ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
第九章

 旧き民は惜しみなく、新しき民に知恵を与えた。じきに滅びゆくことを知っている旧き民にとって、新しき民の存在は、己らが築き上げてきたあらゆるものごとを引き継ぎ、残し、更なる発展へと繋げられる。そのような希望を抱くに充分な好奇心と、頭脳と、生命力があるように思えたのだ。

 高位指導者の色を戴いた髪を隠し、新しき民の居住区すみかへ足を運ぶことが、この、旧き民と呼ばれるようになって久しい者たちと同様に〈始祖たる完全なる者〉の姿をもらい、その中に新しき民の遺伝子を取り入れることに成功した身にとっての、唯一の楽しみであった。

 旧き民の誰も、このような感情を抱いて新しき民の群れの中へ混ざり込もうとはしない。この身に宿された『感情』は、新しき民のものより遥かに薄くとも、確実に行動へと影響を与える。

 露店の若い娘に声を掛けられた。赤い果実を投げ渡され、その果実と似た色をした丸い頬をこちらに向け、爛漫たる笑みで果実の美味を語る。

 果実に鼻を寄せれば、芳醇で爽快な、甘やかな香りが胸を満たした。光と、風と、土と、水とが創り出した生命のかぐわしさ。偽りの蒼を灯す広大な空も、いずれは真の清廉さを取り戻し、この大地に生きる者たちを覆うのだろうと、遠い未来には訪れると信じる可能性の希望を見た。

 部屋の窓際に、赤い果実を飾る。これを口に含めたなら、あの娘の笑みの意味をより深く知り得たのであろうか。

 生命が朽ちるのは早いものだ。瑞々しく爽快な香りで部屋を満たしていた果実も、ふと気づいたときには既に色褪せて、しつこく纏わりつく死の匂いを放つようになる。そうして、またふとその果実を投げ渡し笑んでいた少女の姿を思い出したときには、彼女は老いて土に還っている。

 そのようなことを、幾度となく繰り返す。幾千万の命を見送る。旧き民の記憶領域を持たぬ身では、その生命の記憶全てを保持しておくことはできない。

 殊更大切な存在に思えた者の記憶さえ、遠く薄れていく。愛の記憶も哀楽の感情も、留めておけない口惜しさ。

 残されるのは、虚しさばかりだ。

     *

 水面から顔が出せた瞬間、激しく咳き込んだ。気管の中に入り込んだ水を吐き出して、呼吸が整うのを待つのももどかしく周囲を見回す。広大な部屋のように、壁で囲まれた場所だ。どこにあるのかも分からない光源が、空間を青く染めている。天井は恐ろしく高く、存在するのかどうかも定かではない。水の底も、確認できないほどに深い。

「……リオン……!」

 一緒に落ちてきたはずのあいつの姿が見当たらない。まだ水中にいるのか。呻いている肺に空気を取り込んで、光る水の中に潜り込む。揺れる金色はすぐに見つかった。俺はガキの頃にイルカに習ったように、微かな水流の上を滑った。白い腕を掴み、脱力した体を引き寄せ、急いで上昇する。もう一度水面に顔を出して、痛みを訴える心肺を働かせる。抱え込んだリオンは力なく、空気中に口鼻を出しても呼吸を再開させる気配がない。

 俺は足場を探して、もう一度周囲を見渡した。目測五十フィートの距離に、平らな岩場のようなものがあった。人間一人抱えて、俺はそこに向かって泳いで、乗り上げて、引き上げた。

 動かない体を仰向けに寝かせて、気道を伸ばす。形の良い鼻を塞いで、半開きの口に口を重ねて、深く吸い込んだ空気を思い切り吐き出した。手足が僅かに痙攣したので、顔を横に向かせれてやれば、リオンは体を丸めて水を吐いた。咽せながら自力で俯いたリオンの背中を暫く叩く。次第に落ち着いて、やがてまともな呼吸をするようになったのを確認して、俺はとりあえず安堵した。

「……ここは……?」

「……地底湖みたいだな」

 俺は上の方を見ながら答えた。滝の音みたいなのが響いてる。上の方で抉れた川の水が落ちてきてるんだろうか。そもそも、俺たちはどれだけ落ちたんだろう。随分な距離だった気がする。水面に叩きつけられて死ななかったのが不思議だ。

「人が造ったのか……」

 リオンが背中を預けた壁を見て言った。壁に彫り込まれた線の滞りのなさ、滑らかすぎる広大な円形の空間、そして水中から突き出て並ぶ模様が刻まれた無数の柱。人が造ったもので間違いない。

「まさに『神殿』って感じだな」

 親父が探していたものはこれだ。海に沈んだ王墓。ここに満ちているのは淡水だった。この場所はきっと、この辺りの海底よりも深いところにある。

 たぶん、出口はない。これが海水だったら、海と繋がってるってことだから、どこかしらに道はあっただろう。それが実際に生きて通り抜けられるような道だったかどうかは別だが。

「ここが俺の死に場所か。ここで死ねるなら、……いいかもしれねえ」

「綺麗なところだ」

 全く、嫌になるほど綺麗なところだよ。ここで、できれば楽に死にてえ。けど……、

「……お前を死なせるのは嫌だな」

 俺一人だったら気兼ねなかったんだ。でも、こいつがいる。こいつは地上に、生かして帰したい。だって、これから生きていこうって希望を持ってたんだ。そのために体切るなんてことまでしたんだ。

「僕は、君が一緒なら、ここで死んでもいい」

 なんの躊躇いもないみたいに、リオンは言う。死ぬのを嫌がったところで、今更どうしようもないのは事実だろうが、せめてもう少し、無念そうにでもしてくれればいいのに。

「……そういうこと言うなよ……」

 そりゃ、俺だって独りで寂しく死にたかない。けど、もう誰かを道連れにするのは嫌なんだ。違う、これまでは道連れにもできなかった。俺が引きずり落とすだけで、いつだって俺自身は生き延びちまう。なら、もういいじゃねえか。俺は一人で落ちてくるべきだった。

 なのに、こいつが脇目もふらずに駆け寄ってきたとき、俺に手を差し伸べてくれたとき、『よせ』と思う気持ちと同じくらい、――いや、それ以上に、嬉しかった。状況も把握できない中で、普段ろくに表情を動かさないこいつが俺のために見せた顔が、俺の名を呼んだ声が、こいつにとっても俺は特別な存在なのだろうか、なんて思わせるから。

 特別、ってなんだろう。俺にとって、新しい家族――きょうだいみたいなものだって、俺はこいつのことを思っているんだろうか。でも、アンドレーアに抱く思いとは違う。似たところもあるけど、たぶん、違う。得体の知れない感情だ。

 出会って五ヶ月も経っていない。その間ずっと一緒にいたわけでもない。俺はこいつのことをろくに知りやしないし、こいつだって俺について詳しく知ってるわけじゃない。でも、なんでだか……、ずっと長く、こいつと同じ時間を過ごしたような気がする。俺は、実際には知りもしない、こいつの正体を知っているような気がする。それは、出会った瞬間、海に漂うこいつの姿を見つけたあの時、自分さえも気づかないところで、何かを思い出したような。『何を?』と問われれば答えられない。分からない。俺はこいつのことをろくに知らないんだ。なのに、まるで初めから知っていた。

 矛盾してる。なにひとつ噛み合わない。なんでこんな具合に感じちまうのか、俺は考えて、一個だけ思いついたんだ。たぶん、俺が散々憧れて思い描いてきた雷神の姿に、こいつがあまりにも似ていたから、混乱しちまったんじゃねえかって。

「俺は、なんでお前を『リオン』なんて呼ぶことにしちまったんだろう」

 別の名前を考えればよかった。なんなら、『ザヒル』だって知っていたんだから、そう呼んだってよかったのに。

「……僕は気に入ってる」

「俺も気に入ってたよ。お前に似合うと思った」

 ならなんで、って顔して俺を見てくる。濡れて艶めいてる金の髪が眩しい。それは晴れた明け方の、ラピスラズリの空を駆けて彼方の海に降り立つ、雷神の光によく似ている。

「俺は、昔から雷神が好きだった。フォルマの神と帝国の神々ってのは違うだろうが、人智を超えた存在には畏敬の念をもって崇めるのが、きっと正しい在り方だ。俺は……、たぶん、そういう気持ちでは雷神のことを想ってない。『憧れ』って言えば聞こえは良いけど、俺は神を俺と同じあたりまで引きずり下ろして、縋りついたら慰めてくれるような――、ただひたすらに美しいものとして想像してるくせに、俺の卑しさにも同情して付き合ってくれるような、都合のいい存在にしちまってるんだ。本当、気持ち悪い。なのに、そうやって穢してる神の名前を、お前に宛てがっちまった。お前が、俺がずっと思い描いてた雷神の姿と重なっちまったんだ。……ごめん」

「……それって、いけないこと? 縋りついたら慰めてくれる神なら、僕も慕ってみたいよ。アーリャに叱られそうだけれど」

「……そういうのじゃねえんだよ……」

 語っちまったのを今更後悔した。曖昧に言うしかねえんだ。想像の中で具体的にどうしてるかを、説明するわけにはいかない。

「……『穢してる』って言うけど、その感情というか……、想像は汚いもの?」

「汚い」

「どうして?」

「言いたくない」

 さすがにリオンは黙った。察したか? 俺ってのはこんな気色悪い人間で、最期の最期にこんなやつと二人きりにならなきゃいけねえお前が気の毒だ。『俺が想像する雷神に似てる』なんて言われて、怖がってなきゃいいけど。俺は、自分が生身の人間とどうこうってのは、まるで想像できない。したくない、って方が正しいだろうか。だって、この体である限り、俺は男にならなきゃいけねえ。普段の生活の中で男であることに不満を覚えることはないが、ただその一点においてが嫌で仕方ない。たぶん、人間がわざわざ男と女に分かれてる最たる理由の部分はそこなんだろうが、俺はそんなときに男である意識をかなぐり捨てたくなる。ガキの頃の体験が尾を引いてるのか、元からこういう人間なのかは分からねえ。でも俺の中の雷神は、俺の『男の意識』を忘れさせてくれる。要は、都合のいい存在。

 ……何日生き延びるだろうか。水には困らないだろうが、非常食やらが入った袋は野営所だ。でも、ここで何日耐えたところで、救けは来ないだろう。アンドレーアが無事なら、きっと俺らが落ちていったことを連中に伝えるだろうけど、いかんせん地上からの距離がありすぎる。さっさと入水でもしちまった方が楽かな。餓死と溺死なら、どっちの方がマシだろう。気管を塞ぐのもアリか。でも、それはどちらか片方しか選べない死に方だ。いや、俺が殺してやるしかないだろうか。たぶん、リオンでは力が足りないから。

 まあ、まだ気持ちにも体力にも余裕はある。もう少し考えていてもいいだろう。

 どのくらい経っただろうか。あれから夜が明けたのか、数日過ぎたのかも分からない。時間の目安になるものが、なにひとつない。不思議と空腹を感じることはなかった。だが、余裕のある俺とは違って、リオンは少し前から横になってぐったりとしている。術後に出されていた薬を飲めていないせいかもしれない。なんだかんだと会話はしているが、そろそろ億劫そうだ。

 俺は波の立たない青い水面を眺めて、時々その水を掬って飲んで、相変わらずぼんやりとしている。幻想的な光景も相まってか、余計に夢を見ている気分になってしまう。

「……前に話してくれたっけな。お前が初めて自分のことを伝えて、一旦は受け入れたくせに裏切ったやつ」

「ああ……」

 リオンはほとんど息だけで返事をした。いよいよ具合が悪いのかと思って少し焦ったが、ただ暫く黙りこくっていたから上手く声帯が鳴らなかっただけみたいだった。横になったまま、立てた肘に頭を乗せて、深海みたいな空間の色を反射させた淡色の瞳をこっちに向けた。

「そいつさ、……たぶんお前が好きになっちまったんじゃねえかな。ダチとしてじゃなくて」

「……そうかもね。そんな気はしていた」

「お前が男じゃあ、都合悪いよな。フォルマ人ならさ」

「そうなんだろうね」

「お前に当たってもどうにもならねえのに」

「僕よりも、ゆめを選びたかったんだろう」

 リオンは体を伸ばしながら、素っ気ない口調で言った。所詮こんなものか。

「そいつがすっぱりと夢を選びきれていれば、お前にきつく当たる必要もなかったんだろうな」

「…………」

 リオンは黙った。

 俺は自分で思っているよりもきっと執念深い人間だから、きっとリオンみたいに割り切るのは難しい。エロイにされたことを『仕方ない』って思いてえのは、実際そう思えきれていないからだ。あいつを許したいと思うのは、あいつを許せていないからだ。でも許したい。憎み続けるより、きっと楽だから。憎み続ける限り、嫌な記憶は生々しいばかりだから。俺はただ、自分が楽になるためだけに、他人を許したいと思う。だが、そんな態度は却って相手を傷つけることもあるらしい。例えば、アンドレーアの――俺たちの父親に対する場合だとか。無関心になられるよりは、それが憎悪であれ、何かしらの感情は向けられたい場合もあるようだ。だから俺は、又聞きでしか知らないリオンのかつての友人の中にも、そういう気持ちがあったんじゃないか、なんて勝手に想像した。

「……君は、そういう感情って分かる?」

「え、どれ? ……ああ、恋愛感情か?」

 考え事をしていたせいで、自分から振った話題を忘れて、すぐに反応できなかった。問い返して確かめたら、リオンは頷いた。

「……どうだろうな。知らないってわけじゃない気がするけど、たぶん他の好意との区別がつかない」

「そっか」

 お前はどうなんだよ、って訊こうと思ったが、やめた。

 なにもすることがないから、ただ水面を眺めてるばっかりだ。青い空間の上の方を見上げれば、遠くの月みたいな光がぼんやりと浮かんでいる。あそこから落ちてきたってことだろう。あの淡い光が、この非現実的な空間と俺が知っている世界とをつないでいるような気がした。もうあちらには戻れないのに、あの光が見えるせいで、幻想の世界に浸りきれもしない。まだ、どこかに抜け道があるんじゃないか、なんて思っちまう。

「……せっかくだし、少し、あいつの話をしようかな。聞いてくれる?」

 『あいつ』っていうのが、リオンを裏切った男のことだっていうのはすぐに分かった。これまで関心薄そうにしていたが、気が変わったんだろう。こんな状況だ。

「ああ」

 深い青緑色の石壁に背中を預けて、俺たちは静かな水面を眺め見た。リオンはしばらく黙っていた。こいつの中で言葉がまとまるのを、俺は黙って待った。

「一時期、仲は良かったって言ったでしょ。子供の頃のあいつは、素直だった。将来は大富豪になるのが夢なんだって。スレイマン様――僕らを育ててくれたズフールの総督のことね――彼みたいに、身寄りのない子供たちを救けたいからって。誰よりも熱心に勉強していた。毎晩、夜空の向こうの神に祈ってたよ。夢が叶うようにって。でも、そんな夢を人に語ったところで馬鹿にされるのは目に見えてるから、言わなかった。僕以外には。あの頃のあいつは輝いて見えた。少し……、君と似ていたような気がする」

 俺と似ていた、か。一瞬、複雑な気分になった。だが、輝いていた頃のそいつを語るリオンの表情がえらく穏やかだったから、こいつにとってそれが大切な記憶もので、それを共有するのに俺は足る人間なんだと思えば、モヤのような感情はすぐに薄れた。

 リオンは何かを惜しむように、口から長い息を吐いた。

「……あいつが変わってしまったのが悲しかった。悔しくて仕方がなかった。変わらせてしまった自分が憎かった。あんな友人なんてもの、初めからいなかったんだって思おうとした。もう戻ってこないものに、縋りついていたくなかったから。でも……、もういいかな。僕を『親友』と呼んでくれたあいつを、僕は殺しきれなかった。あいつの夢は高尚だ。そして今もそれを叶えようとしている。『夢を選びきれていれば、僕に当たる必要もない』。そうなのかもしれない。大それた目標と天秤に掛けても、僕を振り落とせなかった。なら、結局僕もあいつも同じだ。僕にはかつて、親友と呼べる人がいたよ。ずっとそうではいられなかっただけで」

 吹っ切れたように遠い天を仰いだリオンの横顔は、神々しく見えた。

「俺は……」

 お前が望んでくれるなら、いつまでだって――。

 安易な気持ちじゃない。でも、だからだろうか。口にはできなかった。

 それからまた、静かな時間を過ごした。俺の体は、少しの苦しみも訴えなかった。けれど、リオンは自発的に喋ることはしなくなったし、ほとんど横になったまま、身動きも少なくなってきた。十年前を思いだす。なんてことない俺のそばで、燃えていく体に弱っていく、慕ってやまなかった兄貴分。この上で、あいつは死んだ。もしかしたら、あの場所に打ち捨てられて骨だけになった体も一緒に落ちてきたかもしれない。この広大な湖の中に、あいつの残骸が沈んでいるかもしれない。

 くだらないことばかり考える。そうして青い水をずっと眺めてる。触れなければ揺れもしない水面が、ほんのわずかに上下しているような気がした。気のせいだ。だが、気のせいだろうと思いつつも観察を続けて、考えを少し改めてみようと思ったのは、足場にしている高台の側面に刻まれたレリーフを目印にして、ほんの一インチ程度の差で起こる水面の上昇と下降を確認できたときだ。おそらく規則的に繰り返されている、水位の変動。昼か夜かも分からないが、仮にこれが潮の満ち引きと関係しているのであれば、どこかに海に通じる道がある。全て淡水の湖だと思っていたが、もしかすると下の方は海水なのかもしれない。だとすれば、潜水したときに感じた僅かな水流にも納得できる。調べてみる価値はあると思った。リオンを地上に帰す手段が、残っているかもしれない。

 それから、俺は湖の探索のために時間を費やした。リオンにはとくに説明しなかった。俺の思い違いだったとき、下手な希望をこいつに持たせておいて取り上げるのは嫌だったから。急に活動的になった俺の様子を、リオンは不思議そうな顔して眺めていたが、こいつも俺に『どうしたのか』とか、訊いてくることはなかった。

 広大な湖の中で、壁面に一辺三フィート程度の正方形の穴を見つけたのは、水位の上昇と下降を四回繰り返すくらいの時間が経った頃だった。ここに落ちてきて十日は過ぎたかもしれない。全く、俺は元気だった。腹の虫一つ鳴りやしなかった。水に潜っていられる時間も、明らかに長くなっていて、なんなら、水から顔を出して呼吸するほうが億劫に感じられるくらいになってきた。まるで、自分が人じゃなくなってきているような、異様な感覚。『お前は永遠にここで生きていけ』とでも、この奇妙な場所に言い迫られているような感じがした。

 ようやく見つけられた穴は、長い道のようだった。わずかに傾斜して上昇しているそれは、どこまで続いているのかも分からない。一度進んでみたが、青く発光する直線が伸びているばかりで、行き着く先が見えない。水に満たされた通路。とてもじゃないが肺呼吸を止めて泳ぎ進み切るなんて、無謀としか思えない。でも、たしかに水流の発生源はここだった。湖の水面が上昇するとき、ここからはぬるい水が流れ込んできて、水面が下降するときにはここから水が吸い出されていた。その水が海水だということは、体感で分かった。ここは間違いなく、海と繋がっている。

「リオン、海と繋がってる道を見つけた。ただ、たぶんすごく長い。呼吸を止めて泳ぎ切るのは、正直無理だと思う。けど、他に出口はない。どうする?」

「……僕は、君が一緒なら、ここで死んでもいいんだ」

 リオンは細い体を起こして、細い声で言った。

「それでもいいぜ。どうせ賭けにもならないようなものだ。ここで死ぬか、狭い道の途中で死ぬか。運が良ければ、とりあえず体は上に戻れるかもしれない。相当運が良ければ、生きて上に戻れるかもしれない」

 リオンは青白い額を膝に乗せて、苦しげな呼吸をしながら暫く黙った。ずっと横になってたから、目眩でも起こしてるんだろう。息が整ってから、リオンはまた穏やかな声で言った。

「……本当は、『生きたい』とも思ってる」

「……そうだろうよ」

「でも、君を追ってきたことを後悔はしてない。投げやりに聞こえるかもしれないけれど、本当に、どっちでもいいんだ。ただ、一人で死ぬのは嫌かな。できれば、君に看取ってほしい。……それだけ」

「俺はお前に生きてほしい」

 どっちでもいいなら、生きてくれ。ほんのひと欠片の可能性でも、それにしがみついてほしい。ここは確かに綺麗だ。広くて、穏やかで美しい。狭い道の途中で溺れ死ぬより、心地いいかもしれない。でも、あの天井の彼方に見える、遠い月の光よりも心もとないものに運を託してみたとしても、間違いではないだろう。

「なら、一緒に来てよ」

「もちろん。駄目なら俺も死ぬ」

 そう言ったら、リオンは微妙に笑った。

「べつに、君に死んでほしいわけじゃないんだけれど。『心中してくれ』って言ってるようなものだね、僕」

「実際、他に方法はねえからな。願おうと願わまいと、そうなるさ」

 リオンの笑顔を見たら、俺も自然と口角が上がった。いくらか元気になっただろうか。体は弱っていたとしても、気持ちが弱りきっていなければ、きっとなんとかなる。

 引潮になる時を見計らって、俺たちは邪魔になる上着を脱いで水の中に入った。肋が浮いたリオンの白い体は、初めて海から拾い上げたときとまるで変わりはしない。自力では泳げないこいつを担いで、俺は外に続いているだろう道の近くまで水を掻いた。

「……君が抱えてる重荷を、少し寄越してほしかったのはさ、ただの我欲なんだ。誰かの役に立てたら、自分に価値を見いだせると思った」

 唐突に、リオンが言った。〈星の砂〉で泣き出した俺の顔を掴んで、こいつが言った言葉を思い出す。こいつの話を俺が聞いたから、その報答のつもりだと思っていた。それもあるんだろうが。

「それと、君のことが知りたかった」

「……情けねえところ、あんまり見せたくなかったんだ」

「僕は信用できなかった?」

「そうじゃねえ。ただ格好つけたかっただけだ」

「どうして?」

「……どうしてだろうな」

 これが最期の会話かもしれない。これで終わりなら、さらけ出してもいいか? でも今更、なにから話せばいいのか分からねえ。こいつの前で格好つけたかった理由も、分からねえ。アンドレーアと張り合いたくて意地張ってたのとは違う。それと違うのは分かるけど――。

「君が憧れてる雷神に、僕はまだ似てる?」

「…………」

 答えられない。『似てるよ』なんて返せない。俺は、こいつに嫌われるのが怖かったんだ。『陽気で頼れるやつ』でいたかった。なんてことねえ、俺は脆い人間だってのに。

 こいつは俺に、自分のことを話してくれた。なのに、俺はこいつになにも伝えられていない。こいつは俺を信頼していることを示してくれたのに、俺は……。

 こんなの、公平じゃあない。与えられた分返したいのに、俺にはその度胸がない。俺の意思で、俺の口から、自分の過去について、今の思いについてを話せば、きっと信頼をかたちで示して返すことはできるんだ。なのにできない。『嫌われたくない』という思いが手放せない。

 なぜか、依存してるんだ。俺の周りには昔から頼れる人間がいくらでもいて、皆がそれぞれ、俺の弱いところを知っている。信用できる家族と、仲間。誰にも、こんな恐れを抱いたことはない。俺はリオンが嫌いなのか? いいや、好きすぎるんだ。そのくらい分かる。けど、なんでこんなにも臆病になってしまうのかが、どうしても分からない。ずっと。

 四角い穴が足の下に見える。あとはできるだけ空気を体の中に溜めて、運に身を任せるだけだ。神にでも祈るか。メレーでも、海神ピトゥレーでも、祈れる神には祈っておこう。雷神リヨンにも、フォルマの神アーリャにも。

 神よ、神々よ、どうかこいつだけでも生かしてくれ。もしこの命でこいつの人生が続くなら、いくらでも差し出す。どうか、頼む。

 さあ、行こう。呼吸を整えて、地底の大気を深く取り込む。

「レナート。僕はね、君が好きだよ。咄嗟に駆け出して、こんなところまで一緒に落ちてきちゃうくらいにはさ」

 限界まで吸い込んだ息が止まる。なんだってんだよ。今、そんなこと言われたら動揺するだろ。

「……それと、たぶん君が思っているより、僕は『汚いもの』が嫌いじゃない」

 薄い唇が俺のとぴったり合わさるのと同時に、水の中に引き下ろされる。一瞬見えた笑みが、やたら妖艶に感じられたのは、もうこれが死に際だと体が身構えていたからだろうか。だが、その笑みも、俺の中に湧き上がった感情も、不快ではなかった。

 終わりまで辿り着けそうもない、長い道の中を、引潮の流れに身を任せて、空気を交換し合って泳ぎ進む。ほんの僅かでも無駄にしないように密着させた唇が、やたら熱い。

 あまりにも長い道程。交換し続けた息が、使い物にならなくなる。体を震わせて俺から離れたリオンの口から、古くなった空気が大きな泡になって溢れ、どこかへ流れていった。もがき出した体を抑えつけて、緩やかな流れが導いてくれるのに任せる。やがて動かなくなったリオンの体を抱えて、俺はまた青い水路を泳ぎ進む。もう、肺の中が空になって暫く経ってるってのに、苦しいという感覚がない。

 どれだけ泳いだだろう。たった一本の道は、延々と続いていた。出口なんて、なかったのかもしれない。吸い込んじまった水の感触を体の中で感じる。やっぱり、ここで終わりだよな。俺は泳ぐのをやめた。最期にもう一度リオンの体を抱き寄せる。

 なあ、俺も好きだよ。この感情を、名前がつけられたどれか一つに振り分けることは、やっぱりできねえけど。言えたらよかった。でも、どうせお前は気づいてたんだろ?

 まだ道半ばだったよな。俺も、もう少し生きてみたかったよ。お前と一緒に。

 ずっと、そう思っていたんだ、本当は。俺はお前と消えるより、お前と生きたかった。

 やっと、望めた。

 波音。濃紺の空に光環を描き出して浮かぶ、白い満月。

――メレー。もし、私の命に代えられるのなら、この子に人としての生を与え、幸せを教えてください。

 耳慣れない、けれどなんとなく懐かしい女の声が、穏やかな水音に重なる。

――あなたがどうなっても、どこに行っても、いつも一緒にいるからね。

 ああ、知ってる。思い出した。俺は――、

――メリウス――。

 そんな名前でもあった。

 陸に打ち上がる海の音。遠い……、遠い――、……近い。アンバーの光が、青に染まって久しい意識を塗り替える。手に触れる湿った感触は、藻の土台となった珊瑚の骨。

 体を起こす。水平線の彼方に、頭の先だけを覗かせているルビーみたいな太陽が見えた。アンバーと、アメジストと、ラピスラズリの空。夕焼けなのか、朝焼けなのか、分からなかった。視界の端に一瞬閃いた雷光。朝か。

「……リオン……」

 あいつの姿を探す。水平線を一周、二周、三周と眺める。珊瑚の道から続く島を囲む、王国の旗を掲げた十数隻の船。

「リオン……、どこだ……」

 ふらつく頭を宥めながら、より広い視界を求めて立ち上がる。そうしてまた、あいつを探す。

「レナート――」

 呼ばれて振り返れば、遠くに片割れがいた。珊瑚に躓きながら駆け寄ってくるアンドレーアを、待った。腫れた瞼の合間から覗く海色の眼から涙を垂れ流して、抱きついてくる体を受け止める。

「リオンがいねえんだ」

 片割れと再会できた安堵より、自分が生きている感動より、あいつがいない不安ばかりが俺の意識を占領する。

 アンドレーアはただ泣いていた。なにも言わなかった。『生きていてよかった』と、俺に言葉で伝えることもしなかった。

 だから理解した。俺だけが生きて帰ってきたんだって。

 なぜだ。あんなにきつく抱きとめておいたのに。この意識が消えてしまっても離さないと、決めていたのに。

 どうして手放した? ようやく、気づけたのに。どうして――。

 死ぬときは俺も一緒だって、約束したのに。

 俺は――、俺たちは。また、繰り返すんだな。同じことを。

初出:

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