約束の還る海
第五章
外が騒がしい。漁師のおっさんたちかな。ああ、暑い。
……そうだ。今日帰ってくるんだった。だから、『早く明日にならねえかな』って思いながら、昨日は寝たんだ。起きねえと。
陽の光に照らされた部屋の中が、やたらと白い。風に煽られて広がるカーテンの向こう側には、すっかり青く染まった空。真っ白な雲は城みたいだ。今日は雷雨になるかもしれない。
まだ眠い。下の階から聞こえてくる物音。マリアが帰ってきてるんだな。腹減った。
ようやく体を起こして、背伸びがてら大あくび。なんだかスッキリ目が覚めない。気分はいいのにな。
日陰の床は冷たくて、足の裏が気持ちいい。ベッドの下に入れておいたサンダルを引っ掛ける。……あれ。また寝てる間にシャツ脱いじまったのか。裸で行ったら怒られるから着直さないと。ボタン二つくらい留めておけばいいか。ああ、暑い。
それじゃあ行こう。ドア開けて、廊下出て――。……なんだか広い気がする。変だな。
ちょうど上がってきたマリアと目が合った。……こいつ、こんなに化粧濃かったっけ。目元がまるで素顔と別人だ。それに、もっと淡い色の口紅のほうが似合いそうなのに。次の誕生日は、似合いそうな色の化粧品でも買ってやろうかな。俺が贈れば使うだろうし。
「あら、おはよう。ご飯作っておいたからね」
「うん」
「じゃあ、あたし寝るから」
「お疲れ様」
夜に働くのも大変だろうな。廊下ですれ違ってビックリした。すっげえ香水の匂いがキツい。昨日はそうでもなかったんじゃないか? なんだかおかしい。……まあいいか。
キッチンの台に料理が蓋して置いてある。適当な皿を取って、食えそうな分だけ盛り付ける。残りは親父たちの分だな。それにしても多いな。いつものことだけど。
この家のダイニングって、人いねえとこんなに広いんだな。いっつも集会場になってるから忘れてた。どこに座ろうか。せっかくだし真ん中で王様気分になってみるか。それで、食い終わったら港に行こう。たぶん、そろそろ戻る頃だろうし。
俺も本土に行きたかったな。なんで風邪なんか引いちまったんだろ。毎日毎日、暇でしょうがなかった。
海沿いの道を歩く。海がタールの壁にぶつかって跳ねる。陽光は白く熱く。あんなに濃い雲なら触れそうな気がする。
「おはようさん、レナ。セルジオら、ついさっき戻ったぞ」
「本当? やった!」
やっぱりみんな帰ってきた! どんな話が聞けるかな。俺が走り出したら、ちょうど風が吹いてきて、背中を押してきた。走って風と競争したらどっちが速いんだろう。さすがに風のほうが速いか。
なんか、すげえ楽しい。こんなに気分がいいのは久しぶりだ。船も見つけた。ここから大声出したら、聞こえるかな。
「親父ィー! お帰りィー!」
誰かが手を振ってる。聞こえたんだ。誰だろう。親父じゃないな。でもでけえから、コジモか? いや、違うエロイだ。さすが兄貴! いつも真っ先に気づいてくれる。
「ふう、お帰り……!」
「ただいまレナート。全力疾走だな。転ばないかヒヤヒヤしたぞ」
「風が押してくるんだよ」
「そうかそうか。じゃあ止まれないよな」
息せき切らせてる俺の頭の上に、兄貴の手が乗った。でかくて羨ましい。
「やめろよ、ガキ扱い」
「どうした? 髪が随分柔らかい。やっぱりウェリアの水が合ってるんだな、お前」
「やめろっての! 撫で回すなら犬か猫あたりにしとけよ」
「犬猫かあ。お前はどっちっぽいかなあ。人懐っこいけど、ちょっと気まぐれだし」
「俺は犬猫じゃねえっての!」
なんだよもう。髪だけじゃ飽き足らず、鼻だの頬肉だのつまんで遊びやがって。
「なあ兄さん、これは降ろしていいのか? ……ん、もしかしてレナート……、だよな? 大きくなったな! 兄さんとじゃれてなかったら分からなかった」
誰だこいつ。ううん、でも……、どっかで見たことあるような……。
「ああ、降ろしていい。……だめだな、この反応じゃあ、覚えてないってよ。仕方ないか。最後に会ったのは何年前だ?」
「五年くらいか? いや、もっと前かもしれない」
「じゃあ、良くて七つになってたかどうかってところだな。レナ、こいつはディランだ。俺の弟」
「これからセルジオさんの隊で世話になることになったんだ。よろしく」
兄貴の弟? 言われてみれば確かに似てるな。兄貴より小柄……というか、細いけど。年が離れてんのかな。でもまあ、兄貴の弟なら、きっといいやつだろ。
「じゃあ、ディランも俺の兄貴だな」
「おお……、なるほど。そうなるのか」
「可愛いもんだね。よかったじゃないか、ずっと弟を欲しがってただろ」
「いつの話してるんだよ……」
「ガキの頃さ。親父とお袋が困ってたっけ。俺も居た堪れなかった」
「もう忘れてくれ」
なんだよ、せっかく兄貴分にしてやるって言ってんのに。
「俺の兄貴になるのは嫌なのか」
「嫌じゃない! 嫌じゃないぞ」
「こいつは最近ちょっと生意気になってきたが、根は素直だから可愛がってやれよ」
「ああもう、さっきからガキ扱いすんなよ」
「なに言ってんだ。まだガキだろうが」
って、また頭を上から押さえつけられる。力強えんだよ。
「んぐ……。おいディラン。兄貴の弟だからお前も俺の兄貴にしてやるけど、俺の方が隊じゃ先輩だからな」
「お、そうだな。じゃあ、色々とご教示くださいね、先輩」
「……『ごきょうじ』ってなんだ?」
「『教えて下さい』ってことだよ」
兄貴に訊いたら答えてくれた。なるほど、そういう言い方があるのか。勉強になった。
「いいぞ、任せとけ!」
「どうだ、頼もしそうだろ」
「はは、そうだな」
笑われた。もしかして馬鹿にされてるのか?
一人で駆けてきた道を、俺と、親父と、兄貴と、ディランの四人で戻った。家に帰って、広いダイニングで昼食をとりはじめた三人と並んで、俺は朝飯が残った腹の中に水だけ流し込んで、会話に混ざったり聞いたりした。
「いいんですか、俺までご馳走になって」
「構わん。あいつはいつも作りすぎるから、一人多いくらいが丁度いい」
ディランは遠慮してるみたいだったが、親父の言うとおりだし、なにも気にすることねえ。
親父たちは融資してくれてる金持ちに、たまに近況報告だとかをしに本土に行く。あちこち寄り道できるわけじゃないけど、あっちは色々あるから面白い。だから行きたかったのにな。
「そうだ、帳面を持ってきたぞ。俺作の前期リラニア語辞典」
「あったの? やった!」
兄貴から分厚い帳面を受け取った俺は、部屋の中を駆け回ってからソファーに尻で着地した。
「それ、兄さんが論文書くときに使ってたやつだろう。理解できるのか?」
「元々エロイ仕込みだからな、それなりに読めるだろう。レナート。ちゃんと礼言えよ」
「ありがとう、兄貴」
「どういたしまして」
全く驚きだな。手書きなのに編集された本みたいだ。小さい文字でびっしり、現代語と、リラニア語とかルドリギア古語とかの古代語を並べて、どの文字が関連してるとか、変化したものだとか、その変化の経過とかが細かく書いてある。兄貴はこれ、全部頭の中に入ってるんだ。俺も覚えたい。どうしたらいいだろう。ひたすら読み込んでみるか。それとも書き写してみようかな。これがあればきっと、俺ももっといろんな石版の文が読めるようになる。そうしたら、今より親父たちの役に立てる。
「……なるほど、兄さんが教師か。学校には行っていないんだったか?」
「行かない」
「勿体ないな。高等試験受けてみたらどうだ?」
「こいつが同年代より詳しいのは古代語だけだ。せめて中等部で通用するか試す必要がある。たぶん無理だろうが」
「どうでもいいって」
「この島にも中等部までならありますよね」
行かねえって言ってんのに、ディランのやつ食い下がるな。
「そりゃあるがな、行きたがらねえよ。昔、初等部に半年くらいは通ったことがあるんだが。まあ、そのときにちょっとな」
馬鹿にしてくるやつらばっかりだ。『幽霊』とか言ってくる。最初は我慢してたけど、いい加減頭にきて殴ったら、俺の方が教師に叱られた。ふざけてる。親父たちと一緒のほうがずっといい。勉強だって兄貴が教えてくれたら十分だろ。
「お帰りなさい。ご飯足りた?」
マリア起きてきたんだ。さっき寝たばっかりじゃねえのか? そんなに騒いじゃいなかったけど。
「多いくらいだったよ。ありがとう」
「ならよかった。あら、誰? ……ああ、弟さん。名前なんて言ったかしら」
「ディランです、お邪魔しています。マリアさんですよね」
「知ってるんだ、あたしのこと」
「兄がよく話してくれるので」
「ふうん」
マリア、なんか嬉しそうな感じ。兄貴とマリアは仲いいからな!
「エロイ、いつ話せる?」
「いつでも。お前の都合がいいときなら」
「じゃあ今日」
「ああ、分かった」
「よし、レナ! 今日は俺と寝るぞ!」
親父が急にでけえ声出すから驚いちまった。
「はあ? どうせ酒飲むんだろ? やだよ、くっせえもん。兄貴と寝る!」
「なあ、おチビさん、こいつらの話聞いてたか?」
「お父さん、用事があるならどうぞ出かけてきて」
「二人して反抗期か? 用事ね、見つけてくるか。それじゃあディラン、一緒に退散しよう。レナート引きずって行こうぜ」
「なんでだよ! 俺だって兄貴と話したい」
「マリア、明日は譲ってやってくれ。悪いなエロイ、子供らが懐きすぎちまってさ」
なんで俺が引きずり出されてんだよ。俺の家だろ。いや、親父の家か。なんでだ? 久々にみんなでいられると思ったのに。
もうすぐアビリス島に着くからって起こされたけど、眠くてしょうがない。でも早く着替えて準備しなきゃ置いていかれる。
アビリス島って草がぼうぼうだし、木の枝とか葉っぱが体を切ってくるから、暑くても着込まないと怪我しちまう。毒虫もいるし。ヌメッとしたした変なのに血を吸われたりもするし。
着替え終わった頃にちょうど着いた。朝飯を食いそこねた。なにか残しといてくれたかな。
島に港なんてないし、周辺が全部砂浜だからこの船じゃ近づけない。手漕ぎの小舟に乗り換えて上陸する。俺は自分の荷物を持って、兄貴に貰った辞典もちゃんと詰め込んで、兄貴とディランが乗って待ってる小舟に飛び降りた。そうしたら、兄貴が朝飯の残りを挟んだ固いパンをくれた。
「やっぱり、空気が違うな。人がいないからか?」
ディランが深呼吸して言った。こいつはたぶん、まだあんまりこの島には来たことないと思う。まだ俺が赤ん坊の頃に、兄貴にくっついて来たことがあるとは言ってた。それで考古学に興味を持ったらしい。でも元々は魔道工学が好きだったらしいんで、そっちに強いプロメロスの大学に行って、卒業したから隊に加わったんだと。学校にも色々あるんだな。そういう話を聞くと、俺も嫌なこと言ってくるやつがいなければ行きたかったと思う。もう十二歳だし、今更七、八歳に混ざって初等部の三級生とかやりたくないから行かないけど。
「人がいないからってのはあるだろうな。それに、なんとなく神秘的な感じもするだろ」
兄貴は両手でオールを漕いでる。まだ上着を着てないから、日焼けした腕が見える。力を入れる度に筋肉がうねって、血管が浮いてかっこいい。俺はなんとなく上着の上から自分の力こぶを触ってみた。しょぼい。どうしたらそんなふうになるんだろう。なんてやってたら、兄貴に笑われた。
「レナートは、ディランみたいな体型になりそうだな」
「えぇ……」
ディランは細い。痩せっぽちじゃないけど、兄貴と比べたらずっと細い。
「そんなに嫌か? 俺だって人並みに筋力はあるぞ。兄さんが無駄にでかいだけじゃないか」
「別に無駄じゃないだろう。こうしてお前たちの分も漕いでやってるんだから」
「……それはそうだな」
まあ、ディランの言うことも分かる。ディランが細いって言うより、兄貴がでかいんだ。
「でもさあ、頭良くて体も強いって、なんかずるくね」
「そう言われても、こればっかりは体質だからな……」
一人でオールを漕ぎ続けても息切れ一つ起こさないんだから、やっぱりすげえや。
なんて、喋ってる間に船は浜に乗り上げた。
雨季を避けて来るから半年ぶりだ。すごく久々な気がする。砂浜は相変わらず白くて、きらきらしてて、島の真ん中がこんもりと山になってる。周辺は森。砂の地面から数歩進んだら草木が生い茂ってるけど、その中に通り道を作ってある。親父はいずれ山の上まで伸ばすつもりでいるらしいけど、途中を掘ってると色々出てくるからなかなか進まないらしい。
親父は兵役時代に工兵部隊にいた人らを主に雇っている。切ったり掘ったり作ったりはお手の物だから。
アウリーは二十五歳から三年間の期限付きで徴兵される。男は基本的に強制だけど、相応の理由があれば免除される。女の人は志願制。職業として軍人やってる人は少ないらしい。隣のファーリーンはよく中で揉めたり外と喧嘩したりしてるから、専門にやってる人はたくさんいるみたいだし、いざってときは商人だろうが農民だろうが問答無用で兵士として引きずられていくんだって聞いた。怖いなあ。でも、アウリーは内で揉めたり他と喧嘩したりってあんまりやらない。むしろ、ファーリーンの喧嘩に巻き込まれることのほうが多いらしい。べつに放っておけばいいじゃん。って思うけど、仲がいいからそういうわけにもいかないとか。
二十人でこの島を探るのは容易じゃない。親父としては、本当は百人とか、もっと雇いたいみたいだけど、給料だとかを考えると今の人数が限界らしい。実際、この島を調査したって金は稼げない。むしろ使わなきゃいけない。金持ちが融資してくれる分でやりくりしてるんだから。ちなみに、俺は今のところタダ働き要員。親父に養ってもらってるから当然だ。十五になったら給料をくれるっていう約束だから、あと三年。それまでにちゃんと他のやつらに劣らないくらい役立つ人材になっておかないと。だから、兄貴とかから色々教わってる。
森を入って少し行ったところを切り開いて、滞在中の拠点を設営できるようにしてあるんだけど……。半年も放っておくと草が生え散らかってるから、いつも一日目は草刈りとテント張りで終わる。
この島って、虫や鳥はいるけど、動物は――野ネズミとかどこにでもいそうな小動物さえも見かけられない。生き物の気配が少ないからか、夜はちょっと怖い。凶暴な動物がいたら、たぶんその方が怖いだろうけど。
翌日は山に登った。相変わらず草木が邪魔で、小石がゴロゴロしてる。歩けるくらいには整えてあるけど、それも途中まで。前回、ちょうどスコップに当たった石版を掘り起こしたところで帰らなきゃいけなかったから、今回は解読班を作って、残りのやつらで先の通り道を作る。俺は解読班。勉強がてらな。そもそも、力仕事ではあんまり役に立たないし。
兄貴が石版の泥を拭って、親父と一緒に刻まれた文字を確認する。石材は、少なくとも自然界から切り出せるものじゃない。古代人が古代の技術で作った、風化しにくい素材だ。
書かれてる文章自体は短いリラニア語だけど、時期によって字形とか文型とか結構違うから、その辺りを照合しながら読まなきゃいけない。けっこう大変で、ちょっと日も傾きかけてきた頃になっても全部は読めなかった。
「『我々は守り人として、死しても役目を果たすため、この盾を残す』。出だしはこんなものですかね。ここに『王』とあるので、その関係かもしれない」
「さあて、『守り人』ってのはなんだろうな」
とか言って、親父はメリウス王に関連する存在じゃないかって見当つけてるみたいだけど。あんな人が本当にいたのかなあ。
「ん、この紋章は……。いや、魔法陣か? こっちは疎い。誰か見てくれ」
「魔道工学やってたなら詳しいだろう、ディラン」
「ああ、じゃあ、ちょっと見てみます」
有能な兄弟だ。二人いれば十分なんじゃないか? ディランは紋章だか魔法陣だかをしばらく睨んでたけど、首の傾きがだんだん強くなっていく。
「たしかに魔法陣だとは思う。だが記述式が古すぎてどういうものかは分からないな。なにかに反応して起動する仕組みに近そうだが……。たぶん、五千年……から七千年くらい前の形式じゃないかな……。一万年までは遡らないと思う。そこまでいくともう、俺の知識じゃアタリもつけられない」
「そんなに昔の石版って、こんな浅い地層にあるのか? テーテスの火山灰、二、三回は浴びてるんだろ?」
「この辺りは積もっても、雨で流されるんだよ。文明滅ぼせるくらいは一気に来るが」
そっか、雨季に毎年さらされるからな。平地だったら固まっちゃうかもしれないけど、結構斜面になってるし。海の方にたまってるのかも。さすが親父、回答が早い。
「ねえ、俺にも見せて」
俺は近くで見たくなったから、ちょっと前に出てみた。ディランがどいてくれて、魔法陣みたいな紋章が見えた。でも、なんでかそれを見たら、急に額がじりっとした。
紋章が青く光った。紋章の上に埋め込まれていた球体も青く光って、一瞬、俺の腕くらいの束になって、眩しくて目がくらんだ。
兄貴が倒れてる。なに? なんか、焦げ臭い。
頭がふわふわする。飛んでるみたいだ。
「レナート!」
大きい手が俺の腕を掴まえた。景色が歪んでるけど、兄貴だってすぐ分かった。ふわふわする。……ああ、落ちてるんだ。そういえば、片側が崖になってたっけ。俺、なんで落ちたんだろう?
俺たちのことを呼ぶみんなの声が遠くなっていく。死ぬのかな。でも兄貴が一緒に来てくれるなら、〈死の国〉に行っても死の君と上手く交渉してくれるんじゃないかな。なんて、ぼんやりと思った。
水音に包まれながら意識が戻った。目に見える光景を眺める。深い枝葉が囲んだ空は藍色で、真ん中で白い満月が輝いていた。夜なんだ。
急に寒気がして、俺は飛び起きた。崖から落ちたんだった。あれからどうなった? 服がびしょ濡れだ。きっと、この川に落ちたんだろうって、すぐ近くの清流を見て察した。兄貴は? 一緒に落ちたなら、近くにいるはずだと思って、慌てて周りを確認した。
「……目が覚めたか」
「あ、兄貴……」
俺は言葉をほとんど忘れた。兄貴は脱いだ上着で脇腹を押さえていたけど、覆いきれていないところが、赤く焼けている。今も、小さな火がその火傷の範囲を広げてるみたいだ。これはなんだ? どういうことなんだ……。
「兄貴、それ……、燃えてるの?」
「ああ……、水では消えないんだ。古代人の罠に掛かっちまったみたいだな」
あの石版、俺が近づいたら反応したんだ。
「俺のせい……」
「何言ってんだ。何も悪いことなんかしちゃいないだろ」
「でも……」
「気にするな。大丈夫だから。じきに助けも来るさ。……ただ、少し流されちまったから、明日中には難しいかもしれんが……」
「でも、兄貴……! それ、早くなんとかしなきゃ」
死んじまう。
「そうだな……。どうしたらいいんだろうな……」
また寒気がして、体が震えた。怖い。
「ああ、服は脱いで乾かしておけ。水に熱を持っていかれるから」
兄貴の言うとおりにした。この辺りは昼は暑いけど、夜は結構冷える。脱いだからってあったかくはならないけど、さっきよりはマシだ。
「こっち来な。くっついてりゃ温まる」
また兄貴の言うとおりにした。大木の根本に寄りかかってる兄貴の横に俺も座り込んで、兄貴の腕に体をくっつけた。
熱くてびっくりした。兄貴、すげえ熱が出てる。
「兄貴、水飲んだほうがいいんじゃない?」
「ああ、さっき飲んだ。その震えが落ち着いたら、ちょっと持ってきてもらうよ。いい水だから、お前も飲んでおきな」
「うん……」
月が森の中に隠れていく。辺りが暗くなっていく。怖い。
「大丈夫だよ、ちゃんといるから」
兄貴が言ってくれる。でも、俺なんにもできない。荷物もなくなっちまった。夜が明けたら、木の実とか探してこよう。
気づいたら朝になっていた。少し眠っていたみたいだ。
でも、兄貴は一睡もできなかったらしい。火傷が広がってる。今も赤い火種が、じりじりと皮膚を焼き焦がしてる。兄貴は横になって、時々呻いてる。早く、誰か助けに来てくれよ。
「兄貴、布洗ってくるよ」
「……ああ、頼む……」
声に力がない。預かった布は、血で汚れてた。赤い色素と黄色の液体が大量に染み込んでて、嫌な臭いがした。俺は川の水でそれをできる限り洗い流して、冷たい水を含ませて、兄貴に返した。それから、近くに生えてた大きな葉っぱで作った器に水を汲んで、飲んでもらった。
「……大丈夫か? 腹減ったんじゃないか」
「俺は平気……」
だけど、兄貴が平気じゃない。なのに、俺の心配ばっかりしてる。朝のうちに服は乾いたから、それ着て、なにか食べるものを探してこよう。果物とかがあればいいけど。
柑橘の木が、運良く近くに生えていた。皮が緑で酸っぱいかと思ったけど、齧ってみたら甘かったから、何個かもいで帰った。
「兄貴、これ美味しいよ。食べてよ」
「ああ……、そうだな……」
俺は果物の厚皮と薄皮を剥いて、身だけにして兄貴の口に入れた。
そうしたら、兄貴は激しく咳き込んだ。内臓ごと出てくるんじゃないかってくらいの勢いで口から真っ赤な血が吐き出されて、鼻からもとめどなく鮮血が滴った。
「兄貴!」
兄貴は木に寄りかかって、荒い、水気まじりの呼吸を繰り返す。
火傷が胸まで広がってきてる。どうしたら、この火を消せる? 兄貴の皮膚がどんどん焼けて、溶けていく。きっと、皮膚だけじゃない。体の中も焼かれてるんだ。俺はそれを見ていることしかできない。
石版に近づかなきゃよかった。でもなんであんなふうになったのか、俺にはわからない。
兄貴はもう、話しかけてもほとんど返事をしない。そりゃそうだ。ずっと体を焼かれてるんだ。さっきまで話せてたのが不思議なんだ。俺が怖がってるから、無理して平気そうに振る舞ってたんだ。
でももう、そんな余裕もないみたいだ。
また日が暮れる。助けが来ても、兄貴は助かるのか? この火の消し方を、誰か知ってるのか? 早くしなきゃ……。
「殺してくれないか……」
「……兄貴……」
夜中、ずっと黙り込んでた兄貴は掠れた声で言った。もう、首まで焼けてしまった。あれからずっと、鼻からの出血は止まらない。体中の血が無くなるまで、止まらないのかもしれない。
きっと、すごく痛くて、苦しいんだろうって、思う。けど、俺は兄貴のこと殺せないよ……。
「なんで……、まだ生きてるんだ……。もう、気がどうにかなる……」
「兄貴ぃ……」
俺は不安でしょうがなくなって、兄貴の近くに這っていった。溶けた肌を見るのが怖くて、焼ける臭いが嫌で、少し離れてたんだ。
兄貴の濁った瞳を見て、また怖くなる。兄貴の右手が俺の顔に触れる。
「……俺は……、もう死んだよ……」
「生きてるよ……?」
「……いいや、……死んだ」
いやだ。そんな怖いこと言わないでよ。抱きつきたい。けど、そんなことしたらきっと兄貴はすごく痛いだろうから、できない。
「はは……」
「兄貴?」
急に笑いだした。どうした?
「は、はは、ははは!」
「兄貴!」
どうかしちまった? もう、だめなのか?
「……え?」
月が見えた。まだ、満月の日を過ぎたばかりの、まんまるの月が。それと――。
「兄貴……?」
「ははは! おい、レナート、見ろよ、この様を! 酷いもんだ! もうじき全身が溶けて、皮なし人間になっちまう! それでも死ねねえってのか!? そんな馬鹿なことがあるか!」
兄貴は俺の肌着をたくし上げて、体にまとわりつく火種を押し付けてきた。でも、俺は焼けない。熱くもない。ただ、発熱した人間の温度を感じるだけだ。皮膚がなくなって、漏れるばっかりの兄貴の体液がまとわりつく。それは、生きてる人間からはするはずのない臭いで、俺は吐きそうになった。
「兄貴、横になろうよ。大丈夫だって、なんとかなるよ……」
俺はようやく、それを言うのが精一杯だった。兄貴は無言で、俺の上にかぶさりながら、俺を見下ろしていた。瞬きもしないで。一瞬、死んでしまったんじゃないかと思った。
いや、……やっぱり死んじまったのかもしれない。兄貴が言ったんだから、きっとそうだったんだ。
痛い。怖い。痛い。熱い。
「嫌だ! 兄貴! やだ、嫌だあ!」
俺は喚くことしかできない。力で敵いっこないんだ。兄貴が置いて行っちまったこのでかい体をどうにかするなんて、無理だ。
痛い。体を串刺しにされてる。兄貴の顔が焼けていく。俺の体が、内側から兄貴の体に焼かれる。
「いたい、よ……、あにき、ぃ……。うっ、あ、あぁ……」
何度も何度も……、何度も何度も何度も何度も刺し貫かれる。血のにおいが内側から迫り上がってくる。
顔の下半分まで焼けて溶けた兄貴の顔が、俺の視界いっぱいに広がってる。血走った目。濁った瞳。飢えた野犬みたいに、血が混ざった唾液を垂れ流し続ける口。未だ鼻から滴り続ける鮮血。
血、血、血。命の色が、生き物から溶け出して、飛び散って、降り掛かってくる。
こんなの、兄貴じゃない。
「やめて……、もうやめてよ……」
やむわけない。これは死にかけの人間の雄で、兄貴じゃないんだから。
「ごめんなさい……、許してください……。ねえ、許して! お願いします! もう許してください! 助けて! 誰か、助けて!」
助けは来ないさ。俺が悪いんだ。
俺が、兄貴を殺したから。
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