ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

Aldyss -アルディス-
第一章 ファーリーン
第五節 魔聖の白(下)

 リラ最上階は〈奉呈の間〉と呼ばれ、その直下層は〈天空の間〉と呼ばれる。〈奉呈の間〉は皇帝であっても容易には立ち入ることのできない聖域だが、〈天空の間〉は皇帝と後継者に対し、制限なく開け放たれている。

 〈天空の間〉も例に漏れず一面の白色である。魔道の光は薄く落とされ、広大な部屋の中心には半球状の魔道盤が設置され、放射状の光を放っている。天井を覆うように広がる藍色の半球膜は淡く透き通り、大小様々な光点を映し出している。暗雲に天を覆われたリラの地であるが、魔道はその雲の向こうに広がる正確な天体図を示すことができるのである。

「そろそろ、目視も可能になる頃合いでしょうか」魔道盤の台座に凭れ、天上と手元で視線を往復させながら、皇太子アル=ネクサが言った。

 皇帝アル=ヴィシースは満天を見上げ、頷く。「随分と近付いたな」

 アル=ネクサは、今し方写し取った図面と、七日前の日付が記された図面を重ね、幾つかの星々を線で繋いだ。その線の角度や長さを測り、書き留める。彼は再び空を見上げ、筆先で星を辿った。そして新たに目印となる天体を紙面へ書き加え、筆を置く。

「やはり、五百四十日程度ですね。リラの真上に昇ったとき、紅星ルベウス蒼星サフィルスへ最も接近します」

 アル=ヴィシースは薄い笑みを浮かべ、細い指を顎に沿わせる。「〈奉呈の間〉には、確か紅星に関する記述があるのだが、あれはこちらに近づくとき、土産を持って来るらしい」彼はその笑みを、アル=ネクサへと向ける。「赤き荒野や、赤いヤーガ山脈がどのようにして生まれたか知っているか。紅星の連れが創ったのだよ」

 アル=ネクサは眉を顰めた。「それは不吉ですね」彼は半球膜を見上げ、未だ中点とは距離のある赤い光を見つめる。「前回は二千五百前でしたが、それ程の被害が出たという記録はありませんよね。丁度古代大戦の終結時期と重なりますから、何かしらの影響はあったのかも知れませんが」

「確かに、二千五百年周期であれは近付くが、更に言えば十万年毎により側までやって来る」アル=ヴィシースは息を吐いた。「今回がそのときだ」

 アル=ネクサは天色の瞳を見開き、アル=ヴィシースへと向けた。アル=ヴィシースは泰然とした表情で応える。彼は何も言わなかった。アル=ネクサは溜息を吐き、視線を再度上方へと向けた。

 紅星の主星は明星シャールと呼ばれ、この空に於いて太陽ソールと、満ちたアルブスに次ぐ光度を持つ。紅星が中点に重なったとき、その向こう側には明星が並ぶ。その瞬間、明星の光は紅星によって遮られ、この地上には届かなくなる。太陽の光を反射した紅星が、夜空に淡く輝くことだろう。

「太陽と明星は引かれ合っている。彼らは互いに近付いているのだよ」アル=ヴィシースは言った。

 アル=ネクサは手元の筆を弄ぶ。「では、いずれあの星は、太陽の力に捕らわれてしまうのでしょうか」

 アル=ヴィシースは瞳を細める。「或いは、ウェルトゥムスが先に明星に捕らわれるか。だが、確かに――そうだな、元々紅星に対する明星の力は強くない。紅星がこちらに近づく程に、ウェルトゥムスの軌道は歪んでいく。いずれは交わるようにもなるやも知れぬな」

「そういったことは、〈奉呈の間〉に記されているのですか」アル=ネクサは訊ねた。

 アル=ヴィシースは微笑んだ。「お前が皇帝になったとき、確かめてみると良い」そして、その言葉を言い終えたとき、彼の蒼い瞳の瞳孔が鋭利に細まった。

「いかがなさいました」アル=ネクサは訊ねる。

 焦点を引き戻し、アル=ヴィシースはアル=ネクサを見返した。「噂をすればなんとやら。客人だよ」

 フレデリックとアル、二人の少年が佇む場所は、リラ北西部〈赤の都〉の一角であった。

 周囲は一面白色の光景だ。地面には平滑な正方形の石が規則的に並べられ、舗装されている。立ち並ぶ建造物はその多くが統一された素材から成っている。そして多くは長身の直方体と、円柱状の建物である。空中に掛けられた橋がそれらを繋ぎ、また暗い空を遮っている。これらの人工物の合間から覗くのは三つの塔で、〈赤の都〉上空の淡い赤色光を放つ魔法陣を支える。

 フレデリックは八差路内を彷徨っていたが、アルは魔道式時計の台座に背を預けて座り込んだ。

 表情を歪めて彷徨くフレデリックは、「坊っちゃん」という声が掛けられると、身を跳ねさせながら振り返った。そして視線を上方へと動かした。

 全身を覆う黒い衣服と黒く長い頭髪の中で、白い顔貌が微笑んでいる。その白い肌は白粉を塗り込んだが為の白さで、平滑で、切れ長の目尻と薄い唇には黒色が乗せられている。背丈はフレデリックよりも一頭身程は高い。

「私のことを、覚えておられるでしょうか」深い響きを持つ声で、黒い人影は訊ねた。

 瞠目したフレデリックは、掠れた声で答える。「勿論、イーロンでしょう」

 指先までを黒で覆ったその人物は、黒で縁取られた赤い瞳を細めた。

「なぜ、ここにいるのだい」フレデリックが訊ねた。

「観光ですよ」イーロンは答える。

 フレデリックは笑みを浮かべる。「前に会ったときにも、そう言っていたね。全く変わっていないじゃないか。七年位は経ったでしょう」

 イーロンは両性的な顔に浮かべた微笑を深めた。「見た目のことでしょうか。それでしたら、厚化粧で誤魔化しているだけですよ」そう言った彼は、フレデリックの背後へ視線をやった。

 フレデリックはイーロンの視線を追う。そちらにいるのはアルだ。フレデリックは、リラの空を仰ぎ見ているアルを見下ろし、再度イーロンへ向いた。「彼はアル。詳しく話すと長くなってしまうんだけれど、皆そう呼んでいるよ」

 イーロンは頷き、アルヘ歩み寄った。腰を屈め、金と濃紫の混ざりあった大粒の瞳を覗き込む。「イーロンです」薄い唇の端を上げて名乗りつつ、黒手袋に覆われた右手を差し出す。

 しかしアルはイーロンの赤い瞳を見つめ返すものの、イーロンの挨拶に応えることはなかった。

「ごめんよ、イーロン」フレデリックが謝る。「彼には分からないことが多いんだ。気を悪くしないで欲しい」

 イーロンは「そうなのですね」と言い、右手を下げた。彼はアルに再度笑みを見せてから腰を上げ、フレデリックへと向き直った。「坊っちゃんは、なぜこちらにおられるのですか」

 フレデリックは両手を揉み合わせた。「一応、公的な目的があってね。詳しくは話せないのだけれど」彼は肩を落とす。「今、人と逸れてしまって」

「それは大変」イーロンは周囲を窺う。「この辺りで別れてしまったのですか」

 フレデリックは頷く。

 イーロンは暫し沈黙してから、「あまり移動しない方が良いかも知れません」と言った。「きっとお迎えが来るでしょう。それまで共におります。私の姿は目立つでしょうから」

 フレデリックの表情が緩む。「有り難いけれど、良いのかい。イーロンにも用事があるでしょう」

 イーロンは首を横に振る。「私は旅に予定を立てないのですよ。無計画に散策をしていたら、貴方と再会した。偶然とは不思議なもので、面白い。ぜひ、久方に貴方とお話もしたいですから」

 そして彼らは笑みを向け合った。

 イーロンは、アルが背を預ける台座上に置かれた魔道式時計へと視線を向けた。それは、天地に水平面を向けた円盤の形をしており、中心には正円の鏡が嵌め込まれている。

「それに見惚れてしまったんだ。けれど、それ程長い時間ではなかった筈だよ」フレデリックが言う。

「その鏡の輝きは、月の満ち欠けと連動しているのですよ」イーロンが僅かにフレデリックへ身を寄せて言った。「このリラの上を覆う黒雲の向こうで輝くアルブスの姿を映し出すのです。時計の背景色を見てください。これも、昼は薄青、夜は藍色へ、ゆっくりと変化します」

「詳しいね」フレデリックは丸くした目でイーロンを見上げ言った。

「似たようなものを、何度か目にしましたので」イーロンは答える。

 フレデリックは再度、その台座上の時計へと視線を向ける。円盤のきわには十二個の記号(古代文字である)が割り振られ、大小三種の僅かに浮遊する球体が、“鏡の月”を中心として、同心円を描きながら回転している。最も中心の小さな球体の動きは速く、安らかな心音六十回程度の間に同じ文字へと回帰する。二番目の球もごく僅かずつ動いているのが確認できるが、最も外側を回る大きな球は、殆ど静止している。

 フレデリックは横目にイーロンを見上げた。彼は暫しイーロンの横顔を眺めた後、頬を微かに紅潮させ、再び魔道式時計へ視線を戻した。

「ねえ」と、アルが言った。フレデリックは台座の横に座り込んだままの少年を見やる。アルの瞳はイーロンへと向いていた。イーロンは視線を移動させ、足元の少年と目を合わせる。

「なぜ、そんなに一生懸命肌を隠しているの」アルは訊ねた。

 その問いに、イーロンはアルと見つめ合ったまま笑みを深める。指摘通り、彼の服装は念入りである。身に纏うものは黒い生地ばかりで、手指の先も、首元も抜かりはない。彼の衣服で覆われていない部位と言えば頭部のみだが、黒髪は結い上げられても尚腰まで届き、その顔貌でさえも厚く白粉を塗り込んでいるのだから、露出しているとは言い難い。

 フレデリックは唇を震わせ、イーロンを横目にアルヘ囁いた。「彼は肌があまり丈夫ではないんだ」

 フレデリックの言葉を肯定するように、イーロンは右肩を竦めた。アルは「そうなんだ」と言って、再びリラ城へと向いた。フレデリックはアルの視線を追う。継ぎ目のない外壁、無数に張り巡らされる魔道術、リラを構成するものの多くは、現代の人々には理解の及ばない技術から成る。

 帝国に現存する最古の書物といえば、リラ最上階〈奉呈の間〉の〈アルビオンの書〉である。リーン経典等の元ともなったその神話には、リラ城と思しき建築物の記述がある。〈アルビオンの書〉が記された時代は定かではないが、しかし記述に使われた言語がルドリギア祖語であることを念頭に置き、後年のあらゆる記録と照合していったならば、少なくとも一万年の過去までは遡ることができる。

「いつ見ても、この塔は美しいものですね」イーロンが呟いた。

 フレデリックはイーロンの方へと視線を向けた。だが、直後フレデリックはきつく瞼を閉じ、そして脚を縺れさせた。

「疲れましたか」と問うルートヴィヒが、フレデリックの背を支えていた。

 フレデリックは瞳を開け、振り返る。ルートヴィヒと視線が合い、数瞬の後、彼は飛び退いて「申し訳ありません」と叫んだ。

 そういった様子のフレデリックに対し、アルは無言で立ち上がり、腰の埃を落としている。

 フレデリックは目と口を開き、浅い呼吸を繰り返しながら周囲を見渡す。イーロンの姿はない。フレデリックは魔道式時計へと目を向けた。示される時刻は半刻程前のものである。フレデリックは再び青褪めた顔を上げ、周囲を見回す。近衛達の視線は少年へ向けられ、彼らは首を傾げた。

 ルートヴィヒがフレデリックの肩に触れた。「不安な思いをさせてしまいましたね」ルートヴィヒは、フレデリックの耳にのみ届く程度の、抑えた声で言った。

 フレデリックは潤み掛けた瞳で王を見上げた。そして唇を噛みながら首を横に振った。

 リラの街の地表に水源はない。水分を生成する魔道術は存在するが、十二万の人々を潤すだけの水を常に生み続けるということは、例え古代魔道の技術を以てしても効率的ではなく、この乾いた風と大地の中心であっては困難を極める。リラの人々の潤いの源は、地下にある。リラと、その西方にあるリオス湾は深い場所で繋がっており、湾から取り込まれた海水はリラの古代魔道によって真水に変換され、街中に行き渡るのである。リラの浄水施設は白と赤と青、それぞれの区画に一つずつ、合計で三箇所あり、街の衛生を保っている。

 その浄水施設の濾過膜に、数日前から異物が詰まるようになった。分析の結果、異物はエシュナ大橋の建材の一部であると判明し、管理者達は発見次第回収している。破片には溶解した形跡があったが、実験では現代魔道術の極である高温に四半刻間近く耐えてみせた。また、その為に用いた魔道術に大掛かりな手順を要したことは、一朝一夕で常人が橋を破壊することの難しさの証明となった。

 ルートヴィヒ達は、エシュナの破片が流れ着く浄水施設の一つへ足を運んでいた。〈赤の都〉下層に広がる、人工的な地底湖の様相を呈するその場所は、静謐として澄み渡っている。一行の足音と、潜められた話し声だけが空間に反響していた。

 管理者の一人が、今朝採取したばかりだという破片をルートヴィヒに手渡す。ルートヴィヒは面を返しながら、その破片を観察した。「随分軽いのですね」

 管理者は頷く。「古代建築によく見られる建材の一つで、最も軽い部類に属する合金です」

 破片は報告通り、一度溶け、変形して再び固まったらしい歪さを呈している。

 最後尾に立っていた近衛が、背後に向かって敬礼の動作をした。他の近衛達もまたそちらを振り向き、同じように敬礼し道を開ける。帝国近衛兵を連れたアル=ネクサの姿があり、管理者は「太子様」と言って低頭した。

 アル=ネクサはルートヴィヒの前まで進み出た。彼は天界色の瞳でファーリーンの者達を見渡す。最後にルートヴィヒへと向けられたその視線は、足元から瞬間に上昇し翠の双眸を捉える。そして皇太子は皇帝と酷似した造形の顔貌に笑みを浮かべた。「後程、父がお呼びすると思います」そう言った彼は、一同に敬礼を解き、顔を上げるように続けた。

「皇太子殿下も、こちらに御用がおありでしたか」

 ルートヴィヒの問いに、アル=ネクサは頷く。「ええ。折角ですし共に城を出ることができれば良かったのですが、立て込んでいたものですから」そう答えながら、彼は緩い袖口に手を通し、何かを取り出した。浅黒く細い指先が抓んでいたのは、金属の破片だ。「これは先日回収したものです」アル=ネクサはルートヴィヒの持つエシュナの破片に、取り出したものを近づけた。「気になる所見があったものですから、分析に回したのです。この破片の外縁部――少し色が変わっていますが――ここは細粒子が一部抜き取られていて、こうなると熱耐性が著しく低下します。自然にこのような状態になることはありませんので、橋が破壊させる際に経られた手順の一つでしょう」

「変換されたということですか」ルートヴィヒは手元の破片を見つめ、呟く。彼は顔を上げ、アル=ネクサへと向いた。「古代の合成物の場合、組成図の認知度は限られているのでは」

 アル=ネクサは頷く。「一般に、このものの組成図は出回っておりません」

 魔道において、物質の組成を変える“変換術”というものは、基礎術の一つだ。だが、変換には予め対象となる物質の創りを理解している必要がある為、世の魔道司はあらゆる物質の組成図を自らの知識の中に取り入れることに労力を費やす。基本的な物質の組成図は目録日され流通しているが、特殊な物質――特に古代合成物ともなれば管理は厳しく、特定の魔道司のみが閲覧を許される。しかし、そもそも組成図自体が存在しないことも多々あり、その場合は魔道司自らが解析しなければならない。

 アル=ネクサは破片を袖口に仕舞った。そしてルートヴィヒの耳元に寄り、抑えた声で囁く。「父には、なにか心当たりがあるようなのですが」そこで言葉を止め、眉一つ微動だにさせないルートヴィヒの顔を見つめる。アル=ネクサは瞳を伏せ、一歩退いた。息を吐く端麗な顔貌に微笑が浮かんだ。「あの人が“こと”を話す気になってくださるまで、私はあれこれと詮索し、結局のところは無駄でしかなかったとなるような労力を費やし、同じように後で振り返れば無駄であったと考えさせられるような時間を過ごすのです。しかし、無駄になるやもしれぬと分かっていても、私はこの身で動かなければ気が済まない」

「恐れながら、私も同じです」ルートヴィヒは言った。

 アル=ネクサは短く笑声を上げた。彼は両腕を抱きながら、再びファーリーンの一同を温顔で以って見渡す。騎兵達の影に隠れ佇む痩せた金髪の少年は、皇太子と視線が合うと身を跳ねさせた。アル=ネクサはその少年に声を掛けた。「フレデリック君でしたね。弟達から聞いていますよ。君には良き魔道の才があるようですね」

 フレデリックは身を窄め、「恐れ多いです」と答えた。

 アル=ネクサは微笑む。「リラはどうですか。君の興味を惹くことができているでしょうか」

「ええ、とても」フレデリックは頷いた。

 アル=ネクサは「良かった」と言い、身を反転させた。彼は人工湖の水中で光る魔法陣を眺める。「リラは、様々な魔道術が複雑に作用し合い、途方もなく長い時間、殆ど姿を変えることなくこの場所にあります」彼は天井を仰ぐ。そこには光を放つことのない、停止された術式の跡が無数に広がっている。「この施設も、基盤にあるのは古い魔道術です。そこに、歴代の人々は新しい魔道術を重ね、補填し、改良を加えて、今の形があるわけです」

 ルートヴィヒはアル=ネクサの後方に立ち、湖水内を見つめた。「ファーリーンでは、生き残っている魔道術がとても限られています。人々の魔道に対する意識の問題が根強い」

 アル=ネクサは天を仰いだまま、呟くように答える。「リーンの民に備わる古い記憶が、影響しているのかも知れませんね」暫し沈黙し、彼は振り返った。「お時間が宜しいのであれば、私が少しばかりですがこちらをご案内しましょうか」

 ルートヴィヒは頷いた。「願ってもないことです。是非」

 その後、浄水施設の案内解説を受けたファーリーンの一行と、皇太子はリラ城への帰路へ就いた。城の足元には、皇帝の側近兼護衛である半竜人レイアスの巨大な影がある。

「皇帝陛下が国王殿下をお呼びになっておいでです」レイアスは竜人系特有の金と空色の虹彩を伏せて言った。

「途中までご一緒させてください」アル=ネクサがルートヴィヒに言った。

 ルートヴィヒは頷き、ファーリーンからの同行者らに対しては自由に行動するよう言い渡した。近衛騎兵長が王に同行しようかと名乗りを上げたが、王はそれを断った。皇帝の私室がある階層に立ち入れるのは、皇族とレイアス、そして皇帝から鍵を預かったルートヴィヒのみであって、王の近衛といえど昇ることができるのはそこよりも大分下の階層までだ。いずれにせよ昇降盤は一つである為、城内に用を見つけた者達とは途中までであっても同行することになる。

 昇降盤は途中幾度か停止し、人を降ろし、また乗せながら上昇していった。最終的にはルートヴィヒとレイアス、アル=ネクサのみが残り、謁見の階層を超えて行く。そして皇族の生活域である四十階層目に至ったところで、再び盤は停止した。

「では、私はここで」アル=ネクサがルートヴィヒに挨拶をし、降りて行った。

 盤はレイアスの操作により、上昇を再開させる。これよりはもう止まることなく、皇帝の私室のある四十八階層目まで一息に昇っていった。

 四十八階層目(天空の間の真下)は、魔道灯の明りが殆ど落とされていた。静まり返り、薄暗い。この階層は、ここより下の階層とは構造が異なり、昇降盤を囲む広場は縮小し、両腕を広げた幅の環状通路となっている。狭小としているが、八方が白色であるという点はこの城内の例に漏れることはない。

「ここでお待ちしております」レイアスが、一つのみの奥へ通じる通路の前で立ち止まり言った。

 ルートヴィヒは一人、通路を進んで行った。彼の足音は反響する。明かりの灯っていない魔道灯を幾つか通り過ぎ、突き当たったところで立ち止まる。彼は目前の扉を指の甲で軽く叩いた。向こう側から「どうぞ」という声がすると、ルートヴィヒは扉を開けた。

 その部屋の中は、ほぼ暗闇と言える環境だった。奥の机に向かう人影の周囲のみを、薄明かりが照らしている。淡く浮かび上がる白髪の後姿の向こうからは、筆記音が紡がれている。その人は書き物をしていた。

「適当に掛けてくれ。あと四行できりが良い」部屋の主は静寂に調和する声で言う。そして、「忘れていた。お前には少し暗かろうな」と言い、手元から顔を上げることなく、短い精霊語を呟いた。すると、ルートヴィヒに程近い天井の魔道灯が一つ灯る。「実のところ、煌々としたのは苦手なものでな。これで許せ」

 ルートヴィヒは明かりのついた魔道灯の真下に置かれた、小さな円卓の席に掛けた。

 時は緩やかに流れ、人々の喧騒もここからは遠く、静寂が彼らを包んでいる。壁に備わった時計の小さな星が、月を二周する。

「時代が異なれど、人の思いというものはさして変わらぬようだな」書き物を続けながら、アル=ヴィシースが言った。「だが、時代は言葉を隔てる。精霊達が紡ぐ古の言葉は、今を生きる人々へは届きづらい」彼は手を止め、息を吐いた。「生まれたとき、私は精霊の仲間だった。私は彼らに言葉を教えられたが、私に現代の言葉を教える者は、なかなか現れなかった。七つになるまで、私は人の言葉を話せずにいたよ」アル=ヴィシースは黒表紙の厚い手帳を開き、温和な笑声を上げた。「気味が悪かったのだろうな。そもそも、容姿がこれだ。父親は少し思い込みの激しい人間だったようでな、私の色味が気に入らなかったらしい。それで放置しておいたところ、誰も理解し得ない言葉を虚空に向かって呟くようになっていた。そこまで為れば、他の者達にとっても無理はなかろう。なので、“彼”が私を見つけるまで、私は人間と、殆ど意思の疎通ができなかった」

 ルートヴィヒは無言で、アル=ヴィシースの後姿を見つめている。

 アル=ヴィシースは僅かに首を回し、蒼い瞳をルートヴィヒへ向けた。「知っているか、真の精霊語はルドリギア祖語なのだ。人々が精霊語だと思い、魔道術に用いている古語の文字は、精霊に語り掛けるためのものではないのだと」

 ルートヴィヒは黙って首を横に振る。

「そうか。ではまた一つ賢くなったな」アル=ヴィシースは微笑み、再び前を向いた。「古の記憶を蘇らせる。それは嘗て、私の友がしていたことだが」アル=ヴィシースはそこで暫し言葉を止め、続けた。「私は彼に訊ねたことがある。“それは必要なことなのか”と。すると、彼は言った。“私にとっては意味がある”と」

 そして、再び静寂が訪れた。星が静かに一周する。

「それにしても、この書は回り諄い言い回しが多いな。著者に親近感を覚える」アル=ヴィシースは筆を置き、振り向いた。

 暗い影の落とされた白い顔貌は、光の中にあるよりも一層映える。両の色違いの瞳は輝きを反射し、白い長髪は暗色の絨毯に広がる。薄い唇が弧を描き、笑み声が零れた。

「酷いありさまではないか」アル=ヴィシースは言った。「心地悪かろう。寄れ」彼は小さく手招きする。

 ルートヴィヒは席を立ち、アル=ヴィシースの前へ歩み寄り跪いた。アル=ヴィシースがルートヴィヒの頭上に右手を掲げれば、腕飾りが涼やかな音を立てる。精霊語が囁かれ、アル=ヴィシースの掌から光の粒子が降り注いだ。

「無茶をしたものだ」アル=ヴィシースは溜息混じりに言い、暫しそのまま右手を翳し続けた後、「これで良かろう」と言って手を下ろした。

「有難うございます」ルートヴィヒは平坦な声で言った。

 アル=ヴィシースは小卓の席を手で示した。ルートヴィヒは立ち上がり、再び示された椅子に掛け直す。

「術者を見たか」アル=ヴィシースは肘掛けに凭れながら訊ねた。

 ルートヴィヒは「いいえ」と短く答える。

「そうか」アル=ヴィシースは表情を消し、宙を見つめた。「だがまあ、大体想像はつく」彼は声の調子を低くし、ルートヴィヒの双眸を覗き込んだ。「今後同じようなことがあっても、深追いはするな。リラの地であったがこそ、あれの力は弱まっていたに過ぎぬ。お前は術者向きの体質ではないのだから、あちらがその気になれば容易に捕らわれるぞ」

 ルートヴィヒは暫し沈黙してから、瞳を伏せた。「分かりました」

 アル=ヴィシースは口元を隠し、小さく笑声を漏らす。「そのように肩を落とすでない。お前の身を案じるがゆえであろう」そこで彼は軽く手を叩いた。「そういえば、体温制御の術の効力が切れ掛かる頃だったな」と言った。彼は細い眉根を寄せる。「お前はその体で山を越え戦ってきたのか。全く、危ういことこの上ない。この話が終わったら術を診るからな」

「お願いします」ルートヴィヒは軽く低頭した。

 アル=ヴィシースは常の悠揚な表情へと戻った。「では続きだが、その者の狙いはなんだと思う」

「恐らく、あの少年――アルかと」ルートヴィヒは答えた。

「やはりな」アル=ヴィシースは頷く。「ヤーガで狙われたのも彼だったという話だな。お前も命を狙われたのだろうが。ヘザーの者達はなんと言っていたのか」

「元々ファーリーンに対して良い感情は持ち合わせていなかったようですが、どうやら第三者に唆されたらしく。一人は長身の男、もう一人はトキ人の少女で、ヘザーの若者を集め、ファーリーンへの敵愾心を煽り、そしてヘザーを抜け出す為の手助けをしたようです」ルートヴィヒは答えた。

 アル=ヴィシースは微笑を浮かべた。「トキ人の少女か。案外妙齢の女性かも知れぬな。トキ人は幼く見える」そして片方の口角を上げる。「しかし、良い具合に聞き出せたじゃないか。酷い訊ね方でもしたのか」

 ルートヴィヒは首を横に振る。「捕らわれてしまえばそれまでということでしょう。ファーリーンを嫌っていても、かと言ってフォルマに対する愛国心があるわけでもない」

「あの若者達はどうする」アル=ヴィシースは更に訊ねた。

「もはや私を憎んではいても、殺害を目論むほどの気概はないようですから、できるだけ彼らの意思を尊重したいところです。彼らには少なからず、ファーリーンへの憧憬もあったでしょうから、我が国での生を送る道も用意しようと思っています」

「寛大な王だ」アル=ヴィシースは深く笑んだ。「アルについてだが、彼は随分と強力な魔道術の才があるそうだぞ。お前が連れてきたもう一人の子――名はなんといったか」

「フレデリックです」ルートヴィヒが答える。

「そう、フレデリックも確かにお前の見立て通り、既に幾つかの初級基礎術を扱えるようになったらしいが。フレデリックのついでに指導を聞いていたアルが片手間に上級属性を弄び始めたので驚いたと、アル=クサンが興奮気味に私に報告してきた。確かに、そこだけ評価しても只者とは言えんな。一体どういった素性の者なのか」アル=ヴィシースは暫し沈黙した。そして、「彼のことは、我々がよく注意して見ておこう」と言った。

 ルートヴィヒは頷く。

「さて」アル=ヴィシースは膝を軽く叩くと、席を立った。そして白い天蓋の掛かる寝台を示す。「術を診る。そこへ横になれ」

 ルートヴィヒは再び席を立ち、皇帝に示された場所へと移動した。

 当初、リラ滞在は一月半程の予定だった。しかしファーリーンの一行がリラに至ってから二週と少し、寛赦の月、第五の闘神の日に、一羽の白烏レイオスがリラへとやって来た。白烏は左足に文書を結び付けていた。それはヴィンツからの報告書で、アクスリー一家がフォルマ兵により襲撃を受け、アクスリーが半竜人により占拠されているといった内容が記されたものであった。

 ファーリーンの一行と帝国近衛兵が広間に集まり、その報告書の内容を吟味した。

「アクスリー方面へ行きましょう」ルートヴィヒの決定は早かった。そして負傷によって未だ行動に制限がある近衛へ目を向ける。「アレンはこちらで待機してください」

 アレンは唇を噛みながら僅かに沈黙した後、「了解しました」と答えた。

 別の近衛がアレンの肩を叩く。「気落ちするなよ。ここにはフレデリックとアルも残るんだ。二人の護衛だと思えば良い」

「そうですね」アレンは微笑を同僚へ向けた。

 そこで、部屋の戸が叩かれた。開かれた扉の向こうに立つ人物は第二皇子のアル=レムシスだ。

「失礼します。父から、皆様に同席するよう言われましたので。入っても宜しいでしょうか」アル=レムシスは部屋の中央に立つルートヴィヒを見ながら言った。

 ルートヴィヒが頷くと、アル=レムシスは入室した。そしてルートヴィヒから手短ながらも要点を押さえた経緯の説明を聞く。アル=レムシスはその柔和な顔を険しいものにした。

「ここのところ、不審な出来事が多いですが、今回の件も含め、父は魔道司の関わりを案じています。魔道司に対抗するのならば、魔道司が必要ということなのでしょう。勿論、父は魔道士団を動かすことも考えている筈ですが、一先ず、皆様がこちらを発たれるのであれば私を同行させてください」アル=レムシスは言った。

「リラ随一の魔道士と名高い皇子殿下がご同行くださるとなれば、これほど心強いことはありません」ルートヴィヒはファーリーン式の敬礼をした。

 そして彼ら(ルートヴィヒと八名の近衛騎兵、政務官、アル=レムシスと四名の帝国近衛兵)は、二日後の明朝にアクスリー方面を目指し、ヴィオールの首都ガートに向けてリラを発つこととなった。

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