偽椿
春(上)

春告鳥の高い声。木板を踏む軽い足音。障子の薄紙越しに照る、冷える朝のキンとした陽の光。
それらを遠くにしながら、青年は夢うつつにいた。随分と長い時間であったろうか。或いは、ほんのわずかなひとときであったのか。
木の擦れる音とともに、まばゆさが青年の薄いまぶたの奥を灼く。半ば強引に引き上げられるようにして、うつつの方へと足をもつれさせた。
「朝食、できましたよ」
着物の袖を縛った娘の、日の影になった姿。その顔立ちが己と瓜二つであることを、青年は知っていた。緩慢なまばたきをして、再び眠りに落ちるかに見えた彼は、突然に布団を跳ねて身を起こした。
「悪い、寝過ごした」
「構いやしませんよ。昨晩は早く寝かせてもらいましたし。その分、あなたは随分と遅くまで本を読んでいたみたいだから」
「声を掛けてくれて、よかったのに」
いくらか寝癖のついた、毛艶の良い黒髪を手で梳きながら、青年は布団を畳んで壁に寄せた。そうやって支度をする青年の姿を、娘はジッと眺めている。
「眠い頭でお仕事をされたんじゃあ、その方が困るもの」
「水を汲むの、大変だったろう」
「朝食を用意する分くらい、どうってことありませんよ。あなた、わたしをかよわく見積もりすぎでしょう」
「おまえがかよわくなかったら、おれが優れるところがないだろう」
「ふざけてないで。ほら、せっかく温かいのを用意したのだから、行きましょう」
「片付けはやるよ」
そのようなことを言い合いながら、二人は床の間を後にする。三寸程度の身長差。青年は娘のつむじを見下ろしつつ、短い歩幅でスルスルと歩く娘にあわせて、緩慢に後ろをついていく。
一昨日降った雪が、庭を埋めている。池に張った氷が、鏡のように朝日を弾いている。梅の木には、小さな蕾が紅く色づいている。そして、広い庭園の真ン中に立つ椿の木は、雪の笠をかぶって、堂々たる風情で、満開に紅白の花弁を広げている。
足袋も履かずに出た外廊下の床は、青年の足を冷やす。彼は身震いして、娘が入っていく三間隣の部屋に駆け込んだ。囲炉裏の柔らかな炎で温まった空気が逃げていかないよう、ピシャリと襖を閉めて。
囲炉裏を挟んで向かい合った膳の前で、娘は正座し、青年は胡座をかいた。揃って両手を合わせてから、二人は箸を取り、汁物の椀を軽く掻いて啜る。朝の低い体温に、熱が沁みた。
「これ、昨日もらった蕗の薹かい」
「そう。一晩アク抜きしたから、茹でるだけで十分」
「この柚子は。絞るの」
「好きにして。彩りに添えてみただけ。今晩は白菜でお漬物を作るから、今使わなければそちらに入れるわ」
「いいね。よけとこう」
青年は山菜の煮浸しに添えられた柚子を別の小鉢に移して、醤油をまぶした蕗の薹を口に入れた。
「強ェ匂いだよなあ。鼻の詰まりが取れそうだ」
「なに、鼻が詰まってるの」
「いや、詰まってないよ」
「なんだ、びっくりした。風邪を引かれたら仕事にならないんだから」
「風邪の時期は峠を越したかな。でもさ、そろそろ鼻の具合が悪い人らが増えてくるだろう」
「そんな季節だわね。北の山に、あんなに木を植えるから」
「材木にしようってのはいいが、風上に植えねえでほしかったよな。しかしまア、植物の生きる力ってのは、大したもんだ。人間も参っちまう。ンでも、草刈って木ィ切って家建てて住んでんだから、お互い様かな」
娘は米を飲み込んで、フウと息をついた。
「でも、わたしたちと交わったってねぇ」
「分からんよ。いつだって、不思議なことは起こるかもしれないんだ」
「あなた、自分がスギの子供が産めるとでも思っているの」
「どこから産まれるんだろう。鼻かな」
「ああ、変な人って思われる。黙っていなさいよね」
「今更。もう思われてんだろ。スクナのキラは変わり者だよ。いやでもその分、妹のサラはえらく真面目な器量良し。きっと持っていかれちまったんだよ、アァあ。って」
「わたしを巻き込まないでよ」
「ンなこと言ったって。双子で顔もそっくりで、二人だけでこんな阿呆みたいに広い家に住んでいて。同じ仕事して、なんだか四六時中くっついて生きているみたいな様子で。比べられるだろう、そりゃあ」
「あなたが真面目にしていてくれればいいのよ」
「いやだね」
「ああ、どうして性格は似なかったのかしら」
「男か女かの違いじゃねえの」
「あまり関係ないと思うけれど」
「いいや、おれはあると思う。少なくとも、この家に男で生まれたら、辛気臭いか莫迦か、大抵はどっちかに振り切れるだろうよ。おれは莫迦の方になっちまったんだ」
そのように青年の方、キラが言えば、彼の双子の妹である娘の方、サラはうつむき、黙り込んだ。
「いちいち沈むんじゃないよ。今日は湯もみしてやっから」
「調子に乗ってやって」
「分かったって。美味かった、ご馳走様。体も温まったし、着替えて仕事の準備をしないとな。おまえ、食い終わったら持ってこいよ。先に片付けちまうから」
キラは自分の膳を持って、行儀悪く、しかし器用に足で襖を開け閉めして、温かい部屋から出ていった。襖越しに、寒ィ、寒ィ」と文句が聞こえる。
サラは箸の先にチマリチマリと米を乗せて、心ここにあらずといった様子で、食欲も失せたように口を動かしている。
「うわぁ、冷てェ」
襖を隔てた厨からキラの叫び声がして、サラはハッとした顔で正面を見た。そこに兄の姿はない。彼女は急ぎ料理を食べきって、膝を擦って移動し隣の土間を覗き見る。冷水に悲鳴を上げる兄がいる。その光景に安堵したような表情を浮かべ、綺麗になった器の並ぶ膳を持って立ち上がった。
「あァ、あァ、まったくさァ。温かい部屋じゃなきゃあ、着替えらんないよ」
「本当にね」
朝食の片付けを終えたキラは服を抱えて戻ってきて、囲炉裏の中で緩やかに燃える木炭をかるく動かした。
サラもまた、冷えた床の間の鏡台へ向かいに行く気にはならぬようで、手鏡に顔を映して化粧をしていた。兄よりも先に目覚めていた彼女は、朝餉の支度の前に、ある程度の身だしなみを整えていた。
炎が小さく爆ぜるのだけが響いていた部屋に、衣擦れの音が加わる。黙々と着物を纏っていくキラは、突然「アッ」と声を上げた。
「いけねェ。一枚持ってくるの忘れちまった。ねえ、サラ。アレ、紫紺のヤツ、とってきてくれよ」
「いやよ」
「なんでよ。もう終わるだろ」
薄紅を唇に引いたサラは、懐紙を咥えながら背後の兄を仰ぎ見た。帯がタラリと畳に流れている。彼女は紅のついた紙を折りたたみ、今度は朱色の紐飾りを手に取った。
「あなたが忘れたんだから、あなたがとってきなさいな」
「チェッ。なんだよ、意地悪」
すんなりと諦めた様子で、キラは簡単に帯を結びとめ、せめてもの寒さ凌ぎにと羽織を肩に掛け出ていった。
右耳の後ろに紐飾りが垂れるように、改めて髪を結い直しながら、サラはふゆりと頬をゆるめた。
(ああやって、子供みたいにするところ、好き)
仕上げに、椿の花を模した飾りを、膨らみをおさえた胸元に取り付ける。サラの仕事に向かう姿が整った。
亡き祖母から貰い受けた薬師のための朱の紐飾りは、サラの右耳のうしろと、キラの左耳のうしろを彩る。椿を模した胸飾りは、この家の主であることを示すもの。黒髪のなかに覗く朱と、白衣のなかに浮かぶ紅。いずれもが、先祖から受け継いできた色。それを今、双子の兄妹が身につけているという不思議を、サラは想う。
祖母の下がりを分けなくとも、物置部屋には薬師の飾りが仕舞ってある。椿の胸飾りは夫婦が身につけるものであって、兄妹のためのものではない。
サラはまた、手鏡に顔を映した。
(身だしなみだと、毎朝おしろいを塗って、紅を引いてはいるけれど。やっぱり、あまり化粧は好きじゃない。あのひとと、まったく違ったように見える。それでも似ていると、他人は言うけれど)
クス、と笑みが落ちる。
(そうだ。あのひとに化粧をしてもらえばいいのだわ。なんて。可笑しい)
塀の屋根から落ちて、石畳の通路に積もった雪を、鋤で日当のほうへ寄せる。そんな一仕事を、冬の間、ほとんど毎朝、キラは繰り返してきた。それも、幾年目か。
(梅の蕾が色づいて、春告鳥もきまぐれに啼く。そろそろ、大雪が降ることもないだろう)
溶けて固まり、重くなった雪の塊を転がす。脚の悪い老人や、けが人が通る道である。妨げとなるものは退かさねばならぬ。
玄関から門までの雪かきが終わり、キラは大きく息を吐いた。額に浮いた汗を、悴んだ手の甲で拭う。鋤の柄に、冷たく湿った額を預け、彼はしばし深い呼吸を繰り返した。
「ふぅ。朝っぱらから疲れちまったなぁ」
顔を上げ、独り言ちて、重い門の閂を外した。厚い扉を肩で押す。
大路に面した門の外は、既に賑わいはじめている。古くから、湯治場として栄えてきた街。遠方からの客も多く滞在する。宿や土産屋は溢れんばかりだが、いずれも繁盛している。
湯治にやってくる者が多いということとは、すなわち病人が多いということ。薬屋の需要も、言わずもがな。
巨大な門の、高い位置に掲げられるのは、古い檜の板。そこに焼き彫られた『宿命医館』の文字。この街が栄えはじめる前に、たてつけられたという。
門の柱にもたれかかり、人々の往来する様子を、キラはボウッと眺めていた。
「おはよう。もう入っていいかい」
老爺が、鋤を片手に佇む青年に声を掛ける。
「おう、おはよう。サラが中で準備して待ってるよ」
「そうかい。いやあ、毎朝大変だろう。水っぽい雪をどけるのは、まア大仕事じゃて」
「アンタみたいな年寄りたちのために、やってんだ。ぜひとも、もっとねぎらってくれや」
「うん、うん。それじゃあ、ベッコウ飴でもあげようかね」
「そんなモンで喜ぶ歳はさ、とっくのとうに過ぎちまってんだよな。って、言いてェところなんだが、ホントに持ってンなら呉れや」
「ほれ。蒼白い顔をしおって」
「ンン。ンぇ、蒼いかい」
貰った飴をカラコロやりながら、キラは老人に訊ねた。
「蒼い、蒼い」
「あれマ、そう。まア、入ってよ。おれはこいつを舐め終わったら戻るんで」
「はい、どうも」
老爺の背を見送り、キラは硬い飴を口の中で転がしながら、また門の柱に体を預ける。
ホゥ、と吐いた甘い息が、淡青の空に白くとけていった。
(病人の年寄りに、心配されるようじゃァなあ)
薄くなった飴を噛み砕き、キラは組んだ両手を天へと伸ばした。
(さァて。いつまでもサボってらんねェ。戻るかねェ)
白い庭を横目にしながら、スタスタと石畳を歩き、ガラリと戸を引いた。
「世話になったね。それじゃあ、またよろしく」
「あれ、もう帰るの」
老爺は膨らんだ巾着袋をぶら下げて、玄関で再会したキラに会釈した。
「いつもと変わらんからね。薬だけ貰って、お暇するよ」
「茶でも飲んでいけよ。どうせ、この時期は昼ごろまでろくに人が来ねえんだ。大抵の病人は、寒い朝が苦手だかンな」
キラは丈も袖も短い半纏を脱ぎ、板の間に放り投げる。並よりも背丈のある彼のために、生前の祖母が大きめに仕立てて残したものだが、その後も成長し続けたキラには、すっかりと小さくなってしまった。しかしながら、手直しをするのも面倒がって、そのまま使い続けている。
「帰って、曾孫の面倒を見にゃぁならんでな」
「ああ、そうなの。そンなら仕方ねェな。飴、たすかった。次来るときも、何か持ってきて呉れや」
「それじゃあ、黒糖のにするかね」
「曾孫らの余りでいいぞ」
「いうて、お前さんらも孫みてぇなもんじゃて」
「言ったな。遠慮なく爺ちゃんに菓子をせびってやるぞ」
「昔、さんざんやっておいて。まだやるんか」
二人の笑い声が、広い玄関に響いた。
昔、まだ幼いころの兄妹は、祖母が仕事をしている間は医学と薬学の勉学に励むのが常だった。しかし、子供の集中力というものはさほど長くは続かないもので、しばしば本での学びを中断し、祖母の診療の様子を窺った。おおむねは、静かに覗いていた。
だが、ことこの老人がやってきたときには、いたずらを仕掛けたり、それこそ菓子をせびったりとしたものである。今は生真面目に振る舞っているサラも揚々として、老人に構われた。無論、そうしていると祖母は双子を叱り、勉強部屋へと引きずって帰すのだが、老人は帰り際になるとコッソリと甘味を寄越していくので、兄妹はいっそう彼になついてしまった。
「あらまあ、ゆっくりとしたお戻りだこと」
二人の笑い声を聞きつけてか、サラが正面奥の部屋から出てきた。
「雪がこびり付いちまってンだよ。いちいち削って来たんだぞ。ゆっくりとしたお戻りにもなるってんだ」
言いながら、キラは老人をチラと見る。
(休んでたことは、黙っといてくれよなァ)
「そうじゃ、そうじゃ。雪っていうのは、昼のうちにとけて、夜にまた固まる。それを繰り返せば繰り返すほど、どんどん固く、しつこくなるもんじゃ。兄ちゃんは癇癪を起こしそうになっておったから、飴で宥めてやったんじゃよ」
わきまえているらしい昔なじみは、キラの言い訳に加勢した。彼にとって少々不名誉な言葉を添えつつ。
「仕方ありませんね。力仕事を任せた身で、あまり文句を言うものでもないし」
「そうだよ。ねぎらってよ」
「お疲れ様でした。明日もよろしく」
言葉では感謝を示しつつも、サラの口調はどことなく冷めている。
「ヘェ、ヘェ。明日も明後日もやりますよォ」
(客の前だからって、ツンとしやがってさァ)
キラは草履を脱ぎ、上がり框に揃えた。
「お、そう言えば、西ノ園の梅が見ごろだそうだよ」
引き戸に手をかけながら、老爺は思い出したように言った。
「ああ、あそこのは、いくらか早咲きなんだっけ。うちの梅はまだ、蕾がようやく色づいてきたところだが」
「昨年は、見そびれてしまったわ。来週あたり、お暇をもらって行ってみましょうか」
「そうさね。今から門に貼り紙をしておけば」
「うん、うん。来週なら、出店も増えておるじゃろう。時々には、息抜きも必要じゃて。それじゃあ、どうも。またよろしく」
老人は草履の底を地面にこすりつけながら、帰宅の途につく。双子は厚着でふくれた背を見送った。
「さァて、今日は何人来る予定だっけな」
「十三人」
「そこそこだな。新しい人が来ると忙しい」
「来ない人もいそう。今の時期は、あんまり具合が悪くて、家から出られない人も増えるから」
「往診に行ってやる余裕はねぇしなァ。むかァしさ、この屋敷にいっぱい住んでいた頃は、できたんだろうけれど」
「この家に、こんなに部屋が必要なほど人が住んでいたなんて、今じゃあ想像もできないわ」
「婿をとるばっかりで、嫁に出る女がいねぇもんな。この塀の中で増えるしかなかったんだろう。ン、足音がするな。今日はみんな早ェのか。珍しい」
「それじゃあ、診察部屋に行ってちょうだい。今度はわたしがお出迎えをするから」
「はいよ。ようやく座れる。散々踏ん張ったから、脚が攣っちまいそうだよ」
脱ぎ放った半纏を拾いがてら、キラは先ほどサラが出てきた部屋に入った。
「はァ、今日も働いたな。ご苦労さん、サラ」
「お疲れ様、キラ」
最後の患者を見送り、門を閉めるころには、あたりは薄暗くなっていた。幾分日の沈むのは遅れてきたが、まだ一日は短い。
「結局、三人来なかったな」
「二人は、お身内の方がいらっしゃったから、そのままお薬をお渡ししたけれど」
「仕方ないが、できればちゃんと状態を確認したいよね。本人や家族が、変わりない、と思っていても、存外そうでなかったりもするし」
「もう一人の方は、やはり一過性の風邪だったのかしら」
「たぶん、そうだろうね。すっかり落ち着いちまったんなら、来る必要もない」
「三人分の診察時間が浮いたけれど、四人も新しい人が来たら、結局この時間になるのよね」
「まァ、みんな、軽い風邪みたいだったから。これで、良くならなかったり、悪くなったりするようなら、もっと詳しく視ていく必要があるけれども。夕飯、どうする」
「私が作ります。あなたは座って、帳面をまとめておいてくださいな。随分と足腰が疲れているようだから」
「そいつは助かるや。風呂はどうしたらいいんだ」
「温まりたいけれど、疲れているならいいわ」
「いや、疲れているからこそ、おれも温めたい。べつに、骨や筋を痛めちまったわけでもないし。それじゃあ、飯食ってから、ぬるくさせるか。一緒に入っちまっていいんだよな」
「別じゃあ、また冷ますのが大変じゃない」
「効率的でいてくれるのは、とても助かるよ」
さっぱりとした様子で言うサラに、キラは緩みそうになる口元を揉んで誤魔化した。
「助かるんだけど、おまえ、そろそろ羞恥心ってのはないのかい」
厨へ向かおうとする後ろ姿に、軽く声をかければ、サラの肩がピクリとしてこわばった。
「ばか」
わずかばかり震える声で、振り向きもせずに呟いて、サラは速歩で行ってしまう。まるで逃げるようにして。
キラはその場にとどまって、緩む口元をいじりながら、離れていく妹の姿を見守った。
(意地が悪かったかな。でも、ああもスンとされると、からかいたくもなるってもんだ)
キラは「うぅん」と鼻の奥を鳴らしながら、背伸びをした。何番目かの胸椎骨の間がパキリと鳴る。
「さぁて、まだ、ふた仕事も残ってらァ。へばってらんねェぜ」
腰を捻って背骨の関節をパキリ、パキリと鳴らしながら、キラはまた仕事部屋へと戻った。
この街には、医者が多い。薬の需要があるために、生薬売りが大箱を背負って、定期的に訪ねてくる。自ずから市場に出向かずとも、質の良い原料が手に入る。
診療のために使用している一部屋の奥に、生薬の保管場所がある。丈幅それぞれ二尺もある巨大な黒壇の箪笥には、細かな仕切りが誂えられ、処方薬を調合するのに使用する、基本的な生薬が仕舞ってある。それらが切らされることのないよう、日々在庫の確認を怠らない。
(マオウの消費が多いな。あとは、シャクヤクと、カンゾウと。まァ、いつもの顔ぶれだ。ニンジンも補充しておくか。それと、ケイヒ、カンキョウ、ショウキョウ、カッコンあたりも、これからの時期はよく使うからな)
引き出しを開け、在庫を確認し、次の引き出しの中を確認し、都度帳面に書き記していく。予定では、明日に生薬売りがやってくる。生薬売りは調合された薬も扱ってはいるが、患者の体質や状態を見極め、生薬の比率を絶妙に変えるとなると、薬の素を買い付けたほうがよい。
薬師と医者という職が分かれ始めて久しい。薬剤の調合を一からこなすことのできる医者は、少なくなってきた。
スクナの先祖が遺していった知識は、膨大な書物として屋敷の奥に並んでいる。それらの内容すべてが、兄妹の頭の中に入っているわけではない。そのようになるためには、二人はあまりにも若すぎる。
しかしながら、スクナ、と呼ばれる家系に蓄積された、膨大な情報を頼る病人はなおも多く、若い薬師でもあり、また医師でもある双子の兄妹は、やってくる者たちの期待に応えるべく、日々仕事をこなしながら研鑽に励み続けているのだ。
「キラ、もう夕食を並べてしまってもいいかしら」
「ああ、ちょうど終わった。行こうか」
客が帰っても仕事はある。それらをちょうど終わらせたとき、サラが出汁の香りを纏わせてキラを呼びに来た。
北の谷から噴き上がる間欠泉は、街中に張り巡らされた水路を通り、各々の湯屋へと引かれる。
スクナの館は、今でこそ客人に薬湯を提供することはないが、かつて人手が溢れていた頃は、そちらの管理も行っていた。
伝承によれば、最も早くに湯治のための入浴場を整備したのは、このスクナの館であったようで、その後に定住者が増え、街として栄えていったとのことである。
客人に提供することがなくなっても、館の風呂場には常に温泉が引かれ続けている。沸騰させた井戸水の温度を、優に上回る高温の源泉である。長い水路を流れ空気に晒されているうちに、入浴に適した温度となるよう仕組まれているが、谷からさほど離れていないこの館に届く時点では、まだ十分な適温にはなっていない。
であるから、毎度湯もみをする必要があるわけだが、重労働である。あくまで医館であって、湯屋ではないから、それほどの広さがあるわけではない。だが、一般的な民家にあるような規模でもない。そのため、源泉が流れ込む対角側の狭い範囲に限定して、念入りに湯を混ぜる。
「あぁ、ったく。朝に雪掻きして、夕に湯掻きは、しんどいってば」
ジャブン、ジャブンと木の板で湯をひっくり返しながら、キラは文句を垂れた。
(だが、まあ、仕方ない。おれの方が、サラより力があるのは確かだし、二人適所に仕事を割り振ったら、こうなる。おかげで、座り仕事だってのに、いい具合に引き締まった体つきになっちまう。有り難いこったよ)
物心がつく頃には、祖母との三人暮らしだった。父親がいれば、体力仕事も手分けできたのかもしれないが。とは言え、サラとて決して非力な娘というわけでもないので、時折には役割を変える日もある。
首に張り付く長い髪は頭の上の方で丸く結び、昼間着ていたものは隣の脱衣部屋に放っておいて、褌一枚で熱気に立ち向かい汗水を垂らす。
踏ん張るたびに浮き上がる腿の筋、綺麗に割れ目の浮き出た、すっきりとした腹回り、背中と肩と胸は、意図して鍛えたような厚みがある。たしかに、座り仕事ばかりをしている男の体格ではない。
「そろそろ、どうだか。うぅん、大丈夫かな。もういいや」
波打つ湯の中に足先を浸して、キラはひとり呟き結論を出す。そうして、汗と湯気ですっかり湿った褌をほどき、洗濯のために盥の中へと放り込んだ。
「おぉい、サラァ。もういいぞォ」
「今行きまァす」
まだ厨にいるのか、着替えを用意しているのか。いずれにせよ、近くの部屋にはいるであろう妹に、声を張って呼びかければ、あちらも声を張って応える。
キラは上がりきった体温を一度下げるべく、開け放った窓から、裸体を庭に晒した。
大人六人程度ならば、脚を伸ばしてゆったりと寛げるほどの広さの浴槽。その片隅、一人分か、せいぜい二人分程度の場所で、兄妹は並び浸っていた。
キラの褌が放り込まれている盥の中に、サラは自分の洗い物も混ぜて、手揉みする。濯いだものが、ペシャリ、と岩の上に投げられていく様子を、キラはボンヤリと眺めていた。
「その晒さァ、苦しくないの」
「慣れよ」
「別に、押さえなくてもいいんじゃないの。背丈あるし、不格好じゃないけど」
「裸だから、そう見えるんじゃないの。帯の上に乗るくらいならともかく、はみ出して垂れたみたいになっていたら、格好が悪い」
「そういうもんかね」
「なに。女の胸を、そんなにまじまじと見るもんじゃないでしょう」
「男の胸だって、まじまじと見ていたら変だろうよ。仕事でもねェのに。今更、互いの体を見合って、ああだ、こうだ言う仲でもないじゃないか」
「先にああだ、と言い出したの、あなたでしょう」
「そういうことじゃねえっての」
「はいはい。分かってますってば」
「はァ。ねえ、まだ入ってるのか」
「もう少し」
「おれ、先に上がるよ。布団はどうする」
「一枚でいいんじゃない」
「たぶん、お前が来る頃には寝てるよ。疲れちまった」
「どうぞ。できるだけソッと潜り込みますから」
十分に温まり、疲弊したキラは、妹に洗濯を任せて、風呂から上がった。
「サラァ、用意できたかァ」
兄が廊下から声をかければ、ややして妹がシャッと障子を開いて姿を見せた。
「どう」
「山吹のにしたのか。昨日は桃色のにするって言ってたのに」
「よく考えたら、桃色じゃあ梅の色に紛れてしまうと思って。おかしいかしら」
サラは山吹色の着物に橙色の帯をして、結い上げた黒髪に桃の花の簪を飾っている。いつもより、口元に差した紅の色も濃い。
「おかしかないよ。でも、桃がいけないなら、空色とか藤色のほうが似合う気もする」
「それじゃあ、あなたと被ってしまうじゃないの」
「いいじゃん、揃いで」
「変よ」
キラは藤色の半着と羽織に紺の袴で、珍しく前髪も後ろの方にやっている。いつもは長めの髪が顔に少しばかり掛かっているので、清々としたようでもあり、落ち着かない様子でもある。
「顔がスッキリと出ていると、なんだか幼く見えるわね」
「えぇッ。大人っぽく見えると思ったのに」
「だって、わたしと似てるってことは、女顔ってことでしょう。童顔なのよ」
「おれが女顔なら、お前はちょっと男顔なんじゃないの」
「着物、交換してみますか」
「いらないよ。ねえ、もう行こう。二人で外出なんて、滅多にないんだから」
「待ってよ。この着物で、本当にいいかしら」
「いいよ。ちゃんと似合ってるよ。ただ、桃色を着ているほうが、可愛らしくて好きだな、ってだけさ」
「それじゃあ、やっぱり桃色のにするわ」
「はいよ。気が済むまで着替えたらいいよ」
屋敷を出るのに、もうしばらく掛かると踏んだキラは、隣の部屋で茶を飲んで待つことにした。
「本当に、満開なのね」
根元の白雪の名残をとかした梅の樹木が、長くまっすぐに伸びる道を、挟んで立ち並ぶ。薄雲さえも晴れた快い空色に、紅梅色が映える。左手側には堀。静かな水面に、梅樹の姿が、陽光のきらめきのあいまに映り込む。
「思ったより、人が多くなくてよかった。正月なんか、身動きが取れなかったし、人ごみに押されて、おまえがどこかに行っちまいそうになったから」
「少しくらいはぐれても、あなたの頭は目印になるから、ちょうどいいわ」
「大勢の中に混ざると、思うよ。みんな、小せェなァ、って」
「あなたが大きいのでしょうに」
「いや、分かっているけれど。そう思うってだけだよ」
「お祭りの会場の方は、きっと混んでいるでしょうね」
「そうさな。ここは外れのほうだし。静かでいいけれど、どうする」
「わたし、梅酒が飲みたいのよね。砂糖漬けも食べたい」
「じゃあ、会場のほうに行かないとな。社の近くの、あの広いところだろうよね」
この土地を栄えさせた、スクナ。スクナ医館の創始者であり、双子の祖先とされるかの者は、今や街の守り神として祀られている。街の西方に建てられた、スクナの大社。その荘厳さと、隣接する広大な公園で度々開催される祭りは、スクナという存在がいかに街人らから尊敬され、愛されているかを、示す。
山の斜面を削りだした高台に建てられた、立派な大社の姿が、花咲く梅枝のはざまにちらつく頃、囃子の笛と、太鼓と、鈴と、摺鉦と、古い唄の朗唱が、双子のもとへ流れてきた。舞や踊りが、スクナへ奉納されている。
「ご先祖さま、楽しんでいるのかしら」
「サァ。眠いところにドンチャンやられて、うるせぇなァ、って思ってるかもよ」
「そんなひどい人じゃ、ないでしょう」
「おれのご先祖だし、ひねくれてるんじゃないか」
「わたしのご先祖だもの。慕われたら素直に嬉しく思うでしょう」
梅の並木道を、ゆったりと歩み進む。風は冷たいが、陽の光は温い。若干の肌寒さがあっても、動いてさえいれば、凍えはしない。
たわいもないことを言い合いながら、仕事から離れた久々の外界を楽しむ。ゆったりと流れる時間のなか。
(こんな穏やかなときが、続けばいいのに)
サラは、彼女の歩幅にあわせて並び歩くキラの横顔を、チラと見上げる。昨年は見過ごした、梅に彩られた見事な景色。その美しさも背景に、長身の青年は、色と、香りと、空気などといったものを、味わっている様子だが。
(なにを想っているのかしら)
女顔だ、童顔だ、などとからかってはみても、兄は誰もが眼を惹かれるような美男で、彼とほとんど同じ顔立ちをしたサラでさえも、やはり見惚れ、美男であると、そのように感じる。否、おそらく、この世の誰よりも、そのように感じている。
(わたしを狂わせたのは、この人だもの)
サラは、兄の藤色の羽織の袖を、そっと摘んだ。それに気づいたキラは、咎めるでもなく、からかうでもなく、ただその表情を緩ませて妹を一瞥し、また梅花の方へと顔を向けた。
人の多い祭り会場にたどり着くまで、サラはキラの袖端に触れていた。
(いっそ、埋もれるほどの人ごみだったら、絡みついてしまえるのに)
「これって、清酒かい。それとも焼酎かな」
「焼酎だよ」
街の酒屋が開いている出店は、よく繁盛しているようだった。昨年採れた梅の実をつけ込んだ酒は、花見の供になる。
「焼酎で、温かいんだ」
「冷えたのをじっと座って飲んでたんじゃあ、凍えちまうでしょう」
「酒好きはそうなんだろうな。どうする、サラ。おまえ、どのくらい飲むつもりなんだ」
「三合くらい」
「そんなに飲むの。焼酎だよ。おれは五勺枡一杯も飲んだら、たぶん充分だなァ」
「三合と、五勺ね。足りなきゃ、また買いにきなよ」
酒屋の主人は大小の桧枡を用意して、湯煎された酒瓶の中身を移し替えた。
「足りてほしいな。あ、おれの方はもっと少なめにしてくれ」
双子は代金を置いて、それぞれの枡を受け取った。温い酒を手持ちながら、あたりを見渡して、居心地のよさそうな場所を探す。
「向こうの石段のところ、人がいない」
サラが指し示した方に、キラは目をやって、頷いた。二人は賑わいのなかをすり抜けて、目的の場所に向かう。その途中で、キラが「アッ」と立ち止まった。
「青梅の汁が売ってるや。ねえ、先に行っててくれよ。それで、おれの分は少し冷ましておいてくれ。おまえは飲んで待ってな。ちょっと買ってくる」
「わかった」
サラはキラの五勺枡を受け取って、賑わいから少しばかり距離をおいた石段の方へと歩いていった。
「やあ。青梅の汁、売ってくれ」
「おや、スクナさんのところの兄さんじゃない。元気そうだね」
先客に梅の羊羹を渡す菓子屋の女将が、キラの姿にハリの良い頬をほころばせた。
「おかげさまでね。早咲きのって、もう実をつけてるんだ」
「いや、今年は特別だね。年末に、花が咲いちまったからさ。まだカチカチのかたい実を、むりやり絞って出した汁だから、舐めたら跳ぶほど酸っぱいよ」
「だろうね。マ、飲むわけじゃないから、あまり関係ないかな。三本くれ」
「ねえ、砂糖漬け食っていかないか。今年のはことさら美味く作れたと思うんだ」
「でかい実だな。李みたいだ。しかしおれァ、これから酒を飲むからなァ。あんまり酔いを回したくない」
兄さん、酒弱いの」
「どうもね。成人した頃はそれなりだったんだが、去年から悪酔いしやすくなっちまった。妹のほうが強いよ。そうだ、あいつ、砂糖漬けが食いたいって言ってたっけ。一つだけくれ」
「ありゃあ、そうなのかい。気をつけてね。はいよ、一番でっかいのをあげるよ」
「ありがとよ」
青梅の汁が入った小瓶を三つ、袖の中に入れ、筍の皮に包まれた梅の砂糖漬けを持って、キラは示した場所で待っているはずの、妹の姿を探した。
(あぁア。また絡まれてら。ちょっと離れると、これだ)
石段に座り込んだ、桃色の着物をまとった娘を見つけたキラは、おもわず「ハァ」と嘆息した。妹の周りには、双子と歳のさして変わらないであろう男が三人いて、サラの気を引こうと話しかけている様子だった。
こういう状況におちいったとき、サラはすっかり口をつぐんで、反応を示さないことに徹してしまう。まったく相手にしないことで、諦めていく者もいるが、粘り強い者も多い。いかんせん、サラは美しい。愛想悪く振る舞ったところで、それもまた魅力に受け取られることも、少なくはない。
今日の三人組は、粘り強そうだった。三人ならば、無視され続けても心が折れにくいのやもしれない。こうなれば、キラが割って入ってやるしかない。サラが口をきけばつけあがらせてしまう。彼女は引き続き、黙り込んでいるしかない。
「おおい、サラ。梅の砂糖漬け、買ってきたぞ」
キラはまだ少し遠いところから、妹に呼びかけた。男たちが振り返って、一瞬身をすくませた。別段キラは腕っぷしが強いわけでもないが、並の男より四、五寸ほども背丈があれば、それだけで威圧感はあるものだ。
「おお、やっぱり兄さんも一緒だったんだ。ねえ、ちょっとサラさんのこと、説得してくれよ。せっかく祭りに来たんだから、たまには兄貴や、年寄り以外とも交流したほうがいいよ、って」
キラは筍の皮の包みをサラの膝の上に置いて、男たちへと向いた。
「そうさねえ。おれとしてもさ、婿候補のひとりやふたりくらい、見繕っておいてほしいんだけどね」
「そうだろう、そうだろう。兄さんだって、そこらの娘に声をかけてきなよ」
キラは「うぅん」と、曖昧な相槌をうった。
(やっぱり、小せェなあ、こいつら。サラと同じくらいかな)
じっと男たちを見下ろしていれば、男たちは段々と不安げな様子の顔つきになってくる。長身の、美形の男に真顔で見つめられては、萎縮するのも無理はなかろう。
「こいつ、酒を飲んでるだろう。酔っ払うと面倒くさいんだよ」
「平気さ。おれたちゃ、三人いるんだから。面倒みれるって」
「まァ、試してみたいってんなら、おれが止めることじゃないけれど。こいつにその気がないんじゃあね。おぉい、だんまりかい、サラ。もう酔ってきてるのかい」
キラは、うつむいたままで、黙々と酒に口をつけている妹の顔を覗き込んで、ニヤリとした。
「眼が据わっちゃってるよ。三合なんて頼むから。まだ、半分も飲んでないじゃないか。たぶんね、あんたらの声、ほとんど聴こえてないよ」
「えぇ、嘘だろぉ。せっかく祭りに来ておいて」
「おれも、三合なんて言い出したときは止めたんだよ。ちょっと、この様子だと動けなさそうだ。せっかく声かけてくれたのに、悪いね」
「なんだぁ、本当だよ。医館に籠もってる美人に話しかけられる機会なんて、滅多にないのに」
男たちは無念そうで、まだ名残惜しそうにして、立ち去ろうとしない。
「健康でなによりじゃない。そうだ。これ、ちょうど三本あるから、やるよ。詫びだ。こいつの兄貴として」
キラは袖口から、菓子屋で購入した小瓶三つをとりだして、男たち各々に配った。
「いいのかい。なんだか高級そうだな」
「スクナの当主は気前がいい」
「当主はおれじゃなくて、妹だけれど」
キラはさりげなく訂正して、小瓶の栓を開ける三人を見守った。男たちは警戒する様子もなく、小瓶に口をつけ、一気にあおった。
「え、飲むの」
「うゲェッ。なんじゃこりゃッ」
「青梅の汁さ。傷に塗ったり、腹の調子が悪いときには、薄めて飲むといいんだ。そのまま飲んだら、下すと思うけれど。もとが健康なら、そんなに心配ないよ。悪い、酒だと思わせちまったか」
「胸焼けがするッ」
「水、水だッ。喉が焼けたみてぇだッ」
男たちは、おそらく水を求めて、何処かへと駆け出していった。
その姿が遠のくと、キラは腹を抱え、ゲラゲラと笑い出した。
「ハハァ、間抜けェッ。浮かれ野郎どもめ」
サラは砂糖漬けの包みを開きながら、呆れた様子で、転げだしそうな兄の姿を眺めた。
「ひどいこと。わざと勘違いさせるようにしたくせに」
「ひどいもんか。瓶を開けて、匂いさえ嗅げば、酒かそうじゃないかなんて分かるだろう。それとも、あいつらと一緒に行きたかったかい」
「馬鹿言わないでよ」
「どっちにしたって、あんな考えなしな連中に、おまえを任せて、おれはおれで楽しく過ごす、ってのはできないな」
「あれ、結構いい値段したんじゃないの。もったいない」
「安いもんさ。おまえとの時間を奪われることを思ったらさ」
キラが笑みを向けると、サラは「もう」と言って、砂糖漬けを小さくかじった。頬が赤らんでいるのは、酒のためであったろうか。
「でもさ、婿の候補を見繕っておいたほうがいい、ってのは、実際そうだよね。追い払っておいて、なんだけど」
想像していたよりも強くはなかった梅酒を、チビリチビリとやりながら、キラは並び座るサラに言った。
「その話、今日じゃなきゃだめなの」
「いつだっていいじゃないか」
少しばかりムッとした口調のサラの返しに、キラは苦笑した。
「おれじゃあ、だめかもしれないし。あわよくば、でも、産まれたのが男だったりした暁には、おまえより先に死ぬだろうし」
「そんなの、わからないじゃない」
「わかるだろう、そんなもん」
砂糖漬けを持ったサラの手が、膝の上に落ちた。痛みを堪えるように黙り込んでしまった妹の横顔に、キラはため息を漏らす。
「そりゃ、おれだって、できることならさァ」
そこまで言って、彼もまた黙り込んだ。
梅の花弁が、ほとんど空になったキラの五勺枡の中に舞い落ちる。
無言の時間が過ぎる。生まれた瞬間から、否、生まれる以前から同じ時間をともにしてきた双子にとっては、静寂、それ自体に心地の悪さを感じさせられることはない。ただ、ふたりの間に流れる時だけが、すっかりと止まってしまったようになる。
先に我へと返ったのは、キラだった。
「家のことも、考えなきゃいけないよ、って話さ。おまえは美人だし、もうすこし歳がいっても、婿になりたがるやつはたくさんいるだろうから、急がなくてもいいだろうけれど」
「だから、それは。あなただって、いるじゃないの」
「十九まで生きたスクナの男って、いたのかな。家系図も、あんまり昔は没年が書いてねえから。まァ、少なくとも、来年の春まで生きてられたら、未曾有ってことには違いない。と、そういうことだよ」
「あなた、自分のことなのに。初めから、そんな、諦めたみたいに」
今にも泣き出しそうな妹の隣で、キラはどこか乾きを感じさせる笑いを漏らした。
「期待していたら、いろんなことを後回しにしちまいそうだろ。おれは面倒くさがりなんだから。時間ってのが、随分限られてるかもしれん、って思っておいたほうが、毎日ちゃんと行動できる。おれは、そんなふうに考えて生きているくらいが、ちょうどいいのさ」
そう言って、キラは枡に浸っていた梅の花弁をつまみ上げ、サラの白い頬に貼りつけた。
あれから、兄妹は口数少なく、酒を飲み、どこぞの家庭の幼児の戯れに付き合ってみたり、奉納の舞を観覧したり、また少し喧騒から離れてみたりした。
やがて日没が近づき、広大な園の至るところで、提灯の明かりが燈された。小さな炎の輝きが、薄紙の奥であたたかく揺れる。
館へ帰れば、待っているのは変わらぬ日常。ならば、もうしばらく。といった思いが共通したものであることを、双子は言葉にせずとも理解し合っていた。
「ねえ、せっかくだし、少し高いところに行ってみましょう。ほら、社の境内あたり、ちょうどいいのじゃないかしら」
「社か。まあ、いいよ。行こうか」
高台にあるスクナの大社までの石段は、ふたつある。新しい方は、幅広で、なだらかで、少々足腰が弱くても、気力があれば登りきれる。一方の古い方は、雨風に削られ、苔むして、幹の太い木々に囲まれて、日当たりも良くはない。健康であっても、登り切るにはいささか苦労するものだが、古さに趣を感じるという層には、むしろ好まれる。
居たところから近いといった理由で、二人は旧階段を選んだ。こちらでも巨木の幹に結ばれた提灯が光っていたが、足元を照らすにはおぼつかない。
(ああ、きつい)
あえて、サラよりも二、三段先を行くキラは、乱れそうになる呼吸を抑えつけていた。
(登りきって、疲れた、と言うのなら兎も角、まだ音を上げるには、早すぎる。本当なら一番、体力があるはずの年頃なんだから)
「やっぱり、登りにくいわね。新しい方に回ったほうが、よかったかしら」
サラは幾分息を弾ませてはいたが、口を利くのが苦である様子ではない。だが、キラは一言の返事をすることもできなかった。
「ちょっと、大丈夫なの」
ようやく石段を登り終えて、社の境内にたどり着くなり、キラは膝に手を置いて喘いだ。
「やばい。脚が攣りそう」
「そんなに、大変だったの」
「ほら、段の幅が、狭いだろう。おれの足だと、ずっとつま先ばかりに、体重をさ、ほら、だから、脚にきた」
キラは息も絶え絶えに説明した。サラは心配げにして、兄の膝裏をさする。苔むした石段は滑りやすいし、キラのかかとを支えるだけの幅もない。
「たしかに、あなたは足も大きいものね」
キラは脚が攣りかけたことを言い訳にして、心肺が求めるままに、繰り返し空気を取り込んだ。脚に負担を感じていることも、事実ではあったが。
「帰りは、新しい石段から下りましょう」
「うん」
キラは背すじを伸ばして、深呼吸をした。
「歩けそうなら、お参りしましょうよ」
拝殿を眼で示して、サラは提案した。日が暮れてもなお、スクナの社は参拝客で賑わっている。祭りの時期であるから、尚更であろうが。
「おれはいいや。梅園を眺めてるから、行ってきな」
キラはサラの提案を断って、明かりの灯った夜の梅園を見下ろせる場所へと、ヨロヨロと歩いて行く。
その後姿を、不安げに見つめて、サラはひとり、医療の神、街の守護神として祀られる、自身の祖先のもとへと向かった。
「キラ、これ」
戻ってきたサラが差し出したのは、小さな護符だった。金糸がきらめく黄の布地に、桔梗色の縫い取り。
「延命息災、ね。シャレてるな。リンドウの刺繍なんか、なかなか綺麗じゃない」
「持っていてよ」
「いいよ」
キラは差し出された護符を、突っぱねた。
「おれは、あんまり好きじゃないんだよ、スクナが」
「どうして」
「健康を祈願される神にもなった人が、健康にいわくつきの家系の祖先だなんて、笑えるじゃないか」
「そんな言い方、ないじゃない。それに、スクナ様の血は、関わりがないかもしれないし」
「まあ、そうだね。スクナのあと、数代分の記録の抜けがある。しかし、それを言っちまったら、そもそも、おれたちが本当にスクナの子孫かどうかも怪しいけれど」
いつもと変わらぬ、飄々とした口調。だが、その奥には、不満や苛立ちがあることを、隠そうともしない言葉。
キラの物言いに、サラは差し出していた護符を、そろりと引っ込めた。
「健康、長寿。ご利益がないとは言わないさ。これだけ信仰されるには、相応の理由があるんだろう。だが、そうだとするなら、スクナは自分の子孫の男から、それを取り上げて、他人様に渡してるんだろうさ」
「冗談でしょう」
「薬だって、タダでは渡せない。材料を買うために、おれたちは金を払ってる。その、おれたちが支払った分は、貰わなきゃ。じゃなきゃ、いつか破産して、結局だれにも薬をあげられなくなる。同じだろ。どこかからとらなきゃ、だれにも渡せないんだよ。スクナは、おれたちから徴収してるんだ。だから、おれはスクナに祈る気にはなれない」
「そりゃあ、人の世界では、そうかもしれないけれど」
「神様は違うってか。どうだかね。病気が良くなりますように、って願いに来て、いざいくらかでも良くなって。わざわざ、ありがとうございました、ってお礼参りに来るやつは、どのくらいいるのかな。礼を伝えに来ない連中にだって、善神は力を尽くすんだろう。でも、その力が無尽蔵かどうかなんて、それこそおれたち人間には判りゃしない。存外、神の世界も、人間の世界と似たようなものかもしれない」
「それでも、わたしは。ご先祖様は、わたしたちを守ってくださるって、信じてるから」
(だって、そうでもなきゃ。誰にも、頼れないじゃない)
サラは、陰に塗られた兄の横顔を、見つめる。すがるように。
(あなたが隠したいのなら、わたしはまだ、気づかないふりをするけれど)
受け取られなかった護符を、やわい胸元に押し付け、サラはスクナに祈る。
(わたしは、このひとと、生きていきたいのです。だから、どうか)
キラは下方に広がる梅園を見下ろして、もうこの話に関心などないように、薄っぺらい調子で呟いた。
「そう。いいんじゃないの、おまえがそう思うなら、それで。おれの考えとは、違うけれどね」
その口調は、なにかを突き放すようだった。
しばらくして、また、どこかから聴こえはじめた、囃子の音。
「ハァ。だめだな。どうも、ピリピリした雰囲気を続けているのは、苦手だ」
キラは居心地悪そうに、結い上げた髪が乱れるのも構わず、ガシガシと頭を掻いた。
「なあ、さっきは。いや、今日は悪かったよ。せっかく、楽しみに来たのにな。なんだか、たぶんさ、おまえに声をかけてるやつらを見て、羨ましくなっちまったんだ、おれ」
サラは恐る恐る、顔を上げた。暗がりの中、遠くの提灯に照らされ浮かび上がる、美しい兄の顔は、先程までの不機嫌さをひそめて、いつもとなんら変わらない、穏やかな雰囲気であった。
「もう少し、こっちにおいでよ。せっかく高台に来たんだ。梅園を見下ろすのに、ここはちょうどいい」
そうして、まだ葉もつけていない沙羅の樹の陰へ、キラは妹を手招いた。
誘われるがままに、兄のそばにサラは近づいた。刹那。
「ま、待って。奥に、人が大勢いるのに」
サラはキラの腕の中にいた。
「ごめんな」
(それは、なにに対する、謝罪なの)
口で咎めても、サラは兄の腕の中から抜け出そうとはしない。トクリ、トクリと頬に触れる心の脈動に、ぬくもりに、サラは安堵する。
(毎晩、同じ布団で抱き合って眠っているのに、どうして、今日はこんなにも)
薄い唇同士が触れ合う感触に、サラは恍惚として心身を委ねた。
(梅は光に照らしあげられて、人々は揚々として。周囲はこんなにも、艶やかで、美しいのに)
木陰に隠れて抱き合う。この関係が、歪で、偽りにまみれたものであることを、理解しながらも。
拝殿の奥、切り崩した山の岩肌の中に掘り込まれた洞窟の中に、スクナの本殿はある。
キラは、姿の見えないスクナを、ジッと睨んでいた。
(見ていろ、スクナ。あんたがつくった、欠陥だらけの血筋がゆくところを。あんたの子孫の男たちが、未だ誰一人として成し得ていないことだ。おれは絶対に、命をつくる)
杏の香りをまとわせた、つややかな黒髪に鼻をうずめ、自分よりもずっとやわく、華奢に育った、妹の背へと回した腕に力を込める。
(そうさ、やり遂げなきゃならない。こいつを巻き込んで、堕としたからには)
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