後悔した。一瞬蘇った不快感に、全身が総毛立つ。

 ああ……、なんか、嫌だな。やっぱり、自分事なんだ。そんなこと、端から知ってるはずなのに。なんだって……。

 チクショウ、本当に余計なことをした。体の感覚なんて思い出そうとするなよ。

 ありゃあ、痛かった――。

 やめろって。

 全身裂かれるかと思った――。

 やめろ。

 内臓突き破って、口から出てくるんじゃないかって――。

「やめろって言ってんだろ馬鹿野郎!」

 いかれてるだろ。自分の顔面殴るとか。口の中に、鉄を齧ったみたいな味が広がっていく。頬が切れた。本当に、大馬鹿野郎だ。

「……レナート……?」

「は、なに……?」

 なんだ? いつの間に、来てたんだ……?

「あ……、リオン……。ええと……、久しぶり、だな……?」

 どの辺りから見ていたんだろう。こいつのことだから、入る前に声は掛けていたはずだ。気づかなかった。嫌だな、一人で叫んで顔殴ってるところなんざ。

 こいつには、知られたくない。俺の今の状態も、過去のことも、色々と。

「口、切れてるけど。大丈夫?」

「ん、ああ……、平気。大したことねえ」

「少し、いてもいい?」

「おう」

 リオンはソファーの向きを変えようとしたみたいだが、この部屋のものは固定されているから動かせない。早々にそれに気づいたようで、さっさと座った。

「そういや、お前手術したって聞いたけど。具合は?」

「ああ、いいよ」

 相変わらずだ。素っ気ない印象の返事。けれど、別に嫌な気にはならない。口調に感情が乗りにくい性質なんだろう。

 独りでなくなったせいだろうか。気持ちが落ち着いて、世界が近くなるような感じがする。暫らくぶりに帰ってこられたかもしれない。

「明後日には退院する予定。そうしたら、マリアさんの店の手伝いをさせてもらおうかなって」

「そりゃいいや。人手が欲しいって言ってたことあるからな。でも、あんまり無理するなよ」

「分かってる。それより、君がここにいるって聞いたから、どうしたのかと思って」

 わざわざ様子を見に来る程度には、俺のことを気に掛けている、ということか。

 なんだ、気分がいい。知られたくないだとか思ってるくせに。

「昔のこと、思い出したんだ。想像してたより、ずっとキツかった。……から、ちょっとな。気が滅入っちまったんだ」

「そうなんだ」

 やっぱり返ってくるのは無味っぽい返事。同情しているのかどうかも分からん。けど、そのくらいが丁度いい。気を遣われていると感じると、どうも俺はやたらと元気に振る舞いたがる。今はそういう無理を自分に強いる気力がない。ないが、いざとなったらやっちまうんだろうから。

 リオンとの間に生まれる沈黙は、苦ではない。なんなら、ずっと浸っていたっていいような気さえする。頭の中に居座る不快なものが――たぶん、こいつがいなくなればすぐに戻ってくるんだろうけれど――消える。

「……前にさ、君が言ってくれたんだけど、覚えてるかな。自分のこと、話したくなったら話せ、って」

「ああ、言った」

「今話してもいいかな。具合が悪いなら後にする」

「いや、聞く。暇でしょうがねえんだ。余計な考え事ばっかしちまうからさ」

 ベッドから脚を下ろす。リオンの横顔に、俺は向く。

 俺の気持ちの余裕だとか、そんなものはどうでもいい。今話したいってんなら、今聞くさ。それに、俺の意識が、俺の中にあるうちがいい。

 壁を見つめたままで、リオンは切り出し方を模索するように黙り込む。人と目を合わせるのが苦手らしいことには、だいぶ前から気づいていた。俺の目を見て話せなんて言う気はない。どこを見ていたっていい。『レナートに話す』と決めた瞬間の思いさえあれば、俺は十分だ。

 こいつが口にしようとしている経緯が、決して安易なものでないことくらいは理解しているつもりだ。それでも、話そうとしている。俺に。それはつまり、俺がお前にとって、それだけの信用に値する人間になれたってことだろ?

 薄い唇が、小さく開く。高くもなく、低くもない声が、静かな抑揚で言葉を紡ぐのを待ち、そして耳を傾けた。

「……僕はさ、たぶん生まれつきなんだろうけど、体に男と女の要素がある。でも、どっちも不完全。見ればきっと、誰でも分かる。変な体だって」

 そうか、と頷く。

 実を言えば、俺はこいつを病院に運んだ後、公立図書館に行った。生物学とか医学の本を探って、有性生殖動物の多様な奇形の一種に、そういうものがあると知った。人間も例に漏れはしない。先天的な形成異常が、出生の時点で明確な場合もある。成長期以降に明らかになる場合もある。

 リオンの場合は、前者だったということなんだろう。

 俺はリオンの身体をまじまじと観察したことがあるわけじゃない。海から引き上げて、濡れた衣服を脱がせた時点で、こいつの身体は無遠慮に探り観ていいものではないと思った。だから、他のやつらの手伝いを拒否して、最低限のことだけをして、早々に服を着せた。

 だから、まあ。そこまでは知っている。こいつもたぶん、俺が知っていることを知っている。だとしても、改めて言葉にするのには勇気が必要だったろうと思う。

 フォルマでは、そういう子供が生まれると、すぐに殺される地域もあるということも、調べている中で知った。

「気づいたときには、独りだった。捨てられたんだと思う。子供だった僕を保護してくれたのは、ズフールの総督だ。『ザヒル』って名前をくれた。男の格好でも、女の格好でも、好きにしていいと言ってくれた。彼は、多くの孤児を邸宅に住まわせて、教育を施して、育てていた。僕と同じように保護された子どもたちがたくさんいたから、僕は男に混ざってみることもあれば、女に混ざってみることもあった。……いや、ただその空間にいただけだね。交流の輪の中に入る気にはなれなかった。居心地が悪くて。僕は自分が、彼らとも、彼女らとも違うって分かっていたから。誰かから、『お前は違う』と言われるのが怖かったのかもしれない。いつも、どこにいても付きまとうんだ。『ここに居ていいんだろうか』、って」

 あの国では、男と女ってのは逐一分けられる。普段の生活――食事なんかもそうらしいが、行っていい場所だとか、居ていい時間帯だとか。そんなことまで細かく決まっていて、不用意に他人同士の男女が遭遇しない仕組みになっている。さすがに、貧民街だとかの法律が機能していないところでは、その限りではないんだろうが。

 アウリーで育った俺としては、聞いただけで窮屈だと思う。だが、その仕組みだって、あの国なりに模索して見つけた風紀の保ち方であることには違いない。変な決まりだとか言うつもりはない。ただ、俺はその中では生きられない。

 例えば、十二の頃の事件直後、フォルマに行って、そういう環境でしか過ごすことが許されなかったら、俺は確実に死んでいる。

 リオンだって――『ザヒル』だと本人の口から改めて聞けたんだから、そう呼んだっていいんだろうが、嫌がられない限り俺は『リオン』と呼んでいたい――、そんな環境では相当生き辛かったろう。具体的に何が不都合だったかまでは考えられなくとも、ただ漠然と『大変だったろうな』と想像するくらいは容易にできた。

「人って、案外他人を放っておけないみたいだ。良くも悪くも。子供の頃、わりと気にかけてくれるやつがいたんだ。男だった。僕はあまり、自分から話しに行く子供じゃなかったし、そもそも一人でいる方が気楽で、好きだった。でも、一向に集団に混ざろうとしない僕は、色々言われたよ。影でも、面と向かっても。身体のことを公言しているわけではなかったけれど、僕が男女それぞれの場に日毎入れ替わりでいたことは、知られていたから。それは、あの国ではおかしなことだ。ありえない。そいつだけが庇ってくれた。『どこに居ればいいか分からない』と言えば、『俺と居ればいい』と言ってくれた。それで、なんだか気が楽になったんだ。だから、自分の意志で初めて、自分の身体についてそいつに話した。『お前と話すのが楽しい。悩んでいるなら話は聞くけど、俺は別にお前の身体と話したいわけじゃない』。そう言われた。今でもはっきり覚えている。だから、僕は男の方で生きていこうと思ったんだ。味方がいるから。……でも、やっぱり駄目だったね。段々、皆大人になっていくでしょ。僕はなれない。一人だけ置いていかれる。声も、これ以上低くはならない。努力はしたけど、どうにもならなかった。そうやって男になろうと藻掻いているうちに、この前みたいな出血が起こるようになった。君はもう、何のことか分かってるだろうから、説明はしないけど。真っ当に機能して、そうなってるわけじゃないんだ。ただ、時々、忘れた頃に酷く痛みながら血が出るだけ。子供が作れるわけでもない。望んでいないし、それは構わないんだけど。……たぶん、その頃からだな。それまで僕を庇ってくれていたあいつが、段々そっけなくなってきて。終いには一番に、率先して僕を中傷する人間に変わった」

 信頼していた人間に裏切られるってのは、しんどいよな。たぶん、俺も分かるんじゃないかな。少しだけ。

 ……いや、どうなんだろう。

 あれは裏切りだったんだろうか。子供の俺にとってはそうだった。でも、今になってみると、あいつを責めていいのか分からない。あの状況で、生物としての本能に抗う理性を保てるものなのか。

 きっと、無理なんだろうな。だって、あいつが無理だったんだから。

 もし、俺があの時。あんな子供じゃなくて、今くらいに身体も成長していて、ものも考えられるようだったら。あいつがあんな様になって襲いかかってきても、穏便に受け容れられたのかも知れない。苦しみに同情して、憐れんで。焼け溶けていく苦痛を思えば、きっと俺が被った、あの程度の痛みなんて、大したことないと思えただろう。

 或いは、『殺してくれ』という願いを、聞き入れることもできたかもしれない。いや、できた。あいつをあいつとして死なせてやることを、選択できた。

 第一、俺はあいつが好きだった。男として、憧れていた。あんなふうになりたかった。もしかしたら、性的に惹かれていたところが、あったのかもしれない。ガキの俺には分からなかったが、今思うと、そんな気がしないでもないんだ。今更、確かめようはないが。

 『分かる』なんて、簡単に言えるものじゃない。俺は黙って、ちゃんと聞いていることを示すために頷くくらいしかできないんだ。余計な言葉は、挟めない。

 俺は、リオンを裏切りたくない。こいつを傷つけた人間と、同じにはなりたくない。

 けど、絶対を保証できるだろうか。俺の人間的部分は、そう思っていても、いざそれが失われるようなことがあったら――。

 分からない。絶対に裏切りたくない。けど、『絶対』を証せない。

「それから、別所に匿われるようになった。男女の要素を持っている僕には、居られる場所がなかった。体調も、あまり良くなかったし。なんの役に立つわけでもないくせに、存在だけやたらと主張したがる女の臓器も、邪魔だった。こいつさえなければ、って思っていた。だから、医者にも、スレイマン様にも、ずっと勧められてたんだ。取ってしまおうって。そうしたら、体調だって良くなるし、フォルマの社会で生きていくことも、幾らか容易になるだろう、って。男としてね。僕は……、ずっと承諾できなかった。自分でも邪魔だと思っているのに、どうして頷けないのか、分からなかった。腹を捌かれるのが怖いんだろう。そう理由付けはしてみたけれど。ずっと……、それだけじゃない気がしていた」

 リオンは黙った。まだ続きはあるが、少し言葉をまとめたいといった様子だったから、俺も特に口を出さずに待った。

 腹を切って、中身を取り出す。そんなこと、医療技術が比較的発達しているアウリーでだって、容易なことではない。フォルマなら尚更、死ぬ確率は段違いだろう。

 そうであっても、こいつを匿ってくれる程度には大切にしてくれる存在から勧められるほどには、深刻な状態だったということか。生まれ持った、身体的特徴のために。フォルマの社会的な仕組みも、理由の多くを占めてはいただろうが。

 いずれにせよ、こいつは、ありのままの肉体では、生きていけなかった。

「僕はたぶん、男として生きていける自信がなかったんだ。散々言われてきた言葉がある。『男の成り損ないで、女の成り損ない』。紛れもない罵倒だったけれど、でも、それがよかったんだ。どちらでもない姿形が。女の成り損ないの部分を取り去ったら、ただの男の成り損ないだ。男になるわけじゃないけれど、……近づいてしまう感じがした。その後、男らしさを求められるようになるのも、怖かった。できる気がしなかったから。かと言って、女になりたいわけでもない。女らしく振る舞える気もしない。つまり僕は、……どちらにも、なりたくなかったんだ」

 今、『羨ましい』なんて思いを湧かせた自分が嫌になった。こいつが苦しんできた話を聞きながら、なんだって俺は『男じゃないもの』でいられるこいつが、羨ましくて仕方がないんだ。

 分かってるんだ。俺は紛れもない男だ。外身も、中身も。分かるさ。近くでマリアを見てきた。中身に外身が伴わない苦しみってのは、どんなものなのか。隠れながら泣いているあいつの姿を、ほんのガキの頃に垣間見て、ガキながらに想像したさ。

 俺は自分についてだって、よくよく考えたんだ。男を寄せ付けなくなって、大人になりたくねえ、その象徴を取り去ってくれと騒いでいたときだって、俺の意識は確かに男だと理解していた。だから、医者が『将来後悔するから』と承諾しなかったのも、尤もだって、分かっていたんだ。

 それこそが、嫌だった。俺は、身体がどうとか以前に、自分の『男だ』っていう意識を消し去りたかった。

 だから、リオンが羨ましい。その意識を持っていないこいつが、羨ましくて仕方がない。分かってんだよ、そのために苦労してきたんだろうってことくらい。だから絶対にこいつの前で口に出したりはしない。

 けど、俺は……、お前が羨ましくて、しょうがねえよ。

「僕じゃなくなる気がしたんだ。それなら、生きていたって僕の人生じゃない。そう思った。だから、死ぬのならそれでもいいって、思ったんだ。もう、次はないって迫られたとき、とうとう逃げ出した。僕のままで死ぬことを選んだ。何百フィートも下の海に飛び込んだんだ。生き延びられるはずはなくて、まして、こんなところまで流れて来られるはずもなかった。なのに、君たちと出会ってしまった。そのせいで、僕は……、生きるのが楽しいと思った。僕が、なにも取り繕わずに振る舞っても、君たちは否定しない。僕で居てもいいのなら、生きていたいと思った。それでも、身体が変わったら気持ちも引きずられるんじゃないかと思うと、やっぱり怖かったんだ。僕は、曖昧な人間だから。この曖昧な意識は、少なからずこの身体に依存するんじゃないか、って。……たぶん、そういう部分はあると思うんだ。だって、僕はずっとこの身体で生きてきた。この身体だったから、僕の人生は……、言ってしまえば、『普通』じゃなかった。嫌な思いも、たくさんした。でも、この身体によって与えられたこれまでの経験の結果が、今の僕だ。それを否定したくはない。だから、もしかしたら、この先僕の心持ちは変わるかもしれない。でも、変わったら変わったで、それも僕なんだ、って。納得できた。マリアさんのおかげなんだ、ようやく決心できたのは。……強い人だよね」

「……ああ、あいつは強いよ」

 マリアは姉貴。けど、たぶんどこかで母親みたいに感じてる。母親ってのが実際にはどんなものか、俺は知らねえけど、そんな気がするんだ。十五も歳が離れているせいかもしれない。

 あいつは時々『私は親にはなれないからね』なんて笑って言うけど。俺にとってあいつは姉貴で、たぶん、母親でもある。

「……ごめん、長いこと話したな。顔色、少し良くないね。帰るよ。……聞いてくれて、ありがとう」

「いや、こっちこそ。ありがとうな、話してくれて。距離が縮まった気がするぜ」

「ああ」

 少しだけ、リオンが笑った。

 初めてかもしれない。こいつの笑顔は、なんて綺麗なんだ。

 リオンは自分の部屋に帰っていった。また、そのうち見舞いに来ると言って。

 帰り際に見せてきた微笑が、ずっと俺の気持ちを惹いたまま、離してくれない。

 自分が気持ち悪くて、吐きそうだった。

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