――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

掌・短編集
竜の血脈 ‐隷属の意志‐

 空が、朱の色をしていた。

 あれは、夕焼けによるものだったろうか。

 他に方法はあったのやもしれぬ。しかし、私はあまりにも無力な存在だった。

 解放されたかったのだ。解放してやりたいとも思った。全て投げ出すことを、誰か――、なにかに赦されたかった。

 なんのために増えるのだろうか。この不毛な日々の先に、みなは何を見ているのだろうか。

 それとも、なにも見てはいないのだろうか。

 突如弾けたのは、漠然と抱き続けてきたもの。それを覆う膜を突き破った刃は、日常に垣間見えるありふれた光景に過ぎなかった。

 言葉を成さない、只の叫びだ。抵抗するでもない、非難するでもない。だが命あるものならば、して然るべき最低限の反応。

 六十年余りの年月を、傍観し、役割に従事し過ごしてきた。聞き慣れたはずの咆哮が、不意に背後から突き刺してきたその日、初めて見慣れた光景を『惨い』と感じた。

 救いがもたらされることはない。長い歴史によって証明されている。報われることもない。途方もない年月によって示されている。

 ならば、終わらせるしかあるまい。

 そう思い立ってしまった。思い立ったがゆえに、数多の命を焼き払った。もたらされた寄る辺なさに、どこか軽快な心境でいた。

 罪悪感などというものに溺れるくらいなら、はじめからこのような暴挙に出ることはなかったろう。しかし、それが皆無だったわけでもないようだ。

 ゆえに、この手で絶ったものを背負って生くと。なにかに――、ちょうど頭上高くに広がっていた朱い空にでも、誓ったような気がする。

竜の血脈 ‐隷属の意志‐

 半竜人。それは、忌まれる存在。

 かつて、古代大戦時代に竜人と人間の混血種として誕生した我が種族は、いかなる時代においても異端であったという。不毛の荒野へと追いやられ、食うものも乏しい我々に唯一扱える産業は『命』であった。

 すなわち、人類の戦へ金を対価として加わること。我々半竜人の肉体は人間よりも巨大かつ頑丈である。我々は人間にとって、安い戦道具だった。

 危険に対する対価が安くとも、刃を交える相手が同族となろうとも、命を売ることで得られる報酬が命綱である以上、やらねばならない。

 だが、売るとなれば、生産する必要がある。当然の理だ。

 さて、生産と気安く言ったとて、それができる者は少ない。半竜人の多くの個体は、生殖能力を持たない。種としての、甚大な欠陥である。

 その欠陥を補うとなれば、厳重な役割分担が必要となる。生産する能力を持たない者は、命を売って金を稼ぐ。生産する能力がある者は、ただひたすらに生産し続ける。

 単純な社会構造だ。

 厳格に行なわれる隔離と、保護という名目の拘束・監禁。或いは、捨て駒。おおよそ生まれた瞬間から定められるのは、そのいずれかの役割。このようなものに従順であるならば、情操の発達など見込みようがなかろう。

 結果的に、人間らは我々を『残忍な生き物』と評するようになる。

 出生時の私に充てがわれた役割は、『死際まで雄として同族を増やすこと』だった。

 如何にも、私は雄だった。雌以上に希少な存在の一端だった。肉体が成熟してより更に明らかとなったのは、生殖において一抹の不足もない身体特性を有していることであった。

 いわゆる、『完全体の雄』である。私が所属していたクランにおいては、四百年余りの年月を経ての誕生であったらしい。

 他者との交流を制限された生活。里の外へと向かうことはおろか、『保護』の名目で管理された監禁施設からの外出も困難であった。

 成年後の三十余年の月日のうちで、何人の子を成したのかは判らない。『生まれた』と聞かされた子らの顔を見たことは、一度たりともない。

 当然であることを、従順に受け止めていた。小さな疑問が湧いたのは、いつのことであったろうか。自己でさえ認識できないほど微かな違和感。だが、堆積するほどに思考を圧迫し始める。

 肥大化し、張り詰めたものが弾ければ、一瞬だ。その日、クランに残されていたのは、拘束された雌たちと、不具の身となり戦闘から退いた世話役らのみであった。

 限られた行動範囲にのみ生かされていたこの身体は、己の想定よりも遥かに虚弱であった。脚は歩き方を知らず、腕は物の振り上げ方を知らなかった。

 たとえ不具の身となろうとも、誕生より戦士として生かされてきた者たちを相手に、反抗することは困難を極めた。

 故に、私は火を放った。

 そうまでして逃れた先に、なにを見ていたわけでもない。私は世間から隔絶されてきた、無知な一個体に過ぎなかった。ただ、衝動に突き動かされるままに行動した。そうして目の当たりにした光景は、灼熱に炙られ炭灰になってゆく同胞らの姿であった。

 誰を悪として屠らんとしたわけではない。悪などいない。

 だからこそ、炎に呑まれていった罪なき同胞たちの命を、己が記憶に刻み込まねばならぬと思った。

 日に焼かれる無限の空は、燃え盛る故郷と同じ色をしていた。決して逃れられぬ宿命などといったものは、この空の続く限りについて回るのだ。

 いざ覚悟せよと、強大な何者かに迫られている心地がした。

 その後、他のクランへ身を寄せるという手段を取ることはできなかった。当時の私は背ばかりが並より高い一方で、痩せ細っていた。戦士として生きてきた者でないことは一目で明らか。つまり、雌雄のいずれかとして厳重に保護されてきた個体だということが、隠すべくもなかった。他のクランへ行ったとて、貴重な個体であれば捕らえられる。

 半竜人社会へ留まることはできない。ならば、人間社会へ逃げ込めばよかろうと考えた。無知な私は、大層なことだとは考えなかった。人間の国々から提示される傭兵の契約を呑みながら、我が種族は生きながらえてきた。ならば、人間社会においてそれなりの地位を築けているはずだ、と。

 だが実情は、人間社会において半竜人は差別の対象だった。

 ただでさえ、半竜人の巨体は目立つ。加えて、中でも長身の部類ともなれば、人間の群れから頭二つ分は飛び抜けてしまう。また半竜人は、顔立ちにも竜人の特性を強く残しているらしく、人間のふりをするという手を使うことは困難だった。

 言葉を理解することはできる。だが、これまでの半世紀を超える生涯において、私は言葉を用いる機会があまりにも少なかった。ゆえに、なにかを発言するとなると上手くいかない。

 蛮族と罵られた。姿ばかり人に似た、低能な獣に充てがう仕事はないと拒絶された。金の勘定ができぬと決めて掛かられ(実際、通貨という概念に慣れるまでに幾分か時間は要したが)、食うものを手に入れることもままならなかった。

 我々半竜人は、人間のようにおおよそなんでも食えるというわけではない。竜人の体質を受け継いだために、植物の養分を取り入れることが難しい。ゆえに、肉を食わねばならないが、市場に並ぶ肉は、ことごとく高価であった。

 ただ、同時に我々はまめな食事が必要でない。とくに、私のように元が痩せて活動量も少ない者は、月に一回の食事が十分なものであれば飢えずに過ごせる。

 ようやくの思いで手に入れた金を持って市場へ行けば、先客の五倍ほどの価格で物を売りつけられそうになる。それはおかしいだろうと訴えれば、店主は早口で捲し立て、その声が周囲に響き煩わしい注目を浴びることとなる。

 どうやら、商人という職に就いている者は、人間のなかでもことさら口が達者であるようだ。楯突いてみたところで、口下手な私に勝ち目はない。そう思い知ってからは、言われた値を素直に払い物を買うことにした。不当ではあるが、工面が追いつかない値でもない。

 やがて、私を雇うと言う者が現れた。行商人の集団だった。もう少し世間を知った後に思い返せば、随分と足元を見られた契約だったわけだが、当時の私にとって『護衛として付いて歩くだけで、毎月の食糧を確保できる』というのはかなりの好条件に思えた。

 食事量が増えるのと同時に歩き回る生活を送るようになったことで、私の体型には半竜人らしい屈強さが現れはじめていた。戦いの技術を持ち合わせておらずとも、並の人間と比しておおよそ二フィート約60cm高い背丈と、その体格をもってすれば、ただ立ち歩いているだけで十分に役目を果たせた。

 私は彼らが飼いならす番犬と同等の扱いだった。役割を達成できると投げ渡される肉塊を、独り離れた場所で焼き、食った。

 十年足らずの期間を、その集団とともに過ごした。私はあくまで従順な獣であり、彼らの仲間ではなかった。

 やがて戦が始まったのを期に、私は隊商を離れた。

 よく思い知ったのだ。やはり、私のようなものは人間社会に在るべきではない。半竜人の社会へ帰るべきだ。だが、以前のような生活に戻るつもりはない。ならばどうするか。

 雄であることを隠し、戦士として生きる。

 幸い、隔離生活をしてきた私の顔を知る者は、ほぼいない。いたところで、記憶に残っていることはなかろう。私の容姿など、半竜人の中に在ってはありふれたものに過ぎない。体格も良くなった。実戦技能が身につけられれば、なんとでもなろう。

 なお、半竜人に一見して明らかな性差はない。私の背丈が並より高いことと、雄であることに相関関係はない。つまり、容姿のために保護対象であることが露見することはない。

 ただし、経歴を詐称する必要がある。

 戦場跡に赴き、弔われることなく野ざらしとなっている同胞の遺体から武具を剥ぎ取り、身につけた。血が滲みた革鎧は硬く、鋼鉄の斧槍はおそろしく重かった。

 それから、名も知らぬクランに合流した。私が用いた偽りの経歴は、『出生時に雄としての役割を充てがわれ、三十年余りを保護下で過ごしたが、成体となって機能しないことが明らかとなった。ゆえに戦士へと転向したが、能力が足りず負傷し、長らく人間に捕らえられていた』というものだ。

 他者にさして興味関心をいだかない同胞らは、私の申告を不審がることもなく「そうか」と流した。

 実際、人間に捕らえられたなどという部分を差し置けば、さして特異な境遇というわけではない。むしろ、成体となってもなお雄であり続けた私の境遇の方が特異だ。

 無事に、経験不足の戦士の立場を取得した私は、戦闘訓練に進んで参加した。成体となる前から戦地へ駆り出され戦い続けてきた者たちと並んだとき、私は同年齢の者より半世紀分の遅れを取っている。それを今更埋めようなどと、容易ではない。戦士たちは訓練といえど容赦がなく、捨て駒の命として生き続けてきたかれらに、手心というものもない。

 日々、負傷を最小限に収めるのが精々だった。気を抜けば手脚が飛ぶ緊張感のなか、私は逃げ回り続けた。そうして、かれらの戦い方を観察した。

 ようやく攻撃を繰り出せたのは、一年が経った頃である。無論、かすりもしなかった。却って隙をつくったために、死を覚悟するほどの重傷を負い苦しんだ。

 三年が経過する頃、まともな試合ができるようになった。

 五年後に、戦へと駆り出された。相手国が雇った同胞の腕を二本、首を一つ飛ばした。

 はて、私は一体、なにをしているのか。この手で討った見知らぬかれは、私の子であったやもしれぬ。増えるために、私は生かされてきた。だが、増やしてどうなるというのか。結局はこうして、同族同士で命を奪い合っている。

 金を得なければならない。そうして糧を得なければならない。それは同族を生かすためだ。

 ならばかれらの命は、同族に喰われるためにあるも同然だ。喰われるための命をつくる。増える同族のために、命を支払う。生産し、売る。

 特定の指導者が存在するわけではない。誰に強制されるわけでもなく、ただ我々は古来の慣習に従い続け、それを当然のことと受け容れている。それが我々の生き方だ、と。

 かつて、茫漠と抱いた疑念が、より明確な形をもって、この腕の中におさまる。腕の中のものを、日々眺めていた。やがて、ああ、と理解した。この社会は狂っているのだ、と。

 だが、私がこのありさまを異常だと思い立ったところで、なにができるわけでもない。

 次に語るのは、人間社会での生活中に知った、真偽の定かでない言い伝えである。

“半竜人は、古代大戦時代に、人間によって意図的につくられた種族であるが、無論それは戦道具にするためなので、ただ従順であるようにした。戦が終われば無用かつ脅威であるので、荒野へと追いやった。”

 どのようにして、従順であるようにしたのかは不明だが、現に我々はなにかに従順でいる。思考する能力を奪われたかのようだ。

 誰もが異常性を理解しながらも、ただ口にせずにいるのだと思っていた時期がある。しかし、そうではない。みなはそもそも、なにかに隷属している自覚がない。

 異常なのは、私だ。

 一つのクランに長居をするほどに、他者との軋轢を感じ始める。それは、私が一方的に抱くものだ。逃げるように、他のクランへ移る。そこも変わらぬと解っていながら、わずかばかりの心機の変化を求めてそうする。やがてまた、耐えられなくなり移動する。ただ、繰り返すばかり。

 そうして、三十年が過ぎた。

 世界の端の、広大な荒野。そこに生きる半竜人のクランは無数に存在する。また、寄る辺なくさまよいたどり着いたひとつの里に、此度はどれほど滞在できるだろうか。

 演習の音が轟く辺りには、多くの同胞らがいた。私がそちらへ歩み寄っても、誰もさしたる関心をもたぬ。ほんの一瞬、顔に目線を寄越すのみ。このクランの者でないことは認識しているようだが、その気づきが興味へ発展することはない。

 流れ者の事情を説明する必要がない点は、気楽と言えようか。

 年長も年少もなく、立場の優劣もない。そのクランに居座るために、誰かの許可をとる必要もない。ただその集団に合流し、紛れてしまえばよいのだ。誰も私に興味を持たない。誰も私に自己を紹介しようとはしない。

 放浪の三十年間で、数多のクランに所属し、その戦力の一端を担ってきた。人間が相手の戦いでは、一方的な蹂躙に終わる。同族間での戦いを経なければ、個の技量を評価することはできない。

 演習で死にかけた記憶も、もはや遠い。

 当然のように、私にも訓練の番が回ってくる。取り囲む視線は鋭い。

 かつて、朽ちた同胞の手から離し取った斧槍。今となっては、その重さも馴染みが良い。

 一対一の相手として進み出てきたのは、私とさして背丈の変わらぬ長身の者だった。

 私という存在は、新しいクランにとって常に未知の存在であり、その技量も不明だ。これまでがそうであったように、初めの対戦には技力を一定以上と評価された者が進み出てくる。初期は当然、命を危ぶんだこともある。だが、殺す手前で相手は武器を下ろす。それは、『この程度使えるのなら、まあよかろう』といった意図の明示。

 半竜人社会のなかで地位の上下があるとするならば、それは『強者か否か』であろう。強者が命令を下すことはないが、その者の決定には効力がある。無論、そういった強者の存在は、隔離された雌雄には無関係だ。我々は役割が異なる。

 さて、かつては圧倒されるばかりであった手合わせにも、我ながらこなれてきた。流れ者の私の出方を伺うべく、大抵は観察されることから始まる。此度もそうだ。お前の力を見せてみろ、という無言の催促。

 背丈を優に超える斧槍は、半竜人の多くが扱う武具である。並の人間には持ち上げることも困難であろうそれを双方構え、向き合う。

 私が初めに周囲へと示すべきものは、細やかな技ではない。半竜人に与えられた膂力と、重く頑丈な筋骨で繰る速度、それらを相乗しての破壊力である。

 相手の目先に、斧槍を振り下ろす。斧が――刃とは名ばかりの鈍器であるそれが、音の駆ける速度を超えるとき――空を裂く瞬間、私の周囲は完全なる静寂へと陥る。

 岩盤が割れる。

 間髪容れず、舞い上がる間も与えられないでいる砂塵を切り裂き、白銀が迫る。躱した背後の岩壁が砕ける。

 我に返った音は辺りを暴れ回った後、荒野の彼方へ走り抜けていった。

 低い場所で渦巻いている硝煙の向こう側で、ぎらついた金の瞳に見つめられている。

 相手は私の背後に深く突き刺さった槍を抜きに、傍らを過ぎていった。これで十分だろうと、観覧者らへ言外に主張する気配を纏わせながら。

 空は既に、朱く暮れ始めていた。地平線の彼方に、巨大な太陽が揺らめき沈んでゆく。

 また、代わり映えのない、新しい生活が始まる。

 わずかばかりの関心も消え失せたらしい者たちは、各々へ与えられた役割をこなすだけの動作へと帰ってゆく。

 戦うことは、好きでない。私は自身の感覚で以って、自分自身へ対しそのように主張する。

 だが、みなはどうなのだろうか。ここでひたすらに長物を振り回している者たちは、朝も夕もなくそうしている。かれらは楽しんでいるのだろうか。そうは見えない。一時期を人間社会で過ごしたがために、私は、同胞らの感情表現の希薄さを知ってしまった。

 飼われる家畜でさえ、餌の時間には興奮して見せるだろう。屠殺に引かれてゆくのに、泣き叫び抵抗するだろう。

 私は、同族がそのような姿を見せる瞬間に、出会でくわしたことがない。

 とはいえ、とやかく言う私とて、人間の社会においては『得体の知れぬ者』であったし、その由縁の多くを占めていたのが無感動さであったことを、指摘されたがゆえに自覚している。

 さて、この地への滞在が決まったなら、これ以上に斧槍を振るっていたいとは思わない。里の隅にでも場所を確保し休もうと考え、周囲をあらためた。

 若い者が、食糧となる獣に餌を撒き与えていた。成体ではなかろうが、幼体でもない。半竜人としては線の細い肉体が、景観に不釣り合いだった。

 あの年頃ならば、戦闘訓練に従事しているものだ。であれば、身体は自ずと発達した筋骨を獲得する。あの痩せた姿はどういうことなのか。足元に群れる大ネズミに干し草をかぶせ、呑気なものだ。

「あれは不具なのか」

 思わず、近くの者に訊ねていた。問を受けた者は、私の視線の先を追い、そしてわずかに首を捻った。

「雄だろう」

「雄だと」

 耳を疑い、ただ復誦ふくしょうした。

「雌かもしれん。知らん」

 実際に、詳しくは知らぬのだろう。それ以上私の疑問に付き合うことなく、手合わせに戻っていった。

 雄か、或いは雌であると……。付き添いもなく、里の中を一人で出歩いている、あの若者が。家畜に餌をやるなどという、幼児か、戦士を引退した者に与えられるような役割を、宛てがわれているというのか。

 惨い光景を見てきた。まだ、故郷で雄としての役割に従事していた頃だ。出産の妨げになるからと、雌たちは両脚を切断されるものだった。

 それはなぜか。半竜人の不完全な生態に起因する。

 竜人は卵生であり、人間は胎生である。ならば、半竜人はどうなろうか。

 本来は卵生のはずだった。それを、擬似的な卵胎生としている。理由は、雌の骨格だ。雌雄で差が生じない半竜人の体格では、雌は自力での産卵ができない。第三者の協力が不可欠だが、未完成のものが入った薄い膜の卵を、乱雑に扱うことはできない。ゆえに、中のものがおおよそ完成するまでの二年間、腹の中に留めておく。そして時期が来たならば、卵膜を破き、赤子の腕なり脚なりを掴み引きずり出す。

 自力で出せぬのだから、力を込めるための脚は不要。却って、苦痛に暴れる両脚は手伝う者にとって邪魔でしかない。

 道具なのだ。道具であるならば、利便性と効率の高さを求められる。

 あれが当然だった。雌たちとて、脚を失うことに抵抗するようなことはなかった。

 私も似たようなものだ。薬に漬けられ、日々朦朧と鎖に巻かれて宙に揺れるだけの、肉塊。

 道具としての雌雄しか、私は知らない。だが、自分の脚で歩くことが許された個体――。

 どこも同じだと思っていた。だがこのクランは、なにかが違うのだろうか。

 沈みきる間際の太陽が、ひときわ激しく煌めいた気がした。

 里の端で一夜を明かし、また演習場へと向かう。夜通しに闘い合っていた者たちが、入れ替わりで休息を取りに立ち去る。

 なにを食う必要もないが、水だけでも含んでおこうかと井戸を探す。その道すがら、昨日の若者が視界の隅に映り込んだ。格子柵に囲われた大ネズミの小屋に、枯れ草を抱えて入ってゆく。

 あれは雄だと言われた。だが、やはりにわかには信じがたい。

 立ち止まり、その子を見ていた。ふと上がった視線が、私のものと交わった。

 あの子は、私に関心を抱くだろうか。試すような心境だった。私はそこを動かずに、ただ若者の瞳を見続ける。

 やがて、視線がそらされる。小屋の汚物を外に蹴り出す姿が、やけに幼い仕草に思えた。

「なにか用か」

 作業を終えたらしいかれは私に向き直り、訊ねてきた。

 用――、というわけでもない。ただ、私はこの子に興味があった。それだけだ。

 距離を詰めてみる。

「君は雄なのか」

「さあな。見込みがあると言われて育った」

「まだ成体ではないのか。何歳だ」

「三十年は生きた」

 三十年程度の成長具合では、まだ判断しかねる場合も多いと聞く。断言できぬのは妥当なのだろう。

「名はあるか。私はレイアスというのだが」

 自分の名を口にしたのは、いつぶりだろうか。捨て駒の命に、逐一名が与えられることはない。名を持っているということは、すなわち、過去に保護下に置かれていた者であることを示す。この若者は、そういった慣習を知っているのだろうか。

「ベーラムと呼ばれている。なぜ訊く」

「里の中とはいえ、一人で歩き回っている雄や雌は見たことがないのでな」

「普通じゃないのか」

「多くのクランに立ち寄ってきた。だが、家畜の世話などをしている雄を見たのは初めてだ」

「おまえは、他のクランから来たのか」

 若者――ベーラムの金の瞳が、瞬いた。驚いたように――わずかなりにも、心を打たれたかのように。

 その反応に、背後から心臓を刺し貫かれるような衝撃を覚えた。

 育まれることはなく、だが失われたわけでもない『情緒』というものが、この子には在るのだ、と。

 生きた心地とは、こういったものなのだろうか。長い放浪生活だった。私は既に一世紀ほども生きた。だが、無垢な感情らしきものを同族から見出したことは、これまでになかった。ただの、一度たりとも。

 人間も、竜人も、子供は『愛』というもので守られながら成長するらしい。子を守る親の姿を、この目で見たことがある。我々が食うために狩る生き物たちも、成獣は小さきものを逃がそうと、足掻いて見せる。それが、子を守ろうとする親の姿なのだろうかと、奇妙さを感じるのと同時に感銘を受けたのだ。

 私も、親だ。しかし子の姿は知らない。何者かの親である実感もなければ、この身を盾にして護ってやらねばならぬ存在とも思えない。私の子らは全て、既に成体となって久しいはずなのだし、己の身は己で守るのが道理だ。

 だが、親が子に対して抱く『愛情』というものは、そのような理屈の通らぬ衝動に近いものなのやもしれぬ。

 私はやはり、そういったものを知らず、想像すれど理解が及ばない。“半竜人なのだから”。別段、思い詰めるようなことでもなかった。

 だが、なぜなのか。私は今、そんな己をひどく不甲斐なく感じている。

 このベーラムという子に、なにかをしてやらねばならない。

 なにか――。

 私は『なにか』というものを、なにひとつとして知らぬ。

 名を明かし合ったとて、縁もゆかりもない者同士だ。立場が違えば役割が異なる。私は日々、戦士として過ごし、ベーラムは身が成るまで不具の者らと同様の生活をする。

 互いに意図して交流を求めない限り、その機会というものは得られない。だが、求めれば得られるという現状は、かれがまだ未熟であるがゆえのものであって、いずれはなくなる。

 私は、あの子に関心を持ったのだ。あの子もおそらく、僅かであれど私に関心を持っただろう。

 しかし、会話というものはあれきりだ。そのままひと月が経過する。関心はあれど、用件はない。

 さほど広い集落ではない。唯一の井戸に向かえば、おのずとその姿が視界に入る。不意に足がそちらへ向きかけるのを、はて、と思い留まる。行ってどうするのか、と。

 それを繰り返す日々。かつて生まれ育った里に火を放ったとき、この頭と、胴体の内側を荒らし回っていたなにか。それを薄く希釈したようなものに、また内側を荒らされるような心地がした。

 その『なにか』には、人間がつけた名があるらしい。例えば――、

 もどかしさ。不甲斐なさ。苛立ち。悔しさ。虚しさ。遣る瀬無さ。

 などと呼ばれるもの。そしてそれらを、深井戸の底に押し込め、腐り、溶けて、混ざりあうまで放置したならば、この形なく淀んだなにものかを形容するにふさわしいものへ、成り得るやもしれない。

 そしてまた、ひと月か、ふた月が過ぎた。そのような、明くる日。

 朝方に、みなが集まっている場所に顔を覗かせれば、なにやら珍しくざわめいていた。

「なぜそいつを行かせた」

「足場が悪かった」

 戦士と、片脚の不具者が言い合っていた。

「なにがあったのだ」

 誰にともなく尋ねれば、互いに顔を覚える程度にはなった同胞の一人が、応答した。

「家畜を捕らえに行ったまま、戻らないらしい」

「誰がだ」

「幼体の雄だそうだ」

 幼体――、かはさておき、雄と聞いて真っ先に私の脳裏に浮かんだのは、ベーラムだった。昨日は姿を見ていない。この場にも、いない。

「探すのか」

「だろうな。雄が一体消えては困るだろう」

 そういうものだ。戦士が何体死のうと、歯牙にかけることなどない。一方で、増やす能力を持つ者の命は、決して無駄にはしない。その、無駄にはできないと厳重に護られた命から生まれた命を、我々の社会は当然のごとくに無碍にする。

 両脚を斬り落とされたまま、二百年もの成年期を、ひたすら同族の補充活動に従事する者の姿を、私は知っている。

 役割というものは、必要だ。それは理解している。ただ、誰もが等しく『個の生命』を尊重しようとしない現状が、私には不快でならなかった。

 保護下にあれば命は護られるが、戦えば命は危うい。致し方がない。だが、己の命を惜しむという程度のことが、こうまでも許されないものか。同胞の――仲間の死を悼むという慣習を、誰も築こうとしない。――私も含めて。

 私は、同胞を死なせるための役割に従うのに、嫌気が差した。死なせるための命。それを増やすために生きているという状況が、心底恐ろしかった。

 あの子は、己の役割についてどの程度思考を巡らせているのだろうか。生まれたときから隔離されてきた私とは、違う生活を送ってきた若者。あの子はもしかしたら、私よりもずっと早い段階で、自己に求められる役割の矛盾といったものに、思い当たったのやもしれない。

 ならば、追いたくはない。

 だが、輪の中心から上がった言葉に、私の悠長な考えは打ち砕かれた。

「訓練を受けていない者では、野獣に喰い荒らされて死ぬぞ」

「我々を喰えるような獣がいるのか」

 口を出していた。黄金の視線が私に集まる。間もなくして、ああそうか、こやつは余所から来た者だった。というような得心の気配が漂った。

「この辺りには、肉食の巨大獣がうろついている。力もそれなりだが、爪と牙が厄介だ。戦闘訓練を受けた者でも、単独ならば武器を持っていなければ倒せんだろう」

「居場所の目星はついているのか」

「谷の先に家畜が逃げたと言うから、見送った。それきりだ」

 不具の者が、指の欠けた手で地平の先を示した。

 私は駆け出した。この勝手を咎める者はいない。おそらく、話がつき次第、他の者たちも行動を始めるだろう。貴重な存在だというならば、見殺しにはすまい。

 誰よりも早く、見つけねばならない。意図して逸れたにせよ、そうではないにせよ、話に聞いたような環境に戦いの術を知らぬ者を独り放置するわけにはいかぬ。

 そしてもし、意図してクランを離れようとしたのであれば――。

 共に逃げよう。何処へなりとも。今の私ならば、一人を守り過ごすくらいのことはできるだろう。否、やってみせよう。

 かつての私とは、違う。右も左も覚束ず、棒きれのような脚で荒野を彷徨い歩いた私とは。あのとき味わったような心地を、あの子まで味わう必要はない。

 果たして、私ごときになにができるのだろうか。なにをしてやれるのだろうか。思い浮かぶことはなにもない。

 だが、『独りでない』という意識は、おそらくなにかしらの変化をもたらしてくれるだろう。そう思ったのだ。

 踏み出す度に、荒野の砂が舞う。

 谷の先、という言葉を頼りに、近辺で唯一の峡谷へと向かう。

 古からの河の流れが、数百フィートの深部へ至るまで、大地の肉を切り込んだ場所。いっそ少なく見える水流が、下方で濁っている。心もとない吊られた橋の老朽は激しく、崩れ落ちそうだった。しかし、やむを得まい。この辺りの地理に疎く、他に対岸へと渡るすべを知らぬ以上は。

 錆びた鎖を掴み、遥か下方の、赤褐色の濁流が覗く足場を踏む。

「ベーラム」

 試しに、叫んでみた。返答はない。また一歩先へ踏み出す。

 足場が抜ける。反射的に後ずさる。先は長いというのに。

 竜人の翼があれば、この程度の大地の割れ目など、あそこに見える丘から滑空して渡れるだろう。人間のように軽い体ならば、この脆い橋もいくらかは持ち堪えるやもしれぬ。半竜人とは、つくづく半端な生き物ではないか。

 などと、己が属する種族の身体特性に苦言を呈している場合ではなかろう。ここを渡りきらねばならない。

 ようやく半ばを過ぎた。この橋が、あと何人もの重量に耐えられるとは思えない。そもそも、長らく使われてもいないようだ。やはり別の、主要な道程があるのだろう。

 足場を確かめるべく下を見続け、時折あとどれほどかと前を向く。幾度目かの繰り返しの途中で、地平線の彼方に動く影を見た気がした。

 目を凝らす。生物が動いているのであろうことは判別できる。だが、若年期の暗所での生活と、幻覚作用をもたらす薬剤の継続使用が影響したのか、私の目は、半竜人の戦士という立場にある割には、幾らか機能が劣っていた。五マイル約8kmも離れれば、動く生物の正体を判別することは難しい。

 凝視して、一瞬焦点が合ったとき、それが二足で走るものだと理解した。

 足場の不安定さを忘れ、踏み込んでいた。背後で錆びた鎖が砕ける音が鳴る。次いで、浮遊感。

 まずい、と思うよりも、本能の判断は早かった。落ちかかる足場を谷底へ蹴り落とす代わりに、跳躍する。

 対岸までの距離が、残り僅かであったのが幸いだった。やがて足裏が岩の大地を踏みしめた。崩れた橋は大気を切り裂き、岩壁と衝突し粉砕される。残骸は赤い濁流へと呑まれてゆくのだろう。背後の騒音を耳におさめつつ、振り返らずに前へと走る。

 なにかに追われ、駆ける半竜人の影。まだ顔が確認できない。だが、確信していた。

「ベーラム」

 再度、叫んだ。生涯で最も巨大な声が出ていたやも知れぬ。

 振り向いた顔貌を、心もとないこの両目がようやくとらえた。そこにあったのは、恐怖。刹那わずかに滲み出た、希望の気配。

 獣の巨大な爪が、ベーラムの背に掛かった。引き倒され、伸し掛かられる様子が見える。

 未だ二マイルの距離がある。既に見えているというのに、あまりにも遠い。

 私の投擲が届くのは半マイル800mからだ。それまで耐えてくれと願う。

 首に迫る牙に、血を流す細い腕が抗っている。

 まだ射程に入らない。だが、時間がない。標的は巨大だ。当たらずとも、気が逸らせれば良いのだ。一か八か――。

 全速で進ませていた脚を止め、投擲する斧槍にその反動を乗せる。

 高く空へと昇っていくのを追い、再び走る。弧を描き昇りきった斧槍は、一瞬宙で静止したように見えた。直後、加速し落下を始める。

 狙い通りだ。よく飛んだ。

 巨大獣の背後に、轟音が落ちた。驚愕のままに首を振り上げた獣は、牙の外れたベーラムを容赦なく放り出す。

 たしかに、恐ろしく強い獣のようだ。この一帯に、あの種の敵となり得るものは我々以外には存在しないだろう。

 走り込んだ先に落下してきたベーラムを保護した。見上げてくる金の瞳に浮かぶのは、明確な動揺だった。

 私は、その表情に安堵した。

「待っていろ。始末する」

 抱えて逃げるにも限界がある。橋は崩してきた。手当をする猶予が欲しいのならば、この獣を殺すか、追い払うかせねばならない。

 荒れた大地にベーラムを座らせ、状況を把握したらしい獣に向かう。武器はあやつの背後にある。私の背後にはベーラムがいる。殺すのならば武器を取り戻さねばならないが、この野獣はそう易々とは隙を見せぬだろう。ならば、素手で抗うしかない。

 比較的軽量な個体とはいえ、半竜人を放り投げることのできる顎。噛まれれば一溜まりもなかろう。四脚から生えた爪の鋭利さ、その前足の巨大さ。全てを総括する体躯は、私よりも巨大だ。後ろ脚で立ち上がれば、私のことも頭から喰ってしまえるのだろう。

 唸る獣は、即座に私へ襲い掛かろうとはしなかった。存外に思慮深いのか、或いは本能がそうさせたのかは不明だが、都合が良い。

 敢えて体勢を低める。大きく見せようとしたところで、この巨大獣に敵うはずもない。ならば喰らいつく意気を示すべきだ。

 意気というものは、ときに実力を超えた姿を相手に示すことができるようだ。この獣に、この身が優る点は何であろうか。巨大な牙は持ち合わせていない。こうまでも鋭い爪もない。重量でも敵わぬ。発揮できる膂力と敏捷性であれば、渡り合えるやも知れぬ。せいぜいその程度だ。

 だが、一つこの獣が持ち合わせていないものを、私は持っている。自由に動く両腕だ。この腕で、お前の首を絞め上げる。その牙も、折ってやれる。掴み掛かろうというのなら、前脚の節を砕いてやる――。

 気の抜けぬ威嚇を続ける。次第に獣の脚が後退りだす。もう幾らかだ。すれば私は刃を取り戻し、即座にお前の頭蓋を叩き割って殺す。

 獣が退がれば、その分距離を詰める。だが、やつの視界に私の武器が映り込んだであろう瞬間、

「ギャウ」

 と声を上げ、身を翻し走り出した。

 逃がすのが得策とは思えなかった。あれは冷静さを取り戻せば、戻って来る。

 硬い大地に突き刺さった槍部分を引き抜き、獣を追う。四つの脚を持つ獣は、柔軟に体躯を伸縮させ、跳ぶように駆けてゆく。長い跳躍を繰り返す走りだ。距離がかさむほどに、こちらが不利になる。

 見逃すしかなかろうか、と私が僅かに逡巡した瞬間、獣は我に返ったようだった。着地した大地を爪で削りながら前進の勢いを殺し、反転させた体で突進してきた。

 息を止め、斧槍を構えた腕に力を込める。勢いづいて迫る獣との距離をはかり、飛び掛かってくる力を返戻へんれいする。前脚の爪が届く寸前、眉間を狙った槍の先端は、厚い骨を砕いて深く突き刺さった。

 喰い付くことの叶わなかった、開かれた顎の奥から、熱い臭気がはなたれる。両手に力を込め直し、食い込ませた刃を抉り、引き抜く。鼻から血の泡が吹きだし、頭蓋に空いた穴から血が溢れる。大岩のような体躯が倒れると、その血に混ざり白い脳が零れ出た。

 しばし痙攣した後、獣は息絶えた。

 ようやく、ベーラムの手当に取り掛かれる。引き返せば、座り込んだかれの爛々とした瞳が私を迎えた。

 力なく垂らされた両腕の肉はひどく抉れ、骨が覗いている。

 さて、どう処置したものか。骨が無事かどうかは二の次だ。まずは、止血と傷口の保護。獣に噛まれたのだから、まずは洗い流してやるべきだろうが、このあたりに水場はなさそうだ。

 背に装着していた外套を、手頃な幅に引き裂く。厚い生地では小回りが利かないが、この悲惨な傷を覆って留めるならば丁度良い。

 ベーラムはされるがままに手当を受けている。相当痛むはずだが、表情はどこかに置き忘れたかのようだった。自力で腕を動かそうとする気配はないが、時折反射かなにかで手先が跳ねる。重要な筋などを切っていなければよい。

 黙々と、傷を布で覆い固める。包まれていく腕を黙って見つめていたベーラムだが、やがて小さく呟いた。

「おまえは強いのか」

 と。

 同族と比較して、自分がどの程度の位置にいるのか。おおよそ、並より使える力が強いことは自覚しているが、せいぜいその程度だろう。

「訓練を受けてきた者としては、相応だ」

「あんな闘い方は知らない。見たことがない」

 それは、おまえが戦士らとは別の世界で生きているからだ――、と返そうとしたが、思い留まった。

 敵に対して、ああいった威嚇をする半竜人は、たしかにそういなかろう。私はあの威嚇に、己の感情らしきものを乗せたのだから。

 返答に窮する。

「なぜ助けに来た」

 ベーラムは話題を変えた。この子は存外、口数が多いのやも知れぬ。

「みなが、お前が戻らぬと言って集まっていた。じきに他の者らも来るだろう」

「家畜は逃がしてしまった。たぶん、あの獣あたりが食ったと思う」

「そうか」

「わざわざ来る必要はなかった」

「どういう意味だ」

「食い物は逃がした。ぼく一人を助けるために危険を負う必要はないだろう」

 この子は一体、なにを曰うのか。腹の中で炎が燃え上がりそうになるのを抑えつけ、至極冷静を装った。

「馬鹿を言うな」

「ぼくが雄だと聞いていたからか。この前、見込みはないと言われた。もう役割から外されるところだった」

「そうか。だが関係ない」

 話の流れが速く感じる。気の利いた相槌が打てない。

「だから、おまえと同じなんだ。ぼくも、これからでも強くなれるのだろうか」

 同じ、という言葉。処置の手が一瞬止まった。

 同じなのだろうか。私は自身の経歴を偽っている。この子とは違うのだ。

 だが、そうではないなにか――、私が感じ続けてきた居心地の悪さというものは、常に私一人のものであった。

 同じなのか。この世界に、それは存在してよいのか。

 私はただ、この身の内を食い荒らし続けてきた黒く重い『なにか』を――、それと同じか、似通った『もの』を、飼っている者に出会いたかった。

「強くなって、どうする」

 尋ねた。強くなったところで、なにが変わるわけでもない。現に私は強くなったが、それだけだ。生産するための命が、消費される命に変化した。反対の立場のようであって、その根本は同一だ。正体の不明確なものに、支配されている命に過ぎない。

 私は一体、どのような返答を期待し、問うたのだろうか。強くなって、どうする。私自身がその問いに答えられないというのに。話を変えねばなるまい。

「お前は、この後どうするつもりでいたのだ」

「獣に喰われると思っていた」

「そうではない。クランでの立場が変わるということは、苦難の経験となるだろう。誰も、戦士となるお前を育てはしない。お前が自分自身で育つしかない。その過程で、大半は死ぬ。幼少期から小さな経験を積み重ね育ってきた連中とは違う。だが、その点を考慮はされない。おまえは成体の戦士としての能力を、即座に求められる。それができるのか」

「おまえは、やっただろう」

「いや。どうしたいのか、を訊いている」

 ベーラムが口籠る。問いの意味を咀嚼している。酷な問いだと、私とて理解している。

「クランを離れる気はあるか」

 ここまでやって来たのだ。いっそ、単刀直入に尋ねてしまえと、言葉にした。この子がただ、家畜を追って逸れただけであるのか、確かめねばならない。あわよくば、私の期待に添う答えが、得られぬものか、と。

「おまえは他から来たと言っていたな。なぜだ」

 問いで返される。私は巧みな話術など持ち得ていない。相手もそうだ。私が口にした言葉の奥にある意図を汲み取るような習慣を、持っていない。本質を突かなければ、通じ合うことはない。

「嫌気が差したからだ」

「どういう意味だ」

「居心地が悪かった。だが、どこに行っても変わらない」

「なにがだ」

「お前は感じないか」

「分からないな」

「本当に、そうか」

「おまえが言うことは難しい。よく意味が分からない。ぼくはクランを離れる気はない。死んだらそれまでだろう」

「そうか」

 勝手に期待をしたのは私だ。ベーラムには、私が思ったような動機などなかった。ただ、それだけのこと。

 だが、それだけのことに、ひどく打ちのめされた心地がした。

 ベーラムの案内のもと、三日掛けて峡谷を迂回し、里へ送り届けた。

 結局、あの後私に続きベーラムを探しに出た者はいなかったらしい。それはつまり、あの子が言ったように既に保護すべき個体と見なされていなかったこと、そしてそれが周知されたということを示していた。

 ベーラムを追っていった余所者の私を、里の者らはどのように思ったろうか――。

 どうも思っていない。帰ったとて別段歓迎もされなければ、非難もされない者を、連れ帰ってきた者。ただ、その事実だけだ。

 傷への処置は願わずとも為されている。

 戻らずとも、戻れども、どちらでも構わない。だが戻ってきたならば、貴重な資材を割いて治療をする。

 誰を優遇するわけでもなければ、当然虐げるわけでもない。ただ、命がそこにあるか、否か。

 思えば、私もかつては負傷ばかりをしていたが、役立たずだと死を待ち望まれることは決してなかった。

 平等かつ、公平。この上もなかろう。かつて人間社会で見てきた光景――あの中で、虐げられる者達が求めていた在り様が、これではないか。

 理想の形だ。はじめから、私のもとに在ったではないか。

 なぜ、気づけなかったのだろう。

 ベーラムの傷が癒える頃、私はクランを出た。行く宛は決めていた。

 あの日、地平線に沈む太陽に呑まれていった故郷。この手で放った炎が、数多の命を焼いた。

 捨てられた街。半世紀以上の時を経て、風化し、崩れ落ち、繁栄の面影が失せた姿。

 かつての私を知る者は、全て焼け死んだ。

 おそらく私は、なにかが変わると思っていたのだ。変えられる――、変えなければ、と。

 だが、願望とは虚しいものだ。期待とは苦しいものだ。

 疲弊していた。他者との溝を認識し続けることに。己の感覚を異常と理解しながらも、それが特別なものと自惚れて抱え続けることに。

 長らく誤ってきた。人類が求める理想郷とは、我が種族が築いてきた社会であったというのに。誤った発想で同族を殺め、一つの理想郷クランを崩壊させた。

 大罪人の私を、誰も断罪しない。同族殺しの殺戮者にも、同胞らは関心がない。せいぜいが半世紀前の出来事である。我々長命の種にとっては別段長くもない年月。生まれた子が成体となり、置かれた環境にいくらか慣れ始める――、その程度の時間である。

 灰燼と化したクランは、近隣と合併したと聞いている。

 里を留守にしていた戦士たちは生き残った。戦地から帰還したとき、燃え尽きた故郷を見て、かれらはなにかを思ったろうか。

 残骸の地を後にする。私の故郷はこの世界から消えた。だが、帰るべき場所は残されている。

 己の狂いを正す時が来た。随分と、遠回りをしたものだ。

 雄であることは、自己にて申告せねばならない。

 だが、かつての故郷を取り込んだ新生のクランにおいて、増殖の役を担う者の管理は、徹底していた。

 私は己の手脚、眼球、声帯を放棄する覚悟を、すぐさまには持つことができなかった。

 あの徹底ぶりというものは、かつて私が逃亡したことに起因するのだろう。私のみが消えたわけではない。他の貴重個体をも巻き込んで消し去ったのだから、二度を繰り返さぬよう対策をするべきだ。

 このようにした責を、取らぬでどうする。早々に種へ身を捧げよ。それが最低限の筋というものだ。

 分かっている。が、恐ろしいのだ。

 ゆえに、先延ばしにした。その覚悟が決まるまで、戦士として過ごすと決めた。この狂った頭が矯正されれば、抵抗感など消えるだろう。みなと同じくなれるだろう。

 己の変化を期待し、しかしその時が来ることを忌避していた。

 あの様になるくらいなら、死を望む、と。

 そういった考えが、常に頭の片隅に居座り、消えない。

 私は責任を取らねばならない。私はああなるのが恐ろしい。

 誰か、私を殺してくれる者はないか。戦場で、敵とされた同族の群れに無謀に突撃し、何者かがこの身を屠ってくれることを願えど、叶わない。私は自己が強くなりすぎていたらしいと、このときになって自覚した。

 自らつくり上げた窮地で負った傷も、せいぜい半月もすれば完治する、その程度のものだ。

 今日こそは、死を。そう祈り覚悟を決めても、日の終りには相変わらず生きている。

 早々に申告せねばならない。いや、したくない。なぜ死ねぬのだ。

 己の狂いを正そうと考えた。だが、このありさまだ。

 筋金入りの気狂いだったらしい。己自身に心底失望した。結局、私は己に与えられた役をこなすことのできない塵芥。否、それでは飽き足らない。同族を焼き殺し、叩き潰す殺戮者――禍災だ。

 そうして申告ができぬまま、戦士として一目だか二目だか、それ以上だか分からぬ程度の目を置かれるようになり、幾年月。

 未だそうしているのか、と、冷ややかな己が日々私を観察していた。

 まあ、そろそろどうでも良くなってきたさ。今なら、手脚でも目玉でも声帯でも――、構わんか。

 どうやら、喧しい自我がようやく疲れ切ったらしい。もう起き上がることはなかろうが、機は早々に活用せねば。

 日暮れの街を、雌雄の保護施設へと。なんとも軽い足で向かっていた。

 その道中のことである。人間に遭遇したのだ。黒い外套に身を包んだ、小さく華奢な影は、決して半竜人のものではなかった。

 なにごとか。なぜ、ここに人間がいるのか。

 建築の規格に合わぬゆえに、その小ささが際立っていた。異様な光景に、軽快であった足が止まり、竦んだ。

 夕暮れに向かう空を背景にした人間が、振り返る。白い顔。

 おそろしく、白い顔をしていた。老人のような白髪が、その白い顔に掛かっていた。白い前髪の奥に、紅と、蒼が煌めいていた。

 子供だ。人間の子供のような姿をした、なにか。或いは、私が知らぬだけで、こういった姿形をした人種というものがあるのか。

 いずれにせよ、この場にいるはずのないものだ。半竜人の街に、人間の子供が紛れるなど、一体なにごとか――。

「きみ、他人のことを言えたものじゃないだろうに」

 子供が呟いた。かすかに笑いを交えながら。高い割に、老齢者のような落ち着きをまとった声だった。奇妙な――美しい声だった。

 彼――、だか彼女だか判らぬが、その子供は外套を翻し、こちらへ歩み寄ってくる。

 はて、ああ、先のは私に対する発言だったか。

 どうにも、この子供が纏う空気感とでもいうのか。それが、この周囲を私の知っている場ではないものへと、変えているような感覚がする。

 足場の定まらない心地だ。言い様のない不安感と安堵感が混ざり合っている。

「やっと、だ。みんな気づいてはいたのだろうけれど、わたしのために立ち止まってくれたのは、きみが一人めだよ。随分前からここにいるんだけれどな」

 私の前に立ち、見上げてくる人間の子どもの顔貌の、なんと美しいことか。私は美醜には疎い。興味がない。人間の容姿など、どう評価されるものか知れない。だというのに――。

 ふと、子供の背後に月が昇っていることに気づく。先までなかったではないか。時の流れとは、このようなものであったろうか。

 ただ漫然と日々を過ごし、一世紀と、幾年か。何千、何万と、月日を眺めることもなく、それらが頭上を過ぎてゆくままに生きてきた。

 星が霞んでいる。月光とは、改めて思い返せば大したものではないか。昼の光に惑い、失念していたようだ。夜を照らす光は、さして淡くもなかろう。街を一つ燃やした炎とて、彼方の岩山を照らすことはなかったのだから。

「きみ、何処へゆくつもりだったのかな」

 見上げてくる、紅と蒼の宝玉。何処へ――、なにを――。

「役割を果たしに」

「へえ。それは、誰が決めた役割なの」

 誰。誰が、と。

「知らん」

「では、契約というわけではないのだね。例えば、いま、わたしがきみに契約を持ちかけたら、それは役割よりも優先されるのだろうか」

「他を当たれ。人間に使われるのは私の負う役目ではない」

 現実が戻ってくる。言い捨て、立ち去ろうとした。

「そうか。人間にとっては、きみがこの社会で従事するべき役目なんてもの、どうだっていいのだけれど」

 横を過ぎる瞬間に掛けられた言葉。それを紡いだ声音の背筋の凍るような冷酷さ。

 瞬間、沸き立ったものがあった。思慮する間もなく、それは噴きこぼれた。

「貴様らは、我らを道具としか扱わぬ。壊れればそれまで、塵芥同然のモノだ」

「ほう。それは、誰の怒りだい」

 誰。また、誰か、と。

 くだらぬことを訊くものだ。人間など解ったものではない。まして、子供など――、

 ――はて、誰の怒り。

「きみの怒りなのかい」

 背後からの声音は、先の冷酷さが幻であったかのように、穏やかなものだった。

 人間の子供は、立ち止まったままでいる私の前に、回り込んできた。そうしてまた、二色の瞳で見上げてくる。

「わたしは人探しの途中でね。ここに立ち寄ったのは、まあ、社会勉強とでも言おうかな。誰か、身を守ってくれる者はいないかと思うんだがね。この見目、奇妙だろう。奇妙なんだよ。とても目立つし、不気味がられる。それに、わたしは昼に出歩けないのさ。陽の光に当たれないのだ。だから、夜に行動したい。夜目が利く護衛がいい。ついでに、話し相手になってくれると嬉しい。この見目を恐れないことが第一だろうがね」

「人間の容姿に興味はない」

「おお、ならちょうどいいじゃないか。報酬は後払いでいいかな。いまは、あまり手持ちがないからさ」

「同行するとは言っていないが」

「してくれ。頼むよ、この通り」

 と言って、白い人間の子供は、額の前で両手を合わせるという、奇妙な動作をした。

「なんだ、それは」

「わたしの生まれたところでは、人に頼み事をしたり、感謝をしたり、謝罪をするときにこうするのさ」

「それを私にするのか」

「頼み事をしているのだから、当然だろう」

 頼み事、だと。命令ではなく。

 奇妙な事ばかりを言う子供だ。先ほどから声音を変えたり、態度を変えたりと、掴みどころがなく、まるで馴染める気がしない。よもや、不気味に思われるというのはその容姿に理由があるのではなく、こういった得体の知れなさにあるのではなかろうか。

 月が高く昇ってゆく。

 時間というものは、このように過ぎてゆくのであったか。日が昇り、落ちてまた昇るのを体感することだけが、時というものの基準であった。どうやら私は、随分と大まかなものとしてとらえていたようだ。

 なぜ、私はここにいるのだろうか。なんの必要があり、誰に頼まれ、或いは命じられたのか。ただ私は、この社会の在り方に従わねばならぬと考えた。誰が、私に命じているのだ。

「わたしと共に、自由を知ろう。この旅は、我が友――、或いは兄、父やも知れぬ師――、知恵と魂を共有する者が、その身体と地位を代償にし、わたしに与えてくれた機会だ。わたしはこの道中において、獲得せねばならぬものが多くある。そうさ、きみたちの過去と現在を知り、創造する未来を空想することも、――まあ、役割だと思っているよ。これは、わたし自身が、わたしに課したものだ。誰に強いられたわけでもなければ、たとえ誰かにやめよと命じられようとも、やめぬよ。これは、わたしの信念だからね」

「信念」

 人の子の言葉は、ひどく具体的でありながら、本質を掴めぬ曖昧なもので、私には半ばほども理解が及ばなかった。だが、最後の一言は、緩やかにこの身の内側へと入り込み、明確に輝いた。

 信念。ああ、そうか。私へ、私の生き方を強制していたものは、私自身だったのだ。この社会が形作る枠組みの中に生まれたが、その枠から一度抜け出した時点で、私は常に自由だった。だが、自由の心許なさと孤独に耐えられず、再び枠の中へおさまろうとし、しかしそれもまた窮屈で仕方がなかった。

 私に命じられるのは、誰か。それはいつも、私自身にほかならなかったのだ。

「さて、わたしの頼みを引き受けてくれるだろうか」

 再度の問い。

 選択の権利は、私に在る。

「――よかろう」

「おお、助かる。きみ、名はあるのか。最近知ったのだが、呼べる名があると便がいいのだよ」

「レイアス」

「ほう、なかなか良い響きだな。どういった意味があるのだ」

「意味はなかろう。お前は」

「わたしの名前かい。ややこしいものでね、『ヴァイス』とでも呼んでおくれ」

「ヴァイス、意味はあるのか」

「うむ、わたしが生まれた地方において、一般的に使われている言語で、古くは『白いもの』を指して表する言葉だったそうだよ」

「お前にふさわしい」

「いかにも、見たままさ」

 黒い外套に隠れた両腕を広げ、子供は声を上げて笑った。その軽やかで、淑やかでありつつ陽気な声に、固い心臓が緩んだ気がした。

 宵の地平に向かい歩き出した小さな背を、追う。長い白髪が、月光の端切れのようになびいていた。

 私は許す。私が属し続けた社会が私に求めてきた役割を、放棄する。

 そして――、同胞らの生きるすべのうちへと、呈することのできるものを見つけたい。

 今この瞬間より、私は己の役割を、“それ”と定める。

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