――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

紫陽花の城
三.すがたを現しはじめた、人ならざるもの

 エリックにフレデリックの出生について知られ、その数日後にリチャードさまが公式に、フレデリックがかれの息子であることを発表したころ、セドリックは十四歳だった。かれは昨年あたりからリチャードさまのお仕事の手伝いをはじめていた。さいしょのころは商会本部に子どもがいて目立ったようだけれど、利口なかれだから、すぐに要領をつかんで、いまでは立派に議長の補佐をしていると評判になっていた。

 かれは仕事をたのしんでいるようだった。きっと、将来はリチャードさまの片腕として、そして、ゆくゆくは商会議長の位をひきつぐのだろうと、わたしは思った。

 けれど、かれにはどうにも、不穏なところがあった。べつに、ひとりごとがおおいことに関しては、さほど気にすることでもないと思う。かれは幼少期から孤独をこのむ子だったし、それに、おとなよりもすっかりできあがった頭脳のもちぬしでもあったから、すこしくらい、そういう……、かわったところがあるのはしかたがないというか、むしろそのくらいは当然だろうと思っていた。

 けれど、わたしはとうとう、目撃してしまったのだ。かれの、真に常人ならざる部分を。

 なぜだか、パトリックがずっと、セドリックをこわがっていることは知っていた。セドリックがパトリックにちかづくと、かれは身をかたくして、セドリックが親密そうにパトリックの肩をだくと、パトリックは瞳をしきりにまたたいて、逃げ場所をさがすように視線をおよがせていた。そのこわがりかたは、とても普通ではないと思ったけれど、わたしが「どうしてセドリックをこわがるの?」とたずねてみても、パトリックは首をはげしく横にふるばかりで、なにもこたえようとしなかった。

 わたしは、別荘のガルドスミス城――ガルドスミス家がむかし本拠にしていた城――に、やってきていた。そこで、フレデリックたちを遊ばせていたのだけれど、すこし目をはなしたすきに、かれらはどこかに行ってしまった。見張りの騎士がいるから、城の敷地外にでることはないはずだし、侯爵城ほどにはひろいところでもないから、そこまで心配もしていなかった。わたしはきれいに手入れのされた庭を散策しながら、フレデリックをさがしていた。

 しばらく歩くと、道がとぎれた。さきはおいしげる林になっていて、まさかここにはいっていってしまったのだろうかと、わたしはそのときはじめて不安になった。とりあえず、「フレデリック!」と声をおおきくして呼んでみたけれど、返事はない。わたしはべつの場所をさがしてみてからにしようと思って、きびすをかえした。

 と、林の奥からひとの声がした。フレデリックの声ではなかったけれど、それは笑い声だった。わたしは、たぶんセドリックの声だと思った。かれがフレデリックの面倒でも見ていてくれればいいと思って、わたしはまたふりかえって、林のなかにはいっていった。

 思ったほどには、深い林ではなかった。すこし歩くと光がさして、さきがひらけているのが見えて、すると、そちらには草原と、池があった。

 その草原に、セドリックがいた。パトリックもいた。けれど、フレデリックのすがたはなかった。わたしは、フレデリックを知らないかどうか、セドリックに聞いてみようと思って、足を踏みだそうとした。けれど、その瞬間目にはいってきたものにおどろいて、あまりの衝撃に、うごけなくなってしまった。

 セドリックが、野うさぎをパトリックにだかせて、それをナイフで切りつけていたのだ。血まみれのうさぎがあばれている。皮をはがれているようだった。セドリックは手を血でよごしながら、笑っている。パトリックはおそろしさからか、それともだかされている野うさぎへの罪悪感からか、哀れみからか、そのいずれもからか、とにかく、泣いていた。

「ぼくたち、こういううさぎの皮を服なんかにして着ているんだよ。おまえのその、首もとのかざりもそうじゃないの? あぁ、かわいそうにね。すごく残酷だと思わない? ねえ、パトリック、どう思う?」

 パトリックは泣いていて、なにも答えない。

「はなすなよパット。はなしたらまたおまえの皮膚、ちょっとだけ焼いてやるから」

 セドリックは、ナイフをもちかえながら言った。

 わたしはぞっとした。かれは“また”と言った。かれは弟のからだをきずつけたことがあるのだ。そうでなくても、このような暴虐につきあわされている、まだ七歳になってまもないパトリックが、セドリックにああまでもおびえていた理由を、わたしは知った。あまりにも酷だった。かれをたすけてやらねばと思った。なのに、わたしの足は棒のようにうごかず、のどからは声もでない。わたしもまた、セドリックの尋常ならざるようす、あるいはその被害が自分におよぶかもしれないという思いによって、怖じけづいてしまっていた。

 セドリックはポケットに手をいれた。

「ねえ、今日はおもしろいものをもってきたんだ。城の倉庫にあったのだけれど、でも、ちょっと古そうだったからなあ、つかえるかどうかわからない。あと、ぼくこういうの扱ったことないから、もしかしたらおまえに怪我させるかも。まあ、つかう量はちょっとだけにしておくから、そんなに心配しないでよ」

 かれは小瓶らしきものを取りだした。そして、とてもちいさな容器に、瓶につまった粉をいれはじめた。瓶をまた腰のポケットにしまって、容器を指さきにもちながら、

「さあて、うさちゃん、そのかわいいお尻をちょっとこっちにむけてごらん」

 と言って、すでにうごきのにぶくなった野うさぎの肛門に、それを挿入した。

 パトリックは相変わらず泣いていて、兄がつぎはなにをはじめようとしているのか、まったくわからないようすで、不安げにながめていた。

 セドリックは「さて」と言って、一歩さがると、パトリックに指示をしはじめた。

「まず、だくむきをかえよう。そう、おまえのほうにうさぎの顔が見えるように。それで、手を前につきだして。だきしめたりすると危ないからね、はなしておくんだよ」

 うさぎのちからない顔をむけさせられたパトリックが、目をつむった。

「こらこら、だめだよ、ちゃんと見ていなきゃ。おまえが見ていなきゃ、たのしさが半減しちゃうだろ」

 そのように言われて、パトリックはまた目をあける。おおきな緑の瞳が、すっかり赤くなっていた。野うさぎは胴体をのばしきって、パトリックの両手にぶらさがっている。

「よおし、じゃあそのまま、ちゃんともっていろよ」

 セドリックはまたポケットに手をいれて、今度は小箱をとりだした。なかから細い棒をとりだして、小箱の側面にこすりつけると、火がついた。その火をうさぎに――うさぎの尻にちかづけてゆく。

「かぞえるから、ちゃんと見てろよ。三、二、一、それ!」

 爆発音。わたしはその瞬間目をつむった。すこししてからゆっくりと目をあけ、なにが起こったのかをたしかめる。

 うさぎの下半身が吹き飛んでいた。腹部からしたが、なくなっている。大量の血と、赤いかたまり――臓器だろうか、それらがしたたって、緑の草の上に落ちてゆく。わたしはあまりのことに、いままでもそうであったように、やはり声をだせなかった。

「フゥー! あっぶねえ! 手をけがするところだった! ああ、くそ、なんで気づかなかったんだろう。つぎは紐でもつけないとな」

 そう言いながら、セドリックはさも、たのしげに、おなかをかかえながら笑った。

 一方のパトリックは、うさぎの死骸をおとして、その場にへたりこんでしまう。暫し呆然としていたかれは、やがてまた泣きだした。

「あれぇ、パトリック、もらしちゃったのかい? だめだなぁ、そんなことじゃ、立派な騎士になれないよ」

 セドリックはまだ笑っていて、粗相をしたパトリックを見おろし、わざとらしく鼻をつまんで言った。そしてかれは、すがすがしくてたまらないとでもいうような表情で、木漏れ日をあおぎ、満足げなため息をついた。

「そういえば、おまえの大事にしているうさぎの人形、名前なんていったっけ?」

「……あ……、アーサー……」

 パトリックは嗚咽のあいまからこたえた。セドリックはまた笑いだす。

「ああ、あれオスなの? あんな、かわいい色してるのに! まあいいけどさ、おまえもいつまでも人形なんか友達にしてちゃあ、だめだと思うんだよね。そのうちアーサーも燃やしちゃおうよ」

「いやだ!」

「すぐじゃないってば。そうわめくなよ……、子どもの声ってキンキンして、耳ざわりでいやなんだ。

 おまえ、アーサーが燃えたらお墓なんて作っちゃいそうだね。ふふ、おっかしいなあ! 人形にお墓作っちゃうなんて。でも、ねえ、作ってよ、そうしたらぼく、ときどきお参りしてあげるからさ!」

 パトリックは、泣きじゃくっていた。

 セドリックは腰をかがめて、パトリックの頭に触れる。パトリックはその瞬間あきらかに身をかたくしたけれど、セドリックはただ、かれの頭をなでているだけだった。

「ねえ、ぼくってまともじゃないよね。わかっているんだ。だれもぼくのことなんて理解しちゃあくれない。まあ、それはいいさ、どうせぼくにはみんなが馬鹿に見えてしかたないし、そんなやつらに理解されちゃうのも屈辱だからね。でもさ、パトリック、おまえはこうやっておびえながらも、ぼくにつきあってくれるじゃないか? それに、だれにもこのことを言わない。ぼく、いつも、たまらなくいらいらしているんだ。周りは馬鹿ばっかりで、しょうもない。だから、おまえが一緒にいてくれて、ぼくはほんとうにうれしいなって、思っているんだよ」

 そう言うと、セドリックはパトリックの顔をうわむかせて、そのちいさな唇に、自分の唇をかさねた。パトリックの瞳がきつくとじられる。セドリックは舌でパトリックの唇をこじあけた。セドリックの舌が、パトリックのちいさな口のなかにはいっていき、うごめく。

 セドリックはさんざん、おさない弟の口内を蹂躙して、はなれた。かれの靴は、野うさぎのちらばった臓物をふみつぶしているのに、まったく気にしたようすがない。

「おまえがもうすこしおおきくなったら、もっと愛してあげるからね」

 セドリックがパトリックの頭をだきかかえながら言うと、パトリックは首をぷるぷるとふった。

「いやかい? どうして? お兄ちゃんのこと、きらいなのかな?」

 パトリックは目を見ひらいて、今度ははげしく首をふった。

「いい子だね、パティ。ぼくはおまえが一番かわいいと思うよ」

 そう言って、セドリックはまたパトリックの唇に、自分の唇をおしつけた。

 ――ほんとうに、まともじゃないわ……。

 わたしは心中で呟いた。

 笑みをうかべたセドリックが、こちらをむいた。わたしを見ていた。はじめからわたしの存在に、気づいていたような顔をして。

「パット、落ちついたらもどりなよ」

 セドリックはいまだ泣いているパトリックをその場において、わたしのほうへ歩みよってくる。わたしはまだ、うごけなかった。まるで大蛇に睨まれた小動物のようだと、頭のかたすみで思う。相手はちかづいてくるのに、わたしはうごけない。

 セドリックはわたしの前に立った。かれはわたしの背丈を、すこし抜いたくらいに成長していた。かれはわたしの下腹部に指をつきたて、言った。

「このこと、だれかに言ってみなよ。あなたのここ、フレデリックをそだてた場所を、さっきの野うさぎみたいにしてやる。でも、そうしたら、もうあいつにおかされたってはらむ心配はないよ。アレンの子も、のぞめなくなるけど。まあ、ぼくはすこしかわっているけど、品行方正だからね。侯爵の愛人ごときより、有能な侯子のほうが、よほど信用されると思うけれど?」

 セドリックは微笑を投げかけて、うごけないわたしの前を、とおりすぎてゆく。けれど、四歩ほど行ったところで、かれはふりかえった。

「フレデリックは、むこうの木の裏にいるよ」

 と、草原をはさんだ場所を指さして言った。

 わたしはようやくうごけるようになった。「フレデリック!」とさけんで、たしかに見えているちいさな脚と靴をめがけて、走った。

 声をころして泣いていたフレデリックを、わたしはだきしめた。もっとはやく、ここへ来て、そしてかれに気づいて、たすけてあげるべきだった。わたしは、さきほどまで恐怖でうごけなかった自分を呪った。フレデリックを落ちつかせて、なんとか立たせて、そしてわたしはパトリックへ目をむける。かれをほうっておくことは、とてもできなかった。

 わたしはフレデリックをその場で待たせて、パトリックのほうへちかづいた。そちらには野うさぎの残骸があるから、わたしは、できることならそれを見たくなかったのだけれど、どうしたってむずかしかった。セドリックがもっとおさないころに、虫をバラしていたことを思いだす。あのころよりも、かれの残虐性は増している。いずれ、人間にもおなじことをするようになるのではないかと思うと、わたしは背筋が凍る思いだった。

 とにかく、パトリックの手には野うさぎの血がついていたし、それはかれの顔や服にも飛びちっていたから、それを池の水できよめさせて、失禁してぬれたズボンはとりあえずそのままにして、わたしたち三人はガルドスミスの館にもどった。

 なにが起こったのか、ほかのものたちにさとらせるのがこわかったから、わたしはパトリックの身をきよめることを、わたしの手でやった。かれの着替えを用意して、かれの服をぬがせて、そうして、わたしはまた凍りついてしまった。

 かれのからだには、おおくのきずがあった。わたしの想像していた以上に、それはひどいもので、きっと、おとなになっても痕がのこってしまうものもおおいだろうと思った。赤ん坊のころに、アメリアさまの手でつけられたおなかのきずはほとんど消えているけれど、それ以外の切りきず、やけど、皮膚のやぶれたようなあと……古そうなものから、まだあたらしいものまで。それらはかれの、服さえ着ていれば決して見えない場所ばかりに、あった。

 かれの面倒をみる侍女たちは、このことを知らないのかと、わたしが疑問を口にすると、パトリックは、

「ぼくは、着替えも入浴も、ひとりでやる」

 と答えた。そうするよう、セドリックに言われたのだと。だから、かれははじめ、わたしの前で服をぬぐことをいやがったのだろう。けれど、さきほどの件をすべてわたしに見られ、知られてしまったのだから、ならば見せてもいいと、思ったのかもしれない。それに、ほんとうはずっと、だれかに知ってもらいたかったのかもしれない。

「いつから、こんなことをされているの?」

「一年……、半くらい前……」

 きずにしみるだろうと思って、ぬるくしたお湯につかりながら、それでもまあたらしいきずのいたみに眉をひそめ、かれはこたえた。

 あんなに泣いていたのに、かれはもう、へいきそうだった。ああいったことに、もうなれてしまったのだろうか。と、わたしがかなしい思いでパトリックをながめていると、かれは突然、また泣きだした。

「もういやだ……、もういやだ……!」

 かれはそう言って、自らの肩を抱きしめながら、緑の瞳を潤ますしずくを浴槽のなかに落とした。

 わたしはあまりにもこの子が不憫で、わたしまで涙腺がゆるんでしまった。

「だれにも言えずに、つらかったわね。よくたえたわ。ほんとうにえらいわ」

 わたしがそう言ってかれの頭をなでると、かれはいよいよ声をあげて泣きはじめて、わたしにだきついてきた。わたしは衣服がぬれたけれど、そんなことはどうでもよかった。この子は、きっと母親であるアメリアさまの顔をおぼえてはいないだろう。父親のリチャードさまだって、かれを気にかける余裕がなかった。エリックはずっと落ちこんでいて、そしていまは、また殻にとじこもってしまった。アリシアは家族を軽蔑し、見限っていて、きっとパトリックのことも気にとめていない。

 この、フレデリックと一歳半しかちがわない子には、まだまだ母親が必要で、だから、わたしはこのとき、パトリックの親代わりとして、この子をまもってやらなければと思った。

 わたしは、セドリックのことをだれかに話すべきだと思った。かれにはおどされたけれど、あのままではパトリックがあまりにも不憫だったし、このさきセドリックの嗜虐のほこさきがフレデリックにむかうかもしれないことも思うと、おとなしくセドリックの言いなりになってだまっていることはできなかった。わたしのちからでは、かれをとめることはできないし、相談するならば、ここはリチャードさまか、あるいは信頼できるアレンだ。

 わたしはさんざん迷ったあげく、まずはアレンに相談することにきめた。かれならば、わたしから聞いたことをセドリックにさとらせることもないだろうし、どうするべきか、いっしょに考えてくれると思ったからだ。

 アレンは真摯にわたしの話を聞いてくれた。

「セドリックさまは、良心を欠いておられる」

 アレンは呟いた。かれは、おさないころからのセドリックを知っていたし、かつてセドリックが虫を残骸にして、わたしにふりまいたことも、おぼえていた。

 わたしたちは相談して、できるだけ、パトリックをフレデリックといっしょにいさせるようにするときめた。フレデリックのことなら、わたしがみていても不自然なことはないし、わたしはセドリックの暴虐を見てしまったから、パトリックを目にかけてもおかしくはない。それに、フレデリックのそばにパトリックがいてくれれば、アレンも自然にかれをまもることができる。

 わたしひとりでは不安だったけれど、アレンがいっしょなら、こころづよかった。

 そうして、たしかに、セドリックのパトリックにたいする暴力は、ひかえさせることができたけれど、完全にやめさせることはできなかった。わたしもアレンも、いつもパトリックにつきっきりでいられるわけではない。それでも、たよれる人間がふたりできたことで、パトリックは気をつよくもてるようになったらしい。セドリックにいじめられたあとは、わたしのところにかけこんできて、ひとしきり泣いて、そうすると落ちついてしまう。

 なんてつよい子なんだろうと思った。いつもささいなことで泣いているフレデリックと比べてしまって、わたしはパトリックのつよさを、すこしうらやんでしまった。かれは、アメリアさまに似たのだろうと、わたしは思った。パトリックは、顔だちもアメリアさまにそっくりだった。

 エリックは、一年ひきこもっていた。わたしが部屋にはいることを、かれはゆるさなかった。かれは、わたしをきらってしまったのかもしれない。

 かれは、昼間はカーテンをしめきった部屋のなかにいて、みんな寝静まった夜になると部屋からでて、館のなかをうろついているようだった。

 わたしは、はじめて夜中に館内をうろつくかれを見たとき、亡霊かと思った。やせほそって、足どりはどこかうわついていて、のろくて、ほとんど上半身をうごかさずに歩くから、スゥッと、廊下をすべっているようだった。

 声をかけようかと思って、できなかった。かれの髪は無造作にのびていて、ひげも不精にのばされて、頬はこけて、手は骨がういて、なんだかよくないにおいもして、口は半びらき、そこから歯と歯ぐきがむかれ、目は見ひらかれて、まばたきもしない。

 いったい、どうしてしまったのかと思った。わたしは、わたしなど存在していないみたいに前をとおりすぎてゆくエリックを、呆然と見送ってしまった。

 まもなく、城ではエリックについてひそやかに、しかしわたしの耳にはいる程度に、ささやかれるようになった。かれもまた、アメリアさまとおなじように、病んでしまったのだと。

 きっと、たぶんそうなのだろう。

 けれど、わたしはあのとき、かれの背後に、亡霊の影を見た気がしていた。

 夜中、パトリックの部屋から、はげしいもの音と、叫び声が聞こえて、わたしたちはかけこんだ。

 エリックがいた。かれはわめいていた。

「おまえのせいだ。おまえのせいだ。おまえのせいだ」

 と、かれはくりかえして、パトリックを殴っていた。わたしはふたりのあいだにわってはいって、「エリック!」と呼びかけた。

 エリックは一瞬かたまったけれど、またその表情をゆがめて、わたしをにらんで、「おまえがきてからだ!」と叫んだ。

「おまえがきてから、すべておかしくなった! なにもかも! おまえが壊した! おまえをゆるさない! 呪ってやる、殺してやる、にがさない、点がある、おまえを埋める、ああ、わたしは死んでいない! おまえを殺せる、裏切りものなど不要だ、つまりおまえが死んだときに、わたしは死んでいなかったのだ! 呪われろ、呪われろ……、わたしが呪っている、すべては死ぬ。点が、点が、点が――、あぁ!」

 エリックは腕や胸もとをかきむしった。わたしは、かれの言っていることが、よく理解できなかった。ようすを見にきたものたちが、顔を見あわせている。

「エリック、なにを――」

「うごくな!」

 エリックはわたしに怒鳴った。わたしはうごいていないし、うごこうともしていなかった。

「わたしののぞみは絶たれたのか!」

 エリックは天をあおいで、言った。そしてかれは肩をおとし、歩きだした。あの、亡霊のような動作で。見物の召使いたちが、道をあける。かれらはあきらかに、エリックを気味わるがっていた。

 エリックは、パトリックの部屋からでていって、そのまま、闇のなかに消えた。

 召使いたちのどよめきが、しばらくその場でかわされつづけた。

 それから、夜になるとエリックはさわぐようになった。ときには、この前とおなじようにパトリックのもとに行って暴力をふるうから、パトリックの部屋には見張りとして、アレンがつくようになった。結果的に、それはセドリックがちかづくことをさまたげることにもなったので、よかったといえばよかったのだけれど。

 エリックは夜中に庭へでて奇声をあげながら走りまわったり、その庭を掘りかえして、根本から折った植木を、そこに埋めてしまったり、窓をわって、破片を館のあちらこちらにおいたり、寝ている召使いたちの部屋に怒鳴りこんだり、自分の髪をごっそりとぬいてしまったりと、奇行が目だつようになった。

 あの、おだやかでやさしいエリックは、いなくなってしまった。もう、言葉もろくに通じなかった。

 パトリックの友達のアーサーは、燃やされた。ガルドスミス城の、あの杉林のむこうで。

 アーサーは燃やされる前に、手足をちぎられて、きりさかれて、ボロボロにされた。いくら人形とはいえ、パトリックにとっては、おさないころの孤独とくるしみを共有してきたたいせつな存在だったのに、セドリックはアーサーに容赦しなかった。なげきかなしむパトリックをながめてはよろこび、パトリックが泣くほどに、セドリックは笑った。わたしはその場に“招待”されたけれど、なすすべもなく、せめて、パトリックをだきしめて、かれに被害がおよばないことを、いのるしかなかった。

 そして、パトリックが十歳の誕生日をむかえた日の、翌朝、かれはわたしの部屋にかけこんできた。衣装はやぶれて、ひと目で、セドリックになにかされたのだとわかった。わたしは、「今度はなにをされたの?」とたずねたけれど、パトリックはなかなか答えなかった。

「ぼくはもうだめだ……。こんな、ぼろきれみたいになって生きるくらいなら、死んだほうがましだ」

「パトリック、なにがあったの」

「言えない……、知られたくない……、ああ、もう、どうしてぼくばかり……。どうしてぼくなんだ……」

「パトリック、無理に話せとは言わないわ。けれど、ひとりの胸にしまっておくのもつらいでしょう。わたしはだれにも口外しないし……」

「それでも……」

 と、うつむいたパトリックは、すこし沈黙してから、顔をあげた。緑の瞳が、すがるようにわたしを見つめた。

「そうだ、フローレンスなら、きっとわかる……、ぼくがあのひとにされたこと……」

「わたしなら……?」

「だって、あなたは父さんに……」

 と言って、かれは表情をゆがめた。かれはまた、うつむいた。

 そこまで言われては、わたしも察するしかない。パトリックは、セドリックに暴力を――性的な暴力を受けたのだと。それが未遂でおわったことを、わたしにのぞませることは、こんな朝がたにかけこんできて、これほどまでに嘆きかなしんでいるかれのようすなどからは、できなかった。かれは、実の兄にふみにじられたのだ。

 わたしの頭のなかが揺れた。十三歳のわたしをおそった悪夢のような――むしろ悪夢であってくれればよかったと、何度思ったかしれない瞬間が、脳裏で再生される。

 セドリックは、きっとあえてパトリックをわたしのところへはなったのだ。そうしたなら、一緒になって、おさない性をもてあそばれた記憶でくるしむだろうと考えて。

 同性間での性行為は罪だと、リーン教ではさだめられているが、セドリックにはそのようなことは関係ないらしい。だが、その罪は、暴力によってしいたげられたほうにも適用されるという。

 いままで、わたしには関係のない話だと思って、とくにそのことに関して考えたこともなかったけれど、このときほど、そのようなさだめがあまりにも不当だと感じたことはない。パトリックは、セドリックの暴力のために、罪人になってしまったのだから。まだ十歳の少年が、このようなことで。わたしは神をうらみそうになって、しかし、このようなさだめをつくったのは、いにしえの聖人たちなのだと思いあたって、そうして、もしいまかれらに会えるのなら、わたしはどなりつけてやりたいと思った。

「パトリック……、あなたのくるしみは、どれほどのものでしょう……。わたしは無力だわ……、ごめんなさい」

「どうして、ぼくなんだ……」

 わたしはパトリックをだきしめながら呟いた。かれの耳にははいっていなかったかもしれない。かれは、なぜ自分ばかりがこのようにしいたげられなければならないのか……、かれは、セドリックからだけでなく、エリックからの暴力も受けていたから、これはいったい、なぜなのかと、そればかりが気になっているようだったから。

 パトリックは、フレデリックをなぐり、どなりつけるようになった。かれのくるしみ、なぜ自分ばかりがしいたげられなくてはならないのかという不満は、わたしの同情をさそった。けれど、フレデリックはわたしがおなかをいためて産んだ子だから、いじめられているのを見てしまっては、かばわずにはいられない。それが、またパトリックを逆上させた。

「どうせ、いくら母親づらしたって、そいつのほうが大事なんだ! そんな、泣いてばかりで、泣いていればあんたやアレンがかけつけてくれる、甘ちゃんのそいつのほうが、あんたはかわいいんだから! ぼくがどんな思いでいたって、そいつがぐずれば、ぼくのことなんてどうでもよくなるんだ!」

 わたしは背中で、パトリックの叫びを聞いていた。返せる言葉なんてなかった。パトリックの母親がわりになろうと思ったのは、たしかだった。かれがつらいのもわかる。けれど、パトリックか、フレデリックか、どちらかをえらべと言われたら、わたしはフレデリックをえらんでしまう。しょせん、わたしにアメリアさまのかわりなんてつとまらないのだろう。パトリックに期待させるだけさせておいて、いざとなればかれをみすててしまう、わたしなんて。

 けれど、アレンはわたしのように、フレデリックを優先させてしまうことはなかった。かれはわたしなどより、よほど公平だった。そのようにいられるのは、結局はフレデリックがかれの子ではないからかもしれないと思って、わたしは、アレンの決意をうたがってしまったと反省するのだけれど、とにかく、アレンは居あわせたおりには、わたしのかわりにパトリックをなだめてくれた。

 パトリックはしだいに、わたしからはなれ、アレンにすがるようになっていった。

 一年後、侯爵城に“イーロン”と名のる男が出入りするようになった。かれはグローラからの旅人だという。全身黒づくめの、どこか女性的な印象のある――と言っても、別段仕草や口調が女々しいというわけではないのだけれど――、髪のながい、いつも化粧をしている、やたらと背のたかい、きれいなひとだった。かれは、セドリックが知りあって、城にまねいた客人だった。

 商会はグローラとの交流もあるから、そこで知りあったのかもしれない。イーロンは旅費のために、ちょっとしたあきないもするようで、そうなると、いずれにせよ外国からの商品ということで、商会の点検がはいる。セドリックはこのとき十八歳になっていて、正式に、ファーリーン商会議長補佐の肩書きをえていた。商会のほうはほとんどセドリックの管轄になっていて、議長であるリチャードさまは、侯爵の仕事に集中するようになった。セドリックは危険で、おかしなひとだけれど、まちがいなく仕事はできた。

 わたしは、セドリックの残虐性について、すでにリチャードさまに話してあった。けれど、リチャードさまはそのことについて、とくに問題にはしなかった。されたところで、わたしが話したことがセドリックに知られれば、わたしがなにをされるかわからないので、リチャードさまが、わたしから話を聞いても知らぬふりをつづけたのは、結局のところは、わたしに気をつかってのことだったのだろうけれど。リチャードさまは、セドリックがみずから危険な面を露呈させることを期待して待っていたようだけれど、セドリックは抜け目のない子だから、それはむずかしかったと思う。

 イーロンはセドリックの客人だったから、当然セドリックと一緒にいることがおおかったのだけれど、ときどき、フレデリックとも話しているのを見かけた。正直、わたしはイーロンのことを警戒していた。なぜなら、あのセドリックが気にいって、つれてきたひとだったから。でも、かれはおだやかな善人のようで、フレデリックはイーロンにすぐになついた。

 フレデリックは、読書のすきな、夢見がちな、ひかえめな性格の少年にそだっていた。そろそろ泣くことはすくなくなってはきたけれど、それでも打たれよわい子ではあった。空想小説を、かれはこのんでよく読んでいた。

 リチャードさまは、兵士にむいていなかったらしいけれど、きっとフレデリックもそうだろう。かれは運動が苦手で、ちからがよわくて、すぐに疲れてしまう子だった。

 ファーリーンでは、そういう男子はかろんじられる。それでなくても、フレデリックはレイス家の庶子で、ひとたび街にでれば、さげすみの視線はさけられない。これで、もしかれが一流の王属騎兵にでもなれたなら、人々はかれを見なおしただろうけれど、そんなことはとても、想像しようにもできない。

 イーロンはファーリーンの人間ではないからか、フレデリックをかろんじることはなかった。かれは空想がすきなフレデリックを否定せず、それをうけいれ、そしてかれの想像につきあってもくれた。わたしは安心して、かれらがともにいるときには、すこしはなれた場所から見まもるようにした。

 イーロンがやってきてしばらく経ち、わたしもかれにフレデリックをあずけることにまったく抵抗がなくなったころ、フレデリックはもじもじとしながらうちあけてきた。

「ほんとうは、だれにも内緒だって言われているんだけど、ぼく、母さまになら話してもいいんじゃないかって思うんだ」

「なにかしら」

「ええとね……、本をもらったんだ。イーロンに」

「どんな本なの?」

「…………」

 フレデリックは指さきをこねくりまわして、だまってしまう。わたしは、さては、いかがわしい本でももらったのかしら、と思った。

「あのね……、そのぅ……、魔道について、母さまはどう思う?」

「魔道?」

 唐突な質問に、わたしは反芻してしまった。魔道について――、深く考えたことなどなかった。ファーリーン以外の国では、魔道が生活のなかにとけこんでいて、魔道についての研究者や、魔道をもちいる兵士がいることは知っているけれど、その程度の認識だ。

 リーン教典のヴィート王の章では、“あなたがたは魔道を忌むが、それは良しとしよう。しかし、魔道に親しむものを憎んではならない”とある。ファーリーン人は二五〇〇年もむかしから、魔道をきらっていたことの証明だ。ただ、わたし個人の例で言えば、わたしはそもそも魔道にふれる機会もなかったし、“きらう”というよりも、“関心がなかった”と言ったほうがただしいので、フレデリックの質問にたいして、なんとこたえたらよいのか考えこんでしまって、けれど、ありのままにこたえることにした。

「そうね……、あまり、興味をもってこなかった、というのがほんとうのところかしら」

「きらいじゃない?」

「きらってはいないわ。だって、きらいになるほど知らないもの」

 そうこたえると、フレデリックは安心したように笑った。

「じゃあ、言うね。ぼく、イーロンに魔道の本をもらったんだ。それでね、かれに魔道も見せてもらった。火がね、かれの指さきから燃えあがったんだよ! すごくきれいな火だった。煙がでないんだ。イーロンはね、“固体を燃やしていないから、煙がでないのですよ”って言っていた。それってどういうことなんだい、って聞いてみたら、この世界のあらゆるものは、固体を司る土の元素と、液体を司る水の元素と、気体を司る風の元素に分類されて、火はそれらの元素でつくられた物質を分解したり、変換したりできるんだって。固体って、熱をくわえると、液体や気体になるでしょう。煙っていうのは、燃焼で分解された固体や液体の細粒子が、気体にまざっているものなんだって。知っていた?」

「しらなかったわ」

 わたしは興奮ぎみに話すフレデリックに感心してしまった。わたしは、“ものを燃やせば煙がでて、灰がのこる”ことは知っていたけれど、それがどうしてかなんて、疑問に思ったことがなかった。けれど、フレデリックはそういったところに関心をもって、知ることによろこびを感じている。本をもらい、まなべることをたのしんでいる。

 わたしは、かれが研究者……、とくに、魔道の研究者になりたいというのなら、それを応援したいと思った。

 けれど、この国ではむずかしい。ファーリーンでは、魔道はなかば禁忌のようなものだった。おなじ帝国に属する、アウリーやヴィオール、帝都リラだって、魔道によってさかえているのに、この国だけは、魔道を忌避している。南方をおさめるクラーツ公爵は、アウリー女王の夫でもあるので、魔道もあつかわれると聞いているけれど、かれはすぐれた剣士だ。この国で、魔道をまなびたいというのなら、まずはすぐれた戦士にならなければ、きっと奇人・変人のそしりをうけることになる。そうでなくても、フレデリックはレイスの庶子で、人々からさげすまれているのに、おもてだって魔道などまなばせてみたりしたあかつきには、かれはもう、ファーリーンにいることさえむずかしくなってしまうだろう。

 わたしは息子を応援したかったけれど、でも、こう言うしかなかった。

「フレデリック、その、もらった本はかくしておくのよ。それと、魔道に興味があることも……、すくなくとも、いまは、だまっていなさい。いつか、あなたが興味をもっていることを、わたしはまなばせてあげたいけれど、いまは、だめだわ」

 フレデリックの笑顔がきえて、瞳がうるんでくる。かれはうつむいてしまった。

「わかったよ……」

 と、かれは、かなしげに言った。わたしは、かれに堂々と夢を語らせてやりたかったけれど、そうさせてやれないことにふがいなさを感じた。

 フレデリックが魔道について語らなくなっても、かれがそれに興味をもちつづけていることを、わたしはわかっていたから、どうしても、かれにはその道へ進ませてあげたかった。そのためには、ファーリーンにいてはいけない。

 わたしは、なんとかかれにもっと魔道をまなばせてあげられないかと思って、リチャードさまに話してみることにした。

「フレデリックを、グローラか、アウリーに留学させてやることはできませんか」

「なぜだ」

「かれは、剣もあつかえないし、からだもつよくはないし……」

「この国とて、なにも剣をあつかうばかり、それだけをみとめているわけではない。わたしも、このように文をおさめて仕事をし、みとめられている。貴族の家に生まれたからといって、騎士になる必要はない。そういう時代は終わった。リディでは政務官などがもとめられているし、頭さえわるくないのなら、その道に進めばよい」

「けれど……」

 わたしは、フレデリックが魔道に関心をもっているから、魔道をまなばせてやりたいのだと、言っていいものか迷った。

「商人というものは、臨機応変に、柔軟に、さきを見てものごとに対応せねばならない」

 リチャードさまが言った。わたしは話題がはずれていってしまうのかと思って、うまく交渉にもってゆくこともできないのかと、みずからの回転のわるさにがっかりとしかけた。

 けれど、リチャードさまはつづけた。

「正直なところを、話してみなさい」

 わたしは、わたしの思っていることを、リチャードさまがすでに察しているのだと気づいた。そして、そのおだやかな口調から、わたしの言おうとしていることを否定するつもりもないのだと、理解した。

「かれに、魔道をまなばせてあげたいのです」

「“グローラかアウリーに”と言うから、そんなことだろうとは思った。あの子は魔道に興味があるのか」

「はい」

「まなんで、のびる見こみはありそうなのか」

「きっと」

「そうか。なら、考えてみよう」

 リチャードさまが言った。あまりにもすんなりと理解をえられたことに、わたしはおどろいていた。

「なぜ、かれのために……?」

 わたしはたずねていた。リチャードさまにとって、フレデリックはのぞんではいなかった子だ。生まれてからもべつだん、かれをかわいがったりもしなかったし、かれにあまり関心をもっているようすだってなかった。

 リチャードさまはうつむきがちになって、みじかく息をついた。

「あの子は、子どもたちのなかで、もっともわたしに似ている。兄たちからさげすまれ、兵士になりそこねたために、世間の笑いものにもなった……、わたしに」

 その言葉をきいたとき、わたしは、リチャードさまと、フレデリックについて和解できた気がした。わたしをおそったことを、ゆるすとか、ゆるさないとか、そういったことは、わたしはもう、どうでもいいと思った。このひとがフレデリックのことを、ほかの子どもたちとおなじように、真剣に考えてくれるのなら、わたしはそれで、じゅうぶんだと思った。

 けれど、それっきり、フレデリックの留学の話はもちだされなかった。わたしは、なかなか話がまとまらないのだろうと思って、待った。リチャードさまは、アウリーやグローラから仕入れた魔道に関する本をフレデリックにあたえてくれたし、わたしの話をわすれてしまったわけではないのは、わかっていたから。

 フレデリックは、本から知識をえていった。かれはちゃんとかくれて、自室のなかでだけ魔道の本を読んでいたから、きょうだいたちに知られることもなかったはずだ。

 フレデリックは以前にもまして読書に精をだしていたので、どんどんファーリーンの古めかしい男性像からそれていった。剣の稽古も、ろくにしなくなった。わたしはそれでいいと思った。かれにはかれのむいていることがあるし、そのために努力しているのだから。

 けれど、パトリックはそんなフレデリックが気にいらないようだった。かれは、剣の才能もじゅうぶんにあったし、安定した、従来からのファーリーン男性らしく生きることができるはずだった。セドリックによって、自尊心をこわされることさえなければ。

 パトリックの、フレデリックに対するあたりは、だんだんとつよくなった。かれは、兄たちにさからえなかったから、不満をぶつけられる相手がフレデリックしかいなかったのだ。パトリックも十三歳になって、ちからはつよくなったけれど、こころは兄たちにおびえたままだ。わたしはパトリックについても、リチャードさまに相談した。“どこか、べつの家に小姓としてつかえさせることなどはできないのですか”と。けれど、リチャードさまはむずかしそうに、うなるだけだった。

 二年経っても、留学の話はリチャードさまからだされなかった。わたしはもういちど、念をおそうと思って、かれのもとへむかった。

「フレデリックの留学の件は、どうなっているのですか?」

「そのことだが、かれを王属騎兵に推薦しようと思っている。二年後には十四になるだろう、すこし若いが……」

「なんですって? 王属騎兵だなんて、そんなの、あの子には無理です。剣だってまともにふるえないのに」

「まあ、落ちついて、聞きなさい。ルートヴィヒ王は幼少期に魔道をまなんでいた。かれは魔道に対する偏見がない。むしろ、この国にも魔道の必要性を感じているはずだ。なにせ、帝国に属する国は、ここ以外は魔道国家だし、以前のアシュタールでも、フォルマは魔道をもちだしてきて、こちらは大変な被害をこうむった。ルートヴィヒ王は、エミル王とおなじく、改革者だ。フレデリックの有用性に気づけば、かれをこの国のために活かす道をしめされるだろう」

「けれど、どうなさるのです? 王属騎兵の入団には、二年間の試験があるでしょう。フレデリックに、その試験をこなせるとは思えません。王属騎兵である必要があるのでしょうか。直接、王さまにあずけられたほうがよろしいのでは……」

「王属騎兵となれば、直接王にあずけるのとおなじことだ。

 試験についてだが、これは王と交渉する。つまり、剣や槍を扱う戦士としての試験ではなく、魔道士としての試験を用意してもらえるように。あと二年ある。あのかたならば、考慮してくださることだろう。

 ただ、魔道はやはりファーリーン人には受けいれられにくいものだ。おおやけにすることはむずかしい。候補生時代ならば、学科の指導が中心だから、問題はないだろうが、訓練生になると、兵士としての実技訓練が中心になる。そのとき、ひとりだけ相変わらず学科の勉強をしていることになるので、目だつだろうな。レイスの庶子ということからも、きっと肩身のせまい思いをすることになる」

「リチャードさまは、ご自分が兵士となれなかったその希望を、フレデリックにたくされたいから、わざわざそんな、むずかしい方法を考えなさるの?」

「それも、ないとは言いきれないが……。だが、王属騎兵は国のほまれだ。その肩書きをえれば、“レイスの庶子”などよりよほどよいと思うのだが」

「それはもちろん、そのほうがいいにきまっています。けれど、きっと不正で入団したと思われます」

「はじめのうちは、そうなってしまうかもしれない。だが、そうではないということは、いずれ王が証明してくださるだろう。もちろん、フレデリックの努力があることが前提だが」

「リチャードさまは、王さまにたてついておられると、世間では評判だとうかがいました。また、そのように周りから思われてしまうのでは」

「なに、かまわん。たてついているわけではない。意見しているだけなのだから。むしろ、みな、王の言われるがままなほうが、わたしはおかしいと思うぞ。国についての最終的な決定権は、王にしかない。だが、受けいれられようとそうでなかろうと、意見をのべることは、わたしたち貴族にあたえられた権利であり、それは義務でもあると、わたしは思っている」

「あの子をひとりで行かせるのは……、心配です」

「おまえも王都に行くとよい。騎兵館にははいれまいが、ちかくに住むことはできる。アレンもともに」

「……それは……」

 わたしは一瞬、夢見てしまった。アレンと、フレデリックと、三人で、王都にゆける。この、こわれかけた家族のもとから、はなれられる――、そのように考えてしまって、わたしは目をきつくとじた。

 わたしは、フレデリックとアレンに、リチャードさまの考えを話した。フレデリックはおびえていたけれど、アレンは考えこんでいるようだった。

 二年後、やはりフレデリックは王属騎兵を目指してうごくことになった。訓練生はリディにあつめられるけれど、候補生はここレイスでも募集がかけられ、このレイスの地でまなび、選抜されてゆく。そして、えらばれたものが王都にゆける。

 フレデリックも、レイスの学舎にはいった。ファーリーンの識字率は全体を平均してみると低いとされるが、レイスにのみ関していえば、かなり高いほうだ。あきないでさかえてきた都市だから、というのもあるだろうし、裕福な家がおおいから、というのもあるだろう。もちろん、わたしの生家のように、ひどく貧しい家だってあるのだけれど。

 レイスの学舎で、フレデリックがどのような目にさらされているのかは、アレンが話してくれた。かれも、王属騎兵に転向することになっていた。かれは、レイスの騎士団では大隊をひきいて、北のヴァリュレイからやってくる、ならずものの集団をおいちらすこともあったから、実績はじゅうぶんで、もちろん、初等から高等までの学問もすでにおさめている。学舎でいまさらまなぶこともなかったと思うのだけれど、王属騎兵を目指すものたちにとってはきまりだから、それにはしたがわなければならない。ただ、かれはほかの候補生たちより余裕があったから――初等から高等までの学問を、二年でまなばせようとするのだから、そのきびしさといったら相当なものだろう……。なかには、もともと文字さえ読めないものだっているのだから――、しばしばレイスの侯爵城にもどってきて、わたしやリチャードさまに、フレデリックのようすについて報告してくれた。

 やはり、フレデリックは、けっして、よい目では見られていないようだった。影で、またははばかりもせず“庶子”というものもいるし、あきらかに兵士むきではない見た目のかれを、ばかにするものもすくなくないという。わたしは、やはり……、と思った。そのような環境で、フレデリックはたえられるだろうかと、心配でたまらなかった。かれは城に帰ってこないのだ。それはなぜなのか、わたしはアレンにたずねてみた。

「かれは、“城にもどって母の顔を見たら、もう学舎にゆきたくなくなってしまうから”と言って、ぼくがさそってもいやがるので、かれの決心を刺激しないよう、最近はぼくも、あまり声をかけません。もちろん、かれの周辺には目を光らせていますから、安心してください。かれをけなす言葉をまで、ぼくがとめてしまっては、またレイスのひいきなどと言われてしまいますから、それはできませんが、落ちこんでしまうかれをなぐさめるくらいはできますし。それに、暴力は断固として禁じられていますから、いまのところは、そういった被害はありません」

 アレンは教えてくれた。やはり、かれがフレデリックのそばにいてくれたら、安心できる。王都に行っても、かれがフレデリックを見まもり、勇気づけてくれれば、わたしは安心して、遠くからでも、かれらを応援しつづけられる。そう思った。

 一年は、すくなくともわたしにとっては、またたく間のできごとだった。フレデリックにとっては苦難の一年で、とてもながく感じられたかもしれない。けれども、かれはこの候補生試験を主席でおえた。もっと年上の、名家で裕福な、十分な教育をすでに受けている生徒たちもおおいなかでの結果だった。セドリックの、異常なまでの明晰さにかすんでしまっていたが、フレデリックも、とてもあたまのよい子だったのだ。リチャードさまに似たのだろう。わたしはあまり、そうでもないから。

 どうやら、その結果でフレデリックをみなおしたものも多少はいたようだけれど、でも、依然として、おおくのものたちは、かれをさげすんでいるらしかった。しょせん、あたまだけだと。剣をにぎる、これからの、王都での訓練生の期間を、レイス家の庶子はのりこえられるはずがないと。

 けれど、かれは剣を最低限にしかまなばない。王さまは、リチャードさまの要求をのんで、フレデリックに、とくべつな待遇を用意してくださったから。きっとそれは、ほかの生徒たち、世間の、レイスへの心象をわるくさせるだろうけれど、王さまと、リチャードさまの思いえがく、これからのファーリーンにとっては、必要なことなのだ。

 そう信じて、わたしはかれらを待とうと思った。王都ではなく、この、レイスの地で。

 なぜ? と、アレンにも、リチャードさまにも問われた。アレンと、フレデリックと、わたしの三人でこの家からはなれることを、ずっとのぞんでいたのではなかったか、と。

 たしかにそうだった。わたしは、このふたりを愛していて、このふたりだけいてくれれば、もう、それでいいと、たしかに思っていた。けれど、わたしがこの家をはなれることは、いまはおかしくなってしまった、わたしの弟のエリックと、母親のかわりになろうと思って、いくどとなくだきしめたパトリックたちを、うらぎることになる。

 わたしは、いまのエリックがこわかったし、セドリックがこわかった。ここにいては、アレンもいなくなってしまっては、わたしはきっと、かれらにしいたげられることになるだろう。それでも、わたしはかつてのやさしいエリックが大好きだったし、いまでも、ときおりなぐられたって、とてもきらいになんてなれなかった。パトリックのことだって、ほうってなんておけない。わたしは無力で、きっとパトリックをまもることなんてできなくて、セドリックやエリックに、ともども追いつめられてゆくことだろう。

 わたしはアメリアさまのようなひとになりたかった。わたしはあのかたのようにつよくなんてないし、使命感のようなものにもえたところで、結局なにもはたせないような、中途半端な女だけれど。わたしがこの家にのこることは、わたしの責任だと思った。この家にしばられる、わたしの先祖――、かれらによって狂わされてしまった、この家族への、つぐないのつもりで。

 わたしもまた、この家にしばられている、亡霊とおなじなのかもしれない。過去の、こもれ日のようにおだやかでやさしい記憶にすがり、うごけない、生けるもの。憎しみなどない、復讐など考えもしない、このわたしを、亡霊たちはうらむだろう。

 亡霊の憎悪は、この家族にむけられるべきではない。どうか、わたしにむけてくださいと祈った。この家族を愛してしまった、あなたたちの唯一の子孫――希望を。

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