ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

Aldyss -アルディス-
第一章 ファーリーン
第八節 古き血の誓約(下)

 前方の闇の中から、白いものが浮かび上がる。次第に輪郭は明瞭化し、それが人影の顔貌部分であることが判明する頃には、その人物は一同からさほど離れていない場所まで近付いていた。彼らの前に現れたのは長身の女だ。引き締まりつつも女性的な体型を強調する露出のない装いは、殆ど黒色に覆われている。後頭部から結い上げられ腰へと流れる黒髪を掻き上げ、彼女は一同を見渡した。瞳は鮮烈な赤色である。整った造りの顔貌には白粉の平滑さがあり、口元と目元には黒を差している。

「そろそろ、いらっしゃる頃だと思っておりましたよ」彼女の声は通路内に反響する。

「何者だ。名乗れ」アクセルは機敏に前方へと進み出た近衛騎兵達の後ろから言った。

 長身の女はアクセルへ視線を向けた。暫し彼を見つめてから、彼女は顔を伏せ笑った。

「何が可笑しい」アクセルが眉根を寄せて訊ねる。

 女は顔を上げた。その口元には未だ笑みが浮かんでいる。「失礼致しました。私の名を知ったところで大した意味はないでしょう。それよりも、お伝えすることがあります」彼女はルートヴィヒへ視線を向けた。「我々は大方の用件を済ませました。じきに立ち去りましょう」

「目的とは」ルートヴィヒが問う。

 女は腰に手を当てた。「私はその質問に答えられる立場におりません。恐らく、貴方がたが訊き出したいと思う殆どのことに対して、私は答えられないでしょう」彼女は一行に背を向けた。

「この力の不均衡を引き起こしたのは貴女ですか」ルートヴィヒが女の背に向かって言った。

 女は肩越しに振り返る。彼女はルートヴィヒらを眺め見てから、視線を上方へ移動させた。「この上で、大勢亡くなられましたから、その為では。私のせいかと問われれば、確かに一端以上のことは私が担いました」彼女は言った。再び一同の方へと視線を向けた彼女は、俯き唇を噛んでいるアクセルを見つめる。彼女は暫し佇んでいたが、やがて闇の方へ向き直り、一歩を踏み出す。

「ノックス」アクセルが呟く。

 女の足が再び止まった。だが、此度は振り返らない。

 アクセルは顔を上げ、女の背を見つめて続けた。「この名に覚えはあるか」

 短い沈黙の後、女の肩が揺れた。しかしアクセルの問いに彼女は答えず、闇へと歩き進み姿を消した。

 眉根を寄せ沈黙するアクセルに、ルートヴィヒは近づき、「ノックスとは」と訊ねた。

「リーン教会に派遣されてきた聖皇教の司祭です。リーン大教会堂で出会ったのですが、彼女と容姿が酷似していたので、兄妹かなにかかと思いまして」アクセルは答えた。

 ルートヴィヒの目が細められる。「リディで出会ったということですね」そして彼は一同に向けて言った。「引き返しましょう」

 アクセルは「なぜでございますか」と訊ねた。

「貴方はここでも狙われているのですよ」ルートヴィヒは平坦に言った。「地上に戻って騎士団と合流しましょう。敵が大方の用件を済ませ撤退してくれるというのならば結構。あとは貴方を無事こちら側に引き止めておくだけです」

「あの女の言葉を信じられるのですか。真に敵が撤退すると」アクセルは眉根を寄せる。

 ルートヴィヒはアクセルの言葉に対し、頷いて返した。「撤退しないのなら、攻撃するしかないでしょう」

「正面から対峙するということですな」アクセルは溜息を吐いた。「魔道士方の助けがあったとしても、多くの犠牲者を出す可能性は高いですぞ。それを回避する為の、この作戦だったはずでは」

「彼女がやって来た時点で、この作戦が敵に割れていることは明らかです」ルートヴィヒは言う。

 アクセルは肩を落とし、短な沈黙の後で続けた。「狙われているのが私だというのなら、民達は私の為に犠牲になったと考えることもできる。亡くなった命は戻らぬとも、今ある命を守ることはできる筈です。それはこの街の主である私の使命。私の命がここで潰えるのならそれで構わぬ。後はエヴァルトを」そこで彼は言葉を止めた。息を吐いた後、続ける。「仮にエヴァルトが既に亡いというのなら、リストやテルベールから後継者を募れば良い。そうして我々の家系は続いて参ったのですから。私は進みます」彼はそう言うと、先へと足を進ませようとした。

「お待ち下さい」と、彼の側に控えていた近衛騎兵が引き止める。

「あちらが欲っしているのが、貴方の“命”だとは限りません」ルートヴィヒがアクセルの背に向かって言う。「貴方を生かして、何かに利用しようと考えている可能性が高いと思います。それによってファーリーンが不利になることも考えられる。貴方はご自分の立場をよく心得ておられる筈ですが」

 アクセルは歪な笑みを浮かべた。「貴方は至って冷静だ」

「引き返しましょう」ルートヴィヒは繰り返した。

 しかし、アクセルは首を横に振る。「できません」

 ルートヴィヒは言う。「焦りは禁物です。今の貴方は、十分に冷静であるとは言い難い」

 アクセルの口元が歪み、そして次に瞳が見開かれた。彼は大きく息を吸い込む。「私にこれ以上、どうやって今より冷静でいろと仰るのか。貴方には分かり得ない。そのように――」声を荒げた彼は、掌で顔を覆った。そして彼を囲む王の近衛達を跳ね除け、先へ進み出す。不安定な足取りを追い、近衛騎兵は「閣下」と呼び掛けた。

 近衛達に纏わり付かれるアクセルの背を見つめるルートヴィヒに、アル=レムシスが耳打ちした。「元々、精神的にお疲れでおられたのが、ここへ来へ力の不均衡による影響を受けてしまわれたのかも知れません」

「彼にとって状況が酷であることは確かですが、それにしても混乱しておられる様子。仰る通りでしょう」ルートヴィヒはアル=レムシスの意見に同意を示した。

「意識に干渉する術が使えないことはありませんが」アル=レムシスが小声で言う。「あまり気の進む行為ではありませんけれど、しかし場所の悪さは大いに影響しておられると思います。離れれば落ち着きを取り戻されるかと」彼は湿った天井を見上げる。「それに、本当に歪みが激しいのはこの上――城内だと思います。今の伯爵城に、アクセル様を踏み入らせてしまうのは危険です」

 ルートヴィヒは近衛らに引き止められているアクセルの背を見つめ、「お願いします」と言った。

 アル=レムシスは頷き、一人の魔道士を手招いた。その術士は、この精鋭部隊の中でも特に幻術を得意とする幻術士である。アル=レムシスとその幻術士は、小声で打ち合わせ、間もなく幻術士が早足でアクセルを追って行った。アル=レムシスはルートヴィヒの背に隠れ、魔法陣を描き出す。幻術士がアクセルに声を掛け、注意を引きながら横目でアル=レムシスを見た。アル=レムシスが小さく頷くと、幻術士は多数の指輪で飾られた左手でアクセルの背に触れた。すると、アル=レムシスが描いていた魔法陣がアクセルの背に転写される。アル=レムシスはごく小声での詠唱を始め、幻術士はアクセルの背に浮かぶ魔法陣へ魔力を送り込んだ。

 だが、アクセルは振り返った。魔道士が触れる背には魔法陣が輝き、王の背後に隠れる皇子は魔道術を行使している。アクセルの眉間に皺が寄った。「私を操ってまで連れ戻したいとお考えですか」

 アル=レムシスを背に隠すルートヴィヒはアクセルを見つめている。

 アクセルは魔道士の手を振り払う。「ご心配なく。敵に捕まり利用されそうとなれば自死致します。元より死などは覚悟の上。皆様は引き返してくださって結構です」アクセルは一行に言い、進行を妨げようとする仲間達を押し退ける。

 王の近衛達は尚、アクセルを追った。

 ルートヴィヒは背後のアル=レムシスへ視線を向けた。アル=レムシスはルートヴィヒを見上げ、「どうやら、難しかったようです」と言った。

「仕方がありませんね」ルートヴィヒは闇へ向かっていくアクセルの背を見つめた。「我々も進みましょう。ここから先、彼は独断で無茶な行動をしかねません。しかし、王や皇子の存在が近くにあれば、少なくとも抑止力にはなるでしょう」

 アル=レムシスは頷き、進み出したルートヴィヒに続いた。

 一行は早足で進むアクセルを追った。やがて上へと続く階段が現れ、王の近衛が「こちらが城内への入り口でございますか」と訊ねると、アクセルは短く「ええ」と答えた。

 アクセルが階段を上って行き、同行者達は彼に続いた。階段の頂上には鉄扉があり、それはこちら側と向こう側とで連携する鍵が掛けられている。アクセルは腰に手を伸ばした。彼の腰には一本の長剣と、一本の短剣が吊るされていた。彼は短剣を外し、柄頭を鉄扉の鍵穴に差し込んだ。そして回転させる。鉄扉の中の仕掛けが動く音が周囲に響いた。アクセルは短剣を鍵穴から引き抜き、鉄扉を手前に引いた。開いた扉の向こう側には、積み上げられた石の壁と、敷き詰められた石の床、明かりのない冷暗な光景が広がっている。彼らが出た場所は、地下牢の一角だった。

 通路の両脇には牢が並び、その柵の中には天井から吊るされた枷や、鞭や刃物などが置かれたままとなっている。

 地下牢から更に上へと続く階段へ、アクセルは進んだ。彼は足音を立てずに上っていったが、途中で足を止めた。続く者達もまた歩みを止めたが、近衛騎兵長はアクセルの隣まで上って行った。

 階段の上には二人の半竜人がいた。長身のその身に合わせた長槍を携えた褐色肌の半竜人は、黄金の瞳で彼らを見下ろしている。そしてもう一人の半竜人は笑みを浮かべている。

「あんたが伯爵だね」と、白い歯を見せる半竜人がアクセルに向け言った。アクセルは無言を返す。若々しい気配を纏うその半竜人は、溜息を吐いた。「確認させて欲しいんだよ。後ろにいるのがファーリーンの王様と、アルディスの皇子様。合っているかい」彼女(多くの場合半竜人の性は曖昧であり、この者に関しても人間で表せるところの女性的身体要素は見受けられないが、便宜上そのように表記する)は、陰の中から上階の様子を窺うルートヴィヒとアル=レムシスを見下ろして言った。

「そうです」と、ルートヴィヒは進み出て答えた。アル=レムシスもその場で頷き返す。

「では、この三人に傷を付けなければ良いのだな」褐色肌の半竜人が長槍を構え、呟く。

「よしてよ」若い半竜人が顔を顰める。「私達は案内役だよ。やたらと戦い好きなのは困ったもんだ。大体、あんたは前に受けた傷も塞がりきっていないじゃない」

 褐色肌の半竜人は横目で相方を睨んだが、無言で長槍の先を下ろした。彼(こちらも先と同様、便宜上そのように表記する)は腹部に傷を負っている。

「案内役とは」ルートヴィヒが訊ねた。

「そのままの意味だよ。連れて行くべきところにあんた達を連れて行くのが私らの役目。安心しな、取って食うような真似はしない。この戦い好きな爺さんもね」若い半竜人は相方を示す。「私がちゃんと見張っておくからさ」そして、彼女は再び笑みを見せた。「まずは名乗っておこう。私はリゲラ。隣のはベーラムだよ」

「貴方がたは、イシャクからやって来たのですか」ルートヴィヒは更に訊ねる。

 リゲラは肩を竦めた。「そうだけれど、あまり多くは訊かないで欲しいな。分かるだろう、私らに詳しいことを語る権限がなさそうなことくらい」彼女は片手を体の前に翳す。「無理矢理訊き出そうなんて真似はしないでよ。この下にはその為の設備があるみたいだけれど。上の考えてることなんて私らは知らないし、興味もない。このベーラムは特にね」

「街はどうなっている」アクセルが訊ねる。

「それは、夜が明けたら自分の目で確かめてよ」リゲラは答えた。そして一行に背を向けた。「案内するから付いて来て。とは言っても、城のことはあんたの方がよく知っているだろうけどさ」アクセルを横目にし、彼女は言った。

 ベーラムが細めた目で一行を眺め見ながら、進み出したリゲラに続いた。一行はアクセルと近衛騎兵長を先頭にしながら、彼らの後を追う。リゲラは燈火を掲げ、先を照らす。

「使用人はどうした」アクセルがリゲラの背に訊ねた。

「会いたいかい」リゲラが訊ね返す。

「生きているのならな」アクセルは答えた。

 リゲラが角を曲がると、ベーラムは舌打ちをした。幾つかの扉を見送り、ある部屋の前で立ち止まる。その部屋の扉は外側から固定してあった。リゲラは固定具を外し扉を開け、背を屈めて部屋の中へ入って行く。アクセルと近衛騎兵長は彼女に続き、部屋の入口には近衛や魔道士らが集う。

 その部屋の中に明かりはなかった。身動ぎの音が室内の至る所からし、リゲラが燈火を掲げると、若い男子達の姿が浮かび上がった。

「アクセル様」一人が呟く。途端に、若者達が破顔する。彼らは城主の帰還を喜んだ。

 しかし、一人の少年がアクセルの元へやって来るなり膝を突き、アクセルに縋り付いた。彼は啜り泣く。彼は「申し訳ありません」と繰り返した。

 リゲラが「余計なことは言うんじゃないよ」と少年の肩を小突いた。

 だが、少年は城主への謝罪の言葉を繰り返す。

 アクセルの眉根が寄る。アクセルは瞳を閉じた。暫しの沈黙の後、彼は膝を折り、啜り泣く少年の頭に触れた。「よく耐えた。もう少しだけ辛抱してくれ」彼は言った。そして立ち、室内の者全員を見渡す。「じきにお前達を自由にしてやる。長く待たせることになり、すまなかった。あと少し、夜明けまで待って欲しい」彼はそのように言うと、室外へと身を向けた。そして「行くぞ」と、リゲラに案内の続きを促した。

 リゲラはアクセルを部屋から出し、扉に再び固定具を取り付けた。そして廊下を戻り、元来た道から先へと進む。

 やがて、一行は大扉の前で止められた。リゲラが扉を開け、一行は中へと通された。

 そこは広間で、中には明かりが灯されていた。二名の半竜人と、先程地下道で一行と言葉を交わした長身の女が立っている。そして、ヴァラットでアクセルを襲った半竜人の少年と共にいたトキ人の若い女性――ショウが、彼らに囲まれるようにして椅子に座っていた。

「やはり、我々がやって来ることが初めから分かっていたらしいな」アクセルが室内の者達を睨みながら言った。彼はショウを見やり、「ヴァラットで私を襲ったお前の仲間はどうしたのだ」と訊ねる。

 ショウは丸く黒い瞳を伏せた。「転移術は本来、私の力では自分自身に用いる以上のことはできません」彼女は答えた。

「私も訊ねたいことがあります」アル=レムシスが進み出た。彼もまたショウへと向かい言う。「あなたと共にいたローブの人物、彼は何者ですか」

 ショウは瞼を上げた。膝の上に置かれた杖の鈴が鳴る。「あの方は私達の王です」彼女は答えた。

「ショウ、話してしまって良いのか」ショウの傍らに控えていた長身の半竜人が言う。

 ショウは頷く。「構いません」そしてアル=レムシスへ顔を向け続ける。「あの方は、イシャクの者達の王。十二年前に王座に就き、その後無数の挑戦者を退け続けて来られた、王の中の王。〈黒き剣〉と魔道の使い手」

「彼の名を知りたい」アル=レムシスは身を乗り出す。

「私達は〈炎の王シャー・エシュ〉とお呼びします。貴方は、あの方のお顔が知りたいのではありませんか」ショウは言う。「いずれ再び、貴方ともまみえられることでしょう。その時、貴方の憂いを晴らされなさいませ」そして、ショウは席を立った。彼女は両脇に半竜人を従え、アクセルの元へと進み出た。

「お前達の王がこの街を攻めよと命じたのか。そして、ショウと言ったな。貴様がその統率の任を負った人物という解釈で合っているか」アクセルは小柄な相手を見下ろしながら問う。

「ええ」ショウは頷く。

「お前達の王はヴァラットでお前と共にいたはずだが、今はどこにいるのだ」アクセルは続けて問う。

「お答えすることはできません」ショウは言う。

 アクセルは溜息を吐き、低く訊ねた。「私の息子はどうした」

 ショウの傍らの長身の半竜人が鼻を鳴らし笑った。だが、ショウは顔を伏せる。

「いつ、その質問が来るのかと思っていた」長身の半竜人が笑みを浮かべ、アクセルを見下ろす。「三階の露台に行けば、あの少年がどうなったか分かるぞ。丁度日も出てくる頃だ。顔を見てやるが良い」

 アクセルは青褪め、そして走り出した。ルートヴィヒが「護衛を」と声を上げる。王の近衛と魔道戦士の数名がアクセルを追い、広間から出て行った。半竜人達はそれを妨害することはなかった。

 ルートヴィヒがアル=レムシスの耳元に寄る。「黒衣の女性に注意して、彼女を見張っておいてください」

 アル=レムシスは地下道で彼らと接触した長身の黒い女を横目にした。女はアル=レムシスに微笑を向ける。アル=レムシスは女から視線を外し、「分かりました」と小声で応えた。

「ショウ、私はあの父親が息子の死をどのように受け止めるのか、その様子に非常に興味がある」長身の半竜人がショウを見下ろして言う。

「イシュカヤ、貴方にはここに残ってもらわなければ困ります」ショウは咎めた。

 イシュカヤと呼ばれた長身の半竜人は、口元を歪めて鼻を鳴らした。

「嫌になるね。こんな奴ばっかりだ。どいつもこいつも野蛮でさ」リゲラが眉根を寄せてイシュカヤを横目にした。

 イシュカヤはリゲラを嘲笑う。「小娘が。貴様こそ不適合者だぞ。殺しもできぬくせに、なぜこの作戦に加わったのだ」

「あんたら野蛮人に姫を任せておけないからに決まっているだろ」リゲラは鋭利な歯を剥いてイシュカヤを睨んだ。

「言い争いは後で」ショウが二人を宥める。彼女は平坦な顔貌をルートヴィヒへ向けた。「既にお聞きになられているでしょうが、我々は夜明けと共にここから立ち去ります。街に配置した者達は既に撤退を始めている筈」

 ルートヴィヒは腰に刷いた双剣の片割れの柄に手を添わせた。「貴女は今回の事件について、多くのことを知っている。貴女を捕らえれば、我々はこの状況についての詳細を知ることができるでしょう」彼は剣を抜いた。

 ベーラムが長槍を振るい、刃がルートヴィヒへと向かう。しかしルートヴィヒは突き出される刃を避け、相手の懐へと入り込んだ。ベーラムの腹部に巻かれた厚い包帯を切り裂き、内側の傷を露出させる、その傷は縫い合わせてあるが、糸の何本かが切れ、褐色の肌の切れ目から薄赤い肉が覗いている。ルートヴィヒはベーラムの腹を縫い付ける糸を全て断ち切った。ベーラムが間合いを取り次の攻撃を繰り出すべく体を捻った瞬間、彼の傷は完全に開いた。彼は金色の瞳を見開き、動きを止める。ルートヴィヒは、イシュカヤと共にショウの傍らで一行を待ち受けていた、ベーラムと似た顔立ちの半竜人へと向かって行った。

 近衛騎兵達はイシュカヤと対峙する者、王の補佐をする者、腹の傷を押さえるベーラムの元へ向かう者とに分かれた。同じように、魔道士達も彼らの補助に回った。リゲラはショウの最も近くに移動しており、彼女らは戦闘の中心から離れていた。アル=レムシスはルートヴィヒに指示された通り、黒衣の女に注意を払っているが、彼女に動きはない。

 ルートヴィヒが戦いの渦中から抜け出し、ショウの元へ駆けた。リゲラが立ち塞がり、彼と武器を鳴らし合う。リゲラの背後で、ショウは立ち竦んでいた。術を展開し掛けた状態で硬直している。彼女と相対しているのはヴィオールの幻術士である。

 イシュカヤは近衛騎兵達の攻撃を防ぎながら、「何と邪魔な奴らだ」と呟き、歯軋りした。「ガイア、まだなのか!」彼は奥の方で観戦している黒衣の女に向けて怒鳴った。

 黒衣の女――ガイアは、黒手袋に覆われた手を顔の前で振った。その次の瞬間には、彼女の姿は消えている。

 ルートヴィヒが「殿下、露台へ」と声を上げる。アル=レムシスは駆け出した。彼は広間を出て行き、彼を追って帝国近衛兵もまた広間を後にした。

 リゲラと武器を合わせるルートヴィヒが、短い精霊語を呟いた。リゲラの体が弾かれるように飛び、近くの柱に衝突する。彼女は武器を落とした。

 その隙に、ルートヴィヒはショウを拘束していた。

 城内を駆けるアクセルの顔は蒼白だった。ルートヴィヒの近衛が四名、魔道戦士が二名、伯爵を追って走る。彼らは階段を駆け上がった。三階の露台が間もなくというところまで来たとき、アクセルに並走する近衛が鼻を押さえた。

「エヴァルト」アクセルは露台へと出る扉を開け放った。

 終秋――もはや冬に差し掛かろうという季節の、早朝の風が吹き込む。兵達が一様に鼻を押さえ、呻いた。

 朝日は昇り掛けていた。東に向いた露台の先には棒状のものが立て掛けられており、その先端に丸いものが取り付いている。地平線に浮かぶ陽光が、そのものを黒く塗り潰す。

 アクセルは膝を折った。彼は膝を擦り、時折手を床に突きながらその影へ近付いて行く。追随者達はアクセルに続きその影へ歩み寄った。

 影へ辿り着くと、再度アクセルは立ち上がった。石の半壁に立て掛けられた棒は、槍である。アクセルはその槍を掴む。動かすと蛆が落ちた。アクセルは槍の先端に刺さったものから視線を逸らしながら、それを石床の上に横たえた。彼は震えながら、槍の傍らへと腰を下ろした。彼の見開かれた瞳が、槍に突き刺され、晒されて腐り落ち掛けたものを一瞥する。

 アクセルが上体を背け、嘔吐した。胃液のみが彼の口から吐き出される。

 槍の先端に突き刺さったものとは、アクセルの息子エヴァルトの頭部だった。父親と同じ淡い赤毛が残っている。顔貌は褐色に腐り、肌と肉は虫に食い破られ、瞳は虚ろに濁っていた。首の断面から差し込まれた刃の先端は、無理に広げられた小ぶりな口から突出している。

「エヴァルト」アクセルは息子の名を呟いた。彼は体から切り離され、人目に晒されながら腐り果てた子の上へ覆い被さった。無数の幼虫や悪臭ごと、彼はエヴァルトの頬に両手で触れた。

 街の南方、及び西方から鬨の声が上がる。騎士団が作戦通り都市へ突入する合図だった。

 アクセルは嘆く。「なぜお前まで逝ってしまうのだ、エヴァルト」彼はエヴァルトの傍らで、項垂れて啜り泣いた。

 突如、アクセルの背後に黒い影が現れた。地下道で、また先程の広間で遭遇した黒衣の女である。女が指先を一振りすると、アクセルを護衛すべく追従してきた者達は倒れる。女の術を防いだ魔道戦士の一人も、彼女の口から紡がれた古い眠りの言葉によって、意識を手放した。

 女がアクセルの背を抱く。二人の間に暫しの沈黙があった。

「やはりお前か」アクセルが掠れた声で呟いた。「初めから、貴様は私をこうしたかったのだ。私を打ちのめすことが目的だったのだろう」

「私は貴方を守りたかった」女がアクセルの耳元で囁く。

「よくもぬけぬけと。あやつらに手を貸しながら、私を慰めようなどと。私の子らを殺したのは貴様に他ならぬ」アクセルが背後へと振り返る。彼は女の白く細い顎を掴み、黒く塗られた唇に噛み付いた。

 女の唇から、黒い液体が滲み出る。アクセルはそれを吸い、飲んだ。

 女は笑む。「どうぞ、私を憎んでください」彼女は言い、そしてアクセルの唇を噛み切った。赤い鮮血を彼女は舐め取る。

 そして、二人は姿を消した。

 アル=レムシス達が露台へと到着した。彼らは鼻と口を押さえていた。アル=レムシスは「伯爵殿」と叫びながら露台を見渡すが、アクセルの姿はない。彼を守る為に同行していた者達は一様に倒れている。

 アル=レムシスに同行しやって来た帝国近衛兵達が、「殿下はこちらでお待ち下さい」と言い、露台の奥へと進んだ。倒れる兵達の中心に置かれたものを見た近衛兵は後ずさる。「これはご子息では」「なんと惨いことを」等と、彼らは口々にした。そして傷もなく倒れる兵達に声を掛けていく。だが、肩を揺らしても耳元で名を呼んでも、誰一人として目覚めない。

「参りましたね、伯爵殿がこちらにやって来たことは間違いないと思うのですが」近衛兵がアル=レムシスの側まで戻り、言った。

「やはり遅かったのでしょうか。土地勘があれば転移できたのですが」アル=レムシスが眉根を寄せ呟く。

 近衛兵達は黙していた。その中で、一人がエヴァルトの死骸を見やり、「このままでは、あまりにも不憫では」と言った。「槍を外してやりたいが、この腐敗具合では難しいだろうか」

 アル=レムシスが露台へと一歩踏み出す。それを傍らの近衛兵が手で制した。「殿下は、ご覧になられない方が宜しいです」

 アル=レムシスの足は止まった。

 広間内の動きは停止していた。ルートヴィヒがショウを抱え込み、その首元に刃を突き立てている。

「リゲラ、この役立たずめが」イシュカヤが、柱に打ち付けた部位を庇い立つリゲラを怒鳴りつけた。

「畜生」リゲラは噛み締めた歯の隙間から言う。彼女の右腕は腫れ上がり、赤黒く変色し始める。「あんた、姫に傷でも付けてみろ。殺してやるから」彼女はルートヴィヒを睨む。

「それは彼女と、貴方がたの出方次第ですが」ルートヴィヒは答える。「ヘザーの者達を私へ差し向けたのは、貴女ですね」ルートヴィヒはショウへ訊ねる。

「ええ」ショウは肯定した。

 ベーラムが彼に纏わる兵達を弾いて進み出た。ルートヴィヒによって傷を開かれた彼だが、その槍はショウを抱えるルートヴィヒへと突き出された。

 ルートヴィヒはショウを抱えたまま飛び退く。

「馬鹿野郎。余計な真似するんじゃないよ」リゲラが声を上げる。

「僕は強い奴を好む」ベーラムは言いながら槍を構える。「娘など転がして置けば良い。僕と戦え」

 ルートヴィヒは右腕でショウを抱えたまま、左手の剣を突き出した。ショウは眉根を寄せ目を閉じ、口を微かに開いた状態で無抵抗にルートヴィヒの腕に凭れている。

 ベーラムは眉根を寄せた。「舐めるな」彼は腹部から血を滲ませながら、再度槍を構えた。だが、彼の身体は背後へ飛び、広場の床を滑る。間もなく停止した彼は腹部の傷口を押さえ呻いた。

 ルートヴィヒに背を向け、ベーラムに前面を向ける形で現れたのは、ガイアだった。彼女は振り返り、ルートヴィヒに笑みを向けた。

「伯爵をどうしました」ルートヴィヒが訊ねる。

 ガイアは笑みを深める。彼女は半竜人達を眺め見る。「ご苦労をお掛けしましたね。もう大丈夫」彼女が長い両腕を広げると、足元に魔法陣が展開された。短い精霊語が囁かれると、四人の半竜人はその場から姿を消した。

 次にガイアは、ルートヴィヒの腕の中で失神しているショウへと目をやった。「彼女がこの様になるとは。腕の良い術士をお連れして来られたのですね」ガイアはルートヴィヒへ視線を移動させ言った。「でも、そちらもお疲れでしょう。少しお眠りになって」彼女は、ルートヴィヒの同行者らの方へ向いた。彼らは薙ぎ振られたガイアの腕に抵抗する間もなく倒れた。

 ガイアは再度ルートヴィヒへと向いた。「その子を返していただきましょうか」ガイアが手を差し伸ばした。

 ルートヴィヒは精霊語を呟き、飛び退く。二人の間で光が瞬いた。

 ガイアは腕を下ろし、微笑を浮かべる。「私と正面から対峙するのは避けなさいと、白の子に言い含められませんでしたか」

「やむを得ない場合があります」ルートヴィヒは答える。

「そう」ガイアは笑みを深めた。「けれども、その子は返していただきますよ」彼女は再びルートヴィヒの腕に抱えられた娘へと腕を伸ばした。ショウはルートヴィヒの腕の中から消えた。「これで全員回収しましたかね」ガイアが指を折り数えながら呟く。

 ルートヴィヒは翠の瞳でガイアを見上げた。ガイアは微笑を浮かべたままの泰然とした白い顔貌をルートヴィヒへと向ける。二人の間には暫しの沈黙があった。

 ガイアの手に、突如として大鎌が現れる。長い黒髪を振り乱し、彼女は鎌を振り翳した。

 襲い来た巨大な鎌の攻撃を、交差させた双剣で防ぎ、ルートヴィヒは訊ねる。「伯爵は」

 ガイアはルートヴィヒの顔へ自らの白塗りの顔を近づけた。彼女は赤い瞳で翠の瞳を覗き込み、眉尻を下げて囁いた。「貴方に彼は救えない」

 そして、ガイアは姿を消した。広間に残されたルートヴィヒは双剣を下ろし、虚空を見つめる。

 ややして、アル=レムシス皇子に付いて広間を出て行った帝国近衛兵が二人、戻ってきた。「伯爵殿がお姿を消されて」彼らは言いかけ、広間の惨状に口を閉ざした。ルートヴィヒ王が一人佇んでいるものの、他の者達は一様に倒れ伏している。帝国近衛兵の二人は表情を強張らせ、広間へ足を踏み入れる。

「旗を立てなければ」ルートヴィヒが広間に踏み入った二人へと体を向け、言った。「この街はファーリーン王の元に戻った。そのことを市民へ知らせる必要があります」

 帝国近衛兵の反応は鈍かったが、「左様でございますね」と応え、帝国旗とファーリーン国旗、そしてアクスリー旗の三種の旗が立てられるべき、天守へと走って行った。

 間もなくして、伯爵城の天守には旗が掲げられた。民衆の喝采が、ヴィンツ騎士団長や、状況を観察していた高位政務官、そして彼らの報告を受けるルートヴィヒらが集まった伯爵城の広間へも届いている。

 騎士団は門を守る半竜人らを撃退し市内に突入したが、市内に半竜人の姿はなかった。街人に話を聞いたところでは、昨日の夜間まではその姿は散見されていたものの、夜明け頃には彼らの姿は一切見られなくなっていたという。

 アクスリーの民は、実に四割近くが命を落としていた。それは初日の戦闘と、敵に反抗した為に殺害された者達の数、またアクスリー騎士団員の数を合わせたものである。

 だが、アクスリーの民は飢えていなかった。元々アクスリーには各家庭、都市全体でのものを合わせると、備蓄は一か月分あった。四割の民が失われていたとなれば、二ヶ月を保たせる事は可能だったかも知れないが、占拠者であった半竜人達は、人間と同程度の食事量で体力を持たせる事は難しい。やはり外部からの物入があったことはほぼ確実だろうと、政務官は意見した。その形跡は残されていなかったが、商会へ情報の開示を求めれば明確となる筈である。

 また、アクセルが行方を眩ました以上、この街には代わりの統治者を置く必要があった。候補として名が上がったのは、アクスリー家と同じく王族から分かれた三家のうちの一つ、リスト家の次男であった。ただし、彼はまだ若いため、高位政務官一人を共にこちらに置くということで、一先ずの話は纏まった。

 やがて、露台の清掃が終わったことを騎士が知らせに来た。エヴァルトの身体は彼の自室に倒れ、やはり腐り落ちていた。後程、頭部と併せて人目の付かない場所で焼き、埋葬する。

 広間に届く民の声が大きさを増してくる。ルートヴィヒは代表者達に「行きましょう」と言って、露台へと向かった。

 ルートヴィヒは高位政務官とヴィンツ騎士団長、王属騎兵団の隊長と、魔道士団の主導者を伴い、空の下に出た。王が民達から見える場所に立つと、大きな喝采が起こる。

「できることなら、伯爵殿にもこの場にお立ちになっていただきたかったですね」政務官は言った。

「ええ」ルートヴィヒは首肯した。そして、背後の方に佇むアル=レムシスを手招いた。

 アル=レムシスは肩を落としていた。政務官が動かない皇子の元へ歩み寄り、彼の背を押した。アル=レムシスは緩慢にルートヴィヒの隣へ立つ。民の喝采が止まり、アル=レムシスの眉根が寄った。

「こちらにおられるは、我が宗主アルディスの帝、アル=ヴィシース様のご子息であらせられるアル=レムシス皇子殿下である。此度の奪還作戦にご協力くださった。皆、感謝するよう」ルートヴィヒが静まった民達に向けて言った。

 民達の声量は先程までよりも更に増した。彼らは皇子の名と、彼に対する感謝の言葉を叫んだ。アル=レムシスの表情が和らぐ。彼はアクスリーの民に手を振った。

 アクスリーの民達は、アルディス帝国とファーリーン王国への忠誠の言葉、それらに帰属する喜び、彼らが信奉する天空神と、その主である月の神子への感謝等を叫んでいた。

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