ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
第六章

 揺れている。ほんの僅かに。人の声が遠くから、そして次第に近づいてくる。言葉が明瞭になってくる。

 だるい。重い瞼を押し上げた。組み合わされた、色褪せた木材。それは、見知った気がする天井の姿。

「起きたか、レナート。怪我はしてないみたいだったが、大丈夫か?」

 間近で聞こえた声の方へと目を向ける。そこにいたのは、……巻いた茶髪、オリーブ色の目をした男――。

「水、飲むか?」

 近づけられる、焼けただれて、消えていったはずの顔。

「――う……、ああッ! 嫌だ、寄るな!」

「ど、どうした……」

「あ……、兄貴……」

 緑の目が大きく開く。蒼白になっていく、覚えているよりもいくらか華奢な顔。……あれ、違う……こいつは……。

「……あ」

 部屋から駆け出ていったのは……。ここは? 船だ。俺は助かったのか? 今は……、俺は夢を見ていたのか? じゃあ、さっきのは――。

「レナート」

 黒い髭を蓄えた男は、記憶の中にある姿よりも随分と老けていた。

 ……そうか。あれから十年経ったんだっけ。

「……親父……?」

「ああ、そうだ」

「……俺、さっき……、ディランのこと、間違えて……」

「分かってる。しゃあないさ、なんとなく似てるもんな」

「あいつに、大丈夫だって……」

「ちゃんと伝えておく」

 十年。俺は、その間どうしてた? 眠っていたのか? いや、覚えてる。けど、なんだか現実感がない。全部、何もかも、これまでの全てが夢だったみたいだ。今もまだ。

「なあ、あの後……、あいつはどうなった?」

「あいつ? 誰のことだ」

「兄、……エロイ」

 自分でも、あいつをなんて呼べばいいのか分からない。どう呼ぼうとしても、収まりが悪い気がして。

「お前を見つけたときには死んでた。正直、あいつかどうかの判断はその場でつけられなかった。その後のお前の様子で、やっぱりエロイだったのかって分かったがな」

 やっぱ、死んだのか。結局、助け出されたときのことは覚えてない。意識がなかったんだ。島に戻った辺りから思い出せる。男が怖くて、大騒ぎしたもんだ。病院に突っ込まれて、体の治療を受けて――。でも精神がどうかしちまったから、そのまま丸一年病室からほとんど出られなかった。悪夢ばっかり見てて、もう終わったはずの出来事を夢の世界で繰り返し見ては、それがまた現実に起こったんじゃないかって、毎日錯乱していた。そして夢だったと気づけば、今度は絶望して打ちひしがれて、泣いたり怒ったり。

 俺は何に怒っていたんだろう。兄貴か、俺自身か、その両方か。いや、きっとこの世の全てだった。

「遺体はあの場所に置いてきた。図体がでかくて引き上げられなかったからな。それに、あいつだっていう確信もなかった。皆、生きてるって希望を持ちたかったんだ。お前を襲ったのはあいつじゃないってことも、信じたかった。俺もそうだった。だが、……特にディランはな」

「『海賊に襲われた』って周りに説明したのは、なんでだ。実際のところ、腹なんか切られちゃいなかったんだ。そりゃあ、痕なんか残ってるはずねえよな」

「お前が負った怪我があれだろう。正直に周りに話したら、お前の居心地が良くなくなると思ってな」

「はは、それは確かに」

 俺は笑ってしまった。なにも面白いことなんかねえのに。

 親父が俺を気づかって周りについた嘘を、俺は本当だと思い込んだわけだ。どうしてそんなに徹底して思い込めたんだか。あいつがいる本当の記憶を消し去って、嘘の情報から都合のいい記憶をつくりだした。まったく、呆れるほど器用な頭してやがる。

 それで、今の俺はなんだ? 嘘の記憶で生きてきた俺は、それ以前の俺と同じ人間か? ……なんて、馬鹿らしい。が、……実際、胸を張って『そう』と言えるだろうか。自分に問えば、肯定と否定が同じ具合で返ってくる。

 俺は誰だ? レナートか。少なくとも、外身はそうだ。中は? 俺は今も昔も『レナート』かもしれない。だが、一貫したそいつではない。……ああ、なんで俺は、自分のことを『そいつ』なんて、他人みたいに言うんだか。

「もう少しでウェリアに着く。休んでな」

 親父は部屋から出ていった。一人になっちまった。考え事をするにはうってつけってやつだ。今はあまり、そういうことにかまけたい気分じゃねえのに。

 むしろ誰かそばにいて、ベラベラ喋っててくれりゃあいいのにな。……独りは嫌だ。

 久しぶりのウェリア。なんて、たかが一ヶ月程度離れていただけのはずなのに、『十年ぶりだな』なんて片隅で思っちまった。この島の様子が変わっていくのを、俺はずっと見ていた。覚えてる。なのに、その実感がほとんどない。夢で見て知っている光景、って具合に近い。

 アンドレーアが興味深げに島を眺めてる。結局、船の中であいつとは禄に話しやしなかった。あいつのこれまでの人生ってのは、どんなものだったんだろう。俺は自分の記憶を思い出してから、片割れのことが気になり始めていた。

 港で俺たちを出迎えたのは、背の高い女。マリアだって分かるのに、なんでだか、急に印象が変わったような気になっちまう。実際のところは、ひと月前となんら変わっちゃいないのに。分かってるんだ。分かってるのに、感覚が追いついてこない。

 マリアは先に降りたアンドレーアに声を掛けようとして、やめた。俺だと思ったんだろう。顔だけは似てるもんな。雰囲気が違うから、すぐ気づいたんだろうが。それでもって、どういうわけなのかを親父に問い詰めている。事の経緯を説明されて、えらく驚いているんだろうなって感じだ。俺はその様子を、甲板の手すりから見下ろしていた。そうしたら、マリアと目が合った。俺はなんとなく、手を振ってみた。マリアは笑ったけど、たぶん、俺の様子が変だったんだろう。また荷降ろしに行き来する親父を引き止めて、話し掛けてる。親父は一言で伝えたようだった。きっと、『昔のことを思い出した』って具合に。マリアはしばらく固まって、それからぎこちなくまた俺の方を見上げてきた。俺はさっきと同じように、特に意味なんてなく手を振って、船を降りた。

「よお、久しぶり」

 なんて、自然と自分の口から出た言葉に、自分で驚いちまった。なにが『久しぶり』だよ。たかが一ヶ月ぶりじゃねえか。

「あ……、えっと、おかえりなさい」

 ほら、困ってるじゃねえか。しかしまあ、随分と落ち着いたもんだ。昔は顔の原型が分からないくらい厚化粧だったってのに。歩き方やら仕草やら、話し方やら……。

「綺麗になったじゃん。昔はそういうもんだと思ってたけど、その方が自然だよな。今思うと、あの頃は無理してたんだなって感じがする」

「……そう、おかげさまでね。ありがとう」

 ほら、もう困らせるだけなんだから、黙ってろよ。俺の思いを無視して口から言葉が出ていく。それにまた、俺はいちいち突っ込んで、独りで馬鹿みてえだ。まるで、誰かに体を乗っ取られたような感じ。でも、言ってることは俺の意見に反してるわけじゃない。ただ、どうしてそれを言っちまうのかが分からねえ。言わなくていいのに。黙ってりゃおかしなことにはならねえのに。口をついて出る言葉は、いかにも俺が十年間どっかをほっつき歩いてたような具合で、俺が築いてきた十年間をどこかにやられちまったみたいだ。なのに、なんだかそれが自然なことのような気がして――。ああ、全く、俺は自分が分からねえ。

 いつものように、〈星の砂〉に集まって今後の予定について話し合う。アンドレーアが加わったのもあるだろうし、親父の見立てが具体性を帯びたのもあるだろうが、いつもより真面目な雰囲気で、いつもより長引いた。いずれにせよ、俺がやることに変わりはない。

 そういや、前にアンドレーアから『なんでそんなに古代語に詳しいのか』って聞かれたっけ。誰に教わったのか、あのときは曖昧だったが。

「なあ、親父。昔あいつに貰った古代語の帳面って、どこにいった?」

「見るのか」

「あれば役に立つだろ」

「俺の部屋にある。お前が持っておく気があるなら返すさ」

 なるほど、隠しておいてくれたわけだ。あの雑多な本棚に紛れていたら分からねえだろうな。

 それと、ディランのことをエロイに間違えて怯えちまったんだった。ちゃんと謝ってなかった。いつもなら同席してるのに、今日は別のやつのところにいる辺り、やっぱり俺に気を使ってるんだろう。或いは本人が気にしちまってるのかもしれない。とりあえず、一言声掛けとくくらいはしておいたほうがいいはずだ。

「おい、ディラン」

「どうした?」

 いつもどおりだな。こいつももう兄貴と同い年になったのか。そう思うと、あいつは随分若く死んじまったんだなと感じる。俺もあと十年したら死んでるってことだ。

「さっきは悪かったなと思ってさ」

「ああ、その事か。気にしてないよ。それより、お前のほうが平気かと思って」

 俺の心配か。やっぱり兄弟だな。こいつが今、死んじまった兄貴に対してどんな思いを抱いているのかは分からねえ。けど、俺が知っている限りでは、兄貴のことを尊敬して、憧れてたはずだ。多分、昔の俺と同じような具合で。

「調子悪そうに見えるか?」

 平気そうにしか見えねえだろ、と思って訊いたら、案外ディランは慎重だった。

「今のところは大丈夫そうに見えるかな。俺の目には」

 なにか、見透かされてるような気がした。平気なはずなんだ。現に、そこまでおかしな言動はしてないはずだ。少なくとも、傍から見れば、俺は今までと概ね変わりなく振る舞ってるように見えるはずなんだ。なのに、どこかでやっぱり大丈夫じゃねえって騒いでる自分がいる――、ような気がしてる。ずっと胸の中で多足虫が這い回ってるような、詰まってるような気持ち悪さがある。でも、こいつを取り除いたら、なんとなく自分が狂っちまいそうな予感がするから、どうにもできない。そうさ、平気じゃない。具合悪いんだ。でも、それが言えない。そんなふうにも振る舞えない。

「なんだよ、何ともねえし、何ともならねえよ」

 ほら、『本当は調子悪い』って言えねえ。『正直、無理してる』って言えねえ。俺の口と体は、さも俺が何ともないように振る舞うのが上手くて、俺が言いたいことを言わせちゃくれねえし、俺が辛気臭く悄気しょげかえったようにすることもさせてはくれない。いつもみたいに、あっけらかんとして、陽気なように振る舞わせる。まったく自分の言動を制御できていない。けど、たぶんこの方がいいのかもしれない。怖いだの嫌だの、消えたい死にたい殺したいなんて騒ぎ始めたら、周りも俺も困っちまうから。

 話し合いも終わって、腹ごしらえも終わって、自分の部屋に行った。俺はなんとなく、部屋の中にあるものを片っ端から手にとっては眺めたりした。なんでだか、やっぱり変な感じがして仕方がない。棚に並んだ帳面を開いては、それを書いたときのことを思い出す。借りてきた本の内容を写したこともあれば、その日その時に思いついたことを乱雑に書き留めたこともある。覚えている。なのに、俺が書いたと思えない。俺の文字だ。確かめるために、同じ文章を適当な場所に書いてみた。同じ文字だ。間違いなく、俺が書いた。なのに、なんでそう思えないんだ。

 気持ち悪い。実は、俺は幽霊なんじゃないか。まだ生きてるって勘違いしてて、実際は妄想の世界の中にいるんじゃないだろうか。ああ、だとしたら、いつ死んだんだろう。ついこの間だろうか。それとも十二の時か。いや、本当は親父に拾われた時点で死んでたのかもしれない。だって、ありえないだろう。ジュールからキュアス諸島まで何百マイルあるか。木の小舟で、そんな距離を流れてこれるもんか。ああ、そうだ。本当は死んでたんだ。昔『幽霊』なんてからかわれたのは、そういうことだったんだ。

 ……馬鹿らしい。変なことばっかり考えちまう。帳面を放り出して、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。北側の小窓から、琥珀色の夕日が細く入り込んでくる。俺の腿に当たって、暖めてくる。

 疲れた。このまま眠っちまおう。夢を見るだろうか。昔に何度も繰り返した酷い悪夢でなければ、何でもいいや。

 ぬるま湯を浴びながら、俺は立ち尽くしていた。ただ、体を清めようと思ってやってきたはずの浴室で、なぜか俺の手にはナイフが握られていた。これはマリアが仕事で使っている、肉を切るためのものだ。俺はいつ、これを持ってきた? 記憶にない。これをどうしようと思って、こんなところに持ってきたんだろうか。なんて思いながら、嫌な予感を覚えていた。

 切り落とすために持ってきたんだ。何をって、分かってるさ。嫌で仕方がないんだろう? ああ、でもそんなものを切るのに使ったら、このナイフはもう料理作りには使えない。

 脚の間にぶら下がっているものに、刃を添えた。良く手入れされてるから容易に皮膚が切れて、血液が滲み出る。頭の上から降り続ける温水に混ざって、赤色が流れていく。薄皮を切ったくらいじゃあ痛かない。が、もっと深く刃を押し込んだらどうなるだろう。切り落とすより前に、俺の意識が飛んじまうかもしれねえ。すっぱり切り落とせないで、半端に繋がったまま生きてたら、どうなるんだろう。病院は『それ』をどうするだろう。切れたところを繋ぎ合わせて元に戻すか? それとも潔く切り落としてくれるだろうか。どっちにしろ、俺はたぶん意識を保っていられないから、『こうしてくれ』って頼むことはできないだろう。

 薄皮一枚。それ以上刃が進まない。なあ、おい、ビビってんのか?

「レナー。着替え持っていかなかったでしょう。置いておくからね」

 マリアが来た。ああ、やべえ。こんな事してるってバレたらなんて思われるだろう。頼むからどこかに行ってくれ。

 なんて俺の懇願も虚しい。曇ガラスの扉一枚、向こう側に透けているだろう俺の影は、あいつにどう見えたんだろうか。俺をいつまでもガキだと思ってる、無遠慮なやつ。いや、そもそも、いっつも裸で家の中を歩き回ってるのは俺だ。すっかり慣れちまってんだから、どうってことないんだろう。

「レナ、大丈夫?」

 向かい合った鏡に、扉から覗くマリアの顔が映った。ああ、俺はなんて不気味な表情をしてるんだ。まるで無愛想な、肌色を塗り忘れた人形みたいだ。背後の褐色の瞳が見開かれて、扉は壊れるんじゃないかって勢いで開いた。

「何してるの!」

 そういや、こいつの大声なんてあんまり聞いたことねえや。なんて、どうでもいいことを思いながらも、俺の感情は俺の遠くにある。自分が何を考えてるのか分からない。

「……気持ち悪いから」

 やけに乾いた俺の口がそう言った。気持ち悪いから、無くしたいんだ。

 マリアが重たげな息を吐いた。なあ、呆れたか? 俺は呆れちまったよ。何してるんだろう。

「……渡しなさい」

 素直に従った自分自身を意外に思う。まあ、こいつの目の前で続行するのも酷え話だから、賢明な判断だ。

「……あんたが、こんなことする必要ないでしょう」

 受け取ったナイフを背後に隠して、マリアは諭すように言ってくる。俺もそう思うんだけど。

「気持ち悪いんだよ。自分が雄だって思うと、反吐が出そうになる。人だって所詮動物だ。理性なんてものがなけりゃ、そこらじゅうで発情しておっぱじめやがる。元々、そういう生き物だからな。そんなこと考えちゃいねえみたいな態度してたって、実際のところは考えてんだよ。……本当、気持ち悪い生き物だ」

 淀みなく俺の口から発せられるのは、性的欲求に対する嫌悪。それを抱く生き物への嫌悪。そしてそれを隠す手段を持ちながらも、その下ではやはり抱いているに違いない『人間』を嫌悪する言葉だった。

 思い出したから覚えてる。俺は入院している間、大人になりたくねえって喚いてたんだ。一年の間に声が低くなってきて、ああ嫌だ嫌だと騒いでた。雄としての生殖機能を備えちまうのが嫌だった。どうにかして止めてくれって医者に懇願した。けど、それはできないって言われて、喚いた。マリアは良くて、俺は駄目なのかよって。『大人になったときにきっと後悔する』って言われて、『その大人になりたくねえんだ』って反発した。結局、どれだけぐずっても無理で、俺はとうとう自分の体が雄として完成しちまったのを知った朝に、たぶん、何かしらの感情を消したんだ。それで退院ができた。俺の中に存在する不快なものを殺すことに成功したから、俺は楽になれた。けど、今はそれが蘇ってくるかもしれない恐怖に襲われてる。

「……レナート、病院行く?」

 薄皮切ったからって、そんなのは病院に行くほどのことじゃねえ。俺の精神状態がどうにかなってるから、こいつは勧めてきたんだ。多分、また暫く入院でもしていた方が良いんだろう。

「自分が何しでかすか分からねえ。……自由じゃない方がいいのかもな」

 俺はそう言った。これは確かに俺の意思だった。

 十年前に世話になった医者ってのは何人かいたが、概ね体が良くなった後、毎日泣きわめいて怒り狂って物に当たり散らすような、時にはベッドに体を縛り付けてでもいなきゃならねえような、どうしようもねえ状態のガキに懲りもせず淡々と付き合ってくれたのは、まだ若い医者だったと思う。女だった。とにかく男が駄目だったから。病院の診察室で再会したのは、ちょうどその医者だった。いくら久々とは言っても、医者と患者がそのままの関係でまた会ったところで喜べることじゃない。ただ、どうせ世話になるんなら、事情をよく知ってる医者のほうがいい。そういう意味では、喜ばしいことではあったかもしれない。

 付き添いのマリアが、こいつが見て知ってる範囲で大体の経緯を話してくれた。今の俺は、あまり自分のことを自発的に話せる気がしなかったから、助かった。

「突然に記憶を思い出したから、混乱しているんでしょう。当時癒やしきれずに仕舞い込まれてしまった感情がありましたし」

「なあ先生、俺ナイフ取ってきたときのこと覚えてねえんだ」

 なんとなく気になって、言っておいたほうがいいような気がしたから伝えた。そしたら医者の眉根が微妙に寄った。

「覚えていない?」

「そう。あの事思い出してから、ずっと夢見てるみたいで朦朧としてるっていうか。今もそうなんだけどさ。眠りながら取ってきちまったのかな、とか。『体洗ってさっぱりしようかな』って思って、部屋出たところまでは覚えてんだよ。でも、ハッと思ったらそのときにはナイフ片手にぬるま湯浴びてたんだ。うっかり寝ちまって、その間にやらかしたのかと思って。夢遊病っていうの?」

「……夢遊病……」

 医者はなにか深刻そうなことを知ったみたいに呟いた。それで、マリアに質問した。

「言動に一貫性はありますか? 人が変わったようになったりだとか、そういったことは?」

 マリアはたぶん俺の様子を思い出して、考えて、慎重な感じに答えた。

「ナイフを持って浴室にいたことに驚かされたくらいで、それ以外に気になったことは、私の見ている範囲では……、無いです。むしろ、あまりにもいつもどおりで、却って戸惑うくらいで」

「なんでこんな事してんだ? って思ってるけどな。体を乗っ取られたみたいな感じだよ。俺の真似するの巧いから、傍から見てたら分からねえだろうな」

 まただ。なんで俺はこんな事を言っているんだろう。いよいよ頭おかしいやつだ。まあ、だからここに来たんだが。昔のことを思えば、よっぽど話は通じてるだろう。俺は自分でめちゃくちゃおかしな事を言ったつもりだったが、医者は全く驚いた様子もなかったし、むしろ何かの手応えみたいなものを感じたような雰囲気だった。

「他の誰かを知覚している? それはあなたの中にいるの?」

 そんなことを訊いてくるんで、『何言ってんだこの医者』って思っちまった。他の誰か?

「他の誰かって、俺だろ。幽霊にでも取り憑かれてるって?」

「あなたの体を乗っ取って行動する誰か。その人と、会話はしますか?」

「話になんてならねえよ。後ろの方で文句言ってるのは分かるけど」

「後ろとは?」

 誘導されてる。自分でも気づいちゃいるけど、意識しないようにしている部分。これを知ったら、たぶん周りは俺がいよいよ狂っちまったと思うだろうから。隠しておきたい、そのために自分自身でも知覚したくない。でも、きっとそれじゃあ駄目なんだ。俺は自分の知らぬ間に何事かをやらかす。それを回避したいなら、自分を把握しなくちゃならない。

「後ろっていうか、だからそれは……。……うん、……頭の中かな」

「それじゃあ、今私と話しているのは、体を乗っ取って話し掛けてくる人?」

「……分かんねえ。ていうか、どっちが本当の俺なのかなって……、思う」

「どちらもあなたかもしれない」

 医者はなんとなく控えめな感じで言った。そして俺の顔色を伺うみたいにしてこっちを見る。

「今、私の言葉を受けて、不快に感じましたか?」

「……いや、なんていうか……。ずっと仕舞い込んでた本当の記憶と、俺が作った嘘の記憶があるじゃん。だから思うんだよな。今の俺って、どっちの延長線上にいるんだろうって。十年ぶりに目が覚めた本物なのか、嘘の俺なのかって」

「『嘘の君』はいないと思うよ。だって、あなたはそれで十年も生きてきたんだから。人生の半分。どっちも本物じゃないの?」

「そしたら、本物が二人もいるじゃん」

「いけない?」

「おかしいだろ」

「他人と比べておかしいと感じるかどうかより、君にとってその状態が苦しいかどうか、じゃない?」

 医者の口調が崩れてきた。昔みたいな感じだ。そうだ、この人こういう感じだったっけ。

「……気持ち悪い感じはする。現実感がないから。あと、知らねえ間に何かやらかしそうで怖い」

「なるほどね」

「俺、十年前より厄介なことになってねえか。あの頃は――、まあ、あの頃も大概だったか」

 医者は椅子を回して俺の方に体を向けた。

「君があの頃よりも辛いのなら、あの頃よりも厄介なのかもしれない。そういう状態になった原因は、十分思い当たる。『こんな事があって、つらいから忘れたい』ってね、本当にどうしようもないときは、人間って忘れられるんだよ。頭がいい生き物だから、もっと高度な事もできる。『これは自分に起きたことじゃない』って、記憶とか、感情とか、そういう自分を苦しめるものを自分自身から切り離す。そうしたら他人事になるでしょ」

「そりゃ無責任だな」

「正当な自己防衛反応だよ。じゃあ訊いてみようか。例えば、十年前に体験したことが君じゃない誰か親しい人に起こったことだったとして、その人が『他人事だ』と思うことでなんとか苦しみを和らげていられるときに、君は『無責任だ』ってその人に言えるの?」

 そういうふうに訊かれちゃあな。酷じゃねえか。俺には言えねえさ。でも俺は自分には平気で言えちまえる。なんでだろう。他人に言われるより先に自分で言っておいて、なあなあにしたいのかもしれない。分かってるから言ってくるなよ、って具合に。『無責任だ』って誰かに責められるより、その方がマシな気がするから。

 結局、医者は俺の様子を詳しく見たいらしいし、俺も自分が何をやらかすかっていう不安があったから、ちょうど空いてた一人用の病室でしばらく過ごすことになった。

 刃物は当然、鋭利なものとか、紐になりそうなものとか、とにかく自分を殺す道具になりそうなものは徹底して取り上げられて、部屋の扉は外から鍵が掛けられた。不自由なもんだ。それを求めて来たわけだが、いざとなると不満を感じる。暇潰しにできることなんて、本を読むくらいのものだ。ペンを取り上げられてるから書き物はできない。窓は内開きで、外側がちょっと洒落た柵で覆ってある。洒落てたって柵であることには違いないから、なんだか囚人にでもなったような気分だ。実際のところ囚人にはなったことねえから、想像だけど。

 とにかく暇だった。時々見舞いに人は来るけど、帰っちまえば一人だし、自分の世界に入っていくには都合が良すぎる環境だ。

 溶けた顔を思い浮かべて過ごしている。月光なんて淡いもんで、暗かった。あんなもの、実際には大して見えていなかったんじゃないかと思う。なのに、なぜかはっきりと思い出せる。見たくなかったのに、見えないはずだったのに、見えてしまった。あれは殆ど俺の想像だったのかもしれない。だがいずれにせよ、昔はそれを思い出す度に動揺して騒いでいた。あのときの俺には、あの光景は現実だった。それが今は窓枠に肘ついて、海なんか眺めながら、なんとなく思い浮かべる。『前に見た恐怖物の文学作品の挿絵にでもあったかな』なんて具合で。『ありゃあ、ちょっと印象強かったな』なんて。医者も言ってたが、まるで他人事だ。実際にこの身を痛めつけられながら聞いた唸り声も覚えている。半分は空想だったにしろ、実際にあいつが溶けていく様だって見たってのに。それとも、十年経てばこんなものなのだろうか。体の感覚は忘れたんだろうか、なんて興味半分で探って後悔した。一瞬蘇った不快感に鳥肌が立つ。

 ああ、なんか嫌だな。やっぱり自分事なんだ。もちろん、そんなことは端から知ってる。なんだって……。チクショウ、本当に余計なことをした。体の感覚なんて思い出すなよ。ありゃあ痛かった――やめろって、全身裂かれるかと思った――やめろ、内臓突き破って、口から出てくるんじゃないかって――。

「やめろって言ってんだろ馬鹿野郎!」

 いかれてる。自分で自分の顔面殴っちまった。口の中に鉄を齧ったみたいな味が広がってく。

「……レナート……?」

「は、なに?」

 ――なんだ? いつの間に来てたんだ……?

「あ……、えっと……、リオン……? 久しぶり、……だな?」

 どの辺りから見ていたんだろう。嫌だな、一人で叫んで顔殴ってるところなんざ。なんか、こいつには……、知られたくない。今の俺の状態も、過去のことも、色々と。

「口、切れてるけど。大丈夫?」

「ん、ああ……、平気。大したことねえ」

「少し、いてもいい?」

「おう、いいぜ」

 ソファーにリオンは座った。俺の方に寄せるのに移動させようと思ったみたいだが、この病室のは固定されてるから動かせねえんだ。

「そういや、お前手術したって聞いたけど。具合は?」

「ああ、いいよ」

 相変わらず、素っ気ない口調だな。けど別に嫌な気にはならない。こいつはこういうやつなんだろうから。

 なんだか、自分の気持ちが落ち着いて、世界が近くなるような感じがした。暫くぶりに帰ってこれたような。

「明後日には退院できる。そうしたら、マリアさんの店の手伝いさせてもらおうかなって」

「そりゃいいや。でも、あんまり無理はするなよ」

「分かってる。それより、君がここにいるって聞いたから、どうしたのかと思って」

 気に掛けてくれたのか。気分がいい。知られたくないだとか思ってるくせに。

「昔のこと思い出したんだよ。想像してたより、ずっとキツかった。……から、ちょっとな。気が滅入っちまったんだ」

「そうなんだ」

 やっぱり素っ気ない返事だ。同情してるのかどうかも分からねえ。けど、そのくらいが俺には丁度いい。気を遣われてるのが分かると、居心地が悪くなるから。

 こいつとの間に生まれる沈黙は苦じゃない。なんなら、ずっと浸っていたっていいような気さえする。頭の中に居座る嫌なものが、――たぶんリオンがいなくなれば戻ってくるんだろうが――消える。

「……前に、君が言ってくれたんだけど、覚えてるかな。僕について、話したくなったら言え、って」

 ああ、言ったな、そんなこと。

「今話してもいいかな。具合が悪いなら、後にする」

「……いや、ちゃんと聞くよ。暇でしょうがねえんだ。余計な考え事ばっかしちまう」

 俺はベッドから脚を下ろして、話を聴く姿勢をとった。俺の気持ちの余裕とか、そんなことはどうでもよかった。今話したいってんなら、今聞くさ。それに、俺の意識が、ちゃんと俺の中にあるうちがいい。

 リオンは俺の方じゃなくて、正面の壁を見つめている。人と目を合わせるのが苦手らしいってことには、だいぶ前から気づいてる。べつに俺の目を見て話せなんて言う気はない。どこを見てたっていい。『レナートに話す』って決めた瞬間の思いさえあれば、十分だ。俺はお前にとって、それだけの信用に値する人間だってことだろ?

 リオンの小さい口が、小さく開いて、高くもなく低くもない声が、静かな抑揚でこいつの言葉を紡ぐのを、俺は待って、耳を傾けた。

「……僕は、たぶん生まれつきなんだろうけど、体に男と女の要素がある。でも、どっちも不完全。見ればきっと、誰でも分かる。変な体だって」

 実を言えば、俺はこいつを病院に運んだ後、公立図書館に行ったんだ。生物学とか医学の本を探って、有性生殖動物の多様な奇形の一種に、そういうものがあると知った。人間も例に漏れはしない。先天的な形成異常が出生の時点で明確な場合もあれば、成長期以降に明らかになる場合もある。こいつの場合は、前者ということだろう。俺はこいつの体をまじまじと見たわけじゃない。海から引き上げたとき、濡れた服を脱がせたその瞬間に、こいつの体は無遠慮に探り見ていいものじゃないと思った。だから、最低限のことだけをして、早々に服を着せた。だから、まあ、そこまでは知ってる。こいつもたぶん、俺が知っていることを知っている。それでもきっと、改めて言葉にするのには勇気が必要だったんじゃないかと思う。フォルマではそういう子供が生まれると、すぐに殺される地域もあるということも、調べている中で知った。

「気づいたときには一人だった。捨てられたんだと思う。子供だった僕を拾って、保護してくれたのはズフールの総督だ。『ザヒル』って名前をくれた。男の格好でも、女の格好でも、好きにしていいと言ってくれた。彼は、多くの孤児を邸宅に住まわせて、教育を施して、育てていた。僕と同じように保護された子供がたくさんいたから、僕は男に混ざってみることもあれば、女に混ざってみることもあった。……いや、ただ、その空間にいただけだね。交流の輪の中に入る気にはなれなかった。居心地が悪くて。僕は自分が、彼らとも、彼女らとも違うって知っていたから。誰かから『お前は違う』って言われるのが怖かったのかもしれない。いつも、どこにいても付きまとうんだ、『ここに居ていいんだろうか』って」

 あの国では、基本的に男と女ってのは何かと分けられるらしい。普段の生活――食事なんかもそうらしいが、行っていい場所だとか、その場所にいていい時間帯だとか、そんなことまで細かく決まっていて、不用意に他人同士の男女が遭遇しない仕組みになっている。アウリーで育った俺としちゃ、聞いただけで窮屈だなって思っちまうが、それはそれであの国なりに模索して見つけた風紀の保ち方なんだろうから、どうこう言えるものじゃない。が、そういう仕組みの社会の中で、リオンみたいな――まあ、『ザヒル』だってちゃんと聞けたから、そう呼んでもいいのかもしれないが、俺は引き続き『リオン』と呼びたいから、嫌がられない限りはそうしようと思う――、人間ってのはよっぽど生きづらいだろうって、その環境に身を置いたことなんかなくても想像に易い。俺だって、十二の頃の事件の直後もそういう環境で過ごすことしか許されなかったら、今頃生きちゃいねえだろう。

「人って、案外他人を放っておけないみたいだ。良くも悪くも。子供の頃、わりと気にかけてくれるやつがいた。男だった。僕はあまり自分から話しにいく子供じゃなかったし、そもそも一人でいるのが好きだった。でも、集団に混ざろうとしない僕は誂われた。体のことを大っぴらにはしていないけれど、僕が男女それぞれの場に日毎入れ替わりでいたことは知られていたから。それは、あの国ではとてもおかしなことだ。ありえない。そいつだけが庇ってくれた。『どこにいればいいのか分からない』って言ったら、『俺といればいい』ってそいつは言った。それで、なんだか気楽になった。だから自分の意志で、初めて自分の体について話したのは、そいつだった。『お前と話すのが楽しい。悩んでいるなら話は聞くけど、俺は別にお前の体と話したいわけじゃない』。そう言われた。今でもよく覚えてる。だから、僕は男の方で生きていこうと思った。味方がいるから。……でも、やっぱり駄目だったね。段々、皆大人になっていくでしょ。僕はなれない。一人だけ置いていかれるばっかりだ。声も、これ以上低くはならない。努力したけど、どうにもならない。そうやって藻掻いているうちに、この前みたいに出血するようになった。でも、ちゃんと機能してそうなってるわけじゃない。ただ、時々、忘れた頃に酷く痛みながら血が出るだけ。子供が作れるわけじゃない。べつに望んじゃいないけどね。……たぶん、その頃からだな。それまで僕を庇ってくれてたあいつが、段々そっけなくなってきて、終いには一番に、率先して僕を中傷する人間に変わった」

 信頼してた人間に裏切られるってのは、しんどいよな。たぶん、俺も分かるんじゃないかな。少しだけ――、いや、どうなんだろう。あれは裏切りだったんだろうか。子供の俺にとってはそうだった。でも、今になっちゃあ、あいつを責めてもいいのか迷う。あの状況で、生物としての本能に抗う理性を保てるものだろうかって。きっと無理なんだろう。だって、あいつが無理だったんだから。

 もし俺があのとき、あんな子供じゃなくて、今くらいに体も成長していて、ものを考えられるようだったら、あいつがあんな様になって襲いかかってきても、穏便に受け容れられたのかもしれない。苦しみに同情して、憐れんで、焼け溶けていく苦痛にせめて寄り添えたんだとしたら、きっとあの程度の痛みなんて大したことないと思えただろう。或いは、『殺してくれ』という願いを聞き入れることもできたかもしれない。あいつをあいつとして死なせてやれたかもしれない。第一、俺はあいつが好きだった。男として憧れてた。あんな風になりたかった。もしかしたら、性的に惹かれていた部分があったのかもしれない。ガキの俺には分からなかったが、今思うと、そんな気がしないでもない。今更確かめようはないが。

 『分かる』なんて、簡単に言えるものじゃない。俺は黙って、ちゃんと聴いてるってふうに頷くことしかできない。余計な言葉を挟んじゃならねえと思うから。

 俺はこいつを裏切りたくない。こいつを傷つけた人間と同じにはなりたくない。けど、絶対を保証できるんだろうか。俺の人間的部分はそう思ってても、いざそれが失われるようなことがあったら、分からない。絶対に裏切りたくない。けど、『絶対』を証せないのがもどかしい。

「それから、別所に匿われるようになった。男女の要素を持っている僕には、他にいられる場所がなかった。体調も、あまりよくなかったし。何の役に立つわけでもないくせに、存在だけやたらと主張したがる女の臓器も、邪魔だった。だから、医者にも、スレイマン様にもずっと勧められてたんだ。取ってしまったほうがいいって。そうしたら、体だって楽になるし、フォルマの社会で生きていくこともいくらか容易になるんじゃないかって。男としてね。僕は……、ずっと承諾できなかった。なぜなのか、自分でも分からなかった。腹を捌かれるのが怖いんだろうと理由づけしてみたけど……、ずっと、それだけじゃない気がしてた」

 それで、リオンは黙った。まだ続きはあるが、少し言葉をまとめたいといったふうだったので、俺も特に口を出さずに黙っておいた。

 腹を切って、中身を取り出すなんて、医療技術が比較的発達しているアウリーでだって、容易なことじゃない。フォルマなら尚更、死ぬ確率は段違いだろう。そうであっても、周囲から勧められる程には、こいつの状態は深刻だったということか。生まれ持った身体的特徴のために。フォルマの社会的な仕組みも、理由には少なからず加わっていたんだろうが。いずれにせよ、こいつはそのままの体では生きていけなかった。

「僕は……、男として生きていける自信がなかった。僕が散々言われてきた言葉だ、『男の成り損ないで、女の成り損ない』。紛れもない罵倒だったけれど、でも、それがよかったんだ。どちらでもない自分が。女の成り損ないの部分を取り去ったら、ただの男の成り損ないだ。男になるわけじゃないけれど、……近づいてしまう感じがした。その後、男らしさを求められるようになるのも、怖かった。できる気がしなかったから。かといって、女になりたいわけでもない。女らしく振る舞える気もしない。僕は、……どちらにもなりたくなかったんだ」

 今、『羨ましい』なんて思いを湧かせた自分が嫌になる。こいつが苦しんできたっていう話を聴きながら、なんだって俺は、『男じゃないもの』でいられるこいつが羨ましくて仕方がないんだ。

 分かってんだ。俺は紛れもない男だって。外身も中身も。分かるさ、近くでマリアを見てきた。中身に外身が伴わない苦しみってのはどんなものか。隠れながらも嘆くあいつの姿を、ほんのガキの頃に垣間見て、ガキなりに想像したさ。俺は自分についてだって、よくよく考えた。男を寄せ付けなくなって、大人になりたくねえ、その象徴を取り去ってくれって騒いでたときだって、俺の意識は確かに男だって理解してた。だから、医者が『将来後悔するから』と承諾しなかったのも尤もだって、分かってたんだ。それこそが嫌だった。俺は、体がどうとか以前に、自分の『男だ』っていう意識を消し去りたかった。だから、こいつが羨ましい。その意識を持っていないこいつが、羨ましい。分かってんだよ、そのために苦労してきたんだろうってことくらい。だから絶対こいつの前で口に出したりはしない。けど、俺はお前が羨ましくて、しょうがねえ。

「……僕じゃなくなる気がした。それなら、生きていたって僕の人生じゃない。そう思った。だから、死ぬのならそれでもいいって、思ったんだ。だから、もう次はないって迫られたとき、僕は逃げ出した。僕のままで死ぬことを選んだ。何百フィートも下の海に飛び込んだんだ。生き延びられるはずはなくて、まして、こんなところまで流れてこられるはずもなかった。なのに、君たちと出会って、……生きるのが楽しいと思った。僕が、なにも取り繕わずに振る舞っても、君たちは受け容れてくれる。僕でいてもいいのなら、生きていたいと思った。それでも、体が変わったら、気持ちも引きずられるんじゃないかって思うと、やっぱり怖かった。僕は曖昧な人間だから。僕の曖昧な意識は、少なからずこの体によって作り出されたんじゃないかって。……たぶん、そういう部分はあると思うんだ。だって、僕はずっとこの体で生きてきたし、この体だったから僕の人生は……、言ってしまえば、普通じゃなかった。嫌な思いもたくさんした。でも、この体によって与えられたこれまでの経験の結果が、今の僕だ。それを否定したくはない。だから、もしかしたらこの先僕の心持ちは変わるかもしれない。でも、変わったら変わったで、それも僕なんだ。マリアさんと話して、納得できた。それで、ようやく決心できたんだ。……強い人だね」

「……ああ、あいつは強いよ」

 マリアは姉貴だ。けど、たぶんどこかで母親みたいに感じてる。実際にはどんなものか俺は知らねえけど、そんな気がするんだ。十五も歳が離れてるせいかもしれない。あいつは時々『私は親にはなれない』なんて笑って言うけど、俺にとってあいつは姉貴で、たぶん、母親でもある。

「……ごめん、長々と話しちゃって。顔色、少し良くないね。帰るよ。ゆっくり休んで。……聞いてくれてありがとう」

「いや、こっちこそ。ありがとうな、話してくれて。距離が縮まった気がする」

「ああ」

 少しだけ、リオンが笑った。初めてかもしれない。こいつの笑顔は、なんて綺麗なんだろう。

 リオンは帰っていった。また、そのうち見舞いに来ると言って。帰り際に見えた微笑が、ずっと俺の気持ちを惹いたまま離さない。

 自分が気持ち悪くて仕方がなかった。

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