ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

約束の還る海
第二章

 胸部を損傷した。発せられた信号を意図的に処理する必要はなかった。自動修復が行われる。心臓に空いた穴は、砕けた骨は、破れた肉と皮は、二.六秒で機能を回復させ、七.五秒で修復を完了させた。

 この身が死ぬことはない。許しを得られぬ限り。

 荒野となった場に独り残された『異端』に注がれる視線は、負の感情を纏う。銃口は背後から。彼らを擁護するべく、此処に立った。罵倒と共に伸ばされる無数の指先に前後を囲われる。この場所は、狭間。

 それでも尚、此処に立ち続けなければならない。

 かつて与えられた使命が、未だ生きている限り。

     *

 開け放しの窓から、朝帰り漁師らの賑わいが入り込んでくる頃、風に煽られたカーテンが、ダイヤみたいな陽の光を勝手に室内に招き入れた。顔に降り注いだそれに、俺の意識は水中から浮上する。

 どうも、この頃の夢見はあんまりだ。夜中に魘されていたような覚えはあるが、いざ朝になってみると、夢の内容は記憶からすっかり消え去っている。それでも、しばらくは妙な倦怠感が頭周りにまとわりつく。

 欠伸をこらえもせず、体の上半分を起き上がらせる。肩を回し、頭に血が巡ってくるのを待つ。元来目覚めは良い方なのに、記憶にない悪夢から解放されるたびに感じるのは、疲労感。ここのところ、毎朝『疲れた』と呟いている気がする。

 既に室温は高い。頸に貼り付く髪を持ち上げる。寝る前に外した髪留めの紐が見当たらない。仕方がないので、また散らす。枕に被せた布を剥ぎ取って、寝汗でベタつく胸やら背中やらを拭う。

 皮膚の色が目に入る。普段から露出させている腕は浅黒く、腹は海辺の白砂色。日に焼けているかどうかで、こんなにも変わるもんかと、改めて感心した。

 そうだ。俺の肌は、日に焼かれると色が濃くなる。しかしどうも、リオンの肌はそうでない。気の毒なくらいに赤くただれていた肌も、ラウレスの葉で作られた薬を塗って一週間も経てば、真珠みたいな色を取り戻した。肌の具合が悪いときは、大抵ラウレスの葉が効く。

 頭が回ってきたところで、ベッドから降りる。さっきからバサバサと暴れ回っているカーテンを留めてやる。朝方はとくに、窓側からの海風が強い。

 しばらく水平線を眺めていたら、下の表玄関から挨拶が聞こえた。窓から顔を出して、真下を覗き込む。見知った爺さんが、空の籠を引きずって出てきた。〈星の砂〉が得意にしている仕入先の漁師だ。

「おい、爺さん。今日はなんだ?」

 曲がりかけた背中に声を掛ければ、漁師の爺さんはすぐこちらを向いた。よく上から話しかけるんで、すっかり慣れちまったらしい。昔はあちこち見回して困っていたのを思い出す。隆々としていた背中も、随分小さくなってきた。だが、もう七十も過ぎたんだったか。あの年頃にしては、かなり逞しい部類か。漁師志望の孫にあれこれ叩き込んでいる最中らしいから、まだ当分隠居する気はないんだろう。

「舌平目がな。結構掛かった」

「舌平目かよ。あいつら、見た目が食う気しねえんだけど」

「料理になりゃあ気にならんだろうが。この辺りじゃあ滅多に捕れんのだぞ。食っておいたほうがいい。儂も昼に来る」

「カミさんに調理してもらえばいいのに」

「ここで食う方が間違いない」

「婆さんが可哀想じゃねえの」

「誰も気にせんわ。こと料理に関しては、互いに諦めがついとるんだ」

 そう言って、爺さんは大籠をガラガラやりながら立ち去った。よく夫婦で店に来るので、今日もそうなんだろう。

 顎を掻いたら、指先にザラつきを感じた。髭が頭を出してきたらしい。最後に剃ったのは一昨日だったか。それとも一昨々日さきおとといだったか。毎日手入れするほど、伸びはよくない。親父みたいに蓄えたいわけじゃあないが、ディランくらいの洒落た感じにしてみたいと思うことはある。しかしどうも、俺の髭は薄すぎる。もう少し歳をとれば変わるのか、変わりようのない体質なのか。いずれにしても、今日は剃ったほうが良さそうだ。せっかくだし、ぬるい湯でも浴びて寝汗も流しちまおう。

 そうと決まれば、下着と適当な服をチェストから引っ張り出して、部屋を出る。

 呑気に鼻歌なんかやりながら、着替えやらを頭の上に乗っけてペタペタと歩いていたら、急に行く手の扉が開いた。眠たげな顔をしたリオンが、ぬっと現れる。

「あ、やべ」

 すっかりいつもの調子で行動しちまった。俺もまだ寝惚けていたのか。

 そう、いつもの調子。つまり、俺は全裸だった。『下着くらい着なさいよ』、『うっせえな。どうせ寝汗で濡れるじゃん。洗濯物は少ないほうがいいだろ』――。マリアとのやりとりが蘇る。ちょうど、リオンはあいつの古着を着ていた。

 俺とてだ。ずっと親しくしてきたわけでもない人間に全裸を晒して、動揺しないタイプの人間ではない。逃げるか隠すか言い訳するか。一気に案が浮かんだせいで、却って頭がスッカラカンになっちまった。

 リオンの下がり気味だった視界に、ナニが映り込んじまったのか。目線の角度から導き出すのは容易すぎた。

 先に動いたのはリオンだった。部屋の中に戻っていく。扉が静かに閉まり、廊下がシンと静まり返る。

 やっちまった。ようやく動けるようになった俺は、さっさと浴室に入った。気にしても仕方ない。

 さっぱりとして戻ると、俺の部屋の前にマリアがいた。

「ああ、いた。もう店開けるから、早くご飯食べちゃってよ。リオンとお父さんにも声掛けてきて」

 早口で言って、階下に戻っていく。今日はいつもより油を使っているようだ。揚げ物か? 香ってくる匂いが、そんな感じだった。

 濡れた頭を拭きながら、まずは親父の部屋に向かう。島に戻れば、毎晩酒を飲んでいつまでも寝てる上、家事なんか殆どしない。だらしのないことだ。そんなんだから腹が出るんだ。まあ、その分一旦仕事期間に入れば無休だし、均せば丁度いいのかもしれない。

 昨日もかなり飲んでいた。多分、部屋の中は臭い。入りたくない。俺だって酒は嫌いじゃないんだ。だが酔っぱらいの臭いは、どうも。

「おい親父! もう起きろよ、客が来るって!」

 多分、鍵は掛かっていないのだろう扉を、遠慮なく叩きまくった。中から低いうめき声が聞こえる。一応、目覚めてはいるらしい。が、動き出す気配がない。まあ、声は掛けたんだからいいだろう。

 次に、リオンの部屋に行く。さっきの今だ。気まずいこと、この上ない。まず、扉の前に立って部屋の中の気配を探る。静かだな。二度寝でもしたのか?

 なんて思っていたら、急に扉が開いた。ビックリした。気配が薄いんだよ、お前。寄ってくる足音もなにも聞こえなかったぞ。驚いて後ずさりかけたのを、なんとか留まった。

「朝飯、食ってくれってさ」

「……今行く」

 多分、動揺した感じにはならなかったと思う。リオンもいつも通り、無表情で抑揚の殆どない口調で応えた。

 どうも、何を考えているのか分からない。とくに俺に対しては口先の愛想もなにもない。歳が近いからか? 先日年齢を聞いたら、『よく分からない』と前置きされた上で、多分二十くらいだと言っていた。なのでまあ、もしかすると五歳くらい離れているかもしれないし、もしかすると同年齢かもしれない。が、どっちにしろ俺のほうが年上なんじゃないのか。まあ、対応が俺にだけ雑だからって、べつに気にしちゃいないが。

 着替えてから行くと言うから、俺は一足先に下の階に降りた。カウンター席に座れば、目の前に料理の乗った皿が出てくる。やはり揚げ物だった。朝食には少し重たそうだが、文句なんて言えば『なら自分で用意しな』と怒られるんで、余計なことは口にしないもんだ。

 帝国式の食前の挨拶も適当にして、小麦の衣をまとった魚を口に入れる。これが今朝仕入れた舌平目か。身は柔らかく、脂で程よくしっとりとしている。香ばしい種子油を含んだ歯ごたえの良い衣に、香辛料と柑橘の風味が合う。やはり朝っ腹には思いが、旨さは間違いない。今日も売上はよさそうだ。

 いくらか食べ進んだ頃、俺の服に着替えたリオンが下りてきた。俺の隣の席を一つ空けて座り、俺と同じ料理を受け取る。マリアへの礼は欠かさない。俺の腹に重たいものを、この細っこい体で食えるんだろうか。

 さておき、リオンとマリアだ。果たしてリオンがマリアを初めて見たときにどういった反応をするのか、俺はいささか不安というか、緊張というか。多少身構えていたのだ。だが、リオンは特別な反応は見せなかった。

 言いたくないようなので触れないようにしているが、リオンがフォルマから流れてきたことは分かっている。フォルマでは、マリアのような人間は公には軽蔑対象のはずだ。だが、こいつが一目でそういう人間だと分かるのかどうか、付き合いの長い俺にはなんとも言えない。だから、もしかしたらリオンは気づいていないのかもしれない。

 リオン自身は、フォルマでどういった立場で生きてきたのだろうか。厳密には違うにしても、リオンもマリアも似たようなものとして分類される人間だと思う。まして、リオンの容姿は明らかにリーン人系だ。華奢な体格はリラやヴィオールの系統も影響しているかもしれないが、少なくとも血統はフォルマ人ではない。

 例えば、奴隷。そのような立場だったと考えると、納得できる部分もある。だが、それにしては教養がありすぎるかもしれない。アウリーやファーリーン式、或いは帝国式の作法には疎い。当然だ。だが、フォルマの作法に関しては、おそらく上流のものが身についている。たしか、美形の容姿で取り立てられる奴隷もいるらしい。敵対するファーリーン王国の人間であることが、却って希少価値にもなり得るかもしれない。

 まあ、本人に確かめたりなんてことはしないので、いつまでも想像でしかない。

 俺が隣で食っている間も、リオンは食前の祈りに時間を掛けている。たしか、向こうではなにか唱えるのだ。だが、身分を隠そうとしている以上、声に出して朗唱するわけにはいかないんだろう。ここにいるのは俺だけじゃない。

 シトリンみたいに輝く髪が、はらりと耳から外れて落ちた。横顔は精巧な人形じみて、伏せられていた空色の瞳が開いていく。絶景でもなんでもない、ただの大衆食堂の内装を背景にして、古典芸術の写実的絵画内に浮遊する雷神リヨンを彷彿とさせるこいつは、きっと誰が評価しても『美貌の人』に違いない。

「お父さん、やっぱり起きてこないんだ」

「声はかけたぞ」

「知ってる。聞こえてきたから」

 開店準備が終わったらしいマリアは、厨房から身を乗り出してカウンターに腕をついた。そして、食前の儀礼を終えてようやく食べ始めたリオンを、観察するみたいに眺める。

「どう、リオン。今日のは口に合う?」

 リオンは薄い唇を閉じ合わせて、小さく頬を動かしながら頷く。帝国式の食器が、まだ使い慣れないらしい。崩れる魚の身に苦戦している。マリアには、『病気で手が動かしにくいらしい』と言っておいたので、その辺りを不審には思っていないだろう。段々と食事量も増えてきたので、少しは安心か。とはいえ、俺の半分も一度には食わない。

「お父さんの分、どうしようかな。レナート、もう少し食べられない?」

「半分くらいなら」

 自分の腹と相談して答えた。夕飯だったら、もう一人前くらい余裕で入っただろうが。

「リオンはもういらない?」

「僕は十分です。ありがとう」

 リオンは丁寧に答える。年長者に敬いの姿勢を見せるのは、いかにもフォルマ人らしい。たとえどれだけ親しくなっても、年長の人間には敬意を持って接するのが、フォルマの常識だとか。一方で、俺は大して親しくもないのに適当にあしらわれている。しかし一つ二つの差で永遠に畏まられ続けるのは、俺の価値観にそぐわない。丁度いいんだろう。

 ふと、リオンに一冊の本を貸していたことを思い出した。

「お前さ、アレ本当に読んでるのか? 〈アルビオンの書〉の原本」

「読んでる」

「どこまで」

「中世期の始め」

 馬鹿みたいに分厚い本だ。今どき使わないような古臭い言葉と小難しい文体。いつ書かれたのかも知れない帝国アルディス神話は、幾度となく『現代版』と銘打って文語をその時々に合わせてきたようだ。定番は『ユリウス・カエルレウス訳』だが、全くもって面白さには欠ける。多少の脚色があっても物語として楽しめるほうがいい。などと常日頃考えている俺が持っているのは、そのカエルレウス訳版だ。昔に親父に与えられたが、大して触らずにいたので埃を被っていた。虫にでも食われてやしないかと思って恐る恐る開いたら至って綺麗だったので貸した。買えばなかなか高価なものだ。

 そんな、大まかには四部構成で成っている〈アルビオンの書〉で、中世期の始めというと半分くらいだ。一週間足らずで読めるものか? 流し読みならいけるかもしれないが……。

「あんなもの、王侯貴族か神官くらいしかまともに読まねえぞ」

「レナだって読んだでしょうに」

 皿に追加された魚に手をつける俺の中で、ガキの頃に何度も眠っちまいながらようやく読破した記憶が蘇る。思い出すだけで頭が疲弊する。

「二度とは読みたくねえよ。原本なんて飾りにしとくのが丁度いい。部屋にあったら知的な感じがするだろ。それより、王立図書が編集した連作集のほうがよっぽど面白い。俺は『メリウス王の章』あたりが気に入ってる。『メレーの子』の題で出てるやつ」

「あんた、あれ本当に好きよね。子供の頃から、擦り切れるほど読んでたし」

 暇さえあれば読んでいた。何年か前に綴じ糸が切れてばらけてしまったから、読むならまた買うしかない。短いし、高価でもない。原本に比べたら、ずっと取っ掛かりやすい。なんせ、アウリーの初等・中等教育の教材にも使われているくらいだ。俺は学校には通わなかったんで、そう話に聞いているだけだが。

「……メリウス王って?」

 リオンが訊いてきた。そうか、中世期のあたりだと、まだメリウスは出てきていないか。

「半神半人の、アウリー人の祖」

「半神?」

 俺が簡単に紹介したら、リオンは胡乱そうに目を細めた。フォルマの宗教的には、『半神』なんてものはあり得ないんだろうから、当然か。そもそも、神と呼ばれる存在が何十何百といる時点で、あっちの世界観とは相容れないのだ。昔、帝国のとある学者は、フォルマの『アーリャ』は〈月の神子アル=ヴィセーレ〉の親――月帝――のことではないか、と唱えたらしいが、フォルマからの猛烈な批判に遭ったらしい。たとえ同一視されるのが、こちらの神話における最高神の、さらに上に位置する存在だとしても、受け入れられないようだ。たしかに、仮にそれが正しいとなったら、『神』の直系となる末裔はアルディス帝国の皇族ということになってしまう。とにかく、そのあたりのことは下手に触れない。それに限る。

 だが、リオンは自分から多神混在する〈アルビオンの書〉を自ら所望してきただけはあって、半神というものを端から否定はしなかった。受け入れるのが難しい様子ではあったが。

 実際のところ、アウリー人にだって『メリウス王が半神だった』なんて話を本気で信じているのは少ないはずだ。同じ神話の元に生きるファーリーン人と比べて、アウリー人は夢想的だとはよく言われていることだが、こと宗教的な点に関してはファーリーン人の方がよほどその世界観に入り込んでいる。そういった点に関して言うなら、アウリー人は現実的だ。メリウスが神官の子で、広範囲の土地と民族を統一し治めたことは事実だろうとしても、二千年も生きたなんて部分に関しては、完全なる誇張か比喩だと受け取っている。

 しかし、真偽の比がどうであれ、今では当然に思われるような体制の元になるようなものを作ったのはメリウスだと納得している。何千年前の話だか知らないが、現代にも通用するような法整備を行えたからには、相当賢かったはずだ。そういうところから神格化されていった――つまり、人間離れした『人間』という解釈なのだ。アウリー人にとって、メリウス王というのは。ファーリーン人にとってのヴァイタス王とは違う。

 神話上の記述をそのまま語るなら、メリウスの母親は人間の女性体を以って顕現したメレーだ。メレーとは、帝国神話における最高神〈月の神子〉の守護神で、ファーリーンで崇拝されるフェムトスと並ぶ高位神。かつ、賢神。と、またここでとある学者は、『メレーとメリウスは』同一神と言う。メリウスが賢かったからだ。

 あれとこれは一緒、ここは本来別だった。なんてのは、挙げればきりがない。

 食い終わって水を飲みつつ、リオンの姿を眺めてみた。俺の服は、やはり緩そうだ。背丈が殆ど変わらなかろうが、身幅が違いすぎる。骨格はある程度しっかりしてるんだろうが、肉の付きが薄いんで、どうしても袖やら裾が余るらしい。

「なあ、調子が良ければ服を見繕ってこないか? いつまでも俺らの古着じゃあさ」

「……別に、なんでも良いんだけど」

 どうも、服装にこだわりが無いらしい。せっかく元の顔立ちだとか体型だとか――痩せぎすではあるが、それはそれとして――手脚が長いんで見栄えが良いし、フォルマ的な所作が優雅な印象なのだ。俺やマリアの趣味は悪かないだろうが、あくまで自分に合わせたものだ。それがリオンにも似合うのかと問われれば、微妙だなと言わざるを得ない。

「いいじゃない。行ってきなさいよ、観光も兼ねてさ。島を案内してやったらどう、レナ?」

「なんなら、本屋にでも行くか?」

 マリアの援護を受けたんで追加で提案してみた。リオンの顔つきが少し変わった。

「本か……」

 これはいい手応えなんじゃないか? 本好きを引っ張り出すには、本のあるところを示せばいいわけだ。

「金もあるんだから、気に入ったものがあれば買ったらいいさ」

 店奥の金庫がある小部屋を示してやる。リオンが身につけていた黄金の宝飾品は、本人がいらないと言うので、いくつか質に入れた。相当な額になったので、銀行にでも預けておいたほうが良さそうだが、身分を証明するものがないので、当分は難しい。とりあえずは店の金庫内に、売っていない宝飾品と一緒に入れてある。

「……行こうかな」

 よし、と俺は内心で両手を打ち鳴らした。どうやら、一週間ぶりにこいつをこの家から引っ張り出すことに成功しそうだ。急いで金庫から金を取ってきて渡す。突き返される。

「持ち歩くのに、しまっておく場所がない」

「ポケットに入れりゃあいいじゃん」

 と、言ってはみたが、たしかに適当に突っ込んでおくにはいささか大金すぎるか。五百エラス紙幣が十二枚だ。

「うぅん……。じゃあ、俺の財布に入れておくわ」

 リオンが頷いたんで、俺は部屋に戻って財布を取りに行くことにする。食堂を出る間際に、食後の祈りに入ったリオンを、視界の端で見た。

「じゃあ、そろそろ店開けるから。行ってらっしゃい」

「先に服だからな」

 マリアに見送られながら、俺たちは正面玄関から出る。服よりも本に気持ちが持っていかれているリオンに、念を押しておく。

 まだ俺の髪は乾ききっていないが、海通りを歩いて太陽と風に当たっていたほうが、家の中にいるより良い。散ると煩わしいので、さっき部屋に戻ったとき枕の下から見つけた紐で髪を括る。

「あんたさあ、その髪切ったらいいのに。癖毛だから邪魔じゃないの」

「だァから、切ってもすぐ伸びるし、半端に長いよりいいんだって言ってんじゃん」

「短いほうが似合うのに」

「俺はそう思わない」

 いつもこいつは俺に髪を切れと言う。そのほうが似合うのに、だとかなんとか言って。俺は長髪だって似合ってると思う。というか、何度も切れ切れと言われてたら切りたくなくなった。多分もう四年くらいは伸ばしっぱなしだ。

「リオンは髪、結んでいく? この島、結構風があるから」

 マリアは前掛けのデカいポケットから、青と紫の糸で編み込まれた紐を取り出して見せた。リオンは海から吹いてくる風を受けて靡く、冴えた金髪を顔から退けて、頷く。

「じゃあ、後ろ向いて。結んであげる」

 言われてリオンは素直に従う。顔の横に掛かる髪は残すらしい。後ろに持っていくには短いようだ。軽く編んで、手際よく纏めていく。

「うん、似合うね。じゃあ、楽しんできて」

「おう」

 あまり遠出をすると、リオンは疲れるだろう。近場で用が済ませられれば良いと思いながら、マリアの見送りを受けて歩きだす。クアロ通りが手近でいいだろうか、と考えながら、どんな店があったっけと頭の中で地形を思い出す。本屋と服屋が隣接していた気がする。隣じゃないにしても、すぐ近くだ。丁度いい。

 歩幅はちょうどいいだろうか。横を見て確かめてみる。と、あんまりな美形がいるもんだから、心臓が縮こまりそうになった。無論そのとんでもない美形はリオンなわけだが、後ろ髪を纏めただけで、随分と印象が変わるもんだ。『男装の麗人』なんて言葉が、ふわりと浮かんだ。俺の服を着ているせいだ。かと言って、マリアの服を着ていて『女装が似合う』とも思わない。不思議なやつだ。

 アウリー人の身の動かし方ってのは、いくらかがさつな印象なのかもしれないと、俺はこのとき思った。リオンの身振りは小さいというか、品が良いというか。フォルマのひらついた衣装が、こいつに身動きの癖を付けたんだろうが、なんとなく剣術指導を受けたファーリーンの貴族っぽさもある。

 どうであれ、これは目立つだろう。うっかり離れたら、男女問わず声を掛けられて買い物どころではなさそうだ。

 なんて色々と考えながら、少し歩く速度を落とした。

 俺の予感は的中しかねなかった。若者向けの服屋に入るなり、他の客たちの視線がリオンに集まった。そもそも、リーン人の容姿だとか雰囲気だかってのは、なぜかアウリー人受けがいい。加えて絶世の美形と来たら。まあ、見るなって方が無理な話だろう。

 自分が注目を集めていることに、本人は気づいているのかいないのか。気づいていて、完璧な無視を決め込んでいるのか。後者だな。多方向からやってくる視線のどれとも視線を合わせないなんて芸当は、意識してやっても難しいはずだ。慣れてんのかな、なんて思った。絡まれそうな気配は感じる。しょうがない。『俺のツレだが?』みたいな顔して、近くにいてやろう。

「あのぉ……。どういったものをお求めでしょうか……?」

 服屋の娘が上目遣いに、リオンに声を掛けてきた。リオンは答えない。店の中を探るふりをして、気づいてませんみたいな態度だ。なんて懸命なやつ。

「上から下まで一式。何着かあるといいな。予算は四千以内で、似合いそうなの見繕ってくれよ。本人、無頓着なんで」

 ほら、代わりに答えてやったぞ。店員とのやり取りくらいは自分でしても良いんじゃないか。

「えっと……、それじゃあ……。中性的な雰囲気で統一してみるのは……、いかがでしょう……?」

 おい、客商売なんだからもうちょっとハキハキ喋れよ。と、リオンの顔に見惚れてる服屋の娘に、胸の中で文句を垂れた。

「……変人に見られなければ。なんだっていい」

 そっけない返事だ。店員の言う格好ってのは、たしかに似合いそうなもんだが。『変人』とはな。この顔立ちに服装まで揃えたら、完全に性別不詳な見た目になるだろう。フォルマ人的には、あまり好ましくないかもしれない。

 店員がリオンを連れ回すのに付いていきながら、俺も時々自分の金銭に触れた衣服を手にとってみたりした。そこでアッと思い出す。作業用の靴底がすり減ってきていたんだ。今日じゃなくても、後で靴屋に行かないと。

 嬉々とした店員の着せ替え人形になっているリオンの周りをうろつきながら、時々口を挟んで、周囲の視線を追っ払い続けた。

 無事に予算内で会計を終えられた。その内の何着かは本人に着せて、残りは家に送ってもらうことにした。この後も歩き回ることを考えると、俺もあまり荷物を持っていたくない。

 新調したばかりの服を着たリオンは、もはや隣に並ぶのがはばかられる感じになってしまった。さっきまでは『俺のツレに用か?」みたいな顔を周りにできたが、ちょっともう厳しい。釣り合ってない。さっきまでは、俺のくたびれた古着が、こいつをかろうじて生身の人間らしく見せていたのだ。

 白が基調の、やや古風な意匠を取り込んだローブ。青と黄の装飾模様が、藍色のベルトと上手く調和している。真鍮塗りのサンダルはリオンの髪色とも合っているし、歩を進めるたびに、細い折り目がつけられた裾から、生白なまっちろい足首が見え隠れする。

 なるほど、さすがに服屋の娘は趣味がいい。

 エドアルドが描いた雷神像が浮かんだ。或いは、ロザリアが彫った白大理石の神像彫刻か。いずれにしても、それらは静止した無機質の芸術品だから感嘆できるのであって、動いたとしたら恐怖ものだ。

 つまり、今のリオンをまともに直視したら、寒気がする。先まで、すれ違えば一瞬で視線を釘で打ち付けられたみたいにリオンを凝視していた通行人は、今は視界に入った瞬間、明らかにギョッとした反応をして目を逸らす。俺と似たような感覚なんだろう。これなら『俺のツレ』ヅラはしなくてよさそうだ。

 さっさと近くの本屋に入って、リオンの金が入った財布を渡す。まだ二千エラス以上残っていたから、十分だろう。

「好きに歩いてこいよ。西の方に休憩所があるから、用が済むか疲れたらそこにいろ。俺も適当に見てくる」

 本屋ならやかましく絡まれることも無いだろうと思ったんで、それぞれでうろつくことにした。

 俺も本屋は久々だ。大体、仕事のために必要となるものは専門性を有しすぎるから、こういう一般的な書店で扱っているものは、あまり役に立たない。仕事以外で本を読もうとも思わない。俺は全く、読書家とかではない。公立図書館で借りてくるくらいなら気楽なものだが、わざわざ金を払って、自室を狭くしてまで手元に置いておきたいと思うような発見に至ることも、ほとんどない。借りて読んで、よほど気に入れば探しに来ることもあるが、大抵が古書なので結局見つからない。

 たまには、人気のある大衆向けの本でも見てみるか。会計所近くの棚を眺めて、装丁や題などで気の向いたものを手にとって開く。新しい紙とインクの匂いも悪くない。なるほど、最近の本は随分と理解しやすい文体で書かれているんだな。なんて、古い言葉を読むことに慣らしてしまった頭で思う。

 結局、さほど惹かれなかったので棚に戻した。

 リオンはどの辺りにいるのだろうか。本棚の壁は天上まで届いて、通路は狭く、見晴らしなんて皆無だ。一列ずつ通路を覗き込みながら、奥の方に行ってみる。

 薄暗い歴史書の書籍列で、光源のように目を引く姿が難なく発見できた。そばに行ってみる。また随分と分厚いのを持っている。

「なに読んでるんだ?」

「『帝国から見たフォルマ史』」

「ふうん」

 ようやく、自分から『フォルマ』の名前を出してきた。活字に気を取られているようだから、意図せず言ったみたいだが。リオンの前には、棚から引っ張り出して積んだらしい、これまた分厚い本たちがある。『アルディス帝国史』に、『神話と宗教・政治』、『我が帝国の神話と古代史の関連についての論述』、『皇帝と王と三大神』――。俺も読んだことがあるものばかりだ。仕事で必要な知識を得るために、書き込み過多で本文がすっかり読みにくくなった親父のものを、敢えて借りた。ここに積まれたものを全部買うとなったら、なかなかなものだ。二千エラスでは足りない。

 その歴史書などを積み上げた横に、また数冊の本が重ねてあった。文学書だ。へえ、文学にも興味があるのか。

 と、俺は思い立って隣の列に移動した。多分、あるとしたらこの辺りだろうと、背の高い本棚を上から下まで確認しながら、通路を進んでいく。そうしたら、思った通り。アウリー王立図書の『文学アルビオン神話全集』のための一角がある。それの終わりの方に、『メレーの子』の題が印字された本が、三部あった。他の題は全て一部か、抜けがある。これだけは在庫を切らさないよう気遣っているあたり、やはりここもアウリー王国の書店だなと思う。

 だがそもそも、これが流通しているのはアウリー国内だけだ。ファーリーンでは〈アルビオンの書〉は神聖書物だから、こんなふうに脚色されたものは好まれない。難解で重くて、義務感でもなければ読む気にもならないような本で尻込んじまうくらいなら、多少本来の形と違っていても面白いほうがいいんじゃないかと、俺は思う。大体、『本来の形』が現代訳版の『原書』に残っているのかも怪しいじゃないか。と、昔のアウリーの偉い人間たちも考えたんだろう。だから、こんなものがあるわけで。事実、一般庶民に限って言えば、ファーリーン人よりアウリー人の方が神話には詳しい。間違いなく、この本たちが身近にあるからだ。

 俺は『メレーの子』を一冊手にとって、リオンのところに戻った。

「なあ、これ今朝少し話した本なんだけどさ」

「……ああ、メリウス王の?」

 リオンは分厚い本を置いて、俺が差し出す『メレーの子』を受け取った。中を開いて流し読んでいる。俺はその中身を横から覗き込んで、また改訂されたのか、と思った。俺が子供の頃に読み込んでいたものより、紙は厚そうで、文字も大きい。挿絵なんかも入っているし、対象の年齢層を下げたのが見受けられる。それなら、本文にも修正が入っているだろう。

「……面白いよ」

 リオンは閉じた本を返してくる。冒頭から最後まで、ページの抜けがないかを確認するくらいの速さで捲りきって、その一言か。

「今の時間で読んだわけじゃねえだろうな?」

「概要は掴んだよ。でも、そういうのは、掘り下げる余地があるだろ。原書と比較しながら読んだら、気付けることもありそうだ」

 ちゃんと読んでるじゃねえか。いかにも、だ。この本は帝国神話の入り口になり得るものだが、これ自体が十分に神話を語っている。数多の学者・神官による解釈を交えられた物語は、隣国の宗教家に言わせれば『蛇足的』だ。しかし、だからこそ興味深いんだ。原書の一節を究極的に追求した者もいれば、長大な神話全編の繋がりを調べた者もいる。特定の地域で長らく信仰を集めた、一柱の神について研究した者もいる。それらの集大成が、これだ。アウリー王国が国家を挙げて挑んだ帝国神話に対する解釈は、この国の歴史の一節そのものとも言える。

「家にあったら読むか? 俺も、こいつをまた手元に置いておこうかなと思ってたんだ」

「借りられるなら読むよ」

 そうか。なら買おう。俺はズボンのポケットに突っ込んでおいた自分の金で、さっさと会計を済ませた。他に目ぼしいものもなかったし。

 通路に戻れば、リオンは手持ちの金で買えるだけの本を選んでいた。どれも親父が持っているんだが、書き込みが無いもののほうがいいだろう。

 結局、リオンが選んだのは『アルディス帝国史』と『皇帝と王と三大神』、そして『帝国から見たフォルマ史』だった。千九百エラスだ。こいつの趣味と読む速さを考えると。公立図書館を紹介したほうがいい気がする。アウリー国籍がない状態で手続きをすると金が掛かるから、俺の名前を貸してやってもいいだろう。

 会計所から戻ってきたリオンと本屋を出たところで、手を差し出す。

「重いだろ。二冊持ってやるよ」

「ああ……、ありがとう」

 細い腕じゃあ、家まで運ぶのも大変だろう。分厚い三冊のうち二冊を受け取って、小脇に抱えた。さすがに疲れたのか、リオンの顔が青白い。店内にいるときは照明のせいかと思っていたが、そうじゃなかったようだ。

 もう日も暮れてくる。もしまだ余裕があるようなら、この辺りで夕食でも食って帰ろうかとも思っていた。だが、今日のところはこのまま家に帰ったほうがよさそうだ。

 クアロ通りを抜け、路地に入った。もう街灯が点いている。ここからでは建物に遮られて水平線は見えないが、たぶん、もう太陽はその辺りにいるんだろう。なんなら、少し下の方を海に浸らせているかもしれない。

 今日を振り返りながら、緩い坂を下っていく。

 隣を歩いているはずのリオンの姿がないことに、すぐに気づけなかった。俺も少し疲れていたのかもしれない。はっと後ろを見れば、十数歩分離れた場所で、リオンが建物の外壁にもたれていた。

「どうした? 足痛めたか?」

 歩み寄りながら訊ねる。履物も新調したし、そのせいかと思った。そのくらいのことであってほしい、と思った部分もある。リオンの顔は蒼白で、息は細く浅い。

「目眩か? 荷物貸せ」

 もう一冊の本を細い腕から抜き取って、石畳に座らせた。丁度、真上に街頭があった。もっと頭の位置を低くしたほうがよさそうだ。俺は腰に巻いていた、日除け用の薄い上着を地面に敷いて、リオンを横にさせた。目眩なら、少しすれば治まるだろう。

 だが、リオンの顔色は街灯の粗末な光の下で見ていても、明らかに悪くなっていく。目眩ではないのか?

「なあ、どこか痛えのか?」

 リオンは浅く頷いた。そうか、痛みだったのか。それじゃあ、こうしていても治まらないかもしれない。リオンが背を丸めて唸った。白い手が腹部を押さえつけている。腹痛か。食い物に当たったか? やっぱり朝飯の油っ気が強かったんだろうか――。

 なんて思ったところで、リオンの白いローブが汚れているのに気づいた。腿のあたりに泥が付いている。いや、泥? 染みはじわじわと広がっていく。街灯の明かりを頼りに観察して、ようやく。血液だと理解した。

「おい、お前怪我したのか? 血が出てるぞ」

「……嘘」

 余裕のない眼差しで俺を凝視し、呟いた。愕然とした様子で。怪我ではない? これだけ出血していて気づかないなんてことはないだろう。腹痛に気を取られて? いや、むしろ……。

 こいつを海から引き上げたときのことを思い出す。俺は、こいつにまとわりつく海水を洗い流して、着替えさせた。特殊な体をしていることに、そのとき気づいた。他のやつらが手伝おうとしてくるのを、俺は断った。

 フォルマにおいて去勢は非合法だ。しかし、奴隷身分の人間は例外だとも聞いていた。見目が良ければ尚のこと。単に切る、それ以上の処置を施されたのかと疑問に思う部分もあったが、あまり追求するべきではないと判断した。出血の理由に、全く思い当たるものがないわけではない。だが、こいつは男の体で生まれたんじゃないのか? それを完全に変えるなんて不可能だ。この国の、この島の病院でだって、不可能なんだ。フォルマの技術でどうこうできるなんて思えない。

 じゃあ、こいつは男で生まれたんだろ? そうじゃないなら、あのとき目についたものは、一体……。

 俺もすっかり混乱してしまった。どうしたらいい? 家に連れ帰るか。いや、やはり病院に行ったほうがいいんじゃないか。と、いよいよ呼吸もままならないほどに身悶えはじめたリオンを見て、迷う。病院は嫌だと頑なに主張したこいつの意思を、尊重すべきなのか。

「どうしたんだ?」

 聞き慣れた声に、ふと冷静さを取り戻す。娘を抱きかかえたディランが、近くにいた。俺はようやく決めた。

「病院に連れてく。これ、家に届けておいてくれ」

 本をディランに託す。察しのいい兄貴分は、多くを話さなくとも状況を理解してくれる。ディランは娘を下ろして、本を抱えてくれた。空いた片手で娘の手を引きながら、立ち去りがてらに言う。

「親父さんたちにも知らせておくからな」

「頼む。ほら、行くぞ」

 リオンを背負おうとしたところで、思いとどまる。腹痛なら、背が丸まっていた方が楽かもしれない。意識がなければ、遠慮なく肩に担いでしまえたんだが。俺はまたリオンに向き直って、肩の下と膝裏に腕を回した。この状態から立ち上がろうとすると体幹が危うい。俺が転んでは目も当てられない。足腰にしっかりと注意を向けて、勢いをつけて立ち上がる。一度抱え上げてしまえば、リオンは軽いし、大した負担ではない。

 ぐったりと首を重力に任せて、リオンは浅く早い呼吸を繰り返している。

「できるだけ深く息しとけ」

 幸いにもさほど遠くない場所にある病院に、早足で向かった。

 八百年前のリーン教会堂跡に建つ聖ルドヴィコ病院は、既に通常の外来患者診療を終えていた。玄関前の長椅子にリオンを横たえ、俺は閉じられた扉脇に取り付けられた、急患を知らせる鐘を思いっきり鳴らした。待ち時間がやたらと長く感じる。後ろの長椅子で呻くリオンを見て、もう一度ガラガラと鳴らした。

 二度目の鐘が鳴り終わる前に、内側で錠が鳴った。看護師が二人、飛び出してくる。俺がなにか言う前に、二人は長椅子の上で苦しむリオンに気づいて、駆け寄る。俺も戻って様子を見る。

「分かりますか?」

 意識の有無を看護師が訊ねれば、リオンはかろうじて頷く。だが、名前が言えるかという質問には答えなかった。

 一人がリオンに質問を重ねる間に、もう一人は俺に向いた。

「お身内の方ですか?」

「いや、知り合いだ。一週間くらい家で世話してた。今日は調子が良さそうだったから、クアロ通りを歩いてたんだが。ついさっき、帰る途中で具合が悪くなったらしい。訊いたら、腹が痛いようで……。それで……、血が出てる」

「出血? どこからですか」

「いや、その……。診てもらえば分かると思う。俺も、ちゃんと確認したわけじゃないから」

 確信がないのは事実だ。だが、仮にその予想が当たっている確証があったとしても、俺は言えなかったと思う。きっと、こいつの名誉に関わることだから。

 看護師はもう一人に状態を調べられているリオンを見て、また俺に向き直った。

「では、他になにか気になったことはありますか?」

「四、五日前まで、よく目眩を起こして倒れてた。食欲も、ほとんど無いみたいだったし。あとは……、そうだ、光をやたら眩しがってたな」

 看護師は上着から取り出した手帳に、俺の言葉を書き留めていく。今の状態とどこまで関係があるのか分からないから、思いつく限りを伝えておく。

「ここ三日ほどは、安定していたんですね?」

「そう見えた」

「お薬は使っていましたか?」

「らしい。だが、なんていう薬かは教えられてない。今は不要だって言ってた」

 とりあえず、訊きたいことは訊けたようだ。看護師は手帳を仕舞った。

「お知り合いの方の身分証がどちらにあるか、ご存知ですか」

「そのことなんだが……」

 何と説明したものか、迷った。官憲に取り次いでいなかったことが、裏目に出た。親父あたりに保証人になってもらって、さっさと仮の身分証を発行してもらっていれば……。なんて、今更だ。

「実は、帝国籍証を持っていないようなんだ。紛失したのかもしれないが、どこから来たのか訊いても答えない」

「では、官憲に確認しますね」

「届け出してない。確認してもらってもいいが……。本人が嫌がったんで、もう少し落ち着いたらと思ってたんだ。どこかから逃げてきたのかもしれない。もしそうなら、捜索届も出ているだろうし。さっさと照合されて連れ戻されたら、可哀想だなって」

 こちらにも相応の理由があることを説明しなければ、罪に問われかねない。看護師は難しげな顔をして、悩む様子を見せた。

「そうですか……。でも、帝国籍を証明できないとなると、処置費用がかなり嵩んでしまいますよ」

「たぶん、それは何とかなると思う。金は持ってるから」

 リオンに付いていた看護師が血相を変えて、早口でこちらに叫んだ。

「つい先日まで、ハーワサーを使用していたと!」

 俺と話していた看護師の顔色も変わる。

「は、ハーワサー? ずっと? まさか、それを急にやめたんですか」

「そのようです」

 看護師二人がリオンの細い体を持ち上げて、院内に運んでいく。俺はあとを付いていきながら、『ハーワサー』についての知識を記憶の中から探す。

 たしか……、ヴェヴァールの実と樹皮、乾燥させたガナスの葉を調合して焚く、強力な鎮痛作用をもたらす古来からの薬だ。だが、あらゆる近くを鈍麻にさせ、あらゆる臓器を含む身体機能を衰えさせる。長期に渡る使用なら尚更、急な中断は、心肺を停止させかねない。

 まさか、そんなものを常用していたとは。

 外科処置のために使われることもあったようだが、ファーリーンやフォルマでは戦の前に――とくに不利な側の兵士らがその煙を吸い、感覚を麻痺させて死戦に挑んだとも。だが、帝国では随分前に使用禁止になったはずだ。少なくとも、表面的には流通していないが、フォルマではまだ使われているのか。

 光を眩しがっていたのは、ハーワサーのせいか。ようやく合点がいった。

 長椅子の並ぶホールに残された俺は、リオンの診察が終わるのを待つ。この病院には、子供の頃世話になった。ほとんど病室に閉じ込められていたんで、この辺りの光景が記憶に薄いのは当然だろう。その後、大きな怪我も病気もせずに来たから、あれきりだ。一年以上入院していたから、八年ぶりくらいか。あの頃と、内装は多少変わっただろうか。

 俺が負った怪我は、たしかに大層なものだったんだろう。それでも、半年もあれば十分に治っていたんじゃないかと思う。結局、俺がそれよりも長くここに留まることになったのは、精神の負担が大きかったせいだろう。

 だが、もうその傷も消えた。記憶ごと、綺麗に。これが『癒えた』と言えるのか、俺は分からなかった。思い出そうとしなければ、なんてことはない。だが、当時の抜けた記憶について探ろうとすると、苦しくなる。ならば、これを『癒えた』とは癒えないんじゃないか。

 いや、思い出そうとしなければいい。誰にも、求められてはいないんだ。

 リオンの診察は長引いた。やがて親父とマリアがやって来て、少し置いて病院が呼んだらしい官憲も来た。事情を説明すれば、親父と馴染みのある官憲は口頭注意に留めてくれた。

 官憲側も、リオンの身元確認は難しいはずだ。なんせ、フォルマから流れてきたんだから。だが、俺の口からフォルマの名は一切出さなかったし、本名――向こうで呼ばれていたのであろう名も、言わなかった。

 名前も年齢も出身地も不明の人間だ。身分証は仮のものしか発行できないが、無いよりは都合がいい。

 そのために、親父は『リオンに関わる責任の全てを負う』という書類に、迷いなく署名した。たぶん、俺を見つけたときと同じように。

 そうこうしている間に、医者が来た。リオンには暫くの入院が必要だと言われた。

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