ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
第七章

 いずれその時がやってくることは、互いに分かっていた。

 想いを共有するほどに進行していく変異。分かっている。だが、初めから壊れているかれに、たとえ淡やかであれ湧き上がり続ける欲求を止められるはずがない。

 或いは、こちらがかれを突き放すことができればよかったのやもしれない。

 かれは拘束された。元来我々に自由意志など存在しないものであるはずだから、その扱いが非道であるかどうかの議論など、起こしてみようとしたところで土台無謀なのだ。

 実験と銘打った拷問。最終的に頭蓋より取り出された脳髄は分解され、基本型との相違点を調べられた。扁桃体の肥大、及びそれに関連するであろう大脳辺縁系の奇形が認められた。

 かれの脳は、サンプルとして保存液に浸され、研究所の奥深くに、かれ以前に発見された変異体の脳らとともに格納された。

 試験運用に足るデータが集まったとし、研究所は全個体に対する一斉調査を行った。

 結果、五十六名が要観察対象として登記された。無論、当人らに通知されることはなかった。

 そして、司令外行動の目立つ十三の個体が、研究所に連行されていった。そうして、二度とそこから出てくることはなかった。

 もし、もう一つの人類の中に生まれ変われたときには、もっと多くの想いを知りたい。願わくば、あなたと共に。

 脳髄以外の部位が破棄される直前に、かれはそう言った。

 果たして、なにが違ったというのか。かれが持ち生まれたものを、この身も持ち生まれたというのに。

 個の意識は、どこにある。あの溶液の中で、あなたは生きているのか。

 生まれ変わりを期待できるほど、新生人類のような幻想主義に没入しきることはできない。

 私は、あなたと共に消えたかった。

     *

 十日も病室に閉じこもっていれば考え事が捗って、楽しくもない思い出に浸ってうんざりとしてくる。医者は毎日様子を見に来て会話はするが、話すことが増えるわけでもない。行動制限があれば安心ではあるが、あれ以降記憶が抜けることもなかったし、むしろ狭い場所ですることもなく過ごしているせいで、気が滅入ってしまった。

 リオンが訪ねてきてから、俺は自分の体の主導権を握る感覚を掴まえられるようになった。起きてる時間の半分は俺でいられた。もう半分は、俺じゃないような気がした。

 とりあえず三週は病院にいてみたが、やっぱり閉じこもってるのは性に合わねえと思ったので、退院したいって医者に伝えた。そうしたら構わないって言うので、俺はその日のうちに荷物をまとめて、翌朝にはさっさと外に出た。

 外の空気ってのは、やっぱりいいと思う。窓を開けりゃあ空気の入れ替えくらいできたが、いかんせん柵があるから、どうもすっきりしきらない。部屋からは海が見えたが、いつも出歩く通りから聴く潮騒は病室からよりよっぽど近い。迎えに出てきたマリアと他愛もないことを言い合いながら歩いた。途中、マリアは市場に寄っていくっていうんで、別れて一人で家に帰った。

 三週ぶりに帰宅した俺は、リオンとアンドレーアに出迎えられた。親父は部屋に籠もって何かやってるらしい。リオンは相変わらず、大して愛想良くもなく、戻ってきた俺に声を掛けてきた。アンドレーアも控えめな挨拶をしてきたが、えらく気を遣われている感じがした。こいつはディランの家に泊まっているらしいが、昼間はこっちに来たりもしてるようだ。

 食堂の掃除をしていた二人は、俺が適当に座ってぼんやりしてる間、互いに『あれはやったか』とか『そっちを頼む』とか言い合ってる。俺がいない間にまあまあ仲よくなったようだ。その様子を見て、俺はなんだかもやついた。いいじゃねえか、歳も近いんだし、真面目者同士なら気も合うだろ。だってのに、どうにも気に食わない。嫉妬してるんだろうなってのは、自分でも分かる。どっちに? どっちもか? 分からねえ。食堂の掃除なら俺の方が慣れてるし、入院なんかしなけりゃ俺が教えてやったのに。そうしたら、今頃俺はこんな隅っこの方で突っ伏してなんかいねえで、非力なこいつら――アンドレーアはどうだか知らねえけど、俺よりは体力覚束ないほうじゃねえかと思うんだよな――の分の力仕事だってやってたんだろう。俺だけ除け者みてえだ。そう思うんなら今からでも混ざっていけばいいじゃねえか。俺はそういうの、苦手じゃねえだろ。……そのはずなのに、できない。

「すみません、台を拭かせてもらいたいので」

「……ああ」

 アンドレーアに言われて、俺はテーブルから顔を上げた。庶民の服を着たこいつを見ると、本当に俺と兄弟なんだと思い知らされる心地がする。それでも馴染んでる口調は違うし、きっと雰囲気だって相当違う。こいつの方が髪の毛艶もよけりゃあ肌だって白いし、仕草やら歩き方にだって品がある。リオンと並んでると、俺なんかよりよっぽど釣り合いが取れてる気がする。こいつら二人の方が、仲良くなれるんじゃねえか? 俺なんかいなくていい。

「具合はどうですか?」

「……いくらかマシかな」

 たぶん本気で俺を心配して訊いてきたんだろうってのは分かる。こいつがクソ真面目でクソお人好しな性格だってことは、大して関わったこともねえのに、なんでだか確信めいた印象として、初めっから俺に刻み込まれてるような気がした。

 全く、おかしな感覚だ。俺はこいつのことなんか、なにも知らねえはずなのに。なあ、お前だってそうだよな? なんて心中で問いかけて、またこいつを分かった気になっている自分に辟易とする。

「……お前、次の調査のとき、行くんだよな」

「ええ、そのように許可を頂きましたから」

「足場悪いから気をつけろよ。虫とかヒルとか、かなりいるし」

「ヒルですか……」

 気づくとくっついてるんだよな、あいつら。こいつ、ヒルとか実物で見たことあるんだろうか。ミミズくらいならあるかな。どっちにしろ、ああいう原始的な形状の生き物ってのに愛らしさとかを覚える質ではなさそうだ。俺もそうだ。でっかいヒルが脚にへばりついてたときは泣いたっけ。ありゃガキの頃だったが、今でもたぶん騒いじまう。

「なあ、リオンはどうする?」

「……なにが?」

「次、一緒に来るか?」

 訊いてみたら、リオンは箒の柄に顎を乗せて、少し考える様子を見せた。

「……僕は体力ないし、行ったら迷惑になるよ」

「迷惑とか、そういうのはいい。お前がキツくなけりゃ、一回行ってみてもいいんじゃねえかと思ってさ。動くのしんどかったら、野営所で休んでりゃいい。まあ、そうすると暇かもしれねえけど……。どっちにしろヒルには気をつけたほうがいい。あいつらどこにでも湧くから」

「……ヒルはべつに、平気だけど」

 意外すぎた。ゾッとした顔してるのが俺の隣にもう一人いる。

「向こうだと、瀉血とかに使うから。医者が飼ってたりするよ」

 ああ……、そういえばそんな話も聞いたことあったっけな。腫れ物とかに集らせるんだとか。想像しただけでゾッとするが、まあ、理に適ってるところはあるのかもしれない。

「邪魔でもいいなら、行こうかな。綺麗な場所だって聞いたし」

「外から見てる分にはいい景観だよ。一旦中に入ったら雑草雑木、泥岩小石が邪魔でしょうがねえ。まあ、手つかずの島だからな」

 俺が愚痴ったら、アンドレーアがさも興味深げな感じで言う。

「不思議ですよね。離島とは言え、船での往来は十分にできるのに、人が住んでいた形跡がずっとないなんて」

「テーテスの灰が積もりやすいってのはあるだろうがな。それだけじゃねえだろうよ。ああ、そうだ。『墓守の盾』ってのがあるんだった。あれ、お前が近づいても反応すんのかな」

「墓守の盾?」

 あれ? 俺、なんでこんな話始めちまったんだ? 嫌だ。誰かこの口塞いでくれ、言いたくないこと言っちまう。

「青い光線を出すんだよ。それに当たると、じわじわと体を焼かれていく呪いに掛かる」

 なんで俺は笑ってんだ? 『面白えだろ?』みてえな顔してるのが自分でも分かる。なんにも面白くねえ。気色悪い。頭いかれちまってる。

「私も……、ということは、他にも誰か反応した人がいるんですか?」

 ああ、もうやめてくれ。

「俺。それで昔、仲間一人殺しちまった」

 アンドレーアが息を詰めた。その後ろの方から来る、リオンの不審げな視線。消えたい。殺してほしい。

「はは……」

 俺の口から乾いた笑いが出てきた。自分がどんな感情で笑ってんのか分からねえ。かと思ったら、今度は涙が出てくる。

「なんでこんな事言っちまったんだろ。やっぱ、おかしくなっちまってんな」

 こいつは情緒がどうかしてる。ボロボロ涙こぼしながら、口はへらへらしてるんだ。『こいつ』なんて他人かよ。俺だろうがって何度自分に言い聞かせても、そう思えない。

「レナート」

 リオンが近づいてくる。よせよ、こっちに来るな。今の俺はとんでもなくみっともない。こんな無様さを見せたくねえ。

 滲んだ目を見られたくない。俺は顔を背けようとした。なのに、リオンが両手で頭掴んでくるから、できなかった。

「君が抱えてるもの、話していくらかでも軽くなるのなら、いつでもいい。寄越して」

「……は?」

 リオンはそれだけ言って手を離した。それで、何事もなかったように掃除を再開する。

 おい、なんだよそりゃ。話してえよ。ぶちまけてえよ。なんで俺だったんだとか、すっかりおかしくなっちまって、もう前みたいには戻れないのが悔しいとか、こんなことならこれからも嘘の記憶で生きていきたかったとか、言いてえさ。俺はなんでだか知らねえけど、誰よりもお前にぶちまけたい。でも、お前にだけは言いたくねえ。こんな、みっともない、情けない、無様で弱くて狂った俺を見せたくねえ。だって、もし言って、お前に嫌われたら、俺は――、

「……死んじまう」

 さっきから狼狽えているアンドレーアを放って、俺は席を立った。部屋に戻ろう。一人にならなきゃだめだ。心配した感じで俺の背を視線で追ってくるアンドレーアに、俺はまだ涙を止めやがらねえ目を向けて、適当に笑って見せておいた。

「やっぱ、まだ本調子じゃねえわ」

 どう見たっておかしい。たぶん、俺がアンドレーアの方にいて、アンドレーアがこんな具合で笑ってたら、俺は『相当参ってるんだな』って思うだろう。けど、自分のよく分からねえ感情に抵抗して、とにかく笑顔をつくって見せて、そうして俺は食堂を出て階段を駆け上った。

 一人になったと感じた途端、笑顔なんて消えて、食いしばった歯の間から呻き声が漏れた。自室に飛び込んで、鍵を閉めて、ベッドまで辿り着けずに膝をついた。声をあげたら、流石にあいつらに聞こえると思って喉を必死に締めたけど、抑えきることができない。犬の唸るような音を出して、理不尽に叱られたガキがしゃくりあげるみたいに泣く。無様だ。

「なあ、ピトゥレー……。……なんで俺を殺してくれなかったんだよ……」

 俺が生き延びたのは奇跡だって、人は言う。けど、本当にそうか? 海神は、俺の命なんていらなかった。ただそれだけのことじゃねえか。

「レナート、話せそうなら開けろ」

 気づけばもう夜だった。照明なんざつけないままでいた部屋の中は暗くて、俺は一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。いつの間にそんなに時間が経っていたんだろう。俺はずっと床に蹲っていたんだろうか。何もしなかったのか? 数時間の記憶が空白だった。

 扉の向こうから声を掛けてきたのは親父だ。珍しいこともあるもんだと思って、俺はよろめきながら立って、鍵を開けた。

 親父は何も言わずに、俺の顔を見る。そういえば、俺は泣いていたんだった。今は涙も止まっているが、たぶん酷え顔してるんだろう。

「なんて面してんだ」

「情緒がいかれてんだよ」

「……いいさ。話があるから、明かりつけろ」

 俺は親父を部屋に入れながら、照明をつけた。黄色っぽい光が四角い箱の中を照らす。親父は俺のとっ散らかった机の椅子を引いて軋ませながら座ったんで、俺はベッドに座った。

「大体どんな具合かってのは、マリアあたりから聞いてるが、実際どうだ?」

 親父は酒焼けした低いしゃがれ声で訊いてきた。実際、ね。

「ろくでもねえな」

 俺は仰け反って、天井を見上げて答えた。ろくでもねえ。みっともねえ姿をあの二人にまで晒しちまった。正直、次どんな顔して会ったらいいのか分からねえ。何もなかったみたいにするか? それでまたおかしくなったら目も当てられねえ。じゃあ悄気げた感じで行くか? そんなやつ相手するの面倒だろうが。もうどうしたって、これからあいつらは俺に気を回すのに神経使うようになっちまうんだろう。気の利くやつらだから。

「で、話って?」

「お前、しばらくジュールで休め」

「……は?」

 ジュール? なんであそこに行かなきゃならねえんだ。せっかく帰ってきたってのに。

「この島にいると、色々と思い出しちまうだろう。まして、次の調査でアビリス島に連れていくのは、気が進まん」

「そりゃ、俺がおかしくなっちまったからか?」

「俺は十年前、お前の近くにいてやれなかった。だから、あの一日半の間に何があったのか、詳しいことは分からんし、訊くのも酷だと思ってる。だが、お前を見つけたときの惨状には身震いした。全部終わった後の様子に、いい年した男らが揃いも揃ってビビっちまったんだ。それで、実際にえらい目に遭ったのは子供だってんだぞ」

 この人にも大変な思いをさせた。俺は浮かんできた疑問を口にせずにはいられなかった。

「……親父は、俺を拾ったこと、後悔してるか?」

「そんなわけねえだろ。ただ、お前を連れ回さずに、島で過ごさせてりゃあ、あんな目に遭わせずに済んだだろう、ってな」

 親父は俺を拾ったことは後悔していないらしい。それが本心なんだろうってのは分かる。

「俺は親父の姿見て育ってんだ。あんたが望まなくたって、ごねてついて行っただろうよ」

「……それならしゃあないか」

 そうさ。だからそんなことを後悔するなよ。俺は、俺のやりたいようにしてきた。それで嫌な目に遭ったからって、親父が気にすることなんかねえんだ。

「それで、なんでジュールなんだよ。行ってどうしろってんだ」

 親父は組んだ指の上に乗せた顎を、数回揺らした。何を悩んでるんだ?

「……まあ、まず、この島にいるのはしんどいだろうって思ったのが一つ。もう一つは、テオドーロなら、お前を守れると思ったからだ」

「……実父だからか?」

「そうだな」

 なんでだよ。アルベルティーニの家で、俺があそこの家で生まれたって知ったって、変わらねえって――。

「俺の親父はあんただって、言ったじゃねえか」

「ああ、ちゃんと聞いてたさ。だが――」

「俺はとっくに殺されてんだよ!」

 ああ、まただ。感情の抑えが効かねえ。ベッドを殴りつけながら、勢い余って立ち上がる。家の外まで響いてそうな大声が、喉の粘膜を削ぎ落としそうな調子で口から出ていった。

「あいつも望んでそうしたわけじゃねえんだ」

「知るかよそんなこと! 古い慣習だ? 使命だ? 本気で望んでなかったってんなら、本気で抗ってみりゃよかったじゃねえか! 勝手に殺しといて――そうだよ、俺はそんな偉い家のゴタゴタなんか知ったこっちゃねえんだよ! なにも分かりゃしねえ赤ん坊を海に放り出しといて、今更『親だから責任持って預かります』なんて、また勝手な使命感ってやつか? そんなもん俺に押し付けてくるな! そんなもので俺を振り回すんじゃねえよ!」

 視界が滲んでくる。ああ、もうガキじゃねえってのに、なんで俺はこんなにボロボロボロボロ。涙腺のネジが腐っちまったみてえだ。

「分かった。……そうだ、お前の言い分は正しい。勝手に話を進めて悪かった」

「俺はアルベルティーニじゃねえ。ただの『レナート』なんだよ。親父がくれた名前が好きなんだよ。なあ親父……、頼むから、ずっと俺の親父でいてくれよ……」

 俺はまたぐずぐず言い出した鼻をそのままにしながら、親父の太い脚にすがりついた。でかい手が、丸まった俺の背中をさする。

「頼まれなくたって、ずっとそのつもりでいるさ。だが、レナート。お前が生まれたとき、テオドーロはアルベルティーニの当主でもなけりゃ、ただの若い神官だった。権力のある家の人間って言ったって、若僧ってのは無力なもんだよ」

 ああ、そうだろうな。『俺には他人としか思えねえ』って言ったときの、おっさんの顔。後悔と未練にまみれてんだって、そのくらい分かったさ。そんな具合になるって、予想できなかったってこたないだろう。それでも、そうせざるを得なかった。俺を海に流して殺すっていう選択肢を選ぶしかなかった。伝統と周囲の圧力ってのは尋常なものじゃなかったんだろうさ。実際のところなんて知らねえけど、想像するくらいできる。

「……分かってるよ。でも、俺には関係ねえ」

「お前は俺の子にしちゃあ利口すぎる。あっちこっちよく気が回るやつだ。回りすぎて、結局誰も責められなくなっちまう」

 乗せられた。俺があのおっさんにもなんとなく同情して責められねえから、親父はわざとあの人庇うようなこと言ったのか。……俺は、少しくらいあの人を責めていいのかな。でも、やっぱり俺の親父はあんたで違いない。俺のことを分かりきってる。

「……どこまで本気だったんだよ、さっきの話」

「テオドーロに相談はしてある。これまでの経緯も含めてな」

「あのおっさん、余計に後悔するんじゃねえの」

「仕方ねえだろうさ。俺は今更お前を放り出す気はねえが、あいつにも親の責任はあると思うんでな」

「俺はジュールには行かねえけど、次の調査には行くぞ」

「お前がそうしたいなら、それでいい」

 俺はいくらかいつもの調子を取り戻したんで、ちょっとばかし強気な口調で言った。自分を鼓舞する気持ちも込めて。もしかしたら、行った先でまた狂った調子になっちまうかもしれねえ。そうなったら、たぶん調査どころじゃねえし、親父らも鬱陶しいだろう。けど、俺はそんな具合にならねえように自分を制御できるようにならなきゃいけねえ。じゃなきゃ、隊にいられない。俺の知識や特技なんて、隊のためにあるようなもので、他に大したものなんざ持っちゃいない。隊で働けない俺は、一生部屋の中か病室でメソメソして過ごすしかねえんだ。そんな人生に、意味があるのか。

「焦るこたねえさ。まだ若えんだ。さて、話は終わりだ。机、もうちっと片しとけよ」

 わりかし思いつめてた俺にそんな言葉を掛けて、親父は俺の部屋から出ていった。なんだよ、親父の部屋だって散らかってんじゃねえか。俺は机周りだけなんだから、俺のがマシだぞ。

 ……焦るこたねえ、まだ若い。そうかもしれない。けど、『時間が解決』してくれるとは思えねんだ。だって、十年経った結果がこのザマだぞ。忘れるなんてことしねえで、ちゃんと向き合って十年過ごしてたら、違ったのかもしれない。けど、俺は向き合えなかった。俺ってのは弱い人間なんだ。でも、そんなままでいたくねえから、逃げてきた分ぶつかっていきてえ。十年も逃げたんだ。俺はその十年を取り返す気持ちで、急いで生きたい。そのくらいしなきゃ、俺はいつまで経ってもガキのままだ。

 飯を食う気にならないまま、夜も遅くなったので横になったが眠れなかった。何度も寝返りを打って、時々体を起こして捻ったり伸ばしたりしてみる。どうも頭のどこかが冴えちまってる。頭痛もするし、昼に泣きすぎたのかもしれない。月光が差し込む窓を眺めて、潮騒の音に耳を傾けた。夜の海ってのも、身近なようであまり行ったことがない。そう思ったら、なんだか無性に外に出たくなって、俺は適当な服を着て、物音を立てないようにしながら家を出た。

 夜風は湿っぽくて、冷たかった。昼間、太陽が出てるときはあんなに暑いってのに。恒星の力に改めて感心しちまう。灯台の光が、四方に向けて回転しているのを遠くに見ながら、俺はとりあえず近場の浜に行ってみることにした。ガキの頃、よく遊んだっけ。誂われるから学校には行かなかったが、島の子供全員が俺を『幽霊』だのと言ってくるわけでもなかったし、遊び場で出会う少し年長の子供の中には、それなりに仲よくできたやつらもいた。今頃どうしているのやら。兵役真っ最中のやつもいるだろうし、本土の方に引っ越したと人伝に聞いたやつもいるが、全員ここからいなくなったってわけじゃないはずだ。けど、もう誰とも何年も会っていない。どこかですれ違ってても気づいていないのかもしれない。

 広い砂浜に足を踏み入れると、細かい粒が指先に絡みついた。サンダルじゃなくてブーツの方がよかった。それに、もう一枚羽織るものが欲しい。思った以上に冷える。

 月が海面に反射して揺れている。黒い海が、薄ぼんやりと光る砂浜を侵食して、引いて、また飲み込みに来る。

 また満月か。ついこの間見たばっかりな気がする。俺が過去に囚われて立ち往生してる間にだって、時間は過ぎていく。

 海と空ばかり見ていたせいで、視界の端で浜に座り込んでいる人影に気づかなかった。たぶんずっといたんだろうが、俺はぎょっとして、目を凝らした。そいつもこっちを見た。月光の薄明かりに映し出された顔が俺と同じだったから、一瞬また心臓が跳ねたが、アンドレーアだと思い当たって落ち着いた。こんな真夜中に海に来て、こいつも物思いかよ。

「……こんばんは」

「……ああ」

 昼間の記憶が蘇る。まだ大して時間も経ってないってのに、顔合わすの嫌だな。とりあえず俺は近づかないようにして、そばのヤシの木に背中を預けた。

 そうしたら、アンドレーアが立ち上がって、腰についた砂を払ったかと思ったらこっちに来る。俺はなんとなく身構えちまう。

「……実を言うと、海はあまり好きではなかったんです」

「……へえ」

 『好きじゃない』なんて控えめな言葉を使ってるが、実際は『嫌い』だったんだろう。じゃなきゃ、わざわざ打ち明けるようなことでもない。だがジュールの神官が海嫌いって、どうなんだそりゃ。本人もそう思ってるから『実は』なんだろうが。あんまり他人に話したことはねえんだろう。それをなんで俺に言うのかは知らねえけど。

「でも、ここは海の音が近いから、気になって。いざ来てみたら、私が思っていたような、恐ろしい場所ではなかった」

「嵐のときは近づかねえほうがいいぞ」

「それは勿論。ただ、今日のように穏やかな海なら、私の心も穏やかになれるようです」

「海に嫌な思い出でもあるのか?」

 俺は何の気無しに訊ねていた。踏み込みすぎたかと言ってから思ったが、なんとなく、こいつが話したがってるから訊いちまったような気もした。

「……むしろ、いい思い出なんてないですよ。あなたは、海を恐ろしいと思ったことはないんですか」

「荒れた海には近づきたくねえけど、適当な距離で付き合ってりゃあ、別に怖かねえ」

「……不思議だな。あなたのほうが、私より海が好きなんだ」

 アンドレーアはそう言いながら、微妙に笑った。そりゃ、生まれてすぐ海に放り出されたのは俺だし、嵐の海に船ごと沈められそうになったことだってある。けど、赤ん坊の頃のことなんて覚えちゃいねえし、海の嵐だって結局は生きて帰ってこれてんだから、喉元過ぎれば何とやら、ってやつだ。

 木の幹一本挟んで並んだアンドレーアの背丈は俺と同じだった。出会って二ヶ月程度。その間、大して会話もしていない。俺はこいつを知らない。こいつだって俺を知らない。今更双子の兄弟だと知ったところで、生まれた瞬間から二十二年も離れてりゃ、他人だ。そう思うのと同時に、この一本の木の幹分の距離が遠く感じる。これまで何百マイルも離れてたって、何とも思いやしなかったのに。今は、俺がこいつのことを知らなくて、こいつに俺を知られていないことが、なんとなくもどかしい。たぶん、俺たちは本来一人の人間として生まれてくるはずだったんだ。それが、どういうわけか二人になっちまった。

 俺は、きっと見栄が張りたかったんだ。別の環境で育った双子、片割れは偉い家で育てられて、誰が評価したって秀才か天才で、神官なんて大層な肩書を持ってる。負けたくなかった。俺だって、それに張り合えるくらい立派に生きてきたんだって知らしめたかった。だってのに、無様なもんだ。

「……あなたは、私を責めてはいないのですか」

「……なんでお前を責めるんだよ」

 こいつの親に対しては、多少思うところはある。だが、こいつに対してどうこうってのはない。ただ、張り合いたくても、俺がそれに到底値しないってのが悔しいだけだ。

「……情けないな」

 そう呟いて、アンドレーアは俯いた。そりゃこっちの台詞だ。お前は自分のなにが情けないってんだ。俺の無様さを見ておいて、よくそんな言葉が言えたもんだ。

「私は、元々双子だったのだと、幼い頃から聞かされ、知っていました。一人になった経緯も……。あなたが生きていたと知って、驚いた」

「だろうな」

「私はあなたについて聞く度に、悲しくなったし、申し訳なくも思った。でも、……時々無性に憎く思ってしまうこともあった」

 俺は黙っておいた。俺の知らないところで、俺は知られていた。そこで俺がどう思われてきたかなんて、知ったことじゃない。

「母は、あなたと共に海へと潜った。母は私と生きることよりも、あなたと共に死ぬことを選んだ。もしかしたら、それもあったのかも――」

「おい、待て。は?」

 俺は思わず言葉を遮ってしまった。俺と死んだ? 母親が? どういうことだよ。

「あ……、ええと……。私達が双子だと知ったとき、父母はそうすると決めたそうです」

「……なんだそりゃ」

 俺は一人の命を巻き添えにして、そのくせ一人で生き延びて、俺のために人が死んだことも知らずに生きてきたってわけか。じゃあ、あのおっさんは、子供だけじゃなくて嫁さんも一緒に死なすっていう決断をしたってのか。俺を一人で死なすのが不憫だったから? それで母親も納得して? いや、もしかしたら母親の方から言い出したのかもしれない。なるほど、そりゃ、相当な思いだったろうな。送った二人の片方が生きてて、再会できたと思ったら『他人だ』なんて言われりゃ、あんな顔にもなるだろう。俺は相当酷えことを言っちまったみてえだ。

「今どき馬鹿らしい慣習だとあなたは思っただろう。……正直、この場にいるから言えるが……、私もそう思う。決して口には出さなかったが、きっと父もそうだ。私は父と生き、母はあなたと死んだ。そのことに不満を抱きたくはなかった。ほんの僅かばかり早く産声を上げたがために、人柱となった兄弟の事を思えば……。しかし……」

「母親を殺した俺が憎かったわけだ」

「あなたと共に在ろうとしたのは母の意志で、あなたにはなんの責もない。まして、あなたが殺しただなんて」

「でも、そう思っちまうんだろ」

 アンドレーアが派手なため息をついた。つまりそういうことだってな。

「自分が被害者のような考え方はしたくない」

「それは分かるな。惨めな気分になる」

 俺はヤシの幹に凭れ直した。足に絡まる砂が鬱陶しい。

「『神の子として捧げられた俺』より、お前のほうがよっぽど神らしいと思ってた。でもまあ、安心した。ちゃんと人間だったんだな」

「……私は、やはりあなたが神の子に思える」

「なんで? 俺は知っての通りイカれちまってるぞ。昼間見ただろ。正気じゃねえんだ」

「それでも笑っていた。あなたの過去を、私は知らない。けれど、きっと笑えるようなものではないのだろうと……。しかし、そうであっても私に笑いかけて、『大したことではない』とでも言うような姿を見て、私は自分の矮小さを思い知った。今も、理不尽な感情を向けられていたと知っても、怒りもしない」

「だから、正気じゃねえから笑えたんだって。俺は自分に起こったことを、自分事だって思えねえんだよ。逃げてきたから。理不尽だろうって言ったって、それも自分のことだって思えねえから、感情が動かねえだけだ。要は無責任なんだよ」

 アンドレーアは黙り込んじまった。まあ、ここまで言えばこいつも呆れたんじゃねえかな。

「……私は、あなたを自分より高い存在だと、思っていたかったのかな……」

 片割れはボソボソと呟いた。自分で意識していないところでそう思って、自分を納得させていたんだろうか。俺はどうやら、こいつから色々と奪っていっちまったみたいだから。相手は自分より高い存在なんだから、大切なものを取られても仕方ない、って具合に。でも実際は、さっき言ったとおりだ。俺は残念ながら、全く大した存在なんかじゃない。

「……父はいつも、私を通してあなたを見ていた。あなたのために日々祈る彼を見てきました。私が出遅れたせいで、私の代わりに兄弟は死んだのだから、彼の分も立派に生きねばと……。なのに、あなたが生きていたと知っても、私は素直に喜ぶこともできない。なぜ、私は……」

 俺の分も。二人分の命を背負っているつもりで生きてきたんだろう。なら、俺が生きていたとなったら、余計に背負ってきた一人分の苦労は何だったんだ。そう思うのは当然じゃないか。

「……『私は苦しんでいい身分じゃない』ってか?」

「あなたを前にして、こんな弱音など吐きたくなかったのに」

 互いの境遇なんて知りやしない。今少し話したくらいで、これまでの人生の説明なんてしきれない。たぶん、こいつは俺のほうが自分より悲惨な経験をしてきたんだと思っている。そうかもしれない。けど、俺のこれまでの人生全てが悲惨さでできてるわけじゃねえし、それなりに楽しかったことだって、思い返しきれないほどある。ただ、今は悪かったことに目が向きがちになってるってだけだ。

「……なあ」

「……はい」

「俺の分まで背負わせて、悪かったな」

 十五でパレス大に入って、神官修行もこなして、この若さで正式な神官って認められるってのは、並の努力で成し遂げられることじゃないはずだ。こいつが俺とほとんど同じ人間なら、周りが『天才』なんて評価しようが、実際はそんなものじゃない。そりゃ、元のでき自体は悪かねえだろうけど、血反吐出すくらいの気持ちで臨まなきゃ、たぶん無理だ。仮に逆の立場だったとして、俺はそれができただろうか。……まあ、ほとんど同じ人間なら、その立場に置かれたら俺にもできたのかもしれねえ。けど、別の環境で育って今こうして生きてる『俺』だったら、できねえだろう。俺はこいつから母親を奪っておいて、そんなこととは露知らず、まあまあ適当に生きてきた。どっちのがしんどかったとか、比べられるものじゃねえ。実際にその人生を生きてみなきゃ分からねえことなんて、いくらでもある。

 なんて、俺は考えながらぼんやりしてた。そうしたら、アンドレーアが微妙に声を震わせながら言いだした。

「……違う。私はそんな、崇高な理由で努力してきたわけじゃない……。私はただ、父を独占したかっただけだ。私の背後にもう一人の影を探されることが嫌だった。彼の前にいたのは私だけなのに……。父が意図せずそうしてしまうのも、仕方がない。分かっている。けれど、あなたが母の愛全てを受け取ったのなら、私は父の愛全てを受け取りたかった。そんな幼稚な感情に任せて、躍起になっていた。それだけなのに……」

「そりゃ、思うだろうよ。覚えてもいねえ兄弟の姿いっつも重ねられて、気分いいわけねえ」

「――そうやって、『仕方ない』と、達観した態度をとるな!」

 アンドレーアが掴みかかってきた。俺の薄い上着の襟を両手で握りしめたこいつの、昼の光の下では青く輝く両目が、同じ色した俺の目とかち合う。月光が、小さな海から溢れた雫を、水晶のかけらみたいにきらめかせた。それが見えたのも一瞬、アンドレーアはずるりと砂の上に膝をついて、うなだれた。

「あなたと張り合えない自分が、情けない……」

 俺と同じこと考えてやがる。双子ってのは、こういうものなのか? それとも俺達だから?

「……なんでだか、似てんだよな。互いに相手に張り合えないって思ってる」

 比べたらきりがねえ。それでも比べたがっちまうのは、相手が自分とほとんど同じ人間だって感じてるからか? 初めは、せいぜい見た目くらいしか似ちゃいねえと思ってたのに、少し腹割って話せば、もういいってほど思い知らされる。結局、根本的なところが同じなんだって。

 俺も砂の上に膝をついて、泣いてる片割れの背中に腕を回してみた。俺よりも、やっぱりほんの少し肉付きが薄い。……いや、今は同じくらいかもしれない。俺はここ最近で結構痩せた。なんて思っていたら、俺の背中にも腕が回ってきた。

 無性に、懐かしいような感情が込み上げてきた。生まれる前は、こうしていたんだろうか。互いの心音が、一切のずれもなく重なってくるのを感じる。元々一つだったみたいに――、いや、間違いなく元は一つだったんだ。

 言葉は不必要な気がした。理由なんざ分からねえ安心感で満たされていく。忘れていた感覚を取り戻すような奇妙さは、嫌なものじゃない。俺たちは黙ってるだけでいい。言葉で言い合うより、この方が伝わる重要な何かがある。俺がそう感じてるのと同じように相手も感じてるのが分かるんだ。『気がする』んじゃない。確信できる。

 寝ちまったのかと思うくらい、静かで、穏やかな時間だった。空が薄く白んできて、遠くの方で雷光が輝くのを見た。

「……そろそろ離れようぜ」

 俺は途中からヤシの幹に背中預けて、もたれ掛かってくるアンドレーアを抱えていた。いい加減体が疲れてきた。こいつだって、そんなに居心地良さそうな体勢じゃねえのに、離れねえからそのままにしておいたけど。もう夜も明けちまうってんだから、十分だろ。

「……もう少し」

「子供かよ」

 思わず笑っちまった。でも、考えてみりゃ、こいつは親にも大して甘えてこなかったんだろう。俺は親父や、調査隊のやつらや、マリアとかに甘えて、程々に甘やかされて育ってきたけど。それなら、俺が貰ってきた分、こいつにいくらかやってもいいか。

「しゃあねえな」

 言って、アンドレーアの、俺よりよっぽど艶が良くて柔らかい髪を指に巻いて、頭を撫でてやった。そうしたら、

「それはやめてください」

 って俺の手を煩わしそうにどかすんで、可笑しくなっちまった。俺もガキの頃、こんなふうに嫌がったりしたもんだ。

「触り心地がいいんだよ」

 俺はもう一度、癖っ毛を揉んだ。アンドレーアはたぶん諦めたんだろう。嫌なら離れりゃいいのに離れねえんだから、実際は大して嫌じゃねえんだ。

 また遠くで雷が光った。ラピスラズリとアメジストが融け合って彩る明け方の水平線に、アンバーの色が混ざり始めて、海はアイオライトに染まってくる。太陽が顔を出すまでは、こいつを甘やかしてやろう。そうしたら、帰って寝るんだ。

 なんだか、久々に気分良く眠れる気がする。

初出:

NEXT