ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

Aldyss -アルディス-
第一章 ファーリーン
第一節 風の都

 辺りは夜の色に満たされていた。天が深い藍の色を示せば、地もまた同様の色に染まる。ただし今宵は満月であり、その白い光輪は世界を淡く照らしあげている。

 月光を浴びる広大な平原の只中に、燻る小さな光があった。それは木々の枝を控えめな音と共に爆ぜさせる、焚火の灯だ。

 今は帝国紀元二四七五年、誠直の月。第二の次元神の日から第三の太陽の日に時が移って間もない頃である。

 焚火を囲んでいるのは、六名のリーン人と、六頭のシーク馬だった。周囲に彼らの姿を遮るものはない。現在は一人の青年を見張りにたて、他の五名は休んでいる。

 見張りの青年は、南西側の森から突如放射状に広がった光へと顔を向けた。線状だった光はやがて淡さを持ちだし、丁度上方に昇っている月の光に対し、下方から輝きを放つ。青年は傍らで仮眠をとっている若い女の肩を叩いた。女は瞼を開け、青年の指し示す方へと視線をやる。彼女は眉根を寄せた。

「なにごとだ」

 六名の中で最も年若い、少年と呼ぶべき年頃の者が、顔を顰めながら上体を起こした。残りの三名もまた目を覚ます。

 初めに異変を察知した青年は、南西を指し示す。「あちらをご覧ください。奇妙なことが起こっておりますよ」

 光は先程よりも輝きを増していた。今や上方の満月の光よりも、森から放たれる光が強まっており、彼らの姿は横方面から、より強く照らされるようになっている。

「確かに奇妙なことだな」少年は鼻を鳴らし、言った。「だが、あちらは通り道だろう。夜が明けたら、なにがあるのか確かめに行けば良い」そして、彼は再び横たわった。季節は夏を過ぎ、これよりは寒冷さを増していくばかりである。少年は毛布を口元まで引き上げた。だが、彼の瞳は閉じられることなく、南西の白む空へと向けられ続けている。

 光はその後も暫く輝き続けたが、次第に薄れゆき、やがて完全に消えた。

 鳥が羽ばたいた。木々が風に鳴り、重なり合う樹木の葉は、晴れ渡る空の色を半ば遮っている。合間から差し込む陽光のすじは地面へと落ち、微かに揺らめきながら融合と分離を繰り返す。

 六人は馬に跨がり、先の夜中に少年が言った通り、森を探索していた。その少年は隊列の中心にいて、一本に編み下げられた金色の髪を陽の光に煌めかせている。彼は変化に乏しい森林内の光景を見渡す。

「この辺りだと思ったのだが」少年が呟く。

 青年が宙を見つめながら言う。「月がもう一つ生まれて、この森に転がり落ちたのかと思いました」

「面白いことを言うじゃないか」少年は表情を動かさずに言った。「あれだけの光だ。リディやその周辺都市町村からも確認できただろう。なにかしらの情報を持って帰らなければ民への説明のしようがない」

「我々にだって、なにが起こったかなんて分かりはしないというのに」少年の同行者の一人である男が、溜息混じりに言う。

「事実そうであっても、説明するのが我々の仕事なのだから仕方がないな」少年は肩を竦める。直後、彼は馬の手綱を引き、歩みを停止させた。

「いかがなさいました」彼の右隣に並んでいた中年の男が訊ねた。

 しかし、少年は左手側を見やったまま沈黙している。五人は少年の視線を追った。「獣道ですね」と、女が呟いた。

 少年は馬を下り、その草木の生い茂る中に微かに通る、細道の入り口へと歩み寄る。

「気掛かりなことがおありですか」中年の男が馬を下りながら、再度訊ねた。

 少年はなにも答えず、獣道へ足を踏み入れる。残りの四人も下馬したが、中年の男が「二人残れ」と言い、青年と女の、若い二人をその場に留まらせた。

「なにか危険があるかも知れませんから、先を行かせてください」若い男が少年に言ったが、少年は反応を示さない。男は眉根を寄せて首を傾げ、半ば無理矢理に少年の横をすり抜けて前方へ出た。彼は剣の柄を使って、行く手を遮る草木の葉を除けて進む。

 彼らは歩いた。鬱蒼とした森の奥へと入り込んでいく彼らの元に、陽の光は碌に届いてはこない。緑が充満する道は長く続く。

「こちらに気掛かりなことがおありなのでしょうけれど、あまり深入りするのもいかがなものかと思いますよ。そろそろ引き返しませんか」先を行く男が少年に言った。

 しかし少年は返事をせず、歩みを止める気配もない。男は溜息を吐き、少年の行く手を遮るものを除ける作業を続けた。

 更に暫く行くと、先頭の男が声を上げた。「先が開けています」彼は歩みを幾分速めた。

 少年は男に続き、開けた場所へと出た。そこは先までの小道とは異なり、十分な明度があった。円形の天井は淡い青色を映しだし、枝葉に縁取られた空からは陽光が差し込んでくる。その陽の光を受け取った緑は露を輝かせ、また小鳥の囀る声がした。

 草色の広場の中央には人がいた。恐らくは子供で、その者は今しがたこの場にやって来た少年達に背を向ける形で佇んでいる。背の半ばまで伸びた長髪は、明るい金色でありながらも毛先へ近づくほどに暗く、紫掛かってゆく。

 警戒する大人達を余所に、少年は子供へと近づいて行った。大人達は少年を引き止めようとするが、彼は先程から言葉を発することなく、声掛けにも応じない。

 少年は子供の肩に触れた。子供が緩慢と振り返り、丸みを帯びた輪郭が少年へと向く。瞳は金と濃紫が混ざり合った、頭髪と同じ色味である。その子供らしい丸く大きな瞳が、少年の深海色の瞳を見上げた。彼らは無言だった。

 やがて少年の瞳から雫が零れ落ちた。彼は微かに眉を顰めたが、子供の瞳から目を逸らすことはなかった。

 三日後。誠直の月、第三の賢神の日の朝に、ファーリーンの王子ダーヴィットは王都リディへと帰還した。空は雲一つなく晴れ渡り、清涼さを帯び始めた風が彼らを迎えた。リディはなだらかな稜線を描く低山を覆うように築かれた巨大な城塞都市である。“風の都”とも称され、常に穏やかな風が吹き流れる。

 王城を目指し、ダーヴィット王子とその五人の従者(より正確に言えば護衛である)は、新市街東大城門から都市内へ入り、新市街南大城門から中心街までを緩やかに蛇行しながら貫通する“ミュゼー中央大路”に合流するべく、馬を進ませていた。都は広大であるだけに、新市街から王城までの距離も長い。快晴ではあっても城の建つ頂きは彼方で霞掛かっている。

 王子らの周りへは多くの市民が集っていた。都の騎士と王属の兵達によって統制を受ける市民に、ダーヴィットは右手を上げて感謝の意を示した。市民らは歓喜し、王子の名を頻りに叫んだ。

 一方で、落ち着きのある市民らは王子に同行している一人の少年に注目していた。王子が都を出立したとき、その少年の姿はなかったのだ。また彼の身なり(服装がファーリーンのものらしくないこと、それ以上に金と濃紫による髪や瞳の色)も風変わりであった。その為、彼を怪しむ声が方々で小さく上がる。

 ダーヴィットは、背後で護衛と共に馬に乗り揺られている少年を一瞥した。当の少年は、我は関せずといった様子である。ダーヴィットは先を急ぐべく、護衛らを促した。

 民衆に囲まれながら多方から声を掛けられ、しかしそれらに逐一応えることもせず進み、やがてダーヴィットらは王城に到着した。馬丁に馬を預け玄関棟へ入れば、多くの出迎えがおり、その中には王妃――ダーヴィットの母もいた。緩やかに波打ちながら腰まで伸びる明るい金の髪、深海色の瞳、色白の肌の持ち主で、それらは全て息子に受け継がれたようだ。彼女は淡い薔薇色の衣装の広い裾を持ち、靴音を鳴らさずに王子の前へと進み出た。

「お帰りなさい。あなたの身になにかありはしていないかと、皆、心配していたのですよ」王妃は微笑みながら言った。

「すっかり無事ですよ」ダーヴィットは軽く両腕を広げる。

 王妃は笑みを深める。「陛下も待ち侘びていらっしゃることでしょう。執務室におられますから、早くお顔を見せて差し上げなさい」

 ダーヴィットは片眉と片方の口角を上げ、「僕ではなく、報告を待っておられるのではありませんか」と言う。

 王妃は微笑みを崩さなかったが、眉尻を僅かばかり下げた。「拗ねたことを言うものではありませんよ。それに、その表情はあまり上品とはいえませんから、控えなさい。ところで」彼女はダーヴィットの背後を覗き込んだ。「そちらの方はどなたですか」

 ダーヴィットは王妃が覗き込む背後を確認することもせず、肩を竦めた。「僕も是非知りたいところです」

 王妃はそれ以上には訊ねなかった。彼女は、王子の後ろで大人しく佇んでいる不詳の少年に笑みを与えた。そして王子から距離を置くように背後へと下がり、「私がこうやって引き止めてしまってはいけませんね」と言った。

 ダーヴィットは王妃と共に玄関棟の奥にある中央棟へと向かい、そこで彼女と別れた。

 中央棟の二階に、王の執務室はある。やがて執務室手前まで辿り着くと、ダーヴィットは脇の小部屋を示して「ここで待っていろ」と少年に言った。少年が護衛の一人とその部屋に入って行くのを見届けると、彼はまた先へと進んだ。

 執務室の扉前を、王の近衛が二人で見張っている。「お帰りなさいませ、王子殿下。ご苦労様であります」見張りは言った。そして部屋の扉を開け、「王子殿下が戻られました」と、室内へ向けて告げる。

 平坦な男の声が、「通してください」と答えた。

 見張りは部屋の扉を大きく開け、ダーヴィットと四人の護衛らを中へと通した。

 八名の高位政務官が起立し、王子へ向かい低頭した。彼らの奥、入口正面の席に掛ける黒髪の男は筆具を置く。

 一五四代ファーリーン王、ルートヴィヒが顔を上げた。翠色の瞳がダーヴィットへと向けられる。「ご苦労。無事でなによりです」ルートヴィヒは平坦な口調で言った。「本件については後日提出を宜しく。そちらよりも早急に取り扱わねばならない問題があります。分かる範囲で結構、なにがあったのか話してください」

 ダーヴィットは王の前へと進み出た。

 彼はルートヴィヒ王に命じられ、二週間前に都を発った。目的はファーリーン領より北の平原地帯にあり、そこでは多数の遊牧民族が生活を営んでいる。北方遊牧民と総称される彼らとファーリーン王国、及びその宗主アルディス帝国との関係は、現在は良好なものだ。多くの部族が属する北方遊牧民だが、此度は族長同士の会合が催されることとなり、そこにファーリーンの要人も招待された。その出席の役を王子が担った。

 問題が発生したのはその帰りであった。ファーリーン北部辺境付近で野営をしていた王子一行は、真夜中に彼らから見て南西側の空が輝くのを見た。光源は低位置の森の中にあるようだったが、光は天高くまで届き、真上に昇っていた満月を霞ませた。そして消えていった。

 王子達は翌朝、帰路の道すがら光源付近の探索を行った。一行は森の奥へと入り込み、そこで一人の少年と遭遇したのである。

「どうもおかしな奴だ。自分がなぜそこにいたのかも分からないと言う。自分の名前も分からなければ、どこから来たのかも分からない。せめて言葉が通じたから良かったが」ダーヴィットは言った。

「光についての情報は特にない、ということですね」ルートヴィヒは訊ねる。

 ダーヴィットは頷いた。「強いて言えば、輝いていた場所の近くにそいつがいた、ということくらいか」

 室内が静まる。その中で、王子の護衛の一人が「宜しいでしょうか」と発言許可を求めた。

「どうぞ」ルートヴィヒは促す。

「関わりがあるかどうかは分かりませんが、探索中の殿下のご様子が、少々」

 ダーヴィットが細めた目で護衛を一瞥する。

「お話しするべきかと思います」護衛はダーヴィットに言った。そして続ける。「殿下はなにかに引き寄せられておられるようでした。我々の呼びかけにもあまり反応なされませんでしたし」

「また、その踏み入った道というのがどうにも奇妙であったのです」別の護衛が引き継ぐ。「道に入る際、二名の護衛を入り口に残しました。私共と殿下は道中と道の先で十分な時間を過ごしたかと思いましたが、いざ引き返した際、道の前に残したその二名は“まだほんの僅かな時間しか経過していない”と申したものですから」

 ルートヴィヒはダーヴィットに目を向けたが、ダーヴィットは顔を逸らした。

「その子供は、連れ帰ったのですね」ルートヴィヒが訊ねる。

「はい。手前の部屋に待機させております」護衛が答える。「お連れしましょうか」

「いえ、私が行きましょう」ルートヴィヒは席を立った。

 ダーヴィットが先ずその部屋へと入った。連れ帰った少年は護衛に見張られながら俯いている。

「待たせたな」ダーヴィットは少年に声を掛けた。

 少年が欠伸をしながら顔を上げる。彼はダーヴィットを見て、次にその背後に立つルートヴィヒへと目を向けた。彼の瞳は丸く大きい。顔立ちは幼い造りだが、体格は決していとけないものではなく、成長途中であることは明確だが決して華奢ではない。年の頃は王子よりも三、四歳下回るといったところだろう。

 ダーヴィットはルートヴィヒを示し、「この国の王だ」と少年へ紹介した。

「ルートヴィヒです」彼は少年の前へ立ち、名乗った。そして身を屈め、目線を少年に合わせる。「少し訊ねたいことがあるので、お付き合いください。君は“アル”と名乗ったようですが、自分自身について、他に話せることはありますか」

 少年は首を傾げる。「名乗ったというわけではないよ。ただ、思い浮かんだ言葉が丁度良かったから、そう呼んでもらうことにした」彼は宙を見つめ、「他に話せることはないと思う」と言った。

「どこの訛りだと思う」ダーヴィットはルートヴィヒに訊ねた。

 だがルートヴィヒは息子の質問には答えず、少年に対し更に質問をした。「生まれた場所、家族、年齢等と聞いて、思い浮かぶこともありませんか」

 少年は暫し沈黙した後、首を横に振った。

「良いでしょう」ルートヴィヒは姿勢を戻した。「君のことは、引き続きアルと呼んで構いませんね」

 少年――アルは頷く。

「今後、君に協力してもらう場面もやってくるかと思います。その際には協力ください」ルートヴィヒは言う。「この城の中は、概ね自由に動いて構いません。ただし、城の外に出る場合は、私か王子に話が通るようにしてください」アルが理解を示したのを確認した彼は、次にダーヴィットへと向かい、「私は政務に戻りますから、後は頼みます。会合の報告書は四日以内に提出するように」と言い、部屋を後にした。

 ダーヴィットはルートヴィヒの背を睨んでいたが、王の足音が遠のくと、彼は表情を緩め、アルを見下ろした。「疲れたろう。客室を案内するから、休むと良い」

 彼らは客室のある城の西棟へ移動する為、部屋を出た。石造りの廊下は幅広で、天井も高い。彼らとすれ違う者は多く、主には城に仕える召使や官僚だったが、ときに貴族階級の者と、またその人に付き従う従者であったり、城の警備をする王属の兵等と、様々であった。

 西棟二階の南側の部屋に一行は入った。日当たりが良く、清掃の際に開けられたのであろう窓からは風が入り込み、白く透ける窓掛けを膨らませている。

「ここを使え」ダーヴィットは言った。

 アルは光の差す室内を行き来して、東側に置かれた寝台の前で立ち止まると、そこへ倒れ込んだ。そして動かなくなった。

 ダーヴィットは五人の護衛を見回し、「この中の一人は、アルの側に付いてくれ。少し見慣れた顔があった方が落ち着くだろう」と言った。彼はうつ伏せになって目を閉じているアルを一瞥し、笑みを浮かべる。「こいつの場合、そういったことはあまり気にしないかも知れないが」

「いえ、了解しました」護衛は応じた。

 ダーヴィットは深い呼吸をし、「僕も部屋に戻るか。今日中に報告書は大方、形にしてしまいたい」と言う。

「殿下もお疲れでしょう。先ずはお休みになられたらいかがです」護衛が提案する。

「仕事が控えていると思うと、休んでもそういった気がしない」ダーヴィットは答えた。彼はアルに充てがった部屋を出て、中央棟四階の自室へと向かった。

 翌朝、ダーヴィットはアルの部屋を訪ねた。アルは朝食を摂っている最中だった。

「良く眠れたか」ダーヴィットは、皿に残った調味料をパンで拭っているアルに訊ねた。

 アルは頷く。「昨日はこの部屋に連れてきてもらってから、朝までずっと眠っていたよ」

「年頃とはいえ、あまり眠り過ぎるのも考えものだがな」ダーヴィットは肩を竦めて言った。彼はアルを眺め、「今日は、少し街に出てみないか」と提案した。

 アルは顔を上げ、口の中のものを飲み込んでから頷く。

 ダーヴィットは口角を上げた。「準備ができたら玄関棟に来い。僕の護衛を迎えに寄越すから」

「分かったよ」アルは応じた。

 ダーヴィットはアルの部屋を出て、自室へと戻った。彼は外出用の、装飾品の少ない服装を選び、着替えた。ファーリーンでは無彩色が好まれる傾向にある。ダーヴィットが選んだ衣服も、上が薄墨色、下が白、彩度の低い緑色の短い袖なしの上着であった。そして膝下半ばまでの革の長靴ちょうかを履き、前方に大きめの鍔が付いた鳥打帽とりうちぼうを被った。

 ダーヴィットは時間を掛けて外出の準備をした。最後に手軽な荷物をまとめ、部屋を出た。階段を下りる際、彼は最後の三段を飛んだが、着地したその瞬間、角を曲がってきた城仕えの侍女と鉢合わせた。侍女は王子に謝罪したが、ダーヴィットは自らに非があるとして、相手が負傷していないことを確認した後は早々にその場を立ち去った。

 ダーヴィットが玄関棟に入り、既に集まっていた私服を纏う四人の護衛達に声を掛けたとき、アルも五人目の護衛に連れられてやって来た。

 アルの身なりは、ファーリーンに馴染みやすいものになっていた。黒の脚衣に、白く薄い生地の緩い上衣を身に着け、長髪は項で結ってある。

「それなりに似合っていると思うぞ」ダーヴィットはアルに言った。

「ありがとう」アルは言いながら、控えめな欠伸をした。

「まだ眠いのか」ダーヴィットは訊ねた。

 アルは「大丈夫だよ」と答えながら、今度は大きく口を開ける。

 ダーヴィットは鼻を鳴らした。

 一行は城の厩舎に向かい、それぞれの馬を用意した。アルは騎馬に不慣れな為、誰かと同乗する必要があった。ダーヴィットが馬上からアルの手を引く。ダーヴィットの馬は、主人とアル、二人の少年を背に乗せた。そして彼らは王城を出発した。

 リディは三層の壁に囲まれ、外側から新市街、旧市街、中心街と呼ばれる区画に区切られている。王城があるのは中心街の北部で、南には街並みが広がっている。

 ファーリーンという国を語る上で欠かすことができないものの一つには、“武力”がある。ファーリーンは古くから忠誠心に厚い騎士によって支えられ、繁栄してきた国家だ。この国の王族男子は、宗主アルディス帝国の皇帝に忠誠を誓う騎士であらねばならない。そして、国内の都市はいずれも騎士団を持っている。

 また、二十四世紀という長い歴史を持つこの国では、建国当初より封建制をとっている。政治の形態は時代によって多少の変遷を経てきたが、基本的には貴族の力が大きい。その中で近年、多くの改革を成した王がいた。ダーヴィットの祖父、エミル王である。彼の軍事改革を代表するものの一つが“王属騎兵団”だ。

 王属騎兵団とは、その名の通り王に直属し、王の指揮下で動く兵団である。精鋭の集まりであるが、ダーヴィットに付き従う五人の護衛は、その中でも特に能力が高いと認められた近衛騎兵の者達だ。

 そういったファーリーンについての情報を、ダーヴィットは道すがらアルに話して聞かせた。

 中心街には古い貴族達の館と、彼らの為の施設が立ち並ぶ貴族街、騎兵館等がある。また、南へと緩やかに下るミュゼー中央大路の先には、中心街と旧市街を隔てる壁がある。

 リディは四十万の民を収めることのできる都市だ。それを取り囲む壁ともなれば非常に長大である。中心街を囲む壁は三層のうちで最も小さいが、それでも国内にある中規模程度の都市であれば取り囲める。

「リディは古代大戦時代の建築の一つなんだ」ダーヴィットが言った。「古代の遺産は世界中に点在するが、原型を残しているものといえば決して多くはない。同じ古代建築のリラ等を見れば分かることだが、当時は今より魔道が栄えていた。こういった恐ろしく労力と時間が掛かりそうな造りも、古代人にはさしたるものではなかったのだろう」彼は「そういえば」と付け加える。「魔道の説明も必要なのか。不思議な力を操ることだと思っておけば良いさ」

 アルが背後のダーヴィットを振り向く。「魔道って、今は廃れているのかい」彼は訊ねた。

 ダーヴィットは眉根を寄せる。「ファーリーンは特に、だな。この国は昔から魔道嫌いなんだ。リラやアウリー、ヴィオール辺りは魔道が力を持っているよ。だが、それでも古代の技術には及ばないと聞く」

「そうなんだ」アルは再び周囲へと目を配りはじめた。

 やがて、貴族街を抜けた一行はビューセット広場で馬の歩みを止めた。ここは中心街を大まかに分割する、四本の大路が交差する場所だ。中央には噴水が設置され、その縁には人々が疎らに腰掛け、各々の時間を過ごしている。

 ビューセット広場より南東の地区には、王立の施設が並ぶ。中心街は立ち入りに制限があり、専用の手形を所持していなければならない。王族、貴族、学者や騎士階級、聖職者やその他の上流階級の者に交付される手形だ。ただし、一般階級の者であっても、先に挙げた地位に属する者からの推薦状があれば発行されることはある。中心街の治安はリディの中でも特に良い。住民の生活水準が高く、学問や芸術が栄えている。また、この場所に住まう人々は王族や貴族に対する態度を十分に弁えている為、ダーヴィットらにとっては安全な活動領域である。

 広場の四方を眺めるアルに、ダーヴィットは一枚の紙を差し出した。「ここから行ける場所だ。興味があるところを選ぶと良い」だが、彼は差し出した紙を引き戻す。「失念していた。文字は読めたのだったか」

 アルは紙を受け取った。彼はそれに書かれた文字を見つめ、沈黙する。やがて彼は首を傾がせた。「文字は分かるんだけれど、言葉になるとよく分からない」

「そうか」ダーヴィットは紙面を改めてアルに見せ、そこに書かれた文字を示し読み上げる。「これが“公演堂”、次が“天文台”、“画廊”その下が――」

「公演堂ってなんだい」アルがダーヴィットの言葉を遮って訊ねる。

「演劇や音楽を鑑賞する場所だ。あの赤い円屋根の建物だが」ダーヴィットは広場の東側、建物群の背後から突出した特徴的な屋根を示して言った。「今日の演目は分からないが、この時間帯なら大抵なにかしらはやっている。中心街では数少ない娯楽施設だからな。行ってみるか」

 アルが頷いた為、一行は公演堂へと向かった。公演堂前の広場に馬を繋ぎ、彼らは建物内へと入った。受付の女性はダーヴィットに「殿下」と声を掛けたが、彼が自らの服装を示し「私用だ」と伝えると、無言で頷き、手続きをして一行を会場へ招き入れた。会場内は薄暗く、舞台上は未だ無人だったが、客席には多くの人々がいる。

 ダーヴィットは会場入口付近の貼り紙を見た。「英雄伝か」と、彼は呟く。

「なんだいそれ」アルが訊ねる。

「楽曲だ」ダーヴィットは答えた。「今日は演奏会だな。英雄伝はこの国の最初の王、ヴィートの生涯を綴ったものだ」彼は傍らのアルを見下ろす。「名曲だし、僕は好きなんだが、お前には退屈かも知れないな」そして笑みを浮かべた。「まあ、眠っても構わないさ。大鼾さえかかなければ」

「どうだろうな」アルは呟いた。

 一行は後部の左端に纏まって空いている席へ座ったが、ダーヴィットは溜息を吐いた。「本当は中央の席の方が良いんだ。それぞれの楽器の音が最も調和して聞こえる」

「仕方ありません。中央は目立ちます」護衛が宥めた。

「音楽が好きなんだね」ダーヴィットの隣に座ったアルが言う。

「それなりにな」ダーヴィットは答えた。

「殿下はご自身が楽器を演奏なさいますからね」護衛がアルに耳打ちした。「セロという楽器があるのですが、殿下は本当にお上手なのですよ。我々にはたまにしか聴かせてくださりませんがね」

「僕の腕など大したことはない」ダーヴィットは言った。

 客席の明かりが落とされた。舞台上に奏者達の影が入場する。彼らが所定の位置に着くと、指揮者が中央の壇に上がった。舞台に明かりが灯る。

 指揮者が譜面台の総譜を開き、奏者達を見渡す。一同の用意が整ったのを確認した指揮者は頷いた。二呼吸分の間を置き、指揮棒が振り上げられる。

 中音域と高音域からの前奏、第一楽曲が始まった。公演堂内に英雄の幼年期の調べが響き渡る。次第に中低音が加わり、幼子は少年へと成長する。低音域が加わるのと同時に螺旋金管が鳴る。彼の激動期(後に英雄と呼ばれることとなる少年が、青年へと成り行く時代、仲間と共に世界を駆け、多くのものを見、多くのことを成した時代)の奏でが始まった。ここからの三曲は、この英雄伝組曲の中でも最もよく知られている。それらが終わると、次は高音域が潜まり、英雄の苦悩の日々が到来する。ファーリーン王の地位に立ち、理想と現実の狭間で揺れ動く、未だ少年の面影さえ残す程に若かった王の心境は如何なるものであったか。そして最終曲は英雄王の最期を描く。未だ青年であった彼は、静かに、消え入るように死んでいったとされる。

 余韻の中で、客席の随所から啜り泣きの音が発せられた。腕を下ろした指揮者が振り返る。彼は聴客達に深い礼をした。客達は盛大な拍手を舞台上の人々へ送った。

「最後まで聴いていたのか」両手を打ちながら、ダーヴィットは隣のアルに声を掛けた。

 アルは退場の準備を進める奏者達がいる舞台上を見つめたままで、ダーヴィットの声には反応しなかった。

 舞台上から奏者達が退場し始めると、客席を立つ者も増えた。ダーヴィット達は、その場で人の流れが落ち着くのを待つ。明かりから遠い場所に座る王子一行だったが、そこへ人波を掻き分けて向かって来る細身の男性がいた。彼は息を切らしながらダーヴィット達の席の前列に立つ。

「殿下、お越しくださっていたのですね」礼装に身を包んだ男性は、人声に紛れ込まないながらも、周囲に響き渡ることもない程度の声量で言った。

「あんたが主催だったのか。そういえば、これはあんたが好きな曲だったな」ダーヴィットは着席したまま言った。

 此度の演奏会の主催は笑みを浮かべる。「とても良い公演だったと思います。けれども、私としてはやはり、この楽曲は殿下の演奏で、というのが本音なのです。今日の奏者は間違いなく一流だと思います。しかし、この楽曲の単独演奏を真の意味で弾きこなせる方は、殿下しかおられない」

「そうだろうか」ダーヴィットは肩を竦めつつ呟いた。

 主催は首を横に振る。「代わりなど存在し得ません。奏者の生い立ちやその背景等は気に留めない者も確かに多いでしょう。しかし、私はそこも含め奏者を選抜したい。貴方様がヴィート王の子孫であらせられることは、一つの、とても重大な素晴らしい要素です。英雄でありながら王となった彼と、いずれ王となる貴方、若いながら剣の名手として知られたヴィート王と、若いながら素晴らしいセロ奏者である貴方様のお姿は重なり合う。そうは思われませんか」

「そこまで熱意を込めて言われてしまうと、分からんとは言い難い」ダーヴィットは笑った。

「ぜひ、また公演に参加していただきたい。確実に素晴らしいものとなります。どうかお願い致します」主催は言った。

 ダーヴィットは微笑混じりの息を吐いた。「分かった。そのうちにな」

 主催は笑みを浮かべる。「私は確かに言質を得ましたので。近衛の方々も証人でございますよ」

「約束する」ダーヴィットは頷いた。

 主催は喜びを露わに、何度も王子に念を押しながら舞台裏へと呼ばれて行った。

 会話を終えた頃には人も少なくなっていた。一行は公演堂を退出した。

 外には真昼の光が降り注いでおり、広場では公演堂から出て来た聴客達が、先の演奏会が如何に素晴らしいものであったかを語らい、賑わっていた。

 一行は繋いでいた馬を広場の隅まで連れて来た。

「ヴィート」馬に乗る為、鐙あぶみに片足を掛けたダーヴィットの傍らで、アルは呟いた。

 ダーヴィットは馬上からアルヘと手を差し伸べながら、「興味が湧いたのか」と訊ねる。

 アルはダーヴィットの手を掴み、勢いをつけて馬に乗り上げた。そして頷く。

 ダーヴィットは笑んだ。「教会堂にヴィートの像があるのだが、あの場所も、お前ならばさほど退屈には感じないかも知れない」彼は護衛達を振り返る。「旧市街へ行こう。リーン大教会堂の像を、こいつに見せてやりたい」

 巨大都市リディには、幾つかの教会堂が点在する。だが、旧市街の中央区に建つリーン大教会堂は、ファーリーンで最も歴史あるものだ。その長身の尖塔に下がる黄金の鐘は、今しがた正午を告げて鳴った。

「今日は“祈りの日”ではないから、人は少ないだろう」教会前広場へ辿り着いたところで、ダーヴィットは言った。

 教会堂の傍では、若い修道士らが馬丁をしている。一行は馬を彼らに預けた。

 リーン大教会堂は名の通り大規模な建物だ。非常に古いこの会堂は、幾度かの改築を経て現在の姿となった。

 会堂の中の人影は、確かに疎らだった。明かりは適度に落とされ、高窓から差し込む正午の光が、並ぶ座席を照らしている。

 中央通路の先には講壇があり、その奥には祭壇がある。燭台には炎が灯され、周囲の黄金を輝かせている。その祭壇には背の高い純白の彫刻が安置されていた。

 先導していたダーヴィットが、通路に佇み周囲を見渡すアルを手招く。

 祭壇の彫刻は、二人の人物を象った大理石像で、上方の人物には人の腕に加えて一対の巨大な翼がある。そして彼の眼下に佇むのは、全身に鎧を纏い、双剣を手にし、祈るように顔を伏せた男――青年である。それらは非常に精巧なものだ。

「双剣を握っている男がヴィートだ」ダーヴィットは言った。そして彼は周囲を窺った後、抑えた声で語りだす。「アルディス帝国は、今から二四七五年前、古代大戦の終結と共に建国された。ファーリーンもその当時から帝国に属する。初代皇帝が暗殺された為、ヴィートはファーリーンの王でありながら、その宗主国であるアルディスの実質的な統治をも担った。そして彼は神族の末裔と呼ばれる一族を、リラ――アルディスの帝都のことだ――に招いた。元々リラは彼らのものだったのだがな。大戦の混乱でリラから離れていたらしい。現在の皇族は、その神族の末裔とされる方々の子孫だ」

 アルはヴィートの像へと近づいて行った。前髪の隙間からは、若年の顔貌が覗いている。

「ヴィートは若くして没した」ダーヴィットがアルの隣に並ぶ。「彼の背後におられるのが天空神だ。先に言った神族の一人で、我々リーンの民を生みだしたとされる」

 アルは視線を上へ動かす。ヴィートを抱くように白鴉の翼を広げる天空神は、石の眼差しを下方へと向けている。

 ダーヴィットは腕を組み、続ける。「帝国にはアウリーという国も属しているが、そちらの主は賢神だ。アウリー人は賢神によって生みだされた民だからな。天空神と賢神は、リラの皇族の祖先である“月の神子”の守護者で、彼らの関係は、現在の我々にも受け継がれている。と、言われている」彼は天空神を見つめるアルへ目をやった。「退屈な話だっただろうか」

 アルは首を横に振った。彼の視線は再びヴィートの方へと戻る。

「気が済むまで眺めると良い。他にはない芸術品でもある」ダーヴィットは近くの席に座り、瞼を伏せた。

 午後も半ばとなる頃、一行は王城へと戻った。玄関棟で彼らを待っていたのは、常日頃王と仕事を共にしている高位政務官の一人だった。

「お帰りなさいませ。陛下が王子殿下へお話がおありのようですから、執務室においでいただけますか」眼鏡を掛けた若い政務官は言った。

 ダーヴィットは僅かに顔を顰めた後、「分かった」と答えた。

 政務官はダーヴィットの背後に佇むアルを覗き込み、「アル様もご一緒に」と付け加える。

 一行は政務官に先導されながら、中央棟二階の王の執務室へ向かった。部屋の前で見張る王の近衛は王子に敬礼をして退いた。

 政務官が部屋の戸を軽く叩く。「殿下がお戻りになられました」彼は部屋の中へ向かって声を掛ける。そして扉を開け、ダーヴィットとアルを中へ通した。

 部屋の中央の席に掛けるルートヴィヒは、手元の書類を仕上げてから筆具を置いた。そして、「アル、明後日帝都へ向けて発ちます。急ですが、準備をしておくように」と言った。

 ダーヴィットは眉根を寄せる。「本当に急だな。シークの次はリラ。大して休む暇もないじゃないか」彼は呟いた。

「最後まで聞きなさい」ルートヴィヒはダーヴィットを窘める。「お前はリディに残るのです。私が彼、アルと共にリラへ行くから、その間三月みつき程でしょうが、お前は王の代理として、こちらで過ごしなさい」

 ダーヴィットは口を開けたが、その口から言葉を発することはなかった。彼は眉根を寄せ、首を横に振りつつ溜息を吐いた。

「とはいえ、分からないことは多いでしょう」ルートヴィヒは政務官らを示す。「二人連れて行きますが、残る彼らの助けを借りなさい」

 ダーヴィットは王を囲む高位政務官らを見渡した。政務官達は王子の視線に笑みで応える。

「話は以上です。呼び出してすみませんでした」ルートヴィヒはそう言うと、新しい書類を手に取り仕事へと戻った。

 ダーヴィットはアルを見る。アルもまたダーヴィットを見上げた。彼らは暫し無言で見つめ合った。

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