ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
手紙

 昼過ぎに目が覚めた。昨晩から今朝までの余韻が抜けない頭で、窓から射し込む陽光に照らされる。

 ふと、散らかった机の上に、見慣れない青色があることに気がついた。目を凝らしてみたが、寝起きの焦点は合いにくい。諦めてベッドから下りた。

 積み重なった本の上に乗っているのは封筒だった。覚えがない。宛名は俺の名前。裏返したら、『テオドーロ・アルベルティーニ』の名前があった。

 俺はなんとなく反射的に、元あったところに封筒を戻した。なんでこんなものがあるんだ。いや、きっと昨日親父が置いていったんだろう。

 親父はなにも言わなかった。開けなくても良いだろうか……。

 いや、俺はどうしてこんなにあの人からの手紙を恐れてるんだろう。驚いたのもある。だが、俺は明らかに恐れていた。鼓動が速まって頭がクラつく。

 もう一度伸ばした手が震えていた。青い封筒を暫く眺める。細く整った文字で書かれた、俺と、クレスの神官長の名前を、裏返したり戻したりしながら見つめていた。

 深呼吸を三回くらいしてから、机の引き出しからナイフを取り出して、封を切ってみた。中を覗けば、几帳面に重ねて折りたたまれた紙が、ぎっしりと、もうこれ以上は入れられないってくらいに詰まっている。

 上質な紙の便箋を取り出す。二つ折りの束を開いて一番最初にあったのは、前置きらしき短文だった。

−−−−−−−−−−

 勇気がない上、口下手なために、面と向かって君と話すことができなかったのが悔やまれてならない。

 紙を三枚も無駄にしてしまった。上手く言葉にならない部分もあるだろうが、もう書き直すことはやめにする。

 この手紙は、読まずに捨ててしまっても構わない。私がこれから書き記していこうと思っている事柄が、君にとって必要なものなのかどうか、私には判断がつかない。君にはこれから語ることを知る義務はない。だが、権利はある。だから、私はこの手紙を君に送る。

 次に続く便箋から、本題に入る。この前置きを被せたまま折りたたんでしまってもいいし、捲ってもいい。君の自由だ。

追記

 当時のことを回想し、つい自分の思いなどをつらつらと書いてしまった。言い訳がましく感じられてしまうかもしれない。もしそのように思わせてしまったら、申し訳ない。

−−−−−−−−−−

 いかにも公的な文書を書き慣れているふうな、整った文字の羅列。個人から個人へと宛てられたものであることを、忘れさせるほどだった。質の良い活字を使った印刷物にも見紛える。

 俺は不思議と、便箋を捲ることをためらわなかった。綺麗すぎる文字のせいで、『手紙』という認識がほとんど抜けてしまったのかもしれないし、単純に興味を持ったからかもしれない。

 いや、たぶん、その両方だった。

−−−−−−−−−−

 これから語るのは、君の母のことだ。彼女の名はマリアという。この名の由来を、君はもちろん知っていることだろう。メリウス王の母、メーリア。つまり、私が仕える賢神メレーの名が転じたものだ。

 私は彼女の幼い頃からを知っていたし、彼女も私の幼い頃からを知っていた。マリアはその名に恥じぬ賢い女性だった。そして意志の強い人間だった。

 私はアルベルティーニ家の一人息子で、跡継ぎだった。マリアは別段良い家柄の娘ではなかったが、その優れた人間性は私の父母も祖父母も知っていたし、家の者は誰も私達が結ばれることに反対はしなかった。

 マリアが妊娠したのは、結婚から十年が経った頃だった。後継者を強く望まれる家庭であるから、相応の圧力があった。だが、断じて主張しておくが、これほど時間がかかってしまったのは、あくまで私の問題だ。

 男児であれ女児であれ、生まれてくる子が次の後継者となることには変わらない。無事に生まれてきてくれることだけを祈っていればよかった。仮に双児であれば過酷な使命に従わなければならないが、その心配はしていなかった。先も触れたが、妻が妊娠するまでに十年も掛かってしまったのは私に問題があったためだ。私の子を成す能力が非常に弱かった。だから、只でさえ稀な双児が、私達のもとに授けられるなどとは夢にも思わなかった。

 しかし、神とは無情なものである。私は今も尚、そのように考える。神に仕える人間の長ともあろう者がこのような言葉を吐露するなど、到底あるべき姿でないことは理解している。だが、所詮私は凡庸な人間にすぎないのだ。神の言葉など聴こえない。「何故」と問うても、それに応える神の言葉を受け取るすべを持っていない。

 妻の胎内にいるのが双子だと判って間もなく、私たちは全てを捨てて逃げることを選んだ。

 いや、「選ぼうとした」という言葉が正しかろうか。

 新月の夜に、私は大学時代に知り合った友人の船を呼んでいた。彼には詳しいことを話さなかったが、彼も私に詳しいことを聞こうとはしなかった。手紙で約束をとりつけ、浜までの遠い道程を、妻の重い腹を支えながら急いだ。名も身分もいらない。私には妻と、その中にいる子供たちの方がよほど大切に思えた。世間知らずの男が、どうやって妻子を養っていけるのか、住む場所も、行く宛もない。ただ幾ばくかの金だけを懐に詰めて、海星の下で待っているはずの親友の船を目指した。とにかく、まずはアルベルティーニから逃げることが重要だった。

 だが、季節外れの雷光が、通り過ぎようとした避雷塔の頂に立つ雷神像に降り立ったとき、妻の足が止まった。夜中のうちに船に乗らねばならない。私は妻を急かしたが、彼女はその場に立ち尽くして動こうとしなかった。

 やがて、マリアは言った。「帰りましょう」と。つい今しがたまで、私とともに必死になってアルベルティーニから逃げていたというのに。何故と問う焦りきった私とは対照的に、落ち着き払った様子で、ただ「帰りましょう」と繰り返すのだ。再びの雷光に照らし出された彼女の顔を見たとき、私は自分自身がその雷に打たれたのかと思った。迷いも不安も消え去った、毅然とした相貌が、そこにはあった。或いは、私には聴こえない神の声を、彼女はそのとき聴いたのやもしれなかった。

 しかしながら、私は逃避することを諦めきれなかった。急げば間に合う。なんとか彼女を説得しようとした。だが、彼女は折れなかった。「大丈夫だから、帰りましょう」と言って、私は彼女に宥められるばかりで、どんな言葉で訴えても、感情も露わに縋りついても、彼女を船へと連れて行くことはできなかった。

 夜が明ける頃になって、私はようやく諦めた。もう、船も待っていない。夜明けまで待つなと、友には伝えてあった。逃亡に失敗した際、彼にまで追求が及ぶことを避けたかったからだ。私は家に帰るしかなかった。

 アルベルティーニから逃げることができないのなら、私は汚泥に額を擦り付けてでも、双児を生かすことを周囲に懇願しようと考えた。

 なんと古く、くだらない慣習だろう。災いが訪れる根拠は、人柱を捧げることの正当性は。そもそも、何故アルベルティーニの一族のみがそのような犠牲を払わされ続けなければならないのか。その名を戴くためか。神官の長を務めるためか。しかしその生命を失うのは、何時なんときであっても、息吹いて間もない嬰児みどりごだ。産声を上げた瞬間に、死を迫られる。そのような無情を、慈悲深きメレーが本当に求めているのなら、クレスの民を護る海神が本当に求めているのなら、神々など存在するはずがない。かれらが存在するのなら、かれらが持ち得るはずの慈愛はどこにあるというのか。

 私は今や、メレーに仕える神官の長だ。だが、この二十年余りの間、神など存在しないと信じて生きてきた。口先ばかりでそれらしく神を語り、星の並びに適当な意味を宛てる。政治は政治学の知識に基づいて行う。そこに神秘的な神の啓示などない。少なくとも、私はそのようにはしてこなかった。それでも人々は生きていける。貧富の差はある。改善せねばならない問題は無数にある。しかし、その解決のための言葉を神が授けてくれることはない。何故なら、そのような慈悲深き神など存在しないのだから。

 話が逸れてしまった。申し訳ない。戻そう。

 結論から言ってしまえば、私の懇願が周囲に届くことはなかった。当時の神官長であった父の前で両膝を突いたとき、彼は私に「情けない真似をするな」と言い、頬を張り飛ばした。その時ようやく、本当に思い知った。私にできることは何もないのだと。

 その後の失意に沈んだ私に、マリアは一つの案を呈してきた。それにはいよいよ気が違えそうになった。「私は先に生まれた子と一緒に海へ行きます。あなたはもう一人の子と、生きてください」。

 我が子のみならず、妻までもを見送らねばならないのか。とても耐えられそうにない。しかし、子供をたった一人暗い海に流すことを思うと、妻の考えに同意したがる自分もいた。

 いっそ、四人で海へと行くのが最も幸せなのではないかと思った。だが、アルベルティーニの血を絶やすわけにはいかないという義務感が、私を生に留まらせた。なにより、もう一人の子の人生までをも奪うことになる。ならばせめて、二人の分もその子を幸せにしてやることが私の責任だ。

 だが、今になって思う。私はアンドレーアに負担ばかりを強いてしまっていたのではないかと。仕事の忙しさにかまけて、あの子と向き合う時間も少なかったように思う。勉学で優秀な成績を修めて、善行で学友や教師陣から好い評価を貰い、嬉々として報告してきた幼い頃のあの子の姿を思い出す。私はもっと、手放しであの子を称賛するべきだった。面とあの子に向き合うべきだった。申し訳なく思う。

 出産の日はやってきた。逃亡を図った夜以降、まるで神憑りにでもなったように沈着としていたマリアは、そのときになって叫びだした。「産みたくない。私から出ないで。このまま皆で死なせて」と。それは人としての、母としての本心だったに違いない。

 こんなにもむごいことがあるだろうか。今でもあの絶叫を思い出す。私はなにもできなかった。彼女に掛ける言葉も見つからなかった。ただ純粋に、出産という闘いを応援することもできない。殺すための子を産まねばならない婦人に対し、一体どんな慰めの言葉があっただろうか。自分の出生を呪った。私がこんな家に生まれなければ、親子四人、平凡な幸福を享受できたのではないかと。後にも先にも、あのときほど苦しかった瞬間はない。

 そして、君が生まれた。親である私たちよりも先に、その場に立ち会っていた上位の神官たちが君を抱き、祝詞を上げる。明日の晩には死なねばならない我が子との時間を奪われることに、私は激高した。だが、彼らはまるで私など相手にはしなかった。

 アンドレーアが生まれて、ようやく君はマリアの胸に返された。気を失うように眠りに落ちた彼女のまなじりから零れた雫は哀しいものだった。彼女の心境を想像することなど、到底できはしなかったし、今でもそうだ。

 翌朝目覚めたマリアは、君たち二人を晩まで離さなかった。これから死にゆく君と、これから別れるアンドレーアとの時間をひと時も無駄にはしたくないという思いが伝わってきた。このときばかりは、神官たちも私たち親子四人に残されたわずかばかりの時間を尊重してくれた。

 静かで、哀しく、幸福な時間だった。永遠に続けばよいと思う傍らで、私自身もう既に覚悟も定まっていたように思う。否、哀しみや悔しさなどといった感情で、この貴重な時間を無為にしたくはないという気持ちが働いたのかもしれない。東の空に満月が昇ってくるまで、私たちはまるで明日もその先も、この穏やかな一日が続いていくかのように、他愛のないことを話し、互いを労い、我が子らの愛らしさについて語って過ごした。

 ついにその時はやってきた。満月が天頂に昇る頃、私たちは静かな浜辺へとやってきた。私はアンドレーアを抱き、マリアは君を抱いていた。見届ける神官は七人だった。木の小舟に花を敷き詰め、眠る君はその中に横たえられた。手押しながら海水の中へと浸っていく妻の後ろ姿を、私は砂浜から見守るだけだった。

 そのとき、私は気づいた。隣に立っていた当時の神官長――君たちの祖父に当たる人物だが、彼の瞳に涙が滲んでいたことに。彼もまた、己の立場と闘っていたのだと、私はようやく理解した。かと言って、そのことで私自身の哀しみが軽くなるわけでもなかったのだが。

 マリアの胸のあたりまでが海に沈んだ頃だったろうか。彼女の姿は突然消えた。足場が消えたのか、波に拐われてしまったのか……。いずれにせよ、その日は大潮で、波の高い日だった。

 私は思わず駆け出していた。まだ間に合う。今なら二人を取り戻せる。しかし、高い波は私を押し返し、先へ進ませてはくれなかった。アンドレーアが泣き出して、ようやく私は彼の足が冷たい水に触れてしまっていたことに気がついた。遠く離れていく小さな舟と、海の中に消えてしまった妻の面影を、高波に倒されそうになりながらも、そこから動けぬままに見つめることしかできなかった。

 君が生きていたと知ったとき、私はマリアが君を護ってくれたに違いないと思った。だが、それと同時に、私が君に対して犯した不条理の重さは、到底顔向けできるものではないとも感じた。私は、自分が君の視界に入らないことが君のためになると己に言い聞かせ、そのようにして、本当のところでは逃げていたに過ぎない。

 君にとって母のような人、或いは君が母と慕う人はいるかもしれない。だが、どうか君を産んだ母がいたことも知っておいてほしい。彼女は子供たちを愛していた。

 そして最後に一つだけ、私が君に関して願うことが許されるのなら、どうか幸福であってほしい。

 ここまで読んでくれてありがとう。

テオドーロ・アルベルティーニ   

−−−−−−−−−−

 本気で望んでいなかったのなら、本気で抗ってみりゃよかったじゃねえか。

 俺は昨日、親父の前でそう言った。だがどうだ? あの人は十分に本気だったらしい。どうしたって、それが通用しなかっただけで。

 自分でも不思議なくらいに、感情は動かなかった。戸惑いすぎていたのかもしれない。ここに書いてあることは全て、嘘偽りのない真実なんだろう。あの人の気持ちも含めて。

 いよいよ、思いのぶつける先が消えた気がした。不運を誰かのせいにしたかった。俺が悪いことをしたわけじゃないって思うために。けど、結局誰のせいにもできない。

 なにがいけなかったんだろう。どうして俺はこうなってしまったんだろう。俺の生き方が下手だったんだろうか。

 誰も、俺を責めやしない。ただ俺だけが、俺を責めている。ずっと、俺がそれに気づかないでいるうちから。

初出:

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