ユール書殿

――黒き血鉄の匂い、隣佇む美しき白――

掌・短編集
隻腕

 南部ファーリーン、アクスリー。真夏のこの都市は、いつだって暑苦しい。城壁に囲まれた街は風通しが悪く、人々の営みによって生み出された熱気は、行き場なく渦巻くからだ。

 その暑い朝も、俺はいつも通り水を運んでいた。アクスリー北西部地域にある自宅から最も近い共用水場との間を、俺は毎朝三回往復する。冬は二回だが、夏は三回だ。

 俺はまだ子供だったが、これは俺が受け持つ重要な仕事の一つだった。体の弱い母との二人暮らし、力仕事は俺の役目だ。

 もう一箇所、角を曲がれば自宅が見える。そんなところまで来たとき、背後から駆け足の音が聞こえた。品のない笑い声。すっかり聞き慣れた、やっかいな、仲の良くない幼馴染の気配だ。俺はこの後自分に降りかかるできごとを完璧に予測できた。だから、駆け足が近づいてくるのに任せたし、敢えて抵抗もしなかった。

 俺の背が衝撃を受ける。水桶を携えた左肩が強く弾かれる。俺は勢いに任せて、水がたっぷりと入った桶を手放した。水が地面を叩く音と、軽い木桶の転がる音が響く。俺はわずかによろめきはしたが、それだけだ。熱い石畳に広がり染み込んでゆく水たまりを見つめながら、俺は面倒くさくなって溜息をついた。

 俺を影が覆う。縦横に広い人影の持ち主は、俺の右腕があるべき場所を掴み、引いた。俺の右腕は、上腕から下が生まれつき存在しない。だから、乱暴に扱われたところで痛くも痒くもない。ただ、空洞になっている衣服の袖が、無抵抗に潰れるだけだ。

 俺よりも一歳だけ年上の、“でぶ”と呼ばれている幼馴染は、いかにも期待を裏切られたような不満げな顔をして、俺を睨んでいる。彼の靴は水に濡れて、色が変わっている。どうせなら頭からぶっかけてやりたかったと、俺は思った。

「つまんねえやつ!」

 そう吐き捨てて、でぶは手下の“チビ”の首根っこを引っ掴んで、不快そうに靴から水音をたてて去っていった。

 俺は再び溜息をついた。右肩が襟からはみ出ている。衣服のずれを直した俺は、空になって地面に転がっている水桶を拾い上げた。そして、もう一度水を汲むために来た道を引き返した。

 結局、その日の俺は四回も道を往復するはめになった。自宅の戸を開いて、まっすぐに台所へと向かう。水槽の淵に桶を一旦置いて、注意深く傾けて中身を注ぐ。右手があれば、もう少し手間は省けたのだろう。木桶に入れた水だって子供にとっては軽いものじゃない。道中右手と左手で持ち替えられればきっともっと楽だったと思うし、少し無理しても両手に持てば往復する回数だって少なくできる。想像したところで仕方のないことだが、余計に働いたせいで疲れていた俺は、少しうんざりしていた。

「おつかれさま、マティス」

 母が声を掛けてくる。この日も彼女は、いかにも不調そうだった。青白い顔をして、立っているのもやっとといった様子だ。なぜ横になっていないのだろう。

 俺は疲れたそぶりを隠した。腕の痛みなどじきに和らぐ。それよりも、母には休んでいてほしかった。

「他にやっておいたほうがいい事、ある?」

「もういいわ。ありがとう」

「そう。なら出掛けてくる」

 俺は玄関の壁際に立て掛けてある木剣を掴んだ。母は両手を揉み合わせて、何かを言いたそうにしている。なるほど、だから大人しく寝ていなかったのかと、俺は理解した。俺は気づかないふりをした。こういう様子のときの母の口から出る言葉は、俺を苛立たせることがほとんどだったからだ。

 俺は逃げるように家を出た。

 ひとけのない薄暗い路地の先に、小さな石扉がある。老朽したカンヌキは、扉を思い切り蹴り飛ばしたら砕けてしまいそうだ。俺はそんな、サビが落ちるカンヌキを慎重に外した。暗闇への小さな入り口のフチに木剣やら頭やらをぶつけないように注意して、俺は暗がりの中へと入った。

 辺りは暗黒だ。足音が反響する。暗さに目が慣れてくると、自分の足影が見えるようになった。だが、それ以上に広い範囲は相変わらず見えはしない。近頃に自分以外の者がここを通ったことは無いと思うが、とにかく暗いので確認のしようもない。松明でも持っていれば良いのだろうが、俺はこの暗さが嫌いじゃなかった。冷たい空気に満ちていて、水音が聞こえる。石積みだと思われる壁の隙間からは、ところどころ水が染み出しているらしく、触れれば苔の感触とともに手を濡らす。

 道程は長いが、左手を壁に添わせていれば出口に至ることを俺は知っていた。

 やがて、瞳が前方にかすかな光をとらえた。暗さに慣れた瞳だからこそ気づける、弱い光だ。そちらを目指して歩き続ければ、光は次第に明瞭さを増してくる。

 そして、暗闇の道程は終わった。

 草の青くツンとした匂いが鼻腔に刺さった。茂みが俺の体を引っ掻く。低木の枝が衣服と露出した手脚に当たるのを、大して気に留めることなく、俺は緑をかき分けた。木陰から出れば、太陽の光がさんさんと照っている。それを遮るものはない。暗闇から出たばかりの瞳には刺激が強かった。

 からりと乾いた爽やかな熱が、体表を覆い尽くす湿りを剥がしてくれる。心地が良かった。常に流れ続け、淀むことを知らない自由な大気を、俺は肺いっぱいに吸い込む。そしてきれいさっぱりと吐き出す。胸のあたりにつかえていたものが取り除かれたような気がした。

 俺はアクスリー北の窪地に出ていた。地下道の出口だか入り口だかは、茂みによってすっかり隠されている。南の傾斜を登れば、アクスリーの外壁がそびえているし、視点をその西方へと向ければ、ミロウ城塞の影がうっすらと見える。

 俺は木剣を回した。俺の腕よりも少しだけ長い得物の重心を確かめ、陽の光に透かす。瞳を閉じ、呼吸を整える。そして、まずは振り下ろした。風を切る鋭い音が鳴る。

 俺は跳んだ。瞳を閉じたままで、俺は瞼の裏に浮かび上がる幻影を切った。上下の感覚は次第に曖昧になる。それでも、着地する度に俺の足裏は確実に大地を蹴った。身を低くし、空想上の敵が繰り出す攻撃を避け、的へと迫る。俺の思い描く的は、現実的だったと思う。俺にとって都合の良いばかりではなく、俺の攻撃はかわされたし、足もすくわれた。

 この想像は膨らみ続けた。俺の体は軽快さを増していくばかりだった。手汗によって滑りずれた剣柄を、空へと投げて持ち直す。

 心拍と呼吸の頻度が上昇する。額や背、全身から汗がにじみ出す。この息苦しさが、俺を高揚させた。俺は楽しんでいた。

「うわぁ、すっげぇ」

 という声がしたのは、俺にとってはあまりに唐突なできごとだった。俺は左腕を振り上げた姿勢のまま固まって、瞳を開けた。南の傾斜の上に、太陽光を遮る人影がある。

 この場に他人がやって来ることなど想像していなかった。俺は、ここが俺だけの隠れ場所だと思っていたのだ。だから、これらの行動を見られることなども想像していなかった。あまりにもバツが悪く、羞恥心が湧き上がってくる。俺は人影に背を向け、唇を噛むしかない。一体いつからそこに居たのだろうか。いつから見ていたのだろうか。

 傾斜を駆け下りてくる足音が聞こえる。こっちに来るなと、俺は内心で叫んだ。俺の視界に見知らぬ顔が飛び込んでくる。うつむく俺の顔を覗き込んでくる無遠慮な子供の顔。

 そいつは俺の顔を見て、にっかと笑った。俺は顔をしかめる。なんて無遠慮なやつだろう。こういう子供は嫌いだ。と、同年齢くらいの少年をひと睨みして、俺は更に背を向けた。

 だがそいつはまた俺の顔を覗いてくる。面倒なのに絡まれたと俺は思った。

 小汚いやつだった。服はあちこちほつれたり破けたり、全身は土埃にまみれ、金髪は艶もない上に絡まりあってボサボサだ。はっきり言ってにおいも良くなかった。あまり風呂に入っていないらしい。

 俺はそうやって、相手を値踏みしていた。小汚いやつが歯を見せて笑う。なるほど、歯は綺麗なのだなと思ったところで、俺は自分が不躾で、自分自身が嫌うことを自らしていたのだと気づいた。俺は悔しくなって、相手の顔から目をそらした。

「ねえ、ものすごく跳ぶんだね!」

 小汚い少年がまた俺の顔を覗き込んでくる。何なんだ。仕返しなのか。

「騎士とかになるの?」

「ならないよ」

 興味に満ちた感じの質問に、俺は自分でも無愛想だなと感じるような調子で返した。

「どうして? なればいいのに。なれるよきっと!」

 俺は自分の表情がこわばったのを感じた。

「簡単に言うなよ……。周りと同じ形がとれなきゃいけないだろ」

 小汚いやつが首を傾げる。

「カタってなに?」

「騎士の演習見たことないの? 皆、右手に剣持って、左手に盾持ってるだろ」

「それが?」

 小汚いやつは察しが悪いようだった。俺が右手に剣を持つことができないということに気づけないのか? こんなにも分かりやすいのに。

「お前、馬鹿なのか?」

 俺は苛立って吐き捨てた。だが、小汚いやつは至って気楽な様子で、自信満々と言った様子で主張する。

「べつに、盾なんか持たなくていいと思うけどな。だって、それだけ動けるんだよ? 盾なんて持ったら邪魔なんじゃない?」

 俺の胸元に不快さがこみ上げる。俺は舌打ちをしていた。

「盾についてどうこう言いたいんじゃない。周りと同じことができないやつは邪魔なんだって話をしてるんだよ」

 ひどく刺々しい口調になってしまった。その棘は、他でもない自分自身に突き刺さる。そうだ、周りと同じことができなければ邪魔なのだ。俺がどれだけ努力して、片腕で、片腕なりの方法で周りに馴染もうとしたところで、片腕であることには変わりがない。

 小汚いやつは、先の俺の言葉について、少し考えている様子だった。だが、やがて彼は首を横に振る。

「よく分からないな」と、そいつは言った。

 自宅近くまで戻る頃には、日は傾きかけていた。背後から掛けられたのは甲高い声。

「おーい、片腕!」

 と、その声は俺を呼ばわる。そいつはネズミのようにチョロチョロとしていて、俺の周りを回る。今朝絡んできた“でぶ”に大体いつも付属している“チビ”だ。そしてチビの背後からは件のでぶが、重そうな体を揺らしながら近づいてくる。

「なあ、お前。いつもどこに行ってんだ? 俺ら昼にもお前んち行ったんだぞ」

「別に、わざわざ遊んでくれなくていいから」

 俺はできるだけそっけない感じになるように返した。

 チビが低い位置から見上げてくる。

「そんな木剣なんか持ってさ、素振りなんかできる場所があるのかい? あるなら教えてくれよぉ、おいらの脚に、この場所は狭すぎるんさ」

「自分で探しな」

 チビは口を尖らせて、ブーッと音をたてて唾を飛ばした。

「けち! どけち!」

 怒るチビを押し退けて、でぶが進み出てくる。彼は品定めでもするような目つきで俺を眺めて、鼻と唇を豚の鳴き声みたいに鳴らして吹き出した。

「素振りね! 本当にやってるのか?」

 俺は顔をしかめ、少しだけ上にあるでぶの顔を睨んだ。でぶは吹き出したときに飛び出した鼻水を手の甲で拭っている。

「そんなことやってどうするってんだよ。お前じゃあサマにならないだろ」

「鍋のふたでもあればキマるさ、きっと!」

 俺はでぶとチビをそれぞれ睨みつけて、そのあと揶揄して鼻で笑ってやった。でぶの顔が赤くなる。

「なに笑ってるんだよ!」

「喧嘩売ってるなら買ってやるぞ」

 俺は木剣の平で、でぶの尻をぶっ叩いてやった。バシンと鋭い音をたてた一撃だが、音の印象ほどには痛くはないはずだ。

 俺はしばらくその場で相手の返事を待っていたが、でぶは尻をさすりながら俺への文句を叫ぶばかりだし、チビはビビってでぶの周りをウロチョロして相手になりそうになかったので、俺は嘲笑ってから彼らに背を向けた。

 家の中には、夕食の匂いが満ちていた。主役は大体いつも一緒だ。薄味の芋。母は料理が上手いと思う。限られた食材の中でいつもやりくりしていた。

「ちょうどできるところよ」

 木剣をいつもの場所に立てかける俺に、母は言った。スープを温めているらしい。

 母は毎日、二人分の料理を一日二回作ってくれた。その作業が母の体力をどれほど消耗させていたのか、俺には想像もつかなかった。母は、親子向かい合っての食事の時間には、なんてことなさそうに笑ってみせた。しかし、彼女の顔はいつも青白かったし、疲れきっているようだった。それでも俺は母の料理が好きだったから、甘えていたかった。

 完成したらしい料理を、母が器に盛り付けている。俺はそばに寄っていって、調理台の端に置かれた器を持ってテーブルに運んだ。母の席にそれを置き、再び調理台の方へ戻って自分の分を受け取る。

「いつもありがとうね」

 と、母は言った。だが、それは俺が言うべき言葉だった。しかし、俺は気恥ずかしく思ったりして、口にすることは滅多になかった。

 俺は自分の席についた。母は調理台を軽く片付けてから、二人分のスプーンとフォークを持って、俺の向かいに座った。母は大きく息を吐いた。俺たちは夕食をとりはじめた。

 スープの中に入った芋が旨かった。口に入れるとほろりと崩れ、塩加減がちょうどいい。豆は歯ごたえがよく、葉物は柔らかい。

 俺たち親子の元にもたらされるのは、今は亡き父の親戚から不定期に送られてくる、生活するにも決して十分とはいえない程度の援助だった。虚弱な母は働きに出ることなどできないし、俺もまだ幼くてまともな労働力にはなれない。母を定期的に医者に診せたいと思ったところで金もない。俺は早く働けるようになって、母を医者に連れて行って、毎日薬を買ってやりたかった。それに、父の親戚とて裕福というわけではないらしいし、こうやって援助をしてくれるのも俺が子供のうちだけだろうと、母は言っていた。

 その日の夕食は静かだった。俺は昼間に出会った小汚いやつのことを思い出しながら、黙々と食っていた。だから、唐突な言葉にすぐには反応できなかった。

「ごめんね、マティス」

 母親の口から発せられた謝罪の言葉に、俺は我に返る。見れば、母はさじを置いてうつむいている。

「今日もからかわれていたでしょう」

 俺は気にしたそぶりを見せないよう、食事を続ける。

「なんで母さんが謝るんだよ」

 幼い頃から繰り返されてきた問答。母は泣き出しそうな、悲痛そうな表情を浮かべている。

「ちゃんと、皆と同じ体に産んであげられたら良かったのに……」

「あのさあ」俺は母の言葉に被せるように言った。「それ、やめてって言ってるだろ、いつも」

「うん、そうだったね……」

 俺はまた黙々と食事を続けた。もう味なんて分からなかった。とにかく早く片付けてこの場から去りたかった。器が空になると、俺はそれを持って台所に向かい、洗浄して棚に戻した。気持ちは苛立っている。だがぶつけられる相手もなければ、物に当たる気にもならない。ただ苛々としながら、尚もうつむいたままで食事を続ける気のなさそうな母の背を横目に、俺は寝室へと、逃げるようにその場所から立ち去った。

 翌日、俺はいつもの家事を終え、地下道を抜けて壁外へ出た。この日はでぶもチビも絡んでこなかった。俺はまだ昨夜のことを少し気にしていたので、ちょうど良かった。

 俺は小汚いあいつにも会いたくはなかったが、例の場所に行けばまた再会してしまう気が少なからずしていた。嫌な予感でしかない。その日はことごとく放っておいてほしい気分だったからだ。

 暗い道を抜け、茂みをかき分けて出ようとすると、人の気配があった。あいつだと思った。俺は思い切り肩を落としたい憂鬱な気分で、茂みから出た。

「おはよう」

 昨日のあいつは草の上に座り込んで、俺が出てくるなり言った。

「なんでいるんだよ」

 俺は顔をしかめながら呟いた。

「暇なんだよ」

 嫌味など通じないんだろうなと、俺は思った。俺はとりあえずそいつの前を通過して、空を眺めた。木剣の先で地面を叩く。背中に注がれる視線が鬱陶しい。俺は振り返る。

「見てるなよ」

「気にしないで!」

 俺の都合などお構いなしだ。俺は溜息をつく。まったく、おかしなやつと知り合ってしまった。こいつの名を聞く気はなかったし、俺も名乗る気はなかった。相手も俺の名に興味はないらしい。相も変わらすへらへらとした笑みを浮かべながら、右手で小石を転がしている。別段用があるというわけでもなさそうなのに、無遠慮な視線ばかりが寄越される。気分の良いものではない。

 今日は諦めて帰ろうか。しかし帰っても母がいる。昨夜のことは今朝も尾を引いていた。ならば家の近所で暇を潰そうか。でぶとチビに見つかったらそれもまた面倒だ。

 などと俺が考えていると、何かが飛んできた。

 それは、俺の顔をめがけて素早く接近してきた。俺は反射的に避ける。ほんの一瞬、それが視界を掠める。俺は“なんだ、石じゃないか”と思った。俺は左足を後ろに踏み込み、間合いと体勢を整えた。そして、持て余していた木剣で、その小石を打った。

 カツンと軽い音を立て、小石はやって来た軌道を引き返していく。相手は戻ってきた小石を、右手で捕らえた。

 俺は呆然としてしまった。

「お前……、いきなり石なんか投げるな。危ないだろ」

「当たらなかったでしょ? ならいいじゃん」

 小汚いやつが嫌味も感じさせない朗らかな口調で言う。俺は心底呆れた。小汚いやつは表情筋のゆるんだ顔をして、ゴミだかそばかすだか分からないものが付いた鼻を掻く。そして唐突に言った。

「ねえ、弟子にして」

 俺は相手が何を言ったのか、頭の中で繰り返した。意味は理解した。しかし何故相手がそんなことを言ったのかが理解できなかった。

「は?」

 なので俺は、えらく気の抜けた返事をしてしまった。

 小汚いやつの名は“ヤン”と言うらしい。尋ねてもいないのに勝手に名乗ってきた。仕方なく、俺も名乗った。

 俺は愛想悪く振る舞いながら帰宅の途についた。しかし、ヤンはしつこくて、地下道の暗い道を歩いている間も一人で元気に喋りまくって、時折躓いた気配をさせながら俺を追ってきた。

 俺は黙って考えていた。ヤンは一体、どこを経由して壁外へ出たのだろうか。子供が一人で容易に出入りできるような門はない。ならば、この西部街の地下道のようなものが、他にもあるのだろうか。気になって尋ねてみようかと思い、やめた。話しかけたらつけあがるに決まっている。

 地下道を抜けて街内へ出ても、ヤンは俺の後をついてきた。もうじきに俺の家が見える。こいつを自宅に招きたいとは思わなかった。

「お前、いつまで付いてくるつもりだ。家に帰れよ」

 ヤンの方を振り返りもせず、俺は言った。できるだけそっけない口調に聞こえるように。

 ヤンが脚を止めた気配がした。俺は不覚にも驚いてしまった。俺の言うことなど聞かないだろうと思っていたのだ。俺は振り返ってしまった。ヤンは視線をうろつかせながら、口をもごつかせている。

 俺は良くないことを言ってしまったかもしれないと思った。ヤンは体を左右に揺らしている。何事かを誤魔化すように。

「帰れないんだよね」

 ヤンは言った。俺は心の中で舌打ちをした。ヤンには帰る家が無いのだ。俺はずっと、頭の片隅でその可能性を感じていた。尋ねればそれを肯定する言葉が返ってくることも予想していた。それなのに、先の言葉を発してしまったことを後悔した。俺は罪悪感を覚えた。そしてなんだか、この陽気に振る舞うやつに少しだけ同情した。

「……うちに来るか? 飯、食っていったら」

 ヤンが目を瞬く。

「いいの?」

「どうせ、もうすぐそこだからさ」

 俺は自宅の方を指差した。俺は先の心境とは一転して、こいつを家に招待してやりたくなったのだ。

 俺はヤンを従えて、自宅の扉を開けた。

 母はテーブルの上に夕食の材料を並べて、椅子に座って仕込みをしているところだった。

 今朝は一つも言葉をかわさずに家を出た俺だが、もう意地を張るのはやめようと思った。

「ただいま」

「お帰りなさい……」

 母は顔を上げて、まだ遠慮したような口調で言った。しかし、次の瞬間驚いたように目を瞠る。母の視線はヤンへと向いていた。

「夕飯さ、今から一人分足せる?」

 俺は台所の水槽から水を汲みながら、母に尋ねた。

「え、ええ……、それは大丈夫……だけど……」

 俺は水入りの木桶を隣室に運び、居間に戻った。玄関先で突っ立っているヤンに、隣室を指し示す。

「夕飯の前に、体拭いて着替えて。臭うから」

「そう?」

 ヤンは脇のあたりを嗅ぐ。

「だいぶ臭いよ」

 俺はヤンの背を押した。

「ねえ、服はどうしたらいい?」

「俺の置いといたから。暑いし水でも平気だろ。ほら、早くしろよ」

 俺はもう一度隣室を指差した。

 だが、ヤンは難しそうな顔をして、俺の腕を掴む。

「背中拭けない」

 俺はなんとも言えない気持ちになった。馴れ馴れしくされるのは好きではないし、するのも苦手だ。

「そう、頑張って」

 俺はそれだけ言って、ヤンを隣室に押し込んで扉を閉めた。

 夕食ができあがる頃、ヤンは隣室から出てきた。背中を気にしている様子だ。だが清潔さは取り戻したように見える。鼻の周りのはゴミではなくそばかすだったらしい。

 ヤンの背丈は俺とほとんど変わらないが、俺よりも大分痩せている。だから、俺が貸した衣服の規格は合っていなくて、ぶかぶかしていた。

 テーブルの上には、三人分の料理が並べてある。埃をかぶっていた椅子を一脚引っ張り出してきて、ヤンの席を作ってやった。

 できたての、温かな香りを立てている料理に、ヤンははしゃぐ。

 母が俺たちにさじを渡しながら席に着いた。

「召し上がれ」と言われるなり、ヤンは「いただきます!」と言って、器の中で大きく切られた芋を口に入れた。

 まだ熱いだろうに。案の定ヤンはほふほふと苦闘しながら咀嚼していた。頬を紅潮させ、飲み込む前から「おいしい!」と言う。少し下品だと思ったが、仕方ない。

 母は嬉しそうに微笑んだ。“おいしい”なんて、俺は思っていてもいちいち言わないから、新鮮だったのだろう。

 俺も料理を口に入れた。俺はしつけがされているので、口にものを入れたまま喋ったりはしない。しかしどうしても喋らなければならないのならば、口を隠して喋る。だから、ヤンが「お父さんはいないの?」と尋ねてきても、俺はまず答えるよりも口の中のものを飲み込むことを優先した。

「いないよ。俺が生まれる前に死んだ」

 ヤンが母へと目を向ける。母は眉尻を下げながら頷いた。ヤンは元々緩い表情を更に緩ませた。

「そうかあ、いないんだ……。俺と一緒だね」

 俺はなんと反応して良いのか迷った。

 だが、そんな俺の困惑などには気づいていない様子で、ヤンは豆を口に入れて続けた。

「お母さんが優しいのも一緒。でもさあ、俺のお母さん料理へたくそなんだよね」

「……そうなんだ」

 俺は勘違いをしていたらしい。ヤンは孤児ではない。母親は健在のようだ。

「家、どこにあるの」

 俺は勘違いをさとられないように気をつけながら尋ねた。

 ヤンは席を立ち、窓際へ向かった。開けられた窓から身を乗り出して、空を見上げる。少ししてから、「あっちの方」と南を示した。なるほど、星を目印にしていたのかと、俺は思った。

「南部住みなの? ずいぶんと遠いところまで来たもんだな」

 アクスリー北西部の俺の家からでも、壁外のあの窪地までは結構な距離がある。南部からとなると、子供の足ならそれこそ一日がかりだろう。

 ヤンは席に戻りながら頷く。

「でも、最近はずっとあの辺りに居たから」

 ふと見れば、母は話についてこられていない様子だ。当然だろう、俺はいつもどこに行って何をしているのか、母に話していないのだから。

 ヤンは食事を続けながら言った。

「家にね、帰ってきたらだめだよ、って言われてるんだ」

「何だそれ……」

 俺は顔をしかめてしまった。ヤンは自分の母を優しいと言ったが、本当なのだろうか。

 俺の渋い表情に、ヤンは気づいたらしかった。彼は幾分慌てた様子で補足する。

「お母さんね、家で仕事してるんだ。それで、仕事中は俺、家の中入れないから。でも、最近はいつも仕事中なんだ。だから、ちょっと遠出してみた」

「なんのお仕事してるの?」と、母が心配げに尋ねる。

「ええとね……」

 ヤンは俺を見て、母を見た。宙に視線をさまよわせている。なにやら言葉を選んでいるようだった。

「花売りっていうか……」

「はあ?」

 俺は気の抜けた声を出してしまった。花屋と言ったのか? 花屋に子供が居てはいけない理由が、俺には分からなかった。花屋の手伝いならできるだろうに。

 だが、納得がいかない俺とは違い、母はヤンの言葉から含みを感じ取ったらしかった。彼女は焦った様子で、空になったヤンのスープ皿を指して、「おかわりする?」と尋ねて、なんだか強引にこの話題を終わらせたようだった。

 ヤンの自宅はここから遠いし、日も暮れていたので、俺たちは彼を泊まらせることにした。

 なんだかんだで、母は機嫌が良かった。ヤンの世話を焼くのが楽しいらしい。

 俺と同い年でも俺より子供っぽいヤンは、どうやら他人に世話を焼かせるのが得意なようだ。うっかりすると、俺もこいつの面倒をみてやってしまうのだ。

 俺は、自分が意外と面倒見が悪くない人間だということに気付かされた。

 日が変わり、夜が開け始めた頃に、俺はいつも通り目覚めた。俺はあくびを噛み殺しもせず、胸を伸ばした。

 寝台から下りようと床を見ると、昨晩そこで寝ていたはずのヤンが、寝具を残して消えている。俺はまだ寝ぼけ気味の頭で、部屋の中を見回した。俺が足を向けて寝ていた、部屋角の狭い場所から、痩せっぽちの脚が伸びている。健やかすぎる寝息が聞こえる。

 俺は足音を立てないように気をつけながら、寝室を出た。

 俺よりも、母は早く起きていた。テーブルに向かって椅子に掛ける母は、何やら布の塊を見繕っている。かつて俺が身につけていた衣服を、母は手に持ち、吟味している。

 起床してきた俺に気づいた母は、「おはよう」と言った。

「何してるの」

 俺は母の手にある俺の古着を示しながら尋ねた。

 母はいつもより体調が良いらしい。どことなく楽しげで、足元に置いた籠をあさっている。

「ヤン君の服、あちこち破けちゃっているでしょう? マティスが着られなくなった服でちょうど良さそうなものが、あるかなあと思って」

「へえ」

 俺は適当な相づちを打った。

 やがて母は「あっ」と声を上げた。黄土色の地に、深緑の模様が入った上着を広げて、俺に見せてくる。

「これなんかどうかな? ヤン君にはもうちょっと派手な服が似合いそうだけど。マティスの服ってどれも大人しい色なのよね。ねえ、これあげちゃってもいい?」

「いいよ」

 もう着られないものを残しておいても仕方なかろうと俺は思った。だが、もしかして、母は俺が赤ん坊の頃に着ていた服もいちいち残しているのではなかろうか。

 俺は水差しの中身をコップに注いで、口と喉を潤した。そして、寝室の方を横目にして告げ口した。

「あいつ、すごく寝相悪いんだけど」

 母は控えめに笑う。

「暑いから、仕方ないんじゃない?」

「そういう感じじゃないよ」

 良い上着を見つけた母は、次に履くものを見繕いだした。下着とかも――下着まで残してあるのか……と俺は若干呆れ、少し恥ずかしく思った。

「母さんね、嬉しいの。マティスがお友達連れてきてくれたから」

「……え?」

 俺は何事かと思い、そして間もなく察した。なるほど、母が楽しげにしているのは、俺に友人ができたと思っていたためだったようだ。だが、残念。俺はヤンと友達になったつもりはなかった。とは言え、そう思うことで母が元気にいられるのなら、それでいいかとも思った。わざわざ訂正しても傷つけるだけだ。俺は本当のことは黙っておくことにした。

 日が昇り、外が明るくなってきた頃、俺は家の清掃を始めた。そして母は食事を温め始める。すると、その匂いを嗅ぎつけたらしいヤンが起きてきた。

 働く俺を寝ぼけた顔で見ているだけのヤンに、俺は声を掛けた。

「顔洗って。そしたら手伝って」

「んん……、はあい」

 ヤンはもごついた返事をして、台所の水槽へと向かって行った。母が桶に水を汲み、ヤンに渡していた。ヤンはその桶を受け取って、裏口から出ていった。

 顔から水を滴らせながら、ヤンは戻ってきた。俺は無言で箒を押し付ける。まだ目が覚めきらないのか、呆然とするヤンを置いて寝室へと向かった俺は、俺が使ったものや、ヤンが散らかした寝具のくるみ布を引き剥がして戻った。

「あと寝室と玄関掃くだけだから。それ終わったら飯。飯食ったら洗濯と水汲み」

「やるの?」

 間の抜けた表情で聞いてくるヤンに、俺はなにを当たり前のことを、と肩をそびやかした。

「そりゃ、タダ飯食わせるほどお人好しじゃないからな」

 だが、俺が想像していたよりもヤンは要領が良かった。“こいつはきっと大して役に立たないだろう”と思い込んでいた俺は意表を突かれたが、楽ができたのは幸運だなと思った。

 特に水汲みだ。これは楽だった。途中でぶとチビが絡んできて、見知らぬ子供と共にいる俺をからかってきた。だが、当の“見知らぬ子供”は、なんだか俺にはいつも突っかかってくるばかりの二人に気に入られていた。

 その後、俺はヤンの家に招待されることになった。なんでも、ヤンの母の店というのは、昼間は客がいない場合が多いらしい。昼に客が来ない花屋というのに違和感を覚えたが、俺は気にしないことにした。

 ところで、俺の母は俺を送り出すことを躊躇していた。言葉には出されなかったが、俺は確かにそう感じたのだ。だが、結局引き止められることはなかったので、俺はヤンの提案に乗り、彼に付いて行くことにした。

 彼の自宅はアクスリーの南部、やや東寄りのところにあるそうだ。

 俺の家は小さいながらも一軒家だ。北部はそういった家が多い。だが、南の方は集合住宅が多いらしく、建物は背が高く、巨大で、無数の窓や扉が備え付けられている。

 ヤンの家に辿り着くまでには、二刻間近くかかった。ヤンは方向感覚が良いらしい。道に迷うことはなかった。そしてある程度予想はしていたが、どんどん辺鄙な場所へと入り込んでいく。俺は若干不安になった。

 浮浪者らしき人が何人かうろついていた。大きな建物が密集している分、この辺りは薄暗い。そして、「こっちだよ」と導かれて進んでいくに連れ、建物は薄汚れていき、ひび割れたり大量の蔦に絡まれていたり、窓が割れたり扉が外れかけていたりと、本当に人が住んでいるのかと不安になるような場所になっていった。

「見えたよ、緑のドア」

 ヤンが前方を指差して言った。

 周辺は廃墟の家――というより、部屋と言うべきなのだろうか――ばかりだった。いや、俺が勝手に廃墟だと思い込んでしまっただけで、実際には人が住んでいたのかもしれない。

 ヤンは鼻歌を歌っているが、俺は不安だった。ヤンの鼻歌は、果たして何の曲なのかも分からない。それが正しい調子で紡がれているのか、音程を外しているのかどうかも俺には分からなかった。俺はあまり歌を歌わないし、聞かない。

 緑の扉の家は、集合住宅の一階にある。あと三十歩ほどだ。だがそこで、ヤンは鼻歌を止めて、足も止めた。俺も足を止める。ヤンの様子を訝しみながら。

 ヤンはしばらくその場所で止まっていたが、やがて俺の方に振り向いた。

「ちょっとさ、この辺で待ってて」

「あ、ああ」

 俺が返事をするなり、ヤンは早足で彼の自宅へ向かい、中へ入っていった。

 取り残された俺は、改めて周囲を見回す。こんな場所で花屋など、客が来るとは思えない。薄暗いし、肌寒いし、廃墟――のように見える部屋――からは、好意的でない人目のようなものを感じた。

 俺は苔の生えた、崩れた石畳をつま先でいじっていた。早く戻ってこないだろうか。俺はとにかく不安だった。

 と、ヤンが入っていった家から大人の男の怒鳴り声と、若い女性の叫び声が聞こえてきた。俺はぎょっとして、緑の扉の部屋を見る。

「この野郎、気を使えないガキめ!」

 扉を蹴り開けながら出てきたのは、太り気味の男だ。ヤンはその男に引きずられながら出てきた。

 そして、彼らを追うように駆けてきたのは、薄い布を羽織った女性だった。

「やめてください!」と叫び、女性は太った男の腰に縋り付いた。

 男は虫を払うような乱暴な動作で、女性を引き剥がす。転んだ彼女から、羽織っていた薄布が落ちる。彼女は裸だった。痩せている。あちこちに打撲の痕や、擦り傷などがある。

 男はヤンを放り投げた。ヤンは簡単に飛んでいった。そして、向かいの老朽した建物の壁に背を打ち付けて、蹲った。

 男はぶつくさ言っている。懐をまさぐり、何かをヤンへ投げつけた。財布のようだ。

「そんなに腹が減っているなら食ってくりゃいい!」

 男は不機嫌そうに肩を揺らし、腹を揺らし去っていった。

 男の影が遠のくと、裸の女性は地面に落ちた布には目もくれず、ヤンに駆け寄った。

「あんたはもう! 客がいるときは入ってくるんじゃないって言ってるだろうに」

 ヤンの背中をさすりながら、彼女は言った。まだ新しそうな傷跡が、色白の肌に浮かんでいる。

「でも、助かった。あの人、乱暴で嫌なんだよ。財布置いていってくれたし、今日はツイてる。あんたのおかげだね」

 ヤンが笑った。

 そして、裸の女性は離れたところで呆然と立ち尽くす俺に気づいたらしい。

「あら? お客さんかい? そんなわけないか。ちょっと若すぎるものね」

「マティスっていうんだ」

 ヤンが言うと、女性は理解したようだった。

「ああ、一緒に来たのね」

 女性はすっかり固まってしまっている俺を見て、そして自分自身に目を向けた。

「あらいけない。ごめんね、こんな格好で。友達が来てくれるとは思ってなかったから」

 女性とヤンはよく似た顔をしていた。俺はようやく視線を動かせるようになり、女性から目をそらした。もっと幼い頃に母の裸なら見たことはあるが、とは言えこの状況はあまりにも不慣れなものだった。

 そんな挙動不審な俺に、ヤンが白い歯を露わに笑みを向けていることに、俺はしばらくしてから気づいた。

 俺たちが出会ったときから、もうじきに三度目の夏を経ようとしていた。

 当初、気は合わないだろうと思っていたヤンだったが、関わってみれば案外上手くやれるものだ。むしろ、年の割に子供らしい言動の少なかった俺の相方に、ヤンはちょうど良かったのかもしれない。

 それはきっと、ヤンにとっても言えたことだと思う。あいつはあいつで、なにかと無頓着でがさつで、年の割に子供っぽかったので。

 あいつの言動は基本的に無遠慮だった。だから、これまでに何度か衝突することもあったが、気づけば和解している。大抵の場合、先に怒りを解くのはヤンの方だったが。あいつはあまり長いことは、怒りの感情をいだき続けていられないらしい。

「足元」

 と、俺は指摘する。ヤンの意識がそちらに向かうのが手に取るように分かる。だが少し遅かったな。俺はヤンの左足首を打ち付けた。骨に当たった。これは響くに違いない。

 実際、ヤンは呻いた。

「足ばかり気にしてるなよ」

「分かってる!」

 今度は上からだ。だが、ヤンは上方には注意が向きやすい。俺を弾き返し、体勢を立て直した。

「胴だ、胴!」

 野次馬が外野から叫んでいる。ヤンに言っているのだ。だが、彼がそういった言葉に従うわけはなかった。俺の動きを一番理解しているのはこいつなのだから。

 俺は簡単に身を打たせるようなヘマはしない。少しずつ後退しながら受け流す。こいつは長く集中が続く方ではないから、そろそろ注意が散漫になる。

 今だ。と、俺は身を屈めた。そしてヤンの足を払った。ヤンは声も上げず、仰向けに倒れる。彼は呆然と空を見ていた。

 俺は木剣を置き、自由になった左手をヤンに差し伸ばした。そこでようやく、ヤンは自分がどういった状態になっているのか理解したようで、体を襲う痛みにも気がついたようだ。

 今日も俺の勝ちだった。今のところ、ヤンが俺に勝てたことは一度もない。残念ながら。

「いったあ……」

「集中が一点に向きすぎてるんだよな。もっと視界広げられるようにしろよ」

 何度かこの忠告はしてきた。ヤンも努力しているのは分かる。だが、どうしても彼は視野が狭くなりがちだ。

 ヤンは俺の手を掴んだ。お互い、手は古い肉刺と新しい肉刺のせいで、ひどいもんだ。立ち上がったヤンの背は、俺の背丈をほんの少しだけ追い抜いていた。

 観衆達はさっさと解散していた。彼らのほとんどは、俺に勝てないヤンを応援しに集まってくるのだが、今日もヤンは俺に負けたので、無念そうに肩を落としていた。

 俺たちの額に滲んだ汗が、玉になって滴った。俺はその鬱陶しい水滴を衣服の襟で拭う。

「飯食ったか?」

「まだだよ」

「そうか。じゃあ、さっさと戻って食わなきゃな」

 俺は近くに木剣を立て掛けて、ヤンの背を叩いた。

 もうじきに、アクスリー伯爵に二人目のご令孫がお生まれになるらしい。伯爵のご子息であるアクセル様の奥方、ベルティナ夫人は、常はリディで長女のアーデルハイト様と暮らされているが、王都での出産後には二人のお子様を連れてここアクスリーへとやって来られるのだ。彼女たちを迎えるための準備が、今この街では行われていた。

 俺とヤンは仕事を受け持ち、報酬を得られるようになっていた。ヤンは母だけに収入の苦労を掛けずに済むようになっていたし、俺もやれることが増えた。父方の親戚からの援助は少なくなっていたが、俺の稼ぎを合わせれば、時々母を医者に診せることもできる。

 いずれにせよ、母の虚弱に対してできることは限られていたが、年々弱りつつあった彼女は医者に診てもらうようになってから少し元気を取り戻していた。しかし、母はいつも「私のことはいいから、自分のために貯めておきなさい」と言ってきたし、俺は毎度それをなんとか言いくるめて、医者に連れて行っていた。

 俺達の仕事は、道路の補修や建物の外観を磨くことだった。中央通りは、ベルティナ夫人たちと、もしかすると国王が通るかもしれない道だ。美しくしておく必要がある。

 パンに干し肉とチーズを挟んだものが、本日の俺達の昼食だ。まあ、“本日の”と言ってもいつも大体これなのだが。早々に食事を終わらせるため、俺は硬い肉と格闘した。あまり時間がない。定時に決まった場所に戻っていないと、腕の太い髭男に脳天をぶっ叩かれてしまう。

 俺は焦っていたのだが、ヤンはのんきなものだ。

「ねえねえ、王様来ると思う?」

 俺はなかなか飲み込めない食べ物に対して怒りたくなっていた。明日からこのやたらに硬い干し肉は抜いてやろうと密かに決心する。

「生まれたのが男子ならな。どうだか」

「王様に来てほしいなあ」

 ヤンは座ったまま跳ねた。パンのクズがぽろぽろと落ちる。いいからお前は早く食えよ。

「マティス」

 背後から名を呼ばれ、俺は振り返った。そこには、俺らに仕事を教える係の男がいる。俺はこの人があまり好きではなかった。彼は俺とヤンが座っているベンチの空いているところ――ヤンの隣に座った。

「お前ら、またやってたのか。汗だくじゃないか。ちゃんと水飲んどけよ、仕事中に倒れられたら困るからな。まったく……休憩ってのはな、水飲んで飯食って、そんでぼーっとするための時間だぞ」

「へえ」

 俺はそっけなく返した。俺が生意気な態度をとっても、この男は怒らないのだ。それがいつも、なんとなく癪だった。

 男は背もたれに寄りかかり、息を吐いた。

「騎士になりたいんだかなんだか知らんが……」

「騎兵だよ」

 ヤンの訂正に、男は肩を竦めた。そして今度は前のめりになって、無言でパンを噛み続ける俺の方を覗き込む。

「酷なこと言うようだがな、お前は他人の何倍も努力しなきゃならない。現実ってのはそんなもんだ。分かってるだろうがな」

 それだけ言うと、男は席を立って仕事へと戻っていった。

「あー! あっちいなあ!」

「おかえり!」

 資材運びから帰ってきたらしいでぶに、ヤンが声を掛けた。でぶは背が伸びてすっかり身が引き締まっていたが、未だに幼なじみたちからは“でぶ”と呼ばれていた。

 彼は木材などを地面に置いて、俺を見てはニヤリと口角を上げた。

「なんだあ、マティス。おっちゃんにご忠告受けたみたいな顔してんじゃねえか」

「だったらなんだよ」

 でぶは腰に両手を当てて、ふんぞり返った。

「大事なのは先見の明ってやつさ。そういう非現実的な夢なんか追ってないで、俺みたいに確実な努力を積んだほうが将来のためだって」

「現実的だと思うけどなあ」

 口を尖らせるヤンに、でぶは「やれやれ」と言って肩を竦める。

 俺は彼らの勧める安全な将来について、否定する気はなかった。俺にとって、ヤンが言う夢は大それている。それは分かりきったことなのだ。

 日暮れ近くまで働いた後、俺はヤンに自宅へと招かれた。彼の自宅周辺は相変わらずの様相だ。半年間舗装の仕事に携わってきた俺には、この場所こそ俺たちが綺麗にするべき所なのではないかと思った。大通りは既に十分美しいと思う。

 ヤンの家の窓からは薄明かりが漏れていた。中に入ると、階上から話し声が聞こえてくる。

「お客さんいるのかなあ」

 ヤンは暫し耳を澄ませるように沈黙した。俺もつい耳をそばだててしまったが、どうやら普通に談笑しているだけのように感じられた。聞こえてくるのはヤンの母の声と男の声だが、そこに色事らしい雰囲気は全くない。

「ちょっと見てくるよ」

 そう言って、ヤンは階段を上がっていった。俺はとりあえずその場に留まる。もし万が一俺の想像が間違っていて、ヤンの母が仕事をしていた場合、その光景は俺にとって刺激が強すぎるだろう。ヤンは慣れているのだろうが。

 この家の内装は、周辺の光景に比べて綺麗だった。窓枠の取り付け具合は良くないし、壁紙も剥がれかけている。それでも壁に穴は空いていない。掃除だってそれなりに行き届いている。

 待ったのはほんの少しの時間だった。ヤンが階上から顔を出す。

「大丈夫だよ、来て」

 俺は階段を上がった。

 二階に上がってすぐのアーチの奥には、ヤンの母と見知らぬ男がいた。二人は笑顔で俺たちを迎えた。

「この方が、あんた達に文字を教えてくださるってよ。あんた達、毎日街なかで手合わせしてるんだろう? すっかり有名人になっちゃってるよ」

「街の名物みたいだね。文字を学びたいかどうかは、君たちにその気があれば、だけれど」

 俺は男の身なりがこういった場所に不釣り合いな、身分の高そうなものであることを不審に思った。

「どちら様?」

 俺は思わず尋ねてしまった。ヤンの母に諌められる。

「こら、マティス。この店はそういった事は聞かない決まりなんだよ」

 俺は左手を挙げて、前言を撤回する旨を男に伝えた。

「すまないね」と、男は眉尻を下げた。人の良さそうな顔をしている。

「それで、やるの? あんたたちがやってくれるならあたしも教わろうと思うんだけど」と言いながら、ヤンの母が迫ってくる。

「やるよ! マティスもやるでしょ?」ヤンが勢いよく言った。

「ああ」

 俺は頷いた。願ってもないことだった。俺たちは簡単な読み書きしかできないが、この高貴そうな男はきっと難しい書物だって読めるのだろう。

 文字が読めて損なことはないはずだと、俺は思った。

 伯爵家に世継ぎが誕生したという知らせが、アクスリーに届いた。生まれたのは男児だったのだ。祭典は二週間後の天空神の日に催されることとなり、国王陛下がこの街においでになられることも確定した。

 アクスリーの街は既に祭り騒ぎになっていた。

 アクスリーは辺境の都市だ。国王御自らここまで足をお運びになられることなど、そう滅多にあることではないし、お世継ぎが生まれたことは勿論なのだが、国王がお越しくださるということでも人々は喜んでいた。

 そのためか、アクスリーの市民はこぞって自分の家の周辺も綺麗にしたがった。結果、大通りの整備を終えても俺たちの仕事は終わらなかった。金が貰えるのでそれは良かったのだが、果たしてそんな場所まで国王が目になされる機会があるのだろうかという場所まで、俺たちはいつまでも整備していた。

 その日も、俺とヤンは仕事で、騎士の館周辺の整備に取り掛かっていた。建物の屋根に上って清掃をしていた俺たちには、演習中の騎士たちの様子がよく見えた。

 アクスリー伯爵家の世継ぎと国王を迎えるための行進、その指導をしているのはミロウ子爵らしい。背が高く逞しい体つきで、禿頭に髭をたたえた姿は、噂に聞く子爵の姿と完全に一致していた。彼の声はとても大きい。

 そして、伯爵家の次期当主となるアクセル様が、その様子を見守っている。灰味がかった薄紅色とでも表現すればよいのか、珍しい髪色は遠くからでも目を引く。彼の気配はどことなく楽しげだった。

 騎士たちが身にまとうのは、アクスリー騎士であることを示す薄紫の装飾が施された銀の鎧だ。いかにも重量のありそうな甲冑がガチャガチャと鳴っているが、彼らは機敏に動いている。

「かっこいいなあ」

 仕事の手を止めてヤンが言った。

 丁度、チビが上がってきた。彼は相変わらず小柄だ。「おっ、見えるねえ」と言って、チビは演習場の方を向いて平屋根でうつ伏せになってしまった。

 俺は眉をしかめずにはいられなかった。ヤンまでもがチビの方に寄って、膝をついて一緒に本格的な見物を始めてしまったからだ。

「あの格好、見てる分にはいいけどさ、自分でしたいとは思わないよな」チビが呟いた。

「おいチビ、そんなところで広がるな。邪魔だ」

 俺は完全に仕事をサボっているチビを箒で小突いた。

 しかしチビは唇をブーと鳴らして、寝っ転がったまま動こうとしない。こいつは俺を無視してヤンと会話を始めてしまう。

「でも、騎士の鎧なんて着る機会ないし、心配する必要なんかないさな」

「騎兵の鎧着る機会ならあるよ、きっと」

「そりゃお前さんはな。金か才能って話だろ、つまるところはさ。俺はどっちも持ってないし、関係ないさ」

 俺はこいつらを退かすことを諦めた。好きにしろ。見つかってどやされるのはお前らなんだからな。

 俺は真面目に作業を続けることにした。下から人が上がってくる気配がした。重い足音なので大人だろう。だが、俺はそのことをヤンとチビには教えなかった。こいつらは少し懲りるべきだ。サボってるくせに、真面目にやってる俺と給料が同じだなんて公平じゃない。

 いかつい親方が、屋根に空いた穴を塞ぐための道具と材料を持って上がってきた。俺は黙々と作業を続けている。親方はまず俺を見て、次にチビとヤンを見た。彼の眉根が寄る。

「おい、てめえら」

 親方が低く言う。チビとヤンが肩を跳ねさせて、ゆっくりと振り向く。親方の存在を認識した彼らは、引きつった笑みを浮かべた。

「また遊んでやがったか。後で絞ってやるから覚悟しとけよ」

 親方は二人を脅した。俺は内心いい気味だと思ったが、顔には出さずにせっせと掃除を続けた。

「それ、左右で反転してるぞ」

 ヤンが紙に書いた文字を、指し示して俺は言った。似た字形なので俺も初めの頃は混乱したが、今は覚えた。だが、ヤンはまだのようだ。

 ヤンは頭を掻き、こちらもまだ使い慣れないらしいペンで紙を削る。

「こっちが『デー』で、こっちが『ベー』?」

「いや、だから逆だってば。……逆だよな?」

 考えていたら俺も分からなくなってきてしまった。

「マティス君が正解」

 俺達の様子を見て、身なりの良い男は笑い、言った。

 彼が現れてから、ヤンの生活は変わったようだった。ヤンの母が客を取ることが減り、ヤンはよく帰宅するようになった。それまでは俺の家に半ば居候みたいな形で泊まっていたのだ。ヤンがいれば家事は捗るし、助かってはいたのだが、最近は俺も文字を習うためヤンの家に上がり込む機会が増えていた。仕事帰りの疲れた心身でこの親子の陽気さに辟易としながらも、彼らの様子を楽しんでもいたし、少し羨みもした。俺たち親子は、これほど無遠慮に何かを言い合ったりしたことはたぶん無い。

「ヤン君は王属騎兵になりたいんだってね」

 男は俺たちに読ませるための本を鞄から取り出しつつ言った。

「アクスリーだと、訓練候補生はヴィンツに行くようだね。大体、文字の読み書きができない子が多いから、そこから指導するんだけれど。今のうちにある程度理解できていれば、その分余裕ができるだろう」

 ヤンは男の手元に広がる文字を覗き込み、「うへえ」と言って顔をしかめた。まだ俺たちには難しい内容の本らしい。

 だが男は容赦なく俺たちにその本を開いて見せた。俺の目にも文字の濁流が流れ込んでくる。目が滑ってとても読めそうにない。

「二人とも、そんなに顔をしかめないでくれ。この本の内容を理解しろって言うんじゃないよ。出てくる単語の綴りを確認してほしいんだ」

 男は俺たちのげんなりした顔を見てまた笑った。

「マティス君も、これから先何をするにしても、文字が理解できて損をすることはきっとないからね」

「おじさん聞いてないの? マティスは俺と一緒にヴィンツに行くよ。俺の師匠はマティスなんだから。俺、今まで打ち合いしてて一度もマティスに勝ったことないんだよ。マティスは本当強いんだ。俺が弱いわけじゃないからね!」

「おい待てよ、俺は……」

 俺は騎兵にはなれない。隻腕では無理だ。いくらヤンとの手合わせで負けたことがなくたって、そんなことは関係がない。皆と違う時点で、俺には規律だった組織の中で生活する事は難しいのだ。だが、ヤンはそれが理解できないらしく、本気で俺が騎兵になれると思っているらしい。

 男が、俺の右腕があるべき場所を一瞥した気がした。そして彼の表情はといえば、何を言うべきか迷っているときのそれだ。ほら見ろ、やはりこの身体では無理なのだ。

「そうか、大したものだね」

 男は迷ったらしい末にそう言った。俺はその言葉が嬉しいとは思えなかった。大人たちは俺の空洞の右袖を見ては、何かと「大したものだ」と言う。俺はなんだか、それがいつも気に入らなかった。

 明くる日のこと、ヤンとは別の場所に配置されて仕事に取り掛かっていた俺は、話し相手もいないので、黙々と作業に徹していた。石壁の罅を白い石膏で埋める作業だ。本当ならもっと慣れた人間がやるべき仕事なのだが、目立たない場所ということで、親方が俺に“練習がてらやれ”と言ってきたのだ。

 俺は集中していたが、背後に人がやって来たことに気づいた。振り返ってみれば、指導係の男がいる。

「一人の方が捗るだろう。誰かと喋りながらやる方が向いているやつと、一人で静かにやる方が向いているやつがいる。お前は後者だな」

 俺は頷いた。だから話しかけないで欲しい。俺はあんたが苦手なのだ。前へと向き直って作業を続けた。

「この前親方が言ってたぜ。お前さんは他の子供達と比べてずっとよくやってるってな。もちろん、俺もそう思う。他の奴らはどうしたって集中が続かねえし、ふざけちまう。まあ、それが子供らしいって言えばそうなんだろうがな」

 男は俺の隣にしゃがみ込み、少なくなった石膏を足しながら俺に話し掛けてくる。俺が、一人の方が作業の捗る人間だと分かっているんじゃないのか。

 彼は鉄の容器に流し入れた石膏を練り混ぜて続ける。

「この祭りのための仕事が全部終わった後も、親方はお前さんを雇い続ける気があるそうだぞ。こいつは向いてるやつにとっては悪くねえ仕事だ」

 俺は無言で作業を続けた。たぶんこの男も、俺の相槌はとくに求めていないのだろう。と、思ったのだが、次に続いた言葉は俺の返答を求めているようだった。

「よく考えてみろ。十三でこういう選択は酷だと思うさ。けど、お前さんには博打ができるほどの余裕はないし、それに全てを掛けなけりゃならんほど切羽詰まってもいないだろう」

 男が手元から顔を上げた。俺は視界の端でその様子を見ていた。彼は石の壁を眺めている。

「言ったことねえから、たぶん知らねえと思うんだが。俺も目指したことあるんだよ、王属騎兵。集まってくるのは、文字も読めない上に本物の剣も触ったことないやつばっかりだ。たまに良いところのお坊ちゃんが居たりもしたがな。まあとにかく、お前らと大差ない、もうちっと年上のガキたちが集まる。だが、ほとんどは途中で折れて故郷に帰っちまうよ」

 俺は驚いて、隣の男に顔を向けていた。当然作業の手も止まってしまう。

 男は笑う。

「俺はよ、これでも訓練生までやったんだぜ。正規の王属騎兵まで、あと一歩だった。まあ、事情があって、ここに帰ってきたんだがな」

「馬に乗れるのか?」

 俺は興味をそそられて、つい尋ねていた。

「乗れるぞ。読み書きだって一通りできるし、剣術槍術諸々叩き込まれた。まあ、もうだいぶ前の事だし、使う機会もねえし、忘れちまってるだろうけどなあ」

 王属騎兵となるためには、まずは訓練候補生に選ばれなければならない。三年ごとに全国から集まる一万近い者たちは、国内の主要都市の幾つかに分けられ集められ、そこで選抜されて王都リディへ行くことになる。訓練候補生の時点で千人ほどまで絞られていて、その後に訓練生となるわけだが、そこでは四百名未満まで削ぎ落とされる。最終的な関門である正規の王属騎兵になるための試験に受かる者となれば更に少なくなる。それでも、訓練生まで選ばれるほどの実力を持つ者であれば、騎士団に入ることは難しくないはずだし、むしろ団の方から声が掛かることが多いと聞く。

「なんで騎士団に入らなかったの」俺は尋ねた。

「言ったろ、訳あって帰ってきたって。騎士団に入るわけにはいかなかったのさ。まあ、そもそも性にも合わなかったろうな」

 男は肩を竦めて言い、練った石膏を俺の方へ寄せた。

「偉い人んとこで大義掲げて、国中守ってやろうとするより、自分の目の届く範囲を守れりゃいいと思った。そんなんだから、きっと何の問題が起きなかったとしても、俺は王属騎兵にはなれなかっただろう」

 俺は何も言えなかった。男が掛け声とともに立ち上がる。

「お前さんがどうしてもって言うなら、俺もあまり口出しせんようにするさ。だが、迷ってるみたいだったからな。迷いがあるやつを、あそこは受け入れてくれない。それだけ厳しい場所だ。だがな、これだけは言っておくぞ。“今の俺の生活は悪くない”ってな」

 俺は頷こうと思った。男が単なる嫌がらせではなく、俺を思って言葉を掛けてきていたことを理解したからだ。

 だが、俺の意思に反して、首は動かなかった。代わりに唇を噛み締めていた。

 その日は雲のない晴天だった。青い空が深いところまで見えた。早朝から街中が賑わい、中央通りには人々がひしめき合っている。いつもなら広く感じられる大通りだが、今日ばかりは窮屈そうで、道の中心を確保するために騎士たちは苦労しているようだ。鉄の鎧が人波を押し返せば、人々が不平を叫ぶ。

 俺は仕事中に見つけた見晴らしのいい場所にいた。下方で苦心する人々を見下ろし、俺は気の毒にも思ったが、優越感も覚えていた。この場所からなら、大通りはもちろん、伯爵城の方まで見渡せる。そのうちに、ヤンたち親子もここにやって来るはずだ。

 母はどうしても体調が優れず、家で休んでいた。こんな機会は次あるかどうか分からなかったし、俺はできれば母と一緒にこの場所に来たかった。けれど、もう何日も前から食事もろくにとることができずに寝込んでいる母に、無理なことは言えなかった。

 二年前の初春に生まれたアーデルハイト様のために催された式典も、なかなかに盛大なものだったと記憶している。だが、今現在の様子を見ると、世継ぎとなる男子の誕生と女子の誕生とでは、その扱いは随分と変わってしまうらしい。

 元王のルートヴィヒ様は、五年前に即位した。御年二十一歳で、まだお若い。彼は幼少の頃より頭脳明晰と謳われ、剣と芸術の才にも長けておられるという話だ。

 近年、再び帝国と連合との間で戦があった。アシュタール戦役と呼ばれるようになったそれだが、ファーリーンの前王エミル様とアウリーの前王クリスティアーノ様を始め、多くの権力者が亡くなった。発端はフォーマ王国の裏切りで、大公一家は行方知れずとなった後、亡くなられていたことが確認された。ただ一人生き残っておられ、リラにて保護されていたはずの公子殿下も、また姿を消してしまったらしい。

 国内は混乱していたようだが、一市民の、しかもまだ上手いこと状況を判断できる年頃ではなかった俺に、そういった感覚は薄かった。

 南方駐屯騎士団は常に国境を守っているが、それでもアクスリーは敵国に最も近い都市だ。ミロウ城塞も街にはなっているが、あそこはあくまで軍事施設である。

 不用意に都市外へ出ることは禁じられ、そのために街門の警備も厳しかったわけだが、俺は街の外に出られる地下道を知っていたから、毎日のように外に出ていた。

 だが、ヤンと出会い暫くしてから、母にこれまでの行いが露呈した。そのとき、母は俺を叱った。母は滅多に俺を叱ってこなかったが、この時ばかりは厳しかった。その頃には俺も状況を理解できるようになっていたので、それ以降は素直に街の中で過ごすようになった。

 混乱のさなかに即位したルートヴィヒ様は、まだ王の位に就いて間もない、戴冠の儀を終える前での初陣において、その恐るべき剣技を披露したらしい。彼は双剣使いで、素晴らしく身のこなしが軽く、それでいて敵将――当時のルートヴィヒ様よりずっと年上の大男だったらしい――の首を一刃のうちに切り落としてしまえたという。これらは幼なじみたちとの間でルートヴィヒ様についての話題が挙がると語られた“うわさ”だ。

「マティスー!」

 ヤンの声がしたので、俺は振り返った。母親と連れ立ってやって来た彼を、俺は少しだけ羨ましく思った。

 ヤンは手すりに駆け寄ったが、彼の母はゆったりとした足取りでこちらに近づいて来た。

「おはよう、いいところね」

 彼女はそう言って、手すりから身を乗り出して落ちそうな息子の襟首を掴んだ。

 俺が初めて彼らに会ったときは、二人ともやせ細っていた。だが、今は肉付きも良くなったし、ヤンもそれなりに身ぎれいになった。だが彼はそもそもあまり頓着しない性格らしいので、大体は他の者(主に俺か母親か、その辺りだ)に指摘されて初めて自分が汚れてきていることに気付くようだ。

 二人の騎士が大通りを駆け抜け、伯爵城へ入っていった。それからしばらくして、伯爵とアクセル様が城から出てこられた。

 式場は伯爵城前の広場に作られている。今日が晴天で本当に良かった。天気が悪ければ、式はきっと城内で行われることになり、一般市民はその様子を見ることができなかっただろう。

 城前の広場には、最初にこの地の統治をファーリーン王よりあずかった、アクスレイ一世の像が建てられている。彼が構える盾には、アクスリー伯爵家の紋章が刻まれている。剣と盾、剣に絡みつく蛇、双頭のレイオスはファーリーン王家の紋だ。アクスレイ一世はファーリーン王家の出身だったため、その紋を借りたらしい。そこに、アイリスの刻印が施され、アクスリー伯爵家の紋となる。

 そのアクスレイ一世の足元には、今日のために設置された壇があり、伯爵とアクセル様はその上にお立ちになられた。

 丁度そのとき、西の方から遠い歓声が俺たちの耳に届いた。

「王様だよきっと!」

 ヤンが声を上げた。俺も思わず身を乗り出した。高い建物たちに遮られ、歓声の上がる方向はよく見えない。だが、その声の波は次第にこちらへと近付いてきた。やがて曲がり角のこちら側、俺たちが見ることのできる、ここから最も遠い場所にいる人々が、わっと叫んだ。

 はじめに通りを進んできたのは、黒い鎧と黒い外套に身を包んだ人たちだった。あれは王属騎兵の装いだ。先頭に二人、その背後、少し外側に開いた場所の左右に一人ずつ。

 その瞬間、俺は息を呑んだ。

 その人が跨る脚の長い黒馬は、銀の装飾ときらびやかな織物をまとっていた。しなやかな体躯で、細身だが力強さを感じさせる足取りで、アクスリー騎士が乗っているどの馬よりも美しい。あれがうわさに聞く“シーク馬”なのだろうかと、俺は思った。

 そんな美しい馬を従わせている人物はといえば、翠に透ける黒髪を陽光にさらし、微風になびかせていた。凛とした姿勢で前を向き、色彩と装飾の少ないファーリーン人の普段の服装とは明らかに異なる格好をしている。深く重厚な色を多く用い、輝く金の装飾をつけた、帝国風の装いだ。

 彼こそが、王に違いない。

 俺は確信した。背が震え、脚から力が抜けそうになった。あれほど遠くに居るのに、あの人の気配を感じた。到底、俺と同じ人間だなんて思えなかった。そう感じさせるなにかを、あの方は放っていた。

 俺は瞬きもできず、息さえも止めていた。ヤンがなにか俺に声を掛けているらしいことは分かったが、俺の頭には何も入ってこなかった。

 あの人に仕えることができたとしたら、きっとそれ以上の幸せなんてない。俺はものの考えられなくなった頭で、それだけを思った。

 城前広場で王と伯爵方が合流し、儀礼を交わされた。王の背後から進んでくるキャリッジには、マリア王妃の優雅なお姿と、幼いながらもこの儀式の重大さを理解しておられるらしい、聡明そうな王子殿下がいらっしゃる。

 更にその後方に続いてくるのは、王属騎兵とアクスリー騎士によって周囲を守られた馬車だ。こちらの荷台には壁と天井があって、中を窺うことはできない。列が式場へ続々と到着していく。

 アクセル様はどことなく落ち着けない様子でおられたが、いざ陛下と相見えられると、厳格なファーリーン貴族らしい佇まいになられた。

 いよいよ式が始まるようだ。伯爵とアクセル様が壇の両端の方へと寄る。

 陛下は軽やかに下馬されて、赤い絨毯の上を、壇へと向かって進む。颯爽としつつも優雅だ。その顔貌までを窺い見ることはできなかったが、きっと美しい方なのだろうと思った。陛下はアクスレイ一世の像と伯爵達に背を向け、祭列と民の方へと向いた。

 中が見えなかった馬車の扉が開き、人が出てきた。アクセル様のお妃である、ベルティナ夫人のようだ。彼女はなにかを抱いている。遠くてよく見えないが、きっとお生まれになったご子息だろうと思った。

 夫人はご子息をあやしながら、国王の元へと歩み寄った。陛下と対面された夫人は、両膝を地について、ご子息を掲げる。

 陛下が身を屈めて、アクセル夫妻のご子息をひきとられた。いや、きっとご子息であらせられると思うのだが、いやに大人しい。この騒ぎの中でも眠っているのだろうか。人形でない本物の赤子だとするならば、大物となられるに違いない。

 陛下はアクスレイ一世の像へ向かい、夫妻の赤子を掲げあげた。

嬰児は“アクスレイ”の血を授かりし者なり。理知を懐き、平和を愛し、自由を求めんとするリーンの子なり。“誉れ高き帝国の騎士たる祖王”の信厚き一族が、我、ルートヴィヒ=ゴットフリート・ファーリーンと、その子らに永劫たる誠を誓うならば」

 陛下のお声は、決して張り上げられたものではなく、むしろ落ち着いたものだったが、不思議なほどよく通って、俺の耳まではっきりと届いた。彼は続ける。

「名を」

 伯爵が一歩進み出られて、深く息を吸われたようだった。そして宣される。

「エヴァルト」

 お世継ぎの名が明かされた瞬間だった。民衆の歓声が上がる。「エヴァルト様」と、皆が叫ぶ。

 陛下はアクスレイ一世の前からエヴァルト様を引き戻し、腰に提げておられたらしい短剣を小さな胸に抱かせた。そして歩み進んで、アクスリー伯爵へとエヴァルト様を託された。

 アクセル様は肩を震わせ、口元を抑えてうつむき、感涙しておられるようだった。

 式が終わると、陛下と伯爵方は城内へと消えた。街は再度の賑わいを見せ、溢れかえった人々は大通りには収まりきらず、脇道まで詰まっている。

 念入りに振った発泡酒のコルクを抜き、近くの人間にぶちまける者があちこちにいた。泡まみれにされた人は、瓶を奪い取って、中身を飲んでいたり、肩を抱き合って歌いだしたりしている。

 飲食店は、安価な軽食を露店に並べて商売を始めるし、中央広場の方からは、軽快な音楽と、時折調子外れな音が混ざった歌声が響いてくる。

「俺遊んでくるよ! マティスも行こう!」

 ヤンは瞳を輝かせて、俺の左手を掴んだ。俺は引かれるのに任せ、駆けた。

 地上に降りると、そこは息苦しいほどの激しい熱気に満ちていた。上から眺めて想像していた以上に、地上は混雑している。ヤンが俺の手を強く握っていなければ、すぐにはぐれてしまっただろう。

 大通りの人たちが、「エヴァルト様、万歳!」と叫んでいる。それを耳にしたヤンが、同じことを叫んだ。

 俺の気分は、いつになく高揚していた。ヤンについていくままに、大通りを北へと走る。城の方へと向かっているのだ。あちらにあの人――陛下がおられるのなら、俺は一歩でも近づきたいと思った。

 俺の心は宙を舞っていて、まるで夢の中にいるような心地がした。

 人の壁は突如として途切れ、視界が開けた。城前広場に到着したのだ。多くの騎士がいた。

 だが、その銀と紅紫の光沢の中に、二つの黒い鎧があった。二人の王属騎兵――たぶん近衛なのだろう――は、騎士たちが並び作っている壁のこちら側で、会話をしているようだった。

 一人は兜を脱いで、頭部をさらしていた。肩ほどまで伸ばされた暗い色合いの金髪が、汗によってか、肌に貼り付いている。年齢は三十代くらいだろう。

 その会話の相手は、兜を被っていた。

 ヤンは物怖じすることなく、俺を引っ張ってその二人の方へ向かって行った。俺の心がざわめく。憧れている存在、けれど俺には決して成りえない存在。そちらに近づくことは喜ばしくも、恐怖だった。

 兜を被った騎兵が先に俺達に気付いたようで、こちらを向いた。それにつられるように、金髪の騎兵も振り向いた。

「ねえ、おじさんたち、王属騎兵だよね!」

 騎兵たちの前に立ったヤンは、興奮しきった顔で言った。

「ああ、そうだが……。ううむ、おじさんかあ」

 金髪の騎兵は薄ら笑みを浮かべ、頭を掻いた。

「三十超えたら皆おっさんだ、と言っていたのはどこのどいつだったっけな」

「そいつは俺だ」

 兜を被った騎兵が、金髪の騎兵の方へ顔を向け、篭った声で言ったのに対し、金髪の騎兵は方を竦めながら答えた。そして身を屈ませ、ヤンに応じた。

 ヤンは俺の背をバシバシと叩く。

「本物だよ! すごいね!」

 俺は呆けたままで、騎兵を眺めていた。

 話を聞く姿勢をとってくれている金髪の騎兵に、ヤンは詰め寄る勢いで言う。

「俺ね、騎兵になりたいんだ!」

「そうかそうか、頑張れよ。おっかない教官もいるが、負けるな」

 金髪の騎兵は、そうにこやかに白い歯を見せて、ヤンの肩を叩いた。

 ヤンは、直立不動でいるもう一人の騎兵を見る。

「おじさんたちって、友達?」

「友達か?」

「なんだ、違ったのか。じゃあ俺は城内に行こう」

 おどけて見せる金髪の騎兵に対し、兜を被った騎兵は本気なのか冗談なのか分からない平坦な声音で答えた。金髪の騎兵はヤンに向き直って頷く。

「友達だ」

「いいなあ、おじさんたちみたいになりたい! ねえ、マティス!」

 俺はぎょっとした。金髪の騎兵が、俺の方を向いた。

「君もかい?」

 その瞬間、俺は我に返った。ぼんやりとしていた頭は明瞭になって、俺は自分が置かれている状況を理解した。

 そして恐れをなした。心が縮こまった。声を出すことができず、肯定の言葉も、否定の言葉も返せない。騎兵が首を傾げている。なにか返さなければ。けれど、俺の体はおろか、口さえも動きはしない。

 そんな俺をよそに、ヤンが言った。

「そうだよ!」

 と。それは到底、俺の心境にはそぐわない、明るすぎて自信に満ち溢れすぎた調子だった。

 金髪の騎兵は、俺の右腕があるべき場所を一瞥した。確かに見られた。その後で、彼は「そうか」と頷いた。

 俺は悲しくなって、泣き出しそうになった。

 騎兵たちが城に呼ばれ、俺たちは別れた。ヤンは興奮しきっていて、王属騎兵に対する憧れを語っていた。彼が騎兵に憧れているのは知っていたが、こうも激しく語られ、しかもその夢の中には俺の姿もあるらしいことを思うと、いたたまれなかった。

「次の募集は二年後だよね。マティスも一緒に行こう!」

「お前は……、勝手なこと言うなよ」

 ヤンが俺の方を向いたのが分かったが、俺は俯いていた。

「俺はヴィンツには行かない。王属騎兵にはならない」

 はっきりと言ってやった。俺の中でのけじめでもあった。

「諦めるの?」

 ヤンのその問いに、俺は頭に血が上るのを感じた。こんなことは初めてだった。

「諦めるもなにも、俺は初めからそんなつもりはなかったんだ! 俺が一度でも“王属騎兵になりたい”なんて言ったことがあるか? お前が勝手に思い込んでただけだろ! お前はいいよ、気楽なもんだ! 五体満足のお前には何も分かりはしないんだ! どこへでも行けばいい! 俺はお前とは違う!」

「マティス……」

 ヤンの姿は滲んでいた。俺はもう、この場所に居たくなくて、無様な姿を晒したくなくて、駆け出した。

 ヤンは俺を止めはしなかった。

 生まれたときから、俺はこの身体だった。目が二つ、耳が二つ、鼻と口が一つずつ、腕が一本に脚が二本。それ以上でも、それ以下でもない。特別な試練を背負って生まれてきたつもりなどは、なかったはずだった。

 しかし、子供は言った。“右腕がないのはおかしい”と。俺は自分がおかしいのだと知った。

 そして母は言った。“そんな身体に産んでごめんなさい”と。俺は、自分の身体が親から謝罪を受けなければならないものなのだと知った。

 強く居たいと思った。だから努力した。自分の力で、なにもかもをできるように、姿を変えることはできなくても、せめてそのことで他人より劣ることがないように。全ての罵倒を跳ねのけられるように。

 けれど結局、夢は目指すことなく諦めた。そうせざるを得なかったのだ。だが、心のどこかでは、努力は報われるとも思っていた。だから、友が思い描く将来の中に俺の姿があることを知っていながら、うやむやに誤魔化していたのだ。

 だが、そろそろ現実を知るべきだったんだ。お互いに。

 気づけば、暗闇を抜け、ひとり大空の下にいた。周囲に広がる草原を見渡す。

 風が頬に触れた。

 俺の涙は、風がさらっていった。

初出:
改稿:2019/03/30