文芸ファンタジー×ヒューマンドラマ

偽椿
夏(上)

 広大な庭園が、新緑に覆われ、躑躅ツツジと芝桜、石竹セキチクが華やいで、雲の少ない空の青色は澄みわたり、日は尚のこと暖かみを増してきた頃。

 古い館の、長らく人の入らなかった場所が開かれていた。朝日の差し込みやすい部屋の障子紙は張り替えられ、真新しい糊と古い畳のにおいが混ざりあっている。

 病弱ながらも心根が活発な少年は、日々庭に出ては、草花や樹木、石岩に触れ、虫を見つけては観察して、疲れれば部屋に戻って、その年頃の子供にはいささか難しいはずの書物を読み、昼寝をして過ごす。

 そして、彼とともにやってきた母親は、朝日が部屋に差し込むのと同時に目覚め、身支度をし、近頃は寝付きのよくなった息子を寝かせておいて、母屋の厨に向かい、その家の当主である若い娘とともに、朝餉の用意をする。

 ミノリと、カヲリが医館の離れに滞在を始めて、十日余り。やってきた二人も、受け入れた二人も、少しずつ、新たな生活に慣れ始めていた。

「思っていたより、手際が良いよな。元々、良いところのお嬢さんだって聞いていたから、そんなに家事をコロコロと済ませられると、思っていなかったんだけれど」

 今朝はカヲリが炊いたという米を口に運びながら、医館の主の双子の兄は言った。

「実家を離れて、ずいぶんと経ちますし。それに、一応は実家でも、このくらいはできるようにしておけ、と、教えられましたから」

「お手伝いさんとか、いたんだろう。縁談の話を持ってきた家の方だって、裕福だったろうし。それでも仕込まれるもんなのか」

「実際に、使う機会があるかどうかって、たぶん、あんまり関係ないんです。だから、わたしも思いましたよ。意味あるのかなぁ、って。でも、今こうしてお役に立てているのなら、ちゃんと意味はありましたね。炊事も洗濯も、結構楽しかったので。却って、やらせてもらえる環境にいられるのは、嬉しいですよ」

「使用人がいるような家の奥様じゃあ、ミノリの好物も、作ってやれなかったろうしな」

 ミノリはいつも、椀に盛られた米よりも、母の手で握り固められた米を好んだ。今朝も、彼の膳に並べられたのは、ころりと丸みのある、三角形のむすびがふたつ。

「ミノリ、躑躅の密、吸ったか」

「うん、三つ」

「こら、勝手なことしないの」

 毎年咲く、鮮やかな躑躅の花が、満開になっている。今頃は、虫たちが甘い蜜を求めて、その周辺を飛び回っている。庭の散策などしなくなって久しい兄妹だが、知っている。

「いいんだって。どうせ、ほうっておいたって枯れちまうんだし。あれ、当たり外れがあるよなぁ。虫に先取りされてると、ちょっとばかし渋いだけでさ。枯れる前に、密は吸っとけよ。もったいないからな。吸い終わったら地面に花を落とさないで、葉っぱの間に戻しておくんだ。そうすると、遠目ならバレない。懐かしいな。ガキの頃、散らかしてババアに叱られたっけ」

「ちょっと。お祖母様のこと、そんな風に呼ばないの」

「いいじゃん、愛ゆえに、ってやつだよ」

 カヲリがクスリと笑った。

「キラさん、やんちゃでしたのね。口ぶりが、そんな感じはしますけれど」

「まあ、そうかもな。でも、おれがやんちゃだったなら、こいつだって相当だぜ。躑躅の花を吸ったら戻しておこうって言ったの、サラなんだから」

「やめてよ」

「おまえだけ格好つけようったって、そうはさせないよ」

「あら。意外。サラさんってば」

「む、昔の、子供の頃の話ですから」

「今でこそ、こんな感じだけれど。子供の頃はおんなじ遊びをしていたし、性格だって、結構似ていたよ。膝小僧丸出しでさ、木登りするのが好きだったもんな」

「ひどい。どうして言うの、それ。あなただって、わたしの服を着て、化粧して遊んでいたくせに」

「うん。なかなか、可愛らしかっただろう、おれ」

「なんで、堪えないの、この人。やだ」

 カヲリはまた笑う。

「今は、なさらないんですの、お化粧」

「流石にねぇ。タッパがな」

「でも、お顔立ちは綺麗ですもの。きっと映えますよ」

「そうかい。じゃあ、今度またやってみようかな。でもなあ、着られるものがないからなあ。外には行けないね」

「着られるものがあっても、女装して外になんて行かないでよ」

「美人姉妹の医館で、人気が出すぎちまうからな。大した用もない連中に押し寄せられたら、困る。男に言い寄られてもォ、困るゥ。殴っちゃかもォ」

 キラは箸を持った手をくねらせて、口調をなよらせた。別段、声をつくるでもなく、大人の男の声になって久しいのを、そのままで、わざとらしく女の真似事をするのを、サラは気味悪げに、カヲリとミノリは面白げに見ていた。

「でも、たまに聞きますよね。男の子を、女の子として育てる家系とか、地域とか」

「願掛けだよな。子供の頃は、大体女のほうが丈夫だから。昔は今より、子供が死にやすかったし。うちもそうだよ。昔は男が生まれると、女装させていたらしい。一時期はもうちょっと、激しいこともしていたみたいだけれど。でも、身なりだけ女にしたってなァ。意味がないって気づいたんだろうね。いつの間にか、やらなくなったよ」

「お兄ちゃん、女の子やってたの」

「お兄ちゃんは、ずっと男をやってるぞ。風呂で見ただろう、おまえの股に付いてるのと同じで、もっとデカいやつ」

「食事中に、やめてちょうだい」

「あっ、そう。食事中じゃなけりゃあね」

「そうじゃなくて。周りに誰がいるのか、考えて話してよ」

 サラがピシャリと言う。育ちの良いカヲリは、品のない話題やら、言葉には慣れていないのか、いささか居心地が悪そうだった。

(経産婦がなんだってんだよ。生娘じゃあるまいし)

 キラは内心で呆れながら、妹の言葉に素直に従ったような顔をして、ワラビを出汁で煮たものを口に放り込んだ。

「いえ、あのォ。この子も、そのうちには、母親には話しづらいなあと思うようなことが、でてくるんだろうなあ、と思って。は、いるんですけれども。わたしは、あまり知識もありませんし。キラさんって、どうしていましたか。お父様は、いらっしゃらなかったんですよね」

(ああ、そういう悩みか)

 繊維質な山菜を呑み込んで、キラは一旦、箸を置いた。

「うぅん、そうさねェ。おれはなぁ、育手そだてのババアが医者だったしなぁ。たぶん、そのせいもあるんだろうけれど、遠慮がなかったな。訊けば、答えが返ってくるからさ。恥ずかしいとか、思ったことがねえや」

「あなたに、羞恥心が欠けているだけなんじゃないの」

「なんで、おまえらが恥ずかしげもなく女体について飯の席で語り合ってんのに、おれだけ恥ずかしがらなきゃいけねえんだよ」

「それは、そう」

 サラは、納得した、というよりも、諦めたようだった。

 キラは再び箸をとって、食事を再開する。

「ミノリは、なにかあったら、叔父さんに話せばいいんじゃないか。信頼関係、しっかりつくっておけば、平気だろ」

「ああ、イツキさん。たしかに、そうですね。身近な同性で、年上で。先生だし」

「そうそう。医学的な観点から見て、どのくらいの知識があるかは、分からんけれど。変なことは、吹き込まないだろ。あの人なら」

「彼に、お願いしておきます。今のうちから」

「きっと、それがいいよ。ところで、ミノリは最近、外で遊んでいる時間が長くなってきたな。具合はいいか」

「あのね、クラクラしなくなってきた」

「バクバクは」

「あまりしない」

「よかった。少し、敷地の外に行ってみてもいいかもな。今の時期は、暑すぎないし、寒くもない。あの、デカい社のさ、そばの公園とか。歩くと遠いが、人が車引いてくれるから、気が向いたら、行ってみなよ。祭りの時期だと賑やかだが、今は静かだと思う」

「お兄ちゃんたちと、行きたい」

「ミノリ、お兄さんも、お姉さんも、忙しいから」

「はは。いいじゃん。ねえ、サラ。次の休み、おれらも行こうか」

 休館日は、キラの体力を回復させるために、サラもともに、しばらく館に籠もっていた。二人揃って外出するとなれば、ふた月ぶりになるかもしれない。

 サラの胸は、踊るように高鳴った。だが、同時に。

(大丈夫なのかしら)

 妹の心に湧いた不安を読み取ったように、兄はすかさず言葉を繋いだ。

「ここ最近、ずっと引きこもっててさ。こんなに天気もいいんだ。たまには外に出ないと、気分がね」

(ああ、そうよね)

 なにも、好んで籠もっているわけではない。庭園は、四季の色合いを常に見せてくれる。だが、この場所からだけでは、感じられない多くのものが、囲いの外にはある。キラは、それを求めている。

「次のお休みは、五日後ね。行きましょう」

「やったぁ」

 兄妹にすっかりと懐いている少年は、いくらかふっくらとしてきた頬を、やわらかくゆるませた。

「女に生まれたかったって、思ってるの」

 朝餉の片付けを終え、各々が昼間の仕事の支度へと向かう。ミノリは体調を観ながら、遊びと勉強の予定を立て、カヲリは洗濯と掃除、午後に買い出し。双子は薬師、兼医者としての仕事。

 常の仕事着に着替える折、後ろの方で同じように身支度を整えている兄に、サラは問うた。

「は。なんで。ああ、女装がどうとかって話か。あんなの、真面目に受けなくて、いいのに」

 キラは朝食時の自らの発言をかえりみて、フム、と薄い唇を指でなぞった。

「まあ、そうさな。この家に男で生まれたのは、運が悪かったかなって、思うけれど。女同士の双子だったら、一緒に長生きできたかもしれないし。でも、女同士じゃあ、命をつくるって、できないからなぁ。どうだろうね。そんな目標も持たなかったかもしれないし、持ったとしても、おまえを選ぶことはしなかったんだろうな」

「今と、関係は違ったかしら」

「たぶんね。おれは、おまえに迫らなかっただろうから。仲のいい姉妹では、いられたかもしれないけれど」

 そうして、キラは帯をきつく締める。

「わたしは、あなたが姉だったとしても、今と同じように愛したかもしれない」

 サラは椿の胸飾りを留めながら、呟いた。

 キラは無言で、妹と揃いの胸飾りを留め、髪に垂れ紐を結び、仕上げに己の姿を、鏡に映して確かめる。

「そう。そいつはなんだか、不思議だな」

 ポツリと応える。

「ええ。本当に、不思議」

(姉妹だったら、容姿も性格も、まるでそっくりだったかもしれない。それでも、あなたに恋したかも、なんて。変な話よね)

 不毛な、たられば、の話。

(そうよ。容姿も性格も、今のあなたとは違うんなら、あなたとは、言えないでしょうに。それなら、わたしはあなたの、なにに惹かれているの。でも、想像してみなかったことはない。あなたが女に生まれて、同じくらいの時間を、心配もなく過ごせたかもしれない道を。そうして、気づくの。空想の中で、当然のように、あなたを愛している私に)

 またいつものように薬を受け取りに来た、馴染みの老爺は、キラの姿をひと月ぶりに目にして、白い眉をひそめた。サラは、隣の部屋で別の患者を相手にしている。男二人になって、老爺はいよいよ口に出さずにはいられなくなったらしい。

「痩せたんじゃないかね。飯は食っているんだろうね」

「食ってるよ。だが、腹の具合が、ずっと悪い」

「それだけかい」

「いいや。他にも色々」

「サラちゃんには、いくらぐらい話してあるのかね」

「べつに、改めて言ってはいない。けど、気づいてるよ、おれの具合がずっと悪いことは。おれが何も言わんから、あいつも訊いてはこない」

「いずれは、言わんといかんじゃろうに」

「わざわざ、言葉にしたくない。動けなくなったら、その時さ。嫌でも世話になるんだ。今は、それぞれで、気持ちを固めてる最中なんだよ。きっと」

 老爺は低く唸りながら、巾着袋に、渡された薬を詰める。

「そのうちさ、大叔父さんの話、聞きたいと思ってるんだ。あいつと一緒に。知ってるだろ、色々と」

「病状についてなら、手記に残っているだろう。儂が話して、役に立つことがあるかね」

「どういうふうに、振る舞ってたのか、とか。そういうのだよ」

「そういうのならな、いくらかは話せるだろうけれども。今のおまえさんと、似たようなもんだったぞ。あいつは、仕事はしとらんかったが」

「そう。それならそれでいい。知りたいだけだからさ。盆の頃にでも、頼むよ」

 老爺は口を締めた巾着袋を、膝の上に置いて、天井を仰いだ。

「難儀な家柄じゃ」

「本当にな」

「アレの分も、長生きしてやろうと思ったもんだが。お前さんの分も、となったら、儂は仙人になるしかあるまいて」

「おれの分はさすがに、サラに任せるよ」

 老爺の寂しげな冗談に、キラは淡く笑った。

 しだいに、続かなくなる体力。それを保たせるための気力にも、限度がある。

(まだ、振り絞ろうと思えば、できるが。それで、明日にでも倒れるよりは、このほうがマシだ)

 近頃は、正午を過ぎたあたりで、仕事を切り上げ、横になって休憩を挟むようになった。一眠りして、夕暮れ時に、少しばかり回復していれば、帳面をとる。

 元々、二人で患者を分担しながら運営していたわけなので、一日の数時間、片方が抜ければ、その分の負担は、もう片方に掛かる。新しく訪ねてくる患者の多くを、断るようになった。

 飾りやらを外し、着物を寛げて、奥座敷の畳の上に横たわるキラは、昼餉を終えてまた庭で遊びはじめた少年の姿を、ボンヤリと眺めている。

「お買い物に行ってきますね」

「はぁい。お願いしまぁす」

 財布を片手に、草履を足に掛けて、暖かな、少しばかり熱い日差しの下に出ていくカヲリの声と、応えるサラの声。

「よろしく」

 と、腹や喉に力を入れる気力も湧かず。誰に聞こえるわけでもない、呟きにしかならない声で、門を出ていこうとする背を、キラは見送った。

(できないことが、増えていく。情けない)

 高い日が、熱光で青い畳を焼く上に横たわっていたキラは、その熱さから逃れるために、部屋の奥の方へ転がった。

「ハァ。腹、いてぇ」

 長身を丸めて、明るい庭に背を向けて、ずっと微熱の下がらない汗ばんだ胸元に、家の中を渡り冷えてやってきた空気を、触れさせ、彼はひとり呟いた。

 そしてやってくる夕餉の時間。その準備も、風呂の用意もできなくなった。そんなキラにできるのは、不調を誤魔化すことくらいだった。

「ミノリ、間食減っただろ」

「うん。前より、お腹が空かなくなった」

「そうか。でも、ほっぺたも腕も、ぷっくりしてきた。まだ、ずいぶん痩せてるけどな」

 ミノリは言われて、自分の頬をつまんだ。薄い肉が、細い指の間で伸びる。

「ふふ。おかげさまで、ずいぶんと健康的な体つきになって」

 カヲリは息子の頭を撫でる。髪も太くなり、透けて見えていた頭皮も隠れてきた。

「出かけるの、楽しみ」

「明日だな。五日間、長かっただろ」

「うん」

「楽しみなことが控えてると、長く感じるよな。ンッ」

 煮物の牛蒡ゴボウを噛んでいたとき、前触れもなく、温い液体がキラの口内に広がった。彼はそれを、呑み込む。喉奥にまとわる塩味と、釘をかじったような気色悪さ。

 会話の途中で、ピタリと動きを止めてしまったキラを、三人が見つめている。彼は口元を手で覆う。

(だめだ。溢れてくる。呑めん)

「ンゥ。ン」

 キラは眉をハの字にして、片手で覆った口をもう片方の手で示して、慌てた様子で立ち上がった。そうして、隣の厨に下りて、襖を閉めて出ていった。

「どうなさったのでしょう」

「噛んだのかしら。ちょっと、見てきますね。お食事、続けていてくださいな」

 サラは兄の後を追って、またシッカリと襖を閉じて出ていった。

「どうしたの」

 勝手口から外に身を乗り出し、口の中身をペッペッと吐き出している兄に、サラはそっと近づいて訪ねた。

「ちょっと、水を取ってくれないか」

 サラは柄杓に水を汲んで渡した。キラは口の中を洗い、また水をペッ、と砂利の上に吐き出す。暗がりに、薄紅に染まった水が散る。

「噛んだの」

「いや。ああ、だめだな。止まらん」

 キラはまた水を口に含んで、吐いた。結局、兄はどうしたのかを答えないので、サラは壁に掛けてあった燭台を持って、また彼のそばに戻った。

「口、見せてちょうだい」

 強めの調子で言えば、キラは観念したように口を開けて、妹に見せた。

 腫れた下の歯肉が、削げていた。出血はそこからのものだが、そもそも、キラの口の中はひどく荒れている。頬の内側、唇、舌、上顎に、丸い抉れが無数にあり、舌の上からはあるべきひだが消え、つるりと赤くなり、全体がただれている。

「いつから」

「覚えてない」

「こんなの、食事どころか、話すのだって大変だったでしょうに」

「慣れだよ」

「慣れるほど、黙っていたのね」

 サラはジッと、キラの目を見つめた。キラは居心地悪そうに、スッと目をそらした。

「明日、明るくなったら、もう一度見ますから。喉も荒れているんでしょう」

「見ても、どうしようもないだろうよ」

 キラはまた口の中に溜まってしまったらしい血を、砂利の上に吐いた。

「綿を挟んでおかないと、だめだな。悪いが、夕飯はもういい。二人には、適当に。噛んだとでも言っておいてくれ」

 キラはもう一度口をすすいでから、処置用の道具が置いてある部屋に向かう。

 蝋燭の淡い光に照らされた、砂利の上に滲む、赤黒い血液を見下ろし、サラはかぼそく、震える息を吐いた。

「お口、大事はありませんの」

「結構、大事だな。まったく。飯を食ってて、頬を噛みちぎるような間抜けだよ。笑ってくれや」

 一晩、キラは綿を口に詰めて過ごした。隣で横たわりながらも、いつまで経っても眠らない妹は、夜中にソっと、兄の背にすり寄った。

 そう、怖じるなよ。こんなもの、序の口に過ぎないんだから。

 綿の入った、動きづらい口で、背にすがる妹に、そう告げた。ヒュッと詰まる息の音。

 ああ、憐れな女。色濃い血を分けた、双児の片割れ。のみならず、先のない、早々に壊れ死ぬことが、生まれながらにして決まっていた男。そんなものに、恋慕してしまうなど。

 ああ、しかし。そうなるように、仕向けてしまったのは、おれだったか。

 そんなことを思いながら、兄は鉛のようにのしかかる倦怠感に、靄がかる意識を委ねた。

 そうして迎えた朝。そばに妹はいなかった。朝餉だ、と呼びに来た彼女は、いつもの、キビキビとした娘だった。

 キラは、ぬるい粥を口に運ぶ。

(サラにバレちまったからには、もう、ずっとコレだろうな。正直、飯の味なんて、しばらく前から分からなくなってはいたし、口にも腹にも、この方がいいのは、確かだが。いよいよ、病人だ。延々と粥しか食わなけりゃ、この人らにも、怪我したから、なんてもので誤魔化せなくなる)

「出かけられるの」

 握り丸められた米をみ、ミノリは不安げに、キラを見上げた。

「平気だぞ。足腰をやっちまったわけでもなし。悪いな、心配かけちまって。しかし、今日は天気がいい。暑くなりそうだ。青空に、緑が映えるだろうな」

 ほとんど液体の食事を、キラは早々に終える。他の者達が口に運んでいく食物を、彼は眺める。どこか気の抜けた雰囲気でも、漬物と米を口に入れて咀嚼する妹の姿に、キラはひそかに嘆息する。

(この人らが、いてくれてよかった。二人きりだったら、サラはきっと、俺と同じものしか食わなかったろうから。家主が二人して粥しか食わないのに、客人が普通の食事なんて、気が引けるに違いない。そうだ。おまえは、この人らのために、ちゃんと食え。この、痩せっぽちの子供が、遠慮しないでいいように、おまえは食わなきゃならない。それでいい。ああ、よかった、この人らがいてくれて)

「茶でも淹れてくるかな」

 キラは軽い膳を下げがてら、その空間から離れた。

「すごい。広い」

 人の引く車に乗って街を抜け、高台に大社をのぞむ公園へと、四人はやってきた。幾千本にも及ぶ梅の木々。花はとうに散り、緑の葉の合間に、かすかに赤みを帯びはじめた、丸い青実がのぞく。

 社の奥に、紫が枝垂れている。満開の藤の花を背負う、薄緑の屋根。まばらにも絶えない参拝客が、長く広い石段の両端を、ゆったりと移動していく。

 鮮やかな模様を滲ませた、鯉が泳ぐ池のほとりに降ろされ、長く隣町に住んでいた親子は、感動をあらわにする。

 水面には白い睡蓮、浅瀬には水芭蕉、あたりには鮮やかな紅色をした芍薬と、菖蒲かあるいは燕子花カキツバタが花開く。そのほか、開花の時期を過ぎたか、まだ迎えていない多年草が、足場となる石の道を避けるように根付いている。

 陽光は、静かに揺れる水面に跳ね、魚の鰭にあおられた睡蓮が、時折フラリと揺れる。

「ここ、初めて来たのかい」

「ええ。隣町でも、有名でしたし。来てみたいとは、思っていたんですけれど」

 カヲリはうっとりとしたような、心を奪われたような、気の抜けたような、子供がえりしたような顔をして、人の手によってつくられた自然の中、あたりをたしかめるように、ゆったりと、目と、体を回した。

 ミノリは池のほとりにしゃがみ込み、寄ってくる鯉の群れの中に指を入れて、跳ね上がった飛沫に腰を抜かす。

「はは。餌をくれると思ってんな、こいつら」

 キラは笑って、石の上に尻もちをついている少年の後ろに立った。

「餌やりは、どなたが」

「生き物の管理は、あちらの神主さまが」

 カヲリの問いに、サラは藤を背負うスクナの大社を示した。

「あ、そういえば。そちらの神様は、お二人のご先祖様だと。街の方にお伺いしました」

「ええ、そういうことになっています」

「今更ですけれども。改めて、本当に、ご立派なお家なんですねぇ」

「あんなに、大きな建物が必要なほど、栄えていた時期もあるようですけれども。今はもう、二人きりです」

「いずれ、栄えますよ。また」

 カヲリは笑う。サラも微笑む。

(そんなこと、どうでもいいの)

 サラは、少年と笑い合う兄の背を、まぶしげに見つめた。

「水辺って、いいなぁ」

 石の上に膝を抱えて座り込み、小石を池の中に投げ入れながら、ミノリが呟く。

「なんだよ、しみじみと。落ち着くのか」

「うん、それもあるけど。家の近くに、川があって、友達がよく、みんなで遊んでる」

「混ざりたいのか」

「うん。いいなぁ、って。でも、流れが急だし、危ないから。土手の上から眺めてるばっかり」

「川か。この近くにあるぞ。浅いし、流れもゆったりしてる」

「いいなぁ。行ってみたい」

「じゃあ、行くか。まだ、水は冷たいだろうけどなぁ。まあ、せいぜいおまえの膝下くらいまでだ。女二人は、ここでのんびり話していたそうだから、とりあえず、声だけ掛けてくる」

「うん」

 期待に大きな目を輝かせながら、少年は石の上から小尻を離した。

「広ぉい」

 少年はまた、感激の一言をもらした。

 きらめきながら、緩やかに流れる大量の水。水底の丸石を転がし、縁の岩にぶつかりながら、一方へと進む水は、穏やかにせせらぐ。

「入ってもいいの」

「気をつけろよ」

 羽織を川岸の玉砂利の上に放り、着物の裾をたくし上げて、裸足になったミノリは、流れる水の浅いところに足をひたした。

「うわぁ」

「冷たいか」

「冷たい」

 けれども、少年は感動のおももちで、パシャリ、パシャリと、細い脚で水をもてあそぶ。

「あっ、魚」

 水流の中に、きらめく生き物のすがたをみつけた少年は、奥の方へと進んでいく。彼のふくらはぎまでが、水にひたる。

「どれ、おれも久々に入ってみるかな」

 キラは袴の裾を折って、腿まで上げた。草履と足袋を脱ぎ、乾いた玉砂利を素脚で踏みつける。日で温められた石は、少しばかり熱い。

(気をつけていれば、転ぶことも、そうそうないだろうが。川遊びには慣れていないだろうし、万が一のときには、手が伸ばせる距離にいてやろう)

 キラもまた、水の中へと足をひたす。予想のとおりの冷たさには、驚きもしなかったが、冷感はジワリ、ジワリと骨まで染みてくる。

(ミノリは、少しくらい足を冷やしても、平気な体質だからな。けれども)

「あまり、長居はしないぞ。体が冷えすぎたらいけない」

「うん」

 ミノリは、水流に逆らう向きで漂う小魚を、ジッと眺め続ける。追うでもなく、捕まえようとするでもなく、ただ眺めている。

 キラは少年の方へと歩み寄りながら、ふと、過去に思いを馳せた。

(もっと、暑い時期だったな。サラと、おれとで、この川で遊んでいたのを、河原の、ああ、あの石だ。あの石の上に座った婆さんが、眺めてた。どんな表情をしていたっけ。おれたちは、なにがそんなに楽しくて、笑っていたんだっけ)

 足に絡みつく水の感触が奇妙らしく、ミノリははしゃぐでもなく、ただ静かに、浅い川の中にいる。

(なんで、おれはこの子供が、気にかかってしかたがないんだろうか。同情しているのか。この子供が、少しでも元気になると、おれは自分が救われたような、そんな気分になる。歳は、十二下か。微妙な差だな。兄弟気分になるには、少し離れているし、親子気分になるには、少し近い)

 沢にいるにしては大きな蟹が、ノロノロと水底を歩いている。銀色の小魚に夢中でいるミノリの足元に、彼の背後から歩み寄っていく。

「デカい蟹」

「えっ、なに」

 ポツリと呟いたキラの声に、言葉に、ミノリが振り返る。足元に迫っていた生物の姿に、彼は驚き、たたらを踏み、水流にとられた脚をもつれさせる。

「ぎゃぁ」

 こんな事もあろうかと。そのつもりで少年の近くにいたキラは、転びかけた子供へと手を差し伸べた。

(あれ、なんだ)

 キィン、と、頭の中で高い鐘の音が響いている。滲む光は、眼球を突き破るよう。間近に感じる人の気配、しかしその声は奇妙に遠い。冷水ひやみずが血管を通り過ぎる。生気を攫っていかれるような心地。

「にいちゃん、にいちゃん、大丈夫ッ」

 抜かれた生気を補うように、体が必死になっている。かろうじて繋ぎ止められた意識を、手繰り寄せ、掻き抱く。

「あッ、ミノリ、大丈夫か」

 我を取り戻したキラは、グッと首を起こした。水を吸った着物が、重く肌に貼り付いている。

「大丈夫、僕は。引っ張ってもらったから」

 少年は、乾いた玉砂利の上に膝をついて、不安げにキラを見つめていた。濡れ鼠にならず済んだらしい。

「痛いところはないか」

「平気」

「よかった」

(しかし、俺が倒れちまうとは。貧血か。なにも、今じゃなくたって)

 とりあえずは、立ち上がって川から出なければ。キラは体を支える腕に力を入れた。

「ウッ、てェッ」

 左腕から走った激痛に、彼は驚き大勢を崩し、また水の中に沈む。

「にいちゃん、怪我したの」

 ミノリが裸足で川の中に入り、キラに寄った。

「う、うん。ちょっと、強く打ったかな」

(折れたな、これ)

 少年には曖昧に答えながら、キラは冷静に腕の状態をさぐった。が、まずは探るまでもなく、折れたと判った。

 キラは右手の無事を確認しつつ、体をズルズルと動かした。濡れた石を巻き込みながら岸に移動するさまを、ミノリが見守っている。

「ごめんなさい。ちゃんと、気をつけようと思ってたのに」

「ん、ミノリのせいじゃないぞ。俺が、ちょうどクラっとしちまうのと、おまえが転びかけるのが、重なっちまっただけ。支えるつもりだったんだけど。悪いな、放り投げちまったよな。本当に、怪我してないか。擦りむいたりとか」

「ん、膝のところ、少しだけ。でも、痛くないし、血も出てない。大丈夫」

「そうか」

 腕の痛みは鋭く、ゾッとするほどに激しい。それを堪えながら、キラは冷静であるように努めて、負傷箇所を検分する。

(手首、じゃあないな。前腕だ。尺骨が折れたのか。橈骨とうこつは、どうだ。くそ、わからん)

 前腕の外側の肉が、奇妙に歪んでいる。前腕の芯となっている二本の骨のうち、より太い一本が、半ほどでポッキリと折れているのは確実で、しかしもう一本がどうなっているのかを確かめるには、痛みがあまりにも邪魔だった。キラは検分を諦め、大きく息を吸い、吐いた。

「母さんらのところ、戻ろうか。俺も、サラに手当してもらわねえと。自分じゃあ、できそうにねえや」

 責任を感じているのか、泣きそうな目をしている少年の頭を、痛みのない方の手でポンと撫で、キラはフラリと立ち上がった。水を吸い重くなった着物を絞る余裕もなく、素足のままで、草履に指を引っ掛ける。

(ただでさえ、貧血起こして倒れたってのに。骨まで折っちまうとはな。背中も打ったのかな。腕が痛すぎて分かんねぇ。でも、頭を打ち付けなかったのは、不幸中の幸い、ってところかな)

「ああ、ありがとう」

 ふらつくキラの腰に、ミノリは細い腕を回す。長身の青年を懸命に支えようとする、痩せた子供の気遣いを、キラは受け入れることにした。

 ずぶ濡れのキラと、彼に涙目で寄り添うミノリの帰りに、池の畔でくつろいでいた二人の女人は驚愕の表情を浮かべ、その姿をみとめるなり、パタパタと男子らに駆け寄った。

「なに、どうしたの、一体」

「軽い目眩でな。うっかり。手をついたときに、怪我した」

 キラは、迫る妹に告げた。左腕を庇いながら、青ざめた顔をして。

「僕が、川の中で転びそうになったから」

「まあ」

 母親のもとに戻り、緊張が切れたのか、グスグスとミノリは泣き出した。息子の言葉足らずな説明にも、カヲリは要領を得た顔をした。

「そんな。ごめんなさい」

「いや、いや。違うんだって。偶々、おれも目眩を起こして、一緒になって転んじまったんだ。本当は、軽く支えるつもりだったのに。却って、変に掴んだまま放り投げちまったと思うんだ。ミノリに余計な怪我をさせるところだった」

 キラの言葉を、どのくらい真に受けたのか。カヲリはミノリをなだめてから、羽織を脱いで、背伸びをする。練色の羽織をキラの頭に被せ、つま先立ちのまま、彼の濡れそぼった髪を拭く。

「とにかく、このままではお風邪を召されてしまいます。今日のところは、帰りましょう。怪我の手当も、お家じゃないと難しいのでしょう」

 紫に腫れ上がってきているキラの左腕。それを調べているサラの様子も気に掛けるように横目にしながら、カヲリは言う。

「骨接ぎの先生に、診てもらいましょう」

「んん」

 きっぱりとしたサラの言葉に、キラは歯切れ悪い返事をした。

「カヲリさん、せっかくの綺麗な羽織を汚させてしまって。すみません、ありがとうございます。この人、骨を傷めているようなので、慣れている先生にしっかり手当を受けさせてから帰ります。先に、家に戻っていてください」

「なにもできなくて。お夕飯、用意しておきますから。キラさんは、お粥でいいのかしら」

「ええ、お願いしますわ。久々に外に出て、わたしも気が晴れました。ミノリ君、ごめんなさいね。せっかく、楽しい気分でいたのに。本当に、気にしなくていいのよ。この人が勝手に転んだだけなんだから」

「まったく、情けない。俺が言えた口じゃあねえけど、気をつけて戻ってくれ」

 母子と別れて人力車に引かれながら、知り合いの骨接師の元へと向かう道すがら。道は舗装されているし、引手も気を使ってくれてはいたが、やはり少なからずは揺れるものである。折れた腕を、無事な腕で支えても、カタンと揺すられるたびに、負傷箇所から激痛が走る。

「ああ。こわ」

「仕方ないでしょうに」

「そりゃ、そうだけれど。こわ」

 先程から、キラは治療を受けるのを嫌がっている。骨が折れ、ズレてしまっているからには、その位置を矯正して固定する処置が必要である。無論、医者であるキラは分かっている。それがどれほどの痛みを伴うかも、おおよそ想像できる。ゆえに、怖がっている。

「ねえ、カヲリさんに話したのか」

「なにを」

「俺の具合」

「少しだけ。体調、ずっと優れないようですけれど、お体が弱いんですか、って聞かれたから。最近は、あまりよくないんです、って」

「ふぅん。やっぱ、買い物だとかで街にも出てるし、噂で耳には入るんだろうな」

「そうね、たぶん」

「べつに、虚弱体質じゃあないんだけれど」

「今の状態だけ見たら、そうなるでしょうよ」

「改善できる体質ならなァ」

 ため息がてら、身震いをする。公園を出る前に、サラとカヲリが手分けして念入りに絞ったとは言えど、大きな着物は相変わらず湿ったままであるし、日はまだ空にあるが、真昼もとうに過ぎている。

「着替えを貸してもらいましょう」

「それなら、下帯も取りたいな。漏らしたみたいで、気持ち悪い」

「いいんじゃないの。あとは帰るだけだし」

「うん。あのさ、昔、ふたりで遊んだこと、思い出したよ。婆さんが、川岸にいてさ」

「お祖母様が休みの日、暑い時期はよく行ったものね」

「おまえはもう、川遊びなんてしないんだろうな」

「そうね。外で脚を出すような歳じゃないわ」

「おれは、幾つになっても平気だけれどな」

 懐かしい、と。色の変わった右腕に、キラは目を落とした。口元に浮かぶのは、微笑。

「怪我をしても、いい気分を味わえたなら、よかったわね」

「そうだな。この後が、いやなんだけれど」

 そう言うと、キラは顔を上げ、赤みを帯び始めた空を見上げる。彼は、はは、と笑った。

「あれマァ、そんなビショ濡れで。旦那の着流し取ってくるから、そこで待っててちょうだい。小さかろうが、そこは我慢しておくれ」

 骨接師の家を訪ねれば、玄関先で奥方が出迎えた。土間で濡れた着物を変えていると、家の奥から骨接師である夫が、なんだなんだと出てくる。

「ああ、スクナさんところの。久しいね。どうしたね、腕をやったのかい」

「うん、転んだ拍子に。ボキッと」

 怪我人が医者であることを、当然ながら骨接師は知っている。双子の妹の助けを得ながら、貸された着物をまとっていく後ろ姿に、多くのものを省いた質問を投げかけた。

「前腕か。どっちだい」

「尺骨は、結構シッカリ折れた。橈骨は分からない」

 着付けが終わったところに、奥方が革袋に冷水を入れたものを持ってきて、キラの腕に軽く添える。サラは礼を言って、革袋を受け取った。

「じゃあ、上がって。そうか、尺骨か。そこそこ、しっかりした骨だからなあ。今晩は熱もだいぶ出るだろう。どうする、解熱の薬を飲んでおくかい」

「調合書を見せてもらえるか」

「はいよ。ええと、どこにやったっけな」

 双子は処置用の座敷に通される。骨接師は文机のそばに置かれた棚の引き出しを漁って、「あった、あった」と薄い紙を取り出した。

「これだね、うちで使っているのは。よくあるやつだよ」

 解熱薬の調合書を受け取り、キラは目を通す。

「ん。ああ、分かった。飲んでおこう」

「良さそうかね。じゃあ、諸々を取ってくるから。冷やしておいてくれなぁ」

「わたしにも見せて」

「はいよ」

 サラもまた、薬の調合書に目を通した。彼女は頷くと、文机の上に紙をそっと置いた。

 ややして、骨接師は部屋に戻ってきた。

「どうする、白湯で流し込むか、溶かして飲むか」

「溶かしたほうが、効きが良いだろう。溶かしてくれ」

「大したもんだね。あたしはとてもじゃねえけど、ぬるま湯に溶かした薬なんて飲めねえや」

 骨接師は、湯呑の中に顆粒を流し込み、さじでカリカリと混ぜて、キラに渡した。

「あぁ、まっず」

 ぬるい薬湯をゴクリと呷って、キラは唸った。

「いいかい。それじゃあ、診せてもらうよ。うん、うん。そうだね」

 鬱血して腫れ上がっているキラの左腕を、そっと持ち上げながら、骨接師はよくよく観察する。そうして、肩から上腕、肘、手首、指の先までの要所を、軽い力で押していく。

「ここは痛むかい」

「いや。少し痺れる」

「ふむ。こっちは」

「なんとも。あっ、そっちは痛いッて」

「はいはい。次、ここだ」

「うあぁ、いでぇ」

「よしよし。橈骨は大丈夫そうだ。見た感じより、肉や神経に障っているところもない。真っ直ぐにしておけば、ちゃんと、くっつくだろう。よかったね」

 キラは冷や汗を浮かべながら、息を整える。

「それじゃあ、固定しよう。これ、渡しておくから。適当に、噛むなりなんなり」

 骨接師は手ぬぐいをキラに渡して、木板の上に薄く綿を張った台を移動させてくる。キラは渡された手ぬぐいを忌々しげに見て、とりあえず唇に挟み、右肩を下にして横になった。体の前に置かれた台の上に、左腕を乗せる。

(噛めって言われたって、この口じゃあ、噛めねえんだよなぁ。グラついてはいねえけど、噛み締めに、今の歯茎が耐えられると思えん。また血が止まらなくなってもなぁ)

 などと、兄が考えていることを、傍らの妹は気づいているらしく。

「口、塞いでおいてあげましょうか。叫んでも聞こえないように。あと、暴れないように」

「あ、うぅ、ん。そうだな。じゃあ、頼むわ」

(ハァ。いよいよ、逃げ場はねえな)

 厚手の晒を切ったのと、それで包んだ木の角材を近くに置いて、骨接師は「さあ」と気合を入れるように膝を叩いた。

「筋肉が縮こまってるんで、引っ張りながら動かして、戻すよ。一回では戻らんから、二回か、三回に分ける」

 小柄ながらも鍛えられた骨接師の腕が、捲くられる。長身のキラとさして変わらない大きさの手を、台に載せられた怪我人の腕に添え、覚悟はいいか、と青年の黒い瞳を覗き込む。人好きのしそうな、ニッコリとした顔で。

「一、二、三、と数えて、グッ、だ。いいかい。一、二、三、グッ、だよ」

「うん」

「それじゃあ、一回目だ。一、二、三」

 キラは吸った息を止めた。

「ンゥッ、ンゥ、ンウゥッ」

 視界が明滅し、キラは目を開けているのか閉じているのか分からなくなった。妹の手で覆われた口、その奥で鳴っている音が、自分が発しているものだという自覚もなく。脳から血が逃げていく心地に、キラの意識がフラリと揺らぐ。

「よし、だいぶ戻った。息を整えたら、もう一回。あと一回でいい。そうしたら、固定して終わりだ。頑張れッ」

 骨接師は勇気づけるように、キラの腕を引っ張ったまま言う。遠くに聞こえるその声を辿って、いつの間にか開放されていた口で、キラはとにかく息をした。手ぬぐいが、冷たく滲んだ額の汗を拭う。

 しかし、一度引いた血の気は、待てども戻ってこなかった。心臓は慌てふためき、悪寒に奥歯が鳴る。

(血が、足りない)

「酷い顔色だ。早く終わらせたほうが良いかもしれないね。おおい、キラくん、聞こえるかい。先に始末しちまうから、それから息をつこう。いいね」

「ァ」

 ああ、と返事をしたつもりでも、キラの口から漏れたのは、声にもならぬ吐息だった。彼自身は、自分の喉はしっかりと鳴って、分かりやすく返事ができたつもりであったが。反応を測りかねて、骨接師は参った顔をした。まさか、中断するわけにも行くまいに。

「わかった、と言っています。お願いします」

 伝わりにくい返答しかできない兄に代わって、サラは頼んだ。骨接師は、怪我人の、双子の妹の言葉に頷いた。

「それじゃあ、やるよ。一、二、三ッ」

「よぉし、整った。固定するぞぉ」

 キラは意識を飛ばしていた。それは、ほんのわずかの間。グラグラと頭に血液が周り、悪寒は和らぐ。少しずつ焦点を結び出す視界の中で、手際よく晒に巻かれていく左腕を、ボンヤリと。

「終わったよ。お疲れ様。よかった、さっきより顔色が戻ってきて。休んでから帰るといい」

「ありがとうございました」

「何かあれば、お互いさまだ。薬は、自分のところで調合できるんだから、そのほうがいいだろうよね」

「ええ、わたしが面倒を見ます。お世話さまです」

「あたしャ、これからちょいと往診に行かにゃならんので、悪いが出るね。ゆっくり帰りなよ」

 骨接師は、さっさと片付けると、出ていった。

「ああ、だいぶ、マシになった」

 息も整い、痛みも和らいで、キラはようやく人心地がついた様子である。彼は、しっかりと固定され保護された腕に振動が響かない程度に気をつけて、仰向けに転がった。妹の膝の上に、川の水と冷や汗で湿った頭を乗せる。サラは着物の合わせを引っ張り、キラの前を隠した。

「着付け直さないと、外には出られないわね」

「そんなに、のたうち回ってたかな」

「脚がね。暴れてた」

「下帯はずしてたからなァ。こぼれてたか」

「ええ」

「ふぅん、まあ、いいけど」

「痛かった」

「そりゃあね」

「ひどい顔色だったわ。死人みたいな」

「道理で。死んだかと思った」

 そんな軽口を叩ける程度には、意識がハッキリとしてきたらしい兄の姿に、サラのこわばっていた表情はゆるむ。首や胸元にも滲んでいる冷たい汗を、フワリとした手付きで押さえて拭いながら、彼女は口の端をキュッと上げた。

「おまえ、おれより酷いツラしてるんじゃねえか」

「失礼ね」

「うん。心配かけたな」

 キラは妹のやわらかな頬に、右手を伸ばし、撫ぜた。

 館にたどり着く頃には熱が上がり、先に帰っていた母子に帰宅を告げたあと、敷かれた布団に、キラは早々に横たわる。ややして運ばれてきたゆるい粥の中には、焼いた鮭の身をほぐしたものが、まぶしてあった。

「ボレイって、まだあったよな」

「ええ、入れた」

「そう。ならいいや」

 食後には、サラが調合した薬を飲んで、また布団に身を横たえる。軽くとも食事をすれば、体温が上がる。じっと安静にしていれば、左腕の痛みは全身にまで響くほどに、鋭く、重かった。

「右じゃあなくて、よかったな。利き腕じゃあ、不便さが段違いだろうから」

「そうね。とりあえず、熱が引いて落ち着けば、少しずつ動けるようになるでしょう。今日と明日あたりは、しっかりと安静にしていることね」

 濡れ布を兄の額に乗せ、サラは部屋を出ていく。遠ざかる足音を耳にしながら、キラは熱に茹だる頭と、体にまとわる疲労感に、抗うことなく目蓋を閉じた。

 ふと、彼は覚醒した。しんと静まり返った暗い場所に、ひとり。

(あ、そうか。寝床か。真夜中だ。サラは)

 普段は同じ布団に潜り込んでいる妹は、隣にもう一式敷いて、くうくうと静かな寝息を立てていた。

 ぬるくなった額の布巾で、首や胸を拭う。

(襦袢がビショ濡れだ。随分、汗をかいた。かなり熱いが、悪寒がする。まだ上がるんだろうか)

 痛みと頭のグラつきに耐えながら、ようやく上体を起こしたキラは、枕元に置いてあった水呑に口をつけた。だが、一息ついたのも束の間。腹がギュルリとなって、こわばった。

(ハァ。便所、行かねえと。一人じゃあ、さすがに無理だな。起こすか)

「サラ。悪い、ちょっと、いいか」

「ん。どうしたの」

「厠に行きたい。途中、支えてくれないか」

 と言えば、サラはムクリと起き上がって、兄に身を寄せ脇と腰に手を回しながら、支える準備を整えてしまった。その上で、障子の向こうの縁側の、その向こうを目で示す。

「小水なら、お庭でしてしまいなさいな」

「うぅん。そっちじゃない」

「あら、そうなの。それでも、そこでしてしまっていいと思うけれど。気にするのなら」

 左腕に負荷がかからないよう、キラは妹に支えられながら、腰を上げようとした。しかし。

「あ、だめだ。眩む」

「いけない。もう一度、横になって」

 そうして、振り出しに戻る。

(起き上がれる気が、しないな。どうするか)

 息を整えている間に、サラは置行灯に火をつける。ぼんやりと、部屋の中が明るんだ。

「大して食べていないし、出るものも少ないでしょう。ここで、してしまいなさい」

「ええ。嫌だな」

「だって、動けないでしょう」

 押し入れから、古くなった肌着やらを引っ張り出して、厚くなるように重ねて折りたたむと、問答無用とばかりにキラの下帯を解いて、尻の下に敷いてしまう。

「勘弁してくれねえかな」

「満足な抵抗もできないくせに、四の五の言わないでよ。お湯を汲んできますから。その間に済ませてしまえばいいでしょう」

「出たものは、見るじゃん」

「自分で片付けられないでしょう。仕方ないじゃない。それじゃあ、行ってきます。ごゆっくりどうぞ」

 と、障子を閉めて、さっさと出ていく。

「嫌だって、言ってんのに」

 下半身を晒しながら、放置されたキラは、途方に暮れたように呟く。グルリと、またはらわたが唸る。

「はあ。しょうがねえ。しょうがねえって。どうせ、いずれはこうなったんだ。先祖も、みんな、こうだったんだって。諦めろ」

 ぼそり、ぼそりと、自分自身に言い聞かせるように。グルリ。

「ああ、なんだって。嫌だよ。なんで、妹にシモの世話なんか、されなきゃならねえんだよ。ふざけんなよ」

 グルリ。

「もうちょっと、粘れると思ったのになぁ」

 ジワリ。

 根負け。右の腕の下に隠された瞳が、滲んだ。

「終わったかしら」

「うん」

 障子向こうから声をかけられ、キラは半ば放心したまま声を返した。スッと、涼しい空気が流れ込んできて、盥を抱えたサラが戻ってくる。

「あら。臭わない。本当に出したの」

「出したよ」

 動じたふうもなく振る舞う妹の姿を、直視もできずに、虚空を眺める。

(このくらい、無感動でいてくれるくらいが、ちょうどいいのかなぁ)

「片付けるから。ほら、脚、立ててちょうだい」

「んぅ」

(いいよもう。ヤケだよ。こっちだって)

 沈黙、静寂。キラのはらわたから出たものを見下ろしたサラの気配が、揺らぐ。それが、キラにはよく分かる。なぜなら、彼もはじめはそうであったから。

「まあ、鮮やかだこと」

 ポツリと、サラは言った。

「そうだろ」

 妹の目に映っているのが、糞便ではなく、鮮血であることを、キラは確認せずとも分かっていた。行灯の薄明かりの中でも、その血液は紅よりも賑やかな朱の色を、見せているであろうか。

 サラは言葉が浮かばないのか、呑み込んでいるのか。黙りこくって、血を吸った古着を退けて、血濡れた兄の尻を拭って、下帯を巻き直した。赤色の中に、黒い破片が散っている。それは、食物の成れの果てか。それとも、深い場所から流れ落ちてきた、血の塊なのか。後者であると判じるのは、サラにとって、大して思考する必要があることでもない。

「膿が混ざっているのね。結構、長く続いているの」

「初めて気づいたのが、ふた月前かな。それからは、ほぼ毎日、ずっとだ」

「そう。これが毎日なら、とっくに血も足りなくなっていたでしょうね。お腹の具合は悪そうだったけれど。こんな事になってるとは思わなかった」

「言わなかった」

「そうね。言われなきゃ、気づかないから、わたしは」

(ああ、なんだろうな。いっそ、いつもみたいに、どうして黙っていたんだ、って、責めてくれたほうが、気楽だったのかもしれない)

「あっ、そうだ。月のものに使っているやつ、当てておけばいいわ。血を絞るためだけに、毎度お手洗いに行くのも大変でしょう。何枚か、あげるわ」

 そう言いながら、サラはまた押し入れを開けて、段の下の方に置かれたかごの中をあさって、古着で仕立てた吸血用の当て布を、手にとって戻ってくる。

「ちょっと、横向いて。こうやって、ホラ。お尻のところに入れておけばいいのよ。ゆるくてだめかしら。あ、挟んでみたら」

 下帯の中に手を突っ込んで、兄の尻肉を広げたり抑えたりする妹。キラは好きなようにやらせた。

「ねえ、これでどうかしら」

「ゴワつくな。でもまあ、いいんじゃないか」

 妹の満足げな顔に、キラの胸のこわばりが、いくらか抜ける。

「ああ、ちょうどよかった。ねえ、わたしが女でよかったわね」

「一緒にしていいのかなぁ」

「血が出るのは一緒じゃない。それに、使い勝手がいいなら使えばいいのよ」

「すげえな、開き直り方が。おれも見習いてぇわ」

「あなたと同じものが使えて、ちょっと嬉しい」

「はは。なんだそりゃ」

 薄い布団を被せられながら、サラの朗らかさに、キラもまた笑った。

「眠れそうかしら」

「うん」

「なにかあれば、起こしてよ」

 サラは柔く言って、行灯の明かりを落とす。ゴソゴソと、隣の布団に潜り込む。

 また暗くなった天井の影を眺め見て、キラはふぅ、と息をついた。

(初めてこうなったとき、愕然としたんだ。目に見えて、いよいよおかしくなってきたって、突きつけられた心地がしたから。だるさも、痛みも、目には見えねえから、まあ、そんな時期もあるだろう、そのうち良くなってくるだろう、なんて。ガキの頃から、覚悟はしていたはずなのに、いざってなったら、やっぱり、嫌なもんだ。まだ死にたくない。怪我もしてないのに、内臓から出てくる血なんて、見たくもない。いつまで経っても止まりゃしないのを、見たくない、向き合えない。だから、自分自身にも誤魔化して、そのまんま、誰にも気づかれなきゃいい、くらいに思っていたのに。でも、おまえが、大したことじゃないように扱ってくれるのが、存外、いいものらしい。分かってるさな、おれも、おまえも。これが、十分に大したことだってことは。おまえの言うとおりだ。ちょうどいい。おれにとって、おまえはちょうどいい。おれが大して気にしていないことを、おまえは気にかけてくれる。おれが、怖がるくらいに気にしていれば、おまえはむしろ、気にしない。そういうふうに、振る舞ってくれる。だから、おれはおまえを離してやれないんだ。おまえと同じ想いを、返せないくせに。情緒も知らねえくせして引っ張り込んで、もたせちゃならない感情をおまえにもたせておいて。おれは先に死ぬけど、幸せになれよ、なんて言葉が、おまえにとってどんなものなのか、わかりもしないくせに。なんにも、わからないくせに)

 もう一度深く息を吐き、キラは目蓋を閉じた。

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