ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
メレーの子 後編

 メリウスはジュローラに集った神々の神殿を造り、いずれの神へも尊敬の思いを向けることを改めて人々に願った。

 ジュローラの賑わいは日毎年毎に増し、その噂は近隣の街へと広がった。ある日、内陸のとある街の者たちが、ジュローラに住まわせてはくれないかとメリウスを訪ねやって来た。酷く岩石混じりの土地で作物が育たず、人々は牧畜と工芸によって生計を立ててはいたが、貧しかった。メリウスは快い返事をし、彼らの神のための神殿を建てることを許可した。彼らが培ってきた生き物を育てる知識と物作りの技術はジュローラの更なる発展に貢献し、彼らが富を得ることへも繋がった。

 メリウスは、かつて崩壊したジュローラに駆けつけた際に瓦礫の下から助け出した少女から、強い好意を寄せられていた。彼女の名は『アウラ』と言った。アウラが十六歳になったとき、メリウスは彼女の夫となった。メリウスは二十四歳だった。やがて二人の間には双子が生まれた。男児の方には『クルセイス』、女児の方には『フラウライア』という名がつけられた。

 ジュローラが巨大化していくほどに移住者は増え、更に巨大な街となっていった。

 メリウスが『王』と呼ばれるようになってから、三十年余りの年月が流れた。しかし、メリウスは若者の姿を保ったままで、不思議なことに、アウラも若い姿を保ち続けていた。アウラはリヨンと睦まじくしていた。夫であるメリウスも半神であるから、神の気に常日頃触れている人間は緩やかに老いてゆくのであろうかと、メリウスは考えていた。しかし、そうではなかった。アウラはリヨンの子であったのだ。それはアウラ自身も長らく知らずにいたことであったが、自らが老いぬことに疑問を懐き、リヨンに訊ねたところ、その様に教えられたと言う。アウラの母は人間であるから、彼女はメリウスと同じ半神ということになる。ならば確かに、かつての惨状の中、人間である母が死んでも、半神であるアウラならば生き残ることができたのだろう。メリウスはアウラに対して一層の親近感を抱いた。

 長い年月が経ち、少年であったメリウスを知る人間はいなくなった。メリウスは神の力に頼り過ぎぬようにして街を造った。人々は汎ゆることを人間の手で成し遂げる為、様々なことを知ろうとした。

 やがてジュローラは、メリウスが常にその様子を把握することが困難になるほどに広大な街となった。メリウスは半神同士の子であるために若者の姿を保ち続けている双児のクルセイスとフラウライアに、それぞれキュアストスとフィオリローザを伴わせ、街の東西に分かれ人々を導くように言った。そして、アウラとリヨンは北の拠点へ向かわせた。

 ジュローラは他の街とは明確に異なる規模と形態を持ち、かつては交流を持つことのなかった街の者同士が混ざり合いながら暮らすようになっていた。メリウスは、以前にメレーが使っていた『国』という言葉を思い出し、王と呼ばれるようになってから百年目の年に、『ジュローラの街』と呼ばれてきた地を『クレス王国』とした。

 更に百年、二百年が過ぎ去る頃には、メレーの予言通り、神々の姿を見ることができない人間は明確に増えていた。かつては『やや人間離れした美貌を持つ若者』といったふうに見られていたメリウスの姿も、この頃の人々にはあきらかに通常の人間とは異なったものに見えるようになっていた。人の身を持つがゆえに、彼の神性は人の目に示すことができた。メリウスの肌、瞳、髪は、清廉な青みをもつ白銀の輝きをまとっていたのである。彼がひとたび宮殿を出て都を散策したなら、幾ら扮装していようとも到底その身分を隠すことはできなかった。

 当初のクレス王国に集まる人々は内陸の者が多かったが、やがて海沿いの街からの移住者も増え始めた。かつて大波に襲われた街を再建させた苦労を知る者がいなくなり、彼らを助けた神の姿を捉えることもできなくなった子孫たちは、より賑わい、裕福な王国で暮らすことを望んだのである。

 しかし、メリウスは彼らの先祖の努力を知っていた。かつて手を取り合い、慰め合った人々の姿を、四百年の月日が経っても鮮明に思い出すことができる。だからこそ、彼らの子孫らには街に留まり、また更なる発展をさせてくれることをメリウスは望んだ。若者が街から消えれば、いずれ街も消える。

 メリウスは道を造ることを提案した。王国と各地方を結び、往来が容易になれば、地方に留まることを選ぶ者もいるだろうと考えたのである。移住を望んでいた者たちはメリウスの案に賛同した。愛着のある故郷に留りながら、王国の繁栄に与れるのであれば、その方が良いと考える者が多かった。道が伸びてゆくのと同じように、人々の居住地も伸びていった。道を造る労働者がいれば、彼らの為の休憩所、食糧、娯楽を提供する人々も必要となる。メリウスが治める国の領域は広がり続け、目的の街まで道が繋がると、更にその近隣の街からも道を繋ぐことを望まれた。

 やがて、メレーの系譜に属する神々によって治められていた土地全てが、クレス王国に纏め上げられた。その為に費やされた三百年の年月を、メリウスは王として見守っていた。

 メリウスを育てた海の妖精ウェヴィリアの末妹リリエが水泡となって海に溶けたことをメリウスが知ったのは、彼が八百歳を迎えようとする頃だった。彼を育てた妖精たちは皆、海へと消え還った。

 地竜が身じろぎ暴れるのに対抗するようにして海が押し寄せることは、度々に起こっていた。しかし、かつてジュローラなどを壊滅させたようなものがやって来ることはなかった。

 そうして、メリウスがクレス王国を建ち上げてから九百年が経ち、彼は一千歳を迎えた。メリウスの子供たちは子供を生み、その子らがまた子を作り、神の血は人間たちの中へと、薄まりながら溶け込んでいったが、神々の姿をとらえられる人間はもはやほぼおらず、声を聴くことができるものも同様だった。

 クレス王国は平和だった。メレーが生み出した半神の活躍を評価してか、フェムトスの系譜が治める地方でもヴェント王国が建ち上がっていた。ヴェントの王ヴァイタスはメリウスが六百歳のときに誕生し、四百年間の戦いの末に一帯の神々と人々を纏め上げた。フェムトスはメレーと同じく〈月の神子〉の守護者であるが、メレーが智に長け人の世に干渉することを好む神とするならば、フェムトスは力に長け人の営みへの干渉をさほど好まない神といえる。親である神の性質が異なれば、その子である諸々の神と王の性質も自ずと異なってくる。

 夜中、クレスの都上空に激しい雷鳴が轟き、メリウスは覚醒した。彼の暗い寝室に、薄弱な光を纏うリヨンが立っていた。かれの体には切り裂かれた痕跡があり、その開いたところから大量の神気が漏れ続けていた。

「一体何事ですか」と、メリウスは衣服を正しながら訊ねた。

 リヨンは虚ろげな様子で立ち尽くすばかりである。メリウスはリヨンの体に開いた傷を塞ぎ、自分の神気を分け与えた。すると、リヨンは言葉を発することができるようになり、「ヴァイタス王が武力を以て攻めて参った」と言った。メリウスがその言葉の意味を理解するまでに幾許かの時間を要している間に、かれは続けた。「あちらの神と数多の戦士を引き連れている。クレスの民は戦を知らぬ。抗うすべもない。お前が行って話をつけるほかあるまい」

 ヴェントに近い北方を治めていたのは、メリウスの妻アウラであった。親であるリヨンは彼女と共にいたはずだ。しかし、リヨンの気は異様に乱れていた。メリウスの目前にあるかれの体は、奥の壁模様が透けて見えるほどに弱っているというのに、今尚都の上空では激しい雷鳴が轟き、雷光が至るところに突き刺さり、人々を怯えさせている。

「アウラはどうしていますか」メリウスは隣国の王と対峙するべく身支度を整えながら訊ねた。

 しかしその問いに、リヨンの姿は水鏡に映ったそれが風に煽られるように、儚く揺らぐ。かれは「殺めてきた」と答えた。

 メリウスは汎ゆる動作を止めた。「何故」と問えば、リヨンは「生かしておくのが酷であったから」と答えた。

 メリウスは長い時を共にした妻の気配を探ったが、見つけることができなかった。呼んでも応えぬアウラに、尚も呼びかけていれば、リヨンに諫められた。メリウスは諦め、再び支度を始めた。

「責めぬのか」とリヨンに問われたメリウスは、「彼女を殺めたと言う、当のあなたのその様子を見て、誰が責められるでしょう」と答え、支度を終えた。

 メリウスは弱りきったリヨンに休むことを勧めたが、かれはヴァイタス王の元へと向かうメリウスと共に、北方へ引き返すことを望んだ。

 ヴァイタス王と彼が伴ってきた者たちは、磨き上げられた鋼の剣を携えていた。アウラが治めていた北の都は滅ぼされ、水晶の座にはヴァイタス王が我が物顔で腰掛けている。彼の前には都中から奪い取ったのであろう金銀宝玉が供され、王の右手側には力の神トーラス、左手側には闘神アイグリスが控えていた。

 クレスの民は戦を知らない。故に武器も持たない。殺戮され、略奪されることを許す以外に、彼らに道はなかった。

 メリウスは妻の座に居座るヴァイタス王の前に降り立った。武具を纏ったヴァイタスの配下の人間たちは、突如として自らの王の前に現れた他の半神の姿に後込んだ。

 ヴァイタスは泰然として、笑みを浮かべメリウスを見上げた。「よくぞおいでなすったな、メリウス王よ。随分と速やかなご到着に畏れ入るばかり。電雷となって空を駆けるリヨンの姿たるや、美事みごとであった」彼は水晶の座から立つことなく、元よりそこが自分の居場所であるかのように振る舞い、言った。

 メリウスは硬く言った。「あなたをこのような形で我が国に歓迎するつもりはなかった」

「さもありなん」ヴァイタスは頷きつつ水晶の座を立った。メリウスよりも幾分か高い場所に、彼の翡翠の瞳がある。ヴァイタスはその二つの翡翠を、メリウスの背後に立つリヨンへと向けた。「雷神殿。あなたが随分と留守になさるので、片割れのシルフィードがそれは寂しんでおられるぞ。知らぬではあるまいに。時折には戻って来られよ」

「あやつは私以上の自由者だ。私に物申したいのならば先ず己の放浪癖を見返るが良い」リヨンは死んだ金剛石を彷彿とさせるような、硬く冷たい調子で応えた。

 ヴァイタスは声を上げて笑った。「さても、温厚なあなたであれ、いざその怒りに触れよとなれば恐ろしい。あなたが降らす光の槍は一切を破壊する。力と闘いの親であることに疑念を抱く余地はない。故にこそ、その自制の心持ちを是非にも見倣いたいところだ。ともあれ、原初の神とは己がいかにも自由者であるように振る舞うことがお上手であるな。なあ、そうは思わぬか、メリウス王」

 メリウスは口を噤んだまま、ヴァイタスを見つめた。リヨンはフェムトスが作り出した初めの神である。メレーを祖とするピトゥレー同様、リヨンもまた最も古い時代に誕生した神となる。かれと風神シルフィードは双児であり、以降フェムトスの系譜に属する神々は多く対となる存在と共に生まれている。今ヴァイタス王の傍らに控えるトーラスとアイグリスも双児であり、かれらはリヨンより生じた原初に近い神だ。

 ヴァイタスはメリウスを前にしながらも、尚リヨンへと語りかけた。「シルフィードを怒らせることは愚かだが、あなたを怒らせるほどのことではない。あなたは雷電のみならず炎をも従える。ヴェントの民の血の気はどうしたことか。あの冷淡な父君フェムトスの性質には到底似つかぬから、どうにも手を焼かせる。あなたも左様ではあるまいか。故に祖の地を後にし、この文化的で温厚な人間らの土地に根ざしたのでは」

「根ざしてはおらぬ」リヨンは否定した。

「神の千年とは瞬きの間か」ヴァイタスは呟き、水晶の座に腰を下ろした。

 メリウスは鋼鉄に覆われたヴァイタスの腕を掴んだ。「そこは妻の席だ。離れてもらおう」

 ヴァイタスはメリウスの手を払い除けはしなかったが、煩わしげな様子をあらわに翡翠の目を伏せた。「いやなに、休息を頂きたいだけさ」

「随分と勝手が過ぎるではないか。隣国を攻め民を殺め、王の妻を殺し利く口がそれか」メリウスの声音に怒りの感情が滲んだ。

「彼女に手を下したのは、貴殿の背後にいる御父上だが」トーラスが訂正する。

 メリウスは「そうさせたのは貴様らであろうが」と、ついに声を荒げた。

 ヴァイタスは深く息を吐いた。彼はメリウスの衣服の襟を掴み、その顔を引き寄せた。そして周囲の人間らに聞かせぬようにか、神の言葉を用いて言った。「配下の手前、私は床に座り込むわけにはいかぬのだ。この意味が分かるかね、賢き王よ。私がどのようにヴェントを治めたか知っているか。『力』と『戦』だ。千の人を従える勇敢な戦士の思い上がりを挫き、共々を従えられる力だ。掟を破る者を厳格に罰し、反抗を許さぬ、その気概さえ起こさせぬ程の力だ。それが私に与えられたもの。それを示せぬ私に価値はない。こうまで申せばお解りになるだろう」

「ならば、なぜ配下を伴って来た」メリウスもまた神の言葉を使い訊ねた。湧き上がる怒りを抑えつつ。

 ヴァイタスは笑み、配下を見やった。「罰を与える者がなければ掟を守ろうとはせぬであろう。私が留守にした間に殺し合いを再開されては堪らぬからな」

 ヴァイタスの配下である屈強な姿をした人間たちは、美麗な青年の姿をした王の視線を恐れるように、身を竦ませた。

 ヴァイタスは再び、翡翠の眼光鋭くメリウスを見上げた。振る舞いは身勝手でありながら、ヴァイタスがその瞳を以て言外に訴えるのは、先んじて生まれた半神の王への助力であることを、メリウスはふと覚った。

「私は、貴殿のような賢さを持ち合わせておらぬ」ヴァイタスはメリウスの襟元から手を離し、再び水晶の座を立った。そして壇を下り、配下が囲む広間の中央へと移動した。そして、ここからは人の言葉を使い話した。「私からの提案だ、メリウス王。同じ半神同士、どちらがより優れているか、試してみようではないか。力が優か、それとも智が優か。貴殿が勝てば、我々の王国はあなたに差し上げよう。しかし私が勝ったなら、貴殿の王国は私のものだ」

「あなたは世界を治めるつもりか」メリウスはヴァイタスの姿を目で追い、同じく人の言葉で訊ねた。

 ヴァイタスは腰に提げた双剣の柄に触れ、月長の一枚岩に覆われた天を見上げた。「むしろ、なぜそうしない。我らはなぜ別の王国を築いたのだ。私はフェムトスの子で、貴殿はメレーの子だ。親であるかれらは共に〈月の神子〉の守護神なのだから、揃って系譜を築き、王を生み出せば良かったのだ。さすればこの地上へ須らく月帝神族の威を示せたであろうものを」

「威を示してどうなる」メリウスは訊ねた。

「無意味な争いは鎮まらぬか」ヴァイタスは顔貌を天へ向けたまま、翡翠の瞳でメリウスへと訊ね返した。

 メリウスは「それはどうであろう」と呟いた。その言葉はヴァイタスの耳へも届いたはずだが、彼はさして気に留めた様子もなかった。争いごとに関してはよほどメリウスよりも精通しているであろうヴァイタスは、自ら口にした言葉に信念を抱いているふうではなかった。

 ヴァイタスは意識を地上へと引き下ろし、剣の一つをメリウスへと差し出す。「暫し貴殿のものだ。これを扱ったことはあるか、賢神メレーの王」

「否」とメリウスは答えた。神殿の装飾品として見、触れたことはあれど、人を切り裂く道具として扱ったことは一度たりともない。

「ならば何度か刺し切ってやろう。そうしたなら、見真似もできるだろう。さあ、下りて参れ」ヴァイタスは壇上にいるメリウスを促した。

 メリウスはヴァイタスの翡翠の双眼を見つめた。己に挑むというその真意を、この短い時間、会話の中でメリウスは汲みとっていた。ヴァイタスは、ヴェントをメリウスに託すためにやって来たのだ。元より彼にメリウスを倒すつもりはない。クレス王国へ攻め入り、北の都を滅ぼし、王の妻を死へ追いやることで、彼はメリウスと対峙する口実を作った。己の力を配下の人間たちに示しつつ、メリウスの怒りを買う。確かに、メリウスがヴァイタスを倒すには十分な動機づけである。これまでに圧倒的な力を示してきたヴァイタスがメリウスに敵わなければ、メリウスはヴァイタスを超える王として畏れられ、ヴェントの民に迎えられるだろう。

 ヴァイタスの神気の弱まりを、メリウスは感じ取ることができた。彼が水晶の座より立つことを厭んでいたのは、事実衰弱していた為であることに違いなかった。半神を殺められるのは、神か、同じ半神のみである。ヴァイタスに側控えるトーラスもアイグリスも、神気を王へ与えようとはしていない。彼らの内では既に取り決められた計画なのだろうか。ならば、あとはメリウスがその計画に乗るか否か、それだけである。

「私が思うより、あなたは賢明であったのだな」メリウスは壇を下り、ヴァイタスの元へ歩み進んだ。そして彼が差し出す剣を受け取った。

 ヴァイタスの微弱な神気が、安堵を得たように揺れた。そして彼は剣を構えた。「先ずは手本を示そう。その折には貴殿に斬り掛かるが、受けるも避けるも自由だ。いずれにせよ、ここで殺めるような真似はせぬ。貴殿が要領を得て斬って返してきたなら、私は貴殿を殺す心算で参る」

 断りを入れた後、ヴァイタスは瞬きも終わらぬ間に凡そ十歩分の距離を詰め、メリウスの右手側に剣を薙ぎ入れた。メリウスはそれを、ヴァイタスが振るう剣の片割れで弾き返した。

「流石、私より六百年も先んじて生まれてこられただけのことはお有りだ。想像していたよりも張り合いがある」ヴァイタスは感嘆しながらも、人の目では到底捉えられぬ神速の剣捌きを披露した。衰弱したとて半神の身。これが終いの戦いと覚悟した彼は、持てる力の尽くを発散しようとしているようだった。

 メリウスは退き、弾いた。彼の瞳はヴァイタスの刃を確と捉えていたが、衣服の端は切り裂かれ、皮膚もまた傷を負った。ヴァイタスは笑んでいた。邪気のない幼子のようだと、メリウスは感じた。故に悲しみを覚えた。本来のヴァイタスとは、このような面を持つ者なのだろう。クレスの民は戦を知らない。隣人同士で言い争うことこそあれ、集団同士での殺し合いなどとは縁がない。それは彼ら元来の性質がそうさせてきた。ヴェントの民は戦を好む。これもまた彼ら元来の性質がそうさせる。戦乱の血に染まるヴェントを治めるために、ヴァイタスは己の無邪気さを封じ込めたのだろう。父である高神フェムトスに倣わんとして、半ばは人であるというのに、人らしき情をひた隠し。ヴァイタスの剣を受けるたびに、メリウスの内に『無情な王』の苦悩が流れ込んできた。メリウスは打ち返しはしなかったが、ヴァイタスにとってメリウスは、長き生の中で唯一その力の全てを以て張り合うことのできる相手だったのだろう。彼の配下である人間たちには決して振るいはしなかった神力の剣、その真髄を目の当たりにした彼らの驚嘆と畏れが、二人の半神を囲んでいた。

 だが、やがてヴァイタスはメリウスの様子を訝しみはじめた。「なぜ返して来ぬのだ。そろそろ十分に要領を得たであろう。それとも死が恐ろしいか。細君は貴殿を待っておられるやも知れぬぞ」

 ヴァイタスの挑発にもメリウスは乗ることなく、受け身でいるばかりだった。しかしついに彼は踏み込んだ。メリウスは突き出されたヴァイタスの剣先にその身を預けたのである。メリウスの腹部を貫き背から突き出た剣を前にして最も驚愕したのは、無論ヴァイタスであった。

 メリウスは、身を突き刺す剣の柄を握ったままで一切の動きを止めたヴァイタスの手を、自らの手で握った。そして神気を尽かせようとしている半神を抱き寄せ、己の気を流し込んだ。メリウスの腹に、より深く刃が刺さった。そこから漏れ出る神気をも、彼はヴァイタスへ与えた。

「貴様、どういった心算だ」空になった体に注がれるメリウスの気に震えながら、ヴァイタスは呻いた。

「人とは多様な生き物ではないか」メリウスは自らの気を惜しみなく、無遠慮にヴァイタスへと与えながら言った。「神も同じだ。メレーとフェムトスの性質が異なり、我々が其々の性質を受け継いで生まれたのならば、それは意味があってのことではなかろうか。クレスの民には私が必要で、ヴェントの民にはあなたが必要なのであろう」

「私にはこれより先の展望が見えぬ。この民を恐怖で支配する以外の術を見つけられぬ。いつまで続ければ良い」ヴァイタスは注ぎ込まれる異質な神気に戸惑いながらも、もはや抵抗はせず、受け入れることを許しながら、抱く迷いを吐露した。それはメリウスの耳にのみ届く言葉であった。

「あなたは孤独であるか」メリウスは訊ねた。

 ヴァイタスは翡翠の瞳を伏せる。「判らぬ。だが、神々は私に力を与え賜うた」

「助力を請うことは弱さではない。それが神に対してであろうが、人間に対してであろうが」メリウスはヴァイタスの背を撫ぜ、その鋼鉄に覆われた胸を押した。腹を貫いたヴァイタスの剣を引き抜いた彼は、数歩後退り腰を突いた。己が今現在持ち得る神気の半ば以上を割いて与えたがゆえに、メリウスの意識は遠のいた。そこへすかさず、リヨン、トーラスが来て、メリウスがヴァイタスに与えた神気を補った。

 アイグリスは急速に注がれた他者の神気を、上手く己のものとして処理できず、やはり膝を突いてしまったヴァイタスに寄り、彼の身にメリウスの気が馴染むよう力を貸していた。

「メリウス王、感謝する。我らの王は生まれてこの方、何者の神気も借りようとしてこなかったのだ。死なれては困ると言うのに」トーラスが己の気をメリウスに分け与えながら言った。

 メリウスは他の神気を取り入れることには慣れたもので、すぐに活力を取り戻した。「なるほど、他の気を受け入れたことがないのか。一刻も争うと思い、急いで流し込んでしまったが、少々悪いことをしたか」メリウスは、トーラスとアイグリスの期待に応えることを選んだのであった。弱ったヴァイタスには聞こえてはいなかったのであろうが、二神の言葉は戦いの間絶え間なくメリウスへ届いていた。「どうか、殺めてくれるな」と。メリウスは膝を突いたヴァイタスの元に、彼の配下である人間らが歩み寄る様子を見守った。

「王よ、ご無事でありますか」と、ヴァイタスの配下の者たちが彼の元へ駆け寄り訊ねた。彼らの目では状況を把握することは困難だったろう。気づいたときにはヴァイタスの剣がメリウスの腹を突き破り、そして両者が膝を突いていた、程度のことしか解らぬに違いない。

 メリウスは、半身らしい輝きを取り戻し始めながらも、未だ胸と頭を押さえて蹲るヴァイタスへ声をかけた。「恐怖のみで支配された者らが、その様に主人を案じるものだろうか。ヴァイタス、人を信頼してみるが良い。きっとあなたが思っているよりも、あなたの民は王を信頼している」

 ヴァイタスは漸く整い始めた呼吸の合間から、「国をどうだのという取り決めは無かったことにする。相打ちであるのだから」と呟いた。

 しかし、メリウスは否定した。「いいや、決闘は明らかにあなたの勝ちであった。こちらはああも深く腹を貫かれたのだから。だが、そうとなると、困った。どうしたものであろう」

「相打ちだ」ヴァイタスは繰り返した。

「それで納得する者ばかりではあるまい」メリウスは言った。彼はヴァイタスの配下らを見渡し、その表情を窺った。

「王が無事ならば良い。国へ帰りましょう」と言う者もあれば、「それでは下の者らが得心せぬ」と主張する者もあった。

 メリウスは「どうしたものか」と、補填された神気を己の内で混ぜ合わせながら思案した。力を示し続けたヴァイタスにこそ畏れ従い続けてきた者が多いことは確かであろう。だからこそ、今後もヴェントの王として君臨することとなる彼が、武力での戦いにおいてメリウスに勝利を収められなかった、などとするわけにはいかない。そもそも、ヴァイタスが万全の状態で挑んできていたなら、メリウスは初めの一薙で絶命していたであろうという確信があった。さりとて、無論メリウスにクレスをヴァイタスへ渡すつもりはない。ゆえに彼は悩んだ。

 そのとき、低い轟きが遠方から響きやって来た。メリウスにとって慣れ親しんだ、地竜が身動ぐ音である。しかし、此度のそれは長らく続き、鳴動は増してゆくばかり。メリウスの脳裏に、古の記憶が蘇った。かの巨大な地竜が千年の眠りから目覚め、泳ぎはじめたのであろうか。

 不穏なざわめきが広間に広がる中、「これは何だ」とヴァイタスが呟いた。

 メリウスが「身を守れ」と叫んだ瞬間、轟音を伴いながら大地が彼らを激しく揺さぶった。広間は混乱に陥り、宮殿の内外から挙がる恐怖の絶叫がメリウスの耳へと届いた。柱や壁に罅が入り、天井の一枚岩から剥がれた月長石の破片が降り注ぐ。

 長い時間、メリウスはメレーに祈り続けていた。漸く地竜が去ったとき、広間内には硬い沈黙が満ちていた。人々は地に伏して身を震わせていたが、少なくともこの場にいる者たちに負傷した様子はなかった。それを確認したメリウスは窓辺へと駆け、街を見下ろした。そこは瓦礫が広がるばかりの光景と化し、硝煙が立ち込めていた。

 いつの間にか姿を消していたリヨンは、メリウスらの元へ戻るなり「海が来る」と言った。

 メリウスは怖気づき放心したヴェントの者らの意識を引き戻し、彼らの国の方角を示した。「直ちに国へと帰れ。間もなく大海が山となって押し寄せてくる。砂岩の道を決して足を止めずに走り、国へ渡ったら丘に登れ。蹲っている暇はない」

「重りを捨てろ」とヴァイタスが叫び、胸鎧と剣を罅割れた床に落とした。彼の配下らもまた鋼鉄を捨て、祖国の丘を目指して宮殿を駆け出た。ヴァイタスは暫しメリウスを見つめてから、人間たちを追って行った。彼の「動けぬ負傷者は置いて走れ。心中したくば残って構わぬ」という、フェムトスを彷彿とさせる冷淡な指示声が、メリウスの元へ届いた。

 メリウスはリヨンに、「セレネとイェラスの者を逃したい。私はイェラスに行く。あなたはセレネの者たちを丘へと引き上げてやってくれ」と頼んだ。

 だが、リヨンは「私の声は誰の耳にも届かぬだろう」と言った。時代は進み、人間はより変化した。彼らの目も、耳も、今や神の存在を認識することはできない。

「あなたの姿が見えなくとも、あなたが降らす雷は見える」メリウスは言った。

「丘を示したところでそれに気づくか。ならば雷撃で追い立てるしかなかろうか。恐怖の上に恐怖を与えるとは」リヨンは、しかしその様にする以外に方法はないと理解を示し、この北の都にて失われた多くの生命から気を集めた。

「救うための恐怖もあるだろう」メリウスはごく当然のことであるように言った。

 リヨンは笑った。「確かに、原始的な恐れはそのように作用するものだ。だが、人間は随分と複雑な生き物になった」気を十分に取り込んだかれは、砕かれた青色金剛石の煌めきを纏わせながら、セレネの方角へ向かった。リヨンは黄金の竜へ姿を変えて天空を舞い、その羽音は雷鳴となって轟いた。

 メリウスはイェラスへと向かい、建造物の倒壊から免れた人々を丘へと導いた。そして千年前に勝るとも劣りはしないピトゥレーの怒りに呑み込まれ消えゆく街を、泣き叫ぶ人々と共に見下ろしていた。

 ヴェントとクレスを繋ぐ砂岩の道は、跡形もなく消え去った。

「かれは地竜と闘っている」と、かつてリリエはピトゥレーについて語っていた。メリウスにはその必要性が理解できなかった。争う意味があるのか。地底を泳ぐ竜は確かに、激しい破壊を地上にもたらす。しかし、それに対抗するピトゥレーによって沈められる大地は、更なる被害を蒙る。人とは地上に生きるものである。人のみならず、多くの生き物は地上に住まう。メリウスにとって、ピトゥレーの対抗心は全く無意味なものであり、不要なものであった。

 ヴァイタスを国へ帰し都へ戻り、ひと月、ふた月を過ごしたメリウスは、ようやくアウラを失った実感を覚えはじめた。彼の感情は暗く沈み、深海の底に縛りつけられていたケーレーンを思い明かす夜もあった。かれのアルブスを見上げ輝いた水晶球の瞳は今、どうなっているであろう。かれはまた深海の底に鎖を巻かれ縛りつけられているのであろうか。そのような想像を巡らすほどに、メリウスはピトゥレーへの怒りをも強く覚えた。アウラが四百年間治めた北の都は、瓦礫さえも残さず海に攫われたのである。

「かれを憎めば、悲しみは紛れますか」と、ある沈みきった夜に現れたメレーは、メリウスに問いかけた。

 メリウスは「分かりません」と答えた。「悲しみと怒りが入れ替わりでやって来る。いずれの感情にも囚われぬ時はない。苦しみは紛れるどころか増しているようにも思えます」メリウスは己の心境を探りながら、少しずつ言葉にした。

「一度、ピトゥレーと話してみなさい」と、メレーは言った。

 メリウスは「馬鹿らしい」と一蹴した。「冷静でない口論などしたくはありません。もう、子供たちに国を任せたい。私は十分に事を成したでしょう」

「まだあなたの役目は残っています」メレーはメリウスが退くことを許さなかった。

「あなたもやはり無情だ」メリウスは頭を抱え呻いた。「良いでしょう。今からかれに会いに行きます。そこで私が殺められたなら、どうぞ諦めてください」メリウスは自棄になったようにサファイアの座を立ち、大海原のさなかにある海神の神殿へと向かった。

「万が一にも、そのようなことがあったときには」メレーはメリウスの背に言葉を掛け、光たる姿を消した。

 メリウスがピトゥレーの神殿へ赴いたのは幼年期以来のことである。彼の記憶に朧げに残る、姉たちと共に見上げた巨大な柱は、千年前となんら変わりはしない。今も昔も守る者のいない門は厳然と大きな口を開き、やって来る心意気のある者ならば来るが良い、といった主の意思が反映されているようだった。メリウスは静まり返った通路を進んだ。言葉にならぬ拗れた感情を抱えながら、靴音を高くして、周囲になど見向きもせずに、ピトゥレーが座する神殿奥を目指していたはずの彼だったが、いつしか立ち止まっていた。

 海の植物を模した彫り物に飾られた壁と、立ち並ぶ高い柱が、メリウスを囲んでいる。通路の中心を流れる、透き通った海水の中にきらめく小さな精霊たち。静けさの中には、流水の音が響き渡る。理知的な青と、安らかな緑、光によって浮かび上がる静謐さは、この神殿の主の気性を思わせるには、あまりにも優美であり、神聖味を帯びすぎているようにメリウスには感じられた。

 メリウスは戸惑いを抱きながら、再び足を動かし通路を進んだ。その先に、ピトゥレーはいた。メリウスにとっては、長い時を経ての再会であった。しかしピトゥレーにとっては、数日ぶりといった具合であったやもしれない。かれはメリウスが千回と生まれ直すことができるほどの時間を生きてきたのだから。

 ピトゥレーから最後に掛けられた言葉が、メリウスの中で鮮明に蘇る。かれから与えられた『愚か者』という一言は、メリウスを苛んできた。いくら偉業を成し人々から崇敬されようと、メリウスの心の端には『私は愚かだ』という思いが常にしがみついていた。幼かった当時、ピトゥレーの叱責にメリウスは恐怖し、その恐怖は彼の記憶に深く刻まれた。口応えなど赦されない、言葉も動きも封じられる程の威圧感が、ピトゥレーには確かに在ったのである。

 今も尚、ピトゥレーは巨大であった。座していてもかれの青い目線はメリウスの頭上高くにあった。かれはメリウスを見下ろしながらも、何の言葉も発することなく、ただ、その厳しい顔立ちを凪の海のようにして、小さな半神を眺めていた。

 メリウスの喉から言葉は出なかった。この神殿へ至るまでは確かに、渦巻く様々な感情の中から、文句の幾つかを訴え、それによって怒りを買い殺められても構わぬという心持ちであったのだ。だが、神殿の中に踏み込み、いざ海神の前に立ったとき、メリウスの感情は鎮まりきっていた。哀しみと怒りは、もはやメリウスのものではなかった。消えたわけではない。ただ、彼はそれを俯瞰するように観ていた。メリウスの魂は、憎哀による支配から解放され、ただそこにある。

 原初の神と半神は、長らく互いを眺めていた。

「私は海を統べながら、海に支配されている」ピトゥレーが言った。かれの深い声は、神殿内に響き渡った。「お前が人の神、王と成るべくして生まれたのと同様、私にも役割があり、そうあるべき姿がある。お前たちにとってピトゥレーが荒れる神であるならば、私はそのようにある」

「あなたは、人によって定義づけられた存在だと、そのように言うのですか」メリウスは訊ねた。彼の言葉は、彼の口を使っては発せられなかった。

 ピトゥレーは呼吸するように瞳を伏せ、開いた。「私はただ、こうして存在するのみだ。凪の海ならばその様に、荒れる海ならばその様に」

「あなたはなぜ、地竜と争うのですか。あなたがたが争う度に、地上では多くの者の命が奪われる」メリウスは抱き続けてきた疑問を伝えた。その問に、個としての彼が抱いてきた怒りが混ざることはなかった。

「お前が指す地上とは、緑に覆われ、陸の生き物が過ごす狭き場所でしかない。深海の底を見たお前は、それを何と考えた」ピトゥレーが問いを返した。

 メリウスは深い水を潜り進んだ先にある行き止まりを思う。それが何か、彼が考えたことはない。海の底とは何なのか。メリウスは沈黙し続けた。彼は答えを導き出せなかった。

「大地だ」しばしの後、ピトゥレーは答えを与えた。

 メリウスはピトゥレーから与えられたものを反芻し、続くピトゥレーの言葉に耳を傾けた。

「お前達が『陸』と呼ぶ場所に立つのと同様、私は大地に座している。地竜が私の下で暴れるのなら、私はそれを押さえつける。メレーより与えられた私の役目だ。盃を傾ければ水は溢れる。傾けられようとするその盃を、私は引き戻す。ケーレーンは私が生み出した最初の神だった。かれの巨大な躰は重石であり、数多の手脚は海の底の大地が裂けぬよう、掴まえる為にある。千年前、かれはお前に連れられ海底を離れていた。そのとき不運にも、かれが掴まえている筈だった海底が裂け、地竜が飛び出した。盃は傾けられるが儘に傾き、陸へと溢れてしまった」

 メリウスは自分がケーレーンを連れ出したことが、千年前の惨劇をもたらしたことを知っていた。だが、メリウスは全てが己の責任であるとも思えなかった。「ケーレーンは孤独だった。哀しみと怒りを抱いているかれを見て、私はあのひとを連れ出してしまったのです。あなたなら、かれに友を与え孤独を和らげてやれたのではありませんか」

「時は神をも変質させる」ピトゥレーは呟いた。「私はかれに感情を与えなかった。不要なものだと考えたからだ。しかし、いつしかかれは孤独であることに気づいた。哀しみを知り、怒りも知った。私はかれに感情を与えなかったが、世界を観る力は必要と考え与えていた。それがあの者を変えた。かれは己の姿が他の神と異なることに気づき、それはなぜかと私に訊ねた。私は『お前は神ではなく、怪物だからだ』と言い、突き放した。当然、かれは怒り狂った。かれは私を呪い、私はかれを海底に縛りつけた。かれの怨み言は日々私の元へと届き、私はそれを聞いていた」

「なぜ、そのようなことをしたのですか」メリウスは、高位神の間で行われたやり取りに、苦しみを覚えつつ訊ねた。

「どうあっても、あの者を自由にしてやるわけにはゆかなかった。嫉妬が他の神へ向けばその者を殺す。ケーレーンの力は強すぎる。ならばその怒りを全て私に向けさせる他ないと考えた」ピトゥレーは沈着として言った。「だが、お前がケーレーンを連れ出した日、天上の国を見上げたかれは己の役目を悟ったようだった。かれは喜びを知り、私へ呪詛が投げかけられることはなくなった。そして己の役目を全うした」

「ケーレーンはどうしているのですか。先日もまた、地竜が暴れたのでしょう」メリウスはピトゥレーの言葉によって不安を感じ、訊ねた。

 ピトゥレーは淡々と答える。「かれの躰は砕けてしまった」

「死んでしまったのですか」メリウスは愕然とし、叫んだ。

「否、生きている。だがかれの躰を繋ぎ合わせるためには大量の神気が必要だ。元の力を取り戻す為には、また千年かかるだろう」ピトゥレーは言った。「代わりのものを幾らか用意はするが、ケーレーンほどの力を持つものをつくることは難しい。あれは私の分身だが、私の力の殆どは、かれが持っていた」

 メリウスは正に今与えられようとしている真実に、生まれてこの方、これ以上にないほどの慄きに身を震わせた。「ケーレーンは、あなたなのですか」

「そうであるとも言えるだろう」ピトゥレーはためらいもせずに答えた。

 そのときメリウスの記憶の中で鮮明に蘇ったのは、己を『友』と呼んだ巨大な神の姿だった。万年の孤独を過ごしその心を悲哀と怒りに侵され、自身を蔑む寂しい神の姿だった。メリウスを背に乗せ、深海の底より出でて天上の国を見上げ、水晶の瞳を輝かせた、わずかな時間のみを共にしただけの、しかし千年間一時たりともその存在を忘れはしなかった、ケーレーン、またの名をピトゥレー、荒神とも呼ばわれる大海の統治者の姿であった。メリウスのサファイアの瞳は、涙に潤んだ。彼は淡い水面下からピトゥレーを見上げた。「あなたは私を友と呼んだ」

「それはケーレーンの意思だ」ピトゥレーは短く言った。

「しかし、ケーレーンはあなたなのだ」メリウスはピトゥレーの鉾を携えた右手へと手を伸ばした。「あの日、私はかれの言葉に応える間もなく別れてしまった。私は無知で、あなたが何者たるかも知らず、言い伝えられるがままを真実と思い込み、あなたを憎みもした。私が間違っていた。どうか赦されるのなら、私もあなたを友と呼びたい」

 ピトゥレーはサファイアの瞳を伏せた。そしてかれは玉座を立った。不思議なことに、先程までメリウスの遙か高いところにあったかれの目線は、メリウスより僅かばかり高いところまで下りてきた。

「恨まれ謗られることには慣れている」ピトゥレーは言った。細波の様な声であった。「そう思っていた。しかし、私は心を閉ざしていたに過ぎぬ。メレーは慈悲深き神だが、どれほどまでに私というものを理解していたかは知れぬ。真の意味で寄り添うことはできるのだろうか。かれらは初めから、我らの遙か高みに存在するのだから。私はかれらほどに厳然とし、崇高なるものではない。荒神と呼ばれたならば荒れる。私は完全なる不変の存在ではなく、偉大なる者と呼ばれたならばその様になり、海の嵐が私の怒りのためと言われたならば、私は海の嵐のために怒る」ピトゥレーの手が、メリウスの銀糸に覆われた頭頂へと置かれた。「お前が私を『慈愛溢れる強きもの』と思うのならば、私はその様にも成り得るのだろう」

 メリウスはピトゥレーの微笑を見た。それは彼の慈母たるメレーを彷彿とさせ、どの様なものかを知らぬ慈父のそれであるようにも感じられた。

「私はあなたを永遠に信じる」メリウスはピトゥレーの首へ腕を回し、縋りつき泣いた。

 ピトゥレーは幼子をあやすように、メリウスの背を撫ぜた。「ならば、私は永遠にこう在れる」

 王国に戻ったメリウスは、海神のための祭殿を造った。そして、海神の偉大さを人々に語り伝えた。

「誰も、ピトゥレーを恐れることはない。海は人類に恵みをもたらす。我らは大地に生き、海に生かされているのだ。クレスの民は、海神と共に生きてゆこう」

 やがて、クレスの民は巨船をつくり、陸地より離れ遙か遠方の海原へと進出していった。海神の守護を信じる彼らは、海を恐れなかった。

 クレスの民らの姿を見守り続けたメリウスは、二千年を生き、成すべきことは成したとして、ついに天上の国へと昇った。

 ピトゥレーはジュローラの近海に、巨大な神殿を創造した。それは他でもなく、偉大なる人神にして、ピトゥレーの理解者であり、途方もなく遠く歳の離れた弟であり、無二の友である、メリウスのための神殿である。

 突如として、もはや誰にも見えぬようになった古き神の力によって人目のもとに現れた、厳かにして静謐な神殿がメリウス王のものであることを、クレスの民には理解し得た。そして彼らは、神聖なる霊の抜け殻となった王の体を、その神殿内へ安置した。

 神殿は、海の中へと沈んでいった。

 メリウスの霊は天上の白き神々の国へ、肉体は偉大なる蒼き海へと還っていったのである。

 以上が、神にして人、最初の王、メリウスの物語である。

 彼は天と大海より、人の世を見守り続けていることだろう。

   原典 アルビオンの書『後世記‐メリウス王の章』

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