ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

紫陽花の城
四.虚なる緑

 フレデリックとアレンは、レイスをでていった。わたしはかれらを、さびしい思いで、けれど決意をもって見送った。

 けれど、荒れたのはパトリックだ。かれは、ほんとうにアレンがレイスをでていってしまったことに、いきどおっていた。かれにとっては、アレンはいつだって公平で、フレデリックを自分よりもひいきしたりしない存在だったから、かれがフレデリックのためにレイスの騎士をやめて、王都までついていってしまったことが、たまらなくくやしかったのだと思う。

 パトリックはもう、わたしをたよりはしなかった。男子で、十七歳という年齢的なものもあったとは思うけれど、それ以上に、わたしのことは“いらだたしいフレデリックの母”という認識になってしまっていたのだろう。わたしはずっと、フレデリックをかばっていたから。いまさら、かれがこの城からいなくなって、パトリックだけを気にかけられるようになったところで、パトリックはわたしをゆるしてはくれなかった。かれはアリシアとおなじように、わたしを軽蔑して、無視した。しかたのないことだと思ったけれど、かなしくはあった。

 エリックは、ときどき正気になった。けれど、状態がわるければあいかわらず会話にはならないし、暴力や暴言はわたしにもむけられた。そして、フレデリックとアレンがいなくなったことで、まるでタガがはずれたみたいに、かれの行動はひどくなった。わたしは以前から、エリックになぐられたり蹴られたりしていたけれど、アレンがとめてくれたから、あまりひどくはされなかった。でも、かれがいなくなったので、とめてくれるひともいなくなってしまった。たぶん、いや、まちがいなく、わたしがエリックに襲われていることを知っている召使いや騎士はいたはずだけれど、だれも、気づかないふりをしているのだ。

 いくらエリックが痩せていて、ひよわそうに見えたって、かれはもうおとなの男性だったから、わたしのちからではあらがいきれないことだっておおかった。

 エリックはわたしをおかした。一度や二度ではない。直後に正気をとりもどしてしまったかれの、絶望した表情がわすれられない。わたしは、自分がつらいということよりも、エリックがかわいそうでしかたがなかった。かれは、リチャードさまがかつてわたしにしいたおこないによって、おたがいの意にそぐわない行為を憎んでいたから、正気のかれは、激しくみずからを嫌悪しているにちがいなかった。かれにその行為をさせたくなくて、わたしはいつも、必死になって逃げた。けれど、どうしてか、かれはわたしに追いつく。もてるちからで夜中の庭園をかけるわたしにたいし、エリックの足音はほとんどしなくて、そのくせわたしに追いつくほどに、はやかった。

 絶対に、かれの子を身ごもってはいけないと思った。わたしは町医者から堕胎薬をもらっては、それを飲んだ。からだによくないことはわかっている。それに、もし、新しい命がかたちづくられようとしていたなら、わたしはそれをひとり、ふたり、もしかしたらもっと、殺めたことになる。けれど、それでもわたしは、エリックの子どもをわたしが産むことだけは、あってはならないと思った。わたしにとって、エリックは弟で、エリックにとって、わたしはいまでも姉であるはずだったから。十三歳のわたしならためらったであろうことも、三十歳になったわたしは、ためらわなかった。

 エリックの病にたいしても、さまざまな薬がためされようとしたけれど、かれは服薬をこばんだり、飲んでもかえってようすがおかしくなってしまったり、なかなかうまくはゆかなかった。エリックが侯爵家のあととりとなることを、リチャードさまはなかばあきらめてしまった。かといって、セドリックに継がせるのもこわいようだった。わたしは、それだけは絶対にいけないと思ったけれど、長男がだめなら次男、というこのしくみは、なかなか変えたりはできないらしい。たしかに、セドリックの能力からすれば、商会と侯爵のしごとを兼任することはできるだろうけれど、かれはなにをしでかすかわからない。いまはあくまで、リチャードさまが見張っているから、商会のほうでも真っ当に仕事をして、おかしなことはしないけれど、リチャードさまが亡くなったあとにセドリックがすべての権限をにぎってしまったら……、それはとてもおそろしいことに思えた。

 セドリックは、わたしになにかをしたりすることはなかった。ただ、目があうと、かれはぶきみに笑うだけだった。その、わたしにとっては鳥肌の立つような笑みも、きっと、かれの本性を知らないひとが見たら、とてもきれいで、やさしげなものに思えたことだろうけれど。

 更に一年、フレデリックとアレンは、無事に王属騎兵となった。二か月後には、アレンは近衛騎兵に任命された。かれの兵士としての能力が、この国の頂点にあたいするものだという、証明だった。わたしはほこらしく思った。

 そして、つい先日のこと。わたしはセドリックがカナリヤを殺すところを見てしまった。そのカナリヤは、アメリアさまがご存命だったころからいた、金色の羽毛をもつ、きれいな声でなく小鳥だった。広間におかれたかごのなかでピチピチと鳴く小鳥を、セドリックはしばらくながめていたけれど、突然かごをあけた。風切羽を切られているから、カナリヤは飛べない。そのちいさな鳥を、セドリックはわしづかんで、そうして――。

 あっというまのできごとだった。カナリヤは潰れて、死んでしまった。セドリックの片手ににぎりこまれてしまうくらいの、ちいさな生きものは、一瞬で、赤い血をちらせて、死んでしまった。

 わたしがうごけずにいると、セドリックはふりかえった。その手に死んだカナリヤをもったまま、

「ああ、フローレンス。そこにいたんだ」

 なんでもないように、かれはわたしに声をかけてきた。かれは微笑をうかべ、右手のなかで息絶えている小鳥を見た。

「とうとうやってしまったよ。ぼくのきらいなもの、あなた知っていたっけ? ヒス女や男のキンキンやかましい声と、子どもの笑い声や泣き声、あと、小動物の鳴き声。ほんとう、イライラしてしょうがないんだ。

 でもなあ、この鳥、たしか父上のお気に入りだったんだよ。今週中に、あたらしいこれ……、インコだっけ? ああ、ちがう、カナリヤか。カナリヤを見つけてこないとな。もちろん鳴かないように処理してあるやつを」

 そう言って、セドリックはカナリヤをくずいれになげすてた。紙くずの上に落ちた小鳥のおもみで、くずいれはガサリと音をならした。

「それじゃあ、仕事にいかないと。でも、その前に手を洗わなきゃ。ああ、くさい。あの鳥、フンをもらしやがった」

 かれはそう悪態をつきながら、わたしの横をすり抜けて、広間をでていった。わたしはしばらくうごけずにいたけれど、はっとして、くずいれにむかった。

 全身の骨をくだかれて死んでしまったカナリヤが、紙くずに埋もれていた。わたしはその子をひろいあげた。ハンカチでつつんで、両手で包むようにだいて、そして、わたしは庭にでた。

 秋の花がさいていた。アメリアさまが亡くなったのも、このころの季節だったと、わたしは思いだした。そして、アメリアさまが倒れていたあたりに、わたしは歩いていって、そこにひざをついて、カナリヤをいったんわきへと寝かせて、手で穴を掘った。小鳥一羽がはいる程度の穴を掘るのに、さほどの時間はかからなかった。わたしはつくった穴のなかに、カナリヤをいれた。そして、土をかけた。すこしこんもりと土を盛って、ちかくの花をその上に植えかえた。どこにカナリヤが眠っているのか、すぐにわかるように。

「なにをしているの?」

 声をかけられ、わたしは顔をあげた。アリシアがいた。彼女に声をかけられたのなんて、いったい何年ぶりだろうか。アリシアは、すっかりアメリアさまに似て、うつくしい女性にそだっていた。

「セドリックが、カナリヤを殺してしまったから、埋めていたの」

「……そう」

 アリシアはすこしのあいだ、わたしが植えかえた黄色の花を見つめていた。そういえば、アリシアは子どものころから黄色が好きで、黄色の羽毛をもつカナリヤのことも、かわいがっていたのだったと、わたしは思いだした。

 アリシアはしずかにカナリヤの墓をながめたあと、背をむけて、そしてはなれていった。

 その日、エリックはめずらしく昼間に部屋をでて、広間で庭をながめていた。身だしなみもととのっていて、わたしはきっといまのかれは正気だろうと思って声をかけた。

「おはよう、フローレンス」

 と、微笑をむけてきたかれは、自分自身で切りつけたきずで埋まった左腕を、背後にかくした。けれど突然頭痛におそわれたように表情をゆがめてしまう。かれは理性でなにかをおさえつけようとしているようだったから、わたしが余計なことを言ったりするわけにはいかなかった。ただ、だまって、かれの意思が勝つことをいのって、わたしは待っていた。うつむいて、握りしめたこぶしと肩をふるわせて、エリックはひとりでたたかっていた。かれの腕にのこった無数の線が赤みをおびてくるのを見ていると、胸がいたくなる。

 けれど、やがてかれはうつろな瞳をわたしにむけた。負けてしまったのだと、わたしはさとった。これからわたしに対峙するのは、エリックではなく、レイスの亡霊だ。わたしは深く息をすった。

 エリックがつかみかかってくる。わたしは抵抗しない。床にたおされ、襟首をつかまれ、ゆすられた。エリックは……、レイスの亡霊は、エリックの口をつかって、わめきたてる。

「えい、フローレンス! 聞くがよい! わたしが侯爵になったあかつきには、まっさきにおまえを殺してやる。おまえの子どもも、ここにひきずりもどして殺す、あの男もだ、おまえが惚れこんでいるユーイングの男は、どうしてやろうか。おまえとフレデリックの前で、いためつけてやろう。あいつはもちろん、したがうだろうな。おまえたち親子をひとじちにとってやれば、あの男はさからえぬにちがいない。そうにきまっている。泣いてゆるしを請うのは、おまえだぞ、フローレンス! さんざあの男をいためつけてやったら、うごけぬあやつと、おまえの子どもの前で、おまえをおかしてやる。おかしながら殺してやるからな。いまから覚悟しておくことだな、フローレンス!」

 エリックの口はまくしたてて、わたしは乱雑に床へころがされた。わたしは目をとじて、じっとしていた。エリックが立ちあがる気配がして、そして、つばを吐く音。わたしの頬に、なまあたたかいものがついた。いやなにおいがする。かれの吐いたつばが、わたしの頬をゆっくりとつたってゆく感触。

 エリックが去ろうとする気配がした。

「パトリックは殺さないんだ」

 陽気な声があった。セドリックの声だ。広間の入り口のところに、かれはいるようだった。エリックの足音が止まる。

「かれを産んだがために、母上はいよいよおかしくなって、死んでしまったわけじゃないか? エリックはあれがきらいなんだろ。パトリックに対する計画はなにもないわけ? それとも、なんだかんだ言っても、完全に血がつながっているわけだし、ちょっとはかわいいとか?」

「あの小僧の名を、わたしの耳にいれるな!」

 エリックが叫び、そして鼻息をあらくして、かれは今度こそ広間からでていったようだった。エリックの足音がしなくなると、セドリックがためいきをつき、こんどはかれがわたしのほうへ寄ってくる。

「栄養不足もあるよ、きっと。だからあんなに感情的になるんだ。まったく、ちゃんと食事をして、昼に庭でも歩けば、すこしは落ちつくだろうに、だれが言ったってきかないもんね。日光って、人間にとって、とてもたいせつらしいよ。でもなあ、そもそも薬をちゃんと飲まないし……。どうしたものだろうね。

 かれが、つぎのレイス侯爵って、本気なのかな。信じられない。無理だよ、そんなおそろしいことってないでしょ。この城の亡霊なんかより、――と言っても、ぼくはであったことがないけれどね、そんなものより、あれがぼくの上に立つってことが現実になるほうが、よっぽどおそろしいよ」

 わたしの頬に、なにか……布らしきものが触れたようだった。せっけんの香りがする。

「ああ、もう、かわいそうに。エリックは母上のこと、だいすきだったからなあ。あのひとが死んでから、すっかりおかしくなってしまったみたいだって、ぼくはおぼえているよ。あとは、あなたのせい……、いや、父のせいだね、あなたは犠牲者だった、ごめんよ。

 まあ、ぼくは母のことなんてよく知らないしさ……、なんだか情緒が不安定で、自分の子どもに暴力をふるったりするのに、ときどきやさしげ……、みたいな印象かな。ほんとうによく知らない。でもまあ、実際はやさしいひとだったんでしょ? じゃなきゃ、あんなに子どもに好かれたりしないよね」

「…………」

「ねえ、ぼくのこともこわいのかな、お姉さま。寝てるふりなんてやめなよ、どうせ逃げられやしないんだから。ちゃんと話そうよ、たまには。そのくらいしてくれてもいいと思うな。だって、ぼくはあいつのくさくてきたないつばを、ぬぐってやったんだから」

 わたしは心中で深くため息をついた。どうしたって、セドリックはわたしにかまいたいらしい。おとなしくしていたって、かれは立ち去ってくれない。わたしは目をあけた。

「ひどくころがされていたけれど、どこかいたむところはないかい?」

 セドリックがやさしげな口調できいてくる。わたしは、たしかにすこし背中がいたかったけれど、かれにそれをつたえてもしかたがないので、だまって首を横にふって、からだを起こした。

「そう、よかったね」

 セドリックが、わたしのとなりに座りこんでくる。今日は休日だったから、セドリックはよく見かける背広すがたではなくて、ゆるいシャツと、柔らかい生地のズボンを履いていた。

「ねえ、さみしくない? あなたのだいすきなアレンと、フレデリックがいなくなってしまって、しばらく経つでしょう。まあ、あなたはのぞんでここにのこったらしいけど、正直、すこし後悔してるんじゃない? すこしだけ」

 わたしは答えられなかった。すこし、後悔しているんじゃないかなんて。いつもそうだ。いつも、わたしは“かれらといっしょに行けばよかった”と思っている。それでも、ここにのこったからには、意志をつよくもたねばと思って、毎日、ここにのこった意味を自分にいいきかせている。

「まあ、しかたないよね。あなたがのぞんだことなら、あなたはたえなきゃね、って」

 セドリックは「あーあ」と言いながら、からだをのばした。

「みんなにいじめられて、まもってくれる騎士もいなくて、なんてかわいそうなお姫様。あなたの人生をものがたり風にしあげたら、うけそうじゃない?

 ねえ、つらかったら、いまからだって、でていってかまわないんですよ。父はちゃんとリディの屋敷をあなたのためにととのえるよ。かれだって、あなたにはわるいと思ってるはずなんだ」

「わたしをためそうとするのはやめなさい」

「なんだい……」

 セドリックがいらだったのがわかった。かれは表情さえいつもの微笑で、かわりはしないけれど、床をコツコツと指さきでたたいていた。わたしはかれになにをされても、逃げる気はなかった。かれはわたしの腰にうでをまわして、すりよって、顔をちかづけてくる。そしてちいさな声で、ささやいた。

「でもさあ、あなたはエリックにもおかされてるわけじゃない。昨夜も中庭でやってましたもんね」

「あなた、起きていたの……?」

「まあね、実をいうと、なんどもはちあわせているんだよ、ぼく。でもとめない。あなたがつらそうだから。見てる」

「なんて悪趣味」

「しょうがないじゃない、ぼくってあんまり寝つきのいいほうじゃないんだから。昼間はめいっぱいはたらいて、帰ってきて、さあ疲れた寝よう! ってなって、それなのに夜中になるとギャーギャーさわがれてみなよ、頭にくるってもんだ」

「…………」

「ねえ、いちいち薬とか飲んでるわけ? そうだよね、じゃなきゃはらんじゃうもの、あんなに頻繁にやっていたら。あいつはそのへん気なんかつかわないだろうし、あなたが気をつかうしかないものね。たいへんだ、あまり薬物にたよりすぎるのもよくないけどね、でもしかたないか。

 ところで、あいつの精液ってすっごくきたなそうだよね! オエー。ねえ、あなたもきたないと思わない? くさそう! ぜったいさわりたくないや!

 ……ああ、ごめんなさい、いやなことを意識させてしまったかも」

 わたしはじっさい、泣きだしそうになった。けれど、セドリックになみだを見せてはいけないと、必死にたえた。

「はあ、かわいそうなフローレンス。リチャードにアレンに、エリック。あなたがのぞんだのは、はじめからアレンひとりだったのだろうけれど、フレデリックは残念だったね」

 セドリックが、うつむいたわたしの顔をのぞきこんでくる。

「ん? 目がうるんでますよ。どうしました? ごみでもはいっちゃったのかな?」

「…………」

 セドリックが、わたしの下腹部に手をそえた。かれはクスリと笑う。

「ねえ、なんなら、ぼくの子をはらんでみません? あの阿呆……エリックのよりは、マシな子が生まれますよ。はらんでいれば、おかされたってへいきでしょ、きっと。薬飲むより安全じゃない? ぼくは清潔だし、ほら、見た目だってわるくないって、みんな言うし。やさしくしてあげますよ? ねえ、どう、フローレンス?」

 わたしののどから、ひきつった声がもれた。わたしが思っている以上に、わたしはセドリックにおいつめられているようだった。身がかたくなって、腹部にそえられたセドリックの手を凝視してしまう。

 セドリックはだまっていた。けれど、かれは急にわたしの口もとに耳をよせて、

「え? なんです? “気狂い男の子どもなんてごめんだわ!”って?」

 そう言って、わたしの顔を見上げてくる。

 わたしは、かれの瞳をまぢかで見た。つめたい爬虫類のような、緑の目。いちどとらえられたら、そらせない。わたしは自分がどこにいて、だれと話をしていて、どんな感情をいだいているのか、まるでわからなくなった。頭にかすみがかかったようになりながら、この目をそらしたら、その瞬間に死んでしまうのではないかと、そんなふうに思った。

「そんな顔して」セドリックはさもかなしげな表情をうかべた。「ほんとうにそんなふうに思っているんだね。ぼくを気狂いだってさ。ひどいな、きずついてしまった」

 セドリックは、わたしからはなれた。かれの瞳から、わたしは解放された。そして、かれは妙に明るい感じになった。さきほどのかなしげなようすなんて、やはり演技でしかない。かれは感情をうごかさない。赤子のころからかわらないのだ。あっけらかんとして、かれは立った。そして、広い部屋のなかを歩きまわりながら、異様な饒舌さを披露した。

「本音を言っていいですかね。このごろ、仕事がほんとうにいそがしくて。あまりいそがしいとさ……、わかるでしょ? ヒマがないって。女性なんか、声かけなくたって寄ってくるけど、相手するヒマがないんだよ。ぼくって、いまはたしか二十五歳なんですけど、知ってました? 盛りのついてるころだよね。まあ、正直言えば、女性じゃなくたっていい。あなたは知ってるかな。そう、女性じゃなくたっていいんだ。女の気分じゃないときだってままあるよ。でも、だれが見ているかわからないでしょう? 女性なら安全ってだけさ。リーン教典ってなんなんだろうね。同性の性行為を禁ずるとかって、そんなこと書かれてたら、堂々と男をひっかけたりできないじゃない。ねえ、ぼくに興味ある男ってわりといると思うんだよね。ぼくっていい見た目しているじゃない? うぬぼれとかじゃなくてさ、客観的にみて、ぼくの顔の造形はととのっている。まあ、とにかく、女性ならなんとかなるんだ。一番安全なのが、人間の、成人してる女っていうことさ。ああ、もう、昨夜だって、せっかくぼく……、いや、ううん……とにかく、まあ、機会をのがしたんだ。そこにあなたとエリックだよ。まったく、いやになるね。はあ……。あなたならわかってくれると思うけれど、ぼくは愛がほしいわけじゃない。むしろそんなものはいらない。面倒だから。求めてないし、与える気もない。愛なんて、なんだいそれ。まったく理解不能だね。それでも、ひとなみに性欲ってもんはあるんだよ。だって、そこはべつの回路じゃない? 世のなかには、誓った相手とだけ――っていう風潮があるけれど、なんてつまらないんだろうなって思うよ。まあ、そいつらがそれで満足してるならべつにかまいやしないけど、ぼくはいやだね。ひとりで処理するのもつまらない。だって、次どうしたらいいかとか、実際どうしようとか、完全にわかってるわけですからね。ちょっとは思いどおりにならないほうが、たのしいでしょ。まあ、思いどおりにうごくようにはするけれど、それでもうごくのはぼくじゃない。脳から、脳へもどってくる一連の回路がひとつになるんだ。つまり、集中できる。だいいち、あれはおもしろい。でもちょっと、こわいかな。……そう、こわい! こういうことだろ? すばらしい感覚だ。あのからだが完全に制御不能になる一瞬がさ。からだがぼくの主導権をにぎるんだ。それがクッソたのしくてさ!  ぼくって、べつに相手にはこだわらないし……、ぼくほどこだわらない人間って、きっとめずらしいんじゃないかな。なんなら死人だってかまわないよ。まだ相手にしたことはないけれどね。石像や絵画だって。犬猫だっていいさ。ときに、植物のグロテスクな曲線美にも魅力を感じる。つめたく鋭利で、無骨なナイフにも。そして、グレイブルーの空と、インディゴの夜、髪をしめらす霧雨、つまさきに蹴られる石ころ……。みんなおなじなのさ、ぼくにとってはね。当然、見た目――あるいは音、触感などは、いいにこしたことはない。自分で言うのもなんだけれど、ぼくの美的感覚って、結構すぐれていると思うし。いや……ううん……、美的感覚? 美的感覚ってなんだろう。まあ、あなたたちが考えてるのとおなじかどうかはわからないな。きっと、ぼくのはもうすこし論理的で、数学的なんだと思う。それを“感覚”と言ってよいものか……。まあ、いいでしょう。ぼくにとっては、これが“感覚”なんだから。さっきの、ぼくの見た目に関してのことだけれど、このぼくの感覚にもとづいたものだよ。ところでフローレンス、あなたもじゅうぶんにうつくしいよ。あなたがもってるうつくしい要素と、うつくしくない要素をあげてみようか? 聞いてもしかたない? でも、あなたにはうつくしい要素のほうがおおいよ。七対三くらいの比率かな。それとも六対四? その中間くらいか。ああ、補足しておくけれど、これは外見の要素からみちびきだした結果だからね。内面までは加味してないから、あしからず……、内面はね、研究中なんだ。でも、外見に関して言うなら、この程度がいちばんこのまれやすい。ひとはうつくしすぎてもよくない。うつくしすぎるとね、かえって気もちがわるいものなんだ。ちょうどいい具合ってのが……、ううん、むずかしいね。でも、わかるでしょう? なにごとも、統計をとるんだって。そうすると、おのずと“平均値”ってのがでてくるから、いろんなことを、それにもとづいて考える。適度にずらしながら。その“適度”も、統計からみちびきだすんだけどね。ぼくはこれらを利用するのが、ちょっと得意なんだ。だから仕事がうまくゆく。……あー、ええと、なんの話をしていたんだっけ。……まあ、こんなのってよくあることですよね。しかたないよな、だって、いろいろ考えていたって、口はひとつしかないんだもの――。……そうそうそう、それにね、肉親だって気にしませんよ。あなたは知っているだろうけれど、あらためて言うよ。気にしない。だって、しょせんは他人だから。血がつながってる? だからなんだっていうんだ。遺伝学的によろしくないってんなら、子どもができないようにすりゃあいい。それだけの話じゃない? そもそも、絶対なんてないってことになってるなら、ものすごく慎重に相手をえらんでも、ごくわずかな確率にはあたってしまうことがあるはずなんだ。そんなときってどうするの? 期待はずれだってガッカリ? 自分勝手にもほどがあるんじゃないの? なんて、ぼくが言えた口じゃないか! アハハ! まあ、どうせみんな、そんなめんどくさいことって考えてない。ただ、世間が“そう”だから、“そう”しているだけなんだ。ていうか、聞いて? ぼくってばうっかりしてた。あれ、インコ……じゃない、カナリヤを殺しただろ、あのことすっかりわすれててさ、父上に言われて思いだした。それで、“来週、あたらしいのを買ってきますから”って言ったら、“いらない”って言うんだ。なんで? まあいらないなら買わないけどさ。でもさあ、ぼくもちょっと反省したんだ、あのあと。でも、しかたないじゃないか、うるさかったんだもの。ぼく、ずっと我慢してたんだ。ピィピィピィピィやかましくてさあ。ついね、ついカゴに手ぇつっこんで、ひっつかんで潰しちゃったんだ。グチャッて。そしたらね、“ギェッ”って言ったよ。うん? “ギュァッ”って感じだったかな? うまく再現できないな。ま、ぼくは一応人間だし? 鳥がだす音を完璧に模倣するなんて無理な話だよね。なんかね、なかからいっぱいでてきた。フンとかもそうだけど。ほかにもいろいろ……、なにがでたか聞きたい? 聞きたくない? でもあなたあの鳥埋めたでしょう? 死体見たよね。なら知ってるか。内臓が口と尻から飛びだしちゃってたでしょ。あんなふうになるんだねえ。ぼく、すごく残酷なことしちゃったかもな。でも、あんな片手でつぶせるような、よわい生きものなのがわるいと思うんだ。それでもぼくは反省したよ、ほんとうに。よわい生きものにはやさしくしてあげるべきだった。だから、とおざけるのが正解だったのかなって、思った。けどさ、もうやっちゃったんだ! しかたないよね! ぼくが後悔したところで生きかえるわけじゃなし!」

 わたしは、なぜだか、かれの言葉から意識をとおざけられなかった。かれの一句一句、すべて、もらさずひろいあげてしまう。なぜか、セドリックはむかしから他人をひきつけた。いま、わたしの意識をひきよせてならないかれのひとりごとのつづきを、わたしは聞いてはならないと思った。けれど、意識をそらせない。わたしの耳は、頭は、セドリックの言葉をひろいつづける。

「アリシアって、すごいひとだと思うんだ。だって、いっつも口のゆるい侍女をはべらせてる。だれもができることじゃないでしょう? ぼくはいやだよ、口やかましい女、……だか男だかに、四六時中つきまとわれるなんて。ねえ、アリシアのあれはさ、ぼくのためにやっているんだよ。彼女も、ほんとうはあまりうるさいの好きじゃないんだから。彼女、ぼくのこと、こころの底からきらってる。いつも身の危険を感じているんだ。いかにも、だってぼくは肉親だって気にしない。……ねえ、エリックみたいにくさくてきたないやつは、ぼくもいやなんだけどさ、パトリックってほんとうにかわいい子だと思うんだ。もちろん、あなただって魅力的だけれど……」

 セドリックは、わたしの前にしゃがんで、わたしの瞳を、またのぞきこんできた。

「フレデリックもね。とくにあの子は隙だらけだった。実際、ぼくは何度か……」

 かれは“しまった”というような顔をした。わざとらしい、いやらしい表情。

「あー……、ふふ、ごめんなさい。いまのはわすれて?」

 わたしは愕然とした。

「まさか……あなた……」

「なあに?」

「そんな……もし、もしそうなら……わたし……」

「きさまを殺してやる!」

 セドリックが叫ぶのと同時だった。わたしはかれの胸ぐらにつかみかかって、セドリックを床へ倒していた。笑みを顔にはりつけたセドリックは、あおむけになって、わたしはかれの上にのりあげた。

「ええ、ええ! そうよ、殺してやるわ!」

 フレデリック……わたしのかわいい子。あの子がこんな男に蹂躙されていたとしたら、わたしはとてもではないけれど、おとなしくなんてしてはいられなかった。この男を殺さなければ。もっとはやく、そう思っていたら……フレデリックだけでなく、パトリックだって、いまほどの思いはせずにすんだだろうに。わたしがやるべきだった。この男の本性を知っていて、まだこの男におびえきってはいなかった、わたしが、もっとはやく、殺しておくべきだった。

 セドリックは笑っている。わたしをあざ笑う。さもおかしそうに。たのしい玩具であそぶ、子どものように。

「そうかい、やってみなよ! あははは! ぼくがいなくなったら、レイスは終わりだろうな。有能なレイスの次男を殺したとなったら、あなたはひどい非難を受けるだろうけれど、私生児を産んだあなたならいまさら気にはしないか! さあ、どうぞ?」

「ゆるさない、ゆるさない、殺してやる」

「ぼくが言葉に刺されて死ぬようなやつじゃないって、知ってるでしょう? ほら、首をしめるのはいやかい? なら、ナイフをとってくる時間をあげよう」

 わたしは嗚咽をもらしていた。視界はにじんでいる。わたしはうごけなかった。

「……わかってるさ。あなたにはできないって」

 セドリックがわたしの涙をぬぐう。かれはしずかな微笑みをうかべて、わたしを見ていた。

「本気にした? 冗談ですよ」

 わたしのからだから、ちからが抜ける。セドリックがわたしの背をささえながら、上体を起こした。

「うそなの……? ほんとうに?」

 わたしはたずねた。ほとんど、すがるように。

 セドリックは服のしわをのばした。そして、髪型をととのえながら、まったくひとごとでしかないような、空虚な口調で言った。

「ああ、そうだよね……冗談だと思いたいもの。冗談だったってことばを信じるさ。そりゃあね、かわいいひとり息子がさ、異母兄におかされたことがあるだなんて、信じたくないですものね?」

 わたしは、自分の表情が凍りついたのがわかった。この男は、なにを言おうとしているのか。セドリックは立ち、そして、つめたい、ぞっとするほどきれいな笑みをわたしにむけた。

「いいや、もちろん、そんな事実はありませんけれどね。でも、気になるっていうなら、こんどフレッドに会ったときに、本人へきいてみたらいい。……ママにそんなことを聞かれたら、困っちゃうだろうなあ。ねえ? 絶対“そう”とは言わないよ。あなたに理解できるかは知らないけど、かれにはプライドっていうものがあるんだから。しかも、あれでもひと一倍つよい。ひとって、見かけによらないよね」

 わたしはもう、からだを起こしていられなかった。めまいがする。涙がでて、呼吸がくるしい。

「ああ、充実した日だ。あなたのおかげだよ、フローレンス。話を聞いてくれて、どうもありがとう。

 ……ねえ、フローレンス、どうして僕がこんなにひどいことばかりしてしまうのか、わかるかい? それはね、あなたがぼくの家族だからだよ」

 セドリックは、その場にわたしをおいて、立ち去ってゆく。

 わたしはうごけなかった。にじむ視界は暗闇に落ちこんでいき、頭はつめたく、呼吸のしかたもわからず、音はとおくて、吐きけがした。

 わたしはこのときはじめて、この城にやってきたことを、これまでの人生を、過去のやさしい記憶も凌駕して、心の底から後悔した。」

END

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