ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
エピローグ

 七年が過ぎた。

 アビリス島は〈メリウス王の墓神殿〉を含む、アウリー王国の礎となったクレス王国の遺跡として国家に承認された。俺が三年の兵役を終えて戻ってきたとき、島は千人近い発掘調査団の手で開拓され、小山は消え去り、緑と礫岩に覆われていた未開の孤島らしい姿は跡形もなくなっていた。

 親父たちがたった二十人程度の仲間と、三十年の年月を掛けて得た手柄は、王国中――或いは帝国中に知れ渡っている。親父はあちこちに引っ張られ、今は現場にいられる時間もあまりない。

 俺は、『大地の崩落に巻き込まれ、千フィートも下の湖に落ちたものの、奇跡的に生還することができた青年』として紹介された。実際には、俺があの崩落を起こした張本人だったが、仲間はそれを決して口外しなかった。それが国に知られたら、俺はたぶん、ただの道具になる。

 だが、それでもよかった。俺の体は生きて帰ってきたが、俺の魂は海の中に、或いは風の中に散って消えた。頭は凡そ正常に働いて、笑うこともできたし、ときに嫌味たらしい冗談を言うこともできた。傍から見た俺は、これまでとなんら変わらず、自分が死んでいることを知っているのは俺だけだ。もしかすると、マリアあたりは勘付いていたかもしれないが。

 地底湖と、その中に沈んでいる遺跡を調べて分かったことの一つは、俺が通り抜けてきた正方形の道は、全長が一マイルほどもあったということだ。途中で力尽きて当然だ。それを通り抜けて生還したなんて、まさに『奇跡』としか言いようがない。

 リオンの遺体は見つからなかった。まるで、幻のように消えてしまった。あいつと過ごした日々さえも、今となっては夢だったんじゃないかと思う。

 ジュローラに帰ったアンドレーアは、一昨年結婚した。去年生まれた双子のどちらも、あいつは育てることにした。突然連絡もなくウェリアにやってきたあいつは、俺の顔を見るなり泣き崩れて、これから生まれてくる子供が双子であるらしいということを伝えてきた。『自分がどうしたいのかは分かっているが、その道を選択することができない』と言って葛藤しているあいつに、俺はかつて神官長が寄越してきた手紙を渡した。アンドレーアの姿が、手紙の中にいる過去のあの人の姿と重なったから。父親が経験した苦悩が綴られた手紙をその場で読んで、アンドレーアはしばらく静かに泣き続けた。そうして、『私も闘う』と決意した顔で帰っていった。

 秘密裏に行われてきた儀式をやめたところで、民衆は気づきやしないが、神官連中は別だ。俺はあいつに呼ばれて、ジュローラに行ってやった。環境の違いで多少は異なるところもあるが、他人の空似では到底片付かない程度にはほとんど同じ造形をした片割れの隣に立ち、かつて海に捧げられた『神の子』として名乗りを上げてやった。現に俺は生きている。海神はもう人柱なんぞ求めちゃいないと主張してやれば、頭の固い神官共も反論する言葉を失ったようだった。その時には少し、俺の命も役に立ったのだろうかと感じた。

 だが、結局のところアンドレーアにとって最も幸運だったのは、あいつの苦しみを誰よりも理解しているのが現在の神官長だったことだろう。

 アンドレーアに呼ばれての二度目のジュール訪問で、俺は少し神官長――血の繋がった父親と会話をした。大して話が広がったわけでもなかったが、俺の中で、『この人も俺の親なんだ』という認識はいくらか持てた気がした。いつか『父さん』とでも呼べる日は来るかもしれない。ガラでもない感じはするが、『親父』はウェリアの無骨な考古学者だけだから。

 アンドレーアの子供らは、父親にそっくりだった。つまり、俺にもよく似ていた。古い慣習から解放された親子を見て、ときにその中に混ざって、甥っ子と姪っ子に絡まれながら、俺はきっと子を持つことはないんだろうと、悲観するでもなくただそう思った。

 仲間内の通称だった『アビリス島』は、今は広く使われるようになって、島には多くの学者・研究者とともに、それらの卵である学生がやってくる。七年前の俺と大して歳の変わらない若者たちは、〈メリウス王の墓神殿〉の発見者で、奇跡の生還者で、かつ自分たちと年齢の近い俺のところによく集ってくる。俺はそれに気前よく接してやったものだから、そいつらは気を良くしてまた集まってくる。俺はまた気前よく応じてやる。

 こんなに普通に生きているのに、なぜか自分を遠くに感じたまま、俺は俺の中に戻れなかった。

 かつて俺が歩いた珊瑚の道は、崩されて停泊所になったし、白い砂浜も、ガキの頃に観察して遊んだ小さな海ができる岩場も、セメントに埋まって消えた。見晴らしの良かった水平線は、いつだって船影に遮られている。

 変わったものだ。それを悲しいとは思わないが、かつての光景の記憶が薄れていくほどに、過去が遠いものになっていくのを感じる。

 殊更俺に懐いているパレス大の学生三人組と、波止場近くの休憩所に居座っていたら、事前の届けにはないはずの見慣れない船が防波堤の湾内に入ってくるのが見えた。たまにいるんだ。一目見たいからってんで来ちまう一般人が。ここは観光地じゃねえ。だがそのうちには、そういうふうにもなってくるんだろう。

 グラスに残った、発酵の甘い冷えたルース茶を飲み干して、船が停まるのを待つ。待ち構えていた警備員が、降りてきた人間に注意している様子を、遠目に眺めていた。

 白装束。布が邪魔して顔も見えない。分かるのは、それがフォルマの衣装ってことだけだ。

 ふと一際強く吹いた海風。それに乗って滑空してきた、純白のリオス鳥が、そのフォルマ人の頭部を覆う白い布を奪い去っていった。

 瞬間、俺の目に映ったのは、シトリンの輝きを放つ長い髪。袖から覗いた、フォルマ人にしては白すぎる細い手首。そして、白鴉に奪われていった被り物シュマーグを追ってこちらを向いた、淡青の、晴れ渡った遠方の空の色をした瞳。

 俺はその、覚えのある顔立ちに全ての意識を持っていかれた。勢い余って、座っていた椅子を倒しちまったが、どうでもいい。あいつが俺を見て、互いを認識した瞬間。

 自然と口が、あいつの名を――俺が呼んでいた名の形に動いた。

 世界が近くなる。海の香りがする。熱い日差し、涼やかな風、波音、人声。水中深くに沈んでいた意識が、煌めく水面に近づいていく。そうして、大気の方へと顔を出した口は、息を吹き返す。

 神聖ささえ感じさせるような姿をしておいて、俺の様子が可笑しいみたいな表情で、手を振ってくる。そのさまは、もう遠くなって久しかった記憶にあったものより、ずっと人間くさかった。

 駆け出すのと同時に滲み出した視界。それでも、そこにいるのがお前だってことは分かる。細い体に抱きついたら、脳を溶かすような香油の匂いに眩んだ。自分でも何を言っているのか分からない言葉を喚いて、年甲斐もなく泣きじゃくる。周りの目なんかどうでもいいんだ。こんな姿を晒したって、今更お前は俺を嫌いやしないだろ。

 なあ、そんなふうに笑えるようになったのかよ。

 この好意を、既に定義されたなにか一つに当てはめることは、やはりできない。これは友愛でもあり、親愛でもあり、敬愛でもあり、恋愛でもあり、それ意外のなにかでもあり、これらのいずれでもない。

 それでいい。俺自身がそれを受け容れ、お前が俺を受け容れてくれるのなら。

 俺は、俺のままで、この世界を生きていける。

 俺たちの縁には、なにか意味があると確信している。だが、それを探ろうとは思わない。

 ただ、今この世界、この時代を共にして生きている。それで十分だろう。

 これは、俺の人生なのだから。

END   

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