掌・短編集
黒衣の聖者
澄んだ青。深い空。あちら側へと落ちる錯覚。
忌々しい蒼。私の世界は黒く濁る腐った血の色をしているというのに、私以外の世界は清々しいほどに蒼かった。
太陽の無遠慮さ。おしつけがましい光。それをさも当然のように、心地よさげに受け取っている人々。
憎らしくてならない。私の目には、朗らかな娘の幻影すら見えぬというのに。まぼろしでも良いから、私の元へ現れてはくれまいか。幾度も願ったが、あの娘は私のところへ訪れてはこない。
午後過ぎの教会堂へと足を運び続けた。私に救いが欲しいのではない。私には必要ないものである。死に追いやられた私の娘の、魂の安寧を求めてここへやって来ている。
しかし、神は微笑むそぶりを見せない。かれはいつだってそうだ。大理石の瞳はこの世の全てを見渡しているようで、その実はなにも見ていない。
そして、かの英雄王は瞳を閉じている。
ファーリーン王家より分かたれた家系に生まれ、またヴィオール大公家の血を有するこの身は、英雄王の一族と神族の流れを汲んでいるはずなのだ。端くれといえど、私の祖はたしかに『かれら』であるはずなのに、その『かれら』は私のことにも、私の娘のことにも関心がないらしい。
私はかれらに請い続けたが、応えがないばかりなので、やがて虚しくなり、悲しみを覚えた。そればかりか、娘の死に様を幾度となく記憶の世界で見せつけられ、激昂ののちに悲哀へと落ち着いた感情は、ふたたび怒りへ変わろうとしている。
総司祭長が、不安げに私の背を眺めていたのを知っている。彼は私の娘のため、共に祈り続けてくれた。しかし、彼の言葉であっても気休めにはならなかった。渦巻く主への不信感が、私の意思――理性に反して、彼の言葉を拒絶するからだ。
私はどのようにしたなら、何も応えることのないかれらを受け入れることができるのだろうか。一人きりとなった教会堂の席で深く息をつきながら、壁にそなわる燭台の灯りに目を細めた。
ふと、私は右隣に黒い影をみとめた。人がいる。いつの間にそこへ掛けていたのか、半人分の至近にその人物はいた。
黒い影の人は、白い顔をこちらへと向けた。
「こんばんは。ご機嫌いかが?」
低い男の声だった。化粧を施しているのが薄明かりの中でも分かる。顔を白く塗り、目もとや口もとに黒を差している。服装はひたすらに黒い。黒いローブに黒い靴、黒い手袋まで嵌めて念入りなことだ。腰まで届く長髪も、当然のように漆黒である。
煌めく赫い瞳の色彩だけが、鮮烈だった。
「アクスリーの伯爵様でございますでしょう?」
こちらが応えないことには一切構わず、黒い男は続けた。
私は彼を睨みつけた後、俯いた。不思議とその場を離れる気にはならなかった。ただ、立ち上がる気力さえ失せていただけかもしれないが。
彼は私より十五は年若く見えるというのに、私よりずっと長い時間を生きた老人よりも、もっと長い時間を知っているような、奇妙な落ち着きをまとっていた。その不思議な印象に、どこか惹かれたことは否めない。
「今のあなたには、どんな慰めの言葉も上滑りしてしまうのでしょうね」
青年は言った。私の素性を知る人間などいくらでも居よう。しかし、私の心境をまで知る者は未だ多くはなかろう。
「貴殿はなんだ。私になんの用がある」私は顔を上げずに訊ねた。
「ああ、ええと……」黒い男は言いよどむそぶりを見せてから答えた。「そう、『ノックス』とお呼びくださいな」
「ノックス……。まるで今思いついたような答え方をするのだな」
「いえ、以前からときどきに使っている名です」
男――ノックスはそのように言った。真の名でないことを隠す気はないらしい。
「わけあって真名は名乗れませんが、一応聖職者であるとだけ紹介しておきます」ノックスは笑みを含んだ声で言った。
「聖職者だと?」
「ええ、聖皇教会の司祭。聖皇教とリーン教は勉学者を送り合っています。私もそのうちの一人」
「音や気配を消すのが、随分とお上手なようだが」
私は顔を上げていた。そうして訊けば、ノックスは神像を眺めながらにたりと笑みを深めたが、私の質問に答えはしなかった。無言はそれ自体が返答なのだろう。彼は妖術を扱うに違いないと、私は考えた。
「向こうでは『導術』と言います」
「なに……?」
背筋が冷えた気がした。口に出したわけでもない心中の呟きに、ノックスが返答したようだったからだ。彼はちらりとこちらへ視線を寄越す。
「『導師』が使うから『導術』。分かりやすいでしょう?」そして微笑む。「私のような不躾な術者はそうそう居りませんから、ご安心くださいな」
「……用は?」私は一呼吸ついてから繰り返した。
「お話しがしたくて」
「話すことなどない」
硬質に返答すると、ノックスは肩を竦めた。「『かれら』に面と向かっては言えないような、思いがあるのでは?」神像と英雄像を横目にしながら、ノックスがのたまう。
「なにを」私は頭に血が上るのをはっきりと感じた。たしかに、私はかれらへの不満を募らせていたのだろう。しかし、それを認めるわけにはいかなかった。私が祈ってやらなければ、娘は永劫の苦しみから開放され得ぬのだ。
「己の神へ不満を抱くなとど言うことが赦されるものか。私にかぎって、そのようなことはありえない」
ノックスは私の横顔を見つめていた。そして短く息をつくと、まるで旧知の友を語るような口調で言ったのだ。
「かれはその程度のことで臍を曲げるような玉ではないですよ」
「『その程度』だと……? 貴様――!」
私は反射的に腰を浮かせた。私の娘への愛情を『その程度』と言う。知り合ったばかりの若者が。
「そうです」彼の胸元に掴みかかる私に対して、ノックスは身を引くそぶりも見せず、穏やかな表情を崩さず、確固と肯定した。
「あなたの憎しみごときで、神は怒らない」
重石で頭を叩かれたような衝撃を味わった。それは絶望にも似た感覚。体から力が抜けた。いかにも、私は神に同調してもらいたかったのだ。私と同じように怒り、蛮人共への天罰を与えてほしいと。しかしそれは叶わない。はじめから分かりきったことだ。私は自分の信奉する『神』がどういった性質のものであるのか、幼いころより学んでいたのだから。
賢神であったなら、悲しみに寄り添ってくれたろうか。或いは神子であったなら。
されど天空神は――かれは大いなる時の流れを見つめる。リーンの未来を見据える。かれにとって、我々は同情の対象ではない。それが在るべきとき、在るべき場所へと――。
ああ、しかし! ならば娘の死は! 然るべきものであったというのか!
我が主よ、それはあまりではないか。娘がどんな罪を犯したというのか。無残な仕打ちを受け、悲しみと屈辱の果てに自死を選んだ。そう、あの娘の死は、蛮族の愚行によるものであるというのに! なぜ、あなた方はそうまでも平然としておられるのか!
握りしめた拳を震わせる私の傍らで、ノックスは淡々と言う。
「全てはリーンの為。人の目線では分からないこともありましょう。むしろ、分からぬことの方が、きっと。十年後、二十年後……百年の未来に至って、初めて人は理解できるのかもしれません。いえ、千年経っても理解などできぬのかも」
「人など、過去を己の都合の良いように解釈するだけだろう」
私は、なにもかもに辟易としていた。この世の全てが敵に思えた。人間という生き物への憎しみが、とめどなく溢れてくる。淡い過去も満ち足りた未来もない。私には、憎悪の感情以外になにもない。そしてなにより憎いのは、自分自身に他ならない。
ノックスは私の呟きに微笑を返した。「その通り」そう言って、神像へ向ける眼を細める。「『解釈』こそが救いですから」
その言葉は、不思議なほどに私の腑へ落ちた。異教の司祭の放ったそのたった一言に、私はもう、僅かばかりの気概さえ失った。
「『次元界』という言葉を知っていますか?」
ノックスが訊ねてくる。私はほとんど無意識に首を横に振る。ノックスは口角を一瞬引き上げた。
「そう」そして暫しの沈黙。彼は黒い布に覆われた手で長髪を梳いて、うっそりと続けた。「我々はこの次元界でしか生きられないし、他のことなど知る由はないのです。せいぜい想像するだけ」
赫い瞳がこちらを向く。
目を合わせた瞬間襲い来る、大蛇に巻き付かれたような息苦しさ。噛み殺すような視線を真正面から受け、逸らすことはかなわなかった。
「けれどね」不穏な音響の中で、ひときわ低く響く声。「その想像というものは、ことなる次元界においては現実かもしれない」
昼に見上げた青空のごとく、私はその赫へ引きずり込まれる感覚を覚えた。
呑まれる、と。
しかし恐怖はない。嫌悪もない。後ろめたさもなかった。なぜなら、私が染まるべきは鮮血と鉄錆の色なのだから。私が溶け込む場所は、澄んだ大気と清浄な水に溢れる美しき秩序の世界ではなく、暗く重い、亡者の慟哭がこだまする混沌の世界であると、このとき確信したのだ。
そう、そこに至ることこそが、私の使命であったのだ。私はようやく気づいた。気づいてしまった。いとしい娘の死は、私のためであったのだと。
そして私は神を裏切るように、神の意のままに踏み込む。黒耀の大地へくちづける。降り立ったその場所は、恐ろしく、身震いがした。それほどまでに心地よかった。そこには歪な“愛”がある。私のための“愛”だ。歪で醜い、私にふさわしい。私にとってこの上もなく受け入れ難い、吐き気を催すような醜い“愛”だった。
強烈な目眩のあと、無意識に閉じていた目蓋を開ける。
視界は黒一色に染まっていた。
頭上から『その者』の声がする。
「ゆきましょう」と。
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