――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

偽椿
春(下)

 変わらぬ日常に、双子は帰った。

 数ヶ月、数年と診療をして馴染んだ顔ぶれとの、毎度限られた時間の中で花咲く、世間話。あるいは、風邪や、食あたりのためにやってきて、一度の診療でそれきりの、顔も名前もすぐに忘れてしまう、一時の関係やら。

 あちらこちらと具合を悪くしがちな、とある壮年の男は、今日は腹痛を訴えてやってきた。

「軽い下痢が、ひと月。それだけ続くんじゃあ、変なものを食ったせいじゃあ、なさそうだ」

「胃のあたりが苦しくて、食欲が出ない」

「たしかに。顔はなんだかゲッソリしちまったくせに、腹は出てるよな。ちょっと、手を見せてくれ。あぁ、むくんでるね。水は飲んでるんだな」

「喉が渇くんで。でも、胃の具合が悪いからか、飲むと気持ちが悪くなっちまう」

「飲まないより、いいよ。下痢が続いてりゃあ、体から水が出ていくからな」

「水の飲み過ぎで、腹を下してるのかなぁ」

「巡りが良くないんだよ。体に溜まってる水が出ていかないから、飲んだ水の方が、そのまま出ていくしかないんだ。今、他に薬は飲んでいたっけ」

「今はなにも」

「そうか。じゃあ、タクシャで組むかね。ゴレイサンって、使ったことあるよな」

「何度かあるよ。下痢にも効くのかい」

「あんたみたいな水気の多い体質の人には、わりと万能に効くよ。なんなら、ずっと飲んでいてもいいかもしれないぞ」

「そうだなあ」

 キラと患者のやりとりを隣で聞きながら、サラはゴレイサンの調合を始める。

 二十日分の薬を作り終えたとき、玄関から「ごめんくださぁい」と、若い女の声がした。

「見てきますね」

「ああ」

 サラは擂り鉢をキラの方に寄せて、客を迎えるために、静かに立ち上がった。

 玄関には、品の良い雰囲気で佇む妙齢の女性と、その背後に隠れるようにしている少年がいた。

「どうも、ようこそ。いかがなさいましたか」

「はじめまして。息子を、診ていただきたくて」

 痩せた少年は緊張した面持ちで、母の陰からサラの顔をジッと見つめる。サラは、少年に笑んで返した。

「お上がりください。お話を伺いますので」

「ありがとうございます。さ、ミノリもご挨拶して」

 促された少年は、かすれた小声で、「よろしく」と言った。

 キラが診察をおこなっているのとは別の部屋に、サラは母子を通した。柔らかな座布団に二人を座らせて、彼女は茶器を温める。

(ミノリ君というのね。この子のやつれた顔立ちと、なんだかぎらついた瞳を見れば、なんとなく分かる。これはきっと、簡単に解決するものではない。充分に時間を使って、お話を聞かなければ。あちらが落ち着いたら、キラも来るでしょうし)

「あら、あら。お気遣いなく」

 茶器を温めるサラに、少年の母が言った。サラは微笑んで、急須に茶葉を入れる。

「初めての場所で、緊張もされるでしょう。ゆっくりとお話がしたいけれど、途中でのどが渇いてはいけないですもの。あとでお茶菓子も用意しますから、まずはお寛ぎくださいな。どこからいらしたんですか」

「隣町からです。南の」

「まあ。それじゃあ一日がかりでしょう。どこかにお泊りになったんですか」

「ええ。昨晩は、この近くの旅籠に」

「お住まいのそばの、お医者様には、診ていただいたんですか」

「もう、何件も。けれど、なんだかよく分からないらしくて。この子の父方のほうが、同じような具合で、昔からあちこちで診てもらっていたようなんですが。こちらの医館が、いいらしいと耳にして、来てみたんです」

「それは、大変でしたね。アラ。いけない、申し遅れてしまった。わたしは、サラといいます。兄のキラと、このスクナ医館を仕切っております」

 サラは茶器を一旦、脇へと置いて、畳に指先をついて挨拶をした。少年の母は慌てたようすで、同じように畳に指先をついて頭を下げた。

「アッ、カヲリと申します」

「ミノリです」

 少年はペコリと、頭だけを少し下向かせる。ギラギラとした大きな瞳は、サラをじっと見つめて離れない。彼の声は、やはり少しかすれていて、小さい。

「あの、お若いとは聞いていたのですが。本当に、想像以上にお若かったので、驚きました」

「ええ、父母がおりませんもので。三年前に祖母が亡くなってからは、わたしたち兄妹しか、うちには残っていませんから」

「お幾つなんですか」

「ふたりとも、今年十九になったばかりです。兄とは双子なので」

「まあ」

 カヲリはやや落ち着かなげに、短い相づちを返した。

(わたしたちが若すぎるから、不安なんだわ。そうでしょう。きっと、経験豊富なお医者様のところに、何箇所も通ってきたんでしょうから。わたしたちの年齢は、どうしようもないけれど、この医館に蓄えられた知識があれば、役に立てるはず。まずは、信用していただくところからね)

 サラは視線を少年へと向ける。身を固くして、落ち着かなげに、体を揺らしている。

「ミノリ君は、何歳なの」

「七歳」

「ご飯は、しっかり食べられているの」

「たくさん食べるよ」

「なにが一番好きかしら」

「お母さんがつくってくれる、おむすび。おばあちゃんのも好きだよ。少し、塩辛いけど」

「すてきだわ」

 息子の好物を聞いたカヲリは、嬉しそうに口角を緩めた。

「いつも、お腹を空かせているので。すぐに用意できるものとなると、どうしても、おむすびになってしまうんですよね」

 カヲリはどこか恥ずかしそうに言った。サラは母親を安心させるように、強く頷いて見せた。

「お米を食べてもらうのは、良いことだと思いますよ」

(けれども、この痩せ方。栄養が、ほとんど身になっていない。身にならないから、体が必死に栄養を欲しがって、いつもお腹が空いてしまうのね。背丈は、特段小さすぎるということはないけれど、肉付きが、まったく釣り合っていないわ)

「ミノリ君は、今、なにが一番つらいと感じるの」

「友達と遊べないこと」

「どうして、遊べないの」

「すぐに疲れちゃうから。歩くと、脚が動かなくなるし、心臓がドクドクして、苦しくなる」

「そう。お外に、あまり出られないのね」

「寝付きも良くないんです」

 カヲリが口を挟んだ。どうしても、気にかかって仕方がないといった様子だ。

「小さな音で、すぐに目が覚めてしまうし、夢見も悪くて、寝ても疲れがとれないどころか、却って疲れてしまうみたいで。本当に、見ているだけでも、つらいです」

 ミノリが小さく頷く。やはり、睡眠に支障が出ていることも、苦であるようだ。

「それは、たしかにつらいでしょうね」

(身体的にも、精神的にも疲弊しきっているのでしょう。グッタリとした感じではないけれど。むしろ、グッタリとできればいいのに、といった具合かしら。初めての場所で、緊張している、というよりも、たぶん、いつもこんな感じで、緊張しているんだわ)

 サラが考え込んでいると、彼女の正面の襖が開いた。

「ヨォ。終わったから来てみたが。あぁ、やっぱり、初めましての人だな。具合が悪いのは、子供の方かい」

「あ、キラです。兄の」

「アッ、どうも。カヲリと申します。こっちは、息子のミノリで。ええ、この子を診てもらいたくて。驚いた、とても背が高いから」

 カヲリは、背後から突然現れた長身の青年の姿に、本当に驚いたようだった。

「悪いね、ビックリさせちまって」

「キラ、お茶菓子をとってきてちょうだいよ」

「ん。妹と一緒に、話を聞くよ。ちょっと、待っていてくれ。羊羹だっけか」

「見れば、なにかあるはず」

 キラは開けた襖を閉じて、消えた。彼の足音が遠のいてから、カヲリは若干ばかり声をひそめて、サラのほうに身を乗り出し気味にした。

「双子のお兄さん、なんでしょうけれど、ものすごく似てらっしゃいますのね」

「ふふ。よく言われます。けれど、見目だけですよ」

 サラは、花がほころぶように笑んだ。嬉しさを、その美しい顔ににじませるようにして。

「へぇ。親父さんも同じような具合だったんだ」

 茶菓子に干し柿を持って戻ったキラは、サラの隣に座り込んで、茶をすすりながら、ミノリについて、主に母であるカヲリから聞き出していた。

「はい。出会った頃の、十年前は、まったく健康そうだったんですけれど。この子が生まれてから、どんどん体調が悪くなっていって。あちらこちらと、お医者様のところに通ったんですが、ひどくなる一方で、そのまま」

「あんなに、お酒ばっかり飲むからだよ」

 ミノリが、いささか強い口調で、彼の父親について付け加えた。カヲリの分に用意した干し柿は、彼の口の中に入っている。

「大酒飲みだったのか」

「え、ええ。元々は、飲む人ではなかったんですけれど。きっと、どうしても悪くなっていくばかりだから、うんざりしてしまって、お酒に逃げるしかなかったんだと」

「飲んで、暴れるから。バチが当たったんだ」

 またも、ミノリは口を挟んだ。

「お父さんのこと、きらいだったの」

「大きらい。殺してやろうって、何度も思った」

「ミ、ミノリ」

 サラが訊けば、ミノリは強い口調で答える。彼は、随分と気が昂ぶっているようだった。父親に殺意を抱いていたことを、初対面の若者たちにためらいもなく打ち明けてしまった息子に、カヲリは戸惑い、焦った様子で、取り繕おうとする。

「あの、この子が物心ついたときには、もう夫は随分と荒れていたものですから。私を殴ったりしている姿ばかりが、記憶に残っているんです」

「母さんが殴られているところ、ずっと見てたのか」

 キラが尋ねると、ミノリは口をつぐみ、うつむいてしまった。彼の噛み締められた唇が、震えている。

「そうか。母さんのこと、守りたかったんだな。優しいな、ミノリは」

 湯呑を置いて身を乗り出したキラは、少年をなだめるように、穏やかな口調で言った。

 ミノリの大きな瞳が潤み、膝の上にポタリポタリと雫が落ちる。肩が跳ね、しゃくりあげる合間から、

「うわぁんッ」

 ミノリは声を上げて泣き出した。

「ぼくが、もっと強かったら、お父さんのこと、止められたのに」

「ミノリ。ミノリ、ありがとうね。お母さん、十分すぎるくらい、ミノリに助けられたんだから」

 カヲリはミノリを抱きしめ、彼の小さな頭と、痩せた背中を撫で、なだめる。

「そうだぞ、ミノリ。おまえは自分が無力だった、って思ってるかもしれんが、そんなことない。おまえの母さんは、ちゃんと生きてるだろう。おまえがいなかったらな、母さんは自分で死んじまってたかもしれないぞ」

「そう。そうなんです。この子がいなかったら、私、とっくに自殺してました」

「ほらな。おまえは十分、強かったと思うぞ。酔って暴れる大人の男なんて、おれだっておっかねえ。逃げ出すのが普通だ。それを、おまえはちゃんとそこにいてさ、母さんを守らなきゃって、やってたんだろう。そんなことができる子供、そうそういないからな」

「うぅ」

 涙ぐむ母に背中をさすられながら、ミノリはずっと溜め込んできたものを洗い流すように、泣き続けた。

 母子のすがたに心を揺さぶられたサラは、目元を拭う。また、同時に、兄の言葉にも。

(キラ、あなたには、この子の気持ちが分かるのね。わたしは、どうしても、それがせつない。わたしの想いも、あなたは分かっている。それなのに、わたしは、あなたの想いを、あなたほどには理解できていない)

「気が済むまで、泣いたほうが良いよ。溜め込んでいると、体に悪い。干し柿、おれのもやろうか」

 ミノリはしゃくり上げながら頷いた。キラは「よし」と言って、手を付けていない皿を少年の前に置いた。

 それから四半刻ほど。ミノリは激しく泣いていたが、やがて落ち着きを取り戻しはじめた。途中、呼吸が難しくなったものの、サラが紙で袋をつくって、ミノリの口と鼻にあてがってやったので、大事にはならなかった。その間は、運良く、他の患者が訪ねてくることもなかった。

「どれ。それじゃあ、ちょっと体の方を診させてもらおうかな。座りっぱなしで疲れたかな。横になろうか。暑かったら、上着を脱いでいいぞ」

 キラは立ち上がって、座布団をミノリの方に動かした。サラもまた、兄に倣う。三つ並べられた座布団の上に、ミノリは羽織を脱いで、仰向けになる。

「サラ、脈をとってくれ」

「はい。ミノリくん、ゆっくり息を吸って、吐いて。何度か繰り返してちょうだい」

 ミノリは指示されたとおりに、深呼吸をした。サラは懐中時計を左手に持ち、秒針を眺めながら、右手でミノリの浮き出た手首の血管に触れる。

「さっきから、気になってたんだよな。ちょっと、首のところ触るよ」

 キラはミノリの首の付け根近くを触り、軽く押してみる。全体的に痩せ過ぎている割に、ミノリの首は太かった。

「腫れてる」

「あの、喉が痛いというわけではないそうなんです」

「そうだろうな。風邪じゃあないし。関係ない」

 キラの返答に、カヲリはいささか驚いたようだった。これまで掛かってきた医師たちは、ミノリの喉の腫れに気づいても、おおよそ風邪によるものだと結論づけてきたのやもしれない。

 サラは懐中時計を懐に戻した。

「百三十から、百四十」

「速い。さっきまで泣いていたとはいえ、だ。子供だから、余計かもしれんが。安静にしていて、これじゃあ。そりゃあ、疲れるだろうな」

「なにか、分かるでしょうか」

 カヲリはわずかばかりの期待をこめた眼差しを、双子へ、とくにキラへと向けた。キラはミノリの小刻みに震える指先に触れながら、曖昧に唸った。

「この、首のところさ。梅の実くらいの臓器があるんだ。これが、えらく腫れ上がってる。炎症を起こしてるんだろう。こいつが働きすぎているときの、典型的な症状がしっかり出てる」

「どうして、炎症なんて」

「悪いけれど、それはわからない。ただ、親父さんと、婆さんが、たぶん同じ状態になっていたんだろうから、そういう家系ってことだろうな。ついでに、気持ちに負荷をかけすぎた」

「つらい思いをしたことも、関係あるんですか」

「うちに伝わってる資料を参考にするなら、十分にあるってことだ。病は氣から、とはよく言ったもので。たとえば、心配ごとのせいで何日も眠れずにいたら、体がだるくなったり、頭が痛くなったり、するだろう。それが長く続きすぎると、自力では治せなくなってくる。本来、生き物は心身の不調を、自分の力で治せるようにできているはずなんだけれど。身だけでは生きていけんし、心だけでも生きてはいけない。身も心も健康でいられれば、一番だが。どちらかの塩梅が悪いとき、もうどちらかも引きずられる。が、逆を返してやることもできる。それが、流れってもんだ。おれたちは、それぞれが、自分の持って生まれた体で生きていくしかない。それが、どんなに気に食わないものだったとしてもさ」

「キラ」

「うん、まあ。とにかく、氣を流してやることだな」

「お薬とか、診ていただいたら、治りますか」

「良くはなるはずだよ。ただ、良い状態を維持するために薬を飲んだり、生活に気をつけたり、そういうことは、一生続けるつもりでいたほうがいいだろうな」

「そうですか」

 カヲリは肩を落とした。それは治ることはないことへの落胆か。あるいは、今よりも具合を良くできる可能性を見いだせたことへの安堵か。いずれもか。

 ミノリは他人事であるかのように、ぼんやりとして、古い天井を眺めていた。

 ふと、少年と目が合ったサラは、その大きく黒い瞳に微笑みかけた。もう大丈夫、とでも伝えるように。

「つい、余計なことを言いそうになっちまった。遺伝的なものってなると、うっかり熱くなっちまう」

「そりゃあ、わたしだって思うところはあるのだから、あなたは尚更でしょう」

「止めてくれて助かった。初対面の患者に、愚痴を垂れちまうところだったよ。でもまあ、とりあえずは信用してくれたみたいだから、よかった。この手の仕事は、若さが不利になるね。しかし、母親って、子供のためとなると、一所懸命になれるもんなんだな。そりゃあ、さんざん腹を痛めて産むんだから、愛着も強くなるか。おれたちの母親は、さぞ大変だったろう。一度に二人も産んだんだから。命取りに遭うのも、やむ無しか」

「ねえ、今、喋らないといけないことなの」

「ああ、わるい、わるい」

 シンとした夜の帳。薄明かりのなか、もぞり、もぞりと、白い羽毛布団がうごめいている。こんもりと丸い小山の内側から、男と女の会話が漏れる。同時に、水っぽい、しめった、糸引くようにぬめる、いかがわしい音も。

「おまえの子宮は、すぐに下りてくる」

「ほかの子宮なんて、知らないくせに」

「そうだけれど、そういう意味じゃないよ。おまえは口でツンケンするから、体の反応のほうが素直で、わかりやすい」

「そういうことを言って、わたしを辱めたいの」

「だって、ほら。ここに注ぎ込んでくれ、ってことだろう。こんなに下りてこなくても、届くのに。必死で、かわいいじゃないか。正直に欲しがってくれたほうが、おれも気分がいい」

「アァ、そんな、押し上げないでよ。苦しい」

「浅くて、もの足りない。もっと奥行きをつくってくれ。もう二寸くらい」

「無茶言わないで。ヤダ、苦しいってば」

「おまえが、子宮を押し付けてくるからだよ」

「ンゥ。そんなこと言ったって、どうしようもない」

「ホラ、どうしようもないんだろう。体は勝手だね。暑くなってきた」

「布団、剥いだらいいじゃない」

「被ってないと、落ち着かないんだよ。癖だな、子供の頃からの」

 額ににじむ汗を、手の甲で拭って、男は腰を、女の股の間に押し付ける。狭く浅い穴に、ミッチリと嵌まり込んだものを、とめどなくあふれる、どちらのものかもわからぬ体液のぬめりをからめて、すりつける。

「この、奥の小さい口のなかに、全部注ぐ方法って、ないのかな」

「そんなこと、やったって意味がないでしょう」

「そりゃあね、一滴でも入れば用は足りるだろうけれど。面白いかな、って」

「ハァ。長い浣腸器でも、使ってみればいいんじゃないの」

「おまえ、冴えてるな」

「まさか、本気で試すつもりじゃないでしょうね」

「どうかなぁ」

 そんな、閨事に関してはいても、さほどふさわしくはないことを言いながら、よく似た顔立ちをした男女は、互いの肉体の違いを、その体でたしかめ合う。

 幼いころの、好奇心が赴くまま。遊びで触れ合っていた先に、見つけ、たどり着いてしまった場所。違いを交ぜ合せることで得られる、心地よさを発見したのは、いつだったか。先に誘ったのは、どちらだったか。先に溺れたのは、どちらだったか。

「昔は、口も正直だったな、おまえ。おかげで、随分と勉強になったけれど。おまえも、男の体についてよく学べたろう。いつ頃からだろうな、あまり、どうだか言ってくれなくなったのは」

「覚えてない」

「勉強がてらの好奇心で始めたことなんだから、教えてほしいんだけれどな」

 女は体を揺すられながら、グッと口を噤んでしまった。苦い薬を飲み込めなかったときのような顔をして、潤んだ黒い瞳を、目蓋の裏に隠してしまう。

 男は動くのをやめて、女の顔をジッと眺めた。そうして、なにごとかに気づいた様子で、女の胸の真ン中、心臓の上に手のひらを置いた。速く、強い鼓動が胸骨を打ち、トクトクと手に触れる。

 女は薄く眼をひらいた。胸の上に置かれた男の手を、ぼんやりと見つめる。

「ねえ、ちゃんと愛してるよ、おれだって。好奇心も、そりゃあ、あるけれど。でも、それだけなら、おまえだけを選びはしないんだからさ。それは、分かってくれるだろう」

「ンゥ」

 女の体が、ギュッと縮こまろうとした。彼女の芯の部分が歓喜し、男の言葉に応えたがる。だが、それはやはり彼女の言葉ではなく、体で示された。両の眦を、一筋の涙が伝い落ち、男の体の一部を包み込んでいた部分が、よりきつく、彼を繋ぎ止めようとする。

「ア、ゥ」

「いいよ。ホラ、抱きついてごらん」

 男は上体を女の上に重ねる。背中に回る腕と、腰を挟み込む脚。いずれも、柔い。形もかたさも、まるで違う胸をつけ合わせれば、心音と心音が絡まり、とけ合う。

「子供の頃は、下しか違わなかったのにな。今じゃあ、体中似つかなくなっちまった。ときどき、すごく奇妙な気分になるよ」

 低い声で囁きながら、男は女の耳をむ。そうして、締め上げてくる女の中から、出掛けようとしては戻り、また出掛けようとし、戻る。

 女の喉は、反り返って、甘露の雫のような、か細く高い音を鳴らす。それは、二人きりのとき。こうして繋がり、とけ合い、互いの境界を見失うほどに交ざりあったとき。唯一、今重なりあっている男にのみ聴かせる、やましさを孕んだ声。

「かわいいね、サラ。おまえは、ずっと、かわいいままだ」

「ア、アァ、キラ」

「いいよ。先にいきな」

 男の背に回った細腕に、力が入る。男の腰を挟んだ柔い脚がこわばり、指先はグッと開いて、わずかばかりの間、動きが止まる。

 そうして、低い振動をまといつつも、ことさら高い声で、女は叫んだ。それは、襖や壁を抜け、草木の寝静まる庭へまで快楽を訴える。この広大な屋敷に、生きた人間は二人きり。であるからこそ、男にも示して聴かせることのできる、この女なりの、悦びの発露。

 日常におけるたがを外し、無遠慮に叫び続ける女。対し、男もまた、収縮を繰り返す女の内側を、無遠慮に抉り続ける。先までより、一層激しく、濡れそぼった股に腰を打ち付けて。

 男は一瞬、喉を締められたように唸り、腰から背骨に駆け昇っていく雷撃のようなものに、身を竦ませ、震えた。より深くまで、女の中に埋まり込み、種を撒き散らす。

 止まっていた息を吹き返した男は、同時に吹き出した汗と、倦怠感に呆然とする。未だうねる女の中を、しみじみと感じ取りながら、荒い呼吸を繰り返し、体の血流が常の状態に戻っていく一連のようすを、ただ観察する。

 力を失った腕を布団の上に放り出し、柔く膨らんだ乳房を震わせながら、か細く喘ぐ女。その姿を、男は見下ろす。

 白くなだらかな頬を、スルリと撫ぜて、男は目的を果たして萎えたものを、女の中から抜き取った。濡れに濡れた互いの陰部を眺めながら、下に敷いていた襦袢で、汗を拭い、陰部を拭う。布の粘ついた部分を畳んで隠し、今度は女の体を拭う。汚れた布を放り投げ、男は女の隣へ、急に脱力したように倒れ込んだ。

 未だ快楽の余韻に浸っているようすの女の横顔を、しばらく眺めて、華奢な体を抱き寄せ、男は目を閉じた。

 果たして、何度繰り返してきたであろうか。互いに成熟したはずの肉体で、土を耕し、種を蒔く。しかし、未だ芽吹かない。ただの一度たりとも。

 此度も、そうであろうか。だが、もしかすれば、此度こそは。

 二人ともが、同じ目的と希望を抱いている。その動機にこそ、違いはあれど。

 朝夕の冷え込みも和らぎ、明け方に雨戸を開けるごとに、庭園の華やかさは増してゆく。

 休館日の午前。サラは池に沿った長岩に腰掛けて、古い書物を読んでいた。読んでも読み切れぬほど、この医館に蓄えられた、医学書の一冊。

 キラは目覚めてもなお、寝床から出てこようとせず、開け放たれた障子と、その奥の雨戸の先を、ただぼんやりと眺める。その光景の中には、春も半ばを過ぎて強くなりはじめた日差しに輝く、妹の姿がある。彼女がよく好む、桃色の着物。二人きりだからと、化粧をせずにいる素顔。並の男ほどの背丈があって、男である兄と似た、涼しげな美しい顔立ちをして、それでも、彼女の姿はどこかあどけない。

(おれの、ひいき目かな)

 高い塀に囲われた、隔絶された世界。賑わう街の中にいても、囲いより外の音は、遠い。時折、子供の高く、無遠慮な大声くらいが、せいぜい届く程度。ならば同様に、この囲いの中の事情が、外に漏れることもない。

 今日は、重い門も閉め切っている。客人がやってくることはない。丸一日の休暇をとることは、月に一度きり。その月に一度の休日を、館に籠もりきって、ゆるやかに過ごすのも、珍しいことだった。

 そうして、また仕事に明け暮れる日々に帰る。

 医者として経験を積んだ祖母が亡くなって、三年。母は双子を生むと同時に命を落とし、父親はどこの誰かも知れない。残された、当時十六になって間もない、若すぎる医師らを頼る者は少なかった。昔からの馴染客くらいが、二人を気に掛けがてら、仕事をさせてやった。

 それが、月日が経つごとに、やはりスクナの医師は、若くとも知識があると広まり、新しい客も訪ねてくるようになり、せわしさは増してゆく一方である。

(この忙しさに、いつまでついていけるだろうか)

 全身にもたれ掛かってくる倦怠感を抱えながら、それをおくびに出さぬよう努めながら、キラは日々へと向かう。

 その日々を追うごとに重くなっていく、見えない荷物の預け場所は、どこにもない。

 春先に咲いた花たちの、庭の石畳に落ちた、薄茶けた弁。それらを箒で掃き片付ける朝に、気の早い訪問者らはやってきた。門は開けていたが、大抵の患者は、のんびりと家を出てくる。

「あら、お早うございます」

 サラは箒を門の近くに立て掛けて、客たちを出迎えた。

「どうも、お早うございます。すみません、こんな時間に。この子が、お二人に早く会いたいと言って、聞かなくて」

 訪ねてきたのは、カヲリと、ミノリ。そして、ふっくらとした老婆と、カヲリと歳近そうな、知的な雰囲気の男性が、共にいた。

「まあ。嬉しい。兄も喜びます」

「あんなふうに、お話を聞いていただけたのは、初めてでした。この子も、あれから気が楽になったのか。頂いたお薬も、頑張って飲んでいますし。少し、具合も良いのかな。ね」

「うん」

「それは、よかった。お祖母様と、そちらは」

「初めまして。ミノリの叔父です。これから、是非にお世話になりたいと、義姉あねも甥も言っておりますので。一度ご挨拶に伺おうと思いまして」

「ようやくね、いいお医者様と出会えて。よかったわ。この子には、つらい思いはさせたくないもの。本当にね、ありがとうございます。若いのねぇ」

 色白で、ぽっちゃりとした老婆は、愛嬌よく微笑みながら、愛してやまないのであろう孫の頭を撫ぜた。だが、その愛嬌のよい雰囲気も、水っぽく浮腫んで垂れ下がったまぶたのために、気だるげである。

(この方、元々はお孫さんと同じ体質だったようだけれど)

「お祖母様は、体調の方はいかがですの」

「わたしですか。そうねぇ、歳を取りましたからねぇ。若い頃は、忙しなかったけれど、今は随分とのんびり屋になりましたわ」

「お体、怠くはありませんか」

「体は重いわねぇ。太りましたから。若い頃は食べても食べても太れなかったのに。今はね、大して食べないのに太っちゃうのよ。でも、年を取ると、みんな、こんなものじゃないのかと思うの」

(若い頃に働きすぎた臓器が、今度は動けなくなってしまったのかも。見て分かるのは、浮腫みくらいだから、なんとも言えないけれど。この人からも、お話を聞いたほうが良さそうだわ。ミノリ君や、カヲリさんのことも、もう少し知っておきたいし)

「診察の前に、少しお話をしましょうか。お上がりくださいな。よもぎのお饅頭がありますから。ミノリ君、よもぎは食べられるかしら」

「それって、甘いの」

「こし餡が、たっぷり」

「じゃあ、食べられる」

「もう、すみません。遠慮しらずで。おむすびを、たっぷりと食べさせてきたのに」

「子供が、食べ物で遠慮をするようじゃあ、寂しいじゃないですか」

 サラは四人を玄関に招き入れ、一室に通した。そして、茶菓子を用意する前に、厠に向かった。

「キラ、ミノリくんたちが来ましたけれど。出てこられる」

「ああ、うん。まあ、大丈夫だろう」

「それじゃあ、ぼちぼち来てちょうだい。ミノリくん、あなたに会いたいようだから」

「ちゃんと、行くよ」

 扉越しに声を掛け合う。キラは腹の具合が悪いと言って、昨晩から厠を頻繁に出たり入ったりしている。

(疲れた声。夜中、何度も起きていたから、そりゃあ、疲れているでしょうね。もう、出るものも無いでしょうに)

 サラは用を伝えたら早々にその場を立ち去って、客人たちをもてなす準備に取り掛かった。

「綺麗なお庭ですね。木陰で読書でもしたら、気が休まりそうだ。あれは、椿の樹ですか。庭木とは思えないほど、立派だ。幹が随分と太いですね」

 風通しのよい部屋で、円を描くように座り込んだ一同。ミノリの叔父は、熱い茶をすする。草花が活き活きと光を浴びる庭園を眺め、感心しきった様子で、緑の葉をつけた椿の巨木を仰ぎ、彼は言った。

「ええ、古いんです。四百歳くらいになるのかしら。元々は、二本の樹が隣り合っていたそうなんですが、成長していく際に、くっついてしまったようで。紅白の花が咲くんですよ。色違いの樹だったから」

「へぇ。根本から分かれて、二本の樹のようになっているものは、時々見かけますが。逆は、初めて見たな。不思議なことですね」

「悪い、悪い。ちょいと立て込んでてな」

 内の廊下側の襖から、キラが姿を現した。体調不良で動けずにいた、などとは言わずに、いかにも仕事をしていたふうに言う。

「兄です」

「あれ、家族が増えてら。なんだよ、サラ。先に言っておけよ」

「ごめんなさい、言ってなかったかしら」

「聞いてない。でも、そっちは祖母さんかい」

「ええ、ええ。キラさんね。ミノリとカヲリさんが、よく話してたわ。まあ、妹さんもだけれど、あなたも背が高いのねぇ。スラッとしていて、なかなか男前ですこと。ホホ」

「やあ、どうも、気さくな婆さんだな。ちょうど良かったよ。あんたからも話が聞ければな、って思っていたんだ」

「いくらでも、お話しますとも。こっちはね、ミノリの叔父。家計を支えてくれているのよ。我が子ながら、大したものだと思うわ」

 ミノリの叔父は、正面に座ったキラに軽く頭を下げた。

「初めまして。先日は、甥たちがお世話になりました。今後とも、よろしくお願いしたいと思い。一度、ご挨拶をと、参じました」

「そんな、堅苦しくしないでくれよ。どうせ、おれらはあんたより年下なんだから。しかし、キビキビしてるのも、いいね。おれも真似してみようかな」

 ミノリの叔父は、双子を見比べて、不思議そうな顔をした。

「双子のご兄妹で、よく似ていらっしゃると聞いてはいましたが、正直、話半分だったんです。男女の双子で、そんな、騒ぐほど似るものかね、と。しかし、これまた驚いた。本当に似ている。これは騒ぎたくもなります」

「男女の双子はそこまで似ない、って。よく知ってるな。そう、同性なら、見分けがつかんほど似るってのは、よくあるけれど。なんの仕事をしているんだい」

「教師です。まだまだ新米です」

「学校の先生。そりゃすげえや」

 ミノリの叔父は、照れくさそうに苦笑した。

「そのお年で、お医者をやっている方が、よほど凄いと思いますけれども」

「どうりで、博識だと思いましたの、納得しました。学校の先生ということは、外国の言葉も分かるのですか」

「読むことなら、多少は。話すとなると、自信はありませんが」

 カヲリがミノリの背を、ポンと叩いて、楽しげに言葉を挟む。

「この子は、外では遊べませんし、あまり学校にも通えないのですけれど。彼が文字を教えてくれたので、本を読んで暇をつぶせるんです」

「そりゃあ、良かったじゃない。で、どうしようかな。ちょっと、分かれて話したいんだけれど。ミノリと母さんは、おれでいいかな」

「それじゃあ、お祖母様たちは、わたしと。隣の部屋に、よろしいですか」

「ええ、ええ。分かりましたとも。さあ、イツキも、行くわよ」

「はい。では、甥たちを、よろしくお願いします」

 ミノリの叔父は、キラに一礼して、サラと、年老いた母とともに、その部屋を後にした。

「ここでお話ししたことは、あとで兄と共有しますね。お祖母様も、子供の頃から病弱でしたの」

「そうねぇ、ミノリほど小さいころは、そうでもなかったかしら。十二、三のころからね。あちこちの薬師さんに通ったのよ。でも、良くはならなかったわねぇ。でも、今になって思えば、なんだかんだ、一所懸命に診ていただいたし、お薬も飲んでいたわけだから。そうじゃなかったら、もっと悪くなっていたのかもしれないわよねぇ」

「そんなお具合で、出産されるのは、大変だったでしょうに」

「そう、大変だったわよぉ。でも、女の跡取りで、きょうだいはみんな、子供の頃に死んでしまって、一人だけだったから。仕方ないのよねぇ。大層な家柄でもないけれど、簡単に絶えさせられるものでもないし。ただでさえ、出産なんて、命がけじゃないの。それをねぇ、体の弱い娘にやらせるんだから、なんて酷い親たちだろうって、思ったのよ。母に言われたの、忘れもしないわ。死んでも産みなさい、って。そのくらいの覚悟でいなさい、ってことだったんでしょうけれど、本当に死んじゃうわよ。二十二のときに、長男を産んで、二十五のときに次男を産んだの。よく生きていられたと思うわ。夫も、家のことなんかしてくれないし。その分、外での仕事はキッチリとやってくれたけれど、病弱な妻を、もう少しいたわってほしかったわ。一人で子供の面倒をみて、家事をして。みんな、普通にやってるだろう、って言われてもね、よそはよそでしょう。わたしにとっては普通じゃないのよぉって、わめきたかったわぁ。もうね、今だから笑って話せるけれど、気が狂いそうだったわよ」

 コロコロと笑い声をあげて、老いた女は言う。命をつなぐ過酷さを乗り越えた女の強さだろうか。

(ミノリくんの叔父様、イツキさんが、今二十代の半ばを、過ぎたくらいかしら。なら、お祖母様はせいぜい五十歳くらいということなのね。もっと、十五歳くらい、年嵩かと思ってしまっていたわ。七十代と言われても、信じてしまいそう)

「なんだか、他人事ではありませんわ。うちも、代々、女が家督を継いできましたし。わたしたちの母は、兄とわたしを産んで、亡くなったので」

(家を、血筋をつなぐとは、そういうことなのでしょうね。わたしに託された役目。でも、もし。彼の子を、授かれなかったら。ああ、イヤだわ)

 気を抜けば、自分の宿命に向いてしまう視線を、サラは目の前の、今向き合うべき他人の方へと、引き戻した。

「お祖母様から見て、息子さんやお孫さんの状態は、ご自分の若い頃の症状と、似ておられますか」

「まるで一緒よ。だから、つらいだろうって思うわ」

 ミノリの祖母は、そこで少しばかり言い淀むように、口をもごつかせた。

「あのね。長男がわたしと同じような具合になって、お酒に浸ってしまったでしょう。しばらく、分かれて暮らしていたから、わたしも知らなかったのだけれど、カヲリさんに暴力を振るうなんてね。決してね、そのことを庇おうってわけじゃあないのよ。でもね、わたし、あの子が荒んでしまった気持ち、分かるのよ。どうにもならないの。気がせかせかして、苛立って。誰が悪いわけじゃないのも、分かっているのよ。でも、わめきたくて、しようがなくなってしまう。心が、おかしくなってしまったようでね」

 ミノリの祖母は、不安げな様子で、そう吐露した。

「心身は、切り離せるものではありませんから、身体を病んでしまえば、少なからず心も荒んでしまうものです。けれど、この病は、とくに心に影響しやすいようです。うちにある資料に、はっきりと書いてあります」

 ミノリの祖母は、キョトンとして、それから、こわばっていた肩から力が抜け、下がった。

「本当に。それじゃあ、わたしは。あの子があんなふうになってしまったのは、病気のせいで、あの子がひねくれてしまったからじゃあ、なくて」

「きっと、そうです。息子さんも、ご自分の心と闘っていたはずです」

「ああ」

 ミノリの祖母は、浮腫み細くなったまなじりから、涙をこぼした。

「けれど、カヲリさんや、ミノリが負った傷だって、そう易々と癒えるものではないでしょう。現に、ミノリが病を発症してしまったのは、兄貴にも原因があるんだから。それを思ったら、僕はとても、兄貴をかばう気にはなれないよ。家系的なものなら、僕だって、いつこの病気になるか分からないし、それを思ったら、正直こわいとは思うけれど。でも、カヲリさんに、暴力を振るうなんて。兄貴には、もったいなさすぎる人なのに」

 イツキが毅然とした口調で言った。彼の、実兄よりも、義理の姉につこうとする姿の奥には、果たして。

(彼、カヲリさんを愛しているのかしら。そうかもしれない。なんだか、ミノリくんに対しても、叔父というよりも、父親のように接している雰囲気を感じたし)

 サラは、そのように想像した。

「分かっていますとも、わたしだって。カヲリさんには、本当に申し訳なくて、どうしたらいいのか。聞いてくださいな、サラさん。あの人ね、元々、良家の娘さんなのよ。縁談だって、決まっていたのに。うちの子と一緒になるために、実家と縁を切ってまで。そうまで、あの子を愛してくれた。どれだけの幸せ者だったか。それなのに、それなのに。わたしは、カヲリさんにどうしたら詫びられるのか。うちの子のことは忘れて、幸せになって、なんて、言えません。だって、どれだけの覚悟で、あの子を愛すると決めたのかって、それを思ったら、忘れてなんて言えませんよ。でもね、幸せになって欲しいのよ。本当に、本当にいい人なんだから」

 ミノリの祖母は、ボロボロと溢れ出る涙を、手ぬぐいで拭きながら、思いを打ち明ける。その様子を、イツキは横目にして、痛みをこらえるような、苦しそうな表情で、黙って聞いている。たしかな同意を抱きながらも、なにか飲み込み難いものを口に含ませられているような、そんな雰囲気があった。

(わたしも、愛しい人を、堂々と愛せるのが、羨ましいわ)

 無言のイツキに、サラは同情した。そして彼女の意識は、また自分の境遇と、感情へと向いた。

 その後、兄妹と家族たちは合流し、午後までかけて、今後について話しあった。途中、何人かべつの患者が訪ねてきて、その都度、兄か妹が対応に出た。

「なんだか、すみませんねぇ。普段、他人様に、こんなことは話さないんだけれど。まして、自分の子供たちよりも、若い人にねぇ。カヲリさんがね、とても親身になって、話を聞いてくれるから、ついお喋りしてしまいました、って言っていたけれど、本当ね。なんだかね、お話ししたくなるのよねぇ。不思議だわぁ。こんなね、しようもないことを聞いてくれてね、どうもありがとうございます。ああ、そうだ。ホラ、アレだわ。お宮さまにね、お参りに行くと、なんでもお話しできてしまうじゃない。心の中でねぇ。それと、おんなじような感じだわ」

 老婆は、ポンと得心がいったように、手のひらを叩いた。

「体の巡りをよくすることと、同じですよ。心の中に溜め込み続けていると、淀んでいってしまいますから。涙と一緒に、苦しさを吐き出してしまうのは、とてもよいことです」

(わたしも、スクナさまには、お話ししてしまうわ。ただ、聞いてくださるから。お願いごとも、してしまうけれど。自分のことばっかり。わたしたちを頼ってきてくれる人たちの、健康を祈れたなら、立派でしょうに。わたしは、キラのぶんも、彼が望んでいるかどうかもわからないのに、願ってしまう。全部、他でもない、自分自身のため。でも、いいのよ。聞いてくださるだけで)

「そんな、大層なもんじゃねえぜ。なあ、祖母さんもさ、薬を使ったら、もう少し体が楽になると思うけれど。どうするよ」

「わたしは、もう歳だし、いいわぁ。それよりも、ミノリや、子どもたち自身のために、お金は使ってほしいのよ」

「でも、お義母さん。ようやく、詳しいお医者様が見つかったのだから。これまで、お体が大変だった分、よくなるのなら」

「そうだよ。僕の稼ぎも、安定はしているんだから。そんなに気を使わなくたって」

「いいの、いいの。わたしはね、こんなふうに気づかってくれる子どもたちに恵まれて、じゅうぶんに幸せよ。もうね、いいのよ」

 老婆は頑なだった。いずれにせよ、根本的に治癒させる方法は、スクナの資料にさえもない。ただし、彼女がじゅうぶんだ、と言うように、この年齢まで、適切な治療を受けることなく生きてこられたことが、奇跡のようなものであることは、たしかであるらしい。

「うぅん。それじゃあ、食生活だけでも、気を配ってみるといいよ。海藻類を控えて、魚を食べるといい。体や気分の調子が乗らないときには、大人しく休むことだな。アレをしなきゃ、コレをしなきゃとか、考えないように。関白亭主がもういないんなら、できるだろう。息子も娘も、このとおり、理解があるわけだし。調子がよければ、日にあたって、散歩したり、気晴らしに外に出るのもいい。だが、気が進まなけりゃ、縁側で寝てるくらいでもいいさ。とにかく、もう自分の心身を酷使しないことさね」

「そうねぇ。そうしてみます。でも、わたし、酢昆布が好きなのだけれど」

「控えるようにする、ってくらいでいいよ。食べるなとは言わん。好きな食いモンも食えないんじゃあ、それこそ気が滅入るからな」

「ああ、よかった」

 老婆は、水を含んで膨れた手で、ホッとしたようすで胸を撫でおろした。

「今夜も、旅籠にお泊りになるんですか」

 サラが尋ねれば、カヲリは頷く。

「ええ、昨晩泊まったところに、もう一泊して、明日の朝に帰ります。ちょっとした、旅行気分ですね」

「それさあ。毎度じゃあ、大変だろうって、妹と話していたんだけど。あんたさんらがよけりゃあ、うちの空いてる部屋に、いっそ住み込んでくれねえかな。ミノリの具合、近くで見ていたいんだ。次来るまでに、考えておいてくれよ」

「えぇッ」

 思いもかけなかったのであろう提案に、カヲリは声を上げた。

「あのォ、そうすると、わたしもお邪魔になりますけれども」

「こんな子供を、何ヶ月も親から引きはがす気はないって。向こうに、離れがあるだろう。こっちの母屋とは別に、厨も厠もある。ただ、しばらく人が入っていないから、一旦大掃除をしなきゃいけないと思うけれども。部家賃はいらん。ただ、母さんに家事を手伝ってもらると、ありがたい。二人で管理するには、広すぎるんだよ、この家は。ミノリは遊んでな」

「それは、わたしを働かせていただけると、いうことですか」

「給金って形で、渡せるかどうかはわからんが、そうだね。ミノリの薬代なんかは、あんたの働いた分から差し引けるかなって。こっちも人を雇ったことがないんでな。実際にやってみながら、色々考えるつもりでいるんだけれどさ。もし、早めにどうするか決まったら、手紙を寄越してくれ。住み込むようなら、片付けておくよ。そうしたら、次来るときには必要な荷物、持ってきていいからさ」

「でも、そんな。ずっと他人がお家にお邪魔していたら、ご迷惑じゃないですか」

「昔は、患者を住まわせてたんだよ。だから広い。最近は人手がないから、やってなかったってだけさ。夏の間くらいは、診させてもらいたいな。こっちの都合で、早まっちまうかもしれないけれど。それでもよければ」

「えっと、母親としては、この子がよくなる方法を探していただけるなら」

 カヲリは、他人事のような顔で爪をいじっている息子を見て、斜め後ろの義母をチラと見た。

「カヲリさん、わたしのことなら、気にしないで。大丈夫。自分のことはやりますから。いつも、家事をほとんど任せてしまっているし、ご近所づきあいだって、面倒でしょう。ミノリだって、本当はわたしよりも、お母さんと過ごしたいでしょうに」

「ぼく、おばあちゃんと折り紙するのも好きだよ」

「ありがとうねぇ。ミノリはやさしい子だねぇ」

 祖母は喜ばしげな笑みをあふれさせ、孫の柔い頭を撫でた。

「ありがたいことじゃないですか、義姉さん。こんなに、親身になってくれるお医者様は、なかなかいないよ。先生、ミノリの暇つぶしの本だとか、送らせていただいてもよろしいですか」

「もちろん。むしろ、会いに来てやってくれよ。先生に、先生って呼ばれるのも、不思議な気分だな。まあ、結構、乗り気だね。今日、決めちまうかい」

「ミノリ、どうする」

「いいと思う」

「それじゃあ、お願いします」

「よし、分かった。次は、半月後だな。そのときに、荷物を持って来てくれ。離れを住めるようにしておくから」

 すっかりと日が暮れれば、街路は提灯の明かりで賑わう。館の門から出ていく一家を、双子は見送った。

 長らく、世間と隔絶されていた空間。そこに、加わろうとしているもの。

(それを、好ましく思えないのは、わたしだけなのね)

 重い門を閉じれば、再び遠ざかる俗世。玄関へと戻る道すがら、サラは兄の袖端を掴んだ。クイと引かれて、キラは背後で立ち止まる妹を振り返った。

「どうしたの」

 どこかションボリとした様子のサラに、キラは問いかけた。サラはもじりとして、かぼそく呟いた。

「他人がいたら、触れ合えない」

 キラは黒い瞳をパチリとさせて、それから思わず、といったふうに短く笑った。

「そういうことは、相談したときに言いなよ」

「だって、自分のことばっかりで、浅ましいでしょう」

「ちがうね。おれのためさ。わかってるよ」

「いいえ。わたしは、本当に、自分のことしか考えていない」

「でも、それは結果的に、おれのためでもあるんだよなぁ」

 兄の腕の中におさまってしまえば、サラは、小柄で、華奢な娘になれてしまう。兄の温かな胸に体をくっつけていれば、彼女の心は容易に蕩ける。

「あの人らが住むのは、離れだよ。母屋とは距離がある。昼間はこっちにも出入りしてもらうけれど、夜は別さ。おんなじ囲いの中にいたって、おれたちが何をしているかなんて、分かりゃあしない。まあ、こんな庭先で抱き合ってたら、さすがに危ないけれど」

 サラは震えそうになる肩を、必死におさえつけようとする。兄の背に回した腕に、力をこめた。

(残された時間が少ないことを、あなたは分かっていて、こうすると決めた。きっと、あの子が最後だから。子供の頃、真面目に勉強していたわたしより、よく抜け出しては、お祖母さまに叱られていたあなたのほうが、よほど、この仕事に誇りを持っている。わたしは、あなたのようになれない。どうしても、割り切れない。覚悟もできない。一人になるのが、不安で仕方がないの)

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