――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

偽椿
夏(中)

 キラの左腕が折れてから、約半月。高熱は二日ほど続いたが、その後は常の状態に戻った。自力で起き上がり、用足に動く程度のことはできたが、消耗した体力の回復は覚束ず、仕事を再開することはできずにいる。

 とは言えども、片手が使えず、庇いながらの生活にも、いくらか慣れてきていた。

 しとしと、と。雨音が続くこと丸三日。翌朝、ようやく姿をあらわした太陽は、湿気た地面に、熱い光を落とした。

 輝く露に濡れる青葉。同居人の母子が過ごす、離れの向こう側。広大な庭園の中に、いくつか聳え立つ古い樹木たちのうちの、ひとつが、花を咲かせていた。椿に似た、しかしもっと小ぶりな、真白いかんばせ。

「夏椿、咲いたんだなぁ」

 朝食の席で話題にあがったその樹を、医館の主である双子と、彼らの世話をし世話になっている母子が、並び立って仰ぎ見ていた。

「夏椿。わたし、沙羅の樹だと思っていました」

「別名だ。でも、そっちのほうが、馴染み深いかもな」

「ここのが咲いたなら、大社の方も咲いているかしら」

 低い位置に咲いた一輪の花弁を、ふわりと撫ぜ、サラは呟いた。

「あっ。そういえば、お社の境内にもありましたっけね。立派な沙羅の樹が」

「株分けされたんだよな。そういう話を聞いてる。どっちが先にあったのかは分からんけれど。元々、あっちの山に自生していたのを、こっちに分けたのか。うちに植えて育てた樹を、社の方に分けたのか」

「きょうだいですね」

「はてなぁ。きょうだいなのか、親子なのか。いや、種から育ったわけじゃないなら、きょうだいなのかな」

 などと、キラとカヲリは語っている。

「たった一日しか咲いていられないくせに、ちゃんと実を作るんだから。まあ、なんていうか。大したものだよな」

 と、キラはしみじみともらした。

 近くの岩に腰掛けて、ポヤリとしていた少年が、すっかり懐いた青年へと、大きな瞳を向ける。 

「一日しか咲かないの」

「そうさ、この頃の季節の朝に、ポッと咲いて、夕方には地面に落ちてる」

「えぇ。もったいない」

「もったいない、って。なんだそれ」

「一年に、一日しか咲かないんでしょ。白くて、あんまり目立たないし。誰にも気づかれないで、咲いて散っちゃいそう」

「ははぁ。しかし、樹はべつに、人に見せるために花咲かせてるわけじゃあないし、一日で用が足りるんなら、それでいいんだろう。それに、一日だけだって、毎年咲く。たまに、咲かなかったり、二回咲いたりするけれど」

「でも、やっぱり、一日だけって。寂しい」

「寂しい、か。そうだなぁ」

 しんみり、とした空気がまとわる。

「儚いよな、たしかに。椿にかたちが似ているから、って、名前につけられていても。おれはあんまり、似ているとは思わねえんだよな。椿のほうがずっと、なんていうか、強そうだ」

「椿、お好きなんですか。お庭の真ん中に、立派にありますものね」

「好きっていうか」

 カヲリの問いに、キラは庭の中央の方へ目線をやった。そちらには、まるで一本の樹のように絡まりあった二本の椿が、濃い緑の葉を茂らせている。

「憧れとか、羨み、かな」

「羨み」

 キラの返答に、いまいちピンときていないようすながらも、相槌だけを打って、カヲリは沙羅の木へと眼差しを戻した。

 サラは、顔の高さに咲いている夏椿の花に、頬を寄せる。

(自己を投影しているのでしょう、この儚い花を咲かせる樹に。この樹はここに何百年も立って、あちらの椿の樹を、どんな気持ちで眺めているのでしょうね。椿の代わり、みたいな名前で呼ばれて。椿のようにして、花を咲かせたりなんて、しないのに)

「ほんとうは、なんて呼ばれたいの」

 小さな花綸に、ポソリと、サラは問いかけた。答えなど、返りはしない。彼女は、ふぅ、と嘆息した。

「今年は、気づけてよかったわ。去年も、一昨年も、気づいたときには、散ってしまっていたから」

「ああ。婆さんが死んでからは、ことさら忙しかったからな。この時期は、具合悪くする人らが増えたりで、庭のようすなんて、気にかけていられなかった」

 朝日に照らされた、白い顔貌。ここ数日で、よくよくほっそりとした。

 日々失われていく血。柔らかいばかりの食事では、新たな血液をつくるのには、あまりにも心もとなく。

 白い襦袢のまま、血色の失せた顔と、首すじと、手首の先をさらし。黒く艶めく長髪を、結びもせずに流した、長身の、怪我の腕を吊った、痩せた美男子。

 サラの視界から、他人の存在は消え去る。ただ唯一の愛し人のみを、その黒く潤む瞳に映す。

(まるで、この花みたいね。いつの間に、そんな姿になってしまったの。あなたの内側ばかりを、見ていたせいかしら。いっそ、高潔なくらいに気丈だから、気づけなかった。やっぱりあなたは、この樹に似ている。花ばかりを見ていれば、かよわくて、儚いかもしれないけれど。何十年、何百年と、立ち続けて。枝葉を大きく広げて、見えないところに、深く、広く根を張って。たった一日で散る花を、毎年毎年、咲かせるの。ねえ、あなたは、あちらの椿が強くて、羨ましいと言うけれど。わたしは、この建物の影に隠れている樹が、昔から、いっとう好きなのよ)

 そうして兄の姿を横目に考え事をしていた。しかし、それは彼の妹だけではなかったらしく。

「なんだか、キラさん、神様みたいですね」

 と、カヲリが言った。

「はァ。神様ァ。どこがァ」

「うぅん、どこが。こう、背が高くて、スラッとしていて。でも、髪を下ろしていると、中性的な雰囲気で」

(それに、生気が薄い)

 と、サラは喉の奥で付け加える。

(たしかに、今のあなたは、なんだか人ならざるものみたいよ)

「神様ねェ。そんなら、スクナに成り代わってやりてぇな」

 と、キラは白い顔をうつむかせて、口の端に笑みのかたちを浮かばせた。

 ややして、キラは、フラリ、フラリと寝床に戻っていった。ミノリもまた、先日彼の叔父が様子見がてらに届け置いていった、外国の、子供向けの物語を訳したものの続きを読みに、部屋へと帰った。

 まだ、早い時間帯。医館の門は開けてあるが、客人が訪れる様子はない。夏椿の下に、女ふたりが残されて、しばらく惚けたように、貴重な花の姿を仰ぎ見ていた。

 と、カヲリが柔く声を発した。

「キラさん、大丈夫ですか」

 当人に是非を問うたところで、はぐらかされる。それが分かっているのであろう彼女は、彼の妹に問うことにしたらしい。

「あまり、芳しくはありませんわ。街で、噂だとか、耳にしますか」

「ええ。近頃は、お仕事もお休みがちだから、と。あちらこちらで、様子はどうですか、と訊かれます。わたしは、素人だから、としかお答えできませんけれど」

「お気遣いをさせてしまって」

「そんなことは。むしろ、こんなときに、息子の、わたしたちの面倒をみてくださって。感謝しかありません。なにも、大したこともお返しできなくて、少々もどかしいです」

(訊いて、みようかしら。この人に。おかしいかしら)

 と、迷う娘の心を見透かしたように。

「わたしで、お力になれることがあるのなら、なんでも、おっしゃってくださいね。これでも、お二人より少しだけ、長生きしていますから」

 そう言って、カヲリは微笑んだ。

「それじゃあ、お訊きしても、いいでしょうか。不躾だと思うんですけれど」

「訊いてみてくださいな」

「旦那様のこと、愛しておられたのですよね」

 サラは、木の根元を見下ろしながら、尋ねた。傍らの女人が、その問いに対してどのような表情を浮かべたのか、サラは視界におさめることはしなかった。

「ええ、もちろん」

「お亡くなりになったとき、どうやって、気持ちに折り合いをつけましたか」

「折り合い、ですか」

 サァ、と。ぬるい風が吹き抜けた。

「折り合いは、今でも、つけられてはいないかもしれません。もっと、わたしにしてあげられたことは、なかったんだろうか、って。酔って、川に落ちて死んだんだ、と、周りの人たちは言いましたけれど。わたしは、あの人はしらふで、自分から川に入ったんだと思います。結局、わたしは生まれてからこのかた、大きな怪我も病気もしていないし、今のところは五体満足の健康体ですから。彼が、どんな思いで日々を過ごしていたのか、わかりません。でも、わたしが今でも生きていられるのは、ミノリがいるから。それだけは、たしかです」

「ミノリくんの存在は、大きいですか」

「それは、もう。あの子のために、生きているんです、わたしは。あの子が、わたしを生かしてくれているんです」

「そうですか」

 また、サァ、と、ゆるやかに風が通りすぎていった。

 昼に仕事の一段落をつけたサラは、朝に作り置いて水を吸った粥を運び、キラの寝床へと向かった。

 だが、彼は座敷の布団の上ではなく、縁側のかたい木の板に、薄い座布団を置いて、丸くなっていた。

(そういえば、昔、時々庭に入り込んでいた、三毛の猫も、同じ場所で日に当たっていたっけ。あの、雄の三毛は、もう、どこかで死んでしまったのでしょうね)

 キラは首を上げて、椀を持った妹に柔く微笑むなり、ゆったりと身を起こした。

 サラは兄の隣に腰を下ろし、椀を渡す。一度に量を食べられない彼は、一日五回に分け、少量ずつの食事をとるようになっていた。

「ありがとう」

「なにを見ていたの」

「うン」

 胡座をかいた脚の上に器を置いて、さじで粥を口に運ぶ。崩した豆腐と、ほんの香り付け程度に垂らされた醤油。味気ない、代わり映えもしない食事。妹の問いに、キラはずっと目線の先にしていた場所を、顎で示した。そちらにあるのは、緑に覆われた椿の樹。

 の、根方で蠢く、なにか。

「あら。蛇」

「ずっと、交尾してる」

「まあ、本当だ。二匹だったのね。太り過ぎかと思った。縞蛇かしら」

「いいや、青大将だろ。小さいけれど」

「珍しいけれど、見てて、楽しいの」

「いや、べつに。暇なだけ。なんか、殺し合ってるみたいだ。あんなんされたら、骨が砕けて息の根も止まるぜ」

「首を締められるのが好き、っていう人も、いるらしいけれどね」

「はあァん。どこで聞くんだよ、そんなん」

 理解しかねる、といったふうに、キラは首を傾がせた。そして、口に運んだ粥を、もごもごと転がして、嚥下する。

「羽虫の交尾は、偶に見かけるけどな。蛇は、これで二回目だ」

「二回目。ああ、そういえば、随分と小さな頃に、あったようね」

「もっと暑い日だったな。五つか、そのくらいだったっけ。やっぱり、ちょうどあそこだった。木陰の下で、なにか動いているのが気になって、勉強を投げ出して庭に出たんだ。そうしたら。あれはなんだったろうな。あのころは、大きく見えたけれど、縞蛇だったかもしれん。社の締縄みたいになって、ぐるぐる回ってる蛇らが、なにしてるのか分からなくてな。でも、珍しいもんだから、ずっと見てた。逃げねえんだよな、あいつら。それどころじゃねえんだって、か。まあ、おれもべつに、いじめてやろうとか、そんなことは思いもしなかったけれどさ。とにかく、なにをそんなに一所懸命にやってるんだろう、って、それしか考えなかった。いつの間にか、婆さんが近くにいたから、訊いたんだ。こいつら、なにをしてるんだ、って」

「なんて仰ったの」

「命をつくってるんだよ。って、言った」

「お祖母様らしいわね」

「交尾してる、って言ってくれりゃあ、おれだって理解できたし、それで興味も失せたはずなんだ。でも、そんな言い方されると、なんだか。なァ。すごく、面白いことを仄めかされた気がしたから、食い下がっちまった。虫も、魚も、鳥も、獣も、人間も、みんなそうやって命をつくって、繋いでいくんだ、とさ。そこで、おれはピンときちまったんだ。おれにもできるのか、って。できるかもしれない、って婆さんは言ったよ。今にして思えば、そんなことができる歳まで、生きられるか分からないが、って含みがあったんだろうけれど。その頃はまだ、寿命に関しては、なにも聞かされてなかったからな」

「七つのときだっけ」

「そう。その歳に聞かされた。とにかく、人間は一人では命をつくれないから、相手が必要だ、って言われた。おまえは男だから、女の相手が必要だ、って。そこでおれはひらめいた。女の相手なら、サラがいるじゃねえか、って」

「その後のことは、わたしも覚えているわよ。ドタバタと部屋に戻ってきたかと思ったら、サラ、おれと命をつくろうぜ、って大声で言うんだもの」

「ああ。追ってきた婆さんに、頭ひっぱたかれた。妹以外の女にしろ、って。わけわからんだろ。一番、おれのことを分かっていて、仲もよくて、信頼できる女が、すぐ近くにいるのに。他にしろ、ってさ。あとになって、婆さんの言いたかったことは分かったが、そのころには、もうな」

「手遅れ」

「そう。そもそも、無理があると思うぜ。常に見張ってる大人がいるわけでもなし。おれたちは二人して、好奇心が旺盛ときた。服を着てたら見分けがつかないのに、裸になれば違うところがある。じゃあ、どんなふうに違うんだろうか、って、調べてみたくなるだろう」

「それでも一応、後ろめたいことをしている自覚はあったのよね。隠れていたし」

「なんでだろうな。本能ってやつなんだろうか。てか、アレはさぁ、今思い出してもなかなかだと思うんだよ。おれが精通したばっかの頃、押入れの中でさぁ」

「ああ、もう。待って、待って」

「どんな感覚なのかって、いちいち説明させられながら、おまえの目の前で自慰したじゃん。あのときはさぁ、おれも大して気にしなかったけど。やって見せて、教えてよ、って。おまえ、なかなかだよな」

「だって、わたしにはないから、気になったんだもの」

「わかってるって。結局は、それ以上でも以下でもないんだよな。ただ、興味があったから、ってだけで。でもさ、おれはいい選択をしたと思うぞ。おれは、この世で一番、おまえを信頼しているからな。今になって色々考えても、やっぱり他の人間に、託す気にはならねえよ」

 少量の粥を啜りきって、キラは椀を木板の上に置いた。そうして、頬杖をつきながら、相も変わらず椿の根方で絡み合っている蛇を、遠目に見守る。

「なんで、だめだったんだろうなぁ。あんなに、試したのに。やっぱり、おれの体が、良くなかったのか。自分自身の命さえ、まともに生きられないのに。繋げるもなにも、はじめから、そんなふうに、できてなかったのかもしれない」

(諦めるの、なんて。訊けやしない。それこそ、この人にはもう、そんな余裕はないのだから。ああ、でも。わたしはこれから、なにをよすがに、生きていけばいいのかしら。せめて、あなたとの子がいれば。ずっと、それだけを頼って、あなたのいなくなった世界を、かろうじて想像することができていたのに)

「今年の夏、越せるかねぇ」

 と、キラが呟けば、かたい沈黙が降りる。

(あなたの体だもの。あなたが一番良くわかっている。わざわざ、そんなことを言うなんて。今年の夏を、越せる気がしないから、覚悟しておけ。って。そういうこと、なのでしょう)

 サラは息を止める。嗚咽が漏れそうになるのを、こらえる。

(今年の春先は、まだ、雪かきも、お風呂の準備も、できていたじゃない。本当は、つらかったのかもしれないけれど、でも、できていたじゃない。それなのに、もう。あれから半年も、経っていないのに、起き上がっていることすら、ままならないなんて)

 骨折が、キラの体力を大きく消耗させた。それがなければ、もう少し、ゆるやかな進行であったかもしれない。

(いずれにせよ、今年中には。そう、覚悟するつもりでいたけれど。あまりにも、早すぎるじゃないの。食事を変えたのは、良くなかったかしら。でも、少しでも、出血を抑えられるなら、そのほうがいいと、思ったのよ。わからない。お粥だけじゃあ、栄養が足りないのは、分かってる。煮込んで柔らかくした、野菜や魚も、体に見合った量は食べられない。出ていってしまうものを、補いきれない。出ていかないで、もう少し、留まっていて。わたしにできることは、せいぜい、祈ることくらい。それさえも、意味なんてないんでしょうけれど)

「眩しいな」

 キラが目を細める。たしかに、ここのところは曇り空と雨続きで、薄暗い日が続いていた。梅雨の時期の、合間にときおり訪れる快晴の日の景色は、眩いかもしれないが。

「どうも、最近、目の具合が良くない」

 とくに深刻そうでもなく、続けられる言葉。しかし、サラは知っている。先祖らが残してきた手記によれば、多くの男子が、死の前に視力を失う。

(あなたが死んだら、わたしも。なんて、ご先祖様が、許してはくれない。お祖母様と、お母様が、必死に繋いでくださった命だもの。わたしの身勝手で、捨てちゃあならないわ。分かって、いるけれど)

「明るさが負担になるのなら、そろそろ部屋に戻ったらいいわ。また、夕方に食べ物を持ってくるから」

「うん」

 床に置かれた椀をとって、サラは兄の隣を立つ。キラは眩いと言う庭を、目を細めながらも、まだ少し眺めているつもりのようだった。

 黄昏時の医館の門前に、一人の男がいた。旅の装束を身にまとい、木箱を背負っている彼は、高い位置に掲げられた看板を眺め、時折、首を伸ばして庭の中を伺うようにして、そして自信なさげに周囲を見回す。

 と、館から若い娘が出てきて、笠の影になった、男の細い目をとらえる。娘は早足で門までやってきた。

「こんばんは。お見かけしないお顔ですわね。なにか、御用でしょうか」

「こちらは、サクラどののいらせられる、スクナ医館でござろうか」

「サクラ」

 娘は丸い瞳を、パチリとやった。

「サクラは、祖母ですわ。三年前に、亡くなりました」

「さようでござったか。お悔やみ申し上げる。それがしは、コウエンという者でござる。祖母どのがご生前に、それがしの父と取引をされておられた。約束の物が手に入ったゆえ、お届けに参った次第」

 娘は小首をかしげ、見慣れぬ男の姿をあらためる。

「ええと、薬売りの方、でございますよね。祖母からは、とくになにも、聞いてはいないのですけれども」

「おや、さようで。ですが、既に代金の方は受け取ってしまっていますゆえ」

 男はいささか困惑した様子を見せ、荷物が入っているのであろう背中の木箱を降ろそうとした。

「門、閉めますので。お上がりくださいな。なんのことやら、さっぱりですから、まずはお話しをお聞きしないと。遠くからいらっしゃったのでしょう。お宿がお決まりでなければ、一晩、こちらでお過ごしくださいな」

「かたじけない。お言葉に、甘えさせていただきまする」

 コウエンと名乗った男は、木箱を背負い直し、医館の門をくぐった。

 遠路はるばるとやってきたらしい客人に、サラはまず入浴を勧めた。四十ごろのその男は、この暑さと湿気の増してきた季節に、山を超え谷を超え歩いてきたためか、いくらかにおった。

「それがしは、熱い湯が好みゆえ。心地ようござった」

 長風呂のあと、コウエンは汗を拭いながら言った。

 夕食の用意をカヲリに任せ、サラは客人の相手をする。コウエンは、それらしい装いのとおりに、薬売りを生業としているとのことであった。祖母の依頼で届けにきたという品も、薬の類であろうが、木箱から取り出したその荷物を、コウエンは風呂敷に包んだまま、開こうとしない。

「竜骨、というものを、存じておられまするか」

「竜骨ですか。ええ、大蛇や大蜥蜴トカゲの骨ですよね」

「一般的には、そのように。それがし、本業は竜骨売りでござる。それがしらが扱うのは、元来の意味における竜骨。すなわち、竜人の背骨にござる」

「竜人」

 サラは包みを凝視する。

(聞いたこともない。あの包み、随分と大きいけれど。あれが背骨、脊椎骨のひとつなら、随分と大きな生き物なのね)

「それは、お薬なのですか」

「いかにも。いかなる不治の病も、たちどころに癒やす、妙薬とされておりまする」

「えっ」

(それを、お祖母様が。なら、もしかして)

「あの、兄のほうなら、なにか聞いているかもしれません。声をかけてきます」

 サラは忙しく立ち上がって、兄の寝床へと向かった。

「聞いてないなぁ、なんにも」

 キラは、そう答えた。うさんくさい、とも。だが、スクナ医館のサクラを、このあたりで訪ねたのなら、それは祖母に違いない。その祖母が、既に金を払っているのだという。あきらかに、この近辺の者ではない人物が、祖母の名を頼りにしてやってきた。話も聞かずに追い返せる兄妹ではなかった。

「すみません、兄はしばらく、臥せっておりまして」

 包みを抱えたコウエンを、サラは兄の寝床に案内する。行灯に強めの光をともした部屋の中、ぽつんと広げられた布団の上に、体を起こして、キラは竜骨売りを迎えた。

「やあ。悪いね、こっちまで来てもらって。キラだ。こいつとは双子」

「コウエンでござる。突然の訪問、ご無礼をつかまつる。いやはや。双子とはしかしながら、奇妙なほどに似ておられまするな」

「たまに言われるが。奇妙ってなら、あんたの喋り方も、ちょいと奇妙だぞ」

「そのようでござるな。なにぶん、父と祖父の喋りを手本に、こちらの言葉を覚えたゆえ」

「ここらの人じゃあないのは、見りゃあ分かるけれど。古めかしい印象の言葉遣いだが、流暢だ。それで、うちの婆さんが、あんたの親父さんから、買い物をしていたんだってな。なにか、それと分かるもの、持ってるのか。金払いは済ませてあるって言っても、悪いが、なにも聞いてないもんで」

「ご不審は、ごもっともでござる。契約を交わした際の、書面がござりまする。祖母どのの、署名は直筆であるはず。筆跡で、お分かり申すか」

 と、コウエンは懐から丸まれた紙を取り出した。兄妹の前に広げて見せる。

「三十年前」

「そんな昔のもの。わたしたち、まだ二十歳前ですのに」

 双子は記された日付に驚きつつ、本文に目を通す。

 竜人の第一腰椎を購入されたるとし、金五十両を預かったことを証す。契約済みの竜人が死亡、葬儀の後に甲が譲り受けたものを、速やかに乙へ渡する。

 一つには、竜骨及び竜人についての情報を、むやみに一般へと吹聴されぬこと。

 二つには、竜人の生態上、自然死に至るまでに長期間を有する。ゆえに、おおよそ四十年ほどの納期を有することを理解されたし。

 などといった内容が長く綴られ、最後に、コウエンの父の名と、双子の祖母の名が記されてあった。

「ああ、婆さんの字だな、これは」

「ええ」

 キラは書面を返して、頷いた。

「わかった、本当に約束していたらしいな。しかし、おれらの生まれる前か。どういうつもりだったんだか。そいつは、すげえ薬になるんだってな」

「いかにも。あらゆる不治の病に、効果を示すとされておりまする」

「フゥン。なあ、サラ。五十両ってのは、相当だよな。三十年前なら、なおさら。婆さんが手伝いも雇わなかった理由が、わかったぜ。これって、おれが使っていいやつだと思うか」

「きっとね。うちの家系の男子に、使わせるつもりだったんでしょう」

「やっぱり、そうだよなぁ。おれは、もう死ぬだけだが、試して記録残すくらいはできるかな。それとも、次に生まれてくる男のために、とっておこうか」

「あなたが、使って」

「兄上どのは、重病であらせられるのか」

 コウエンの問いに、キラは、うぅん、と唸った。

「重病っていうか、生まれつきの体質っていうかな。二十歳まで生きられねえんだ、うちの男は」

「なんと」

 コウエンは糸目を開いて、かけるべき言葉を探すように、薄い唇をもごつかせた。

「とにかく、うちが買ったものは受け取るさ。だが、おれらは、あんたの扱う竜骨について、なにも知らない。使い方もわからん。そのあたりのことは、教えてもらえるんだろうか」

「もちろん、お伝えできる限りのことは」

 コウエンは頷き、神妙な面持ちで、膝の前に置いた風呂敷包みを開いた。

 片手に余るほどの塊が、その姿を見せる。それはたしかに、動物の、脊椎骨のひとつの形をしている。

「これが背骨か。人間なら、十尺約3mくらいの背丈がありそうだな」

「いかにも。この背骨の持ち主は、身の丈が一丈一尺約3.3m、重さが百貫約345kgほどござりました」

「へえ。竜人ってのは、蛇じゃあないんだろう。どういう生き物なんだ」

「人と、似た姿をしておりまする」

「竜、人、と言うからには、そうなんだろうな。四本脚じゃあねえのか」

「二足で歩きまする。言葉も話しまする。我々とは異なるものの、文化を持っておりまする。ゆえに、薬になるからと、むやみに命を奪うことを、それがしらの一族は、はばかりまする。交流をし、信頼関係を築き、死後に身体の一部を譲り受けることと、その対価を約束し、いざ時が来たならば、こうしてお渡しに馳せ参じる次第」

「それじゃあ、この骨の持ち主は、あんたの友人か」

「ええ。しかし、むしろ。それがしにとっては、第二の母か、祖母のような存在でござった」

 コウエンは、細いまなじりを、わずかに下げた。

「それだけの、信頼関係を築ける生き物なんだな、竜人ってのは。おれらは、実際には見たこともないどころか、今こうやって話を聞くまで、存在すら知らなかった。どうやって、使うんだい。薬としては」

「砕いて、飲んでいただきまする」

「ハハァ。あんたと親しかったひとの遺骨を、飲めってか。そいつは、なかなか。しかし、これが見ず知らず、聞かず知らずの、異国の人間の骨だと言われても、同じような気分になりそうだ」

「事実を伏せたまま、売る者もおります。竜人がどのような者たちか、知ってなお、なんの抵抗もなくその骨を口に含める方は、多くはありませぬ」

「それでも、あんたは話すんだな」

「ええ。それがしら竜骨を扱い続いてきた一族、代々の流儀でありますゆえ。一度契約をした方々に、伏せごとはいたしませぬ」

「それで拒否されて、金を返せと言われることも、あるんじゃないか。なんせ、何十年も経てば、買った方の気が変わることもあるだろう」

「その折には、代金はお戻しいたしまする。そして、他の、順番を待っている方のところを訪ねまする。先ほどお見せした、約束ごとの書状に、記してありまする」

「そうだったかい。そこまで読んでいなかった。五十両、言われりゃあ、すぐに返せるってわけか。てぇことは、うちの他にも約束待ちをしている人がいるんだな」

「いかにも。十年あまり、待っていただいておりまする」

「十年前か。そっちに回してやったら、まだ間に合うかもしれないな」

「ねえ、キラ」

 サラは縋るような口調で、兄の名を呼んだ。

「そういったお気遣いには、さして意味がありませぬ。ほかの契約者についてばかりは、詳しくお話できませぬが。納期は四十年と、予め説明しておりまする。仮にそのとき、重病を抱えた者がいても、四十年も生きて待てぬことは、了承された上での契約ごとでございますれば」

「それじゃあ、うちと似たようなところが、あんたから竜骨を買おうとするんだな。病人が生まれやすい家系の人間が、子や孫のためを思って」

「詳しいことは、お話しできませぬ」

 キラはあぐらの膝を、ポン、と叩いた。

「いいよ。とりあえず、信用する。どこから来たのか、おれには判然としないが、さぞ遠かったろう。わざわざ、どうもありがとう」

「それではもし、こちらをお使いになられるのであれば、飲めるように砕きまするが」

「薬研で砕けるのか」

「いえ。通常の鉄や石では、道具のほうが負けまする。この、こちらの」

 コウエンは傍らの木箱から、小柄な臼を取り出した。

「ノミである程度削りまして、それからこちらの臼で挽きまする。玄武岩と、金剛石で造られた、特製でござる」

「おいおい、金剛石って言ったか。それ、竜骨よりよほど高価だろうが。野盗なんかに襲われなくて、よかったよ」

「ええ、まあ。しかし、見かけばかりは、みすぼらしい格好の、旅人でございますので。それに、一応はこれで、護身の術も心得てござる。なお、この骨をすべて粉にするには、半月ほどかかりましょうが」

「そりゃあ、掛かるだろうな。今晩はうちに泊まっていくらしいけど、ねえ、サラ」

「半月でも、ひと月でも。お部屋ならありますので」

 サラは兄の言わんとしていることを、その口で継いだ。現状寝たきりで、家のことも仕事も放って、その上に妹やらの世話になって生活しているキラが、館の主人らしくあれこれと決めて言えないのも、サラはわかっていたので。

「かたじけのうござる」

「却って、近くでようすをみていてくれたら、安心だよ。なんてったって、まるで未知のものを体に入れようってんだから。なにが起こるか、わからん」

「それがし、この竜骨に関してはともかく、医学の心得はさほど。そういった方面で、お役にたてるかどうか」

「それでもいいさ。要は、気分の問題だ」

 愛想よく振る舞う兄の姿を、サラは見つめた。

(だいぶ、疲れてきたみたいね)

 と、廊下からソッとカヲリが姿をのぞかせた。

「そろそろ、お食事の用意が整いますけれど、並べてしまってよろしいでしょうか」

(よかった、ちょうどいい)

 サラは静かに立ち上がる。そうして、男二人を見下ろした。

「詳しいことは、必要ならばまた、改めてお話ししましょう。コウエンさん、こちらにどうぞ。キラ、お粥とお薬、持ってくるから。横になって休んでいなさいな」

「はいよ」

「キラ殿、明日の朝の分から、飲めるように、準備をしますゆえ。今晩はお待ちくだされ」

「悪いね、疲れてるだろうに。寝る前に力仕事だろう」

「お気に召されるな」

 コウエンは細い目を更に細くして、痩せた青年に笑みを向け、包み直した竜骨やら道具やらを木箱に戻し、抱えあげて女たちの後を追った。

 再びひとりとなった部屋の中。行灯の明かりに纏わる羽虫を、じっとりと眺めて、キラは水を口に含んでから、横たわった。

 翌朝、いつもの粥と着替えを運んできたサラとともに、小鉢を片手にしたコウエンが、キラのもとにやってきた。

 小鉢の中には、粉末状になった竜骨が、小さじで二、三杯分ばかり入っていた。

「お食事のあと、この鉢に入っている分を、お飲みくだされ」

「他の薬はどうしたらいいだろうか」

「お任せいたしまする。とくに、飲み合わせに問題があるということはないようでござるが。いささか、他の薬の効き目が強くなることは、あるようですな」

「フゥン。まァ、最初だし、いつも通りでいいや」

「白湯のみですと、喉に絡まりやすいようでござる。粥で練って、飲み込むのがよろしいかと」

「そうさな。随分と細かくしてくれたみたいだけれど、砂みたいだもんな」

「しばらくは、この分量で、朝と晩に飲んでくだされ。様子を見て、増やしまする」

「やめるときも、徐々に、って感じか」

「いかにも」

「分かった。どうもありがとう」

「では、それがしはこれにて。夕の分は、また後ほど」

 コウエンは出ていった。キラはさっさと粥を飲み、いつもの薬を流し込み、小鉢のなかの顆粒を、残した粥の中に入れて練る。

 その間に、サラはせっせと敷布団の布を交換している。

「んん。別に味も匂いもしねえな。よかった。生臭かったりしたら、流石に気分が滅入る。あの人の話を聞く限り、なんだか人骨をって飲むのと変わらんだろ。これなら、竜人とやらの存在は、おれのなかじゃあ空想の域を出ない」

牡蛎ボレイみたいな感じかしら」

「いいや、もっとザラつきが強い。砂というか、砂利だな、こりゃあ。吸収できるのかね、こんなもん」

「とりあえず、言われたとおりに試してみなさいな」

「もちろん、そのつもりだけれど。ともかく、思ったより、ずっと飲みやすかった。ごちそうさま」

 空になった椀の中に小鉢を重ね入れて、キラは両手を合わせた。

 常のように、キラはまめな食事のために二度ほど目を覚ましつつ、午後を迎えた。

 よく晴れた夏日。眩しいといえば、サラは庭側の障子を閉め切って、廊下側の襖を開けて風通しを確保しておく。

 日々削られていく体力で、夏の暑さに耐えるのは容易ではなかった。彼はいつもグッタリとして、布団に臥せり、汗で浴衣を湿らせて。そうして、なんの気力も湧かないままに、一日を終える生活が、もうひと月以上。だが。

(なんだか、落ち着かねえ)

 キラは上体を起こし、障子越しの陽光を見つめていた。随分と、しばらくの間。ややして、やはり疲れてきて、再び横たわるが、またしばらくするとソワソワとして、起き上がる。

 そんなことを、夕まで続けていた。

「やあ、キラ殿。夕の分をお持ちいたしましたぞ」

 日が沈み、夕餉の香りが漂ってきた頃、コウエンが今朝ぶりにキラの元へ顔を出した。

「ああ、どうもありがとう」

「塩梅はいかがでござるか。より優れないようでしたら、分量を調節いたしまするが」

「いや、悪くはない。ただ、なんだろう。偶々かな。昼過ぎからずっと落ち着かない感じでさ」

「ほう。それは」

 コウエンは細い瞳をジッとキラへと向ける。詳しく話してほしいといった様子である。

「ずっと、横になって過ごしてる期間が、そこそこでさ。正直、俺にできることなんてもうないんだから、あとはもう、できるだけ妹やらの負担を増やさないように、大人しく寝てるのが一番だ、って。わりと納得していたんだけれど。どうも、なにかやらねえと、なにかしたいな、っていう気持ちが湧いてきちゃってね。まあ、実際なにもできやしないから、寝るしかねえんだが」

「ふむ」

 コウエンは薄いあごひげを、指でなぞった。

「まず、気持ちの方に変化が出る方は、多いと聞いておりまする。その分であれば、次第に体の方にも効果は出てくるはず。きっとまた、如何ようにもできまするゆえ、焦られるな」

「半日程度で、効き目が出るもんかね」

「もちろん、個人差はありまするが。飲んで当日のうちに、なにかしらの変化を感じられる方は、ままおりまするぞ」

「へぇ。不思議なもんだな」

 と、コウエンが障子を開けたままにしておいた庭側の廊下から、かすかなすり足の音がして、粥の椀と水入りの土瓶を持ったサラが来た。

「あら、コウエンさん。こちらにいらっしゃったのですね」

「先にお話を伺いましてござる」

「そうそう、具合はどうなの」

「ああ、もう効きはじめているらしい。今日は落ち着きがなかったが、良い兆候ではあるそうだよ」

「まあ。それはよかったけれど、早いのね」

「俺も驚いてる」

「ああ、本当によかった」

 キラに夕餉を手渡して、傍らに正座したサラは、頬を紅潮させ、破顔した。

(ガキの頃みたいに笑っちゃってさ。でも、なんだっていいや。こいつが喜ぶなら)

 まさに子供のようにソワソワとして、喜びと、今後への期待に瞳を輝かせる妹の姿に、キラもつられて笑った。

 その晩、キラは久々に体の痛みによって目覚めさせられることなく、夜明けまで眠った。

 三日目、真昼間の陽光の差すところに、キラは出てみた。眩しく滲むようになって久しかった庭園の、草木の輪郭をなぞれることに気づいた。日光に当てた肌が痛むことも、なかった。

 五日目の朝、着替える折に腰巻きを緩めたキラは、そこに血の跡がないことに気づいた。

 七日目、久々に、粥以外のものを口に入れた。荒れていた口内の血色はよくなり、舌に塩気を絡ませても、滲みることはなかった。そして、腹痛に苦しむこともなかった。

 十日目の夕時、ひと月半ぶりに風呂に浸かった。寝てばかりの間であっても、サラに手伝われながら体を拭い、可能な限り清潔さを保てるようにしてはいた。だが、いざ髪を洗い、あばらの浮いた体をこすれば、ゾッとするほどの垢が剥がれた。

 そしてこのときには、左腕を固定するものを外せるようになった。ことさら肉の削げ落ちた左腕は、右腕より一回り以上も細くなっていた。

 次第に食事量は増え、体力が戻り、キラは庭を歩いて回るようになった。皆で並び立って、夏椿の花を眺めた日から、随分と経っていた。若草色をしていた草木は、濃緑に変わっている。

(そろそろ、仕事に戻ってみようか)

 キラは太陽の下で、体を伸ばし、深く呼吸をし、穏やかな心持ちで空を見上げた。

 そして、コウエンが館を訪ねて三週めの、とある朝。

「昨日、竜骨を砕く作業を終えましてござる。こちらが全てになりまする」

 コウエンは蓋付きの鉢に詰まった、乳白色の粉末を兄妹に見せた。

「ひとまず、仕事の方は終えましたので、お暇させていただきまする。しばらくはこの街に滞在するつもりでおりまするゆえ、なにごとかござれば、お声掛けくだされ。長らく世話になり申した」

 彼はその日のうちに館をあとにした。

 翌日、キラはふた月半ぶりに、仕事部屋にいた。キラが臥せっている間、働き詰めだったサラは下がらせた。薬師の装束に身を包んだキラの姿に、久かたに顔を見せ合う客人らは、彼の復帰を喜び、祝いの言葉を口にした。

「おまえさん、具合がよくなったのかね」

 なかでも、この若者をことさら気にかけてきた馴染みの老爺は、ぼさついた白い眉の下の目玉を剥いて、大層驚いた様子だった。

「ああ、運がよかったんだ。どうも、もうしばらくは生きられそうだ」

「そ、それはなによりじゃ。よかったのう、よかったのう」

 老爺は瞳を潤ませながら、幼少からの姿を知っている青年の快気に、感激をあらわにした。

「前に話したこと、覚えているかい。大叔父の墓参りがしたいってさ。まあ、ついでに婆さんと母さんにも挨拶はしておこうと思うが」

「おお、そうじゃ。キサラの様子を聞きたいと言っておったな」

「いつなら都合がつくかな」

「おおん。近いうちなら、三日後か、七日後か、九日後かのう」

「じゃあ、九日後で。昼に墓地前に行くんで、来てくれるか」

「いいのう。わしも久々に、あれのところに行くわい。そういえば、キサラの手記はあるんかい」

「もちろん。持っていこうか」

「そうじゃのう。一度見てみたいと思っておったんじゃ。わしの前だと、強がっておってばかりだったんでなぁ」

「そうかい。わかったよ」

 そうして、改めて約束をとりつけたのだった。

「疲れたんじゃないの」

 仕事を終え、肩を回して帳簿に向かうキラの背に、サラは声をかけた。今日は一日、ミノリの屋内遊びに付き合っていたサラである。歳のわりに落ち着きのある少年は、サラを疲れさせることはなく、むしろ、彼女の気晴らしを手伝った。

「疲れたよ、そりゃあ。久しぶりだもの。でも、達成感がすごいな」

 新規の患者を受け付けなくなったため、以前に比べれば慌ただしさはない。しかし、久かたに代わる代わる客人らと顔を合わせ話をし、以前の会話を思い出しつつ、過去の記録にも目を通しつつ、キラが休んでいる間に変化したことを把握しつつの診療には、相当の神経を使わねばならなかった。

 サラは少し黙り込んから、静かな調子で呟いた。

「あなたが、その服を着て、ここに座っていると、とても安心する」

「はは。それはなにより。俺もさ。やっぱり、ここで、こうしているのが性に合ってる。つくづく、そう感じたよ。そうだ、九日後に、爺さんと墓参りに行ってくる。どうする、おまえは」

「何時頃に行くの」

「昼頃。盆にはちっと早いが、ついでに連れて帰ってこようか」

 サラは少し考えるそぶりを見せた。

「そうね。九日後なら、わたしも行こうかしら」

「薬を取りに来る人がいるんじゃないか」

「ええ、でも。そうだわ、一応、帳簿を確認させて」

「ほらよ」

 キラは記録をつけ終えた紙束を、妹に渡した。

「この人は、朝のうちに来るわ。こっちの人たちも、決まった薬の継続だから。もし、わたしたちが留守にしている間に来たら、カヲリさんに渡してもらいましょう。お薬と、釣銭用のお金を預けておけば、大丈夫でしょう」

「それで都合がいいなら、それでいいよ」

「お迎えに行くのは、お祖母様がいらしたころ以来ね」

「勝手に帰ってくるからな、うちの先祖は」

「忙しいからって、そんなことにしてしまって。申し訳なかったわね」

「いや、少なくとも婆さんの性格なら、勝手に帰ってきてただろうよ。信心深いおまえでさえ、まあいいか、って思えたんなら、間違いなく帰ってきてたぞ」

「そうかも」

 亡き祖母の見えない行動について、あれやこれやと想像し、兄妹は笑い合った。

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