ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

Aldyss -アルディス-
第一章 ファーリーン
第七節 古き血の誓約(上)

 ルートヴィヒ王一行は、寛赦かんしゃの月、第五の天空神の日に、ヴィオール大公国の首都ガートを目指し、帝都を出立した。

 リラとヴィオールとを繋ぐ整備された街道には、暗雲によって遮られた陽光を補う為に、魔道灯が設置されている。凡そ七十歩間隔で立ち並ぶ、背の高い柱から吊り下げられた光は広範囲を照らす白色で、手元まで明瞭に照らし出すことができる。都で借りた馬の蹄が地面を掻けば、乾いた赤砂が舞う。

 彼らが跨るのは、リラで飼われるヴィオール産の馬だった。ファーリーン王とその近衛達が普段駆るのはシーク馬である。持久力があり、果敢な性質を持つ。重装騎兵を乗せるとなれば、より力の強いリーン馬の方が適しているが、軽快に動き、長距離を駆けることのできるシーク馬は、多くの王属騎兵の相方である。リラにやって来た白烏レイオスには十分な食事と一晩の休息を与え、その後ベルンへ向けて飛ばした。国王一行がヤーガを引き返してくることを想定しベルンで待機している彼らの馬達を、船に乗せヴィオールへ届ける指示が、白烏の右足に括られた書状には書き記されている。シーク馬達とは首都ガートで再会することになるだろう。

 商隊とすれ違いながら、一行は東西に聳える霊峰、シーダとリースの合間を抜けていった。

「この〈赤き荒野〉と呼ばれる場所は、魔力が非常に豊富です」ルートヴィヒに背を預けながら騎乗するアル=レムシスが言った。「五つの霊峰から、強力な気が常に発せられているようなのです。我々魔道司からすると、この一帯は“聖地”と呼ぶに相応ふさわしい。古の詩人アリオンは“魔境”と表現しましたが。確かに、見た目はそういった感を否めませんがね」笑みを含んだ口調で彼は言った。

 天空の黒雲は、シーダの頂を通り過ぎるまで付き纏った。暗幕の終わりから淡い空色が覗えるようになると、地表の乾いた赤にも水と緑が混ざり始める。関所を抜け、一行はヴィオール領に踏み入った。

 ヴィオールの空色は、晴天時でも霞掛かっている。温暖な気候ではないが、寒冷というわけでもない。木々は多くはなく、特に広葉樹は少ない。空気は乾燥気味で、風には少量の砂が混ざる。降水量もファーリーンと比較すると圧倒的に少なく、育つ作物にも限りがあった。この国の主な産業は魔石の採掘、加工、輸出で、主要な取引相手はリラとアウリー、帝国外の幾つかの国々だ。また、魔石はファーリーン王国内でも“貴石”として流通している。

 一行がヴィオールの首都ガートに到着したのは、リラを発ってから八日後の、眺望の月、第二の大地神の日だった。ヴィオールの建築は曲線を多用し、幾何学的で、鮮烈な色彩を放っている。

 現在大公国を統治しているのは、リアナという女性である。ヴィオール大公家は皇族から分かれた家系で、神族と人間の血を併せ持つ一族とされている。時折皇族を迎え入れ繋がれてきたその血を持つリアナは、アル=レムシスにとって遠からぬ血縁者ということになる。

 切り抜かれた岸壁の上に建つ大公宮へ、一行は馬を進めた。宮の外壁には、神話の光景が刻まれている。中央の塔には、天を仰ぐ〈月の神子〉と、足元に控える天空神と賢神の姿、その下方で無数の人々が生を営む様子が描かれている。

 大公宮の門を潜った先で、使用人が一行を出迎えた。宮の内部は外観以上に賑わっており、床や壁、柱、天井、あらゆる場所に模様や絵が彫り込まれ、色が染められている。

 付き添いの兵達は客間に通され、ルートヴィヒとアル=レムシスが奥へと通された。リアナは間もなく二人に対面した。

 リアナ大公は五十代前半の女性で、暗い色味の肌と天界色の瞳を持ち、濃紫紺の長髪を後頭部から編み下げ、色彩豊かな緩めのローブを纏い、手首や胸元、腰に黄金と貴石の装飾を身に着けていた。彼女はアル=レムシスが挨拶の言葉を発し終えるより先に、高い声を上げながら両腕を広げ、彼に駆け寄った。彼女はアル=レムシスの両手を握り、ルートヴィヒと皇子へ交互に視線を向けながら、「ようこそヴィオールへ」と二人を歓迎した。そして客人達を小円卓の席に導き、自らもそのうちの一つに掛けた。

「大変なことが起きているようね。私の代は、もう平穏に過ぎて欲しかったのだけれど、どうやらそうもいかないみたい」リアナは細眉を顰めた。「これ以上大事にならなければそれに越したことはないと、私は思うのだけれどね。リディからの報告よ、読んで頂戴」彼女はルートヴィヒに手紙を差し出した。

 ルートヴィヒは手紙を受け取り、目を通す。「エヴァルトが死んでしまったとなると、事態は重いですね」

 リアナが溜息を吐く。「民意を無視することは難しいわ。アクスリーがそれほどの被害を被ってしまっては、フォルマ――半竜人が絡んでいるのなら、連合ということになるのかしらね。そことの戦は、きっと避けられない」

「エヴァルトの死が、仮のものであれば良いのですが。あの少年がどこかに逃げ延びていて、アクスリーの民の前に生きて現れてくれれば、或いは。戦ともなれば、結局民の多くが犠牲になる」ルートヴィヒは言った。

「確かにね」リアナは頷く。「魔道士団は先日アクスリー方面に出発させたわ。王子様、頑張っているわね」彼女は微笑を浮かべた。

「魔道士団の派遣、感謝します」ルートヴィヒは言った。

「良いのよ。それで、ここを出発するのはいつかしら」彼女はルートヴィヒ達に訊ねる。

「明日」ルートヴィヒが答えた。

「やはり急ぐようなのね」リアナは言い、そしてアル=レムシスを見た。「馬旅は疲れるでしょう。少し日焼けしているのかしら。顔が赤くなっているわね」

 アル=レムシスは苦笑する。「普段、日光に当たらないので」

「ヴィオールはまだ曇りがちだけれど、ファーリーンは太陽が照っているから、気を付けるのよ。具合が悪くなってしまっては大変だから」リアナは細眉を寄せてアル=レムシスに忠告した。そしてルートヴィヒに向かい、「彼、あまり体が丈夫ではないから、強行軍は避けてあげて頂戴。そうは言っても、仕方のないところはあるでしょうけれど」と言う。

「できる限り、そのように」ルートヴィヒは頷き、アル=レムシスへ向かう。「お辛ければ、遠慮なく仰ってください。我々は貴方の力に頼らなければなりませんから」

「分かりました」アル=レムシスは頷いた。

 リアナはルートヴィヒとアル=レムシスを見渡し、「二人とも、今晩は十分に体を休ませることよ」と言った。「こんな時だけれど、しっかりともてなさせて頂戴ね。貴方達と会えることなんて滅多にないのだから」

 翌朝、一行はシーク馬達と合流し、ガートを出発した。

 魔道士隊を追い越し、七日後の第三の次元神の日の昼前には、ヴィオール西端の街ヴァラットへ到着した。ここより南下すればアクスリーに至る。アクスリー伯爵ともこのヴァラットで合流する予定で、彼も本日か明日中にはこの街へやって来る筈だ。

 宿はこちらに駐屯していた王属騎兵の隊によって手配済みで、ファーリーン王の一行が滞在する間は、他の客の利用は制限されることになっていた。

 案内された部屋で荷物を下ろしたアル=レムシスは、先ず寝台へ腰掛けた。赤い頬を両手で押さえ、息を吐く。彼は仰向けに背を倒し、そのまま目を閉じた。

 次にアル=レムシスが目を開けたのは翌朝だった。彼が虚空を眺めていると、部屋の戸が鳴った。彼は返事をしながら、髪の乱れを直す。扉が開けられると、そこにはルートヴィヒの姿があった。

「お早うございます。入っても宜しいでしょうか」ルートヴィヒは言った。

「ええ」アル=レムシスは頷きながら身なりを整える。

 アル=レムシスの近くに立ったルートヴィヒは、身を屈めながら、「体調はいかがですか」と訊ねた。

 アル=レムシスは「大分、楽になりました」と答える。そして身を竦めながら、「もしかして、夜にも訪ねて来てくださいましたか」とルートヴィヒに問う。

 ルートヴィヒは微かに口角を上げる。「食事にいらっしゃらなかったので、お疲れなのだろうとは思ったのですが、一応、ご様子を伺いに」

 アル=レムシスの日焼けした頬が赤らんだ。「寝相を直してくださったのですよね。お恥ずかしい」

「お気になさらないでください」ルートヴィヒは背を正しながら言った。

 そして彼らは階下に降り、数名の近衛と軽い朝食をとった。

 その最中である。先立って使わされ、ヴァラットに配置されていた軽騎兵隊所属の王属騎兵団員が、宿へと駆け込んで来た。「伯爵殿が先程街へお着きになられたのですが、襲撃を受けております。護衛の騎士では対抗できません。どうか、近衛の方々に応援をお願いしたく」

 ルートヴィヒは席を立つ。「直ちに向かいます」そして同じように席を立ったアル=レムシスに向かう。「殿下はお休みください」

「いいえ、私も行きます」アル=レムシスは魔石の装飾を身に着けながら言った。

「ご無理はなさらないでください」ルートヴィヒは言いながら、宿の外へと向かった。

 ルートヴィヒとアル=レムシス、近衛騎兵らと帝国近衛兵らは、留守を守る数名を宿に残し、馬に乗り問題の場所へと向かった。

 そこは広場だった。直線上の道の先に開けたその場所には、小柄な人影と、淡い赤髪のアクスリー伯爵、三名の王属騎兵が対峙している。五人の騎士は横たわっていた。

 ルートヴィヒが駆る馬に同乗するアル=レムシスは、アクセルらと対峙する小柄な人物へと術を放った。その者は地面へと伏せ倒れる。

 ルートヴィヒ達が広場へ到着した。ヴァラットの人々は遠巻きに状況を観察していた。アクセルに負傷はない。しかし、倒れる五人の騎士は絶命、或いは瀕死の状態で、彼らのリーン馬も皆重傷を負わされ、息絶えているものもあった。アクセルと三人の王属騎兵は馬を下り敵と対峙していたが、三人の軽騎兵のうち、一人は軽傷を負っており、二人は膝を突いていた。シーク馬の一頭は前脚を切り落とされている。

 アル=レムシスの術によって伏した人物が上体を起こし、砂を吐いた。鋭い歯を剥きながら顔を上げ、竜人系特有の瞳を攻撃者であるアル=レムシスへ向ける。そしてその隣に立つルートヴィヒへと向けた。その幼い顔立ちに対して筋張った身体の持ち主たる彼は、先日ヤーガでルートヴィヒらを襲った半竜人の少年に他ならない。あれから経過したのは未だ一月程度であるが、左腕の傷はほぼ塞がっている。竜人系の特徴としてもう一つには、驚異的な回復力がある。

「畜生、なんだってこんなに間が悪いんだか」半竜人の少年が舌打ちをした。

「拘束を」ルートヴィヒが彼の近衛達に命じる。

 近衛達が縄を持ち寄りながら、倒れ伏す少年へと駆けた。しかし、彼らの前に突如立ち塞がった人物がいた。トキ人らしい平滑な顔立ちの女性である。近衛達の動きが止まる。

「あれは転移術」アル=レムシスが声を上げた。

「ショウ、危ねえ真似をするな」少年が女性の背に向けて言った。

 ショウと呼ばれた女性は、所持する杖を地面に一突きした。彼女の目前で硬直していた近衛達が倒れる。

「あれはなんですか」ルートヴィヒがアル=レムシスに訊ねた。

「防護術の一種だと思います。外からの術攻撃を防ぎ、また術の圏内に入った生体を攻撃する」アル=レムシスが答える。

「破ることはできませんか」ルートヴィヒは更に問う。

 アル=レムシスは術者の女性を見つめる。「あれはトキの術式です。帝国の魔道術とは仕組みが異なる」彼は唇を噛む。「高位の術で強い圧を掛ければ打ち壊せるかも知れませんが、今の私の体力では厳しいかと」

「この状況では、目的を果たすことは難しいですね。ランス、立てますか。離脱します」ショウと呼ばれた女性が言った。

 アル=レムシスは腕飾りを噛み千切り、一粒の魔石を口に含んだ。精霊語の発音を交えつつ素早く魔法陣を描き出し、ショウの転移術が実行されるより速く彼女の防護壁を攻撃した。

 それは激しい炎と光だった。高位の攻撃術は周辺への影響も大きく、無闇に扱えばこの状況を観察するヴァラットの人々、防護術に倒された王の近衛達へも被害が及ぶ。アル=レムシスはショウの防護壁へ重ねるように防護壁を作り、その中で強い熱線を放出させた。となれば、ショウは転移術の使用を中断し、防護術の強化に努める必要がある。

 ヴァラットの人々が皇子の光球を称えた。

 だが、轟音と衝撃が彼らを襲った。猛烈な熱風が吹き荒れ、アル=レムシスはルートヴィヒの腕に庇われた。熱風は観衆を巻き込み、周囲は混乱し無数の叫び声が飛び交う。

 アル=レムシスは薄く目を開いた。アル=レムシスが創り出した光球は壊れ、ショウが展開していた防護術も解除されている。そして、ショウと半竜人の少年の傍らには、新たな人影があった。それは長身の人物で、長丈の黒い外套を頭から被り佇んでいる。

 アル=レムシスの視線は、その人物へと向いていた。熱気で歪む大気の中に黙然と佇む人物を見つめ、アル=レムシスはそちらへ細腕を差し伸ばした。彼が発した声は、音に掻き消される。

 ショウが転移術を使用し、三人の姿が消える。それと同時に熱風と轟音は止んだ。

 多くの人々が熱の影響を受け、咳き込んでいた。ルートヴィヒは腕の中で意識を手放しているアル=レムシスを抱え上げ、膝を折っているアクセルの元へと歩み寄った。「お怪我はありませんか」彼は訊ねた。

 アクセルは数瞬の間、口を開けたまま黙していたが、咳払いをして「私は問題ありません」と答えた。

 彼らの背後では、近衛騎兵長が負傷した兵の手当てを指示していた。ヴァラットの民も手を貸している。ショウの防護術に倒されていた近衛達も起き上がり、動いている。

「その方は、アル=レムシス様ですか」アクセルはルートヴィヒの腕の中で眠る青年を見て訊ねた。

「ええ、体調が優れないところに無理をさせてしまいました」ルートヴィヒは蒼白な顔をしたアル=レムシスを見下ろして言う。そして視線をアクスリー伯爵へと戻す。「アクセル殿もお疲れでしょう。先ずはお休みください。詳しいお話は、それからでも」

 死者や負傷馬への処置はその場で行われた。数名の兵を残し、またヴァラットの民の助力を請い、怪我人を伴う国王一行は宿へと戻った。

 宿の客室で、アル=レムシスは眠っていた。傍らではルートヴィヒが椅子に掛け、皇子を眺めている。アル=レムシスの瞼が震え、群青の瞳が開く。アル=レムシスは暫し天井を眺め、そして視線を動かした。ルートヴィヒへ目を向けた彼は身動みじろぎをする。

「まだ起き上がらずに」ルートヴィヒは言う。

「どれ程眠っていたのでしょうか」アル=レムシスは掠れた声で訊ねた。

「四刻間程度です」ルートヴィヒが答える。

 そして暫しの沈黙があったが、再びルートヴィヒが口を開く。「“フェリクス”と仰っておられましたが」

 アル=レムシスは再びルートヴィヒへと視線を向ける。口を噤んだ後、彼は言う。「きっと、どこかで生きていると信じていました。彼を忘れたことはありません。あの熱の中で見たローブの人。顔を見ることはできませんでしたが、私はあの人を“彼”なのだと思いました」

 フェリクスとは、アシュタール戦役のきっかけとなった、大公家拉致事件の被害者である。

 ファーリーンの先代エミル王と、フォルマの先代タラール王の時代、両国の関係は改善しつつあった。しかし、当時既に歳を重ねていたタラール王はいつ倒れても不思議ではなく、また彼の長子イスマイルは好戦的な性格で知られていた。両国の戦闘は長く頻繁に起こるものだったが、タラールが健在のうちに友好条約を結ぶことが帝国と連合の共通目標だった。その中で、フォルマへ赴いたのはヴィオール大公家の者達であった。当時の大公とその妻、二人の子供達は、ヴィオールとフォルマの兵による丁重な護衛を受けながら、フォルマの首都ターハへの道を進んでいた。

 しかし、大公一家の消息はフォルマ国内で途絶えた。この時、既にタラール王は没していたのである。帝国は長子イスマイルの謀略に掛けられたのだった。帝国側は努力したが、大公家の者達を取り戻すまでには四ヶ月の時間を要した。そして帝国の元へ帰ったのは、既に腐敗し原型を留めない大公と、暴力の限りを尽くされたと見られる公妃、息女らの遺体、そして憔悴しきった公子フェリクスの身柄であった。

 大公家の生き残りである公子フェリクスは当時九歳で、事件後はリラへと身を置いたが、十二歳の誕生日を迎える直前に忽然と姿を消した。それから十五年の歳月が過ぎても尚、彼の安否は不明である。

「けれど、もしあの人物が彼なのだとしたら、なぜ」アル=レムシスが胸元を押さえながら呟く。

「殿下はお休みください」ルートヴィヒは言った。「熱がおありです。数日はこの街に留まることになりますから、その間はどうか安静になさってください。私は殿下にご無理をさせてしまった。申し訳ありません」彼は瞼を伏せた。

「私が非力なのです」アル=レムシスは呟く。「なにも、役に立つことができませんでした」

「決して、そのようなことはありません。貴方がいてくださったからこそ、敵の目的を妨害することができたのですから。むしろ、皇族の方々を護る立場にあるはずのリーンの王が、このありさま。私こそ大いに反省する必要がある」ルートヴィヒは席を立った。「またお眠りになってください。私は伯爵と、今後について話し合いをして参ります」そう言い、彼は天井を見つめるアル=レムシスの元を離れ、退室した。

 食堂の机は軍議の為に中央へと集められ、それを囲むように椅子が並べてあった。その席の一つに、アクセルが掛けている。彼は閑散としたこの場所でカミリエ茶を飲んでいた。ルートヴィヒがやって来ると、アクセルは席を立ち、「陛下」と呼びかけた。ルートヴィヒが向かいに座ると、アクセルも再び腰を下ろす。

「先程の襲撃者達について、なにか分かることはありますか」ルートヴィヒは訊ねる。

「いいえ」アクセルは首を横に振った。「ただ」彼は視線を王から外した。「あやつらは私をいずこかへ連れ行こうと企んでおったようで」

「あの女性の口振りからすると、今後も貴方は狙われるかも知れません。十分に用心する必要がありますね」ルートヴィヒは言った。

 アクセルは「ええ」と頷き、瞼を伏せた。

「文書には、御一行を襲撃したのはフォルマ兵とありましたが、確かですか」ルートヴィヒは訊ねる。

「ただ事実のみを挙げるのであれば、彼らの装備品はフォルマ北部の装具の形状に類似しておりましたし、露出した目元は、多くの場合明確にフォルマ人の特徴を備えていました。装備品は皆統一されたもので、つまりは組織的なものであっただろうと」

「分かりました」ルートヴィヒは頷く。「アクセル殿達がフォルマ兵の襲撃を受けたこと、アクスリーが半竜人によって占拠されていること、今回貴方が襲われたこと、それらをどこまで関連付けるべきか。半竜人は恐らくイシャク管轄の者達でしょうが、イシャクとフォルマの関係は希薄なものです。しかし、彼らイシャクの者らがファーリーン領内へ侵入する為にはフォルマを経由し、ヘザーを抜けなければならない。少なくとも、フォルマは半竜人がファーリーンへ侵攻したことを知っている筈です」

「それ以上に関知し合い結託していると考えるよりは、個別の主導者を持ち、それぞれでファーリーンに迫っている、とお考えなのですね」アクセルが言う。

 ルートヴィヒは頷いた。「ですが目先のところは、先ずアクスリー市内の様子が気掛かりです」ルートヴィヒは椅子の背に凭れ、腕を組んだ。

「外から街へ入ることはできませんが、見張りの話では街の中から出て行く者もいないとか。ですが、食料の備蓄は到底二ヶ月も持ちません」アクセルはそこまで言うと、声を潜める。「敵は、地下道の存在を知っているのではないでしょうか。それを利用し、ヴィンツなりから兵糧となるものを得ている、等」

 一般にはあまり知られていないが、ファーリーンの古くからの都市は、地下に整備された水脈と通路を持っていることが多い。アクスリーもその古い都市の一つで、有事の際の脱出侵入経路として、一部の道は伯爵家の史料に記載されている。地下経路は大規模なもので、都市同士をも繋ぐ程だという説もあり、ファーリーンに残る古代建築の一部だと考えられている。

 ルートヴィヒは沈黙の後、「商会を洗ってみる必要がありそうですね」と言った。

「やはりレイスが」アクセルは歯軋りをする。「私はあの男が好きません。何かと陛下に盾突きおって」彼はファーリーン商会の議長、レイス侯爵でもあるリチャードを指してそのように言った。

「調査をするだけです」ルートヴィヒが言う。「都市一つ賄うだけの荷物が動いていれば、商会の記録に残らない筈はない。しかし、そこに商会の協力があったかどうかは別の話です。敵が地下道を利用している可能性は、確かに高いと思います」

 アクセルは暫し沈黙した後、顔を上げた。「私が地下道からアクスリー城内へ入り、敵の指導者と話をつけるというのはいかがでしょうか」

「危険なことをお考えになりますね」ルートヴィヒは表情を動かすことなく答える。

 アクセルは机の上に両手を押し付け、身を乗り出し気味にしながら語調を強める。「しかし、アクスリー騎士もヴィンツの連隊も、ミロウや駐屯騎士団も全滅ではありませんか。此度は多くの兵を集められたといっても、また多くの犠牲が出るのは確実だと、陛下も思われませんか。ならば、アクスリーの統治者として私が出て行った方が進展も望めるのではないかと考えます」

「貴方が捕らえられ人質にでもなれば、余計に難しい事態になりかねませんよ」ルートヴィヒは言う。

「しかし」アクセルは先程の強い語調を失う。彼は机に押し付けていた手を膝の上で握り込んだ。

 肩を落とすアクセルに、ルートヴィヒは告げる。「私も同行しましょう」

 アクセルは目を見開く。「何を仰っしゃいます」彼は腰を浮かせたが、直ぐに腰を落とした。「私を引き止める為にそのようなことを」

「アクスリーの内側から攻める案には賛成します」ルートヴィヒは言う。「門外から対話を求める旨を伝え、敵がそれに応じないのであれば、私はヴィオールの魔道士隊から精鋭を選び、近衛を連れて地下道に入ります。元よりそのつもりなのです」

「陛下」アクセルは表情を緩ませた。

「大変な危険を伴うことになりますが、その分優秀な戦闘員が必要です。そうであれば、精鋭の魔道士として皇子殿下にも同行いただくことになるでしょう」ルートヴィヒはアル=レムシスが休む上階へ続く階段を一瞥する。

「皇子殿下にも、でございますか」アクセルは眉根を寄せる。

「あの方は魔道士です」ルートヴィヒはアクセルへと視線を戻す。「戦いに特化した魔道の使い手ということですよ。物静かな魔道研究がご趣味であれど、本業は戦士。この作戦についてお話ししたならば、彼は同行に名乗りを上げてくださるでしょう。自身のお立場や身の危険を顧みることはない。私も貴方も同じではありませんか」

 アクセルは息を吐いた。「それはリーン人やアウリー人のさがというもの。神子の末裔の方に先鋒を切っていただきたいとは思いません。例え優れた能力者であっても、我々はあの方をお守りするのが役目」彼はルートヴィヒの緑の瞳を見返す。「必ず、皇子殿下を無事にリラへお帰ししなければ」アクセルは言った。

 八百名で編成された魔道士団は、四日後の第三の賢神の日にヴァラットのルートヴィヒらと合流した。その頃になると、アル=レムシスの体温は平時の状態へと戻っていた。そしてルートヴィヒらの作戦を聞いた彼は自らも同行すると主張し、合流した魔道士団から七名の精鋭を選んだ。内訳は三名の魔道戦士と、四名の魔道士である。併せて、ルートヴィヒ、アクセル、アル=レムシスに、近衛騎兵八名、帝国近衛兵四名で、計二十二名が敵の中枢へと侵入することになった。

 二日後、第三の大地神の日に、魔道士団と共にルートヴィヒらも南のアクスリーを目指しヴァラットを発った。

 そして彼らがアクスリー近くに陣を敷く、ファーリーン南部の各都市から集められた騎士団員二万七千、及び王都より派遣された第一・第二騎兵団と合流したのは、更に六日後の夕刻、第四の天空神の日であった。眺望の月も間もなく終わろうとしている頃、アクスリーが敵の侵攻を受け占領されてから、二月以上の時間が経過していた。

 ヴィンツは先立って二千の騎士を失ったばかりであったが、南部ファーリーンでもザルツに次ぐ力ある侯爵の大都市であること、またアクスリーに近いということもあり、此度も多くの騎士をこの為に派遣した。混成団でも、ヴィンツ騎士が最も多くの割合を占めており、ヴィンツ騎士団長が二万七千人の統率を行う。

 空には月と共に明星シャールが輝き、沈み掛けた太陽によって空は朱に染まっている。陣営の到るところで篝火が焚かれ始め、騎士達は寒風が吹く草原の中で明かりと暖を取る。しかし魔道士らは魔道術で光を生み、風を防いでいた。

 ルートヴィヒらは、合流して早々にヴィンツ騎士団長との情報交換を行った。アクスリーに動きはなく、敵が侵入した際に破壊されたのであろう南門と西門は補修されていないが、半竜人が常に見張っているとのことである。明朝に、ルートヴィヒとアクセルは東門から名乗りを上げ、相手方に対話を求める旨を伝える。だが、その日のうちに応答がなければ、彼らは精鋭部隊と共に伯爵家に伝わる地下道へ侵入する。そして地上に残る者達は、夜明けと共に王属騎兵を尖兵に門の守りを突破し、騎士団を市内へ突入させる。アクスリー市民の状態の把握と、彼らの保護に力を入れつつ、魔道士団の補助で半竜人らを制圧する。大まかには、それが彼らの計画だった。

 そして、彼らはアクスリーの城壁を望みつつ、草原で夜を明かした。

 翌朝、ルートヴィヒとアクセルは整列した二万七千の騎士、その前に並ぶ二千の王属騎兵と八百の魔道士団の先陣に立ち、東門を封鎖する半竜人らの前に立っていた。

 アクセルは進み出て、名乗りを上げた。「私はこの街の統治者たるアクスリー伯爵である。こちらにはファーリーン王ルートヴィヒ陛下がおられる。そちらの指揮官との対話を求める。本日中に返答がない場合、我々はこの兵達をもって、明朝アクスリー奪還の為、行動を起こす」彼は通りの良い声で言った。

 しかし、半竜人達はアクセルを見つめたまま動かない。

「確かに伝えた」アクセルは壊れた城門に背を向け、右手を挙げた。

 団が二つに分かれ、移動を始める。一つはこの西門から突入する為の部隊で、アクセルとルートヴィヒは彼らに続いて後退した。そしてもう一つは、南門から突入する為の部隊である。そちらはアクスリーの南側へと移動して行った。

 彼らは待った。だがやはりアクスリーに動きはなかった。再度日が暮れたが、敵の頭目が姿を現すこともなかった。ルートヴィヒ達は地下道侵入への用意を始めた。地上に残る兵達の統率はヴィンツ騎士団長へと任せ、今後の計画について、彼らは入念に話し合った。

 再び月が天上に昇り、深夜一の刻を過ぎた時、ルートヴィヒらはアクセルの導きでアクスリーの西方へ向かっていた。魔道士が光源を作り出し、彼らの周囲を照らす。そこは草木の茂る森中で、夜行性の小動物が時折草葉を揺らし、一行の近くを駆け抜けていった。

「この辺りの筈です」と、アクセルが一同に告げる。

 ルートヴィヒの合図で兵達は散開し、周囲の地面を調べ始めた。魔道士の作り出す光は十分な明度で、間もなくして「ありました」という声が上がった。一同は声を上げた近衛騎兵の元へと集まる。近衛騎兵は足でその場所の草と土を除け、目的の物を露出させた。

 アクセルが「間違いない」と頷くと、近衛騎兵達は騎士団の工兵から借りてきた道具で地面を掘り、土を掻き除けた。

 巨大なアクスリー家の紋章が姿を現す。古くに王家から分かれた三家で基盤の統一された意匠は、盾と剣、剣に絡みつく蛇、双頭の白烏レイオスというファーリーン王家の紋――またファーリーンの国章にも用いられている絵様である。そこに菖蒲の刻印が施されたものがアクスリー伯爵家に伝わる紋だ。

 やがて、地面に埋め込まれた幅六フィート程の正方形が現れた。

「鉄扉だな。どのようにして持ち上げるか」近衛騎兵長が呟く。「厚さにもよるだろうが、まずは試してみよう」彼は力の強い部下三人を指名し、彼らと共に隙間なく枠と密着した鉄扉に工具を掛ける。しかし鉄の扉は持ち上がらない。「無理ですね」近衛騎兵長は息を吐きながら言った。彼は魔道士達へと振り向き、「何か、この重い扉を浮かせる方法はありませんか」と訊ねる。

 魔道士の一人が鉄扉に近づき、腰を落とし、掌で表面を撫でた。彼は立ち上がると、「重力操作が、最も単純で明快な解決法でしょう」と言った。彼の所持する杖の先端に飾られた透明石が発光する。石突を揺蕩たゆたわせ突くという行為を、鉄扉の数カ所に施すと、アクスリー紋の上に白色の魔法陣が浮かび上がった。魔道士は一度の深い呼吸の後に、魔法陣の中心に杖を強く突き立てた。魔法陣の白色光は橙色へ変化する。「これで軽くなった筈です。お一人でも上げられるかと」魔道士は王の近衛達を見渡しながら言った。

 近衛騎兵長は進み出て、鉄扉に取り付けた工具を握る。鉄扉は非常に重々しい音を立てながら、しかし彼一人の力で確かに浮いた。鉄扉は開ききり、土と草の上へ倒れた。

 鉄扉が退いたことで姿を表したのは、地下へと続く階段だった。足場等の安全確認の為、魔道の明かりを剣柄に灯した魔道戦士が先ず降りた。それに続き、近衛騎兵や魔道士の間に挟まれるようにして、アクセルとルートヴィヒ、アル=レムシスらが地下へと踏み入れる。階段は長く、深くまで続いていたが、やがて一同は地下道の床を踏みしめた。そこは全員が屯しても十分な広さがある空間――広場になっており、そこから道は四方に伸びている。

 アクセルは道の入口をそれぞれ確認した後、一つの道を指し示し、「こちらです」と言った。「なかなかに入り組んだ通路なのですが、子供の頃、アクスリーの地下通路に強い関心を持っておりましたもので。今でも読み耽った地図を鮮明に思い出すことができますから、どうかご安心なされますよう」

 アクセルと光源を持つ魔道士が先導し、一行は進んだ。時折、脇道らしき細い通路が現れたが、アクセルがそちらへ見向くことはなかった。突き当たり、道が二つに分かれれば、彼は間も置かずにどちらかを選ぶ。

「なぜ、これほどのものが忘れ去られてしまうのか」アクセルは呟いた。その呟きは辺りに反響する。「風化も少なく、未だに頑健とした形で残っていることも不思議です。これが古代と現代の技術の差と言われればそうなのかも知れませんが。我が国でも王都のみならず、多くの都市が古代都市の引き継ぎであるらしいのに、我々は忘れ過ぎているように思います」

「我々の先祖達が、忘れるように願ったのでしょう」ルートヴィヒが言った。

「成る程、そういうことなのかも知れませんな」アクセルは頷いた。

「水音がしますね」アル=レムシスがアクセルの背に向けて言う。

 アクセルは皇子へと振り向き、首肯した。「もうアクスリーの都市内に入る頃です。地下水路と繋がっていますので、その為でしょう」

「想像したよりも、早くアクスリー内に到着するのですね」アル=レムシスは言った。

「道が複雑になるのはここより先なのですよ。地下水路と合流すると申しましたが、水路はアクスリー内に張り巡らされていますから、脇道や分かれ道、曲がり角が増えて参ります」アクセルは前へと向き直り、それより後は無言になった。

 やがてアクスリーの地下水脈と地下道は合流し、道の脇に水路が現れ、狭く入り組み始めた。だが、アクセルは変わらずに一同を導いた。幾度目とも知れぬ分かれ道を選択した後、アクセルは振り返り、「もうじきに、城内へ上がる階段が現れる筈です」と、前方の長い直線路を指し示し言った。

 だが、アクセルが示す先方は、深い暗黒に包まれていた。魔道士の一人が先の闇を見つめながら、仲間の魔道士へ「正負の不均衡が起きているように思うのですが」と囁く。

 囁かれた仲間の魔道士は頷き、一行の先頭に進み出て振り返った。そして集団の進みを停止させる。

 顔を見合わせるファーリーンの者達に対し、魔道士は告げた。「ここより先に踏み込む前に、少しお時間をいただけますか」

「一体いかがなさったのです」近衛騎兵長が訊ねる。

 魔道士は説明した。道の先を覆う暗闇は異常なものであるということである。通常、正と負の力というものは均衡を保ちつつ存在しているべきものだが、様々な理由によってその均衡は崩れることがある。一度力関係の揺らいだ正負の力は、連鎖的に崩壊を進めていくことが多い。その様になった場合に起こる事象は様々だが、例えば人里近くで発生した場合、特に人々の精神面に影響を与えやすい。そして、それが正負の力の不均衡を更に大きくしていく。故に、魔道士はこの場の不均衡を放置してはならないと主張したのである。

 アクセルは先を急ぎたがった。だが、アル=レムシスが魔道士達に同意し、そしてルートヴィヒもまた魔道士らに同調した為、アクセルは溜息を吐き従った。

 魔道士達が相談を始める。力の不均衡は負の方向へ顕著に傾いており、また範囲も広かった。完全に解消するだけの時間的猶予も用意もない為、可能な限り正常な状態へ近付けるという方向で、魔道士達の意見は纏まる。彼らはアル=レムシスを呼んだ。「殿下の魔力をお借りさせていただけませんか」と、魔道士は言う。アル=レムシスは快諾した。

 正負の力――魔道属性で言い換えれば、光と闇の力であるが、世界を構成する力の中でも特に根幹を担うそれらは、非常に扱いが難しいとされ、これらの力を操ることのできる魔道司は“高位魔道司”と呼ばれる。自身もその称号を持つアル=レムシスが選抜したこの場にいる魔道士達も皆“高位魔道司”であった。

 魔道士が二人掛かりで描き上げた魔法陣は、魔力の供給を得て輝き、上方へ精霊文字を放出している。彼らの足元に広がる魔法陣から、暗黒の前方へと小型の魔法陣が一定間隔で展開されてゆくと、闇へ落ち窪み歪んだ力の均衡は正常に近づき、濃い闇は薄れていった。

 やがて魔法陣の光が途絶え、魔道士達は振り返った。「終わりましたので、先へ進みましょう」

 アクセルが頷き、再び先頭へ進み出たが、ルートヴィヒの「誰か来ます」という声によって足を止めた。

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